破綻した邀撃構想に代わる新戦略
真珠湾空襲
-Raid on Pearl Harbor-


 
     【日本軍】
    機動部隊(南雲忠一中将)
    空襲部隊(南雲中将直率)
     第1航空戦隊(南雲中将)
      空母「赤城」「加賀」
     第2航空戦隊(山口多聞少将)
      空母「飛龍」「蒼龍」
     第5航空戦隊(原忠一少将)
      空母「瑞鶴」「翔鶴」
 
    支援部隊(三川軍一中将)
     第3戦隊(三川中将)
      戦艦「比叡」「霧島」
     第8戦隊(阿部弘毅少将)
      重巡「利根」「筑摩」
 
    警戒隊(大森仙太郎少将)
     第1水雷戦隊(大森仙太郎少将)
      軽巡「阿武隈」
      第17駆逐隊(杉浦嘉十大佐)
       谷風・浦風・浜風・磯風
      第18駆逐隊(宮坂義登大佐)
       不知火・霞・霰・陽炎
      駆逐艦 秋雲
 
    哨戒隊(今和泉喜次郎大佐)
     第2潜水隊 伊19・伊21・伊23
 
    補給部隊(大藤正直大佐)
     第1補給隊(大藤大佐)
      給油艦 極東丸・健洋丸・国洋丸・神国丸
     第2補給隊(新美和貴大佐)
      給油艦 東邦丸・東栄丸・日本丸
 
 
 
 
     真珠湾攻撃部隊編制表
     第1次攻撃隊第1波(淵田美津雄中佐)
      水平爆撃隊(淵田中佐)
       第1攻撃隊(淵田中佐)   赤城搭載の97式艦攻15機
       第2攻撃隊(橋口喬少佐)  加賀搭載の97式艦攻15機
       第3攻撃隊(阿部平次郎大尉)蒼龍搭載の97式艦攻10機
       第4攻撃隊(楠美正少佐)  飛龍搭載の97式艦攻10機
      雷撃隊(村田重治少佐)
       特第1攻撃隊(村田少佐)  赤城搭載の97式艦攻12機
       特第2攻撃隊(北島一良大尉)加賀搭載の97式艦攻12機
       特第3攻撃隊(長井彊大尉) 蒼龍搭載の97式艦攻8機
       特第4攻撃隊(松村平太大尉)飛龍搭載の97式艦攻8機
      降下爆撃隊(高橋赫一少佐)
       第15攻撃隊(高橋少佐)  翔鶴搭載の99式艦爆27機
       第16攻撃隊(坂本明大尉) 瑞鶴搭載の99式艦爆27機
      制空隊(板谷茂少佐)
       第1制空隊(板谷少佐)   赤城搭載の零式艦戦9機
       第2制空隊(志賀淑雄大尉) 加賀搭載の零式艦戦9機
       第3制空隊(菅波政治大尉) 蒼龍搭載の零式艦戦9機
       第4制空隊(岡嶋清熊大尉) 飛龍搭載の零式艦戦6機
       第5制空隊(佐藤正夫大尉) 翔鶴搭載の零式艦戦6機
       第6制空隊(兼子正大尉)  瑞鶴搭載の零式艦戦6機
 
     第1次攻撃隊第2波(嶋崎重和少佐)
      水平爆撃隊(嶋崎少佐)
       第5攻撃隊(市原辰雄大尉) 翔鶴搭載の97式艦攻27機
       第6攻撃隊(嶋崎少佐)   瑞鶴搭載の97式艦攻27機
      降下爆撃隊(江草隆繁少佐)
       第11攻撃隊(千早猛彦大尉)赤城搭載の99式艦爆18機
       第12攻撃隊(牧野三郎大尉)加賀搭載の99式艦爆27機
       第13攻撃隊(江草少佐)  蒼龍搭載の99式艦爆18機
       第14攻撃隊(小林道雄大尉)飛龍搭載の99式艦爆18機
      制空隊(進藤三郎大尉)
       第1制空隊(進藤大尉)   赤城搭載の零式艦戦9機
       第2制空隊(二階堂易大尉) 加賀搭載の零式艦戦9機
       第3制空隊(飯田房太大尉) 蒼龍搭載の零式艦戦9機
       第4制空隊(能野澄夫大尉) 飛龍搭載の零式艦戦9機
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     【米軍】
     真珠湾在泊艦艇(太平洋艦隊司令長官ハズバンド・エドワード・キンメル大将)
      戦艦 テネシー・オクラホマ・カリフォルニア・ウェストバージニア・アリゾナ
         メリーランド・ペンシルバニア・ネバダ
      重巡 ニューオーリンズ・サンフランシシコ
      軽巡 セントルイス・ヘレナ・フェニックス・ホノルル・ローリー・デトロイト
      駆逐艦 アレン・シュレイ・チュウ・ハルバート・ファラガット・デューウィ・
          ハル・マクドノー・ウォーデン・デイル・モナガン・エールウィン・
          セルフリッジ・フェルプス・カミングス・レイド・ケイス・コニンガム
          カッシン・ショウ・タッカー・ダウンズ・ブルー・ヘルム・ヘンリー
          ラルフ=タルボット・パターソン・マグフォード・ジャービス
      その他 48隻
 
 
 
 
【真珠湾奇襲作戦の策定】 【第1航空艦隊の誕生】 【技術的問題の克服】 【アメリカの状況】 【燃える真珠湾】 【最後に】
    【真珠湾奇襲作戦の策定】     1941年7月の日本による南部仏印進駐に対しアメリカは石油の全面禁輸で報復した。こ    れにイギリスとオランダも追随し、「対米戦も辞さず」と南部仏印進駐を強行した日本は本当    に対米戦を意識しなければならなくなった。ところが、日本はアメリカに勝つ自信が全くなか    ったのである。長年、対米戦を研究してきた海軍でさえ勝利の見通しが立たないという有様で    あった。     しかし、安易な妥協が国体の崩壊につながりかねない当時の日本の政体では勝つ負ける関係    なく戦争に打って出た方が不利な条件で中国と講和するか、対米開戦はしないが中国とも講和    しないというのにもまだマシであった。     戦争がほぼ不可避である以上、日本軍特に海軍は早急に対米戦略を練らなければならなかっ    た。だが、海軍が対米戦の基本戦略として研究してきた「漸減邀撃」構想は長年の度重なる研    究の結果、成功の見込みが全くないことが明らかになってきた。その破綻した戦略に代わる案    として山本五十六連合艦隊司令長官が提唱したのがアメリカ太平洋艦隊の拠点である真珠湾へ    の航空奇襲攻撃である。     山本長官が真珠湾奇襲作戦を採用する決心をしたのは1940年11月末だとされているが、    1928年の軽巡艦長時代に真珠湾への航空奇襲に関する講話を行っていたという記録がある。     だが、真珠湾奇襲作戦は軍令部の反対にあってしまう。軍令部が反対する理由は敵の勢力圏    のど真ん中に艦隊が単独で行動するのはあまりにも危険である、奇襲を成功させるにはギリギ    リまで敵に発見されないことが最低条件であるが都合良く発見されないという保障がない、真    珠湾の水深は浅く雷撃が不可能である、今回の戦争の第1目標は南方資源地帯の確保であるか    ら戦力はそこに集中するべきであるなどで、要するに危なすぎるというのだ。     長官は腹心の部下で奇襲作戦の具体的な案を立てた先任参謀の黒島亀人大佐を1941年4    月末に上京させ軍令部に初めて真珠湾奇襲作戦案を説明させたが、先述したように応対した伊    藤整一軍令部次長もかつての黒島大佐の上司だった(山本長官の元部下ということにもなる)    福留繁第1部長も富岡定俊第1課長も連合艦隊の作戦案に反対の意志を伝えた。     その後も山本長官は黒島大佐を派遣して軍令部を説得させるが、態度を翻意させることはで    きなかった。だが、それ以後から軍令部はハワイ作戦を検討する方に態度を変えた。連合艦隊    司令長官が強く要望する作戦を全面否定するのはさすがにまずいという判断があったからだが、    9月中旬に行われた図上演習の結果を見て空母を3隻まで使用することを認めた。     しかし、連合艦隊の要求はあくまで主力空母6隻全てを投入させた作戦の認可であり、山本    長官は10月19日にまたもや黒島大佐を派遣した。そのときのやりとりは次のようなもので    あった。      その日、黒島大佐と面会したのは福留少将と富岡大佐だった。     「連合艦隊としては絶対空母6隻の使用を認めていただきたいのです」      だが、二人はきっぱりと首を振った。     「すでに軍令部は7日に空母を4隻まで使用することを認めている。そこまで譲歩したの     だ。それ以上譲るつもりはない」      すると、黒島大佐は     「軍令部の意志はわかりました。しかし、当方も作戦を成功させるには空母6隻が是が非     でも必要だと確信しているからこそこうして出向いて来ているのです。本官は山本長官か     ら伝言を託されてきています。非常に重要なことなので伊藤次長にも話を聞いていただき     たい」      といって、伊藤少将との面会を求めた。福留少将と富岡大佐は黒島大佐を伴って伊藤少     将の部屋に入った。黒島大佐は空母が6隻でなければならない理由を詳細に述べ、さらに     山本長官から託された切り札を出した。     「山本長官はハワイ作戦を職を賭しても断行すると言っておられる。もしこの案が容れら     れなければ、皇国の防衛に責任が持てないと伝えよと言われた。その時には長官は職を辞     するので、我々全幕僚も辞職します」      それを聞いた伊藤少将は驚愕して「ちょっと待て」と言った後、永野修身軍令部総長の     部屋に入った。しばらくして永野総長が出てきてこう言った。     「山本長官がそれほどまでにこの作戦に自信があると言うのなら、総長として責任を持っ     てその通りにしましょう」      真珠湾奇襲作戦が正式に認可された瞬間であった。     いわば恫喝によって認可させたわけだが、戦時・平時における作戦計画で連合艦隊を指導し    ていかなければならない軍令部が、この山本長官の独走を制止しきれなかったことは日本海軍    の組織機能の欠陥を露呈するものであった。もっともこれは海軍だけではなく当時の日本の体    制そのものの欠陥でもある。     それと、軍令部が彼の要求を受けいれたのは恫喝に屈しただけでなく、彼の案に対抗できる    だけの作戦案を立てられなかったことも原因である。     まがりなりにも軍令部から作戦の認可を取り付けた山本長官だったが、彼の案に反対したの    は軍令部だけではなかった。作戦を実行する第1航空艦隊司令部も真珠湾奇襲作戦に反対した。     編制されたばかりの第1航空艦隊の司令長官は南雲忠一中将だが、彼は水雷畑の出身で1航    艦の司令長官に任命されるまで航空機の指揮を執った経験はなかった。不慣れな部隊の指揮だ    けでも大変なのに、リスクが非常に高い作戦の指揮を執らされるとあっては反対するのも無理    がなかった。     とはいっても軍令部への説得に比べると1航艦への説得は難しいことではなかった。なにし    ろ連合艦隊司令部は1航艦の上級司令部である。長官の意志が固いことを知った1航艦は作戦    の実施に同意した。10月3日のことである。     【第1航空艦隊の誕生】     真珠湾奇襲作戦の実行部隊である第1航空艦隊はどのような部隊であったか。日本海軍の航    空母艦は各艦隊に分散配備されていた。それが当時第1航空戦隊の司令官だった小沢治三郎少    将が1940年6月に「空母は集中して運用すべし」との構想を提唱したことにより、194    1年4月10日に編制されたのが第1航空艦隊である。     第1航空艦隊は空母2隻と護衛の駆逐艦数隻からなる航空戦隊5個で構成される。このこと    からわかるように1航艦には戦艦や巡洋艦が1隻も配備されていないのである。この時点では    空母は戦艦や重巡よりも低い位置づけがされていた。そのため今回の作戦にあたって1航艦は    よその艦隊から艦艇を借りてこなくてはならなかった。空母部隊が自前の護衛艦艇を持てるよ    うになるのはミッドウェー海戦後に第3艦隊として再編されてからである。     ともかく世界初の空母部隊として発足した第1航空艦隊だが、その初代長官に任命されたの    は提唱者の小沢中将ではなく航空戦とは無縁だった南雲中将だった。小沢中将よりも1期上と    いうことだけで任命されたのである。別に年功序列で玄人よりも素人に部隊指揮官を任せるこ    とに問題はない。アメリカでも空母戦の素人だったスプルーアンス少将に空母部隊の指揮を任    せたりしている。南雲中将も自分が素人であることを自覚し、専門家である源田実航空甲参謀    に全て委任している。源田中佐は真珠湾奇襲作戦の作成に関わった人物だからハワイ作戦に関    しては司令長官が南雲中将でも問題はないはずである。     しかし、南雲中将はハワイ作戦に消極的だった。要するに怖じ気づいたのである。彼は山本    長官の真意を理解できなかった。1航艦の総飛行隊長の淵田美津雄中佐は戦後南雲長官を「な    んともさえない長官だった」と回想している。     南雲中将のあまりの消極姿勢に連合艦隊の宇垣纏参謀長が更迭を進言したほどだが、1航艦    のミスキャストは司令官だけではなかった。司令官を補佐する参謀長も今回の作戦には不適当    な人物が任命された。参謀長に任命された草鹿龍之介少将は海兵41期、海大24期で参謀畑    の経歴の持ち主である。それも航空関係の参謀、参謀長でいわば専門家といえる人物であるが、    彼は子供の頃から修行した無刀流の剣道と長じて凝りだした禅の思想で「一撃離脱」の観念に    囚われていた。つまり、戦闘に勝って相手が敗走してもこれを追撃(十分に余力があっても)    せずさっさと引き返すことを美学としている人物なのだ。     消極的な司令官に一撃離脱の信奉者である参謀長。真珠湾奇襲作戦が中途半端な結果に終わ    ったのはこの人事が原因である。さらに二人とも最後までこの作戦の重要性を理解できなかっ    た。     この二人の上官に代わって機動部隊を切り盛りしたのが航空参謀の源田中佐である。1航艦    は空母部隊なので彼が先任参謀となる。源田中佐は海兵52期で生粋の飛行機屋である。海軍    航空隊の練度と技術と戦法の向上に尽力し、大尉に昇進してからは航空を海軍の主流にしてや    ろうという待望を抱いていたとされる。     そんな彼が1航艦の航空参謀に任命されたのは当然の事であるが、真珠湾奇襲作戦の策定に    携わった彼は作戦を成功に導くために過去の人脈を生かして最高の人材を集めた。1航艦が編    制されてから初めて設置された「総飛行隊長」に同期で親友の淵田中佐を起用したのを初め、    その部下の隊長クラスやさらにその下の一般搭乗員に他の部隊から引き抜いた名人クラスの技    量を持つ人材をあてた。引き抜かれた航空隊では源田中佐を恨んだほどであった。彼の人脈を    生かしての精鋭部隊の編制は大戦末期の第343航空隊の編制にも発揮される。     先述したように南雲中将は航空戦に関しては素人だったので、ほとんどの作戦指導を源田中    佐に任せっきりだった。口の悪い連中は1航艦を「源田艦隊」と呼んでいた。源田中佐も後に、    自分の意見が無条件に全て通ってしまうのはやりがいがある反面少し寂しかったと語っている。     【技術的問題の克服】     真珠湾を攻撃するにあたって技術的な問題をどう克服するか。山本長官が作戦を軍令部に認    めさせるためについた方便が日本が南方に侵攻するのを妨害するために出撃するであろう米太    平洋艦隊を機先を制して撃滅するというものであり、その第1目標は主力である戦艦部隊であ    る。     しかし、装甲の厚い戦艦を撃沈するには雷撃か大型爆弾による水平爆撃しかないのだが、真    珠湾の水深は14mにすぎず飛行機から投下された魚雷は海底に突き刺さってしまうし、水平    爆撃は急降下爆撃よりも威力はあるのだが命中率が低かった。     日本海軍はこの問題に新兵器でもって対処しようとした。従来の魚雷が真珠湾で使えないの    なら使える魚雷つまり14m以下の水深でも海底に突き刺さらずに敵艦に向かう魚雷を開発す    ればいいのである。そして海軍は1941年10月に91式航空魚雷改2通称“浅沈度魚雷”    の実用化に成功する。     もうひとつの水平爆撃の命中率の問題は猛訓練で解決を図った。その甲斐あって命中率は飛    躍的に向上した。さらに海軍は水平爆撃用の新兵器も用意した。それまで日本海軍には800    キロの爆弾がなかったのだが、長門級戦艦の主砲弾を改造した99式80番5号爆弾を開発し    た。この徹甲爆弾は高度2500mの上空から投下して15センチ以上ある戦艦の水平甲板を    貫通することができるのだが、基となった主砲弾は加工に難しく真珠湾奇襲に間に合ったのは    150発であった。     さて日本からハワイに向かう航路だが、当然誰にも発見される(中立国の船にも見つかって    はいけない)ことのない航路が選ばれるのだが、研究の結果冬季の北太平洋が選定された。こ    の時期の北太平洋は恒常的に天候不良で商船がほとんど利用することがないエリアである。奇    襲部隊はダッチハーバーとミッドウェーの哨戒圏の間隙を縫って東進し、攻撃前日に高速で南    下し真珠湾の200海里圏内に達することとされた。     だが、天候の不良は艦隊を発見されにくくしてくれる反面、洋上での補給を困難なものにし    ていた。短期決戦主義の日本海軍は洋上補給があまり得意ではなかったのだ。規則を無視して    大型艦の艦内に燃料がはいったドラム缶を積み込んだりしたが、軽巡や駆逐艦に対しては最低    でも1回は給油する必要があった。奇襲部隊は「縦曳法」という補給法を採用することにした。     「縦曳法」とは波の影響を抑えるために給油艦を前に置き、その航跡で比較的静かになった    海面に受給艦を入れて行うやり方であるが、この方法は時間が掛かるうえに速度も出せないの    で本来は作戦海面での給油には適さない。     この他に給油艦が使用できない状況があることも考え、大型艦から小型艦に補給ができるよ    うに特殊な給油装置やフェンダーの増設が実施された。こういった努力によって11月中には    補給に関する不安はほぼ解消された。     【アメリカの状況】     アメリカは第1次大戦後、仮想敵国ごとに色分けした作戦計画を立案していた。その中で対    日作戦計画は「オレンジプラン」と名付けられていた。やがて、日本と開戦するときはドイツ    とも戦わなければならないだろうという想定から「レインボー」計画が作成されたが、開戦直    前までの真珠湾の状況はどうだったのか。     真珠湾の基地能力の強化は1939年頃から着手されていたが、ルーズベルト大統領が太平    洋に配備されていた艦隊(当時はまだ太平洋艦隊は編制されていなかった)をサン・ディエゴ    から真珠湾に移したのは1940年5月である。日本に対する抑止力発揮のためで、これに反    対した太平洋艦隊司令長官リチャードソン大将は1941年に更迭されキンメル大将と交代し    た。     さて、アメリカでは1932年2月の演習で真珠湾に対する航空母艦2隻による奇襲攻撃を    シミュレートしたが、その結果は航空機の威力を痛感させられるものであった。さらに194    0年11月11日の英空母によるイタリア海軍の根拠地タラント軍港への夜襲では、旧式複葉    雷撃機21機という寡兵でもって戦艦3隻を撃沈するという大戦果を挙げていた。真珠湾に対    する日本空母部隊の航空奇襲は現実的な脅威として受け止められていた。     真珠湾が奇襲を受ける可能性はかなり高いとされており、ノックス海軍長官やスターク海軍    作戦部長(日本の軍令部総長に相当。陸軍は参謀本部と呼称するが海軍は軍令部もしくは作戦    部と呼称する)は何度かリチャードソン大将と後任のキンメル大将に警告を発している。勿論、    ハワイでも陸海軍の航空隊が航空奇襲に関する研究を始めており、空母部隊を使用した演習も    何回か実施されているし、1941年の3月から10月頃にかけて防御及び即応警戒態勢の強    化が推進されている。     しかし、以後のアメリカの警戒態勢は急速に緩められた。11月下旬には太平洋艦隊作戦参    謀のマクモリス大佐が防衛会議の席上で真珠湾に対する航空奇襲は有り得ないと断言している。    早くから奇襲の可能性を警告していた在ハワイ海軍基地航空隊司令官ベリンジャー少将と同陸    軍航空隊司令官マーチン少将も動きが鈍く、800海里圏で継続的な遠距離航空哨戒を実施す    る案も却下された。     これは現場だけのことではなく、「マジック」暗号情報を握っていたスターク大将もキンメ    ル大将就任の1ヶ月後には彼に真珠湾への攻撃の切迫を示す兆候は認められないと保証してい    る。キンメル大将はそれを鵜呑みにしているが、そのことが後に彼の運命を大きく変えること    になる。     なぜアメリカはあれだけ真珠湾奇襲の可能性を指摘していたにもかかわらず、攻撃直前の時    期になって警戒をやめてしまったのか。その理由としては日本の戦略分析の結果が挙げられる。    日本が開戦するとなればその目的はただ一つ、南方資源地帯の占領確保である。当然、空母を    含む日本艦隊はそこへ集中されるはずであり、こちらに向かう可能性は(少なくとも緒戦のう    ちは)極めて低い。日本でも軍令部が真珠湾奇襲作戦に反対した理由の一つが機動部隊は南方    作戦に使うべきだというものであり、軍令部の主張は作戦術上の常識だったといえる。     また、日本人にそんな芸当ができないという人種差別的憶測や真珠湾では雷撃が不可能とい    う確信も原因であった。彼等からすれば劣等人種の日本人が自分たちのよりも性能が優れる戦    闘機を開発したり、水深が浅い真珠湾でも攻撃が可能な魚雷を開発することは有り得ないこと    だったのである。     【燃える真珠湾】                          1941年11月17日 九州・佐伯湾       軍令部が真珠湾奇襲作戦を承認して1ヶ月近くが過ぎた。大分県の佐伯湾では空母      赤城以下奇襲部隊の大半が昨日から集結していた。配属されたばかりの新米水兵はい      つもと違う雰囲気に緊張していた。周りは彼の上官ばかりだが、写真屋に駆け込んで      遺影を撮影してもらっている者や遺書をしたためた者が結構いた。一番下っ端である      水兵は勿論下士官クラスの者もこれから何が起こるか全くわからなかった。それもそ      の筈で真珠湾奇襲作戦は最高度の軍事機密として秘匿が徹底されていて、作戦に参加      する第2航空戦隊の山口多聞司令ですら同期に連合艦隊司令部で勤務している者がい      る部下から教えられて初めて知った程である。その後10月になって1航艦の航空参      謀である源田中佐から各艦の士官搭乗員にハワイ作戦について説明がなされた。同じ      頃、空母赤城でも南雲司令長官から各戦隊の指揮官、幕僚、母艦艦長に作戦が説明さ      れた。その後、部隊は準備のため分散して横須賀や呉、佐世保などに赴き実行の日を      待ったのである。       午後になって1隻の戦艦が湾内に入った。連合艦隊旗艦の長門である。新米水兵は      雑用に追われて長門の接近に気づかなかった。同期の水兵が教えに来てくれた。      「おい、長門が来てるぞ」      「連合艦隊旗艦がか?」      「そうだ、司令長官が座乗しているらしい」       それを聞いて新米水兵はなぜ昨日から艦隊が動かないかわかった。わざわざ連合艦      隊司令長官が九州まで来たのは訓練の様子を視察するためではないだろう。恐らくこ      れから開始される大作戦の訓示を述べるために来たのだと新米水兵は推測した。       彼の推測は当たった。山本連合艦隊司令長官は赤城の飛行甲板に各戦隊司令部と全      飛行士官を集めこう訓示した。      「今次の行動は万一対米開戦の止むなきに至った場合、開戦劈頭、遠く真珠湾方面に      ある米国太平洋艦隊の主力に攻撃を加えんとするものであって諸士は充分心して、強      襲となることも覚悟し、不覚をとらぬよう心がければならぬ(一部省略)」       訓示を終えると山本長官は飛行隊長らの列に歩み寄り、淵田中佐と握手した。二人      は無言で向かい合っていたが、別れ際に淵田中佐は色気のある敬礼を見せたという。       それから各空母は最後の準備を整え翌18日早朝に佐伯湾を出港した。       佐伯湾の艦隊と前後して他の艦も移動を開始した。17日に佐世保から戦艦霧島と      空母加賀が、18日と20日に横須賀から戦艦比叡と伊19・21潜水艦が、19日      に大分から空母翔鶴と瑞鶴が千島列島の択捉島を目指して北上した。しかし、乗組員      には目的地がどこか知らされなかった。                                11月21日 太平洋海上       太平洋の海を北に向けて航行する赤城に柱島の長門から一通の暗号電文が飛び込ん      だ。文面には「フジサンノボレ」とあった。その意味は開戦がほぼ確実となったので      機動部隊は予定どおり23日までに択捉島の単冠湾に集結して、26日にハワイに向      けて出撃せよというものである。参謀の一人は電文を読んだ南雲司令が小さく「えら      いこと引き受けてしまったなぁ」と呟くのを耳にした。彼は聞こえなかったことにし      たが、南雲司令の不安は1航艦の司令部全員が抱いているものだった。       艦隊が集結地である単冠湾に入ったのは翌日の早朝だった。すでに湾では20日に      入港した海防艦国後によって人と船舶の出入りが禁止されていた。上空には水上機が      飛んでいたが、彼等も機動部隊の任務は知らなかった。ただ演習があるとしか聞かさ      れてなかったのである。周辺の住民も湾に近づかぬように言われていたが、大人の目      を盗み海を見に行った子供もいたようだ。普段、来ることのない連合艦隊の艦艇を見      て子供達は目を見張ったことだろう。艦隊が集結を完了したのは23日の朝である。      関係者は赤城に集まり、南雲司令から最後の訓示を受けた後、するめと勝ち栗で乾杯      して必勝を祈願し、最後の打ち合わせに没頭した。艦隊は26日、予定どおり単冠湾      を出港した。その翌日(現地時間では26日)、アメリカからハル・ノートが提出さ      れ日米開戦は不可避となってしまった。
単冠湾
                                      12月2日       山本長官は腕組みしながら瞑想していた。昨日開かれた御前会議で開戦が正式に決      定され永野総長から「大海令第9号」が発令されていた。それを受けて連合艦隊司令      部から麾下の各隊に「大海指第16号」が発令された。機動部隊にも命令は発信され      たが、彼等にはもう一つ命令電文を送らなければならなかった。      (ついに来たか・・・)       アメリカに滞在した経験がある山本長官はその底知れぬ国力を目の当たりにして、      日本は絶対勝てないと確信していた。それ以来、三国同盟締結など対米開戦につなが      りかねない事には一貫して反対し続けた。だが、彼の願いも空しく日米関係は悪化の      一途を辿り、とうとうこの日に至ったのである。軍人である以上、戦争となったから      には全力で戦い続けるしかない。彼は部下に命令を出した。      「機動部隊に暗号電文を打て」       電文は機動部隊に受信された。電文を持って担当士官が赤城艦橋に駆け込んだ。      「司令部より暗号電文です。読みます。発、連合艦隊司令部 宛、第1航空艦隊司令       部 本文、新高山登レ 一二〇八」       瞬間、一同に緊張が走った。だが、南雲司令と草鹿参謀長は落ち着いていた。      「とうとうこの日が来たか。こうなったからには絶対に作戦を成功させねばな」       最後まで消極的だった南雲司令もついに覚悟を決めたようだ。胸中は不安でいっぱ      いなのだが、彼も「サイレント・ネイビー」の精神を受け継ぐ海軍軍人である。やる      ときはやる男である。一同は決意を新たにするのだった。       一方、アメリカは暗号解読で日本が開戦を決意したことを察知していたが、大統領      はそれをハワイに伝えようとはしなかった。彼の思惑は日本に先に手を出させること      で欧州戦線に参戦する大義名分を手に入れることだった。もし、ハワイに警戒命令を      出してそれを日本に探知されたら彼等は攻撃を諦めてしまうだろう。大戦に参加する      にはどうしても日本の先制攻撃が必要なのである。それに大統領は太平洋艦隊ならば      警報を出さずとも日本艦隊を返り討ちにするだろうと期待していた。ハワイに来襲す      るであろう日本艦隊は主力部隊ではないはずだ。小規模の艦隊で何ができる。奴らは      欧米の真似しかできない黄色い猿じゃないか。恐れるにたりない。この時まだ大統領      は知らなかったこれから来る猿がキングコングであることを。                                  12月7日(現地時間)       機動部隊はすでにハワイの哨戒圏内に入っていた。南雲司令は攻撃隊の発進準備が      完了したとの報告を受けると源田航空参謀にこう言った。      「とにかくここまで艦隊を引っ張ってきた。後は飛行機の仕事だ。航空参謀頼んだぞ」       源田参謀は胸を張って答えた。      「飛行機なら大丈夫です。淵田ならやってくれます」       今回の奇襲作戦の立案に関与していた源田参謀も単冠湾を出港してから世紀の大作      戦に不安を抑えきれず長官室の近くにある「赤城神社」に毎日のように作戦の成功を      祈願していた。最初のうちは作戦の成功のみを祈っていたが、日が経つにつれ「私の      どうなってもかまいませんから」と悲観的になっていきとうとう攻撃前日には「私を      殺してでも成功させてください」となっていた。       しかし、ここまで来ると源田参謀は作戦の成功を確信していた。ここに来るまで誰      にも発見されたことはなかった。これはまさしく天佑神助である。       源田参謀は艦橋から飛行甲板に並ぶ飛行機を見下ろした。すでに搭乗員はそれぞれ      の乗機に乗って発進命令を待っていた。南雲司令は静かに命じた。      「第1次攻撃隊、発進せよ」       午前5時55分、淵田中佐指揮する攻撃隊は風速15mで艦が最大15度傾斜して      いる状態でも1機も失敗することなく発艦した。通常、傾きが10度を超えると発艦      は無理とされている。それを1機も失敗せずに発艦したことは日本の搭乗員の技量が      それだけ優れているという証明だった。       レーダーの開発が遅れていた日本と違ってアメリカではすでにレーダーを実用化し      ていた。無論、真珠湾にもレーダーは設置されている。そのレーダーが飛来する日本      の攻撃隊を探知したのは午前7時02分だった。      「おい、なにかこっちに向かってきているぞ」       レーダー画面の異常に気づいた1等兵がもう一人の1等兵の肩を揺さぶって画面を      指さした。画面はいままで見たことのない多数の斑点が北からハワイに向かってきて      いるのを映し出していた。      「なんだ、これは・・・?」      「とにかく急いで知らせるんだ」       二人はただちにフォートシャフターの陸軍防空指揮所に電話で報告した。しかし、       当直将校のタイラー中尉は      「ああ、それは多分本土から来るB17だ。心配するな」       と言って、相手にしなかった。こうしてアメリカが攻撃前に敵を探知する最後の機      会が失われた。      (どうやら奇襲になりそうだな)       カフク岬を通過したところで淵田中佐は奇襲攻撃であることを知らせる信号弾を発      射した。だが、制空隊がこれに気づかず淵田中佐は再度信号弾を発射した。攻撃隊は      それぞれの攻撃に適した高度を取り出した。攻撃隊はオアフ島の西岸伝いで真珠湾の      南から突入する淵田中佐指揮の水平爆撃隊と、それよりも内回りのコースで進入する      他の攻撃隊に分かれた。      「こりゃすげえ」       真珠湾の上空に達した淵田中佐は眼下に広がる光景に息を呑んだ。眼下の海では大      小の艦艇が模型のように浮かんでいた。午前7時49分、淵田中佐は通信士に命じた。      「水木一飛曹、総飛行機宛て発信、全軍突撃せよ」       水木徳信1等飛行兵曹は電鍵で全軍突撃略符号を叩いた。有名な「ト連送」である。       攻撃隊はそれぞれ突撃を開始した。まだ、敵艦隊に動きはない。午前7時53分、       淵田中佐は再度指示を出した。      「艦隊宛て発信、我れ奇襲に成功せり」       水木通信士は力を込めて「トラ連送」を発信した。       トラ連送を受信した機動部隊司令部では全員が歓声をあげていた。南雲司令もほっ      と胸をなで下ろした。草鹿参謀長や源田航空参謀の顔も喜びで表情が緩んでいた。       一方、柱島泊地の戦艦長門でもトラ連送は受信され連合艦隊司令部の面々も安堵と      歓声がはじけていた。だが、その中でただ一人山本長官だけは沈痛な顔を変えなかっ      た。       第1次攻撃隊が真珠湾に迫ろうとしていた時間、太平洋艦隊のキンメル提督は朝食      を取っていた。日本軍がすぐそこまで迫っているなど夢想だにしない提督は今日が日      曜日だということもあって気が緩んでいた。日本との戦争が近いことを知らされてい      る彼はいまのうちにリラックスしようと考えていた。今日は陸軍のショート中将とゴ      ルフの予定がある。そこへ、当番兵が駆け込んできた。      「あっ、すいません。御食事中でしたか」      「いや、いま終わったところだ。それより何かね?」      「はっ、はい、第14海軍区司令部から小型の潜水艇を撃沈したとの報告がありまし       た」       途端、提督の顔が変わった。      「なんだとっ、何時だ?」      「14区司令部に報告があったのは午前6時51分だそうです」       提督は声を失った。なんてことだ。50分も前の事じゃないか。      「なぜ、もっと早く報告をよこさなかった!すぐに司令部に向かうぞ。全軍に警戒命      令を出せ」       畜生、ゴルフの予定がパーだ。提督は内心毒づきながらも司令部へ急いだ。だが、      すでに日本の攻撃隊は真珠湾に進入していた。       日本機が真珠湾に進入したのを見つけても米兵達はそれが日本であるとは思わなか      った。      「ロシアの空母が訪問に来たんだ」       などと話し合って警戒態勢を取ろうとはしなかった。直後、飛行機が魚雷を投下し      た。      「なっ なに!?」       瞬間、水柱が上がると兵士達はパニックになった。      「なっなんだ、どこの雷撃機だ」      「ジャップだ。ジャップの飛行機だ。翼に赤いミートボールがマーキングされている。      あれはジャップの飛行機だ!」      「ジャップがここまで来れるわけないだろ!きっとヒトラーの空軍が手を貸してやが      るんだ!」       兵士達は混乱しながらも持ち場に走った。スピーカーからは「これは演習ではあり      ません」と何度も繰り返し流れていた。      「馬鹿野郎、見たらわかる!」       スピーカーの音声に毒づいた戦闘機パイロットは自分の愛機の元へ急いだ。だが、      すでに飛行場は日本機の攻撃にさらされていた。何機もの戦闘機が飛び立つ前に撃破      されていった。パイロットは愛機を探した。幸い、まだ無事のようだ。が、次の瞬間、      彼の目の前で愛機は機銃掃射で無残な姿となった。愛機の哀れな姿に彼は激高して我      を忘れた。      「畜生!よくも俺の機体をやってくれたな!降りてこい猿ども!ぶっ殺してやる!!」       彼は腕を振り回しながら喚いた。そこへ同僚があわてて彼を捕まえた。      「なにやってるんだマイク!早く避難するんだ」       同僚はパイロットを無理矢理引っ張っていった。        攻撃隊で最初に攻撃を開始したのは急降下爆撃隊で午前7時55分、ホイラー飛       行場とヒッカム飛行場、フォード島を空爆した。米軍機も迎撃に飛び立ったが制空       隊の零戦に撃墜された。他の機体は飛び立つ間もなく地上で撃破された。続いて、       午前7時57分、雷撃隊が雷撃位置についた。        戦艦オクラホマの乗組員は呆然と日本の雷撃機(米海軍に艦上攻撃機はない。艦       攻に相当する機種は雷撃機に分類される)を見ていた。奴ら、何しようとしてるん       だ?真珠湾は雷撃が不可能だってぐらいわかってるだろうに。次の瞬間、彼は信じ       られない光景を目にした。敵機が投下した魚雷は海底に突き刺さるどころかこっち       に向かってきた。その数5本。乗組員は声にならない悲鳴を上げた。魚雷はオクラ       ホマの船体に突き刺さり、巨体を大きく揺さぶった。オクラホマは大きく傾斜し、       乗組員は海に投げ出された。そこへ敵機の後部機銃員が機銃掃射を浴びせた。乗組       員は慌てて海に潜ったが、何人かは敵弾に倒れ海に漂った。魚雷はウエスト・バー       ジニアとアリゾナ、ネバダ、カリフォルニアにも命中した。        雷撃が終了すると水平爆撃隊が午前8時04分に攻撃を開始した。淵田隊長機は       鮮やかな操縦でメリーランドに800s爆弾を命中させた。つづいて、他の1機が       もう1発命中させた。黒煙を上げるメリーランドを見て操縦士の松崎三男大尉と水       木通信士は歓声をあげた。水平爆撃隊はテネシーにも爆弾を命中させたが、もっと       も被害を受けたのは先程魚雷を喰らって船体に大きな穴を開けられたアリゾナであ       る。アリゾナには4発が命中して甲板にいた数百人を吹き飛ばし、艦橋の提督と艦       長を即死させた。さらに二番砲塔の横に命中した1発が甲板を貫き、前部弾薬庫に       引火した。アリゾナは大爆発を起こし、高さ150mの巨大な火柱があがった。ア       リゾナは真っ二つに裂けて沈んだ。さらにアリゾナから流れた重油が湾に流出し、       脱出しようと海を泳いでいた兵士達を焼死させた。また、艦内に閉じこめられた1       000人以上の水兵も水死した。彼等は現在もアリゾナとともに海に眠っている。        目の前の惨劇にキンメル提督は愕然となった。沈みゆく戦艦、敵の攻撃に逃げま       どう兵士達、あっちこっちで舞いあがる黒煙、提督はこれが悪い夢であることを願       った。しかし、非常に残念だがこれは現実である。敵の攻撃は止みつつあるが、お       そらく第2波が来るはずだ。太平洋艦隊の損害がどのくらいになるかは想像もつか       ないが、ただ一つ確実なことがある。それは自分のキャリアがこれで終わりだとい       うことだ。むざむざと敵の奇襲を許し、1日で太平洋艦隊を壊滅させられた提督を       作戦部は許さないだろう。       (あの時、ニミッツと同じように辞退しておけば・・・)        提督は太平洋艦隊の司令長官に任命されたときのことを思い出していた。前任者       のリチャードソン大将が大統領の逆鱗に触れ解任されたとき、彼の後任に名が挙が       ったのは親友のチェスター・W・ニミッツ少将だった。しかし、ニミッツ少将は5       0人以上の先輩を飛び越して司令長官の地位につくことを躊躇した。いらぬ恨みや       妬みをかうだけだと判断したのだ。そして、ニミッツ少将の代役として白羽の矢を       立てられたのがキンメル少将である。後にキンメル提督の後任となったニミッツ少       将はこう述懐している。あの時、自分が司令長官になっていたらキンメルと同じ立       場に追い込まれていただろうと。        キンメル提督が予想したどおり第1波が帰途についた午前8時50分頃、日本軍       の第2波がオアフ島に到着した。第2波は午前9時02分に攻撃を開始した。第2       波急降下爆撃隊々長の江草少佐は外海に出ようとしている戦艦ネバダを発見した。       「おい、あれをやるぞ。あれを沈めたら真珠湾は封鎖される」        そういうと江草少佐は僚機に攻撃命令を出した。99式艦爆はネバダ目がけてダ       イブし250s爆弾を投下した。ネバダの艦長は撃沈され湾口が塞がれるのをふせ       ぐため艦を海岸に乗り上げさせた。急降下爆撃隊は他にドックにいた戦艦ペンシル       バニアも攻撃して損傷させた。水平爆撃隊と制空隊は飛行場を攻撃して日本軍の攻       撃は終わった。        淵田中佐が赤城に帰還したのは午後1時だった。彼は出迎えた整備員に尋ねた。       「第2次攻撃の準備はどうなってるんや?」       「それが南雲司令は第2次攻撃は行わないと言っているそうです」       「なに考えとるんや、あの司令官は」       「源田参謀が何度も意見具申しているそうですが」        ここにいても仕方がないと思ったのか、淵田中佐は艦橋に上がることにした。長       官へ戦果報告もしなければならない。        艦橋では源田参謀が南雲司令に意見していた。       「長官、第2次攻撃を行うべきです。この機に真珠湾を徹底的に叩いておけば後の       戦局も優位になります」        だが、南雲司令は首を横に振った。       「いや、ここは退くべきだ。もう十分敵は叩いた。これ以上留まるとB17の空襲       もあり得る」       「本官もそう思います。空母が無傷なうちに引き上げるべきです」        草鹿参謀長も南雲司令に同調した。源田参謀はなおもなにか言おうとしたが、そ       こへ淵田中佐が現れた。       「ご苦労。戦果はどうか?」       「戦艦部隊はほぼ壊滅しました。しかし、巡洋艦と基地施設はまだ無傷であります。       第2次攻撃の必要があると思います」        それに対し、南雲司令は何も言わなかった。ただ、労いの言葉をかけただけだっ       た。淵田中佐は司令が臆病風に吹かれたと思った。       (しっかりしてくれよ長官、俺達は戦争しに来てるんやで)        そこへ参謀の一人が声をあげた。       「2航戦司令より発光信号。『我、第2次攻撃の準備完了せり』」        それを聞いて淵田中佐は思った。       (くそっ、山口少将が司令長官だったら良かったのに)        第2航空戦隊の山口司令は航空戦にも精通した闘志あふれる人物である。真珠湾       奇襲作戦から彼の2航戦がはずされそうになったとき、南雲司令の首をしめてまで       作戦への参加を強く迫った話は有名である。しかし、南雲司令の指示は変わらなか       った。山口司令もそれ以上何もしなかった。発光信号を挙げるとき彼は部下にこう       もらした。       「南雲さんはやらないよ」        その頃、連合艦隊司令部でも参謀達が第2次攻撃を行うべきだと騒いでいた。       「長官、南雲に督促電を打ちましょう。彼は臆病風に吹かれてます。戦果を拡大す       べき時に、しかもそれが十分に達成できる状況でありながらそれをしないで引き上       げることは海軍軍人として失格です」        だが、山本長官は首を振ってこう言った。       「南雲はやらないよ。やる奴は言われんでもやるさ」                              1942年5月28日 真珠湾        空母エンタープライズは出港準備を終え、ミッドウェーへ出撃しようとしていた。       エンタープライズの艦長は艦内マイクで全乗組員に呼びかけた。       「こちら艦長。これより司令官から訓示がある」        艦長はマイクを司令官であるスプルーアンス少将に手渡した。       「こちら司令官。皆よく聞け。艦隊はこれよりミッドウェーへ出撃する。日本の侵       攻部隊を撃滅するためだ。諸君も知っての通り、現在わが軍は敵に劣勢を強いられ       ている。だが、諸君が100%いや120%の力を発揮すれば必ずや敵を殲滅する       ことができるだろう。訓練の成果を出し切れ。パールハーバーを忘れるな!」        艦内から歓声が溢れた。スプルーアンス少将は満足した顔で頷いた。       「士気は旺盛のようだな。これが敵との接触まで持ってくれればいいんだが」        艦長が答えた。       「本官がそれを保証しますよ。皆、パールの復讐に燃えています。彼等ならやって       くれます」        一瞬、間をおいた。       「いま夏ですからな。猿どもをまとめて海水浴に招待してやりますよ」        スプルーアンスは再び頷いた。本来、この部隊はハルゼー中将が指揮を執る筈で       あった。しかし、中将が皮膚病の悪化で入院を余儀なくされたので彼に代役がまわ       ってきたのだ。彼は自分を推薦したのがハルゼー中将であることを知っていた。空       母の指揮を執ったことなど一度もなかったのだが、ハルゼー中将は彼の冷静な判断       力を高く評価していた。常に慎重でかと思えばここぞいうときは果敢に行動する。       ハルゼー中将は部下の資質をよく見抜いていた。       (必ずハルゼー中将の期待に応えてみせる。待ってろ、ナグモ!)       スプルーアンス少将は静かに闘志を燃やした。          真珠湾の損害        戦艦ネバダ    命中弾 魚雷1発、250s爆弾6発以上 座礁          オクラホマ  命中弾 魚雷5本 800s爆弾     転覆          アリゾナ   命中弾 魚雷5本 800s爆弾4発   沈没          テネシー   命中弾 800s爆弾2発うち1発は不発 損傷          カリフォルニア命中弾 魚雷3本 800s爆弾1発   着底          メリーランド 命中弾 800s爆弾1発 250s爆弾 損傷軽微          ペンシルバニア命中弾 250s爆弾1発        損傷軽微        ウエストバージニア命中弾 魚雷6本 爆弾2発       着底         その他 標的艦ユタ、機雷敷設艦オグラーラ沈没 軽巡ローリー、駆逐艦             カッシン・ダウンズ・ショー大破 水上機母艦カーチス中破             軽巡ヘレナ小破 他             航空機喪失231機             戦死・行方不明2401名 負傷者1382名         日本軍の損害 航空機喪失29機 戦死者54名                特殊潜航艇5隻未帰還 乗組員は捕虜になった1名を除き                9名全員戦死     【最後に】     南雲機動部隊は空前の大戦果を挙げた。だが、後世識者の多くが真珠湾は失敗だったと評価    している。まず、第2次攻撃を行わなかったこと。もし、真珠湾の基地施設を破壊すれば損傷    した戦艦も修理することができなかったはずだ。さらに重油タンクも破壊すれば太平洋艦隊を    半年は行動不能にすることができるし、漏れだした重油が湾に流れ出して引火すれば真珠湾全     体を火の海にすることができる。     だが、それ以上に致命的だったのが宣戦布告が遅れてしまったことだ。予定では攻撃時間の    30分前、ワシントン時間で12月7日午後1時にアメリカ政府に宣戦布告の文書を提出する    はずだった。だが、大使館の怠慢により実際に覚書が提出されたのは午後2時20分であった。    これがアメリカ国民に卑劣な攻撃として受けいれられその戦意を燃え上がらせたのだ。     宣戦布告が遅れたのは南雲司令の責任ではないが、第2次攻撃を行わなかったのは彼の失敗    である。だが、南雲中将を弁護するとすれば最大の失敗原因は山本長官の説明不足だった。彼    は南雲司令に自分がどれだけこの作戦に賭けているか、どれだけこの作戦が重要か熱心に伝え    ようとはしなかった。南雲中将だけではない。軍令部への説得も黒島大佐に任せてしまってい    る。その黒島大佐に対しても山本長官は当初、作戦を打ち明けてはいなかった。腹心である黒    島大佐にさえ言わないほど彼は説明嫌いだった。それが、軍令部と1航艦司令部に彼の熱意と    作戦の重要性を疑わせる結果となったのだ。     だが、彼は孤独だった。ある時、山本長官は参謀達にこういったことがある。    「君たちに同じ質問をすると皆が皆同じ答えを返してくる。黒島だけじゃないか。意見が違う    のは」     10人もいれば一人ぐらい意見が違う奴が出てもおかしくはないはずだ。それなのに全員が    同じ答えを返してくるということは、考えることを放棄しているということだ。先輩達が研究    して練り上げたプランを忠実に実行することしか頭になかった。内心では実現が不可能だと悟    っていながらそれを認める勇気がなく、漸減邀撃構想に尚も固執する。山本長官はそういう弊    害を打破しようとあえて長官辞任という強攻策にも出たのだ。しかし、ついに彼の真意が伝わ    ることはなく南方の空に散ったのである。     さて、ここで漸減邀撃構想について説明する。この構想は日本海海戦を戦訓に考案された。    つまり、敵の艦隊を日本の近海で撃滅しようというものだ。しかし、この頃は来航する敵艦隊    (アメリカ艦隊)を小笠原近海で撃破する程度のことしか考えられていなかった。それが19    21年のワシントン海軍軍縮条約で一変する。日本海軍は邀撃作戦を成功させるには最低でも    敵の7割の戦力が必要であると考えていた。それが軍縮条約で6割に抑え込まれてしまったの    だ。     そこで日本海軍は主力艦部隊の決戦の前に補助戦力で敵戦艦の数を減らしてしまおうと考え    た。補助戦力とは潜水艦・駆逐艦・巡洋艦・空母(及び陸上航空)でそれらが段階的に敵戦力    を漸減させていき、敵の戦艦戦力が味方のそれの3割増し程度になったら決戦を挑み雌雄を決    するというのが漸減邀撃構想だ。構想は何回も練り直され、決戦想定海域も日本近海からマリ    アナ近海、最終的にはマーシャル諸島海域に移動している。     以上、簡単だが漸減邀撃構想について説明してみた。ではなぜこの構想が破綻してしまった    のか。それは戦略状況の変化にある。漸減邀撃構想での敵国はアメリカ1国だが、現実に戦争    という状況になると敵はアメリカだけでなくイギリスやオランダとも戦わなければならなくな    り、ただでさえ劣勢な戦力をそちらに回さなくてはならなくなった。     また、そういった状況の変化がなくても漸減邀撃構想は成功の見込みがなかった。なぜかと    いうと、まず邀撃構想は敵の進路をミクロネシアと想定しているが、敵が必ずそこに侵攻する    とは限らない。進攻路の決定権は常に攻撃側が掌握しているのだ。また、敵を漸減するといっ    ても潜水艦の攻撃はまず成功しない。攻撃どころか追尾するので精一杯なのである。これは演    習の際に現場の潜水艦から「敵艦隊への攻撃は無理」と報告していることでも明かである。巡    洋艦や駆逐艦の水雷戦力にしても、駆逐艦はともかく巡洋艦は敵巡洋艦よりも性能が劣ってい    た。そのうえ、敵は味方よりも数が多い。この不利を補うために金剛級戦艦の投入を検討した    り、重巡を超える超甲巡の建造を計画したりするのだが、アメリカもまたそれに対抗した建造    プランを立てていた。     よしんば、敵戦力の漸減に成功したとしても戦艦同士の決戦が発生する可能性は低い。敵の    指揮官が後退を決断するかもしれないからだ。戦艦を撃滅できなければ邀撃作戦は失敗である。    後は史実どおり長期持久戦の末、敗北の道を辿るしかない。     また、元も子もないが邀撃構想は何度も図上演習を繰り返しても良い結果を出さなかった。    仮に決戦に勝利しても、それが戦争の勝利には繋がらず決戦から1年半後には彼我の戦力差は    (造艦能力の差により)2倍となってしまっているという研究結果もある。アメリカに勝つに    はアメリカ国民の戦意を挫くしかない。その意味で山本長官が真珠湾への攻撃を主張したのは    正しかった。     最後に作戦に参加した艦と指揮官のその後を解説する。主役となった空母6隻のうち、赤城    ・加賀・蒼龍・飛龍はミッドウェー海戦で沈没、残った2隻も翔鶴がマリアナ沖海戦で瑞鶴が    エンガノ岬沖海戦で沈没した。その他の艦艇も戦艦2隻がともに第3次ソロモン海戦で沈没、    重巡利根は終戦直前の呉空襲で大破着底し、筑摩はサマール沖海戦で沈没した。軽巡阿武隈も    敵の空爆で撃沈された。戦艦を除く軍艦全てが空襲で撃沈されているのだ。これは強烈な皮肉    である。駆逐艦も終戦まで生き残ったのは1隻もない。     指揮官も南雲司令がサイパン戦で玉砕、山口司令もミッドウェー海戦で戦死した。山本長官    も前線に視察に向かう途中、敵機の攻撃で帰らぬ人となった。開戦前、彼は当時の近衛首相か    ら対米戦についての見通しを聞かれこう答えている。    「そりゃ、やれとおっしゃれば1、2年は存分に暴れてごらんにいれる。しかし、3年、4年    となるとまったく自信が持てぬ」     彼の言葉どおり、開戦から2年近く経過した「ろ号作戦」で日本海軍は実質的な攻撃力を喪    失した。海軍で戦争をもっともよく理解していたのは山本長官ではないだろうか。長官が戦死    したと聞いたある指揮官はこう嘆いている。    「我々は一人の偉大なる指揮官を失ったというよりも、この戦争を終わらせることができるた    だ一人の人物を失ってしまった」
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