劣等感故の孤狼の死
ラプラタ沖海戦
基準排水量11,700t 全長186m 最大幅21.6m
喫水5.8m 出力54,000hp 速力28kt
航続力20kt/10,000浬 乗員1,150名
28p3連装砲2基 15p砲8基 10.5p連装高角砲2基
37o連装機銃4基 20o機銃6基 53.3p4連装魚雷発
射管2基 水上偵察機2機
【ポケット戦艦の誕生】
【ポケット戦艦の出撃】
【ポケット戦艦の捜索】
【ポケット戦艦の最期】
【ポケット戦艦の誕生】
一時はイギリスに次ぐ世界第2位の海軍力を誇ったドイツ海軍だったが、第1次世界大戦の
敗北でその戦力に大幅な制限をかけられてしまう。1万トン以上の軍艦を建造できないのであ
ればイギリスを仮想敵国にするのは不可能で、ドイツ共和国海軍の敵はポーランドとフランス
の海軍ということになる。このうちポーランド海軍が整備され始めるのが1930年代後半か
らなのでフランス海軍がドイツ海軍の仮想敵国となった。
1922年2月6日に締結されたワシントン海軍軍縮条約はフランス海軍相手にも劣勢を強
いられるドイツ海軍にとって少しばかり戦力差を埋めるものだった。この条約で定められた巡
洋艦は1万トン以下という条項はアメリカ・トンによるもので、ベルサイユ条約のイギリス・
トンに従っていたドイツは列強よりも大型の艦を建造することができるのである。
そこでドイツ海軍は列強の主力艦には対抗できないが、巡洋艦以下の補助艦艇に対しては圧
倒できる戦闘力を持った軍艦の建造を決定した。列強の巡洋艦は主砲を20.3pまでと決め
られているが、ドイツはそれ以上の艦載砲を搭載することが可能である。つまりは攻撃力で圧
倒するということだ。敵の主力艦には太刀打ちできないが、その時は敵戦艦よりも高速で離脱
することになっている。
とまあ、実現すればドイツ海軍にとって都合の良い艦になる新型艦だが、1万トンの船体に
20pを超える主砲を搭載することは不可能であった。軍艦は自分の主砲の砲撃に耐えられる
装甲を有するのが常識だが、1万トンの船体では20.3p砲の砲撃に耐えることもできない
のだ。列強の軍縮条約下に建造されたいわゆる条約型重巡は自分の搭載砲の砲撃に耐えること
ができないというかつての巡洋戦艦と同様の中途半端な性能の艦となってしまったが、列強の
場合は重巡はあくまで補助艦なのである程度は割り切ることができる。しかし、ドイツの場合
は新造艦は補助艦ではなく主力艦という位置づけのため列強のように割り切るわけにはいかな
かった。ドイツの造船関係者は新型艦の設計に大変苦労して最終的な設計案がまとまるまでに
6年半も費やしたのである。
こうしてできあがった設計案は主砲を28p、速力を28ノット、防御装甲を150oにす
るというものだった。攻撃力はまあまあだが、速力と防御力が不足しているのは否めなかった。
それでもこの艦は電気溶接工法の大規模な採用、大出力ディーゼル機関の実用化など当時の最
新技術が投入されたドイツ期待の新造艦である。といっても、ディーゼル機関は問題が多く、
規定された出力を発揮できなかったり、就役後も振動問題を起こしている。さらに政治的・経
済的な問題もあった。当時のドイツ海軍は政府と仲が悪く、新造艦の建造にも反対が多かった
のだ。だが、それは1933年1月30日のヒトラー首相就任で解決する。熱血な再軍備主義
者であるヒトラーの政権掌握で政治・経済面での問題はなくなった。こうして、1933年4
月1日に1番艦のドイッチュラントが竣工した。艦種は列強の基準に照らせば戦艦となるが、
周辺諸国を刺激するのを避けるため「装甲艦」と称された。これはベルサイユ条約でのフラン
ス語(Cuirasse’)を採用したからだが、各国のメディアはこの艦を「ポケット戦艦」と称し
て大々的に取り上げた。
前述したようにポケット戦艦が竣工した当時の海軍の仮装敵国海軍はフランス海軍で、当然
ポケット戦艦もフランス海軍との戦闘を想定して建造されている。だが、建艦競争は敵より優
れた艦を造ってもすぐにそれより強い艦を造られてまたそれより強い艦を造らなければならな
いという鼬ごっこの繰り返しである。ドイッチュラント級の竣工後、フランスも新型主力艦の
建造を開始して1936年2月1日にドイッチュラントを凌駕するダンケルク級戦艦を竣工さ
せている。これに対抗してドイツはシャルンホルスト級戦艦の建造に着手した。
ところでポケット戦艦は排水量が1万トンを超えてしまっていたが、ドイツが新技術を結集
して1万トンにおさめたと宣伝したため長らくそれが信じられることとなっている。
【ポケット戦艦の出撃】
政権を掌握したヒトラーは翌年8月2日のヒンデンブルク大統領死去で大統領と首相を統合
した総統に就任し、拡大政策を推し進めていった。1936年3月7日のラインラント進駐、
同年のスペイン内戦への介入、1938年3月のオーストリア併合、同年9月のズデーテンラ
ント進駐、1939年3月14日のプラハ占領、同年3月23日のメーメル占領とナチス・ド
イツによる侵略はとどまることを知らなかった。当然ながらそうしたドイツの政策は英仏と対
立を生じ、戦争の危機が高まってきた。イギリスとフランスはドイツとの戦争を決意し、ドイ
ツの次なる標的となったポーランドは英仏の支援を当てにしてヒトラーの要求を拒絶、ヒトラ
ーは1939年8月31日、戦争指導要綱「総統命令第1号」を発令してポーランド侵攻を発
動させた。9月1日のドイツによるポーランド侵攻を知った英仏両国はその2日後にドイツに
宣戦を布告し、第2次世界大戦が勃発した。
戦争勃発の少し前の1939年8月、ドイツ海軍総司令部はポケット戦艦の3番艦アドミラ
ル・グラーフ・シュペーのハンス・ラングスドルフ艦長に通商破壊戦の準備を命じた。命令を
受けたグラーフ・シュペーは21日にヴィルヘルムハーフェンを出撃し北海へ向かった。それ
に前後して補給用補助艦艇も続々と港を出港し、24日にはドイッチュラントとUボート19
隻も出撃した。この頃はイギリスが海上監視を強化しはじめた時期だったが、グラーフ・シュ
ペーはその監視網をかいくぐり、ノルウェー沖を北上した。グラーフ・シュペーが大西洋に出
たのは24日であった。31日には「総統命令第1号」が受信されたが、総司令部からの通商
破壊の開始命令は来なかった。命令が来るまでグラーフ・シュペーは訓練とレーダーの試運転
を行うことにした。ちなみにグラーフ・シュペーはドイツで初めて波長80pの対水上・対空
警戒用レーダーを装備した艦である。
総司令部から「積極的行動ニ転ズベシ」との命令が届いたのは大西洋に出て1ヶ月以上経過
した9月26日であった。命令を受けグラーフ・シュペーは随伴していた補給艦アルトマルク
と別れ単独行動を開始した。ラングスドルフは艦の活動場所を南緯5度以南の南大西洋と定め
た。これは艦の弾火薬庫冷却装置に不具合が発生して艦内温度が上昇するのを避けるためであ
る。ラングスドルフは現地に向かう途中で船体や備品に記されている「アドミラル・グラーフ
・シュペー」の文字を塗りつぶさせ、代わりに「アドミラル・シェーア」と書き込ませている。
これはシェーアと誤認させるためとグラーフ・シュペーの存在を敵から隠すための措置である。
シェーアに偽装したグラーフ・シュペーは商船狩りを開始した。その最初の獲物が9月30
日11時15分に遭遇した英国のクレメントである。グラーフ・シュペーは水偵を発進させて
停船と無線の使用禁止を指示し、威嚇のため船橋を機銃で掃射した。クレメントの船長は緊急
電信を発信させたが、それ以上のことはできず停船に応じた。船長と機関長はグラーフ・シュ
ペーに収容され、残りは救命ボートに移された後にクレメントは撃沈された。船長と機関長は
この日の夕刻に遭遇したギリシャのパパレモスに引き取られ、救命ボートの連中はグラーフ・
シュペーがブラジルの無線局に救助を要請している。この時、グラーフ・シュペーは発信者の
コールサインにシェーアを示す「DTAR」を使用している。これでイギリスに自分達をシェ
ーアと思い込ませることに成功した。
クレメントを撃沈したグラーフ・シュペーはその後もニュートンビーチ(10/5)、アシ
ュリー(10/7)、ハンツマン(10/10)を撃沈し、10月14日にアルトマルクと合
流した。グラーフ・シュペーはここで捕虜の引き渡しと補給を行った。この間、グラーフ・シ
ュペーの乗組員は捕虜を紳士的に扱い一人の死傷者も出さなかった。
17日、グラーフ・シュペーはアルトマルクと別れ、南東に針路を向けた。そこへ本国から
通商破壊艦の存在に気づいたイギリス海軍が巡洋戦艦レナウンと空母アークロイヤル他からな
る部隊をケープタウン〜フリータウン間の海域に派遣しつつあるという電信が飛び込んできた。
そこでラングスドルフは針路を南に変え、10月22日にトレヴァニオンを撃沈した後に針路
を再び南東に向け、インド洋に抜けようとした。あらかじめ総司令部から南大西洋で敵艦隊の
活動が活発化した場合はインド洋への進出も考慮すべしとの通達が届いていたのだ。
インド洋に回ったグラーフ・シュペーは11月15日にモザンビーク海峡でアフリカ・シェ
ルを撃沈、その後再び大西洋に戻り本国から来年1月にオーバーホールのため帰還せよとの命
令を受けた。ラングスドルフは帰還までもう一仕事できると判断、アルトマルクと合流して補
給を受けた後、新たな狩り場へと向かうことにした。その途中で彼は艦にイギリスの巡洋戦艦
レナウンに似せた偽装を施し、敵の目を欺むこうとした。敵艦に化けたグラーフ・シュペーは
12月に入るとさらに3隻の船舶を撃沈した。だが、イギリスのポケット戦艦包囲網は着々と
狭められていた。
【ポケット戦艦の捜索】
イギリスが南大西洋での通商破壊艦の存在に気づいたのはクレメントが撃沈されてからだっ
た。当時、イギリス南大西洋艦隊は旧式の軍艦や潜水艦しか配備されておらず、西インド艦隊
からヘンリー・ハーウッド代将の南米支隊が編入されることになった(編入後はG部隊と呼称)。
本国からも重巡ノーフォークと軽巡エメラルド、エンタープライズ、エッフィンガム、ケープ
タウンが急派された。続いて戦艦レゾリューション、リヴェンジ、空母ハーミスの派遣も決ま
り、さらに巡洋戦艦レナウンと空母アーク・ロイヤルも送り込まれた。またフランスも戦艦ス
トラスブール以下の艦隊を南下させた。
だが、ドイツの通商破壊艦はなかなか見つからなかった。広大な南大西洋でたった1隻の艦
を見つけるのはかなり困難なことなのだ。おまけにインド洋でアフリカ・シェルが撃沈される
とインド洋やニュージーランド近海まで捜索の範囲を広げなければならなかった。
こうしてグラーフ・シュペーがインド洋から南大西洋に戻ってきた頃には彼女に対抗できる
連合国の艦隊はG部隊のみとなっていた。G部隊は軽巡エイジャックスを旗艦に重巡エクゼタ
ー、カンバーランドとニュージーランドから来た軽巡アキリーズで編制されており、ポケット
戦艦とやりあうのは少し心許ない戦力である。
そのG部隊にイギリス船ドリックスターが襲撃を受け消息を絶ったという緊急電が届けられ
た。さらに翌日の12月3日には輸送艦タイロアも水上艦に攻撃を受けたとの緊急電を発した
後に消息を絶った。これでアフリカ沖の南大西洋にポケット戦艦が存在することが明かとなっ
たが、南大西洋艦隊司令部は敵艦が2隻が撃沈された海域から北上したと判断した。これに対
し、G部隊のハーウッド司令はポケット戦艦はまだ荒らしていないラプラタ河口付近に現れる
と判断して同海域に部隊を集結させた。この時、エイジャックスとエクゼターはフォークラン
ドにアキリーズはリオデジャネイロを出港してモンテビデオに停泊しており、部隊が集結した
のは12月12日だった。G部隊には重巡カンバーランドもいたが、彼女は機関の修理のため
フォークランドに向かっていた。部隊で最強の攻撃力を有するカンバーランドの戦闘不参加は
ハーウッドにとって大きな不安となった。
戦力の低下でポケット戦艦に対し劣勢となった事態に対処するためハーウッドは敵艦との戦
い方を考えた。まず、ポケット戦艦と遭遇した場合、火力の差から正面からの戦闘は避け、昼
間は追跡に留め、日が沈むと戦闘を挑む。やむえず昼間での戦闘になったら部隊を軽巡2隻と
重巡1隻の二手に分け敵を挟撃するという作戦である。
一方、グラーフ・シュペーはまるで引き寄せられるかのように南米沖に針路を向けていた。
途中でストレオンシャルを撃沈(12/7)したグラーフ・シュペーは同船にあった機密文書
から4隻で構成されるイギリスの船団が間もなくモンテビデオを出港することを知った。しか
も、護衛は1隻のみという。本国からもイギリス商船2隻がラプラタ沖を航行中であるとの情
報が寄せられた。ラングスドルフはこれを仕留めるためラプラタ河口に向かうよう指示した。
12月13日午前5時52分、グラーフ・シュペーは水平線上に敵艦隊を発見した。ラング
スドルフは敵戦力を重巡1隻と駆逐艦2隻と判断、その後方に輸送船団が航行中であると考え
た。ラングスドルフは敵部隊を撃破した後に輸送船団も喰ってしまおうと戦闘配置を命じた。
しかし、その後になって駆逐艦だと思っていたのがリアンダー級の軽巡洋艦であることが判明
した。さすがに巡洋艦3隻を相手にするのはきついが、こう距離が近ければ遅かれ早かれ発見
されるのは避けられないと判断したラングスドルフは援軍を呼ばれる前にこれを仕留めてしま
おうと戦闘を決意した。
GunCruiser Exeter
【ポケット戦艦の最期】
午前6時12分、グラーフ・シュペーは東南東に針路を変え、右砲戦の準備を整えるとその
5分後、距離17800mでエクゼターに対し試射を行った。続いてエイジャックスに対して
も試射を行った。一方、停止中だったG部隊も増速を開始し、エイジャックスとアキリーズが
北東にエクゼターが西北西に針路を取った。
午前6時20分、エクゼターが17150mから砲撃を開始、その2分後にアキリーズも砲
撃を開始し、最後にその1分後にエイジャックスも砲戦に参加した。
グラーフ・シュペーはエクゼターに砲撃を集中させた。28p砲弾がエクゼターの周囲に降
り注ぎ、サーチライトや煙突、搭載してある水上機を破損させた。そして、6時24分には第
2砲塔が直撃弾を受け使用不可能となってしまった。さらに、その時の破片で露天艦橋の艦長
らが死傷した。幸い、艦長に命の別状はなかったが、航海長らが犠牲となり、操舵所や電話機、
伝声管が破壊され各部署との連絡が取れなくなってしまった。また、方位盤照準装置も破壊さ
れたためエクゼターは効果的な砲撃が行えなくなっていた。それでも艦長は後部艦橋で指揮を
とり続け、各所への指示は伝令兵が声で伝えあうことでカバーした。
エクゼターの砲塔が炎上しているのを見たグラーフ・シュペーはエクゼターと反航戦の態勢
を取り、さらに砲撃を加えていった。エクゼターの危機を救おうとエイジャックスとアキリー
ズは砲撃を続けたが、グラーフ・シュペーには1発も命中しなかった。
午前6時31分、形勢逆転を図ってエクゼターが雷撃を敢行した。これが命中すればポケッ
ト戦艦もひとたまりもない。だが、反対側の2隻からの雷撃を恐れたグラーフ・シュペーがそ
の射線から逃れようと変針したため、それがエクゼターが放った魚雷を回避する結果となった。
変針したグラーフ・シュペーは煙幕を張ると後部主砲でエイジャックスとアキリーズへの砲
撃を開始した。6時40分頃、至近弾の弾片でアキリーズの艦長が負傷し、方位盤照準装置が
壊された。エクゼターも第1砲塔が直撃を受け使用不能となった。エクゼターは6時43分に
再度3本の魚雷を発射したが、これも敵艦には命中しなかった。1分後、さらに2発の28p
砲弾が命中して舷側に大穴を開け、火災を発生させた。電路と消防水管も遮断されたので火災
は拡大していきエクゼターは炎と煙に包まれた。
エクゼターの危機を見たハーウッドは2隻に最大戦速を命じた。G部隊はアキリーズの方位
盤の修理が終わり、搭載の水上機の発進に成功したことで砲撃の正確さが向上していた。何発
かの15.2p砲弾がグラーフ・シュペーに命中した。グラーフ・シュペーは2隻の軽巡から
の攻撃を避けようと何回も変針したり、煙幕を展開したりしてイギリス人から姿を消し始めた。
午前7時16分、グラーフ・シュペーが取り舵で艦首を南に向けた。ハーウッドはこれをエ
クゼターにトドメをさすための行動と判断し、2隻の軽巡に右回頭を命じた。これにより全主
砲を左舷に集中させることができる。2隻はエクゼターを救うためグラーフ・シュペーに猛射
を浴びせた。たまらずグラーフ・シュペーは北西に針路を変え、今度はエイジャックスを攻撃
した。
午前7時25分、エイジャックスが後部甲板に命中弾を受け3番・4番砲塔が使用不能にさ
れた。それでもエイジャックスは残った主砲で攻撃を続けた。だが、29分にエクゼターが第
3砲塔を浸水による電力供給断絶で使用不可能になったことで戦闘不能になって離脱を余儀な
くされたり、エイジャックスとアキリーズも残弾不足(誤認)でこれ以上の戦闘続行は不可能
と判断された。ハーウッドは戦闘の一時中断を決意して、グラーフ・シュペーから距離を取っ
て追跡のみに切り替えた。大破したエクゼターはフォークランドに退避した。
一方のグラーフ・シュペーは致命傷となる損害はなかったが、20発の命中弾で機器の多く
が破損したり火災も発生したり浸水もあったりと結構被害は大きかった。これでは本国に戻る
のは無理と判断したラングスドルフは航海長と相談してウルグアイのモンテビデオに寄港する
ことにした。
12月14日午前0時50分、グラーフ・シュペーはモンテビデオに投錨した。艦の修理に
は14日かかると見積もられラングスドルフはそのことをラングマン駐ウルグアイ大使に伝え
た。ウルグアイ政府にも大使から書簡で伝えられた。
グラーフ・シュペーがモンテビデオに入港したことを知ったイギリスは戦艦レナウン以下の
K部隊に現地への急行を命じると共にウルグアイ政府にポケット戦艦の抑留を要請した。ハー
グ条約で中立港への滞在は外洋への航行が困難でない限り24時間以内と規定されている。イ
ギリスは出港できなかったポケット戦艦がウルグアイに抑留されることを望んだ。最悪でもK
部隊が到着するまでの時間が稼げればよかった。K部隊の到着予定日は12月20日。それま
での監視はG部隊が任された。ハーウッドと3隻の艦長は功績で勲章を授与され、ハーウッド
は少将に昇進した。14日の午後10時には重巡カンバーランドも現場に到着した。
12月15日、ラングスドルフはウルグアイ政府から滞在期間が72時間であることを伝え
られた。これはドイツ側にかなり譲歩した形だったが、グラーフ・シュペーの修理は72時間
では終わりそうになかった。翌日、ドイツ本国から脱出不能の場合は自沈を認めるが抑留は認
められないという指示が届けられた。ラングスドルフは決断を迫られた。イギリスの偽情報で
彼は戦艦レナウン以下の大艦隊が集結していると思い込んでいた。事実を確認しようにも航空
機がイギリスに買い占められ、空からの偵察は不可能である。たとえ、それが誤報だとしても
手負いのグラーフ・シュペーがイギリスの追跡を振り切るのは不可能ではないか。悩んだ末、
ラングスドルフは決断を下した。
12月17日午後5時過ぎ、グラーフ・シュペーの戦闘旗が掲げられた。午後6時15分、
群衆は見守る中グラーフ・シュペーは錨を揚げ、河口に移動し停止した。そして午後8時54
分、仕掛けられた時限爆弾でグラーフ・シュペーは自沈した。グラーフ・シュペーの自沈を知
ったG部隊の将兵は甲板に上がって帽子を振りながら喚声を上げた。ラングスドルフは妻と両
親に宛てた2通の手紙と今回の責任は全て自分にあるという書簡をしたためた後、12月20
日に拳銃で自決した。彼の遺体は翌朝の8時30分に発見された。その時、彼の遺体にはナチ
ス・ドイツの軍艦旗ではなく旧ドイツ帝国海軍旗が敷かれていたという。他の乗員達はブエノ
スアイレスに逃げた後にアルゼンチンに抑留された。
後世、グラーフ・シュペーが無理して強行脱出を図っていたらイギリス海軍の追跡を振り切
るのは不可能ではなかったのではないかと言われることがある。まあ、実際のところはどうな
っていたかはわからないが、現実的に言って脱出は不可能だろう。
ラングスドルフに脱出を断念させた要因、それはイギリスへの劣等感であった。彼はイギリ
ス海軍を過大評価してしまったことで自分と艦の行く末を悲観的に捉えてしまったのだ。先の
海戦を見てもわかるように彼の指揮は決して劣ってはいなかった。グラーフ・シュペーの戦闘
力も低くはなかった。しかし、それでもイギリスへの劣等感という精神的劣勢を払拭すること
はできなかった。
港に閉じこめられた結果、脱出も叶わず最期を迎える。グラーフ・シュペーの悲劇的な最期
は戦後映画にもなったが、このグラーフ・シュペーの最期はそのままドイツ海軍の最期にも似
ていた。そしてそれは第1次世界大戦時のカイザーの大海軍の最期にも似ていた。結局、ドイ
ツ海軍はにたような最期を迎えるしかなかったのである。
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