戦国簡単武将伝




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    織田信長  香宗我部親泰  田中吉政  尼子勝久  戸沢盛安  前野長康  隈部親永  神戸具盛
 
    一色在通  岡部正綱  那須資晴  大内義長  有馬則頼
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
    織田信長(天文3年〜天正10年)
   尾張の戦国大名。少年時代から奇抜な服装や行動から尾張の大うつけとよばれる。そのため、
  19歳で家督を継ぐとそれまでの対抗勢力だけでなく身内からも見限られてしまう。しかし、信
  長は12年の歳月をかけてこれを制圧し尾張の統一に成功した。
   永禄3年の桶狭間の合戦で今川義元を破って勇名を馳せた信長は永禄10年に美濃を制圧、次
  いで翌年に足利義昭を擁して京に上洛した。だが、その義昭と不仲になったことで信長は周囲を
  敵に囲まれてしまう。一時は絶体絶命の窮地に追い込まれるが、敵が連携しなかったことや最大
  の脅威である武田信玄の急死で辛くも切り抜け、天正元年に全ての元凶である義昭を追放して足
  利幕府を滅亡させた。
   信長と義昭の争いはその後も続き、越後の上杉謙信、中国の毛利輝元などが反信長陣営に参加
  したが、信長は時間をかけてこれを制圧し、天正9年までに石山本願寺をはじめとする一向一揆
  や播磨・丹波などの国人衆、大和の松永久秀らを屈服させていった。
   天正10年に甲斐の武田勝頼を滅ぼして天下に王手をかけた信長であったが、6月2日、京都
  の本能寺で家臣の明智光秀の謀反で自害して果てた。
 
 
 
 
 

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    香宗我部親泰(天文12年〜文禄2年)    土佐の国人領主長宗我部国親の三男。永禄元年に香宗我部親秀の養子となる。実家を継いだ兄元 親の片腕として土佐統一やその後の四国制圧戦で活躍した。    文禄元年、息子の親氏が朝鮮出兵で戦死したため、代わりに出陣を命じられたが、翌年、長門国   で病死した。

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    田中吉政(天文17年〜慶長14年)    近江国高島郡の出身。父は重政。はじめ宮部継潤に仕え、次いで羽柴秀勝、天正12年からは豊   臣秀次の家臣となる。    文禄4年に秀次が切腹すると吉政は豊臣秀吉の直臣に取り立てられ三河岡崎10万石の大名とな   った。だが、秀吉が没すると吉政は徳川家康に接近し、慶長5年の関ヶ原の合戦では東軍に属し敗   走して伊吹山中に潜伏していた石田三成を捕縛した。その功績で戦後の論功行賞では筑後柳川32.   5万石を与えられた。    吉政は武功派ではなかったが、勤勉実直な性格でそれが秀吉の信任を得ることになった。また、   治世にも長け、柳川の産業振興に努めたほか、熱心なキリシタンだったため領内のキリシタンを保   護した。

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    尼子勝久(天文22年〜天正6年)    尼子誠久の五男。勝久の家系は尼子氏最大の勢力新宮党の頭領であり、一族の重鎮でもある。し   かし、勝久が生まれた翌年に新宮党は毛利元就の謀略に乗せられた主君尼子晴久によって滅ぼされ、   父・誠久も祖父・国久も殺害された。ただ一人、勝久だけが乳母に助けられ脱出に成功した。    国を追われた勝久は東福寺に入って禅僧になったが、永禄9年に尼子宗家が元就に滅ぼされると   唯一の尼子一族として山中鹿介らに擁立され還俗した。この時に勝久と改名した。    尼子残党の総大将となった勝久は出雲奪回を企て再三、毛利に挑戦するが敵わず、織田信長に頼   りその家臣・羽柴秀吉の配下となった。以後、勝久らは秀吉の中国平定戦に従事するが、籠城して   いた播州上月城を毛利の大軍に包囲され奮闘空しく降服した。    勝久は尼子氏再興の望みを山中鹿介に託すと上月城内で切腹した。天雲宗清居士。

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    戸沢盛安(永禄9年〜天正18年)    出羽国角館城主。兄盛重の跡を継ぎ、戸沢氏18代目当主となった。盛安は周辺の豪族を支配下   に収めるなど戸沢氏の全盛期を築いた名将で、他にも最上氏と連携して小野寺氏を圧迫したり、安   東氏の内紛では湊道季を支援したりした。    天正18年の小田原の陣では豊臣秀吉の軍に参陣して、その功で北浦郡44,000石を安堵さ   れたが、同年6月に陣中で病没した。享年25歳。遺骸は小田原海蔵寺に葬られた。    鳳仙寺殿中山得大居士。

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    前野長康(?〜文禄4年)    永禄9年に墨俣城築城に功績を挙げ、以後秀吉に臣従する。その後、小牧合戦や四国平定戦、小   田原合戦、朝鮮出兵などで戦功を挙げ秀吉の信頼を得て、そのまま順調に出世するかに見えたが、   秀次切腹事件に巻き込まれ封地を没収された上に死罪を申し渡され、息子景定と共に自害した。

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    隈部親永(?〜天正16年)     肥後の国人で隈部式部大夫親家の長男。天正元年に家督を継ぐ。豊後の大友氏に属し、肥後    国人衆の中核的存在となる。その後は肥前の龍造寺氏に鞍替えしたようでその支援で天正6年    に赤星氏を討って隈府城主となった。大友氏とは敵対関係になったわけでもなく、親交は続け    ていたらしい。島津氏の侵攻で領土の大半を失うが、豊臣秀吉の九州征伐で解放された。しか    し、与えられた領土が少ないことに不満を抱いた親永は、肥後の国主となった佐々成政に反旗    を翻した。だが、奮戦空しく自害して果てた。法名仙空

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    神戸具盛(?〜慶長5年)     伊勢平氏の流れを汲む関一族の支流神戸氏の7代目。神戸城城主。永禄11年、織田信長の    圧力で信長の三男信孝を養子にし、3年後に近江日野城に幽閉された。天正10年に四国へ遠    征する信孝の留守居として神戸城にもどる。信孝没落後は織田信雄のもとにはしり、晩年は伊    勢阿濃津で隠棲した。

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    一色在通(?〜元和元年)     足利義昭に仕えた後、徳川家康の家臣になる。1000石を与えられ高家に列した。慶長年    間は京都にあって唐橋の家を相続する。隔年に江戸に赴く。

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    岡部正綱(天文11年〜天正11年)     駿河今川氏に仕えた武将。今川氏が没落すると武田信玄に招かれ駿河清水城主として三千貫    を領した。天正10年に武田家が滅亡すると徳川家康に従い、本能寺の変で混乱状態に陥った    甲斐への嚮導役を務めた。

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    那須資晴(弘治2年〜慶長14年)     関東下野の武将で藤原北家の流れを汲むとされる。佐竹氏と宇都宮氏の侵略から領土を守っ    ていたが、秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収された。その後、息子の資景に那須郡    5000石が安堵され、資晴にも佐良土1000石が与えられた。関ヶ原の合戦では東軍に参    加し、それにより1000石を加増された。

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    大内義長(?〜弘治3年)     九州の戦国大名・大友義鑑の息子。母が中国の大内義隆の姉だったため、その縁で義隆の猶    子となり晴英と称した。その後、義隆に実子・義尊が誕生すると晴英は疎まれ最終的には離縁    され実家に戻った。この頃の晴英は15歳前後とされているので多感な年頃である。養父の仕    打ちに心を痛めていたことだろう。     兄・義鎮の下で悶々とした日々を送っていた晴英だったが、天文20年に義隆が陶隆房の謀    反で自害すると、隆房から大内家当主として迎えたいとの使者が来た。翌年、晴英は大内家の    家督を継承し、さらにその翌年に将軍・足利義輝から名を頂戴して義長と改名した。     思いがけず転がり込んできた大内家の家督だが、実権は改名した陶晴賢に握られ義長は傀儡    の地位に甘んじるしかなかった。その晴賢も弘治元年の厳島合戦で毛利元就に敗北して自害す    ると大内家領国は急速に崩壊し、兄にも見捨てられた義長は弘治3年4月3日、長府の長福寺    で自刃して果てた。彼の死で大内家は滅亡した。

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    有馬則頼(1533〜1602)     播磨守護赤松家の支流、有馬重則の子として三木に生まれる。羽柴秀吉に仕え毛利攻めに従    軍。清洲会議では柴田勝家らの秀吉暗殺計画を未然に防いでいる。朝鮮出兵や伏見城造営など    の功で摂津の有馬・島下1万石を与えられ、秀吉の御咄衆となった。関ヶ原では東軍に味方し    て旧領有馬郡2万石を得て三田城に住んだ。
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