緊急指令、ドイツ新鋭戦艦を撃沈せよ
ビスマルク追撃戦

基準排水量41,700t 全長248m 最大幅36m 喫水8.7m 出力138,000hp 速力29kt 航続力19ktで8,525浬 兵装38p連装砲×4、15p連装砲×6、10.5p連装高角砲×8、 37o連装機銃×8、20o機銃×12、水上機×4、乗員2,092名
【ドイツ海軍の再出発】 【フッド撃沈】 【威信を懸けた追撃】 【巨艦の最期】
    【ドイツ海軍の再出発】     ヴィルヘルム2世の海外進出政策で短期間に増強されたドイツ海軍は第1次世界大戦での敗    北でその戦力を激減させた。しかし、それはイギリス海軍との決戦に敗れた結果ではなかった    ためドイツ海軍に敗北という意識はなく、ベルサイユ条約で海軍力が大幅に制限されるとそれ    に不満を抱いた。     戦後のベルサイユ体制でかつてのような大海軍を保持できなくなったドイツは条約の制限内    で可能な限り強力な軍艦を建造しようと苦心を重ねてポケット戦艦という独特な軍艦を建造す    るに至った。このポケット戦艦はフランス海軍との戦闘を意識して造られたものでしばらくは    フランスとの建造競争が展開された。     だが、このような状況はかつてイギリス海軍と覇を競ったドイツ海軍にとって満足できるも    のではなかった。海軍上層部の中には再びイギリス海軍と相まみれたいと思う軍人もいただろ    うが、当時のワイマール政府は海軍に対して好意的でなく、ポケット戦艦の建造にも反対して    いた。     そうした状況が一変したのは1933年にヒトラーが政権を掌握してからだった。熱心な再    軍備主義者のヒトラーはその最大の障害であるベルサイユ条約を1935年3月16日に破棄    して再軍備を宣言した。さらにヒトラーは連合国特にイギリスの反発をかわすため6月18日    に同国と海軍協定を結び、ドイツの保有艦量をイギリスの35%(潜水艦は45%で他艦種と    引き替えに100%の保有を認められた)と規定してイギリスと争う気がないことをアピール    した。イギリスもカイザーの大海軍が対英60%以上の戦力を有していたのを新生ドイツ海軍    のそれを35%に抑えられたことで建艦競争の相手が一つなくなったことに満足した。     だが、イギリスとドイツの協定はフランスに何の相談もなく行われたものでフランスはそれ    に不満を抱いた。ドイツはイギリスの35%というフランスと同等の海軍力を合法的に保有す    ることを認められたのである。1935年5月27日に設定されたドイツの戦闘序列はフラン    スとソ連を想定したもので、この時点ではまだドイツにイギリスと戦争する気がないことを窺    わせる。     ようやくまともな海軍が建設できるようになったドイツはワシントン軍縮条約に加盟してい    ないことを利用して列強よりも強力な戦艦の建造をスタートさせた。それが竣工当時世界最大    の戦艦であるビスマルク級であり、さらにドイツは1945年までにイギリスと戦えるだけの    艦を建造する『Z計画』を1939年1月29日に発動させた。     Z計画はかつてのカイザーの大海軍のような正統派の海軍の建設を目指したものだったが、    海軍の内部にはそれに疑問を抱く者もいた。ドイツが海軍を増強すればイギリスもそれに対抗    することは明かであり、そうした場合は後発のドイツが不利であることはすでに経験済みの筈    だ。ドイツがイギリスと五分に戦えるようになるには当然イギリス以上の艦艇を建造する必要    があるのだが、果たしてドイツにそれだけの経済的余裕があっただろうか。さらにドイツには    地形的に陸軍を優先せざるを得ない問題があった。潜水艦部隊のカール・デーニッツ大佐は潜    水艦を中心とした通商破壊用の艦隊を整備すべきだと提唱したが、海軍総司令官のレーダー提    督はそれに耳を貸さなかった。そして、海軍のことは何も知らないヒトラーは見た目が派手な    レーダー案を承認するのだった。     ドイツはZ計画の終了を1944年としており、計画の完成時点で戦艦13隻、空母4隻、    装甲艦15隻、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦46隻、駆逐艦68隻、水雷艇90隻、潜水艦249    隻を保有することを目指した。これが達成できたら日本以上の海軍国となるはずであったが、    実際は計画開始わずか7ヶ月にして対英戦争が勃発してZ計画で建造を予定された艦艇は軒並    み建造中止に追い込まれた。ドイツ海軍は想定されたよりはるかに劣勢な戦力でイギリスに立    ち向かうことを余儀なくされたのである。イギリスが宣戦布告してきたことを知ったヒトラー    は周囲に「さて、どうするかね」ともらしたが、ドイツ海軍も同じ事を言いたかっただろう。    もし、デーニッツが提唱したように潜水艦の整備に力を注いでいればイギリスの海上護衛戦術    が熟達するまでに大量のUボートを投入して、史実以上の打撃を英国に負わせることができた    だろう。だが、実際には開戦の時点でUボートは建造中の含めて60隻ほどでしかなく、大西    洋で活動できるのは15〜20隻程度であった。すべては後の祭りであった。     【フッド撃沈】     ドイツの通商破壊戦と言えばUボートによるものが有名だが、当初海軍上層部の構想では水    上艦艇こそが通商破壊戦の主役であった。戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、装甲艦アド    ミラル・シェーア、ヒッパーなどの大型艦艇はイギリス海軍の監視の目をかいくぐって大西洋    に進出しそこそこの戦果を挙げることに成功した。これに気をよくした海軍上層部は期待の新    戦艦ビスマルクを投入すればさらなる打撃をイギリスに与えられると確信した。レーダー提督    はこのビスマルクと重巡プリンツ・オイゲン、シャルンホルストとグナイゼナウの2つのチー    ムを出撃させれば、イギリス海軍はこれらの捜索と撃破のために戦艦を船団護衛から外さざる    を得ず、船団攻撃が容易になると考えた。     だが、イギリス空軍の空爆でシャルンホルストとグナイゼナウが損傷して出撃不能になると    レーダーの構想はご破算となった。すると、レーダーはビスマルクが敵戦艦を吸引してプリン    ツ・オイゲンが船団攻撃を行うように方針を変え2隻だけの出撃を決めた。この部隊を指揮す    るギュンター・リュトイェンス大将は1941年1月23日から3月22日にかけて巡洋戦艦    部隊を率いて敵国の船舶115,622トンを沈めた実績の持ち主だったが、イギリスの海上    警戒が整いつつあるある状況で事実上の単艦出撃となることに危険を感じ、シャルンホルスト    の修理が完了するまで出撃を見合わせることを提案した。本音はビスマルクの姉妹艦ティルピ    ッツの準備完了まで待つか、準備不足でもティルピッツを出撃させたいところだろうが、レー    ダーは地中海戦域が牽制作戦を早急に必要にしていること、出撃が遅れればそれだけイギリス    に時間を与えることになり余計に出撃が困難になることなどを理由にこれを却下した。この時    期は日本とアメリカの対立が深刻化しており、アメリカが連合国側として参戦するという最悪    のケースも考えられた。     結局、レーダーの主張通りライン演習作戦は発動されることになり、ビスマルクは5月18    日正午、プリンツ・オイゲンを率いてゴーテンハーフェン(現ポーランドのグダニスク)を出    港した。ウルトラ情報でその事を察知したイギリスはただちに警戒命令を出し、重巡サフォー    クとノーフォークに捜索を命じた。航空偵察で敵艦がビスマルクであることが判明すると、イ    ギリス本国艦隊司令長官サー・ジョン・トーヴェイ大将はランスロット・ホランド中将が指揮    する巡洋戦艦フッドと戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、駆逐艦6隻からなる部隊をスカパ・    フローから出撃させた。22日夜になってさらなる情報が届くとトーヴェイは戦艦キング・オ    ブ・ジョージ5世(本当なら6世となるはずだったが、6世の意向で父王の名が冠された)に    座乗して空母ビクトリアス、軽巡4隻、駆逐艦6隻と共に出撃した。途中で巡洋戦艦レパルス    もこれに合流した。     トーヴェイはビスマルクを大西洋に逃がせば追跡が困難になるとして、途中の狭い海域で網    を張ることにした。           アイスランド〜グリーンランド間のデンマーク海峡           アイスランドとフェロー諸島の間           フェロー諸島とシェトランド諸島の間           シェトランド諸島とオークニー諸島の間のフェア諸島の海峡           オークニー諸島〜スコットランド間のペントランド海峡     ドイツ艦部隊がノルウェー沿いに北上して北から大西洋に侵入するとすれば考えられるルー    トは上の5つだが、このうち最後のペントランド海峡のルートは本国艦隊の本拠地であるスカ    パ・フローの間近を通るため敵がこれを選択することは有り得ないとして残り4つに警戒を強    めることにした。     23日19時15分、デンマーク海峡を捜索していたサフォークは対水上の見張り用レーダ    ーで近くに大型艦が存在することを察知した。サフォークは接近してそれをビスマルクと確認    したが、エリス艦長は艦を濃霧の中に避難させた。続いて到着したノーフォークもビスマルク    に砲撃されてあわてて濃霧に逃げ込んだ。2艦はレーダーでビスマルクの位置を確認し、それ    を友軍に打電し続けた。その通信はビスマルクも傍受しており、22時にはサフォークを攻撃    しようと180度回頭したが、英巡洋艦が高速を活かして離脱するとリュトイェンスは追撃を    諦めた。     夜が明け、24日の朝となった。相変わらず英巡洋艦の追跡は続いている。ビスマルクの乗    組員はそれを忌々しく眺めていただろう。と、その時、左舷の見張り員が水平線上に上る煙を    発見した。やがてマストも確認され、戦闘配置が発令された。     5時53分、敵艦が発砲を開始した。その閃光からして巡洋艦の主砲によるものではなかっ    た。ビスマルクの砲術長アダルベルト・シュナイダー中佐は発砲の許可を申請したが、すぐに    返事は返ってこない。リュトイェンスが応戦を命じたのは敵艦の発砲から2分後、敵艦の1隻    が巡洋戦艦フッドであることが報告されてからである。英艦隊にはもう1隻、戦艦プリンス・    オブ・ウェールズ(POW)もいた。駆逐艦はすべて落伍している。     このフッドとプリンス・オブ・ウェールズは正反対の戦艦である。フッドは艦齢が20年を    超えた老朽艦であるのに対し、プリンス・オブ・ウェールズは竣工したての新鋭艦でまだ準備    不足の段階であった。主砲も完全ではなく、造船所の技術者を乗せたまま出撃していた。当然、    練度も低く、ドイツ艦隊はこれを同型艦キング・ジョージ5世と誤認した。同じく準備不足だ    ったティルピッツを出撃させなかったドイツ海軍としてはプリンス・オブ・ウェールズが出て    くるはずがないと思い込んでいたのだ。これが両者の海に対する自信の差である。     まあ、そんなわけだから英戦艦部隊の指揮官ホランド中将は歴戦のフッドに座乗して指揮を    執った。フッドは1920年の竣工以来、20年間世界最大の戦艦の座に君臨し、英国海軍の    みならず国民からも慕われた大英帝国海軍の象徴である。主砲もビスマルクと同じ15インチ    砲8門と同等の攻撃力を誇る。
battleship Hood
    当初、ホランド中将は巡洋艦2隻をプリンツ・オイゲンにあたらせ、自ら指揮する2隻の戦    艦でビスマルクと戦う作戦を立てていたが、予想よりも早く敵艦と接触したためにフッドとプ    リンス・オブ・ウェールズだけで戦うことにし、敵艦との距離を縮めようとした。ホランドが    距離を詰めようとしたのは大角度から落下する砲弾を警戒したのと、練度不足のプリンス・オ    ブ・ウェールズでは遠距離砲戦は困難だと判断したためである。1916年5月31日のジュ    ットランド海戦ではフッドと同じ巡洋戦艦が遠距離から放たれた砲弾が真上から落下して防御    の薄い弾薬庫や砲塔上部を貫通して撃沈されているのでそれを恐れたのだ。     先手を打って距離23,000mから砲撃を開始した英戦艦部隊だが、この時右前方にドイ    ツ艦隊がいたため英戦艦は2隻とも前方の主砲しか使えなかった。しかも、フッドはプリンツ    ・オイゲンをビスマルクと誤認してしまっていた。プリンス・オブ・ウェールズは最初からビ    スマルクに対して砲撃を仕掛けていたが訓練不足のため有効な打撃を与えることができなかっ    た。これに対し、ドイツ艦隊は全火力をイギリス艦隊に指向させることができ、フッドに砲撃    を集中させた。しかも、その砲撃は正確であった。     5時57分、プリンツ・オイゲンの第4斉射の一弾がフッドのボート・デッキに命中して高    角砲弾が誘爆を起こし、後檣前部あたりから火災を発生させた。ホランドは劣勢を挽回すべく    左に回頭するよう命じた。後部の主砲も使えるようにするためである。     ところが、その直後の6時にビスマルクの第5斉射でフッドの上甲板から主砲弾火薬庫が撃    ち抜かれたのだ。2番煙突と後部マストの間から火柱が立ち上り、フッドはその巨体を真っ二    つに折られ、海中に没した。砲撃戦が始まってわずか数分であった。ホランド中将以下、14    77名が海に投げ出され、救助されたのはたったの3名に過ぎなかった。     フッドを撃沈したビスマルクは残ったプリンス・オブ・ウェールズに狙いを定めた。旗艦が    突然姿を消したことに唖然としていたプリンス・オブ・ウェールズは、ビスマルクの15イン    チ砲弾4発とプリンツ・オイゲンの8インチ砲弾3発を受け、リーチ艦長と掌信号長の二人を    除く艦橋の全員が死亡、艦尾水線下の船殻を敵弾が貫通して600トンの海水が浸水した。     運良く生き残ることができたリーチ艦長は主砲が斉射不可能になったこともあって、勝ち目    はないと判断して撤退を命じた。煙幕を展開しながら撤退するプリンス・オブ・ウェールズを    追撃して撃沈すればビスマルクは完全勝利を手にすることができる。しかし、リュトイェンス    は軍艦との極力避けるのが原則の通商破壊のセオリーに従って追撃を命じなかった。彼はロイ    ヤル・ネイビーの象徴であるフッドを撃沈し、本国艦隊の旗艦であるキング・ジョージ5世を    撃退したことで十分ビスマルクの実力をアピールできたと考えていたのだ。リンデマン艦長は    追撃を主張したが、リュトイェンスはそれを却下した。     アイスランド沖海戦はドイツ側の勝利に終わったが、ドイツ艦隊の損害も軽微ではなかった。    プリンツ・オイゲンは無傷だったが、ビスマルクはプリンス・オブ・ウェールズの14インチ    砲弾3発を受け、艦首左舷と左舷中央部、短艇のマストに命中していた。浸水は2,000ト    ン近くに達し、それによって艦首の吸込弁やポンプが使用不能となり、前部燃料タンクが使え    なくなってしまった。また、浸水によって艦首が沈み、船体が左舷寄りに9度傾斜した。バラ    ストタンクへの注水で回復はしたが、早急に修理は必要であった。     リンデマンは速度を落として破孔を塞ぐよう進言したが、リュトイェンスは未だ追跡を続け    ている英巡洋艦がいる限り、速度を落とすことは敵による包囲網が狭まるのを待っているのと    同意味であるとして拒否した。事実、イギリス海軍はその総力を挙げてビスマルクを追ってい    たのだ。
    【威信を懸けた追撃】     フッドが撃沈されたことはイギリス海軍だけでなく英国国民に大きな衝撃を与えた。国民か    ら「マイティ・フッド」との愛称で慕われたフッドをわずか数分で撃沈された英国海軍は、失    われた名誉を回復するため船団護衛に従事していた艦艇までも動員してビスマルクの撃沈にや    っきになった。     一方、リュトイェンスはビスマルクの被害状況が明らかになるにつれ、大西洋に出て通商破    壊に従事するのは不可能としてライン演習作戦の中止を決意し、フランスのサン・ナゼールに    進路を変えることにした。     正午頃、損傷したプリンス・オブ・ウェールズが追跡に加わった。夕暮れ時になって暴風雨    に遭遇すると、リュトイェンスはプリンツ・オイゲンを離脱させて独自に行動させた。その直    後、ビスマルクは敵艦隊に発砲し、それに敵艦も撃ち返してきたが互いに命中弾はなかった。     23時30分、空母ビクトリアスから発進した複葉のソードフィッシュ雷撃機9機が飛来し    た。この時期のこの海は夜でも昼間のように明るい。着艦訓練もろくにしていない(ビクトリ    アスは竣工直後)パイロットばかりだったが、ビスマルクの右舷中央部に魚雷1本を命中させ    ることに成功した。直後、三度プリンス・オブ・ウェールズが砲撃してきたが、視界が悪かっ    たため双方とも2斉射のみの発射で終わった。     空母機の襲来で付近に敵空母が存在することを知ったリュトイェンスは何としてでも追跡を    振り切ろうとした。すでに味方潜水艦の活動圏内に入っていたので、英艦隊はジグザグ航行に    入っていた。そして、25日の3時過ぎ、サフォークが変針して距離が開いたすきにビスマル    クは西から北西、そして北と円を描くように転舵した後にサン・ナゼールに艦首を向けた。こ    の意表を突いた運動でビスマルクは英艦隊の追跡を振り切ることに成功した。この日はリュト    イェンス大将の誕生日で、レーダー元帥やヒトラー総統から祝電が届けられた。     サフォークのレーダーがビスマルクをロフトしたという報告はトーヴェイ大将や海軍省を落    胆させた。ビスマルクの損傷の具合がわからないイギリス海軍は捜索網を広げるのを強制され、    船団を守る艦艇の数は益々減っていった。イギリス海軍は海や空で敵艦を捜したが、丸1日か    かってもビスマルクを発見することはできなかった。     だが、イギリス海軍はどういうわけか運が良かった。敵が自分達を見失ったことを知らなか    ったリュトイェンスが本国に未だ追跡を受けていると2本も打電したのだ。あわてて西部管区    司令部が英巡洋艦の触接報告がすでになくなっていると知らせたが、ビスマルクが発した無線    電波はイギリスにキャッチされていた。ただちにビスマルクの大まかな位置が捜索部隊に伝え    られたが、トーヴェイが直率する部隊は計算ミスで間違った方向に進んでしまった。海軍省か    らの再三の警告でミスに気づき、針路を修正したがすでに敵艦との距離は150マイルに開い    ていた。もし、このままビスマルクに逃げられてしまっては大量の艦艇を動員してまで彼女を    追っていた大英帝国海軍の威信は失墜してしまう。何としてでもビスマルクを発見して撃沈し    なければならない。だが、巡洋戦艦レパルス、空母ビクトリアス、巡洋艦サフォーク、戦艦プ    リンス・オブ・ウェールズなどが燃料不足で相次いで脱落し、トーヴェイの手駒は減っていっ    た。     捜索部隊の艦艇が減少する中、北アイルランドから発進したカタリナ飛行艇が26日の10    時15分にビスマルクを発見した。カタリナからの報告でトーヴェイはビスマルクの位置を確    認したが、キング・ジョージ5世は敵艦から北に135海里も離れていた。一番近くにいた部    隊でも50海里と敵から離れていた。フランスの港に逃げ込まれる前にビスマルクの速度を落    とさなくては。頼りは航空機だった。     14時50分、空母アークロイアルから雷撃機15機が発進した。ところが、この部隊はあ    ろうことかビスマルクに接触していた友軍の軽巡洋艦シェフィールドを敵と誤認して魚雷を投    下するというミスを犯してしまった。幸い、魚雷が欠陥品で味方艦を撃沈するという失態は避    けられた。     19時15分、欠陥品の信管を取り替えた魚雷を搭載した第2波が発進した。この時、海軍    司令部からの命令でビスマルクの援助に向かっていたU556がアークロイアルを雷撃できる    位置にあったが、すでに6隻の商船を沈めた帰りだったので魚雷が残っていなかった。もし、    魚雷が残っていたら沈没までは至らずとも艦を傾斜させて搭載機の発艦を不可能にさせること    はできたはずだ。U556とビスマルクは同じブローム&フォス造船所で建造された間柄で、    両艦の乗組員には親交があったのでU556のヴォールファルト艦長は何とかビスマルクを助    けてやりたかっただろうが、魚雷が無くてはどうすることもできず敵空母を見送るしかなかっ    た。     Uボートの雷撃を免れたアークロイアルの雷撃機は20時30分にビスマルクへの攻撃を開    始した。彼等からの報告で敵に命中した魚雷は中央部への1本のみと知らされたトーヴェイは    落胆したが、これは誤報で実は右艦尾にも魚雷が命中していたのだ。しかも、その衝撃で全操    舵室と中央軸路が浸水してポンプも使用不能となってしまった。この損傷でビスマルクは右に    舵を切ることができなくなり、左への回頭を続けるしかなかった。ドイツ海軍の演習では魚雷    1本の命中で操舵不能になる確率など1/100,000以下だとされていたが、この時のイ    ギリス軍は本当に運が良いとしか言い様がなかった。     【巨艦の最期】     半身不随となってしまったビスマルクは、乗組員達が何とか舵を修復しようとするが、舵機    室までは海水がすごい勢いで行き来しており、何人もの乗員がそこに辿り着くまでに命を落と    した。ようやく1人が継ぎ手まで辿り着いたが、そこでわかったのはどうしようもないという    事だけだった。     22時30分、動きが鈍いビスマルクをイギリスの第4駆逐隊が襲撃した。この部隊は護衛    艦艇がいなくなったキング・ジョージ5世の直衛につくように命令されていたが、司令官のヴ    ァイアン大佐は近くにビスマルクがいると知ると、キング・ジョージ5世と合流する前にこれ    を攻撃することにしたのだ。双方は激しく撃ち合ったが、ビスマルクは運動能力が著しく低下    していたし、イギリス軍も荒天の中での戦闘だったので互いに戦果を挙げることなく、翌日の    3時に戦闘は終了した。ビスマルクは敵駆逐艦3隻を撃沈破したと発表し、イギリス側もマオ    リ、コサック、シークが魚雷を命中させたと報告したが、これは視界が悪く、スターシェルの    光を爆発と誤認したためである。     この戦闘の前、21時40分にリュトイェンスは西部管区司令部に訣別電を打電した。西部    管区司令部や海軍最高司令部、さらにはヒトラー総統からは空軍の支援を準備しているとか、    フッド撃沈の功により騎士十字章を授与とするといったビスマルクを励ます返電が翌日の9時    まで発信されたが、それに対する返電は返ってこなかった。     27日の朝になってビスマルクの命運が尽きたと悟ったリュトイェンスは戦闘日誌をフラン    スに運ぶためアラド水上機の発進を命じたが、カタパルトの故障で発進はできなかった。代わ    りにあのU556が受け取りに来ると通報があったが、これもタイミングが合わずに実現しな    かった。戦闘日誌は後に生存者の証言から復元されたが、リュトイェンスの行動の動機などは    永遠に解明されることは無かった。     プリンツ・オイゲンが既に去り、孤立無援となったビスマルクをついに英国本国艦隊が捕捉    した。一番最初に接触したのは重巡ノーフォークで7時53分の事だ。同艦からの打電で戦艦    キング・ジョージ5世とロドネー、重巡ドーセットシャーが西と東から駆けつけた。     8時47分、ロドネーの砲撃でビスマルクと英海軍の最後の戦いが始まった。1分後にキン    グ・ジョージ5世も砲撃を開始し、ビスマルクもその1分後に応戦した。両国の戦艦は反航戦    の形を取り、その距離は2万mを切っていた。ビスマルクはロドネーに狙いを絞り、その射撃    未だ正確であることを証明したが、8時54分にノーフォークが砲撃を開始し、9時02分に    ロドネーの砲弾がビスマルクの艦首に命中し、9時04分にドーセットシャーが砲撃戦に参加    すると、ビスマルクは周囲から滅多打ちとなった。前部砲塔二つが沈黙し、照準器も破壊され    たため統一射撃ができなくなった。9時17分にはロドネーが雷撃を敢行した。     魚雷は命中しなかったが、ロドネーはビスマルクに接近して同航戦の態勢で砲撃を加えた。    キング・ジョージ5世も南から反転してビスマルクを砲撃した。ビスマルクはなす術もなく撃    たれ続け、9時31分の斉射を最後に15インチ主砲が全て沈黙した。これに対し、イギリス    艦隊の攻撃は熾烈を極め、4隻からは1秒間に1発の割合で砲弾が発射された。キング・ジョ    ージ5世からは14インチ砲弾339発と4.5インチ砲弾660発、ロドネーから16イン    チ砲弾380発と6インチ砲弾716発、ノーフォークから8インチ砲弾527発、ドーセッ    トシャーから8インチ砲弾254発が発射されビスマルクは廃墟と化した(6インチは軽巡の    主砲クラス、4.5インチは日米の駆逐艦の主砲よりやや小さいが英国のはこのくらい、ちな    みに戦艦大和の主砲は18インチ)。魚雷も駆逐艦の分も含めると71本に達した。     もはや、勝敗は決した。ビスマルクは炎上し上部構造物はボロボロに破壊され、主砲の砲身    も完全に停止した。その惨状はトーヴェイ大将すら「あの中にはいたくないな」と漏らすほど    だった。     だが、ビスマルクは防御重視のドイツ軍艦の伝統を発揮してその堅牢さを見せつけた。キン    グ・ジョージ5世の主砲塔が故障し、ロドネーが自らの斉射で上甲板に亀裂が生じたというの    に完全な鉄屑であるはずのビスマルクはなかなか沈む気配を見せないのだ。もう2隻の英戦艦    には帰還できるだけの燃料しかなかった。途中で立ち往生となればUボートの格好の餌食にな    ってしまう。トーヴェイは自らの手でビスマルクを葬ることを断念するしかなかった。10時    16分、トーヴェイは砲撃を中止させて北東に針路を取らせた。     10時20分、ドーセットシャーが距離3,000mから2本の魚雷を発射した。魚雷は右    舷艦橋直下と艦尾に命中したが、それでもビスマルクは沈まなかった。ドーセットシャーはさ    らに左に回り込んで36分に3本目を距離2,200mから発射した。その直後、ビスマルク    はゆっくりと横転して転覆、海中にその姿を消した。乗員約2,200人のうち生存できたの    は115名で3名はU74に残りはドーセットシャーと駆逐艦マオリに救出されたが、その中    にリュトイェンス提督とリンデマン艦長の姿はなかった。リンデマン艦長は転覆前の艦首に立    って敬礼する姿を目撃されているが、リュトイェンス提督と幕僚達の最期はわからない。沈没    地点は北緯48度10分、西経16度12分、フランスのブレスト沖440海里の地点で、ド    イツ空軍の活動圏内まで後一歩のところであった。イギリス海軍は辛うじて面目を施すことが    できたのである。     ビスマルクの沈没はそれまで成功を収めていた大型艦による通商破壊が事実上不可能となっ    たことを意味していたが、レーダーをはじめとするドイツ海軍首脳はそう悲観的になることは    なかった。ビスマルクはロイヤル・ネイビーの象徴であったフッドを撃沈し、英本国艦隊を相    手にたった1隻で戦い、最後は舵をやられて自沈したと信じていたからである。     だが、ビスマルクの沈没はそれまで自らを陸上動物と称し、海軍には興味を示さなかったヒ    トラーの介入を招くこととなった。ヒトラーはレーダーが提唱する大型艦による通商破壊に疑    念を持っており、そのような戦術は臆病かつ効率の悪いものと考えていた。彼にとってそれが    実証されたのがライン演習作戦の失敗であった。以後、ドイツ海軍は安全と引き替えに活動範    囲が限定されることを意味するチャンネル・ダッシュの決行と、ヒトラーによる大型艦解体命    令とそれに抵抗したレーダー元帥の罷免を経て、潜水艦を主力とする海軍となっていくのであ    る。
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