祖国の空を守り抜いた“救国の英雄”
SPITFIRE
全長9.1m 全幅11.2m 全高3.5m 翼面積22.5u
動力 ロールスロイス・マーリンV(XU)液冷エンジン1基
出力1150hp 最大速度 高度5200mで時速575km
航続距離760km 上昇力 高度6100mまで7分
実用上昇限度11300m 重量 通常3t
武装7.7o機銃×8(UA)又は20o機銃×2+7.7o機銃
×4(UB)
※データーはMk−U。画像はMk−]W
1940年9月15日、ドイツ第3帝国のヒトラー総統は英国本土侵攻作戦の延期を決定し
た。それは7月10日から始まったバトル・オブ・ブリテンと呼ばれる一連の航空戦が終結し
た瞬間であった。1066年に征服王ウィリアムに支配されて以来、一度も外敵の侵略を許さ
なかったイギリスがむかえた最大の危機。しかし、それにちょうど間に合うかのようにイギリ
ス空軍の主力となった2種類の戦闘機があった。ホーカー・ハリケーンとスーパーマリン・ス
ピットファイアである。
スピットファイアの原型となったのはS6Bというレーサー機であった。第1次世界大戦が
勃発する3年前の1911年から揺籃期の飛行機の発達を促進するためシュナイダー・トロフィ
ー・レースという水上機による速度競争が開催されていた。この大会の規約で3回連続優勝し
た国がトロフィーの永久保持権を得ることになっていたため各国は国威発揚のため鎬を削った。
S6Bはそのシュナイダー・トロフィー・レースに出場するために開発されたS6の改良型で
ある。
S6を設計したのは※スーパーマリン社のレジナルド・J・ミッチェルという設計者である。
彼が設計したS5とS6はそれぞれ1927年と1929年のレースに見事優勝し、イギリス
はトロフィーの永久保持に王手をかけた。しかし、世界的な大不況と軍事費の削減のためイギ
リスはレース出場の見送りを検討することになってしまった。そこへヒューストン夫人という
富豪婦人が国の栄光のためにと10万ポンドという大金を寄付した。これによってイギリスは
1931年のレースに出場することができた。しかし、新規のレーサー機を開発する余裕がな
かったため既存のS6を改良したS6Bが出場することになった。
1931年9月13日、イタリアとフランスが出場を断念したためイギリス1ヶ国だけのレ
ースとなったが、S6Bは時速547qで周回コースを飛び切り航空史に残るシュナイダー・
トロフィー・レースに決着をつけた。
※スーパーマリン社は1928年、ヴィッカース社の航空部門に買収された。
S6Bがレースに優勝した同じ年、イギリス航空省は各メーカーに新型戦闘機の要求仕様F
7/30を提示した。それを受けてスーパーマリン社は戦闘機開発の経験はなかった(同社は
主に飛行艇や水上機を造っていた)が、S4からはじまる高速機の経験を生かす機会と見て、
ミッチェルが設計したタイプ224でF7/30に応えた。タイプ224は単葉で高性能が見
込めることから空軍から試作機の発注を受けることができた。
だが、1934年に初飛行したタイプ224のテスト結果は満足できるものではなかった。
速度は期待された数値を出せず、エンジンは故障続き、おまけに離着陸距離も長すぎた。エン
ジンの不調はミッチェルの責任ではなかったが、総合的な性能不足は彼の責任である。タイプ
224は不採用となったが、ミッチェルはそれを予見しておりタイプ224の改良案を考え始
めた。
一方、他のメーカーの試作機も不採用となりイギリス空軍は複葉のグロスター・グラジエー
ターを採用することにした。グラジエーターは当時イギリス空軍の主力戦闘機だったゴーント
レットの発展型である。グラジエーターが部隊配備された1937年頃の他国の戦闘機はドイ
ツのメッサーシュミットBf109、アメリカ陸軍のカーチスP−36ホーク、日本海軍の9
6式艦戦、同陸軍の97式戦闘機、フランスのモラン・ソルニエMS406、オランダのフォ
ッカーD.21といずれも単葉であり、性能的にもグラジエーターを凌駕していた。幸いすぐ
にホーカー・ハリケーンが採用されたが、それでも1940年まで生産が続けられており、イ
ギリス空軍の無策ぶりを如実に示しているといえよう。
ちなみにスーパーマリン社はタイプ224に「スピットファイア」という名称を与えるよう
航空省に要請したが試作段階だったため却下された。
グロスター・グラジエーター ホーカー・ハリケーン
タイプ224の失敗を踏まえ、ミッチェルは新たなる戦闘機の設計案を考案した。この新戦
闘機はロールスロイス社の仮称PV12エンジンを搭載し、主翼は楕円翼が採用された。さら
に機体は全金属製で主翼は応力外皮構造、胴体はセミ・モノコック構造とされた。
航空省が新たなる新型戦闘機の発注を行わなかったために自社資金で進められた新型戦闘機
の構想だったが、1934年12月に航空省がその設計案タイプ300を基に仕様F37/3
4を作成し、翌年に試作機の制作が発注されるとタイプ300は1935年5月に空軍のモッ
クアップ審査を受けた後、K5054というシリアルナンバーが与えられた。
K5054は1936年3月5日、サザンプトンのイーストリー飛行場で初飛行に挑んだ。
結果、改良点や修正点はあったがいずれも対処可能な範囲であった。K5054には「スピッ
トファイア」の名称が付けられた。「喧嘩っ早い女」という意味だそうだが、それを聞いたミ
ッチェルは「何ともつまらない名前をつけたものだな」とつぶやいたという。
スピットファイアは6月27日のヘンドン基地(現・イギリス空軍博物館)での航空ショー
で初めて一般に公開され、その6日後に空軍から310機の大量発注を受けた。迫り来る戦争
の脅威に対処するためイギリスでも単葉引き込み脚の戦闘機の導入が急がれていた。スピット
ファイアはそれに間に合ったのだが、進歩的なこの戦闘機の製造をこなせる下請けメーカーが
少なく、量産体制の立ち上がりは大きく遅れた。スピットファイアMk−Tの引き渡しが始ま
ったのは1938年6月であった。その間、設計者であるレジナルド・J・ミッチェルは激務
のためか以前病んでいた癌が再発して1937年6月11日に42歳で息を引き取った。
大戦が始まると、スピットファイアはバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなどイギリスの
主力として様々な戦場で活躍した。空軍の任務が本土防空からドイツ本土爆撃に移行すると航
続距離の短いスピットファイアに出番がなくデハビランド・モスキートやノースアメリカン・
P51ムスタングに任務を譲っている。しかし、スピットファイアはMk−]Wからエンジン
を「マーリン」から同じくロールスロイス社製の「グリフォン」に換装するなど性能の向上に
怠りがなく終戦までイギリス空軍の主力の座を降りることはなかった。後期生産型は時速が7
00qを超えるほどの高性能を発揮した。初期型が570q程度だったことを考えるとスピッ
トファイアはまさにイギリスを代表する名戦闘機といえるだろう。そして、戦後になりジェッ
ト戦闘機が時代の主流になってもスピットファイアは第1線で活躍し続けたのである。これは
スピットファイアの優秀さもそうだが、イギリスが後継戦闘機の開発に失敗したことも原因で
ある。
また、スピットファイアは陸上だけでなく空母艦載機としても使用されている。これは艦載
戦闘機として開発されたブラックバーン・ロックやフェアリー・フルマーが低性能だったこと
が原因であるが、大戦が始まっても複葉機を使い続けていることからいいイギリスの航空行政
はあまりにも保守的すぎるのではないだろうか。
スピットファイアは23タイプが開発され、その生産数は艦載機型のシーファイアの259
4機を含めると22934機になる。そして、本機は戦後になるとイギリスだけでなく世界の
各国で使用され第1次中東戦争ではスピットファイア同士の空中戦も演じられた。
口の悪いイギリスの航空史家に言わせるとイギリスの傑作戦闘機は偶然の産物だそうだ。イ
ギリスの場合、当局の要求や構想に従って計画された機体よりも一人の設計者のアイデアで生
まれた機体の方が歴史に残る名機になるというのである。スピットファイアもミッチェルとい
う天才設計者のアイデアから生まれたからイギリス最高の傑作として名を残したのだろうか。
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