激突!幕末の最強対最強
戊辰戦争秋田戦線


 
 
【目立たない最強藩】
 
【慶応4年8月までの戦況】
 
【激闘、雄物川戦線】
 
【不当な評価】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 【目立たない最強藩】                            
 薩長土肥という言葉がある。明治維新で活躍した4つの藩のことであるが、薩長土は大政奉還
以前から活躍しているのに対し、肥前=佐賀藩が新政府側の立場を表明したのは鳥羽・伏見の決
着がついた後だった。つまり、佐賀は他の三藩より維新への貢献度が低いのだ。それなのに薩長
土肥と並び称されたのは、この藩が新政府側で最強の藩だったからである。         
 一方、旧幕側の最強藩は庄内藩だった。この藩も動乱の表舞台に出たのは鳥羽・伏見の後だっ
た。それぞれの陣営で最強を誇った両藩だったが、戊辰戦争という日本全土を巻き込んだ最後の
内戦において主役となることはついに無かった。そのため両藩が激突した秋田の戦いが話題に上
ることはほとんど無い。そこで、今回は秋田で繰り広げられた庄内藩と佐賀藩の戦いを取り上げ
ることにした。まずは衝突するまでの両藩の状況を見てみよう。              
 
 
 佐賀藩357000石は鍋島勝茂が慶長18年に幕府から所領安堵の朱印状をされ、肥前国守
たる地位を承認されたことに始まる。35万石とは大封だが、佐賀藩では藩主の庶流家や旧主の
子孫である竜造寺一族などが自治権を認められた知行地を領する戦国さながらの体制が幕末まで
維持されたために、藩主の実質的な知行高は6万石程度でしかなかった。さらに幕府から長崎警
護の任務も負わされていたので財政事情はかなり苦しかった。               
 天保元年3月22日、第10代藩主となった鍋島直正は国元に向かおうと江戸の藩邸を出た。
しかし、品川で行列が停滞し不思議に思った直正が側近に尋ねると商人達が金を返せと押しかけ
てきて動けないという。佐賀藩は財政のほとんどを借金で賄っており、その返済に支出の半分近
くが充てられていた状態で破綻寸前だったのだ。そのために長崎警備の人員を幕府に断り無く減
らして、フェートン号事件で不手際を犯すといった失態を演じている。藩の事情を知った直正は
涙ながらに藩の建て直しを誓ったという。                        
 借金まみれの藩財政をどうするか。直正は借金を踏み倒しに近い形で克服した。何と、70年
や100年といった年賦返済にしたり、負債を献金という形で帳消しにしたのだ。さらに役員を
リストラしたりしてできた費用で積極的に軍備の近代化や新技術の導入を促進した。その結果、
佐賀藩は反射炉の建設に成功して鉄製の大砲を製造したり、その9年後にはイギリスのアームス
トロング砲の鋳造にも成功している。また、万延元年には家中に「惣鉄砲」を命じている。これ
は槍・弓を廃止して小銃を携帯せよということである。その小銃も最新式を揃えて戊辰戦争時に
は有名なスペンサー連発銃を標準装備していた。他にも海軍にも力を入れ、蒸気船を建造したり
長崎の海軍伝習所には幕府から派遣された人数を上回る藩士を送り込んでいる。彼らが後に草創
期の明治海軍で活躍することになる。                          
 だが、直正はこうした近代軍隊をただ幕府の覚えがめでたくなりたいがためにつくりあげてい
た。佐賀藩はその成立から佐幕傾向の強い藩で、直正もその例外ではなく藩の役割は幕藩体制の
なかでのことと考える保守的な人だった。さらに直正は徳川譜代筆頭の井伊家とは縁戚関係で、
正四位上左近衛権中将掃部頭直弼とは彼の世子時代から昵懇の間柄であった。しかし、万延元年
3月3日の桜田門外の変で直弼が暗殺されると、直正は幕府にはもはや日本全国をまとめていく
力が無いことを実感して佐賀藩独自の道を歩むことにした。                
 直正は文久元年に隠居すると、病身を押して東上し諸侯や尊攘派の公卿らと接触したが、その
外交交渉はあまり上手くなかったようで、薩摩藩に佐賀藩を中央政界での競争者と警戒させる結
果となってしまった。さらに、直正の病状が悪化して積極的な行動が出来なくなると、佐賀藩は
大政奉還の前後という極めて重要な時期を無為に過ごすことになった。小御所会議に出席した佐
賀藩関係者は無く、慶応3年に朝廷から京都警護を命じられても途中で呼び戻す失態を犯してし
まう。結果、佐賀藩は鳥羽・伏見で何ら戦局に寄与することが出来なかった。        
 鳥羽・伏見で曖昧な態度を取ったことで新政府から討伐の対象にされかけた佐賀藩は江藤新平
の奔走で疑惑を晴らすことが出来たが、名誉挽回として東国に出兵しなければならなくなった。
藩主・鍋島信濃守直大は北陸道先鋒次いで横浜裁判所副総督に転じ、下総・上野・下野の鎮撫を
命じられて江戸に入った。その藩主に随行していた佐賀藩兵が最初に活躍したと知られているの
が慶応4年5月15日の上野戦争である。この戦いで佐賀藩の砲兵隊は途中から彰義隊の籠もる
上野山を砲撃して戦闘の帰趨を決したとされているが、実際には開戦から砲撃を開始していた。
そして、徐々に有効弾を与えていって彰義隊を潰走に追い込んだのである。佐賀藩砲兵隊は後に
会津若松城も砲撃しているが、野戦砲であったために落城にまでは至らなかった。他にも佐賀藩
は北関東にも出兵しているが、こちらの方はあまりパッとせず6月25日から26日の藤原(日
光)口の戦いでは、火力の差から戦闘は優勢に進めたが、大鳥圭介率いる旧幕府歩兵隊の策に嵌
って敗退した。だが、佐賀藩と交代した板垣退助の土佐藩兵が白河口への増援に向けられて会津
への侵攻が積極的になったり、北関東の治安維持に従事したことは地味ではあるが佐賀藩の立派
な功績といえるだろう。                                
 関東を転戦していた佐賀藩兵だが、彼らがもっとも必要とされたのが東北である。当時、東北
では会津・庄内の追討指定藩に同情する諸藩により九条道孝奥羽鎮撫総督が仙台に拘禁される事
態となっていた。総督一行を救出するため佐賀藩兵753名を主力とする部隊が派遣され、参謀
の前川清一郎が仙台に乗り込んで総督の救出に成功し、勤皇色の比較的強い秋田藩に来着した。
秋田藩は藩論を尊王に統一して仙台藩の軍使を殺害し、周辺の小藩とともに庄内藩追討に出兵し
た。だが、7月6日からの対庄内戦争は庄内藩兵の反撃に遭い、薩長の参謀の指揮が不適切なこ
ともあって敗北した。このとき、佐賀藩兵は前線に分散投入されたため目立った活躍をすること
ができなかった。さらに半数以上が後方に据え置かれたままとなっていた。         
 庄内藩の予想外の抵抗に新政府はさらなる部隊を派遣することにして、佐賀藩にも追加派兵が
求められたが、すでに藩主直属の兵力はほとんど出払っていた。そこで、武雄領兵が派遣される
ことになった。この武雄領兵こそ佐賀藩の切り札ともいえる存在で、士分1個と足軽4個の小隊
で編制される大隊4個と砲兵隊で構成される。装備・練度ともに超一流で、領主・鍋島茂昌は天
皇から直接勅諚・天杯を賜るという陪臣の身では異例の栄誉に浸ることになったが、それだけ期
待されているということだ。                              
 
 
 
 
 一方の庄内藩は徳川幕府開府当時は山形の最上家の領土の一部だった。だが、最上家は3代目
義俊の代に御家騒動を理由に改易され、その後に信濃松代10万石の酒井従四位下宮内大輔大江
忠勝朝臣が138,000石で入封し、以後加増をうけながら明治まで酒井氏が統治した。庄内
酒井家は左衛門尉系という家系で、その先祖の広親は徳川将軍家の始祖・松平太郎左衛門親氏の
異母兄弟にあたる。さらに、忠勝の祖父・忠次は徳川家康の叔母婿という譜代大名の中でも一番
将軍家に近い家柄なのである。                             
 18世紀後半から外国船が日本近海に出没するようになると、庄内藩は北方や江戸湾の警備を
命じられるようになった。そうした経験で早くから軍事改革が行われた。領内や蝦夷地に品川の
台場の警備や長州征伐などで財政が窮屈になっていた庄内藩だったが、本間家以下の特権商人か
らの献金で洋式銃を大量に購入して、士分4個大隊と領民からなる亀ヶ崎大隊からなる約1,0
00名の洋式軍隊を編制した。銃器は主力が前装式施条銃で後装式銃も金属薬莢式ではなかった
ようだが相当数存在し、50余名の1個小隊がスペンサー銃を装備していた。大砲は四斤山砲を
保有していた。また、それ以上に庄内藩兵が精強とされているのは彼等が洋式軍備が何たるかを
理解していたことである。                               
 言うまでもないが、洋式小銃を持って洋式軍服を着ていればそれで洋式軍備とはならない。そ
もそも個人で武功を争う封建時代の戦争と集団で行動することを求められる近代の戦争とは全く
異なったものである。近代戦に身分意識が入り込む余地は無い。しかし、武士は自分より身分の
低い者と隣り合わせに戦わされることを嫌う生き物なのだ。それが長州藩で奇兵隊が結成された
り、幕府が武士以外の身分から歩兵隊を編制する原因となったのである。          
 とはいえ百姓や町民から兵士を徴募したのでは武士の存在意義が問われかねない。また、武士
だけで編制したとしても問題があった。鳥羽・伏見で敗北後に江戸に脱出した会津藩主・松平容
保は藩士に洋式訓練を受けさせているが、教官として招いた旧幕府歩兵隊士官に匍匐前進を命ぜ
られると、武士が地面を這えるかと憤慨して教官を斬ろうとしたこともあった。こうした武士の
矜持は当然庄内藩士も持ち合わせていたが、江戸時代に成立して観念的な武士道しか持ち合わす
ことができなかった会津藩に対し戦国乱世の時代に大名級となった庄内藩酒井家は戦国以来の質
実剛健・尚武の気風を保とうとしたことで、急変する情勢に現実的に対応することができたので
ある。                                        
 
 
 戊辰戦争勃発時、庄内藩は江戸警備の任に就いていたが、慶応3年12月25日に薩摩の江戸
藩邸を焼き討ちして鳥羽・伏見の戦端を開くきっかけをつくった。そのことが薩摩藩の恨みを買
って新政府の討伐の対象とされてしまった。しかしながら、それは薩摩の私憤であり表向きの討
伐理由である旧幕府領の金穀云々にしても庄内藩に非は無かった。尊王色の強い秋田藩でも庄内
藩の罪状を明らかにせよと総督府に抗議したほどだった。                 
 新政府との対決が避けられないと判断した庄内藩は、同じく新政府の討伐対象とされた会津藩
と慶応4年4月10日に攻守同盟を締結した。24日には庄内藩の東境の清川口で新政府の奥羽
総督軍と庄内藩との間で最初の武力衝突があった。緒戦は奇襲に成功した新政府軍が優勢だった
が、後半は糧食が乏しくなって疲労の色が見えたため撤退した新政府軍を追撃した庄内藩に分が
あった。両軍の損害は新政府が死者12名、負傷者9名、庄内藩が死者8名、負傷者13名で双
方痛み分けといった結果となった。この戦いで、庄内藩と新政府の対決は決定的だということが
明らかとなり、庄内藩は態度を俄然と硬化させた。                    
 
 
 
 
 
 

 
 
 【慶応4年8月までの戦況】                         
 新政府軍の急襲を受けたことで庄内藩の強硬派が暴走して、4月26日に村山地方に攻め込ん
だ。新政府に加担した天童・山形・上ノ山の各藩を制圧して、新庄の新政府軍を孤立させて秋田
への補給を遮断するのが狙いである。これに対し、新庄に主力を出していた天童藩は応援を要請
して最上川で庄内藩兵と対峙した。29日、奥羽総督府の沢副総督から庄内打ち払い令が天童藩
に下され、天童藩は軍議を開いて閏4月5日をもって総攻撃を開始すると決定した。これが、庄
内藩に洩れてその前日に攻撃を受けることとなった。寄せ集めで兵器の質も劣る天童以下新政府
側諸藩は庄内藩兵の敵ではなく、天童城は庄内藩兵によって攻め落とされた。藩主・織田従五位
下兵部大輔平信敏ら一族は仙台に落ち延びた。一方の庄内藩兵も藩主の厳命によって間もなく撤
退した。                                       
 庄内藩と天童藩等が対峙していた頃、秋田・本荘・亀田・矢島の各藩にも庄内討伐令が下され
て4月末までに矢島に集結していた。しかし、庄内藩討伐理由に疑念を持つ秋田藩は20日に討
入猶予を願い出たが、閏4月6日に進撃の厳命が下って翌日に庄内藩に宣戦を布告した。といっ
ても、嫌だけど副総督から命令されているので仕方なく兵を出すことになったから理解して欲し
いという何とも力のこもらない宣戦布告だったそうだ。13日、秋田藩主が攻撃を決定し19日
から22日まで小規模な戦闘があったが、双方とも死者は出なかった。この間、白石で奥羽諸藩
による会議が開かれていた。                              
 白石列藩会議から奥羽列藩同盟結成への流れは庄内藩にはあまり関係ないので省略する。庄内
藩は当初から同盟から距離を置いて行動していた。5月には同盟の要請に応じて1000の兵を
北越に派遣したが、目立った働きはしていない。この間、4個大隊の洋式編制が完結している。
 奥羽列藩同盟(後、北越諸藩が加わり奥羽越列藩同盟)には先に庄内藩と武力衝突した秋田藩
なども加わっていたが、求心力が皆無なため同盟の結束は非常に脆いものだった。同盟結成の二
日前の5月1日に奥州の玄関口である白河城が新政府軍に奪取されて以来、同盟は幾度と無く奪
還を試みたが、圧倒的少数の新政府軍にことごとく撃退された。戦術も兵器も近代戦争の経験も
部隊としての統一性も劣る同盟軍は新政府軍の敵ではなかったのだ。さらに29日に土佐藩兵が
増援に現れると奪還はますます困難となってしまった。一方の戦力が増強された白河の新政府軍
は6月24日に棚倉城を攻略しているが、対する同盟軍は敵が棚倉に兵力を取られている隙に白
河を攻撃するがこれも失敗してしまう。味方を見殺しにしてまでの攻撃だったが、意味は無かっ
た。棚倉は犬死である。その前の16日には太平洋岸の平潟に新政府軍が上陸して仙台に向かっ
て北上を開始している。同盟結成当初からの敗報の連続は同盟への参加に積極的でなかった諸藩
を動揺させた。そして、秋田・新庄・本荘・亀田・矢島の各藩は7月4日をもって同盟から離脱
した。                                        
 秋田藩以下の寝返りは庄内藩に直接的な脅威が出現したことを意味する。秋田には仙台に軟禁
されてその後救出された九条奥羽鎮撫総督が滞在している。この時点で会津はまだ新政府軍の直
接的な脅威にさらせれておず、北越戦線は膠着状態を維持していたので北以外の庄内国境は安泰
だったため庄内藩は白河に派遣予定だった1番・2番大隊を呼び戻して新政府軍との対決に備え
た。秋田の新政府軍は11日に進撃を開始し庄内にせまったが、13日の舟形の戦いで庄内藩第
2大隊の見事な攻勢防御戦術で撃退された。新政府軍の進攻を阻止した庄内藩は米沢・山形・上
ノ山の同盟各藩の兵も合わせて反撃に出た。新政府軍も必死に応戦し、庄内藩第2大隊は先鋒が
崩れかけるも鬼玄蕃の異名を持つ大隊長・酒井吉之丞の「退く者は斬る」という叱咤に奮起して
立ち直り新庄城を攻略した。敗れた新政府軍は院内に後退し、新庄藩主は秋田に逃れた。   
 7月16日、同盟軍は院内口から秋田藩に向けて北上を開始した。同盟軍は破竹の勢いで北上
し、8月11日には秋田藩の支城で要衝の横手城を攻略した。この同盟軍というより庄内藩兵の
連戦連勝の原因は新政府軍の主力である秋田藩兵が旧式の軍備だったためである。英国式訓練を
積んだ1個中隊100名以外は昔ながらの刀槍火縄銃で戦っており野戦では庄内藩兵の敵ではな
かった。新政府軍は神宮寺方面に撤退し、両軍は雄物川と玉川を挟んで対峙した。      
 新政府軍がここまで苦戦を強いられたのは旧式軍備の秋田藩兵を主力としなければならなかっ
たからだ。精鋭の薩長の部隊は北越戦線に取られてしまって秋田には回ってこないのだ。ここで
登場したのが佐賀藩武雄領兵である。武雄領兵は海道口から北上してきた庄内藩別働隊と8月5
日に平沢で交戦した。最新式装備の武雄領兵は火力では庄内藩の第3大隊を圧倒したが、敵側に
増援が到着したため退却を余儀なくされた。その結果、本荘が失陥し亀田藩が同盟に寝返る事態
となり新政府軍は雄物川まで後退した。雄物川河口を突破すれば秋田城は目と鼻の先である。 
 
 
 
 
 
 

 
 
 【激闘、雄物川戦線】                                                        
 秋田城を射程圏内におさめた庄内藩は3番大隊を北上させ、雄物川の突破を試みた。右翼を進
む部隊は迂回・側面攻撃で敵陣地の撃破を試みたが、それを予測していた陣地側の反撃で射竦め
られたところを、新屋からの武雄領兵の増援部隊の反撃を受けた。海岸沿いの左翼を進む部隊も
薩摩軍艦「春日」の艦砲射撃で混乱し、結果全軍退却となった。この長浜での戦いで庄内藩は初
めて敗北を喫した。                                  
 この頃より新政府軍の増援が秋田に続々と到着していた。武雄領主・鍋島茂昌は佐賀藩兵と他
の諸藩を分けて統率しやすいようにして、8月29日から海道口で攻勢に打って出たが、敵陣地
の奪取には至らなかった。                               
 一方、神宮寺方面にも新政府軍の増援部隊が到着していた。これは北越戦線に決着がついたた
めで、それまで同戦線に独占されていた増援が秋田にも回ってくるようになったのだ。到着した
のは岩倉具視が新政府が薩長の専横ではないことへの証明として発案した九州諸藩連合軍約14
000名と西郷隆盛が帰郷して連れてきた薩摩藩兵737名などで、戦力が拮抗した新政府軍は
攻勢に打って出ることにした。特に庄内藩兵と初めて戦う薩摩藩兵は血気盛んで、そんな彼らを
統率できる薩摩藩の指揮官はいなかった。そのため8月23日からの神宮寺方面における新政府
軍の攻勢は頓挫することになる。新政府軍は部隊を右翼(長崎・新庄)・中央(薩摩・秋田・矢
島・島原)・左翼(長州・小倉・大村・秋田・矢島)に分け、左翼はさらに左右中央に分かれて
進撃した。                                      
 戦闘が激しかったのは中央だった。新政府軍の中央部隊は二手に分かれて、うち薩摩の二隊が
玉川上流の浅瀬を渡って仙台藩兵を撃破さらに前進を続けた。残る薩摩三隊と諸藩の砲兵隊も川
を渡河して庄内藩第1大隊が拠る大曲を攻撃した。だが、兵力では庄内藩兵が勝っており、新政
府軍はこれを破ることが出来ずに日没になって花館に後退した。そこに庄内藩兵が夜討ちをかけ
てきた。見知らぬ土地に来たばっかりにも関らず攻勢を急いだため地理不案内な上に奇襲を受け
た薩摩藩兵は3番大隊長の島津新八郎以下24名の戦死者と16名の負傷者を出して敗走した。
中央戦線が崩れたことで左翼の部隊も撤退を余儀なくされた。こちらは仙台藩兵と交戦していた
が、兵力差に倍近くも開きがあったため撃破できずにいた。中央戦線の崩壊を聞き撤退をしたの
だが、仙台藩兵はこれを自力での勝利と勘違いして凱歌を上げたという。右翼は地形による原因
で銃撃戦だけに終わった。                               
 新政府軍の攻勢を凌いだ庄内藩だったが、状況は悪化の一途をたどっていた。元々、結束が弱
い同盟であったため戦況が悪化すると新政府に内通する藩が相次いだ。盟友の会津藩も城下に敵
の侵入を許してしまい、その命運が尽きようとしていた。唯一、膠着状態となっている秋田にも
新政府軍の増援が到着しており、彼我の戦力バランスは大きく崩れようとしていた。     
 この時点で、庄内藩が取りうる最良の戦略は兵を秋田から撤退させて藩境をかためることであ
る。そのように主張する幹部もいたが、大方の者は攻勢をかけて新政府軍を撃破し秋田藩を屈服
させるべし、そうでなければ撤退はすべきでないと主張した。庄内藩には全体を統率する最高指
揮官が存在せず、作戦目標とかは現地の指揮官による会議で決められていた。藩中央の意思も海
道口の大隊長を二人とも更迭したり、亀ヶ崎大隊を増援に寄越したりしていることから攻勢を支
持していると見て良いだろう。かくして庄内藩兵は最後の大攻勢へと突き進むのだった。たとえ
この戦いに勝利したとしても戦争の趨勢はすでに定まっている。しかし、彼らの士気は旺盛だっ
た。                                         
 
 
 
 
 9月8日朝、庄内藩4番大隊の清水木からの奇襲渡河で戦いが始まった。午後になると、遅れ
てきた2番大隊も雄物川を渡河して橋頭堡を確保した。翌日には亀ヶ崎大隊も来援し、庄内藩兵
は協議の結果、4番と亀ヶ崎大隊が秋田攻略、2番大隊が1番大隊と協力して神宮寺方面の新政
府軍を撃滅することに決まった。10日朝、2番大隊が神宮寺北西の刈和野にむかって東進を開
始した。新政府軍は羽州街道の上淀川でこれを迎撃するが、2番大隊の機動戦に翻弄され北方の
境まで後退、そこも2番大隊の別働隊に追撃されてさらに船岡まで退いたが、そこも追い落とさ
れてしまう。その隙に本隊が南の峰吉川を占領して、そこで夜を明かすことにした。明けて11
日、2番大隊は刈和野への進撃を再開した。新政府軍は北方の大平山山腹から山裾にかけて布陣
し2番大隊を攻撃、一旦は退却させるがすぐさま逆襲され、まず山腹の部隊が追い落とされ続い
て山裾の部隊も神宮寺まで敗走した。この体たらくに沢副総督は諸藩の隊長を激しく叱責した。
彼自身は彼を警護する部隊を前線に投入するため、僅かな護衛とともに角館に避難していたのだ
が、神宮寺に敗走した新政府軍は士気を失って勝手に角館に後退してしまっていたのだ。副総督
の叱責に諸藩の隊長たちは雪辱を期すべく連判血判状を認めた。              
 こうして、刈和野から神宮寺の新政府軍は一掃され、1番大隊も難路に苦しみながらも渡河し
て2番大隊に合流した。一方、秋田城を目指す4番大隊と亀ヶ崎大隊は雄物川北岸を進撃し、椿
台という比高4、50メートルの台地に迫った。ここは秋田新田藩の陣屋が建設中で、ここを突
破されれば後が無かった。そのため秋田藩以下諸藩は奮戦し、10日の4番大隊の攻撃を撃退す
ることに成功した。しかし、庄内藩も椿台への足掛かりとなる糠塚山を確保することに成功し、
決着を翌日に持ち越した。翌日、先の雄物川攻勢での雪辱を期す薩摩藩兵が糠塚山に猛攻撃をか
けてこれを奪回した。庄内藩兵は亀ヶ崎大隊の来援を得て防戦するが、左翼から福岡藩兵、右翼
から佐賀藩兵に攻撃されて退却を余儀なくされた。12日、海道口で3番大隊が攻勢を開始し、
長浜を攻撃した。前日の椿台の戦闘に呼応しなかったのは連絡不足による意思統一の欠如が原因
らしい。海道口を守る佐賀藩兵は椿台に増援を送っていたので兵が減少していたため、北方の第
2陣地に後退したが、新式銃を渡されて意気が上がっていた秋田藩兵が頑強に抵抗しているのを
見ると、砲兵がこれを援護しさらに第2陣地の部隊も逆襲に転じて庄内藩兵を撃退した。雄物川
右岸に迂回しようとした庄内藩兵も佐賀藩のアームストロング砲に制圧された。ここに庄内藩の
勝利は潰えた。その後、庄内藩は2番大隊が15日からの新政府軍による刈和野奪回作戦を撃退
するが、これが庄内藩の秋田での最後の勝利となった。鹵獲した品から米沢藩が降伏したことを
知った各大隊長は奥羽越列藩同盟が瓦解したことを悟って遂に撤退を決意した。       
 9月22日、新政府軍の猛攻に耐え続けてきた会津藩が力尽きた。これにより庄内藩は孤立無
援となった。羽越国境には9月初めから新政府軍が迫っていたが、庄内藩は藩士の老若、領民を
動員して敵が領内に入るのを許さなかった。だが、四方を17の藩の軍に迫られている状況では
庄内藩の命運は尽きたも同然だった。藩の重役は16日に評議を開いて最後は前藩主の裁断を仰
いで恭順謝罪することに決した。27日、鶴ヶ岡城が開城。その際、庄内藩士は西郷隆盛の計ら
いで帯刀することを許されている。これに感激した庄内藩はそれ以後、西郷を尊敬するようにな
ったという。                                     
 庄内藩への処分は城地召し上げと藩主の謹慎だったが、すぐに弟の家督相続と12万石格での
存続が許された。その後、岩城などへの転封を命じられるが、本間家からの70万両の献金で切
り抜けることが出来た。挙藩流罪で斗南3万石に減封された会津藩に比べるとはるかに寛大な処
置であった。これを実現させたのは最後まで決定的な敗北を喫しなかった庄内藩の精鋭たちだっ
たのである。                                     
 
 
 
 
 
 

 
 
 【不当な評価】                               
 「花は会津・・・」という里謡がある。これは対会津戦が連戦連勝でさほど苦戦しなかったこ
とから来ている。次に「越後は難儀」と続く。これは最終的には勝利したものの、河井継之助秋
義が指揮する長岡藩兵に思わぬ苦戦を強いられて難儀したからである。最後に「ものの哀れは秋
田」となる。これは言うまでもないないだろう。だが、秋田藩が早期に屈服していたら庄内藩は
他方面に兵を出して、それが越後に向かおうものなら越後は難儀どころではなくなっていたはず
だ。しかし、越後方面の総督府の失態を隠すため秋田藩以下、庄内藩の猛攻を耐え抜いた諸藩へ
の評価は甚だ低いものとされた。秋田藩などは公式に拙戦を叱責されてさえいる。当然、秋田藩
への恩賞も損害に見合うものではなかった。かくして秋田の戦いは顧みられることなく、最も活
躍し新政府の勝利に貢献した佐賀藩兵の戦功も埋もれてしまった。佐賀藩は鳥羽・伏見での後れ
を完全に挽回するには至らなかったのである。                      
 
 
 
 
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