総統命令第41号「コーカサス地方を制圧せよ」
ブラウ作戦
「
総統命令第41号
ロシアにおける冬期戦の終わりも近い。(中略)天候と地表状態が好転し次第、ドイツ軍
は主導権を奪取せねばならない。目標は、ソ連軍が依然保持している戦力を徹底的に殲滅し、
その最重要な戦争経済上の資源を可能な限り無力化することにある。(中略)そのため、ま
ず全兵力を南部戦区の主要作戦に振り向け、ドン河前面の敵を掃討し、ついでコーカサス地
区の油田及びコーカサス山脈の道路を奪取するものとする
1942年4月5日 国防軍最高司令官アドルフ・ヒトラー
」
【夏季攻勢計画“ブラウ”】
ソ連の首都モスクワの占領を狙ったタイフーン作戦の失敗を契機にドイツ軍は守勢に追い込ま
れた。年が明けると、ソ連軍の反攻は東部戦線の全域に拡大しドイツ軍は危機に陥った。だが、
当時のソ連軍の実力ではドイツ軍を潰走させることができず、春になると各地で撃退あるいは包
囲殲滅された。
1942年3月28日、ドイツ参謀本部は新たな攻勢計画を立案しヒトラー総統に提出した。
失敗に終わった昨年の短期決戦構想と異なり、今度のは長期戦を視野にいれたものであった。こ
の作戦計画は当初『ジークフリート』と命名されていたが、神話伝説の人物の名は縁起が悪いと
ヒトラーに却下されブラウ(青)と名付けられた。
ブラウ作戦に掲げられた戦略目標はコーカサス地方の油田地帯である。ソ連の軍需産業はこの
油田地帯に大きく依存しているため、そこを制圧すればソ連の戦争経済に大きな打撃を与えるこ
とができる。さらに、コーカサス全域を占領することによってトルコに参戦を迫ることができる
のである。
ヒトラーは提出された作戦計画に手直しを加え、総統命令第41号として東部戦線の各軍司令
官に通達した。
【作戦の開始と攻勢の限界】
ブラウ作戦の作戦目標は要衝ヴォロネジの占領・ハリコフ南方のソ連軍突出部の排除・スター
リングラードの制圧の3つで、当初スターリングラードは軍需産業と交通の中心としての機能を
失わせるだけで良しとされていた。
5月17日、ドイツ軍はハリコフの南方で大規模な攻撃をかけ、ソ連軍の戦略予備を壊滅させ
た。それに引き続く6月28日、ブラウ作戦の開始が発令された。
ソ連軍はこの攻勢にまともにぶつかることなく東方へ撤退していった。前年の教訓で拠点防御
が無意味なものであることを悟ったからだ。
ドイツ軍はこれを追撃することができなかった。ヴォロネジの戦いが予定よりも長期化したた
め南方軍集団が第4装甲軍を振り向けるタイミングを逸してしまったからであった。
この事態にヒトラーは7月7日に南方軍集団をA軍集団・B軍集団の二つに分け、それぞれを
コーカサスとスターリングラードに向かわせることにした。2つの軍集団の作戦目標は23日の
総統命令第45号で明確にされた。
それによるとA軍集団はドン川流域の敵を殲滅した後、黒海東岸を占領してソ連黒海艦隊と沿
岸 諸港の機能を喪失させた上でコーカサスのグロズヌイを占領、さらにカスピ海沿いに進攻し
てバクーを占領する、B軍集団はドン川流域に防衛戦を構築しつつスターリングラードに進攻し
て同市の占領と周辺に集結中の敵戦力の殲滅を達成した後、快速部隊をアストラハンに進出させ
ヴォルガ川の水運を封鎖するものとされた。
だが、この作戦目標を達成するにはドイツ軍の戦力は少なすぎた。A軍集団を構成する第1装
甲軍と第17軍は、コーカサス山脈の麓でソ連軍に進撃を阻止され、ほとんど目標を達成できぬ
まま攻勢を頓挫させられてしまった。グロズヌイの油田地帯を目指した第1装甲軍は75キロ離
れたテレク川流域で進撃を食い止められた。北緯43度20分、これがA軍集団の最南端到着地
点であった。
作戦失敗の原因はソ連軍の戦力を過少評価したことであった。だが、ヒトラーは作戦失敗の責
任をハルダー参謀総長とリストA軍集団司令官に押しつけ、9月10日にリストを24日にハル
ダーを罷免した。
コーカサスへの進攻が不可能になったことを認めざるを得なかったヒトラーは、残されたスタ
ーリングラードの攻略に執着した。スターリンの名を冠した街を占領することでヒトラーは、戦
略的失敗を政治的戦果で補おうとしたのだ。
【目標、スターリングラード】
8月16日にドン川の西岸全域がドイツ軍の手に落ちたことで、ソ連に残された天然の防壁は
ヴォルガ川を残すのみとなった。ヴォルガ川が敵に奪われると同川の交通がストップするだけで
なく、この川を「母なる大河」と愛してやまないソビエト国民に多大なる精神的打撃を及ぼすだ
ろう。ソ連の指導者スターリンはジューコフ上級大将を現地に派遣して、スターリングラード周
辺での反撃作戦の指導を命じた。
ジューコフは9月3日からドン=ヴォルガ地峡部の北翼でドイツ軍への攻撃を開始したが、燃
料と弾薬が不足しているソ連軍は百戦錬磨のドイツ軍の前に充分な戦果を挙げることなく撃退さ
れた。
スターリンは9月12日、ジューコフから作戦の失敗について説明を受け早期の反撃作戦は実
施すべきでないと理解し、彼と参謀総長ワシレフスキー大将に翌日までに名案を考えるよう命じ
た。
翌日の午後10時、二人はスターリンにスターリングラードを攻撃しているドイツ第6軍を丸
々包囲する大胆な反撃作戦を提案した。この作戦のあまりのスケールのでかさに度肝を抜かれ、
ドン川東岸への攻撃に止めた方が良いのではないかと言うスターリンに対し、二人は11月中旬
までに必要なすべての戦力・物資を準備できると答えた。スターリンはこの作戦を承認して二人
に実行準備に取りかかるように命じた。
スターリングラードの攻略を命じられたB軍集団であったが、コーカサスへの進撃が優先され
たために補給が停滞して進撃の停止を余儀なくされた。その間に、ソ連軍はドン川の防備を固め
た。
7月20日、ドイツ第6軍は進撃を再開したが補給も満足にない部隊では、ソ連軍の防衛線を
突破してスターリングラードまで到着するのは不可能である。31日、ヒトラーは第4装甲軍を
コーカサスから呼び戻した。
第6軍はドン河畔のカラチを第14装甲軍団と第24装甲軍団で南北から包囲攻撃をしかけ、
8月8日にソ連の守備隊である第62軍と第1戦車軍を包囲した。8月23日、ドイツ軍はドン
川橋頭堡からスターリングラードに進撃を開始した。
スターリングラードへの攻撃は南北から実施されることになっていた。街の北側を封鎖して、
南から攻撃するという作戦である。
まず、第16装甲師団がスターリングラード北側のスパルタコフカを攻撃したが、そこはソ連
軍によって要塞化されており師団は激しい逆襲を受け近づくことすらできなかった。すると今度
はソ連軍がドン川とヴォルガ川を結ぶドイツ軍の連絡線を遮断しようと第4戦車軍と第1親衛軍
を投入して攻撃をしかけてきた。ドイツ軍は一時危険な状況に追い込まれたが、第51軍団の進
出で8月末までには連絡線を確保することができた。
一方、第4装甲軍は8月19日、南からスターリングラードに近づいた。ソ連軍は全力を挙げ
てドイツ軍の侵攻を阻止しようとしたが、29日に防衛戦を突破され市南部に展開する全部隊が
包囲されかける事態に陥った。
この包囲を完成させようと第6軍に第14装甲軍団の投入が要請されたが、第6軍が市北部で
ソ連軍との戦闘に忙殺されていたため投入が遅れてしまい、その間にソ連軍は市内部に逃げ込ん
でしまった。スターリングラードを早期に攻略する機会はこうして失われた。
【スターリングラード市街戦】
スターリングラードの市街全域に対する攻撃は9月13日午前6時45分に砲兵と空軍部隊に
よる砲爆撃で開始された。続いて第6軍と第4装甲軍の計11個師団が市街に進入した。
すでに、スターリングラードの市街は度重なる砲爆撃によって瓦礫の山と化していた。市を守
るのはチュイコフ中将指揮の第62軍だが、同軍は8月中旬からの退却戦で6万人ほどの残存部
隊の寄せ集めになっており、さらにそれだけの戦力で防御縦深が2〜4キロしかないスターリン
グラードを守り切らねばならなかった。だが、スターリンから死守命令が出ている以上チュイコ
フは敵を撃退するか部隊が全滅するまで指揮を執り続けるしかなかった。
ドイツ軍は圧倒的な火力の支援を受けながら、指揮系統が分断されたソ連軍を各個に撃破して
いった。それに対し、ソ連軍は到着したばかりの第13親衛狙撃兵師団を投入してドイツ軍の前
進を押し止めようとした。両軍が放つ砲弾の熱でこの年の冬に一度も雪が積もらなかった地区も
あったという。
9月18日、ドイツ軍は戦闘開始2日後から攻撃している第1駐車場を制圧して、スターリン
グラードを南北に分断した。さらに22日には南部地域のソ連軍の重要拠点を占拠して市南部の
大半を占領下に置いた。
市南部が占領されたことで第62軍が保持している地域はヴォルガ川沿いにある市北部の重工
業地帯のみとなった。この危機にソ連軍は続々と増援部隊をスターリングラードに派遣した。チュ
イコフの部下達も崩壊した建物を即席の要塞に変えて抵抗を続けた。
しかし、戦況は依然ドイツ軍に有利で26日、ヒトラーはパウルス第6軍司令官からスターリ
ングラードの共産党本部を占拠したとの報告を受け満足していた。この分だと同市の陥落も間近
だとヒトラーは確信していた。
だが、同じ頃ソ連軍は反攻作戦のためにスターリングラードから北西200キロの地点に大規
模な予備部隊を集結させつつあった。そのことにヒトラーも市北部で掃討作戦を継続している第
6軍の将兵も全く気付いていなかった。
第6軍が気付かなかったのも無理もないかもしれない。スターリングラードのような市街地で
はドイツ軍が得意な電撃戦は通用しない。隠れる場所が至るところにある市街地に戦車を投入し
てもいい的になるだけである。ソ連軍は建物の残骸に狙撃兵を忍ばせたり、地下道を利用してド
イツ軍の後方を攪乱したりして味方の反撃準備が完了するまでの時間を稼いだ。このように執拗
に抵抗を続けるソ連軍と戦っているのだ。周りのことに目がいかないのも仕方ない。目前にある
戦場では両軍の歩兵同士による近接戦闘が展開され死傷者は急増していった。
ドイツ軍は多くの犠牲者を出しながらも攻撃を緩めることはなかった。10月14日、ドイツ
軍は最大規模の総攻撃を実施して、市北部の3ヶ所の大工場を襲撃した。この総攻撃は3,00
0機の爆撃機も参加して、各工場に陣取っていたソ連軍守備隊に壊滅的な打撃を与えた。30日
までにドイツ軍はスターリングラードの9割を占領下に置き、報告を受けたヒトラーは11月8
日に得意げに同市の占領は間近であると演説した。
【反攻作戦“ウラン”】
ジューコフ最高総司令官代理が計画したソ連軍の反攻作戦「ウラン(天王星)」の発動予定日
は11月9日であったが、輸送トラックの不足で補給物資の集積が遅れてしまいジューコフはス
ターリンに作戦の発動が10日間延期されることを報告しなければならなかった。
さて、ソ連軍が反攻作戦に用意した兵力は100万人以上に及び、さらにそれを火砲13,5
00門・戦車900両・航空機1,000機以上が支援することになっているのだが、さすがに
それだけの大部隊が移動していたらドイツ軍も気付かないわけがなく一部がドイツ軍に発見され
爆撃を受けた。
同盟軍のルーマニア第3軍と第4軍の正面に大規模な敵部隊が集結中だという報告を受けたヒ
トラーだったが、彼は手薄なこの地域に増援部隊を派遣することはしなかった。ヒトラーは16
日、パウルスにスターリングラードを早急に占領するよう電文で伝えた。翌日、パウルスは電文
を各指揮官の前で読み上げた。総統命令は絶対である。18日、第6軍はいまだ占領していない
残り1割の土地を奪うため攻撃を再開した。
ドイツ軍が事の重大さに気付いていない間にも、ソ連軍の攻勢準備は着々と進められていった。
そして、11月19日午前7時30分、ワツーチン大将指揮の南西方面軍の担当戦区での猛烈な
準備砲撃によってウラン作戦は開始された。
ソ連軍を迎え撃つのはルーマニア第3軍であったが、同軍にはまともな対戦車砲がないためT
34/76戦車を先頭に進撃してくるソ連軍の大部隊を阻止することは不可能であった。ルーマ
ニア兵達は必死に応戦するが間もなく潰走した。
第3軍の後方にはドイツ第48装甲軍団が配置されていたが、基幹となる第22装甲師団が戦
力を抽出されていた上、装備する戦車の67%がネズミに車体内部の電線のゴム皮膜を囓られて
いたため動けずにいた。同師団が出撃した夕刻にはすでにソ連軍戦車部隊は50キロ前進してい
た。師団はペスチャヌイ村の付近でソ連の第1戦車軍団を阻止しようとしたが、可動戦車が20
両ではソ連軍の前進を防ぐのは絶望的だった。ソ連軍は翌日、第26戦車軍団の先鋒隊が最初の
目的地ペレラゾフスキー村を占領した。
スターリングラードの南方でも20日午前10時、ルーマニア第4軍がソ連の第13戦車軍団
と第4機械化軍団の攻撃を受けた。敵の弱い部分を突く。それが作戦の鉄則である。脆弱な側面
をルーマニア軍などに任せたドイツ軍首脳の重大なミスであった。たとえ、政治的な理由で配置
せざるを得なかったにしても、その後方を充分に固めるぐらいのことはすべきである。
案の定、ルーマニア第4軍は敵の突破を許してしまった。ドイツ第4装甲軍のホト上級大将は
第29自動車化歩兵師団に反撃を命じた。師団はソ連第57軍の側面を攻撃して歩兵に大損害を
与えた。しかし、ソ連の戦車部隊は西に前進を続けており師団はB軍集団の命令で反撃を中止し
て後方に引き戻った。
こうした状況に対するパウルス独第6軍司令官の対応は緩慢であった。司令部を度々留守にす
るので情報が断片的にしかはいらなかったことも原因だが、彼の頭の中には市街全域を占領せよ
との総統命令しかなかった。
パウルスは21日の朝に上級部隊のB軍集団司令部に戦局は我が軍にとって不利とは思えない
という内容の報告を打電したが、彼が事の重大さに気付いたときにはもう手遅れであった。第6
軍は包囲されつつあった。反撃を行うにも予備の戦車部隊は市街戦に投入され消耗していた。パ
ウルスは己の判断を悔いたが、今更どうすることもできなかった。
22日午前6時頃、ドイツ第6軍の補給物資集積所があるドン川沿岸のカラチがソ連第26戦
車軍団によって占領され、戦略的に重要な固定橋が無傷で奪われた。橋を確保したことにより、
ソ連の南西方面軍はドン川の両岸に戦車部隊を展開することができた。
その日の夕刻、事態が一刻の猶予も許されないところにまで来ていると判断したパウルスはB
軍集団司令部に行動の自由を保障してくれるよう要請した。スターリングラードを放棄して脱出
するためである。だが、パウルスの要請は報告を知ったヒトラーによって却下された。ヒトラー
は第6軍に死守を命じた。彼の脳裏には前年のモスクワ攻略の失敗で危機に瀕した中央軍集団に
死守を命じて崩壊を免れた前例が刻みつけられていた。また、国民の人気を常に意識しなければ
ならない独裁者にとって占領した土地を放棄して退却するなど論外であった。
そうこうしている間にも、ソ連軍の前進は続いていた。そして、23日午後4時頃にソヴィエ
ツキー村でスターリングラード方面軍と南西方面軍が合流したことで第6軍は完全に包囲された。
パウルスは夜にヒトラーに撤退を要請する電文を送ったが、総統は必要な物資は空輸で補給する
としてパウルスの要請を却下した。26万人におよぶ将兵は狭い地域に封じ込めながら味方の救
援を待ち続けるしかなかった。
【救出作戦の挫折と第6軍の降服】
ウラン作戦が予定どおりに進展しているのを見たソ連軍首脳は、ルーマニア第3軍の左翼に展
開するイタリア第8軍の前線を突破してロストフまで戦車部隊を進撃させA軍集団までもを包囲
する大胆な作戦「サトゥルン(土星)」を立案して、26日にスターリンに提出した。
サトゥルン作戦はその後の情勢で実行の延期と内容の大幅な変更で「マルイ・サトゥルン(小
さな土星)」と名称を改められ12月16日開始された。目的は先月21日にこの事態に対処す
るために設立されたドン軍集団に打撃を与え、スターリングラードへの救援を阻止することであ
る。イタリア軍の戦線は瞬く間に突破されチル川沿いの戦線も南西方面への退却を余儀なくされ
た。
19日午後、ドン軍集団司令官マンシュタイン元帥はパウルスに「ヴィンター・ゲヴィッター
(冬の嵐)」作戦の発動を命じた。スターリングラードを保持しつつ包囲環の南を流れるドンス
カヤ・ツァーリツァ川まで前線を拡張するという内容である。
だが、パウルスはこれを現状では無理と反論した。マンシュタインもそれは承知していたので
スターリングラードを放棄して南西に脱出する「ドンネルシュラ−ク(雷鳴)」作戦との組み合
わせをヒトラーに承認するよう求めたが、ヒトラーは冬の嵐は承認したが雷鳴は最後まで承認を
拒んだ。
そうしている間にも、第6軍の物資は減少の一途を辿っていた。ヒトラーが約束した空輸は悪
天候と輸送機の不足、さらにはソ連空軍の妨害で必要最低限の3分の1ほどしか供給できなかっ
た。
23日、マンシュタインはパウルスに「雷鳴作戦を今すぐにでも実行できるか?」と問いつめ
た。パウルスが総統命令を無視して独断で行動することを期待してのことだが、厳格な軍人パウ
ルスにとって総統からの命令を無視することはできることではなかった。
同日、包囲された第6軍へ物資を空輸する部隊の最も重要な基地の一つであるチル川南方のモ
ロゾフスカヤにある飛行場がソ連の南西方面軍に占拠された。しかも、そこはドン軍集団司令部
があるノヴォチェルカッスクから180キロしか離れていなかった。さらにスターリングラード
の包囲環を目指す第57装甲軍団はソ連の第2親衛軍にムイシュコワ川で完全に前進を阻止され
ていた。
マンシュタインは第6軍の救出を断念せざるを得なかった。ここに第6軍の運命は決まった。
12月24日、マンシュタインは第57装甲軍団に進撃停止とチル川戦線への転進を命じた。
この命令で第6軍が脱出できる可能性は消滅した。彼等に残された道は空輸される物資を頼りに
新たな救援部隊が到着するまで持ちこたえるか全滅するかの二つしかなかった。だが、空輸のた
めの基地がひとつひとつ占領され、ドン川の上流域にもソ連軍の攻勢が拡大している状況を考え
ると長期に戦線を維持するのは不可能であった。
明けて1943年1月8日、ソ連のドン方面軍司令部は第6軍に正式に降服を勧告した。当然
ヒトラーはパウルスに勧告を無視するよう厳命した。
10日、「コリツォー(鉄環)」作戦が発動されソ連軍が殲滅戦に乗りだした。第6軍は後退
しながら抵抗を続けソ連軍に最初の3日間で26,000人の死傷者を出させたが、攻勢に衰え
が見られることはなかった。さらに、14日にピトムニクが、21日にグムラクが陥落すると両
地の飛行場に送られる物資に頼っていた第6軍は致命的な打撃を被った。
ヒトラーは30日にパウルスを元帥に昇進させたが、その翌日パウルスは部下を連れてソ連軍
に投降した。抵抗を続けていた部隊も2月2日までに降服した。捕虜になった者は10万に達し
ていた。そして、そのなかで生きて祖国の地を踏むことができたのはごくわずかであった。
スターリングラードでの勝利は緒戦からの敗北で意気消沈していたソ連軍兵士に勇気と自信を
与えた。1942年12月に制定された「スターリングラード防衛戦従軍メダル」は45年6月
制定の「ベルリン攻略戦従軍メダル」と並んで最も価値ある勲章となった。
実は、スターリングラードという地名が存在したのは37年間でしかない。その37年という
短い期間でこの街は最大規模の激戦地として戦史の1ページを飾り、祖国を侵略者から守り抜い
た「先勝の地」として長くロシアの人々に記憶され愛され続けたのである。それは独裁者スター
リンに何の関係もない、ロシア人の誇りの象徴であるのだ。
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