最後まで改善されなかった作戦指導の欠陥
レイテ沖海戦
-BATTLE OF LEYTE GULF-
【日本軍】
連合艦隊(豊田副武大将)
機動部隊本隊(第3艦隊司令長官 小沢治三郎中将)
第3航空戦隊(小沢中将)
空母 瑞鶴(貝塚武男大佐)瑞鳳(杉浦矩郎大佐)千歳(岸良幸大佐)
千代田(城英一郎大佐)
第4航空戦隊(松田千秋少将)
戦艦 日向(野村留吉少将)伊勢(中瀬沂少将)
巡洋艦戦隊(山本岩多大佐)
軽巡 多摩(山本大佐)五十鈴(松田源吾大佐)
第1駆逐連隊(江戸兵太郎少将)
軽巡 大淀(牟田口格郎大佐)
駆逐艦 桑 槙 杉 桐
第2駆逐連隊(天野重隆大佐)
第61駆逐隊(天野大佐)初月 若月 秋月
第41駆逐隊(脇田喜一郎大佐)霜月
補給部隊
輸送船 仁栄丸 たかね丸
駆逐艦 秋風
海防艦 第22・43・33・132号海防艦
各空母の搭載機
瑞鶴 零戦28機 戦爆16機 天山14機 彗星7機 計65機
瑞鳳 零戦8機 戦爆4機 天山5機 計17機
千歳 零戦8機 戦爆4機 天山6機 計18機
千代田 零戦8機 戦爆4機 97式艦攻4機 計16機
第1遊撃部隊(第2艦隊司令長官栗田健男中将)
第1部隊(栗田中将直率)
第1戦隊(宇垣纏中将)
戦艦 大和(森下信衛少将)武蔵(猪口敏平少将)長門(兄部勇次少将)
第4戦隊(栗田中将)
重巡 愛宕(荒木傅大佐)高雄(小野田捨次郎大佐)鳥海(田中肇大佐)
摩耶(大江覽治大佐)
第5戦隊(橋本信太郎少将)
重巡 妙高(石原聿大佐)羽黒(杉浦嘉十大佐)
第2水雷戦隊(早川幹夫少将)
軽巡 能代(梶原季義大佐)
第2駆逐隊(白石長義大佐)早霜 秋霜
第31駆逐隊(福岡徳治郎大佐)長波 朝霜 岸波 沖波
第32駆逐隊(大島一太郎大佐)浜波 藤波
駆逐艦 島風(上井宏中佐)
第2部隊(第3戦隊司令官鈴木義尾中将)
第3戦隊(鈴木中将)
戦艦 金剛(嶋崎利雄少将)榛名(重永主計少将)
第7戦隊(白石萬隆少将)
重巡 熊野(人見錚一郎大佐)鈴谷(寺岡正雄大佐)利根(黛治夫大佐)
筑摩(則満宰次大佐)
第10戦隊(木村進少将)
軽巡 矢矧(吉村真武大佐)
第17駆逐隊(谷井保大佐)浦風 磯風 浜風 雪風
駆逐艦 清霜 野分
第3部隊(第2戦隊司令官西村祥治中将)
第2戦隊(西村中将)
戦艦 山城(篠田勝清少将)扶桑(阪匡身少将)
重巡 最上(藤間良大佐)
第4駆逐隊(高橋亀四郎大佐)満潮 朝雲 山雲
第27駆逐隊(司令欠)時雨
第2遊撃部隊(第5艦隊司令長官志摩清英中将)
第21戦隊(志摩中将)
重巡 那智(鹿岡円平大佐)足柄(三浦速雄大佐)
第1水雷戦隊(木村昌福少将)
軽巡 阿武隈(花田卓夫大佐)
第7駆逐隊(岩上次一大佐)曙 潮
第18駆逐隊(井上良雄大佐)不知火 霞
第21駆逐隊(石井汞中佐)若葉 初春 初霜
【米軍】
中部太平洋地域総司令部(チェスター・ニミッツ大将)
第3艦隊(ウィリアム・ハルゼー大将)
第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)
第1群(ジョン・マッケーン中将)
空母 ワスプ ハンコック ホーネット バンカーヒル
重巡 ボストン
軽巡 サンディエゴ オークランド
駆逐艦 17隻
第2群(ジェラルド・ボーガン少将)
空母 イントレピッド インディペンデンス キャボット
戦艦 ニュージャージー アイオワ
重巡 ビンセンス
軽巡 マイアミ ビロクシー
駆逐艦 16隻
第3群(フレデリック・シャーマン少将)
空母 レキシントン エセックス プリンストン ラングレイ
戦艦 マサチューセッツ サウスダコタ
軽巡 サンタフェ モービル リノ バーミンガム
駆逐艦 14隻
第4群(ラルフ・デビソン少将)
空母 フランクリン エンタープライズ サンジャシント ベローウッド
戦艦 ワシントン アラバマ
重巡 ニューオーリンズ ウイチタ
駆逐艦 11隻
南西太平洋地域総司令部(ダグラス・マッカーサー大将)
第7艦隊(トーマス・キンケード中将)
第77任務部隊
第2群(オルデンドルフ少将)
戦艦 ペンシルバニア カリフォルニア テネシー ミシシッピー
メリーランド ウエストバージニア
重巡 ルイスビル ポートランド ミネアポリス シュロップシャー
軽巡 デンバー コロンビア フェニックス ボイス
駆逐艦 21隻 魚雷艇 39隻
第4群(トーマス・スプレイグ少将)
第3集団(クリフトン・スプレイグ少将)
護衛空母 ファンショー・ベイ セント・ロー ガンビア・ベイ キトカン・ベイ
ホワイト・プレインズ カリニン・ベイ
駆逐艦 ジョンストン ヒアマン ホエール
護衛駆逐艦 サミュエル デニス レイモンド J・C・バトラー
【捷1号作戦】
【米軍の作戦】
【武蔵沈没】
【悲壮、西村部隊】
【迷走艦隊】
【連合艦隊壊滅】
【もしレイテ湾に突入していたら】
【捷1号作戦】
1944年7月にマリアナ諸島が陥落したことは大本営に大きな衝撃を与えた。その衝撃の
度合いは東条内閣が総辞職したことで疑いしれよう。同じ頃、ヨーロッパでは連合軍の大陸反
攻作戦が実施されドイツを徐々に追いつめていった。
ここに至り、大本営(日本陸海軍上層部)は敗戦をも視野にいれた戦争の終結を模索するこ
とになった。だが、戦力が残っているうちに決戦を挑んでこれに勝利し、少しでも有利な条件
で講和に持ち込もうという虫のいい構想を陸軍も海軍も持ち続けていた。日本陸海軍はどちら
も決戦至上主義の軍隊(それが時代遅れだとわかってはいた)であり、そのため決戦による勝
利に固執したのである。この決戦主義のために日本の終戦は遅れ、何十万人もの軍人・民間人
が無意味に犠牲になったのである。
さて、すでに何回かの決戦に臨みこれに敗北を繰り返してきた海軍と違い、陸軍はまだアメ
リカ軍との決戦を経験していなかった。ガダルカナル以降の戦線の後退は不慣れな島々での戦
闘が原因であり、十分に準備ができた戦場でなら負けるはずはないと陸軍首脳は確信していた。
ところが、その準備が万全だったはずのサイパンであっけなく敗北すると、陸軍はようやく自
分たちが戦っている敵が容易ならざる相手だということに気づいたのである。これを批判する
ことは簡単だが、そもそも陸軍の仮想敵国はソ連であり、対米戦を研究しだしたのは開戦のわ
ずか数ヶ月前である。戦い方がわからないという言い訳は別に良かろう。ただ、それだったら
なぜそんな見切り発車で開戦に踏み込んだのかという批判も出てくるが。
とにかく、次なる決戦には絶対に負けられないというのが陸海軍の共通認識であった。だが、
海軍は6月のあ号作戦の失敗で母艦航空兵力が壊滅してしまったため、しばらくはまともに戦
える状態ではなかった。そんな状況で海軍が立てた作戦が「捷1号」作戦である。
捷1号は4号まである捷号作戦の1つで敵のフィリピン方面への侵攻を想定しての迎撃作戦
である。ちなみに、2号は台湾・沖縄方面、3号は小笠原方面、4号は千島方面を担当してい
る。しかし、敵を迎撃するといっても「あ号」作戦みたいな堂々と正面から決戦を挑んで勝敗
を決するという作戦は(航空兵力の壊滅により)不可能であった。
そこで海軍が考えた作戦の順序は、母艦航空戦力よりはマシな状態である基地航空戦力をフ
ィリピンに集中して接近する敵侵攻部隊を先制攻撃する。空母機動部隊は囮となって敵機動部
隊を北方に誘引する。その隙に水上艦部隊が上陸せんとする敵船団に殴り込む。見ての通り主
目標を敵上陸船団としており、敵艦隊の撃破を目的としたそれまでの作戦とは違ったものとな
っている。この作戦での役割分担は以下の通り。
基地航空隊 第1、第2航空艦隊と陸軍航空隊
囮部隊 第1機動艦隊本隊
殴り込み部隊 第1遊撃部隊本隊(北方ルート)
第1遊撃部隊別働隊(南方ルート)
第2遊撃部隊(南方ルート)
この他に逆上陸を支援する艦隊と潜水艦部隊がある。さて、海軍は戦場をフィリピンのレイ
テ島と見ていた。マリアナを除いてアメリカ軍は目標を攻略するために近くの島の飛行場を確
保することを常としており、今回のフィリピンへの侵攻もその最終目標であるルソン島への上
陸を容易とするために、レイテ島の飛行場を占領確保することは十分に考えられた。だが、陸
軍は決戦場をルソン島としており、レイテ島には1個師団しか配置していなかった。
この陸海軍の作戦の相違はこれまでの見られたが、この段階での有様はあきれるばかりであ
る。ただそれでも陸海軍の航空隊を統一指揮下に置いたことは、力をあわせなければ到底アメ
リカに勝てないという思いがあったのだろう。
小沢艦隊
マリアナ沖海戦の敗北で空母3隻と多数の搭乗員を失った第3艦隊はしばらくは戦闘不能の
状態となった。しかし、迫り来るアメリカ軍の侵攻を阻止するには空母機動部隊は不可欠で戦
力の再建が急がれることとなった。
前述したとおり、小沢中将率いる機動部隊本隊つまり第3艦隊は囮部隊の任務が与えられた
が、小沢中将自身は敵機動部隊に一矢を報いることを諦めてはいなかった。勿論、アウトレン
ジ戦法のような熟練を要する戦術は最早戦果を期待できないから逆に敵の懐深くまで接近し刺
し違えてでも、敵の大部隊の一角に大打撃を与えるという方法しか残っていなかったが、航空
隊は毎日のように猛訓練に明け暮れた。
だが、戦局は小沢艦隊に時間を与えてはくれなかった。ハルゼー中将指揮する米機動部隊が
10月10日から南西諸島に対する空爆を実施したのである。作戦の前に日本の航空戦力を潰
しておこうといういつもの手である。マリアナ沖海戦の時もこれによって基地航空隊が早々に
壊滅させられ決戦に参加できなかった。連合艦隊はそれを教訓として決戦まで航空隊を温存し
ておくことにしていたが、米艦隊が接近すると現地の航空隊に出撃を命じたのである。出撃命
令は小沢艦隊にも出された。
小沢中将は難色を示した。航空隊は大事な決戦戦力でしかもまだ技量が未熟である。かつて
再建途中の航空隊を無計画に前線に投入し続けた結果、肝心の決戦の時に何の役にも立たなく
なってしまったことを連合艦隊は忘れてしまったのか。連合艦隊の神作戦参謀は小沢中将に機
動部隊には何の期待もしていない、空母は当分使わないといって彼に命令を承諾させた。
訓練途中の航空隊まで動員しての一大航空攻撃は敵になんらダメージを与えることなく逆に
1000機以上の航空機を失うという惨敗に終わった。だが、海軍は「空母11隻撃沈」とい
う誇大すぎる戦果発表をしている。勿論、小沢中将はそれを信じてはいなかった。現時点での
航空隊の技量でそれだけの戦果を挙げられるとしたら、とうの昔に日本はアメリカ艦隊を撃滅
しているはずである。案の定、後日の偵察で米機動艦隊の健在が確認されている。
この一連の航空戦でフィリピンの海軍の基地航空隊は150機程度にまで激減してしまった。
「捷1号」作戦は基地航空隊で敵艦隊を撃破する計画だったが、それは最早不可能となった。
作戦発動の前に作戦成功の見込みがなくなるという「あ号」作戦とおなじ愚を連合艦隊は犯し
てしまったのだ。まったく何の成長もない組織である。そして、小沢艦隊に出撃命令が下され
た。米軍が10月17日にレイテ島の湾口にあるスルアン島に上陸したからである。わずか数
日前に当分、空母は使わないと言ったばかりである。小沢艦隊は敵艦隊の攻撃も味方艦隊の直
掩もまともにできない、ただひたすらに囮に徹することを強制されたのである。囮任務は8月
に伝えられてはいたが、いまとなってはそれは全滅せよと言ってるようなものであった。
小沢艦隊は10月20日に3航戦と4航戦の航空機を収容した。積み込まれた航空機は全部
で116機。そのほとんどが着艦ができないためクレーンで空母に積まれた。もし、ここに引
き抜かれた205機の航空機があったらと小沢中将は思っただろう。艦隊は豊後水道を通過し
て太平洋を南下した。同じ日、米陸軍6万人がレイテ島に上陸していた。
栗田艦隊と志摩艦隊
捷1号作戦で敵上陸船団に突入することになっている第2艦隊はどこで何をやっていたか、
彼等はブルネイで訓練に励んでいた。なぜ、ブルネイかというと本土では燃料不足で訓練もま
まならないからだ。
第2艦隊は第1遊撃部隊と命名され栗田健男中将が指揮を執る。栗田艦隊は北上してシブヤ
ン海を通過、サンベルナルディノ海峡を突破して北からレイテ湾に突入する本隊と、スル海を
経てスリガオ海峡を通過して南からレイテ湾に突入する別働隊に分かれる。この部隊は西村祥
治中将が指揮を執った。この部隊の他に志摩清英中将指揮の第2遊撃部隊が南方ルートからの
突入を試みることになっている。
志摩艦隊は元々北東方面艦隊の所属であったが、捷1号作戦のために引き抜かれてきたので
ある。当初、この部隊には逆上陸支援の任務が与えられたが、結局西村部隊と共にレイテ湾に
突入することになった。ちなみに志摩艦隊は本土から出撃する。
第1遊撃部隊の司令部にも8月10日にマニラでの打ち合わせで捷1号作戦の説明がされた
が、小柳富次参謀長は作戦に難色を示した。第2艦隊が擁する艦艇は敵艦隊と決戦を行うため
に整備・訓練がされてきた。それを輸送船を攻撃してこいとは納得がいかないというのだ。そ
れに輸送船団は敵が最優先で防衛しているはずである。そこまでいくのに何度もの空襲を覚悟
しなければならないし、運良くそれを切り抜けたとしても船団を直衛する艦隊がある。旧式な
がら戦艦を有する艦隊に空襲で傷ついた栗田艦隊がどこまで戦えるか。小柳少将は連合艦隊の
神作戦参謀に「第2艦隊をすりつぶしても良いと言うのか」と詰問したが、神大佐はフィリピ
ンが奪回されれば本土への重油の供給が遮断されるから艦隊が残っていても意味がないと答え
た。
と、そこまでは立派だが、次に小柳少将が敵主力艦隊と遭遇したら艦隊の性格上そっちへ向
かうかもしれないがよろしいかと質問すると、神大佐はなにをとち狂ったのか「いいです」と
答えてしまった。
捷1号作戦は各艦隊の緻密な連携が不可欠となっている。小沢艦隊が敵機動部隊を北方に誘
引するタイミングも栗田艦隊の行動に合わせなくてはならない。現在ではリアルタイムでお互
いの位置が確認できるが、当時はいくら無線技術が発達していたといってもお互いの行動をあ
わせるのは困難である。そのために事前に打ち合わせをして何時頃にどこどこを通過しますと
予定を立てるのだが、小沢艦隊がその予定でうまく敵艦隊をおびき寄せたとしても肝心の栗田
艦隊があさっての方向に行ってしまってたら何もかも台無しである。
それに栗田艦隊から離れて行動する西村部隊もとんでもない目にあうかもしれないのである。
西村部隊が栗田艦隊と別行動を取るのは西村部隊の戦艦が低速のため栗田艦隊と行動を共にす
るのが困難だからであるのと、艦隊を二手に分けることで北と南からレイテ湾の敵船団を挟撃
しようという目論見があったからだろうが、これとて栗田艦隊の行動いかんによっては単独で
敵陣に向かうことになってしまうのである。
連合艦隊の作戦参謀たるものが作戦の失敗に繋がりかねないことをあっさり了承してしまう
のはどういう神経をしているのか。真珠湾を中途半端な戦果に終わらせ、ミッドウェーの敗因
ともなった作戦目標の不徹底は連合艦隊にとって最後の決戦になるであろうこの戦いにおいて
も少しも改善されてなかったのである。
また、捷1号作戦はまったく融通の利かない作戦であった。ひとつの想定しかなされてなか
ったのである。つまり、途中で予期せぬアクシデントが発生して予定が狂ってもそれを修復す
るのが困難なのである。そして、戦争というものは予期せぬ事が起きるものである。この作戦
のいい加減さは呆れるほかないが、もしかしたらそれは海軍がすでにこの戦争の行方に希望を
持ってないという証明かもしれない。なにをやっても先が見えてしまっている戦い。だからこ
そ、栗田艦隊に敵艦隊との決戦を優先することを許したのかもしれない。
【米軍の作戦】
アメリカ軍の反攻ルートは二手に分かれている。ギルバート諸島からマーシャル、カロリン
を経てマリアナへ向かうルートと、ソロモン・ニューギニアを発端としてパラオからフィリピ
ンへと向かうルートである。前者は海軍が、後者は陸軍が主導して推進していった。
マリアナ全島の制圧が完了すると、次の目標のどこに設定するかで意見が分かれた。統合参
謀本部は台湾侵攻を考えていた。台湾から沖縄に侵攻して、その次に日本本土へ侵攻する。そ
れが統合参謀本部の計画で海軍もそれに同調した。
だが、太平洋の陸軍を指揮するマッカーサー大将が統合参謀本部の計画に猛反対した。その
計画にはフィリピン奪回が含まれていなかったからである。緒戦でフィリピンから身ひとつで
追い出されて以来、必ずフィリピンに戻ってくると心に誓った彼にとってフィリピンを迂回す
ることは絶対に許されないことだった。しかし、統合参謀本部も海軍もフィリピンは広大で敵
の守備戦力も多く、その攻略には多大な時間と犠牲者を要すると考えていた。つまりは時間の
無駄だと言いたかったのだ。
だが、状況はマッカーサーに有利に動く。日本軍の大陸打通作戦によって台湾侵攻を支援す
る中国沿岸の航空基地が占領されてしまったのだ。すったもんだのあげく、妥協が成立してフ
ィリピン侵攻は正式に決定された。
こうしてマッカーサー将軍の悲願がようやく達成されようとしているわけだが、今回の作戦
は前回のマリアナ攻略作戦と異なり陸海軍の共同作戦となっている。太平洋戦争において陸軍
だけの戦闘は有り得ない(大陸でも戦闘していた日本軍は別)。物資や人員を輸送するにも、
敵の拠点や部隊を攻撃するにしても海軍の協力は不可欠である。今回の作戦も海軍の第3艦隊
と第7艦隊が上陸を支援することになっている。
上の編制表を見たらわかるように第3艦隊は高速機動部隊となっている。前回のマリアナ沖
海戦を戦った第5艦隊と編制の違いはあるが、所属する艦艇はほぼ同一である。マリアナ攻略
が完了してしばらくは暇だから艦艇をそっくりそのまま第3艦隊に移したのだ。違うのは指揮
官と幕僚と編制と任務である。
マリアナでは上陸支援から敵艦隊殲滅までを第5艦隊が担当していた。そのため第5艦隊は
高速機動部隊だけでなく上陸を支援する部隊や、補給・整備部隊、上陸して戦闘する攻略部隊
をも指揮下にしていた。
これに対して第3艦隊はミッチャー中将の第38任務部隊を除けば、艦隊司令であるハルゼ
ー提督の指揮下にあるのはTF38の補給と補充を担当する艦隊油槽船34隻、護衛空母11
隻、駆逐艦・護衛駆逐艦45隻、タグボート数隻が配備されている洋上兵站部隊だけであった。
上陸作戦を支援するための艦艇は全て第7艦隊に分派されていた。マリアナ攻略では第5艦隊
が全ての任務を担当していたのに対し、レイテ攻略では敵艦隊との決戦を担当する第3艦隊と
上陸支援を担当する第7艦隊とに分かれているのである。勿論、第3艦隊も上陸支援すること
になっているが、ハルゼー提督はそれは第7艦隊に任せておいていいと思っていた。第7艦隊
には旧式ながら戦艦もあるし、小型低速でも立派な空母があるから自分が手を貸すまでのない
だろうと思いこんでいたのだ。彼は自分の任務は日本の機動部隊にトドメを刺すことだと信じ
ていた。
上から下された命令に「陸軍の上陸を援護せよ」と同時に「日本海軍が大規模な攻撃をしか
けてきた場合、決戦によってこれを撃滅せよ」とあり、それが矛盾した場合は敵艦隊の殲滅を
最優先するとあるが、これは海軍上層部も第3艦隊の任務は敵艦隊との決戦だと考えていたか
らだ。ハルゼー提督もそうだが、太平洋艦隊のニミッツ提督も統合参謀本部のキング提督も日
本海軍との決戦に期待していたのである。
しかし、決戦を夢見るのは結構だが、もし上陸部隊に危機が迫り第7艦隊の戦力ではこれに
対応できないことが明らかになった場合どうするか。勿論、救援要請を受ければ第3艦隊は至
急応援に行かなければならないのだが、その連絡には時間がかかるのが問題だった。なぜなら
二つの艦隊は同一の指揮系統に属していないからだ。第3艦隊はニミッツ提督の指揮下だが、
第7艦隊は陸軍のマッカーサー将軍の指揮下だったのだ。そのため二つの艦隊は直接連絡を取
り合うことはできず、上級司令部を経由しなければならないのだ。これは緊急の際には致命的
な事態を招きかねないが、米軍全体を包んでいた楽観主義はこれを無視してしまっていた。
レイテ島への上陸作戦は1944年7月下旬に立案されたが、当初は12月に実施されるこ
とになっていた。しかし、9月のパラオ攻略戦でフィリピンを空爆したハルゼー提督が「フィ
リピンの防備は予想より弱い」と報告したことから10月20日上陸に早められた。
10月になるとハルゼー提督麾下の第38任務部隊は沖縄や台湾を空襲した。マリアナでも
やったことだが、事前に日本の基地航空戦力を壊滅させておくためである。これに対して、日
本軍が反撃して台湾沖航空戦が勃発したのだが、日本軍は1000機以上の喪失を出しながら
米艦隊に軽微な打撃しか与えられなかった。さらに再建中の空母の航空隊もこの戦いに投入さ
れ損耗したため日本軍は航空機の支援が全く期待できない状況に追い込まれたのである。
【武蔵沈没】
米軍のレイテ島上陸の報が伝わると豊田連合艦隊司令長官は捷1号作戦を全軍に発令した。
それを受け栗田艦隊は10月22日午前8時にブルネイを出港した。艦隊は午後11時にパラ
ワン水道に入り、以後しばらくは何事もなく航海を続けていたが、米軍は翌日午前1時16分
に栗田艦隊を発見していた。
栗田艦隊を発見したのは潜水艦ダーターで、同艦は警報を発するとともに栗田艦隊の前方に
回り込み、艦首と艦尾から合計10本の魚雷を発射した。魚雷は4本が艦隊旗艦の愛宕に命中
して同艦は午前6時53分に沈没した。さらに重巡高雄にも2本が命中して離脱を余儀なくさ
せた。
さらに悪いことは続くようでダーターの警報を探知した潜水艦デースも密かに忍び寄って重
巡摩耶に4本の魚雷を発射した。午前6時57分、魚雷はことごとく命中して摩耶を8分で撃
沈した。
作戦開始早々、重巡3隻を失って自分自身も海を泳ぐ羽目になった栗田中将だが、旗艦を大
和に移すと離脱する高雄とそれを護衛する駆逐艦を残して北上を再会した。
栗田艦隊発見の報はハルゼー提督の元にも届けられた。提督は栗田艦隊への攻撃を命令した。
まず、空母イントレピッドと軽空母キャボットから45機の第1次攻撃隊が発艦した。攻撃隊
は24日午前10時30分に栗田艦隊を発見した。この攻撃で武蔵に魚雷1本が命中して、衝
撃で前部方位盤が故障したほか、重巡妙高も被雷して戦場を離脱した。
午後12時06分からの第2次攻撃はイントレピッドから出撃した31機で、武蔵に魚雷3
本と爆弾2発が命中して速力が22ノットに低下した。
続いて第3次攻撃は午後1時30分に空母レキシントンとエセックスから出撃した44機で
開始され、武蔵に魚雷5本と爆弾4発を命中させた。武蔵は艦が傾斜したため注水し、バラン
スを取り戻したが、艦首が海面近くまで沈み速力は16ノットに低下した。この他にも大和に
爆弾1発が命中した。栗田中将は基地航空隊に支援電報を打った。同時に大破して同行が難し
くなった武蔵を台湾の馬公に帰還させようとした。
だが、米軍の攻撃は執拗であった。空母フランクリンから出撃した32機の第4次攻撃隊は
午後2時30分頃に栗田艦隊を攻撃した。この攻撃で武蔵に被害はなかったが、大和が命中弾
1発を受けた。
それに続く第5次攻撃は38TFの第2群と第4群から発進した67機で開始され、重巡利
根が命中弾2発で小破、数隻の駆逐艦も被弾した。それまで無傷だった長門も命中弾2発で速
力が21ノットに低下した。だが、もっとも攻撃が集中したのは武蔵であった。この攻撃だけ
で魚雷11本と爆弾10発が命中してついに航行不能なったのである。
大損害を被った栗田中将は戦場からの一時避退を決意した。この決定で南から来る西村部隊
とのレイテ湾同時突入という計画は実現不可能となったが、敵の指揮官であるハルゼー提督に
栗田艦隊は壊滅的打撃を被って遁走中であると思いこませることとなった。レイテ湾への直接
的脅威が消滅したと判断したハルゼー提督は日本機動部隊との決戦のために全艦隊を北上させ
た。
空襲が止んだことを確認した栗田中将は午後5時14分に再反転してレイテ湾を目指した。
だが、武蔵は損害を復旧することができず、午後7時15分に総員退去が発令された。武蔵は
午後7時35分に沈没した。
なぜ武蔵に攻撃が集中したのだろうか。それは武蔵が空から見て一番目立っていたからであ
る。出撃前、武蔵艦長の猪口少将はペンキを塗り直させた。これは艦を新造艦みたいにピカピ
カに見せることで敵の攻撃を引き付けさせるためらしい。もし、そうだとすると武蔵は敵艦隊
と相まみえることなく沈んだが、その役割を十分に果たしたといえるだろう。
【悲壮、西村部隊】
栗田艦隊とは別航路を取る西村部隊は本隊が出撃した7時間後にブルネイを出港した。西村
部隊はスル海を抜けスリガオ海峡を通過して25日黎明に栗田艦隊と同時にレイテ湾に突入す
る予定であった。だが、栗田艦隊が反転したため同時突入は不可能となってしまった。
西村部隊は栗田中将の麾下なので中将から何らかの指示があるはずなのだが、彼からの指示
はなかった。代わりに連合艦隊司令部から命令が届いたが、それはそのまま突入せよという信
じられない内容だった。
弱体な西村部隊が単独で突入したところで待ち構えている敵に撃破されるだけである。栗田
艦隊が反転した時点で当初の計画は実現不可能であるから、西村部隊も反転して次の機会を待
つべきである。戦場というものは予期せぬ事が起きる場所である。そのために臨機応変に対応
することが求められるのである。しかし、海軍上層部の参謀達は自分たちが事前に立てた作戦
計画のスケジュールに固執し、現場で起きた異変を無視し各艦隊に予定どおりの行動を強要し
たのである。彼等からしたら次の機会を待つことよりも、たとえ途中で空襲により全滅する可
能性があっても予定どおりの行動を取ることの方が重要だったのである。もはやそれは作戦と
はいえなかった。
命令を受けた第2戦隊の幕僚達は憤慨したが、西村中将は命令に素直に従うように皆を諭し
た。彼は出撃前からすでに覚悟を決めていたらしく、本隊のための囮になるつもりだったとも
いう。西村中将は予定どおり突入することを栗田中将に伝えた。
西村部隊の動向も米軍に察知されていて、24日午前9時40分に空母エンタープライズの
艦載機が空爆をしかけてきたが、戦艦扶桑が小破しただけで戦闘行動に支障はなかった。
米軍機の来襲はそれっきり(栗田艦隊への攻撃のため)だったが、米軍は第7艦隊麾下の水
上部隊をスリガオ海峡の入口に4段で配置して待ち構えていた。入口に魚雷艇部隊39隻、2
段目に駆逐艦部隊、3段目に8隻の巡洋艦部隊、最後段に6隻の旧式戦艦部隊である。
西村部隊と魚雷艇部隊が接触したのは午後10時50分頃で発見した駆逐艦時雨が照明弾を
打ち上げた。3隻の魚雷艇は突撃したが、山城と扶桑が副砲と高角砲で応戦して1隻を撃沈し
2隻を損傷させた。
先方を進んでいた重巡最上と駆逐艦3隻も25日午前0時過ぎに4隻の魚雷艇の攻撃を受け
た。危険を感じた先鋒隊は午前0時28分に反転して、午前1時30分にパナオン島南方スリ
ガオ海峡入口で本隊と合流した。
海峡に突入した西村部隊は午前2時02分に進路を北へ向けレイテ湾へ向かった。その直後
にまた魚雷艇の襲撃があったが損害はなかった。
午前2時53分、時雨が敵駆逐艦を発見した。それはアメリカの第54駆逐隊でうち3隻が
午前3時に魚雷27本を発射して煙幕を張って退却した。西村部隊は照明弾を打ち上げて攻撃
したが命中弾はなかった。魚雷は4本が扶桑に命中して、扶桑は大爆発を起こして真っ二つに
折れた後、漂流して沈んだ。生存者は一人もなかった。続いて第54駆逐隊の2隻が午前3時
11分に魚雷20本を発射して、駆逐艦山雲を撃沈、満潮と朝雲を航行不能にした。魚雷は山
城にも1本が命中したが、戦闘には支障がなかった。
この時点で生き残っていたのは扶桑と最上と時雨だけだったが、それでも西村中将は北進を
命じた。その西村部隊に米軍の容赦ない攻撃が続いた。午前3時23分、第24駆逐隊の3隻
が14本の魚雷を発射して1本が山城に命中した。さらにもう3隻が航行不能なっていた満潮
と朝雲を雷撃して満潮を撃沈した。朝雲は夜明け前に撃沈された。
度重なる攻撃によく耐えた西村部隊だったが、ついに最期の時が訪れた。オルデンドルフ少
将率いる戦艦部隊がT字戦法で待ち構えていたのである。午前3時55分、オルデンドルフ艦
隊は山城と最上に砲撃を集中させた。この攻撃で山城と最上は大破炎上して、山城はさらに第
56駆逐隊の9隻の駆逐艦の雷撃を受け、2本が命中して大爆発を起こし転覆沈没した。最上
は艦橋に砲弾が命中して指揮系統が破壊されたが、人力操舵でなんとか戦場を離脱した。
第2戦隊が全滅した頃、志摩中将麾下の第2遊撃部隊がスリガオ海峡に進入したが、魚雷艇
の攻撃で軽巡阿武隈が被雷して落伍した。そして、志摩艦隊が目撃したのは炎上しながら漂流
している扶桑の艦首部と、炎上して漂流している(志摩艦隊にはそう見えた)最上だった。直
後、レーダーで敵艦隊らしき反応を探知したが、それは小島だった。
敵情が掴みきれない志摩中将は反転を命じたが、その時に重巡那智が最上と衝突してしまっ
た。漂流していると思われた最上は8ノットの低速で動いていたのである。最上はこの後、米
艦載機の攻撃で沈没した。最上はミッドウェー海戦でも重巡三隈と衝突事故を起こしている。
この事故で志摩中将は再突入を諦め撤退を命じた。この戦いで西村部隊は駆逐艦時雨を除い
て全滅し、南からのレイテ湾突入は失敗した。
【迷走艦隊】
小沢治三郎という人は働き場所に恵まれなかった軍人であった。世界初の空母機動部隊の創
設を進言したが、その結果誕生した第1航空艦隊の司令長官には1航艦の長官は自分しかいな
いと自負していた彼ではなく、小沢よりも先任というだけで航空戦に関しては全くの素人であ
った南雲忠一が選ばれた。小沢は南遣艦隊司令長官として開戦を迎えた。
その小沢にようやく出番が来た。南雲の後任として1航艦を改編した第3艦隊の司令長官に
任命されたのだ。その翌々年には水上艦部隊を指揮下に置いた第1機動艦隊の編制を実現させ
た。かねてより念願だった空母を主力とした艦隊の誕生であった。
だが、組織編成的には立派な小沢機動部隊だったが、その実質的戦闘力はかなり厳しい状況
だった。そもそも小沢が就任した時点で日本の機動部隊の戦闘力はかなり消耗していたのだ。
小沢の第一の仕事は航空戦力の再建だった。しかし、連合艦隊の無計画な出撃命令にようやく
訓練が終わりつつあった搭乗員を引き抜かれていき、航空隊の再建は遅々として進まなかった。
その結果、小沢機動部隊にとって初陣となったマリアナ沖海戦で惨敗を喫してしまったのであ
る。この戦いで空母機動部隊は事実上壊滅し小沢艦隊に言い渡された任務は敵機動部隊を誘引
する囮になることだった。
捷1号作戦が発令された時、小沢艦隊は大分沖と伊予灘に分かれて集結していた。小沢中将
は全国から搭乗員と艦載機をかき集め、なんとか116機を空母に搭載することができたが、
母艦に着艦できるものは十数名しかいなかった。それも各地で教官をやっていた連中を頭を下
げて無理矢理引き抜いてきたのだ。ちなみにこの搭載機はすべて第3航空戦隊のもので、第4
航空戦隊は予定されていた航空隊が台湾沖航空戦で消耗してしまったため今回は搭載機なしで
の出撃となった。また、小沢艦隊は志摩艦隊も指揮下に加える予定だったが、同艦隊は台湾沖
航空戦の残敵掃討のため出撃してしまって小沢中将の指揮を離れた。
10月20日午前9時30分に内地を出撃した小沢艦隊は午後5時35分に豊後水道を抜け
20ノットで南下した。その後、艦隊は敵潜水艦を警戒して之字運動をしながら航行するのだ
が、戦後に明らかになった情報によると米軍はその海域に潜水艦を配置していなかった。しか
し、出撃初日から小沢艦隊は何度も敵潜水艦に雷撃されている。矛盾しているのだが、実は小
沢艦隊へのすべて誤報であった。なぜ、そうなったのかだが、ひとつはソナーの能力不足、も
う一つは乗組員の練度不足であった。戦局の悪化で実戦経験がまったくない補充兵が大量に乗
艦したため、海面の浮遊物を潜望鏡と間違えたり波しぶきを雷跡と見誤ったのである。さらに
艦隊は22日に前衛の駆逐隊に各空母と軽巡大淀から燃料補給を行っているのだが、訓練不足
のため蛇管を切断する事故を起こすなど、思った以上に時間がかかり午後7時半に作業は中止
された。この日、小沢艦隊はルソン島の北東約1670qの海域に達していた。
その頃、ブルネイを出撃しパラワン水道を通過していた栗田艦隊(同艦隊も小沢艦隊の指揮
下だったが今作戦は連合艦隊の直率とされた)は、米潜水艦の待ち伏せにあい重巡3隻を撃沈
破されてしまっていた。
栗田艦隊の被害状況は23日午後2時に小沢艦隊も受信した。これで栗田艦隊は敵に発見さ
れたことが確実となり、敵機動部隊による空爆が予想された。小沢中将は敵を誘き寄せるため
盛んに電波を発するなど敵に発見されようとしたが、あれだけ敵潜水艦に接触されたのに(前
述したようにそれは誤報である)米攻撃機は1機も姿を現さなかった。24日になると栗田艦
隊が敵機の来襲にさらされるのが明らかなため、小沢中将は敵の攻撃圏内と思われるルソン島
北東400qの地点を目指し艦隊を南下させ艦載機に出撃準備をさせた。艦載機に攻撃されれ
ば敵は小沢艦隊の存在に気づくはずである。小沢中将は敵機動艦隊を捜索させた。栗田艦隊が
攻撃される前に敵を誘う必要がある。だが、小沢中将の焦りも空しく栗田艦隊への攻撃は開始
された。
小沢艦隊が敵機動部隊を捜索しているのと同じく米機動部隊も小沢艦隊を探し求めていた。
日本機動部隊の息の根を止めることが己の使命だと確信していたハルゼー提督は懸命に小沢艦
隊の位置を捜索させていた。彼の第3艦隊は24日早朝から日本機の攻撃を受けていた。これ
は第2航空艦隊による空爆だったが、参加した機がすべて艦載機だったためハルゼー提督は小
沢艦隊からの攻撃だと誤認していた。だが、北から来ることがわかっている小沢艦隊を第38
機動部隊はなかなか発見することができなかった。潜水艦からの報告で戦艦と重巡を中心とす
るかなり有力な艦隊がレイテに接近しているという情報があったが、ハルゼー提督はこの艦隊
を日本の主力とは見なかった。なぜならこの艦隊には1隻の空母も存在していなかったからで
ある。しかし、黙ってみている気もなくハルゼー提督は中央部隊と名付けたこの艦隊への攻撃
を命じた。
先に敵を発見したのは小沢艦隊だった。午前11時05分に索敵機がマニラから305キロ
地点で米艦隊を発見したが、天候不良で視界が悪く空母の存在は確認できなかった。しかし、
小沢中将は2航艦から送られてきた索敵情報と考えあわせ、これが米機動部隊であるとの判断
を下した。
11時45分、瑞鶴のマストにZ旗が揚がり空母から艦載機が発進していった。予定では7
6機を出撃させるはずであったが故障などの影響で発進できたのは瑞鶴から零戦10機、戦爆
11機、天山1機、彗星2機、瑞鳳から零戦8機、戦爆3機、天山2機、千歳から零戦7機、
戦爆2機、天山2機、千代田から零戦5機、戦爆4機の合計56機にすぎなかった。これが日
本機動部隊の歴史上最後の攻撃隊の陣容である。しかも、千歳から発艦した戦爆は上昇できず
に海面に落下した機もあった。増槽タンクを落として高度を上げる機もいた。惨敗を喫したマ
リアナ沖海戦の時よりも搭乗員の技量は低下していた。そのため小沢中将は攻撃終了後はフィ
リピンの基地に向かえと指示した。
攻撃隊は午後1時50分に敵艦隊を発見したが、その時点で健在なのはたった18機でその
うち攻撃機は1機のみであった。それでも空母エセックスに至近弾1発、ラングレーに至近弾
2発とこの戦力では上出来な戦果を挙げている。といっても米軍からしたら無傷に等しい損害
である。攻撃隊は空母が炎上しているのを目撃したと報告しているが、それは先の2航艦の攻
撃で大破させられた軽空母プリンストンだった。プリンストンは午後6時に沈没した。攻撃隊
は34機がフィリピンや高雄の基地に向かった他(途中で迷子になって攻撃に参加できなかっ
た機も含む)、3機が母艦に帰投した。
攻撃隊の決死の攻撃も空しく小沢艦隊は一向に発見される気配はなかった。栗田艦隊からは
敵の空爆で被害が拡がりつつあるという無電が次々と受信された。小沢長官は午後3時25分
に第4航空戦隊を南下させた。だが、それでも敵に発見されることはなかった。そうこうして
いるうちに栗田艦隊は戦艦武蔵が大打撃を受け航行不能になり、耐えきれなくなった栗田中将
は一時反転を命じた。捷1号作戦は失敗に終わるかに見えた。
だが、ハルゼー提督は栗田艦隊の反転を潰走と受け止めた。敵艦隊は壊滅的打撃を受け西に
避退している。そう判断したハルゼー提督は栗田艦隊を脅威ではなくなったと見なした。さら
に午後5時頃に待ち望んでいた敵機動部隊発見の報告がもたらされるとハルゼー提督はこれこ
そが日本の主力だと確信して全力で攻撃することに決した。ただ、もう日没前だったことから
攻撃は翌日に持ち越された。
さて、待望の日本機動部隊が姿を現したわけだが、この敵をどのように攻撃するか。第38
任務部隊にはサンベルナルディノ海峡を警戒するという任務もあった。第7艦隊のキンケイド
中将は水上部隊を残すよう要請した。これに対しハルゼー提督は第34任務部隊を新規に編制
してサンベルナルディノ海峡に配置すると伝えた。これにキンケイドもハルゼーの上司である
ニミッツ提督も安心したが、ハルゼー提督はその約束を齟齬にして全艦艇をひきつれ北上した
のである。彼にしてみたらたとえ栗田艦隊が再反転してレイテに向かったとしてもキンケイド
の艦隊は戦艦6隻を中核とする水上部隊もあるし、護衛空母も16隻ある。十分に敵の進撃を
阻止することができるはずだ。自分の役目は敵機動部隊との決戦に勝利することである。その
ためには空母を護衛する水上部隊が絶対不可欠である。仮にサンベルナルディノ海峡に艦隊を
配置すれば1個空母群をつける必要がある。そうなると敵艦隊への攻撃は2個空母群(もう1
群は補給で戦闘には不参加)で行わなければならない。もし、日本の空母が予想よりも多かっ
たらこっちがやられるかもしれない。だからこそ全艦艇をひきつれる必要があるのだ。
だが、日本機動部隊を囮ではないかと疑う者もいた。戦艦部隊を指揮するリー中将らである。
リー中将は日本にはもうまともなパイロットが残っていない可能性が高いと考えたのだ。彼は
ハルゼー提督に自分の意見の伝えたが、提督はそれを無視した。貴重な空母を囮に使うことな
ど有り得ないと考えたからだ。彼は空母の艦長になるために53歳にして若い連中に混じって
パイロットの資格を取った人物である。空母こそ海戦の主役であると考える彼にしたら空母を
囮に使うなど考えられなかった。
ハルゼー提督のこの判断で日本軍は米軍のスキを突くことができた。空襲が止んだことを確
認した栗田中将は日没頃に再び反転を命じた。そして、彼の艦隊は最大の難関であると思われ
たサンベルナルディノ海峡を無事に通過することに成功するのだった。
敵に発見されたことを確認した小沢中将は25日午前6時07分、直衛を除く可動全機(戦
爆7、彗星1)にニコルスへの退避を命じた。53分、索敵機が米軍機の編隊を発見すると小
沢艦隊は午前7時に前衛の4航戦と合流した。
午前7時13分、戦艦日向の電探(レーダーです)が米軍機を探知した。17分、瑞鶴と千
代田から直衛機7機が発進した。29分、瑞鶴の電探が米軍の大編隊を探知。30分、米軍の
索敵機が小沢艦隊を発見。午前8時07分、瑞鶴と千歳から零戦11機が発進。15分、直衛
機と米軍機が交戦を開始。17分、F6F艦戦60機、SB2C艦爆65機、TBF雷撃機5
5機による第1次攻撃が開始された。
圧倒的な大戦力の前に直衛の零戦は瞬く間に全滅し、小沢艦隊は猛烈な空爆にさらされた。
小沢艦隊は対空放火と回避運動で対処するが、各艦の被害は相次いだ。
最初に命中弾を喰らったのは千歳で午前8時27分、左舷高角砲指揮装置と噴進砲に爆弾が
命中、3分後には後部昇降機にも命中弾を喰らった。軽巡多摩も魚雷1本が命中して大破、艦
隊から落伍した。34分、またもや千歳が被弾した。直撃弾4発、至近弾多数で千歳は午前9
時15分に機関が停止した。
米軍の猛攻は続き、8時35分、瑞鳳の後部飛行甲板に爆弾2発、瑞鶴の左舷発着甲板に爆
弾3発が命中。37分、瑞鶴の左舷後部に魚雷が命中。40分、左舷に浸水した瑞鶴は通信能
力を喪失した。小沢中将は大淀に旗艦通信を代行させた。その大淀も直撃弾1発を受けた。さ
らに瑞鶴の左側にいた駆逐艦秋月も50分頃に爆弾が命中して56分に沈没した。空襲は午前
9時頃に終了した。航行不能になった千歳は午前9時37分に沈没した。
一方その頃、サマール島沖でも日米の海戦が勃発していた。サンベルナルディノ海峡を無事
に通過した栗田艦隊は25日午前6時44分、米空母部隊と遭遇した。両軍ともお互いの存在
に驚いた。栗田中将はこの空母部隊をハルゼーの高速機動部隊と判断したが、実際は第7艦
隊に所属する護衛空母部隊の1群である。栗田中将は小沢艦隊がハルゼー艦隊の誘引に成功し
たことを知らなかったのだ。
目前の敵を大型空母と誤認した栗田中将は午前7時前から距離32000mで砲撃を命じた。
栗田艦隊は前方・重巡、後方・戦艦、両翼・水雷戦隊という陣形で敵空母群に突撃した。だが、
空襲が激しくなる前にカタをつけようと焦るあまり栗田中将は各艦に総攻撃を命じた。この命
令で栗田艦隊の陣形が崩れ、各戦隊はバラバラに突撃することになり戦場は混乱状態となった。
栗田艦隊の猛攻撃を受ける羽目になった護衛空母群のスプレイグ少将は午前6時57分に護
衛空母艦隊指揮官スプレイグ少将に敵艦隊との遭遇を報告した。報告はキンケイド中将の下に
も届けられ、キンケイド中将は全護衛空母の艦載機に栗田艦隊への攻撃を許可した。同時にキ
ンケイド中将はハルゼー提督に午前7時07分から救援電報を送り続けた。
第7艦隊からの度重なる救援要請をハルゼー提督は無視し続けた。小沢艦隊への第1次攻撃
が開始されようとしているときに別の戦場に艦隊を振り分ける余裕はないと判断したからだ。
ハルゼー提督は午前8時48分にマッケーン中将の第1任務群を派遣すると返答したが、第1
任務群はウルシー環礁に向かう途中でレイテ湾から北東740qの洋上にいた。そこから艦載
機を発進させてそれが現場に到着するまで8時間はかかる計算である。スプレイグ艦隊は単独
で敵の猛攻に耐えるしかなかった。
スプレイグ少将は午前7時、艦隊を近くのスコールに向かわせ煙幕を展張させた。射撃用レ
ーダーを持たない栗田艦隊はこれだけで射撃精度が落ちてしまう。さらにスプレイグ少将は護
衛の駆逐艦に突撃を命じ、艦載機にも発進を急ぐよう指令した。彼等にできることは救援が来
るまで持ちこたえることだけである。少なくとも前日に西村部隊を葬った海戦で徹甲弾を消耗
してしまっていたオルデンドルフの戦艦部隊が補給を完了させるまで持ちこたえる必要があっ
た。しかし、戦闘機52機と雷撃機43機しか艦載機がなくしかも雷撃機は上陸支援のため陸
上用の爆弾とロケット弾しか搭載していなかった。
それでも彼等は少しでも敵の攻撃を空母から反らそうと攻撃をしかけた。この攻撃は栗田艦
隊に本格的な空爆が始まると感じさせて動揺させた。そのため栗田艦隊の隊形は崩れ始めた。
スプレイグ艦隊の奮戦に対し、栗田艦隊の行動は不甲斐ないものだった。彼等はスプレイグ
部隊とレイテ湾の間に割って入り敵を孤立させたが、東に逃げるスプレイグ部隊をまっすぐ追
いかけてしまったのだ。そのためレイテ湾に突入する機会が失われた。さらに水雷戦隊は突撃
する戦艦・重巡部隊から大きく遅れ援護できなくなってしまった。
午前7時16分、スプレイグ少将は駆逐艦に突撃を命じた。ホエールとヒアマンとジョンス
トンは優勢な敵に果敢にも突撃していった。まず、最初にジョンストンが雷撃で重巡熊野を撃
破した。だが、ジョンストンも命中弾で速度が低下した。続いてホエールが戦艦金剛に魚雷を
発射した。金剛は魚雷を回避したがそのせいで陣形が乱れた。ホエールは命中弾40発以上を
受けて大破しながらも戦い続け、午前8時55分に沈没した。ヒアマンも魚雷を発射して、命
中こそしなかったが大和と長門の進路を変えさせ、戦場から遠ざかせることに成功した。
駆逐艦だけでなく艦載機も奮戦した。陸用爆弾でしかも対艦戦の経験もなかった彼等だが、
それでも重巡鈴谷、鳥海、筑摩と駆逐艦1隻を撃沈したのである。たとえ商船を改装した護衛
空母でも戦艦相手に優勢に戦うことができるのだ。ハルゼー提督が栗田艦隊への対処は第7艦
隊に任せておけばいいと判断したのは間違いではなかったといえよう。
だが、キンケイド中将とスプレイグ少将はそうは考えなかった。彼等はまだ戦艦というもの
に畏敬の念を抱いていた。彼等だけではない。アメリカ海軍のほとんどの提督が戦艦による艦
隊決戦をまだ夢見ていたのである。ハルゼー提督も例外ではない。第7艦隊の救援要請を無視
してまで全艦艇を引き連れたのは敵との決戦には水上艦が欠かせないと判断したからである。
戦艦は国を象徴するほどの威容を誇る巨艦である。それは空母が主力の地位を確定させた大
戦末期でも変わらなかった。日本の降伏調印式が戦艦ミズーリで行われたことでもそれは証明
されるだろう。その戦艦がいきなり目の前に現れ、自分たちを攻撃してきたのだ。敵に大損害
を与えながらもスプレイグ少将は破滅が近づいていると感じていた。実際、多くの空母がなん
らかの被弾をしていた。それでも浮かんでいられたのは装甲がほとんどないため徹甲弾が命中
しても爆発せず、そのまま貫通してしまったからである。もっとも乗組員は穴を塞ぐのに必死
であったが。そしてついに空母ガンビアベイが沈み始めた。他の空母も撃沈されるのは確実か
に思われた。
だが、予想に反し彼等は生き残る事ができた。敵の指揮官アドミラル・クリタが午前9時1
1分に攻撃を中止させ集結するよう命じたからである。
サマール島沖海戦はひとまず終了したが、キンケイド中将は安心することはなかった。栗田
艦隊が次にレイテ湾を目標にするのに違いないからだ。午前10時、キンケイド中将はハルゼ
ー提督に高速戦艦を至急送るよう打電した。その他に護衛空母部隊が敵戦艦部隊に攻撃されて
いることやレイテ湾を防衛する戦艦部隊に対艦用の徹甲弾がほとんど残っていないことも伝え
た。
しかし、それでもハルゼー提督は援軍を送ろうとはしなかった。ちょうど第2次攻撃が始ま
っていて千代田が左舷後部に直撃弾を喰らっていた頃である。敵の空母はまだ3隻残っている。
これを全滅させるまで戦いをやめるつもりはなかった。彼は圧倒的な戦況に非常に満足してい
た。
だが、その直後に彼を打ちのめす電文が届いた。キンケイド中将に泣きつかれたニミッツ提
督が至急レイテ湾に向かうよう指示する電文を送ってきたのだ。その電文の末尾に「第38任
務部隊はどこにいる。全世界は知りたがっている」とあったのを見たハルゼー提督は大声で喚
き散らして号泣したという。第3艦隊の司令長官ともあろうものが太平洋艦隊司令長官からこ
のような叱責を受けるのはこの上ない侮辱である。もっとも末尾の文章は電信が加えた埋め字
で、ニミッツ提督にハルゼー提督を陥れる意図はなかった。
こうなっては増援を送らないわけにはいかなかった。だが、ハルゼー提督はまだ自分が囮に
引っかかったとは思わなかった。すべては第7艦隊の不甲斐なさが原因だと考えていたのであ
る。そのために彼は敵空母を壊滅させることだけで満足しなければならなかった。そして、レ
イテ湾に向かった増援部隊も間に合うことはなかった。結局、彼は北へ南へ艦隊を全速力で往
復させただけという喜劇を演じただけに終わったのである。
ハルゼー提督に喜劇を演じさせた小沢艦隊にはその代償を払わされようとしていた。第2次
攻撃が終わった後、小沢中将は午前10時54分に旗艦を大淀に変更した。先の攻撃で被弾し
た千代田は午前11時15分に航行不能になり、これで小沢艦隊の空母で動けるのは2隻のみ
となった。
午後0時28分、伊勢の電探が米軍の編隊を探知した。午後1時06分、第38任務部隊の
第3群と第4群から発進した第3次攻撃隊240機が小沢艦隊への攻撃を開始した。この攻撃
で瑞鶴が左舷に5本、右舷に2本の魚雷が命中し、飛行甲板に直撃弾4発と至近弾が多数で大
破した。瑞鶴は総員退去の後、午後2時14分に沈没した。他に瑞鳳が魚雷2本と爆弾4発を
受けた。瑞鳳は午後2時32分にも攻撃を受け至近弾多数で航行不能になり午後3時26分に
沈没した。
この攻撃で小沢艦隊の空母は全滅したが、戦いはまだ終わらなかった。デュポーズ少将が指
揮する重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦9隻が北上してきたのである。漂流中だった千代田はこれ
に捕捉され午後4時47分に撃沈された。デュポーズ艦隊はさらに軽巡五十鈴と駆逐艦初月を
捉えた。その前に第4次攻撃が午後5時23分にあり、伊勢と日向、大淀に駆逐艦霜月が狙わ
れたが、至近弾だけでたいした被害はなかった。特に伊勢は至近弾を34発も受けながら直撃
弾は1発もなかったのである。伊勢の中瀬艦長の巧妙な回避運動には米軍も絶賛している。空
襲はこれで終わったが、米巡洋艦部隊に攻撃された初月は午後9時に沈没した。
初月と米艦隊の交戦を知った小沢中将は麾下に南下を命じた。だが、敵を発見することはで
きず午後11時45分、小沢中将は再び北上した。
小沢艦隊の戦いはこれで終わったが、小沢中将は満足していた。空母は全部失ったが敵を釣
り上げるという任務は達成した。彼は栗田艦隊がこの隙をついてレイテ湾に突入するだろうと
確信していた。米軍は小沢中将の指揮を賞賛している。彼は全滅必死の戦いで10隻も麾下の
艦艇を生還させているからである。それは米軍のミスに助けられたのが大きかったが、それで
も彼がねばり強く戦い抜き栗田艦隊にレイテ湾への突入の機会を与えたのは間違いないことで
ある。マリアナ沖海戦での不手際を思えば彼はよく戦ったといえるだろう。
さて、米空母部隊の攻撃を中止した栗田艦隊は午前11時20分に連合艦隊司令部にレイテ
湾突入を打電した。この時点で健在なのは戦艦大和、長門、金剛、榛名、重巡羽黒、利根、軽
巡矢矧、駆逐艦秋霜、岸波、沖波、島風、浜波、浦風、磯風、雪風の15隻で出撃時の半分以
下であった。それでも将兵の指揮は旺盛だった。レイテ湾では上陸部隊がパニックになってい
た。マッカーサー将軍はこの事態に何の手も出せなかった。彼の幕僚達は震え上がっている。
幕僚の一人ウイロビー情報部長は後に危険な情勢だったと回想している。
だが、戦局を大きく左右する電文が栗田艦隊に受信された。敵の空母部隊が北方100qの
地点にいるというのである。発信者はマニラの南西方面艦隊司令部だという。栗田艦隊の幕僚
達は意見を二分させた。レイテ湾に突入するか北上して敵空母部隊と決戦に挑むか。敵機動部
隊が小沢艦隊に誘引されたことを栗田艦隊はまだ知らなかった。彼等はこの敵艦隊をハルゼー
の高速機動部隊と誤認したのである。
悩んだ末、栗田中将は北上して敵艦隊と交戦することにした。このまま南下すれば午後3時
過ぎには輸送船団を攻撃圏内に捉えることができるが、米軍が上陸してから5日が経過してお
り湾内に獲物が残っている確証がなかったからである。午後0時26分、栗田中将は北上を命
じた。この瞬間、捷1号作戦は失敗に終わったのである。
その後、栗田艦隊は敵と接触しようと北を探索したが、発見することができず午後5時に探
索を諦めた。そして、5時半頃に小沢艦隊が敵機動部隊と交戦中だという2通の電報が届いた。
それを見た栗田中将は手が震えた。今更レイテ湾に戻るのは不可能である。無念の気持ちを残
して栗田艦隊はブルネイに引き返した。
【連合艦隊壊滅】
日本海軍は最後の決戦に敗れた。この海戦で日本海軍は戦艦3隻(武蔵、山城、扶桑)、空
母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳)、重巡6隻(愛宕、摩耶、鳥海、筑摩、鈴谷、最上)、
軽巡4隻(能代、阿武隈、多摩、鬼怒)、駆逐艦11隻(若葉、山雲、朝雲、満潮、野分、早
霜、藤波、初月、秋月、不知火、浦波)、潜水艦3隻(伊26、伊45、伊54)を失い、連
合艦隊は事実上壊滅した。それに対し、米軍は軽空母1隻(プリンストン)、護衛空母2隻
(ガンビアベイ、セントロー)、駆逐艦3隻(ジョンストン、ホエール、ロバーツ)を失った
だけであった。それでも1隻も撃沈できなかったマリアナ沖海戦よりはがんばったといえる。
もっとも、被害も比較にならないほど大きいが。
この戦いは戦争が絶望的だということを知らしめた。それをもっとも表しているのが神風特
攻である。この死を引き替えにした戦法はその後、日本軍の常套手段となっていく。日本海軍
はその後も戦い続けるが、取りうる戦術は特攻作戦しかなかった。レイテ沖海戦は日本海軍が
海軍らしく戦った最後の戦いとなったのである。
【もしレイテ湾に突入していたら】
戦後、栗田中将がレイテ湾に突入せずに引き返したことに批判が集中した。小沢艦隊や西村
艦隊は必死に戦ったのに栗田艦隊は指揮官の栗田中将が臆病で怖くなって逃げ出したというの
である。確かに、栗田中将はそれ以前に戦意を疑わせる事があったが、すべての失敗の元凶を
彼に押しつけるのはどうだとおもう。
栗田中将が最終的に判断を間違えたのは疲労が原因だといえる。出撃直後に旗艦を潜水艦に
撃沈され海に放り出され、シブヤン海では敵の空襲にさらされた。翌日、おもいがけず敵空母
と遭遇したが、思うように戦果が挙がらず逆に3隻の重巡が撃沈された。この間、栗田中将は
まったく休養を取っていない。疲労とストレスはかなりのものだっただろう。軍人だからとい
うなかれ。米軍のスプルーアンス提督は午後8時になるとどんなことがあっても寝室に入ると
いう。これは彼が怠け者だからではない。高度な判断を要求される指揮官はその判断を誤らな
いよう常に体力と精神力を保持していなければならないという彼流の考えからくるものだ。軍
人とはいえ人間である。オーバーワークになったときや集中力が散漫になったときに大きな判
断ミスを犯すのは有り得ることである。
確かに、作戦である以上、栗田中将にはレイテ湾突入を優先させる義務がある。だが、レイ
テ湾に突入したところで何が得られるというのだ。仮想戦記の小説ではオルデンドルフの戦艦
部隊と交戦してこれを撃破してレイテ湾に突入し、敵輸送船団を全滅させるとあるがそう都合
良く事が運ぶだろうか。オルデンドルフ艦隊と接触するまでに敵の空襲は繰り返されるだろう
し、よしんばレイテ湾に突入できたとしても湾内には数百隻の艦艇がいるのである。思う存分
暴れ回ったとしてもせいぜい数十隻を沈めるのが精一杯だろう。レイテ湾の敵を壊滅させるに
は水上部隊だけでなく基地航空隊や潜水艦部隊の攻撃も必要である。ところが、基地航空隊は
作戦前に壊滅してまともな戦力ではなかったし、潜水艦は戦車揚陸艦を大破させただけに過ぎ
なかった。要するに敵輸送船団の撃滅は最初から不可能だったのである。無駄死に終わるかも
しれないレイテ湾突入よりも敵機動部隊と刺し違えようとした栗田中将の判断は間違ってはい
なかった。彼の第2艦隊は戦前から艦隊決戦のみを想定して訓練を重ねてきた部隊である。そ
れをいくら戦局が逼迫しているからって輸送船と刺し違える作戦を納得してできるはずがなか
った。
連合艦隊司令部もそれがわかるからだろう。敵空母部隊と接触したらそれの撃破を優先させ
ても構わないという指示を出したのは。だが、それは連合艦隊司令部が作戦指揮を放棄したこ
とになる。作戦をどうしても成功させたければ不満がある者を更迭すべきだったし、状況によ
ってころころと変わるような作戦など最初から立てるべきではなかった。いい加減な作戦を実
行したところで失敗に終わるのは当然のことである。そんな作戦しか立てられなかったらどう
して終戦の道を模索しようとはしなかったのか。敗北を認めたくないというつまらない安っぽ
いプライドのために戦争を無駄に長引かせた軍上層部の責任は極めて重い。
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