戦争芸術家ナポレオン会心の最高傑作
アウステルリッツ会戦
「兵士よ、余は諸士に満足である!この日、アウステルリッツにおいて、
諸士は諸士の勇気に対する余の期待を満足させてくれた。諸士の鷲は
不滅の栄光に輝いている。ロシアとオーストリアの皇帝が率いる10
万の軍は、4時間足らずの戦闘で寸断され、潰滅した・・・。
兵士よ、我々の祖国の幸福と繁栄のためになすべきことがすべてなさ
れた暁には、余は諸士をフランスに連れて帰ろう。余は諸士の身の上
に最大の注意を払うであろう。人々は喜んで諸士を迎え、諸士がもし
『自分はアウステルリッツで戦った』と言うならば、このような答え
を聞くであろう。『この人は勇者だ』と」
会戦に勝利して翌日に布告された皇帝の演説
【皇帝戴冠と第3次対仏大同盟】
【大機動戦】
【栄光の頂点】
【皇帝戴冠と第3次対仏大同盟】
1804年12月2日、フランス第1執政ナポレオン・ボナパルトはノートルダム大聖堂に
て戴冠式を挙行した。ナポレオンは国民投票で圧倒的な支持を得て皇帝に即位したのだが、フ
ランス国民が彼の独裁を認めたのはいまの危機的状況を打開できるのは彼しかいないと判断し
たからである。大革命で欧州各国を敵に回したフランスは各地で苦戦を強いられた。この革命
防衛戦争で頭角を現したのがナポレオンで、彼はマレンゴ戦役での勝利とイギリスとのアミア
ンの和約で戦争を終結させ第2次対仏大同盟を解体させた。
しかし、フランスがようやくにして手にした平和は束の間でしかなかった。スペイン継承戦
争以来、対立状態にあるイギリスとフランスは和平締結からわずか1年にして次なる戦争への
準備を開始した。イギリスがオランダに寄港中のフランス船舶を拿捕すると、フランスは報復
としてイギリスと同君連合を結んでいるハノーファー選帝候領を占領してイギリス侵攻の準備
に着手した。
これに対しイギリスは亡命王党派をフランスに上陸させナポレオンの暗殺を企てた。これは
失敗に終わり、コンデ家のアンギャン公が拉致され銃殺された。さらにこのことはフランス国
民にナポレオンの死が旧体制の復活に繋がることを思い知らせ彼の帝政への道を拓くことにも
なった。
さて、皆様方は皇帝と国王の違いを知っていますか?簡単に言うと欧州世界での皇帝はロー
マの皇帝を指す。ローマ帝国は4世紀末に東西に分裂し、東西ローマ帝国もやがて滅亡して1
9世紀初頭の時点で皇帝を名乗っているのは東西ローマ帝国の後継国家である神聖ローマ帝国
(オーストリア帝国)とロシア帝国のみであった。しかし、ナポレオンはローマの皇帝になる
つもりはなかった。彼は戴冠式の際、冠を被せようとするローマ法王からそれを奪い取ると、
自ら冠を頭に乗せた。彼はこの演出で自分がローマの皇帝ではなく、フランス人の皇帝である
ことを宣言したのだ(ローマ皇帝は法皇の推戴がなければ皇帝とは認められない)。
ナポレオンの即位は当然の事ながら各国に受けいれられるものではなかった。イギリスは小
ピットが戦時内閣を組閣してロシアと同盟を結んだ。これにオーストリアとスウェーデン、ナ
ポリが加わり第3次の対仏大同盟を結成した。一方のフランスの同盟国はスペインのみでナポ
レオンは戦力的にも戦略的にも劣勢に追い込まれた。
ナポレオンはまず同盟の中核であるイギリスを屈服させることにした。しかし、それには大
きな問題があった。大革命で機能不全に陥ったフランス海軍と老いたスペインの海軍ではイギ
リス海軍に対抗するのは事実上不可能なのだ。さしものナポレオンも技術が不可欠である海軍
の再生はできなかった。
海上侵攻が不可能であることを理解したナポレオンは陸の敵を先に潰すことにした。この時
点でまだプロイセンが中立であるためフランスの敵はオーストリアとロシアの2国だけである。
1805年、ナポレオンは南部のドイツ諸邦と同盟を結ぶと188,000の兵を引き連れラ
イン河にむかった。ナポレオンの大陸軍は7個の軍団と騎兵予備軍団、皇帝親衛隊で構成され
ており、砲も396門用意していた。対するオーストリア軍はフランス軍とほぼ同数でそれを
3個の軍に分けていた。オーストリアの同盟国ロシアは10万の兵を動員していたが、その行
軍は遅く、9月下旬にオーストリアのメーレン辺境伯領に進入した。
【大機動戦】
予想される戦場はドイツと北イタリアだが、ナポレオンはロシア軍が接近しつつあることと
プロイセンが参戦する可能性がないとはいえないことからドイツを主戦場にすることにした。
ナポレオンはフランクフルト・アム・マインからストラスブールに至る南北150マイルの戦
闘正面を形成させるとそれらを平行に進軍させた。こうすることで敵に目標がどこであるかを
悟られないようにしたのだ。墺露同盟軍は何個かに分かれて行動しており、それらを各個に撃
破することで勝利を手にするのがナポレオンの戦略である。
一方、オーストリア軍は3手に分かれて進軍する計画を立てていた。まず、右翼のフェルデ
ィナント大公軍72,000がバイエルンに侵攻してフランス軍の進軍を阻止して、ロシア軍
の到着と共にこれに決戦を挑んで勝利し、ストラスブールを占領する。左翼のカール大公軍9
4,000は北イタリアに侵攻して南からのナポリ軍の攻勢に呼応してマッセナを挟撃してロ
ンバルディアを占領する。んでもって中央のヨハン大公軍22,000は右翼と左翼の間をカ
バーしてフランスの属国スイスに侵攻する。
この作戦計画に従って9月2日にフェルディナント大公軍がバイエルン選帝候領に侵攻した。
戦力劣勢のバイエルン軍は首都ミュンヘンを放棄、オーストリア軍は一気にドナウ河とイラー
河の線まで進出し、ウルムとメミンゲンの要塞を拠点とした。
オーストリア軍右翼を指揮するフェルディナント大公は軍人としては性格は不向きで実際の
指揮は参謀長のマック・フォン・ライベリヒが執った。マックは平民から男爵にまでのぼりつ
めたオーストリアでは珍しい人物でいわば叩き上げの軍人である。そのため彼は行動は積極的
だが、柔軟性と創造性に欠けていた。彼はフランス軍がストラスブールからシュヴァルツバル
トを通過して南ドイツに攻めてくると判断していた。かつてマレンゴ戦役でもフランス軍が同
様の行動を取ったためで今回もそうするだろうと思い込んだのだ。それならばドナウ河とイラ
ー河で縦深防御を敷いておけば十分にフランス軍の攻撃に耐えられるし、よしんば耐えきれな
くなったとしても速やかに後退すれば後続のロシア軍と合流して容易に反攻に移れる。
だが、ナポレオンは敵の想像通りに行動するほど単純ではなかった。彼は北からウルムを迂
回してオーストリア軍とロシア軍を分断することを企てていた。ウルムの北側面は中立のプロ
イセン領アンスバッハ=バイロイト辺境伯領が広がっており、マックはナポレオンがプロイセ
ンを刺激してまでそのコースを通るとは思ってもいなかった。しかし、ナポレオンは何よりも
オーストリア軍の撃破を最優先に考えていた。彼は騎兵予備と第5軍団をシュヴァルツヴァル
トに残してオーストリア軍の正面を拘束させると、残りを率いてアンスバッハ=バイロイト辺
境伯領の境界線沿いに軍をドナウ河の下流に進軍させた。マックはフランス軍の動きに9月3
0日にキャッチしたが、正面の陽動に引っかかって有効な手段を講じることができなかった。
マックはフェルディナント大公を逃がすとウルム要塞に軍を集結させて籠城することにした。
一方、フランス軍は10月7日にドナウ河を渡河すると進路を西に向け、オーストリア軍の後
方を遮断した。孤立したウルムのオーストリア軍は可能な限り抗戦を試みたが、10月20日
に力尽きて降伏した。オーストリア軍の死傷・捕虜およそ64,000、フランス軍の損害2,
000でフランス軍は直接戦闘ではなく、平均行軍速度18マイルという強行軍で勝利を手に
したのだった。このことを兵士達は「皇帝は俺達の銃ではなく足を使って勝利した」と驚喜し
た。
ウルムで大勝したナポレオンだったが、状況は依然としてフランスに不利だった。フェルデ
ィナント大公軍を撃破したものの、それでオーストリア軍全体が崩壊したわけではなく、ロシ
ア軍は無傷の状態でいた。さらに中立を守っていたプロイセンも次第に対仏大同盟への参加の
意志を固めつつあった。
プロイセンが参戦する前にケリをつけようとフランス軍は後退する同盟軍の追撃を開始した。
だが、追撃はヨハン大公軍が統制を失って崩壊した他は目立った戦果を挙げることなく、残っ
たカール大公軍とロシア軍でもっとも西に突出していたクトゥーゾフの軍は無事に後退を終え
た。クトゥーゾフは11月19日にブクスホーデン軍の前衛と合流し、ロシア皇帝アレクサン
ドル1世はメーレン辺境伯領の首都オルミュッツに同盟軍を集結させた。一方、追撃を断念し
たナポレオンは13日にウィーンに入城し、20日に司令部をブリュンに移して同盟軍と対峙
したが、ここ1ヶ月の作戦の結果、フランス軍はバイエルンからメーレンにかけての広い地域
に分散することを余儀なくされ、さらに補給の欠乏で将兵に相当の疲労が蓄積されていた。し
かも、同盟軍はオルミュッツの主力と南からのカール大公軍でウィーンを挟撃する機を狙って
おり、プロイセンの参戦の可能性もある。そこに追い打ちをかけるかのようにナポレオンにパ
リから急報が届けられた。10月21日に仏西連合艦隊がトラファルガー岬でイギリス地中海
艦隊と交戦して潰滅したのだ。シーパワーの喪失でイギリス侵攻の機会は永遠に失われた。直
接侵攻が不可能となったナポレオンは大陸封鎖によるイギリス屈服を目指すことを余儀なくさ
れた。
トラファルガーでの惨敗はウルムでの大勝を帳消しにし、ナポレオンの威信を大いに傷つけ
た。当然のようにその影響は各方面に波及し、プロイセンや同盟国のスペインにまで反仏感情
が高まった。
ナポレオンはこの深刻な戦略的劣勢を一気に打破するため同盟国軍を各個に撃破して敵の抗
戦意欲を叩きつぶすことにした。その標的はオルミュッツにいるアレクサンドル1世のロシア
軍とフランツ1世(神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世)のオーストリア軍86,000。
これをカール大公の軍やフリードリヒ・ヴィルヘルム3世のプロイセン軍が来る前に殲滅する
のだ。
11月21日、ナポレオンは自ら地形を偵察し、第4・第5・騎兵予備の3個軍団にプラッ
ツェン高地とアウステルリッツの占領を命じた。さらに騎兵の一部を前進させてオルミュッツ
の同盟軍を挑発させた。これは同盟軍をアウステルリッツに招き寄せるための策だが、ナポレ
オンはさらに戦力を分散させてみせた。これはフェルディナント大公軍の残党とカール大公軍
に備えるためと皇帝自身の直衛のためだが、同盟軍の側から見ればただでさえ戦力的に劣勢な
のにそれを分散させてしまったナポレオンの行為は兵術の原則を無視したものだった。彼等は
それが自分達を誘き寄せる罠であることに気づかずにこれを撃破しようとまんまとナポレオン
の策に嵌ってしまった。同盟軍は8万以上でアウステルリッツに展開するフランス軍は5万人
ほど。彼等は分散したフランス軍が戦場に到着する前にこのフランス軍を撃破できるだろうと
タカをくくっていた。どうやら彼等はウルムでの屈辱を忘れてしまっていたようだ。
同盟軍は24日の軍議で北のフェルディナント大公軍と呼応して、ブリュンへの反攻作戦を
開始することを決めた。季節は冬になりかけており、8万の大軍をこれ以上メーレンに留まら
せることは不可能だった。すでにメーレンはロシア軍の略奪で疲弊しきっていた。フランツ1
世とクトゥーゾフは兵站の崩壊と疫病の蔓延を理由にメーレンからの撤退を主張したが、アレ
クサンドル1世はナポレオンを戦場で打ち破る好機としてこれを却下した。28歳の若き皇帝
にとって60歳になる老将軍クトゥーゾフの意見などうるさく感じただろうし、帝都を奪われ
ロシア軍に助けに来てもらっているフランツ1世の発言権など無きに等しかった。しかも、か
れの家臣である参謀長のヴァイローターは威勢の良さと頭の回転の速さでロシア皇帝のお気に
入りになっていた。
25日、フランス軍から和平を持ちかける軍使が派遣された。これはナポレオンが同盟軍の
状況を探るために派遣したもので使者は丁重な態度で和平交渉を持ちかけた。同盟軍はそれに
気づかず、フランス軍には戦意がないと判断した。そしてこの使者も本国に逃げ帰るための時
間稼ぎだと思い込んだ。使者から状況を知らされたナポレオンは敵が楽観と傲慢と無能に蝕ま
れていると知り内心ほくそ笑んだ。
28日、ヴィシャウまで前進していたフランス軍は進撃を始めた同盟軍と遭遇して、皇帝に
言われたとおり少し戦っただけで後退を始めた。これを敗走と見た同盟軍は追撃を強め、フラ
ンス軍をアウステルリッツやプラッツェン高地から駆逐してゴルドバッハ河まで後退させた。
フランス軍を撃退した同盟軍は29日にアウステルリッツに入ったが、全軍を配置するのに時
間が掛かるためひとまず軍事行動を中断した。その間にナポレオンの元にも分散させていた部
隊が30日から翌12月1日にかけて到着した。同盟軍もようやく展開を終えて明日の決戦に
備えた。ナポレオンは翌日の作戦を考えた後、野営地を訪れ兵士達に話しかけた。日が変わり、
2日になるとこの日がナポレオンの戴冠式記念日であることに気づいた兵士達から万歳の歓声
が上がった。
【栄光の頂点】
夜が明け、日が昇る頃、戦場は濃霧に包まれていた。フランス軍はベルナドットの第1軍団
13,000、ダヴーの第3軍団6,300、スールトの第4軍団23,600、ランヌの第
5軍団12,700、ミュラの騎兵予備軍団7,400、ウーディノの擲弾兵師団5,700、
ベシエールの皇帝親衛隊5,500と大砲139門で布陣、対する同盟軍はブクスホーデンの
左翼軍39,700、クトゥーゾフの中央軍16,200、バグラティオンの右翼軍19,1
00、ロシア皇帝近衛隊10,500と大砲278門で布陣した。
同盟軍の作戦計画を策定してるヴァイローターはバグラティオン軍がザントン高地のフラン
ス軍左翼を拘束している間に、ブクスホーデン軍がゴルドバッハ河のフランス軍右翼を攻撃し、
これを後退させた後にコベルニッツとゾコルニッツを占領し、さらにフランス軍右翼を迂回し
てブリュンからウィーンへの街道を制圧してフランス軍の退路を断つ。最後にブクスホーデン
軍の行動で突出したフランス軍中央にクトゥーゾフ軍がプラッツェン高地から攻めて、両翼の
友軍と連携しながらフランス軍を寸断、潰滅させるという作戦を立案した。ヴァイローターと
いう人は頭がキレるうえに威勢が良い性格だそうだから自身が立てた作戦にかなり自信があっ
たものと思われる。
だが、彼の計画は初手から躓きを見せた。午前6時から同盟軍は前進を開始したが、プラッ
ツェン高地を下りてフランス軍右翼を攻撃しようとしたブクスホーデン軍はダヴーの第3軍団
が救援に現れたため前進を阻止されてしまった。フランス軍右翼は第3軍団の援軍があったと
はいえそれでも兵力は12,000とブクスホーデン軍の40,000よりかなり少なかった
が、午前8時半をすぎてもブクスホーデン軍はゴルドバッハ河を突破できずにいた。ザントン
高地でもバグラティオン軍がランヌの第5軍団に前進を阻まれていた。
己の作戦がうまいこといかないことに焦りを感じたのかヴァイローターは残ったクトゥーゾ
フ軍を左翼に投入してフランス軍右翼を一気に撃破することを企図した。プラッツェン高地を
空にすることを危惧したクトゥーゾフは理屈をつけて命令を遅らせていたが、ロシア皇帝の叱
責をうけて動かざるを得なかった。
クトゥーゾフ軍は午前9時過ぎに高地を南西へと下ろうと行動を開始したが、その直後に彼
等は細く伸びた隊列をフランス軍に急襲された。実は15分ほど前に望遠鏡で高地を視察して
いたナポレオンが敵の縦隊が続々と高地を下っていることを確認してスールト麾下の2個師団
に高地への攻撃を命じていたのである。フランス軍は霧と野営の煤煙に隠れて敵に気づかれる
ことなく不意を突くことができた。クトゥーゾフは負傷しながらも態勢を整えようとしたが、
フランス軍の勢いを止めることができず敗北した。プラッツェン高地は午前11時頃までにフ
ランス軍の占領するところとなり、同盟軍の中央は崩壊寸前となった。同盟軍は予備の皇帝近
衛隊を投入して一旦はフランス軍を撃退したもののナポレオンはすかさず増援を出して同盟軍
の最後の予備部隊を撃破した。
中央部の戦いがフランス軍の勝利に終わったことで会戦の帰趨は決した。中央を制したフラ
ンス軍は右翼に転じてブクスホーデン軍を潰滅させた。かろうじて秩序たって離脱できたのは
バグラティオン軍のみであった。同盟軍の死傷者は15,000、捕虜は12,000、フラ
ンス軍の死傷者は8,300、捕虜600であった。
同じ頃、イタリアでもフランス軍とナポリ軍が交戦していたが、こちらもフランス軍の圧勝
で幕が下りた。軍事力が消滅したオーストリアは12月26日のプレスブルク講和で広大な領
土の割譲と莫大な賠償金を課せられた。こうして1805年戦役はフランスの圧勝で終結し、
第3次対仏大同盟は潰え去った。祖国の危機をあふれるほどの才能で乗り越えたナポレオンの
威信は頂点に達した。だが、彼の征服欲はこの完全勝利でも満たされることはなかった。早く
も翌年にはプロイセンとイエナ=アウエルシュタット戦役を戦うことになる。この戦いにも勝
利したことでナポレオンの野望にブレーキが利かなくなった。その結果、彼は破滅を迎えるこ
ととなる。
この会戦の勝因と敗因はなんだったのか。指揮官の能力の差もあるが、それでも戦力で優勢
に立つ側がああも惨敗を喫したのは何が原因か。それは軍の質である。この時代のヨーロッパ
の兵士は傭兵である。傭兵は雇い主との契約で軍に加わる。傭兵以外の兵士もいるが、それら
は強制的に徴集された人達である。彼等を戦場に立たせる動機は報酬と略奪への期待と上官へ
の恐怖である。祖国のために戦うという気迫に欠ける彼等は戦闘の不利が確定したことで戦意
を失ってしまう。しかし、大革命で祖国愛に目覚めたフランス軍の兵士は違っていた。彼等は
皇帝が要求する強行軍にも耐えることができた。以後、ヨーロッパの軍隊は国王の軍隊から国
家の軍隊へと変貌を遂げるのだが、この会戦で敗れたオーストリアとロシアはその社会的性質
上、西欧諸国のような近代化は最後までなされることなく共に第1次世界大戦で終焉を迎えた。
敵に包囲される戦略的劣勢、敵の方が数が多い戦術的劣勢を見事にはねのけたナポレオン。
翌年にライン連邦を結成し、有名無実化していた神聖ローマ帝国に引導を渡し、プロイセンも
屈服させた。フランス人でただ一人ヨーロッパ世界の頂点に君臨したナポレオンは最終的には
没落するもののフランスを代表する英雄の1人であることは間違いない。
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