造艦思想に大きな影響を与えた英独艦隊決戦
ジュットランド沖海戦


 
          イギリス本国艦隊(J・R・ジェリコー大将)
       旗艦 アイアン・デューク
          軽巡1 駆逐艦2
       第1戦艦戦隊(セシル・バーネー中将)
          マールバラ リヴェンジ ハーキュリーズ エジンコート コロッサス
          コリンウッド ネプチューン セント・ヴィンセント
          軽巡1
       第2戦艦戦隊(T・H・M・ジェラム中将)
          キング・ジョージX世 エイジャックス センチュリオン エリン
          オライオン モナーク コンカラー サンダラー
          軽巡1
       第4戦艦戦隊(D・スターディ中将)
          ベンボウ ベレロフォン テメレーア ヴァンガード シュパーブ
          ロイヤル・オーク カナダ
          軽巡1
       第3巡洋戦艦戦隊(ホレン・H・L・A・フッド中将)
          インヴィンシブル インドミタブル インフレキシブル
       第1巡洋艦戦隊
          装甲巡洋艦4
       第2巡洋艦戦隊
          装甲巡洋艦4
       第4軽巡洋艦戦隊
          軽巡4
          第12水雷戦隊 駆逐艦16
          第11水雷戦隊 軽巡1 駆逐艦15
       第4水雷戦隊
          駆逐艦19
 
       巡洋戦艦戦隊(デービッド・ビーティー中将)
          旗艦 ライオン
       第1巡洋戦艦戦隊(O・de・B・ブロック中将)
          プリンセス・ロイヤル クィーン・メリー タイガー
       第2巡洋戦艦戦隊(W・C・バケンハム中将)
          ニュージーランド インディファティガブル
       第5戦艦戦隊(H・エバン・トーマス中将)
          バーラム ヴァリアント ウォースパイト マレーヤ
       第1軽巡洋艦戦隊
          軽巡4
       第2軽巡洋艦戦隊
          軽巡4
       第3軽巡洋艦戦隊
          軽巡4
 
       第1水雷戦隊
          軽巡1 駆逐艦9
       第13水雷戦隊
          軽巡1 駆逐艦10
       第9水雷戦隊
          駆逐艦4
       第10水雷戦隊
          駆逐艦4
       水上機母艦エンガーデン
 
 
 
 
 
 
          ドイツ高海艦隊(ラインハルト・シェーア中将)
       旗艦 フリードリッヒ・デア・グローセ
       第3戦艦戦隊(ベーンケ中将)
          ケーニヒ グローサー・クルフュルスト マルクグラーフ カイザー
          クローンプリンツ プリンツレゲント・ルイトポルト カイゼリン
       第1戦艦戦隊(エルハルト・シュミット中将)
          オフトフリースラント チューリンゲン ヘルゴラント オルデンブルク
          ポーゼン ラインラント ナッソー ヴェストファーレン
       第2戦艦戦隊(マウベ中将)
          ドイッチュランド ボンメルン シュレージェン ハノーバー ヘッセン
          シュレスヴィヒ・ホルシュタイン
       第1駆逐艦部隊
          駆逐艦4
       第3駆逐艦部隊
          駆逐艦7
       第5駆逐艦部隊
          駆逐艦11
       第7駆逐艦部隊
          駆逐艦9
 
       第1偵察群(フランツ・ヒッパー中将)
       第1偵察隊
          リュッツオウ デアフリンガー ザイドリッツ モルトケ フォン・デア・タン
       第2偵察隊 
          軽巡4
       第4偵察隊
          軽巡5
 
       駆逐艦部隊
          軽巡1
       第2駆逐艦部隊
          駆逐艦10
       第6駆逐艦部隊
          駆逐艦9
       第9駆逐艦部隊
          駆逐艦11
 
 
 
 
                両軍の戦力比較
       大英帝国
       超ド級戦艦18 ド級戦艦10 超ド級巡洋戦艦4 巡洋戦艦5 装甲巡洋艦8
       軽巡洋艦23 駆逐艦79
 
       ドイツ第2帝国
       ド級戦艦16 前ド級戦艦6 巡洋戦艦5 軽巡洋艦10 駆逐艦61
 
 
 
 
【ドイツ海軍】 【ドレッドノート】 【大艦隊決戦】 【戦艦の新しい時代】
    【ドイツ海軍】     ドイツという国に海軍が誕生したのは1853年で当時はプロイセン海軍であった。もっと    も、当時は陸軍の輸送手段という位置づけで本格的なものではなかった。陸軍国であるプロイ    センで海軍が理解されなかったのも当然である。そのプロイセン海軍も1866年に北ドイツ    連邦海軍に、1871年にドイツ帝国海軍と改名されていくにつれその重要性が認識されるよ    うになった。     ドイツ海軍が発展するきっかけとなったのは1888年6月15日のフリードリッヒ・ヴィ    ルヘルム2世の即位であった。29歳の皇帝はドイツの発展への道は海外進出しかないと主張    し、「ドイツ帝国は世界帝国〜」といった様々な演説を行って議会の説得に努めた。というの    も海軍予算は議会の承認を必要としていたのだ。1897年6月に海軍大臣に就任したアルフ    レート・フォン・ティルピッツは議会に予算を握られていては軍艦の建造計画もままにならな    いと考え、予算とは別枠で法律によって定められるべきだとした。そして、様々なキャンペー    ンを実施した結果、1898年に第1次艦隊法が成立し、ついでそれをほぼ倍増させた第2次    艦隊法が1900年に成立してドイツはイギリスを意識した大艦隊の建設が可能となった。     ドイツの急速な海軍増強はイギリスを強く刺激した。1906年、イギリスは戦艦ドレッド    ノートを就役させて海軍大国としての力を誇示したが、これはさらなる建艦競争を引き起こし    ただけだった。ドレッドノートの竣工で既存の戦艦だけでなく、建造中の戦艦も一挙に旧式化    してしまったのだが、その旧式戦艦をもっとも多く保有していたのがイギリス海軍で新興海軍    であるために旧式戦艦を多く持たなかったドイツ海軍との差を縮めてしまったのだ。     だが、ヴィルヘルム2世の海外進出政策は普仏戦争以来安定を保っていた欧州大国間の関係    を悪化させていく結果となった。帝国初期のイギリスとの友好関係、ロシアやオーストリアと    の同盟関係でフランスを孤立させたが、ヴィルヘルム2世の時代になると同盟国と呼べる国は    老いたオーストリア・ハンガリー帝国だけとなり、逆にドイツが孤立してしまうことになった。     さらにドイツ海軍は歴史と伝統がある陸軍とは異なり、家柄を自慢できない中産階級にも昇    進の機会があるとしてそれらの階層の人々がすすんで参加したが、20年足らずの間に急激に    規模も役割も変容したためティルピッツが「ドイツは海を理解しない」と嘆いたほど士官や水    兵の教育が徹底できない欠点があった。     こうした状況のためかティルピッツはドイツ海軍の基本コンセプトをイギリスに対する抑止    力とした。抑止力つまり直接戦うのではなく、相手に戦うことを躊躇させるということである。    カイザーの大海軍はロイヤルネイビーの60%の戦力を有しているらしく、日本海軍が70%    以下なら守勢に徹しても勝利はおぼつかないとしていたことからすると、たしかに6割しか戦    力がないドイツ海軍にイギリス海軍を撃破する可能性は小さい。しかし、一方的にやられるわ    けではなく、イギリス海軍にもそれ相応の損害は与えられるだろうから、イギリスとしてはド    イツ海軍を打倒してもそれで被る損害によって世界最強の海軍という地位を維持できなくなる    のでは積極的にドイツ海軍と事を構えようとはしないのではという発想である。     このティルピッツの戦略は統一によって工業力が増大しても、そのはるか以前から産業革命    を成し遂げ、多数の植民地を有し、工業も発達しているイギリスの海軍力に互角に戦えるだけ    の戦力も整えられないドイツ海軍の基本戦略としては妥当なものかもしれない。     しかし、この戦略には致命的な欠陥があった。米ソの全面戦争を抑止した弾道ミサイルなど    とは異なり、軍艦というのは人という要素を無視することはできない。軍艦乗りというのは極    端な話ライフル銃の操作だけ覚えられたらそれでいい歩兵と違って、軍艦というハイテク技術    のかたまりを扱う以上、専門的な知識や技術を修得する必要がある。やはり苦労して会得した    技能だから彼等は誇りを持っている。しかし、長期間港を出ない軍艦を見れば彼等の士気は低    下する。高度な専門技術を身につけてもそれを発揮できる機会がないのでは士気が下がるのは    当然である。海軍を抑止に使うというのは聞こえはいいかもしれないが、ようするにまともに    戦っては到底勝ち目がないので港に籠もってジッとしてましょうということだ。戦わない軍艦    など筏よりも価値が低い。そして、士気が退廃した水兵達は不満を募らせやがて反乱を起こし、    第2帝政に終止符を打つのだから、ティルピッツが考案した海軍戦略は国家体制そのものを崩    壊させる結果を招いたことになる。     【ドレッドノート】     世に近代戦艦が誕生したのは19世紀の後半になってからだった。そして、1860年代か    ら英仏による建艦競争が始まった。当時、大量の鉄と機械を要する戦艦の建造が可能なのは他    国に先がけて産業革命を成し遂げた英仏2ヶ国だけであった。     戦艦というのはただ他の艦種よりも船体を大きくして砲も大きいのを載せておけばできると    いう単純なものではない。戦艦は航空機が誕生からわずか半世紀足らずでプロペラ機からジェ    ット機に進化したように、彼女達もその発展のスピードは著しかった。当初、装甲化された戦    艦を砲撃のみで沈めるのは困難だったが、やがて砲が改良され装甲鈑を撃破できるようになる    と今度は装甲鈑が改良されるといった具合に砲と装甲は改良を重ねていき、砲はライフルを施    した元込式に装甲は木製の船体に装甲を施すといった構造から完全な鉄製の軍艦に進化したの    である。     このように戦艦は当時の最新技術を投入されて建造されたいわば国力の象徴であり、工業の    発達が未熟な国が戦艦を造るというのは極めて困難なのである。日本が戦艦の国産に乗り出し    た矢先にド級戦艦時代が到来して、その波に乗り遅れないように努力したが、結局は外国から    購入してその技術を学び直さればならなかったことが良い例である。     さて戦艦といえば艦隊決戦だが、戦艦同士の海戦の勝敗の結果が戦争そのものの帰趨を決し    たという例は1905年の日本海海戦のみである。欧米列強間の海戦は日本海海戦のちょうど    100年前のトラファルガー海戦からほとんどなく、あるのは南北戦争でのハンプトンローズ    や普墺戦争(イタリアもプロイセン側で参加していた)でのリッサ沖海戦に欧米ではないが、    日清戦争での黄海海戦といった重要な戦訓を示しはしたけれど決戦とは到底呼べない規模の海    戦ばかりであった。     船が帆船から蒸気船に進化しつつあったにも関わらずイギリスをはじめとする列強の海軍は    蒸気装甲艦での戦闘経験が皆無なだけでなく、帆船からいきなり蒸気船に進化したのではなく    て帆走と蒸気式が組み合わさった中途半端な船が進化の中間に位置していたこともあって日頃    でも海軍軍人としての経歴の多くを帆船で得た人達が多数いたという問題があった。蒸気式が    登場しても1870年代までの船の実態は帆船で、完全な蒸気式軍艦は1871年に竣工した    デヴァステレーションまで待たなければならなかった。     このままでは、古い世代の船による教育や経験しか積んでない提督や艦長が新しい蒸気式装    甲艦に座乗して戦場に赴かなければならない事態も想定されることからイギリス海軍は兵科と    機関科の水平運動に取り組むことにした。     水平運動とは要するに戦術を担当する兵科が艦の技術的知識も習得し、逆に技術を担当する    機関科が基礎的な戦術も理解するということである。さらに、上流階級の子弟がなる兵科士官    と中産階級以下の子弟がなる機関科士官との社会階層の壁(両者の間には交流もなかった)を    撤廃し、近代戦艦を合理的に動かそうという目的があった。ちなみに水平運動には抵抗も強く    完成に至るのは第2次世界大戦後だそうな。     この水平運動はジョン・アーバスノット・フィッシャーによる海軍改革の一環であった。フ    ィッシャーは1841年1月25日生まれで1854年に13歳で海軍に入隊した。1904    年には海軍士官の最高ポストである海軍第1本部長に就任している。『フィッシャーの改革』    と呼ばれることは2年前の第2本部長時代から手がつけられているが、一言で言うとイギリス    海軍を近代海軍に脱皮させることが目的だった。彼の改革によってイギリス海軍は他の列強に    先がけてド級戦艦や巡洋戦艦を建造することに成功するのである。この海軍史に残る画期的な    軍艦の建造を推進したのがフィッシャーである。他にも「ハッシュ・ハッシュ・クルーザー」    (ハッシュとは秘密のときに使うシーッと同じで要するに秘密巡洋艦のこと)という世界でも    類を見ない単一作戦のためだけに建造されたコスト的に割の合わない軍艦も彼が推進している。    普通なら反対されて廃案されるところだが、建造がスタートしたことで当時のフィッシャーの    実力がどれだけすごいかわかる。しかも、第1次大戦中で無駄な資金が使いにくい時期でのこ    とである。ウィンストン・チャーチルの言葉を借りれば「国中の造船所が彼の自由になり、国    の金庫も彼の自由になっていた」のだ。     日本海海戦で艦隊決戦主義や大艦巨砲主義が各国海軍で台頭し始めた20世紀初頭、イギリ    スである戦艦が竣工した。それまでの戦艦をはるかに上回る戦闘力を秘めたドレッドノートで    ある。     ドレッドノートはそれまでの戦艦とはあらゆる点で異なっていた。たとえば艦載砲の単一配    置である。それまでの戦艦例えば日本の三笠は主砲の30.5p砲の他に15p・7.5p・    47oの3種類の艦載砲を搭載していて、主砲は艦首と艦尾に連装で1基ずつ置されているだ    けだった。それに対し、15p砲は14基、7.5p砲は20基、47o砲は16基(いずれ    も単装砲塔)搭載されていた。なぜ、これだけ副砲以下の艦載砲があるかというと、19世紀    末の砲戦距離は3,000m程度で主砲以外の艦砲でも射程圏内におさめられることと、18    94年の黄海海戦で日本の32p砲が故障などでたいした戦果が挙げられず、巡洋艦の速射砲    が活躍したからである。さらに水雷艇という新しい艦種が登場したことで、それの襲撃を退け    るための武装としても中口径砲が重要となったのだ。また、大口径砲は遠距離での砲撃となる    と命中率が下がることも理由の一つである。     重要とみなされば当然、中口径砲も大型化していくことになる。三笠の副砲は最大でも15    pで防護巡洋艦の主砲クラスだったが、日本が初めて国内で建造した戦艦薩摩の副砲は25p    とかつての戦艦の主砲クラスとかなり大型化していた。だが、主砲の配置が2基だけというの    は変わらなかった。     これらの従来の戦艦の主砲配置とは異なり、ドレッドノートは主砲を艦首に1基、艦尾に2    基、舷側に1基ずつ(いずれも連装砲塔)の計10門配置し、それ以外の艦載砲は76o砲を    27門搭載しているだけだ。27という数字は多く感じるかも知れないが、同じイギリスで建    造されたキング・エドワード7世が主砲以外の各種口径砲を42門搭載していたのと比較する    とかなり減っているのがわかるだろう。     こうした主砲配置のおかげでドレッドノートは従来の戦艦(以後、前ド級戦艦とす)に比べ、    前方で3倍、舷側で2倍、後方で4倍の攻撃力を発揮することができるようになった。だが、    イギリスが艦載砲の単一配置を採用したのは単に攻撃力の向上を狙っただけではなかった。     それまでの戦艦は各砲座が個々に照準して砲撃を行っていた。しかし、日露戦争の頃になっ    て砲戦距離が6000mに伸びると、弾着観測が困難になっていた。距離を測ることはおろか    砲弾が命中したかどうかさえ観測するのが難しくなってきたのだ。これに主砲とは弾道特性の    異なる中口径砲の砲弾が混じれば弾着観測はますます混乱した。     そこで、イギリス海軍は交差射法という方法を採用することにした。これは主砲を一斉砲撃    すると、弾着も同時で水柱を観測したら砲弾の散布界の中心が導きやすいというものである。    散布界の中心に敵艦が来るようにすれば遠距離での砲撃でも命中弾を与えやすいということだ。    ちなみにイギリス海軍は一斉砲撃のアイデアを日本海海戦で得たらしい。もっとも、水平運動    と同様に交差射法もなかなか理解が得られず支持されなかったようだ。こうした新技術に理解    を示さないままではいつまでたっても前ド級戦艦しか造れなかっただろう。イギリス海軍はフ    ィッシャーという人がいたから、他国に先がけてそれまでとは攻撃力も命中力もはるかに上回    るド級戦艦を建造することができたのである。とはいっても、主砲の単一配置というのは計画    や構想だけではイタリアや日本にもあったし、アメリカでは独自の構想で単一配置の戦艦を建    造している。     もし、実際にド級戦艦と前ド級戦艦が戦ったら、遠距離では一斉砲撃で命中率を高めるド級    戦艦に対し従来の砲撃しかできない前ド級戦艦はろくに命中弾を与えられないまま沈んでしま    う可能性があるし、よしんば命中弾が得やすい距離で戦っても舷側で攻撃力に2倍の差が出れ    ば一方的にやられてしまうだろう。まさにドレッドノートは「1隻で前ド級戦艦2隻分に相当    する」戦艦なのだ。     ドレッドノートがすごいのは攻撃面だけではない。というかフィッシャー卿は攻撃力よりも    速力を重視するお人で、高速力を得るために技術的な冒険をしている。それまでの戦艦は主機    にレシプロエンジンを採用していたが、フィッシャー卿はドレッドノートに蒸気タービンを採    用した。この蒸気タービンはまだ未完成の域でスクリューのプロペラが表面に発生する水蒸気    や気泡のために騒音や振動が起きることで回転効率が悪くなるキャビテーションという問題が    生じやすい欠陥を有していた。そのためドレッドノートは排水量と機関出力の割には速力が2    1ノットに甘んじている。しかし、前ド級戦艦の速度が19ノット以下なのに比べると高速で    ある。フィッシャーの速力重視の設計思想は1908年に竣工した世界初の巡洋戦艦インビン    シブルではっきり表れている。この巡洋戦艦は日本海軍で活躍した装甲巡洋艦を拡大発展させ    た艦種で、攻撃力で前ド級戦艦を上回るだけでなく速度も25ノットと日本の装甲巡洋艦の2    0ノットをはるかに超えている。しかし、防御力が無視されているという問題があるが、速力    は防御力の代わりになると考えるフィッシャーにはたいしたことではなかった。     速力を重視するフィッシャーの構想は艦隊配備の点でも見られた。イギリス海軍は大英帝国    を維持するため世界各地に9個の艦隊を配備していた。フィッシャーはこれを戦略的に重要な    5つの地点に整理して、本国の戦力を強化したのである。1904年4月8日の英仏協商で1    066年以来の対立に終止符が打たれたことでフランスの脅威が無くなり、植民地の艦隊戦力    を強化する必要がなくなったことと、ドイツ海軍の増強でドイツとの対立が先鋭化していたか    らである。     拠点をしぼったことで、拠点と拠点との距離が開いてしまう結果となった。しかし、フィッ    シャーは戦艦の高速化で迅速に有事があった場所に派遣できるとした。これなら艦隊を各地に    分散する必要もない。フィッシャーは戦闘だけでなく戦略面でも戦艦に高速を求めたのだ。前    ド級戦艦との速度差は3ノット程度でしかない。しかし、1日では130qの差になる。それ    にレシプロエンジンでは14ノット以上で8時間も航行すれば故障が続出してしまう。距離に    して200qぐらいしか前ド級戦艦は故障無しでの航行ができないのだ。蒸気タービンの採用    は冒険と言うより博打だったが、フィッシャーはその賭に見事に勝った。ドレッドノートの初    代艦長のベーコン大佐はかつての戦艦の機関と比較して、ドレッドノートの機関の信頼性の高    さを証言し、機関室がいままでのよりも居住性が改善されているとした。     このようにドレッドノートは画期的な戦艦だったが、国内では海軍と議会から非難される結    果となった。なぜなら、ドレッドノートの誕生で従来の戦艦は前ド級戦艦という旧式艦のカテ    ゴリーに分類されたが、その旧式艦を多く保有していたのは当のイギリス海軍である。全く役    に立たない艦は処分されるか予備役に回されるしかないが、その経費もタダではない。つまり、    ド級戦艦の登場で一番打撃を被るのが皮肉にもイギリス海軍だったのである。     しかし、先述したようにド級戦艦は他国で造られる可能性もあった。実際にアメリカはドレ    ッドノートの影響を受けずに独自にド級戦艦を建造している。それなら世界初のド級戦艦を建    造したという名誉は大英帝国海軍にとって面目躍如ではないのか。     また、ド級戦艦の登場は英独の海軍力の差を縮めたと述べたが、実はそれは一時的なものだ    った。大艦巨砲主義という言葉通り、戦艦は船体も主砲も大型化していった。1912年に竣    工した英戦艦オライオンは34p砲連装5基とドレッドノートを上回る火力を有し、超ド級戦    艦というカテゴリーを造った。その3年後の1915年に竣工したクイーン・エリザベスはさ    らに強力な38p砲を連装で4基搭載している。当然、建造費も高くなるわけで、たとえ急成    長してもドイツには世界各地に植民地を有するイギリスとの建艦競争に勝ち抜く力はないのだ。    さらに、イギリスでは45.7p砲や50.8p砲戦艦の建造も計画していた。そうなれば英    独の差はさらに開くわけだ。     【大艦隊決戦】     1914年6月28日、ボスニア=ヘルツェゴビアのサラエボでオーストリア=ハンガリー    二重帝国のフランツ・フェルディナンド皇太子がセルビア人・ガブリロ・プリンチップの凶弾    に倒れた。世に言うサラエボ事件である。     一般ではこれが第1次世界大戦のきっかけとなっている。結果的にはそうなったが、事件直    後には誰も世界規模の大戦争が起こるとは思ってもいなかった。どこの国の首脳も問題は外交    で解決できると信じていた。いままでもそうだったからだ。だが、戦争は起きてしまった。     よくヨーロッパは英仏露の三国協商と独墺同盟が対立していて、それが本来オーストリアと    セルビアの二国間で解決されるべき問題を世界規模に拡大させたと言われる。しかし、両陣営    は何も一触即発なまでに対立していたわけでもないし、イギリスとドイツの間には和解が進め    られていた。ドイツとフランスの間もアルザス・ロレーヌの問題があったが、対立点はそれだ    けでしかもフランスはこれを武力で解決しないことを決めていた。戦争が起きてしまったのは    不運としか言い様がない。     世界大戦が勃発して陸では緒戦から激戦が展開していたが、海では英独の海軍が睨み合って    いる状況が続いた。外洋ではドイツ艦隊がことごとくイギリス海軍に撃滅された。     外洋のドイツ艦隊は勇敢だった。太平洋艦隊のシュペー提督は自らを犠牲にして味方を逃が    そうとした。軽巡エムデンは単艦で戦い続け伝説となった。     しかし、本国の艦隊は港に閉じこもったまま出てこようとしなかった。それは彼等の作戦だ    った。自分達が港に居続ければイギリス海軍は港を封鎖し続ける。日露戦争で旅順を封鎖した    日本海軍と同じようにイギリス海軍も長期の封鎖で疲労を蓄積していった。     1914年11月、シュペー艦隊を撃滅すべくイギリス本国から巡洋戦艦インビンシブルと    インフレキシブルが派遣されるとドイツ艦隊はこの好機に5隻の巡洋戦艦を出撃させて12月    16日にイギリスの東海岸を砲撃した。     この成功に気をよくしたヒッパー提督は翌月にも出撃した。だが、イギリス海軍は事前に暗    号を解読してドイツの行動をキャッチしていた。そして1月24日、両軍はドッガーバンクで    遭遇し海戦の結果ドイツ側が装甲巡洋艦ブリュッヒャーを撃沈されて敗退した。     ドッガーバンク海戦の結果、ドイツ海軍は主力艦の防御力を強化する工事を施した。主力艦    が轟沈するのは砲塔への直撃が弾薬庫に引火して誘爆を引き起こすのが最も多いケースとされ    た。そこでそれを防止するため防火扉を設置することにしたのだ。     さて、いつまでも港に閉じこもっていては士気に関わるドイツ艦隊は戦力の劣勢を潜水艦と    巡洋戦艦で補う作戦を立てた。潜水艦をイギリス海軍の拠点スカパフローに展開して、出撃す    るイギリス艦隊に攻撃を仕掛け消耗させ、次に巡洋戦艦部隊を使ってイギリス艦隊を誘き出し    て戦艦部隊とでこれを挟撃する。イギリス艦隊の弱点は戦艦部隊と巡洋戦艦部隊に速度差があ    って共同作戦を取りにくいことである。そこを突けば、各個撃破でドイツ艦隊にも勝機はある。     1916年5月31日、大海艦隊司令長官シェーア提督はヒッパー提督の巡洋戦艦部隊を先    行させ、自身が指揮する戦艦部隊を後続させた。一方、イギリスは無線通信の量でドイツ艦隊    の動きを知り、本国艦隊を出撃させた。この時、ドイツの潜水艦部隊はイギリス艦隊の出撃を    捕捉するのに失敗し、何ら戦果を挙げずに終わった。ドイツは超弩級戦艦の建造に後れをとっ    てまで、潜水艦の大量建造に力を入れていたがそれが裏目に出たようだ。     敵艦隊の動きを掴むのに失敗したシェーア艦隊は午後になっても敵を発見することができな    かった。ジェリコー提督の英国艦隊も敵を求めたが、こちらも有力な情報が得られずにいた。    ジェリコーもシェーアもこれから起こるであろう大海戦に胸を躍らせていただろう。もし、こ    の海戦に大勝利を治めればドイツはイギリス艦隊の封鎖を解いて逆に英国本土を封鎖できるし、    イギリス艦隊が勝てばドイツ海軍を事実上無力化し封鎖による負担を劇的に減らすことができ    る。     双方、敵を探し求めて数時間、ようやく両者はお互いを見つけることができた。15時30    分、イギリス艦隊の先行部隊ビーティ提督の巡洋戦艦部隊とヒッパー艦隊は長距離から砲戦を    開始した。ヒッパーは敵艦隊をシェーアの本隊の方に誘導しようとした。ドイツは数の上で劣    勢で相手は超ド級巡洋戦艦のライオンがいる。まともに戦っては勝ち目はない。     ところが、砲塔の数も口径にも差があるのにも関わらず戦闘開始わずか数分で、ヒッパー艦    隊は巡洋戦艦インディファティガブルを撃沈したのである。さらにドイツ艦隊は巡洋戦艦クイ    ーンメリーも撃沈し、ビーティの旗艦ライオンにも相当のダメージを与えた。英巡洋戦艦のあ    っけない爆沈は遠距離で発射された砲弾が放物線を描いて真上から装甲の薄い弾薬庫や砲塔上    部に命中貫通して爆発したのが原因である。特にイギリスの巡洋戦艦は速度重視で防御力を軽    視していたからこの結果を招いた。     いきなり2隻の巡洋戦艦を撃沈されて自身が座乗する艦も被害を受けたビーティだったが、    彼は怯まなかった。射撃の技量ではドイツに劣るがそれでも徐々に命中弾を与えはじめ、次第    に数の優勢を活かしてドイツ艦隊を押し始めた。     38pの巨砲を持つ敵艦隊に劣勢を強いられつつあったドイツ巡洋戦艦部隊は、それでも当    初の目的どおり敵艦隊を主力部隊の方に誘引することに成功した。16時40分、シェーアの    主力部隊が戦闘に参加すると今度はイギリス艦隊が退き始めた。ビーティの任務も敵を主力部    隊の方に誘引することだったのである。ドイツ艦隊はこれを追撃したが、イギリス艦隊の方が    速力が上で捕捉することはできなかった。この時の戦闘でイギリス艦隊の後衛を務めた第5戦    艦戦隊とドイツの巡洋戦艦部隊にかなりの被害が出た。     18時を過ぎたぐらいからジェリコーの英主力部隊も戦闘に加わり始めた。しかし、ジェリ    コーは敵味方の位置をはっきり掴めていなかった。さらに狭い水域に主力艦を集めすぎて、ぐ    ずぐずしている間に巡洋戦艦インビンシブルが撃沈された。だが、イギリス艦隊の主力とまと    もにぶつかっては勝ち目がないと判断したシェーアは早々に戦闘を切り上げて撤退することを    決断し、煙幕を張りながら西に進路を変えた。     ドイツ艦隊の撤退を見たビーティはこれを追撃しようとした。そして、20時15分にビー    ティはドイツ艦隊と遭遇したが、ドイツ艦隊には戦意は残っていなかった。逃げる敵にビーテ    ィは15分ほど砲撃を加えたが主力が追撃に参加しなかったため、それ以上の追撃は断念した。    しかし、この戦闘でビーティ隊はドイツ艦隊の後衛を務めたヒッパー艦隊の巡洋戦艦リュッツ    オウとザイドリッツを大破させた(うち、リュッツオウは損害がひどくて廃棄)。     ドイツ艦隊は敵主力部隊の追撃はかわすことに成功したが、まだ戦闘は終わっていなかった。    帰途に待ち伏せしていたイギリス駆逐艦部隊との交戦で前ド級戦艦のポンメルンが撃沈された。    この後退戦でイギリスは装甲巡洋艦デフェンス、ウォリアー、ブラック・プリンスが沈没、ド    イツは前述の被害の他に軽巡エルビング、ウィスバーデン、フランネンロブ、ロストックが沈    没した。     翌朝、シェーアもヒッパーも基地に無事に生還した。この海戦でイギリスは巡洋戦艦3隻、    装甲巡洋艦3隻、駆逐艦8隻を失い、6447名の戦死者を出した。一方、ドイツの損害は巡    洋戦艦1隻、前ド級戦艦1隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦4隻沈没と戦死者2586名だった。     この海戦でイギリスもドイツも自分達が勝利したと主張した。ドイツは自分達以上の損害を    イギリスに与えたと主張した。確かにその通りである。戦力差があっての結果だからドイツの    戦術的勝利ではある。だが、ドイツは目的だった敵艦隊の撃破に失敗した。敵艦隊を撃破して    封鎖状態を解除するのが目的なのにシェーアはそれを貫徹しようとしなかった。そして、ドイ    ツの巡洋戦艦部隊はほとんどの艦が大破してしまって半年の修理が必要だった。封鎖は依然と    して続き、ドイツの経済を圧迫し始めていた。当時の言葉を借りれば「看守を殴ったが、まだ    牢にいる」という結果になってしまった。     対するイギリスは戦闘では被害が大きかったが、ドイツ艦隊を撃退することに成功した。特    にビーティは旗艦が被害を受けても怯まずに指揮をとり続け、追撃戦でも戦果を挙げた。もし、    ドイツ側の指揮官に彼のような提督がいたらより多くの戦果を挙げることができただろう。ド    イツ海軍は技量や技術には優れていたが、フランスのようなエラン・ヴィタールの精神(日本    で言う大和魂みたいなもの)は持ち合わせていなかったようだ。以後、ドイツ海軍は再度イギ    リスに艦隊決戦を挑もうとはせず、港に閉じこもったままだった。この事を見てもこの海戦に    真に勝利したのはどちらか言うまでもないだろう。東郷元帥曰く「ドイツは逃げた。ドイツの    負けだよ」     この海戦以後、ドイツ海軍の作戦は主に潜水艦の通商破壊戦に重点が置かれ、主力が出撃す    るのはわずか数回だけだった。そして、終戦が目前に迫った1918年10月28日、シェー    アはドイツ艦隊に名誉の戦死を遂げさせようとイギリス本国艦隊と決戦するため全艦に出撃を    命じた。だが、臆病風に吹かれた水兵達はこれを名誉ではなく只の自殺行為だと感じた。11    月3日、水兵達はキール軍港で反乱を起こした。反乱は6日には全海軍基地に広まった。シェ    ーアは更迭され、ヒッパーがその後任となった。反乱は革命となり、皇帝は退位を余儀なくさ    れオランダに亡命した。かつて皇帝はドイツの未来は海軍にかかっていると演説した。しかし、    皮肉にもその海軍によって自らの破滅を招いた。ドイツにはまだ西部戦線に220万人の兵士    が無傷で残っていた。前線の兵は連合国軍の攻勢に遭遇しても敗北を認めなかった。しかし、    政治が敗北を認めてしまった。この認識の差がヒトラーとナチスの台頭を招く遠因となる。     1919年6月21日、スカパ・フローに拘留されていたドイツ艦隊はイギリス艦隊が演習    に出ている隙に自沈した。これはドイツ海軍の名誉とベルサイユ条約への国民の反発のためだ。    こうしてカイザーの大海軍はその歴史に幕を下ろした。     さて、今海戦でスカパ・フローに展開して戦果を挙げることなく終わった潜水艦部隊だった    が23年後の1939年10月14日、ギュンター・プリーン大尉が指揮するU47が同港に    侵入して戦艦ロイヤルオークを撃沈している。この事はドイツで大々的に報道され、イギリス    との開戦に不安を感じていたドイツ国民はそれまで秘密にされていたUボート部隊の存在とそ    の活躍を知り勇気づけられた。     【戦艦の新しい時代】     ジュットランド海戦は世界の海軍に多大な教訓を残した。緒戦でイギリスの巡洋戦艦があっ    けなく沈んだのと、防御力も考慮したドイツの巡洋戦艦で戦闘中に沈没したのが1隻もなかっ    たという事実はフィッシャー卿が唱えたような速力が防御力の代わりになるという主張が成立    しないことを証明した。また、イギリス艦隊の戦艦部隊がまったく海戦に参加できなかったと    いう事実は防御力が高くても速力が低くては海戦に参加することも困難であることを示した。     以上のような教訓から各国は防御力か速力かどちらかに偏った戦艦ではなく、攻・守・速の    バランスが取れた戦艦を建造すべきだと認識した。このような構想で建造された戦艦はポスト    ジュットランド型戦艦と呼ばれ、戦艦は新しい時代を迎えるのであった。     戦艦の新しい時代。しかしそれは戦艦の栄光の時代ではなかった。ジュットランド沖海戦を    はじめとする第1次大戦での海上戦闘の経緯は戦艦がもはや海戦の切り札には成り得ないこと    を示していた。巡洋艦や駆逐艦のように汎用性に優れているわけでもなく、潜水艦のような特    殊性もない。攻撃力と防御力は最高だが、戦艦同士でやり合えば損傷もするし、沈没もする。    図体がでかいだけあって燃料も大量に消費するから出撃する機会も限られてくる。巨額の費用    を投じて建造する価値が果たしてあるといえるのだろうか。     太平洋戦争まで戦艦は各国海軍で主力艦の地位に居続けることができた。だが、それは大規    模な海上戦闘が起こらなかったからである。実戦を経験しなかったから一部の航空論者を除い    て戦艦がもはや時代遅れになっていることに気づかなかった。机の上で考えるしかないから関    係者は過去の事例でこれからの作戦を考えるしかない。しかし、ジュットランド沖海戦を詳し    く研究すれば戦艦がこれからの海戦に絶対に必要かどうかわかるはずだ。それができなかった    のは何故か。それは戦艦の持つ機能美に惹かれたからだろう。戦艦の上部構造物はそれぞれの    国の独自性が反映されている。いわば一種の芸術作品なのだ。空母の様な上から見たらでっか    い鉄板が海に浮かんでいるみたいな不細工な格好に芸術性など感じられない。そう、戦艦は実    用に役立つ役立たないではなく、人々の心に訴えかける象徴的な存在として君臨してきたのだ。    それは太平洋戦争も後半になって誰もが戦艦の時代は終わったと認識しても変わらなかった。    日本の降伏調印式がエセックス級空母ではなくアイオワ級戦艦のミズーリ艦上で行われたこと    でもわかるように戦艦は最後まで人々の心に残っているのである。     日本海海戦以後、各国海軍は戦艦同士の海上決戦で戦争の行方を左右するとしていた。たし    かに、決戦と呼べるような決定的な勝敗がついた海戦が起こっていればそうなっていたかも知    れない。だが、現実は陸での戦い同様、海での戦いも決戦と呼べる戦が起きることはなかった。    時代は1度の戦いで全てが決する戦争ではなく、長期消耗戦の末にそれに耐えられるか耐えら    れないかで勝敗が決まる戦争へと変わっていたのだ。その事を真に理解するか否かで次の第2    次世界大戦の勝敗も分かれるのである。
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