カエサルにならんとした独裁者の野望の終焉
ベルリン陥落


 
 
 
   「ドイツ国民は失敗した。東では逃げ去り、西では白旗を揚げている。彼等は自らその運命を
    選んだのだ。私は誰にも強制しなかった。なぜ、ドイツ国民は我々と共に働いたのだ。いま
    やドイツの喉はかき切られようとしている」
                         ドイツ第3帝国宣伝相ヨゼフ・ゲッペルス
 
 
    「お言葉ですが総統閣下、ブッセ(第9軍司令官)と彼の部隊は弾薬の全てを使い尽くし
     て力の限り戦ったのですぞ。死傷者の数を見てください。第9軍はその任務を全うした
     のです。私は貴方にお願いする。これ以上、彼と彼の部下を侮辱しないでいただきたい」
                    ドイツ陸軍参謀総長ハインツ・グーデリアン上級大将
 
 
     「フォン・マントイフェル家は200年プロイセンに仕えてきました。私も祖先と同
      じく自分の行動には責任をとります」
                       第3装甲軍司令官フォン・マントイフェル大将
 
 
     「余は裏切られた。全ての責任は軍にある。私はここでベルリンで死ぬ。死は困難な
      生からの自由を与えてくれる」
                          ドイツ第3帝国総統アドルフ・ヒトラー
 
 
 
 
【最後の反撃・西部戦線】 【ライン河渡河作戦】 【最後の反撃・東部戦線】 【帝都の攻防1・ベルリンの防衛態勢】 【帝都の攻防2・見捨てられた街】 【帝都の攻防3・独裁者の最期】 【欧州の没落】
    【最後の反撃・西部戦線】     1944年6月の連合軍による北フランス上陸作戦でドイツ第3帝国は3方向からの攻勢に    さらされることとなった。9月4日までにドイツ軍はフランスとベルギーから追い払われ、夏    の間に30万もの兵士を失ってドイツに敗走した。敵の上陸に対する初動の遅れから有効な対    策が講じれなかったドイツ軍は無謀な反撃を試みた末に壊滅したのだ。     このような状況だから、連合軍の兵士は戦争は年内に終わるかもしれないと楽観し始めてい    た。だが、この頃から連合軍の進撃速度は鈍り始めていたのである。     米軍の兵站部はノルマンディーへの上陸時にセーヌ河への到着をD+90日と想定していた    のだが、実際はD+70日でセーヌ河に達している。しかも、D+90日の時点で12個師団    を維持することを目標としているのに、D+70日ですでに16個師団を維持しなければなら    なくなり、これがD+90日になると米軍は20個師団でもってドイツ国境まで100qをき    った地点まで進撃していたのである。     この連合軍の進撃速度は補給が追いつかないほど迅速なものだった。つまり、補給部隊が指    示された場所に到着しても戦闘部隊はすでに前進を始めてしまった後だったのである。さらに、    最大の補給港であるアントワープはドイツ軍がスヘルデ河口を押さえているため使用不能であ    り、連合軍部隊は補給の遅延だけでなく補給量の不足にも悩まされることとなった。これに態    勢を立て直したドイツ軍が抵抗を強めたこともあって連合軍の進撃は9月5日に停止した。     こうした事態を打開するためイギリスのモントゴメリー元帥が主導した『マーケット・ガー    デン』作戦が発動されたが、自国の第1空挺師団を犠牲にした割には目的を何一つ果たすこと    ができないまま失敗に終わった。     『マーケット・ガーデン』作戦の失敗で連合軍の攻勢は頓挫してしまった。この状況を好機    と見たのかヒトラーは機甲部隊による大規模な反攻作戦を考案した。それは4年前のフランス    を崩壊させた電撃戦の再現を狙ったもので『ラインの守り』作戦と命名された。ヒトラーは機    甲部隊でアルデンヌを突破してアントワープを奪回し、連合軍30個師団を撃破することを目    標としていたが、ルントシュテットとモーデルは作戦の実現性に疑問を抱き反対した。無論、    それが受けいられることはなかった。     12月16日の早朝から開始されたアルデンヌ攻勢は作戦当初は米軍を混乱させたが、素早    く対処した米軍は各地で激しく抵抗し、ドイツ軍の進撃を阻んだ。作戦に参加したドイツ軍で    4年前の再現が出来たのは第1SS機甲師団の先鋒であるパイパー戦闘団だけで、そのパイパ    ー戦闘団も後続がついてこないため19日に後方と遮断されてしまっている。      24日までにドイツの攻撃を持ちこたえた連合軍は25日から反撃に転じた。ドイツ軍は    『ノルトヴィント』作戦を開始してアルデンヌ攻勢を援護しようとしたが、1945年の1月    29日までに連合軍の掃討作戦はほぼ終了した。     【ライン河渡河作戦】     ドイツ軍のアルデンヌ攻勢は貴重な予備戦力を消費しただけに終わった。ドイツの最後の反    撃を撃破した連合軍は2月上旬から追撃戦に移行した。連合軍の次なる目標はライン河の渡河    であることは誰から見ても明らかであった。ライン河の後方にはドイツの心臓部ともいえるル    ール工業地帯があり、そこを制圧されたらドイツの継戦能力は失われてしまうのである。その    ためドイツ軍は連合軍の渡河を何としてでも阻止しようと、連合軍の進撃が開始された翌日の    2月9日と10日にルール川の二つのダムの水門を爆破した。これにより川の水位は上がり、    およそ2週間に渡っての大洪水となった。その間、連合軍の前進がストップしたのは言うまで    もない。ドイツ軍は防衛線を強化する時間の余裕を得ることが出来たのだ。     しかし、ドイツ軍はその時間を有効には使うことが出来なかった。東部戦線でソ連軍がオー    デル川に接近してきたので、ヒトラーが手許の部隊と出荷された軍需品を東に振り向けたので    ある。ヒトラーの目が東部戦線に向いたことで西部戦線はそのままおいて置かれることとなっ    た。前線の指揮官からは陣地の変更を希望する意見が出されたが、ヒトラーはそれをまったく    認めず、ただ陣地の死守を命じるだけであった。やがて、洪水が治まり連合軍の進撃が再開さ    れるのだが、その時にはドイツ軍がライン河を守りきる可能性は皆無となっていた。2月23    日に米第1軍と第9軍がルール川を渡河し、数日後には全戦線でのライン河渡河が可能となっ    ていたのであった。     3月2日夜、米第9軍の戦車部隊がライン河に到着した。橋を渡って対岸に行けばそこはデ    ュッセルドルフの市街である。しかし、米軍が橋を渡ろうとするとドイツ軍が橋を爆破してし    まった。いつの時代でも敵の渡河を阻止するのに橋を破壊するのは常識である。同じようにそ    れから4日間の間にコブレンツから下流の流域で十数カ所の橋が爆破された。ライン河のよう    な大きい河川は橋がなければ上陸作戦さながらの渡船行動でいくしかない。ライン河は天然の    絶対障害になったのである。     だが、連合軍にとって運がいいことにレマーゲンの中央に架かっているルーデンドルフ鉄道    橋が無傷で残されていたのである。それを偶然発見したのは米第9機甲師団で、当然の事なが    ら彼等は無傷の橋があることに驚いた。しかも、橋を守っているのは15、6歳の国民突撃隊    である。第9機甲師団は咄嗟の判断で橋の確保に乗り出した。途中で2回ほど爆発が起きたが、    爆薬の分量が少なすぎたため倒壊には至らなかった。橋は3月7日の午後4時5分に確保され    た。     ルーデンドルフ鉄道橋が米軍に占拠されたことを知ったドイツ軍はすぐにレマーゲンに増援    を送ろうとしたが、この時点で派遣可能なのはボンの第9装甲擲弾兵師団だけでしかも同師団    はレマーゲンまで到着する分の燃料がなかった。他の部隊からかき集めてレマーゲンに駆けつ    けたのは9日でその時には米軍は3個師団で橋頭堡を固めていた。激怒したヒトラーは責任者    5名を銃殺に処したが、元はといえばヒトラーがライン河西岸に固執するあまり東岸の守りに    目を向けなかったのが原因である。しかし、自分の非を認めないヒトラーは11日に西方総軍    総司令官のルントシュテット元帥を老齢という理由で解任した。後任はイタリア戦線を指揮し    ていたケッセルリンク元帥が任命された。ちなみにルーデンドルフ鉄道橋は17日の午後3時    過ぎに爆破時の損傷が原因で倒壊し、アメリカの工兵28名を道連れにしてラインの流れの中    に姿を消した。     レマーゲンに橋頭堡を築いた米軍は徐々にそれを拡大させていった。一方、モントゴメリー    率いる英軍は周到な準備をしてからの渡河作戦に着手した。     3月23日午後6時、渡河作戦と空挺作戦を連動させた『プランダー』作戦が開始された。    このうちライン河を渡河するのが英第2軍と米第9軍にカナダ第1軍、渡河を援助するための    空挺作戦を実施するのが英第6空挺師団と米第17空挺師団で、渡河は午後9時から始まった。    渡河は順調に進み、連合軍はヴェーゼル市街を占領した。もはや、ライン河防衛ラインはズタ    ズタに引き裂かれ、連合軍はルール地区の包囲作戦を展開した。     ルール地区は先述したようにドイツ重工業の心臓部である。ルールが占領されればドイツは    戦争を継続できなくなる。だが、同地区に配備されていたのは壊滅寸前のB軍集団であった。    司令官のモーデル元帥は再三ヒトラーに撤退を要請したが、彼から撤退を許可する命令が届く    ことはなかった。4月18日、包囲されていたB軍集団は降伏した。指揮官のモーデルはその    直前に逃亡していたが、3日後の21日にデュースブルク近郊で拳銃自決した。     【最後の反撃・東部戦線】     1943年のクルスクでの攻勢失敗を機にドイツ軍は各地で敗走を繰り返した。ルーマニア    とブルガリアはソ連に寝返り、ハンガリーもおよそ2ヶ月間の包囲戦の末に首都を失った。     このハンガリーの危機にヒトラーは第6SS装甲軍を投入して対処することにした。194    5年1月22日、ヒトラーはハンガリーでの大規模な攻勢作戦を決意した。作戦の開始は3月    6日早朝、目標は2月13日に陥落したブダペストの奪還、ハンガリーの油田地帯の確保、ド    ナウ河に進出してソ連軍のハンガリー戦線を崩壊させることである。作戦名は『春の目覚め』    とされた。     だが、作戦が成功する可能性はほとんどなかった。第6SS装甲軍はアルデンヌ攻勢で疲弊    して戦力再建の途中であったし、主攻軸とされたヴェレンツェ湖とバラトン湖の間はザルビッ    ツ運河とシオ運河がドナウ河へと流れる湿地帯で、残雪と降雨で泥濘と化していた。さらに、    悪いことにドイツ軍の攻勢をソ連軍が察知して待ち構えていたのである。     案の定、ドイツ軍はほとんど進攻することが出来なかった。戦車は道路の上しか走れず、そ    の道路はソ連の対戦車砲で封鎖されていた。第6SS装甲軍でもっとも進出できたのは第2S    S装甲軍団でザルビッツとシオの両運河が合流するシモントルニャの付近まで達した。一方、    助攻軸のバラトン湖南部とユーゴスラビアからの第2装甲軍とE軍集団麾下の2個軍団による    攻勢はまったく前進することが出来ずにいた。かくしてドイツ軍の攻勢は9日後に完全に停滞    した。     ドイツの攻勢限界を察したソ連軍はその翌日から『ウィーン』作戦を発動して反撃に出た。    ドイツ軍を悩ませた泥濘も天候の回復でこの頃には消滅していた。ヴェレンツェ湖の北方ブダ    ペスト方面からの第4・第9親衛軍による攻撃はドイツ軍の背後を突くものであった。包囲さ    れる危機に陥ったドイツ軍は撤退しか手が残されていなかった。だが、ヒトラーはそれでもド    ナウ河に進出せよと命令した。21日、ヒトラーはソ連軍の攻撃にさらされるセーケシュヘー    ルヴァールの死守を命ずるが、その命令は武装親衛隊にすら無視されるほど馬鹿げた物だった。    ドイツ軍はオーストリアに敗走し、ハンガリーはソ連軍に蹂躙された。『春の目覚め』作戦の    失敗で東部戦線の南翼は一気に崩壊した。4月13日にはウィーンが陥落し、残るは帝都ベル    リンのみとなったのである。     【帝都の攻防1・ベルリンの防衛態勢】     1945年2月、オーデル川湖畔のキュストリンがソ連の第1白ロシア方面軍の総攻撃を受    けた。キュストリンはベルリンへの最後の関門となる要衝で、ここを突破すればベルリンへの    道を阻むものはなかった。     無論、ドイツ軍にもキュストリンが陥落することの意味はわかっていた。包囲されたキュス    トリンを救出するため第9軍による反撃が3月24日と28日の2回行われたが、2回とも芳    しい成果を挙げることなく失敗に終わった。この失敗の責任を巡ってヒトラーとグーデリアン    陸軍参謀総長が口論して、グーデリアンが6週間の休養を言い渡された。事実上の解任である。    その翌日、キュストリンは陥落した。     ベルリンの東を流れるオーデル川はそのベルリンとの距離が65qしかなかった。ソ連軍は    1月末にはオーデル川に到着していたからベルリンは早期に攻略することが可能であった。だ    が、スターリンは戦後の政治的影響力を考慮してベルリンに進攻する前にドイツや東欧の主要    都市を占領する必要があると判断して、第1白ロシア方面軍のジューコフ元帥にベルリン攻撃    は待つように指示した。しかし、ベルリン攻撃を遅らせて他の地域を攻めている間にベルリン    で政変が起きて新政府が西側連合国と単独講和を結ぶ可能性もあり、無制限の攻撃延期は得策    ではないこともスターリンは理解していた。そして、スターリンは4月1日にジューコフと第    1ウクライナ方面軍のコーニェフ元帥にベルリンへの攻撃を発令した。これは今次大戦で最後    の総攻撃となる作戦である。     一方のドイツ軍の帝都防衛態勢はどうなっていたか。オーデル川流域を担当していたのはハ    インリチ元帥のヴァイクセル軍集団だが、その戦力は配下の各師団の兵員数が1945年の定    数の3割から5割、戦車の数もフォン・マントイフェル装甲兵大将の第3装甲軍で242両、    ブッセ歩兵大将の第9軍で512両とかなり頼りないものだった。さらに、弾薬も規定よりも    かなり少なかったし、火砲に至っては第9軍で700門しかなかった。防衛戦の主力となる第    9軍の兵力は9万人程度でしかなく、ドイツ軍はこれだけの兵力でオーデル=ナイセ川流域に    展開した250万のソ連軍を迎え撃たねばならないのである。     このままでは1回目の攻撃は耐えられても後が続かないと判断したハインリチは4月6日の    作戦会議でヒトラーにそのことを報告した。第9軍は以前より強化されたが第3装甲軍は戦闘    を行える状態でないことも。それに対し、ヒトラーは親衛隊と空軍・海軍からの増援14万を    与えると答えた。これを聞いてハインリチは唖然とした。ろくに地上戦の訓練も受けていない    連中を何万人与えられても何の変化もない。だが、ヒトラーは信念さえあれば戦いに勝利する    と言ってハインリチの意見を聞こうとはしなかった。     【帝都の攻防2・見捨てられた街】     4月16日、ソ連の第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍によるベルリン攻撃が開始    された。第1白ロシア方面軍はベルリンに直進する街道1号線を押さえるゼーロウ高地の突破    を図った。だが、敵を過少評価していたソ連軍は防衛戦の名手・ハインリチが構築した幾本も    の防衛線に進撃を阻まれてしまった。焦ったソ連軍は戦車軍を投入したが、圧倒的な戦力を持    ちながらソ連軍は18日までゼーロウ高地を突破することが出来なかったのである。ベルリン    攻略の栄誉を手中にしようと企んでいたジューコフはその第1歩目で躓いたのであった。     ソ連軍の攻撃を必死に迎撃するドイツ軍だが、彼等に出来るのは敵の撃退でもその進撃を阻    止することでもなく進撃を少しでも遅らせて帝都の守りを固める時間を稼ぐことだけであった。    しかし、前線の兵士が血を流しているにも関わらずソ連軍の接近に大物達の逃亡が相次いだ。    20日はヒトラーの誕生日で大物達が彼を祝福したが、その直後から大物達はベルリンを離れ    ていった。主たる面々はナチスbQのゲーリング、海軍総司令のデーニッツ、親衛隊長のヒム    ラーで、特にゲーリングはコラー空軍参謀総長に挨拶することなく身一つで逃げ出したのであ    る。     21日、ヒトラーは第4装甲軍がゲルリツ北西部で局地的な反撃で成功したという報告を受    けた。全体の戦況からしたら取るに足らない勝利だが、ヒトラーはヴァイクセル軍集団と中央    軍集団の間の隙間65qを埋める攻撃を企図した。ヒトラーはグーデリアンの後任となったク    レブス参謀総長に、第9軍は南からベルリンに迫るソ連軍の側面を東から攻撃せよ、シュタイ    ナーはベルリン−シュチェチン高速道路で北からの攻撃を阻止せよ、第3装甲軍はオーデル川    の敵橋頭堡を全て撃破して南への反攻を準備せよ、レイマンはベルリン防衛指揮官から市内南    部の戦線の指揮官とするといった命令を発した。     この中で問題となったのはシュタイナーがどこにいるか誰も知らなかったということだ。彼    の部隊は2月以降使われていなかったのである。そのシュタイナーSS中将に出された命令は    彼の名を冠した『シュタイナー作戦集団』の指揮官として配下に第4SS警察師団、第5猟兵    師団、第25装甲擲弾兵師団、第56装甲軍団を編入するというもので、シュタイナーはこの    3個師団でベルリンの北東25qのエーベルスヴァルデから南に進撃して第56装甲軍団の左    翼にまわって敵の侵攻を阻止するというものだった。これにヒトラーはさらなる命令を付け加    えていた。命令に反する将兵の処刑を命ずるというのである。驚いたシュタイナーはこの命令    は遂行できないと上司に訴えた。彼の手許にある戦力は第4SS警察師団の2個大隊のみで、    第5猟兵師団と第25装甲擲弾兵師団はすでに戦闘中で交替の第2海軍師団が到着するまでは    戦闘に使えない状態だったのである。     シュタイナーはその事を22日にヒトラーに報告した。準備が間に合わなかったので反撃は    出来ませんでしたと。それを聞いたヒトラーは激怒し、全ての希望を失った。もはや敗戦は不    可避と認識したヒトラーは死を選ぼうとした。もし、この時点でヒトラーが自殺していたらベ    ルリンは破壊から免れることが出来ただろう。しかし、ゲッペルス宣伝相とカイテル国防軍総    司令部総長、ヨードル統帥部長の親ヒトラー派幹部3人がヒトラーを懸命に説得して自分達が    崇拝する独裁者に希望を持たせたことで、ベルリン市民はこの世の地獄を体験する羽目に陥っ    たのである。
ベルリン周辺のドイツ軍の配置
    4月の18日までゼーロウ高地を突破できないでいたソ連軍だったが、ゼーロウ市の南を突    破した第1ウクライナ方面軍の第3親衛戦車軍を北上させドイツ第9軍の背後を突き、さらに    北方で第2白ロシア方面軍が26日にドイツ第3装甲軍を粉砕したことで一挙にベルリンを包    囲することに成功した。     ベルリン市街の戦闘は20日から始まっていた。この日から翌日にかけてソ連軍は南北から    市内に侵攻した。北から東の方面から第1白ロシア方面軍の第3・第5打撃軍、第8親衛軍、    第1・第2親衛戦車軍が、南西からは第1ウクライナ方面軍の第28軍と第3親衛戦車軍が市    街地に侵入し、ドイツのベルリン防衛軍と戦闘を開始した。ドイツのベルリン防衛軍の指揮官    は23日に就任したヴァイトリンク大将で配下の部隊は3月6日に編成された軍学校生徒で構    成されるミュンヘベルク装甲師団と北欧系外国人主体のSSノルトラント、第18・第20装    甲擲弾兵師団等の正規軍残存部隊の寄せ集めと民間動員の国民突撃兵である。     その頃、ベルリンの南東でソ連軍と交戦していた第9軍のブッセ司令官は上官のハインリチ    ・ヴァイクセル軍集団司令官に軍の後退の許可を求めた。電話が国防軍総司令部に盗聴されて    る場合に備えて「ベルリン周辺の戦線を維持するためにも」という言葉を添えて。報告を聞い    たハインリチはクレブス参謀総長代行に第9軍の後退許可を総統に出してもらうよう求めた。    何度かのやりとりがあった後、全部ではないがヒトラーが第9軍の後退に同意したとクレブス    歩兵大将はハインリチ元帥に伝えた。     ヒトラーが後退に同意したのは北東部の部隊だけであった。ヒトラーとその取り巻き達はヴ    ェンク装甲兵大将の第12軍がすぐにかけつけると期待しており、それまでは東側の戦線を少    しでも維持しておきたかったのだ。だが、ハインリチはそんな不確かな希望に頼るつもりはな    かった。彼はすでにベルリンの防衛に見切りを付けており、配下の部隊を西に脱出させる計画    を立てていたのだ。ハインリチはブッセにヴェンクの軍を迎える目的で1個師団を西進させる    よう命じた。ハインリチは目立たぬよう段階的に部隊を後退させて退却の既成事実を作ってし    まおうと企んでいたのである。     だが、戦況はハインリチの想像以上に悪化していた。翌日の24日、南東部から市内に侵入    していた第8親衛軍と第3親衛戦車軍がテルトフ運河沿いの市街地で合流したのである。これ    によりベルリン南東部で戦っていた第9軍は完全に包囲された。電話線も遮断され、復旧した    25日にブッセがハインリチに入れた状況報告は悲壮なものだった。明日にはもう撤退は不可    能と言うのである。ハインリチはブッセに全力で西方に脱出するように命じた。ちなみに25    日はエルベ川で東西の連合軍が邂逅した日でもある。     26日、それまでなんとか戦線を維持していた第3装甲軍がついに力尽きた。同軍を粉砕し    た第2白ロシア方面軍は敗走するドイツ軍を追撃して北部ドイツ平原に進出した。これにより    ベルリンは完全に包囲された。第3装甲軍のフォン・マントイフェル大将はハインリチの参謀    長トロータ少将に戦況を報告した。第1次大戦の末期末期ですら見たことのない惨状であると。    報告を検討したハインリチは27日に第3装甲軍の撤退を命じた。独断の命令違反にトロータ    が疑問を呈したが、ハインリチはそうすることが自分の責任であると答えた。     オーデル川の戦線を死守せよという総統命令に違反したのだからハインリチとマントイフェ    ルは28日の午後にカイテル元帥に呼び出された。命令違反を詰問するカイテルにハインリチ    は増援戦力が得られなければオーデル川の前線に部隊を戻すことは出来ないと反論した。その    日の夜、ハインリチはヴァイクセル軍集団司令官を解任され後任にマントイフェルが指名され    たが、マントイフェルはそれを拒否し第3装甲軍への命令は自分によってのみ発令されると宣    告した。この反逆でヴァイクセル軍集団司令部は事実上消滅した。     29日、ヒトラーが期待を寄せていたヴェンク第12軍の攻勢が開始された。配下の第20    軍団に属する3個師団がベルリンに向かって進撃した。「シャルンホルスト」歩兵師団、「テ    オドール・ケルナー」労働者師団、「クラウゼヴィッツ」装甲師団はベルリンのすぐ西に位置    するポツダムの南西のシュヴィーロ湖畔まで達し、包囲されていた友軍と合流したがそこまで    が限界だった。兵力不足のため側面はおろか後方も無防備だったのである。事実、ソ連軍が第    20軍団の背後を脅かし始めている。ヴェンクはベルリンまであと30qというところで進撃    を断念せざるを得なかった。彼は攻撃中止を決断するとポツダム守備隊を部隊に入れて西に脱    出する準備を始めた。この決断でベルリンを外から救援できる部隊は消滅した。ヒトラーとベ    ルリン市民は同胞に見捨てられたのである。ただ、結果的にはベルリンの防衛戦力が強化され    なかったことで市民も街も必要以上に犠牲にならずにすんだ。
    【帝都の攻防3・独裁者の最期】     かつてソ連の首都モスクワが危機に陥ったとき、スターリンは政府機関を疎開させて市内全    域にバリケードを築かせたりして戦闘を準備させた。それに対してベルリンは政府機関や国防    軍の各司令部に通信中枢に至るまで変化はなく、市民も平素と変わらない生活を送っていた。    4月上旬の時点でベルリンには300万人以上の市民が残っており、そのうち幼児が12万人    いた。市街戦が開始された後でも175万人がベルリンに残っていたと資料にある。     第3帝国の帝都に対するソ連軍の空爆・砲撃は兵・民間人の区別なくドイツ人の生命を奪っ    ていた。街は破壊され尽くされ、至る所で女子供の悲鳴が聞こえていた。砲弾やロケット弾で    倒れた人の死体はそのまま転がっていて、その多くは女性だったようだ。バケツやツボを持っ    たまま息絶えていた者もいたという。さらにそれを見下ろすようにドイツ兵の死体が街路に吊    されていた。これはソ連兵の仕業ではなく、将校一人だけの移動軍法会議がしたことだ。彼ら    は逃亡を図った兵を独断で処刑する権限を与えられていた。そのため兵は負傷しても前線から    離れることが出来ず、傷が悪化して死ぬかソ連兵に殺されるか選ぶ手段がなかった。また、市    民も負傷兵と関わろうとはしなかった。迂闊に関われば逃亡の共犯に見なされ処刑されるかも    しれないからだ。     29日午後7時52分、ヒトラーは国防軍総司令部に以下の質問をした。1.ヴェンクの先    鋒部隊はどこか?2.彼等はいつ攻撃を再開するのか?3.第9軍はどこにいるか?4.第9    軍はどこに突破しようとしているのか?5.第41装甲軍団の現在位置は?それに対するカイ    テルの回答は以下のものだった。1.ヴェンクの攻撃はシュヴィーロ湖畔の南でソ連軍の反撃    で動きを封じられている模様。2.よって第12軍のベルリン進撃はほぼ不可能。3.第9軍    は大半がソ連軍に包囲されている模様。4.1個師団が西に突破したが、その所在は不明。5.    第41装甲軍団はブランデンブルクとその北西で防御戦を展開しており、ベルリン救出作戦へ    の転用は不可能。     もはや戦局は絶望的だった。さらにヒトラーを打ちのめす事件が起きた。側近のゲーリング    とヒムラーが彼を裏切ったのである。ゲーリングは22日のシュタイナーからの報告でヒトラ    ーが錯乱したことを聞いて、自分が帝国の指導権をとってよいかという電報を打った。それに    ヒトラーが激怒してゲーリングを全ての公職から追放して親衛隊に逮捕させた。後任の空軍総    司令官はグライム大将が26日付で元帥に昇進して任命された。もう一人のヒムラーはヒトラ    ーに無断でスウェーデン赤十字のベルドナッテ伯爵を通じて西側連合軍と休戦交渉を行ってい    た。ヒトラーはそれを28日の夜に知った。     土壇場での二人の裏切りにヒトラーはもうどうすることも出来ないことを悟った。29日、    ヒトラーはかねてより交際していたエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。彼は無欲な指導者を    アピールするため妻を持とうとはしなかったし、エヴァの存在も国民には伏せられていた。だ    が、皮肉にも最後までヒトラーに付き従ったのは彼女だけだった。結党以来の側近にまで裏切    られたヒトラーにとってエヴァ・ブラウンとの結婚式は最後の安らぎになったであろう。その    翌日の午後3時頃、ヒトラーは婦人と共に自決した。ゲッベルス夫妻やホフマン、クレプスも    それに続いた。     5月1日、クレプスはソ連軍と降伏条件について話し合おうとした。しかし、ソ連軍の回答    はドイツの降伏はソ連・アメリカ・イギリス3国に対しての無条件降伏のみというものだった。    停戦に失敗したクレブスは絶望して自決した。降伏に条件を付けるにはあまりにも遅すぎたの    である。その夜、今度は第56装甲軍団参謀長のドウフィンク大佐がソ連側に出向き、改めて    ベルリン守備隊の降伏を申し出た。数時間後、ヴァイドリンクがソ連軍の指揮所で市内のドイ    ツ軍に総統の死を告げ、即時の戦闘停止を命じる声明をテープに吹き込んでそれを市内全域に    流した。ソ連軍も降伏を呼びかけ、生き残ったドイツ兵は廃墟から出てきて投降した。そして、    5月2日午前5時過ぎ、ベルリンのドイツ軍は降伏した。周辺にいた第12軍と第9軍は西に    脱出して7日にアメリカの第9軍の戦線に辿り着きそこで降伏した。その翌日の午後11時4    5分にドイツを代表してカイテルが無条件降伏文書に署名し翌9日、6年近くに及ぶ第2次世    界大戦の欧州戦線は終結した。     ベルリンの戦いは終結した。だが、市民に心休まる日は来なかった。直後の米英仏ソによる    分割統治を経て、ベルリンは東西に分裂して冷戦の最前線とされてしまうのだった。     【欧州の没落】     ここで一つの疑問がある。なぜドイツ国民と軍人は最後まで総統に従ったのか。確かにヒト    ラーに抵抗するグループは存在した。しかし、民衆のそれは単なる抵抗運動に過ぎなかったし、    軍人達も1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件を除けば首都陥落の危機に際しても命令の拒    否という消極的な反逆しかしなかった。ドイツは総統が死んで初めて戦局が絶望的であり、降    伏しか道はないと口にすることが出来たのである。     この総統への絶対的な服従は何が原因だったのか。同じ独裁者であるイタリアのムッソリー    ニは本国に戦火が及びそうになると国民や軍、彼を首相に任命した国王に見放され失脚した。    イタリア国民にとって統領ムッソリーニは一時的に必要とした存在に過ぎなかったのである。    だが、ヒトラーを選んだドイツは違った。ドイツ人は上からの命令に対する絶対的な忠誠と厳    正なる秩序と規律を美徳としていた。フリードリッヒ大王はこれで7年戦争を勝ち抜いたが、    彼と彼の国が生き残ったのはロシアの戦争離脱という強運もあったからだ。しかし、ヒトラー    は大王ほど運は良くなかった。彼の手許にあるのはどこまでも忠実な軍隊だけであった。その    忠実さは正式な停戦命令が届けられるまで戦闘を止めようとしなかったことからも証明される    だろう。     戦後、ドイツの将軍達が書いた回顧録にドイツの敗因はヒトラーの過度なまでの作戦への介    入とある。確かにそれは事実である。しかし、フランスを崩壊させたマンシュタインの作戦計    画を承認したのもヒトラーだし、そもそもヒトラーがいなければドイツ国防軍の復活もなかっ    たのである。もし、これがイタリア人なら戦争が絶望的となった1943年の時点でヒトラー    を失脚させただろう。だが、ドイツ人は違った。彼等は総統が死ぬまで彼と運命共同体だった    のである。     ベルリンの陥落で欧州の戦いは終わった。ようやく人々は戦争から解放されたのである。だ    が、彼等が手にしたのはそれだけであった。戦争が終わったとき、残されたのは灰燼に帰した    都市や村落だった。多くの人命が失われ、辛うじて生き残った者も今日を生きるのに精一杯で    戦後のことはおろか明日のこと考える余裕すら失っていた。彼等が復興に気を取られている間    に世界の主導者という地位は米ソに奪われ、ヨーロッパ諸国は世界に対する決定権を失ったの    である。     ルネサンス以来、欧州諸国は海外に進出してアフリカやアジア、アメリカ(ここでいうアメ    リカは南北アメリカ大陸)を植民地とした。彼等は競って植民地獲得に乗り出したが、あらか    たの地域が植民地化されると今度はヨーロッパ同士の対立が発生した。英仏間のファショダ事    件、独仏間のモロッコ事件、英独間の3C政策と3B政策の対立などである。そして、その対    立が頂点に達して第1次大戦が勃発し、続く第2次大戦で敗戦国はもちろん戦勝国も植民地を    維持する力をなくしたのである。     第1次大戦の終わる年である1918年にドイツのオズヴァルド・シュペングラーは『西洋    の没落』という本を執筆した。この分厚く難解な文明論は第1次大戦を体験した人々の間に評    判となり、「西洋の没落」は時代の流行語ともなった。この本でシュペングラーは崩壊の危機    に瀕しているヨーロッパのキリスト教文明社会を救うにはカエサルのような英雄が必要として    いるが、実はこの本はナチス・ドイツで必読書とされヒトラーも自分がヨーロッパの没落を救    う英雄のつもりだった。だが、皮肉にもそのヒトラーによってヨーロッパの没落は決定づけら    れてしまったのである。かくしてルネサンス以来のヨーロッパの栄光の時代は終わりを告げ、    新たなる時代が到来した。アメリカの時代である。
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