第3帝国の敗北を確定させた史上最大の上陸作戦
オーバーロード作戦
「諸君、私は決定を好まない。しかし、私が決定しなければならない。では・・・行こう諸君!」
連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハワー米陸軍大将
「このビーチに残るのは、死んだ兵隊とこれから死ぬ兵隊だけだ。死にたくない者はあの敵陣を
越えて進め!」
米第29師団副師団長ノーマン・コータ陸軍准将
連合軍の作戦計画
ドイツ軍の防衛計画
Dデーの戦闘
西部戦線の崩壊
人の造りしもの
【連合軍の作戦計画】
1942年6月にダンケルクが陥落してから英独両軍の戦いの場は遠く離れた北アフリカの砂
漠となった。だが、イギリスにとって砂漠の戦場が彼等にとっての生命線であるスエズ運河を死
守するという重要な位置づけをされていたのに対し、ドイツにとっては砂漠の戦いはあくまで副
次的なものだった。誤解されている人もいると思うが、北アフリカ戦線ではイタリア軍がメイン
でありドイツ軍はそれを支援するだけの存在だったのだ。
この事は、ドイツ軍と死闘を展開しているソ連にとっても黙っていられる問題ではなかった。
ドイツが北アフリカに投入している兵力はわずか4個師団に過ぎず、現有(1942年11月6
日時点)256個師団のうち7割近い179個師団を東部戦線に投入しているからである。
ソ連首相のスターリンは英米に第2戦線を早期に構築するよう強く要求した。彼は英米が独ソ
の共倒れを策しているのではないかと疑っていた。事実、英米にはそれを期待する人たちが多数
存在していた。
1943年5月13日に北アフリカの枢軸軍が降服すると、英米連合軍の次なる目標はヨーロ
ッパしか無かった。米ソは北フランスへの上陸を望んでいたが、イギリス首相のチャーチルはイ
タリアへの上陸を強く主張した。これは、それまでの地中海戦線の延長でしかなかった。チャー
チルはさらにバルカン半島への上陸も考えていた。彼がここまで地中海にこだわるのはフランス
に上陸すればドイツ軍の激しい抵抗にあい多数の犠牲者を出すことになると考えたからだ。彼の
脳裏にはフランス戦でのドイツ軍の精強さと第1次大戦での凄惨な塹壕戦が強く残っていた。
だが、イタリア戦線の停滞とソ連のクルスク戦での勝利により、チャーチルの思惑は潰えるこ
とになった。1943年11月28日のテヘラン会談で翌年5月1日の北フランスへの上陸作戦
が正式に決定された。作戦名は『オーバーロード(大君主)』とされた。皮肉にもこれを命名し
たのはチャーチルであった。
北フランス上陸作戦は1942年からすでに準備が開始されていた。史上空前の規模となる大
作戦になることが明らかなため準備も大変となるが、一番の懸案は総司令官人事であった。兵力
からして総司令官には米陸軍の軍人が着任するのは当然だが、適任者がそういるものでもない。
作戦には米英だけでなくカナダや自由フランス・自由ポーランドも参加する。総司令官はこの多
国籍の連合軍を束ねられる人物でなければならない。米大統領ルーズベルトはジョージ・マーシ
ャル陸軍参謀総長が適任であると考えた。自国のアラン・ブルック陸軍参謀総長を推薦しようと
していたチャーチルもマーシャルならと同意した。
ところが、米統合参謀長会議がマーシャルの転出に反対するという事態が起こった。マーシャ
ルの代理にはドワイト・D・アイゼンハワー欧州派遣軍司令官が任命されることになっていたが、
彼にマーシャルの代理が勤まるのかという懸念もあるし何よりも太平洋方面を指揮するダグラス
・マッカーサー大将と犬猿の仲であることが問題とされた。1943年12月、ルーズベルトは
アイゼンハワーを総司令官に任命した。
総司令官人事が終わると次は総司令部と実行部隊の人事が決められた。副司令官にサー・アー
サー・テッダー英空軍大将、総参謀長にウォルター・ベデル・スミス米陸軍中将、彼を補佐する
フレデリック・モーガン英中将、実行部隊の最高指揮官にサー・バーナード・モントゴメリー英
第21軍集団司令官、その指揮下の米第1軍司令官にオーマー・ブラッドレー中将、英第2軍司
令官にマイルズ・デンプシー中将が任命された。また、海軍部隊はカーク提督指揮下の米海軍と
サー・フィリップ・ヴァイアン提督が指揮する英海軍をバートラム・ラムゼー英海軍大将が指揮
することになった。
1944年1月15日にロンドンに到着したアイゼンハワーは上陸地点をどこにするか協議し
た。その結果、ノルマンディー海岸が一番適切であるとされた。その理由は
1)イングランド南部から戦闘機が到着できる距離である
2)海岸部と田園の多い内陸部は戦場として好適である
3)カレー地区以外に部隊と補給が海を渡るにはノルマンディーが一番近い
4)ドイツ軍は連合軍の上陸地点をカレー地区と予想しており、
裏をかくことで奇襲効果を期待できる
が挙げられる。なぜ、ドイツ軍がカレー地区を予想上陸地点にしていたのかは、そこがイギリス
から一番近いからである。上陸作戦で距離は重要で、1928年にアメリカで発刊された日本と
アメリカをテーマにした仮想戦記でも太平洋艦隊を撃破した日本軍がシアトルに上陸すると書か
れているが、それは日本から米本土に上陸する場合シアトルが一番近いからである。
連合軍はノルマンディー上陸作戦を偽装するためジョージ・スミス・パットン米陸軍中将指揮
の第1軍集団をカレー地区の対岸に配置した。この第1軍集団は部隊が存在しない幽霊部隊であ
るが、シチリア上陸作戦で勇名を馳せたパットン将軍が指揮しているとあってドイツ軍はこの部
隊が上陸作戦の主力であると思いこんでしまった。そのため、ノルマンディーに連合軍が上陸し
てもドイツ軍はカレー地区から部隊をなかなか動かそうとしなかった。実は、この時期のパット
ンは兵士殴打事件で謹慎中で実戦部隊を指揮することは有り得なかった。一兵卒を殴ったぐらい
で将軍が解任されるとはさすがプライベート・ライアンの国である。
連合軍は他にもソーン中将の北方兵団(これも幽霊部隊)をスコットランドに配置してあたか
もノルウェーに上陸すると見せかけた。ドイツ軍はこれにも引っかかりノルウェーから部隊を動
かさなかった。
人事も上陸地点も決まったが問題はまだあった。作戦に参加する39個師団の補給である。ノ
ルマンディー地区には大規模な港湾施設を有する都市はシェルブールしかなく、同市が陥落する
までは上陸地点の海岸部で補給物資を揚陸しなければならない。だが、海岸への揚陸は輸送船か
ら艀を使ったものになるか、直接着岸できるが搭載量が少ないLSTによるものしかなく、どち
らも非常に効率が悪かった。連合軍はマルベリーと呼ばれる人工港湾を建設することで問題の解
決を図った。詳細を述べたいところではあるが長くなるので割愛する。
最後の懸案はDデー(上陸開始日)をいつにするかである。条件は満潮時であること、できる
だけ夜明けに近い時刻であること、ある程度の月明も必要とされた。これらの条件を満たす日は、
6月5日から7日までの3日間であった。それを過ぎると次は7月19日まで待たなければなら
なかった。5月5日、アイゼンハワーと軍司令官達はDデーを6月5日に仮定することで同意し
た。
だが、時期が近づくにつれ天候の悪化で上陸の決行が危うくなった。6月4日21時45分、
アイゼンハワーは決行日を1日延長することにした。一時的であるが天候が回復するという気象
予想官の言葉に賭けたのだ。
6月5日午前4時15分、最後の天気予報を聞いたアイゼンハワーは「オール・ライト・ウィ
・ゴー(よろしい、決行だ)」と作戦開始を発令した。揚陸艦・上陸用舟艇4126隻、補助艦
艇736隻、徴用商船864隻、戦闘用艦艇327隻はワイト島に集結すると5カ所の上陸地点
にむかって出発した。
【ドイツ軍の防衛計画】
1943年はドイツにとって悲観的な出来事の連続となった。地中海ではチュニスの陥落で
北アフリカ戦線が消滅した。さらに連合軍はシチリア続いてイタリア半島に上陸してイタリア
を脱落させた。東部戦線でもドイツ軍の夏季攻勢がクルスクで頓挫して以後は守勢一方となっ
た。米英軍による爆撃も激しさを増し、ドイツの諸都市は空襲にさらされた。
ヒトラーがフランスの防衛を意識し始めたのはアメリカの参戦が確実になってからだった。
1942年3月、ヒトラーは西方総司令部(OB−W)を設置し、フォン・ルントシュテット
元帥を司令官に任じた。OB−Wの任務は3月23日の総統命令第40号にあるように陸海空
三軍を統括指揮して連合軍の反攻作戦を水際で阻止するというものだった。
とはいってもこの時期のフランスはまだ平穏な「後方地域」であり、防備の強化も急がれな
かった。だが、翌年になるとフランスへの連合軍の上陸が危惧されるようなった。しかし、ド
イツは連合軍がいつ、どこに上陸するかという情報をまったく手にいることができなかった。
スパイが根こそぎ逮捕されたこととイギリス沿岸の航空偵察が思うようにできなかったことが
原因である。
それでも、ヒトラーは限られた情報から1943年の晩秋には連合軍の上陸は来年2月以降
にノルウェー・オランダ・フランスのどこかに対して行われると判断していた。もちろんこれ
だけでは防衛の準備はできないから国防軍総司令部(OKW)とOB−Wそして海軍はさらに
検討を重ねて連合軍の計画を以下のように推測した。
1,連合軍の反攻作戦は1944年の2月以降に大西洋の天候が
好転してから行われる。おそらく5月頃
2,参加兵力は30個師団と空挺8個師団程度
3,攻撃地点はフランス北岸。しかし、ノルウェーやフランス南
岸の可能性も否定しない
さらに、OKWとOB−Wは上陸地点をカレー近郊またはソンム河口付近と見ていた。理由
は英仏海峡が最も狭い地域であり、部隊の輸送が円滑に行えるだけでなく連合軍の航空支援も
容易である、ドイツの心臓部であるルール工業地帯に近い、付近にはアントワープやル・アー
ヴルといった補給港が存在するなどだが、海軍は陸軍が推測した地域は強い西風にさらされる
ため上陸は困難とした。海軍は連合軍の上陸はコタンタン半島によって西風が遮られるセーヌ
湾で行われると判断した。だが、ルントシュテットはなぜか海軍の意見を取り入れようとはし
なかった。
連合軍の上陸は1942年に小規模だが2回行われている。3月28日のA・チャールズ・
ニューマン英陸軍中佐を隊長とするコマンド部隊のサン・ナゼール奇襲作戦と、8月19日の
英加米仏連合軍によるディエップ上陸作戦である。このうち、サン・ナゼール奇襲作戦は大西
洋で唯一大型艦を収容できる乾ドック、フォルム・エクルーゼを破壊することが目的で反攻作
戦には関係なかったが、ディエップ上陸作戦は北フランス上陸作戦の予行演習のようなもので
あった。この作戦で得られた教訓は反攻作戦に生かされることになる。
いずれも被害はそれほどでもなかったが、ヒトラーはフランス沿岸の防備を強化する必要を
痛感し、ルントシュテットに防備を固めるよう要請した。だが、資材と人員の不足で港湾を要
塞化するのに精一杯で海岸線にまで手が回らなかった。
それでも防衛線は「大西洋防壁」として内外に宣伝された。さらにヒトラーは宣伝文句を増
やすため一人の男をイタリアから呼び戻した。北アフリカの戦場で英軍を翻弄して“砂漠の狐”
という異名で呼ばれたエルウィン・ロンメル元帥である。ヒトラーはロンメルにオランダから
地中海沿岸の地域を視察して所見を報告するように命じた。
ロンメルは1943年11月から2ヶ月かけてデンマークからフランス西岸のビスケー湾の
沿岸を視察して大西洋防壁が名前だけの存在であることを知った。彼はヒトラーに海岸の陣地
構築はルントシュテットが港湾の守備を最優先にしたためはかどってなく、特に防衛順位の下
に位置づけられている第7軍が担当するコタンタン半島とブルターニュ半島は鉄条網も対戦車
障害も地雷原も不十分であること、各戦区を担当する軍指揮官の防御方針が一致していないこ
となどを報告した。ヒトラーは問題を細かくしかも的確に指摘するロンメルに感服し、194
4年1月彼をOB−W配下のB軍集団の司令官に任命した。
英雄ロンメルの登場は大西洋の守りを強化するものと期待された。だが、連合軍の攻勢計画
が問題山積みであったのと同じくドイツの防衛計画も様々な問題があった。
まず、指揮系統の問題がある。ルントシュテットは一応陸海空三軍を統括指揮するとされて
いたが、北フランスを担当する海軍の水上艦隊と潜水艦部隊は西方海軍司令部とUボート司令
部が、空軍部隊は第3航空艦隊が指揮しておりルントシュテットはこれらを直接指揮すること
はできなかった。
さらに、陸軍でもロンメルの登場により指揮系統に混乱が生じた。組織編成上、ロンメルは
ルントシュテットの部下だが、元帥であるロンメルは総統に直接意見を具申することができた。
つまり、ロンメルがルントシュテットの方針に反する指示を出したとしても、事前にヒトラー
に許可をもらっておけばそれが通用するのである。これに、新編成の西方装甲集団が追い打ち
をかける。西方装甲集団は西方総司令官つまりルントシュテットに機動作戦の提言を行うのが
仕事で実戦部隊の指揮はできない。司令官の補佐をするのだから西方装甲集団司令官はルント
シュテットの部下でなければならないのだが、司令官のレオ・ガイル・フォン・シュヴェペン
ブルク装甲兵大将の上司はハインツ・グーデリアン装甲総監でルントシュテットの命令に従う
存在ではなかった。
指揮系統の問題は迎撃構想にも影響を与えた。よくいわれているようにルントシュテットと
ロンメルは内陸での機動防御か水際での上陸阻止かで意見が対立したとされているが、それは
すぐに収束した。総統の命令は連合軍の上陸を断固として阻止せよだったからである。
総統の命令は絶対だからドイツ軍の迎撃方針は水際阻止で一致して二人の元帥の意見の対立
も収まると思われたが、今度は上陸地点と装甲師団の配置で対立が生じた。
ルントシュテットはカレー地区に連合軍が上陸してくるだろうと予想して同地区の守りを重
点的に強化していたが、ロンメルはノルマンディーこそ本命と見ていた。ヒトラーも同意見だ
った。だが、ルントシュテットは資材と人員そして時間の不足でノルマンディーをカレー地区
と同程度に強化するのは不可能だとした。ルントシュテットは仮にノルマンディーに敵が来る
としてもそれは守りが堅いカレー地区を避けたためで、カレー地区の守りを弱めてノルマンデ
ィーを強化したとしても連合軍は守りが弱いカレー地区に上陸してくるはずであると判断して
いた。ルントシュテットは敵がノルマンディーに上陸してきたら機甲部隊による反撃で撃退で
きるとした。これはシュヴェペンブルクもグーデリアンも同意していた。
双方の意見の食い違いは反撃の主力である装甲師団の配置をどうするかという問題にも影響
した。OB−Wは予備の装甲師団はパリ西部のセーヌ河両岸に集中配置すべきと主張したが、
ロンメルはカレー地区とノルマンディーに分散して配置すべきとして譲らなかった。双方の意
見は何回かの会合を経ても統一されることはなかった。なぜならお互いの作戦方針に危惧を抱
いていたからである。
OB−Wはロンメルのいうように装甲師団を海岸に分散配置させたら敵の上陸に素早く対応
できるし、上陸がなかった地域から部隊を最短距離で移動させることができるだろうが、それ
にはセーヌ河やオルヌ河といった大河川を何本も渡河しなければならない。しかし、それらの
橋梁は空襲で破壊されているため移動はかなり手間取るだろうとした。それに対し、ロンメル
は内陸から部隊を移動させようとしても連合軍の航空優勢でこれまた移動が捗らないだろうと
した。いくら後方に有力な部隊を集結させていたとしても前線に到着できなかったら意味がな
い。その間に、連合軍が橋頭堡を確保したらそれを潰すのに大変な労力を必要とする。ロンメ
ルはそう考えた。彼の意見には海軍も同意していた。しかし、ルントシュテットは連合軍の航
空隊が活動しない夜間に移動すれば問題ないとした。ルントシュテットは米英軍の圧倒的な航
空優勢にさらされながら戦った経験がなかった。結果は、双方とも正しいことが後に証明され
ている。
こうした意見の対立に対しヒトラーが下した判断は9個の装甲師団と1個のSS装甲擲弾兵
師団のうち3個をB軍集団に、3個を新設のG軍集団に、残りの4個をOKWの戦略予備とし
てヒトラーの許可がなければ動かすことができないというものだった。G軍集団の担当区域は
南フランスで決戦に間に合わないことがほぼ確定された。
ヒトラーの裁断で装甲師団の配置問題は解決されたかに思われたが、ロンメルも自前の装甲
師団を与えられなかったOB−Wも総統の決断を変えようと躍起になった。だが、総統の決断
が変わることはなかった。
そうこうしているうちに新たな問題が発生した。具体的な上陸の日時である。ドイツ軍は海
軍が予想した6月15日に上陸がなされると判断した。これは天候などの条件をもとに判断さ
れたものでさらに何時に上陸が開始されるかという予想は夜明けの満潮時と判断された。実際
は干潮時に上陸が開始されたので時間のずれが生じることとなった。それにも増して致命的な
のは15日という判断が敵がカレー地区に上陸してくると想定した上でのことであって、ノル
マンディーでは異なるということだった。ノルマンディーで該当する日は6月5日〜7日であ
った。しかし、ドイツ軍はこの間違いに気づくことはなかった。ロンメルは妻の誕生日を祝う
のと総統に再度装甲師団の配置転換を直訴するため本国に帰国した。それ以外の前線の指揮官
も図上演習を行うため内陸のレンヌに集合していた。警戒を強めたのはBBC放送のレジスタ
ンス向けの放送を聞いていたカレー地区の第15軍だけであった。そして、かれらは来た。
【Dデーの戦闘】
連合軍はノルマンディー海岸の5カ所に上陸することになっていた。連合軍はそれぞれの上
陸地点に暗号名をつけていた。ユタ海岸とオマハ海岸にはブラッドレー中将の米第1軍が上陸
する。ユタには第7軍団の第4歩兵師団が、オマハには第5軍団の第1歩兵師団が担当し、プ
リマスとファルマス周辺に集結している第29歩兵師団が後続の任についた。さらにその後方
に続く増援の師団はブリストル海峡の諸港に集結していた。ブラッドレー中将はパットン中将
の第3軍が到着したらそれを合わせた第12軍集団の指揮を執ることになっていた。
その他、ゴールド海岸にはサウサンプトンに集結した英第50師団と後続のハリッジ周辺に
集結した第7機甲師団の第30軍団が、ジュノー海岸にはサウサンプトンとソーレント海峡に
集結した英第1軍団隷下のカナダ第3師団等が、ソード海岸には同じく英第1軍団の第3歩兵
師団等が上陸することになっていた。この英連邦軍は英第2軍司令部が指揮を執った。
連合軍の反攻作戦は上陸地点最右翼のユタ海岸内陸部一帯への空挺作戦から始まった。コタ
ンタン半島と内陸部にいるドイツ軍が海岸堡に進出するのを阻止するためである。
米第101、第82の両空挺師団は6月5日深夜、それぞれの目標の上空に達した。だが、
悪天候とドイツ軍の対空放火で部隊は分散降下を余儀なくされた。第82師団は目標地点に降
下できたのは1個連隊のみで、師団の残りは4%しか目標に到着できなかった。そのため師団
は任務であるメルデレ川とドゥーヴ川の渡河点を確保することができなかった。
101空挺師団も翌日の夕方までに6600人中2500人しか集結できなかった。82空
挺師団に至っては3日後になっても3分の1しか集まらなかった。両師団とも大量の装備と火
砲を失ってしまっていた。
だが、分散して降下したことによりドイツ軍を混乱させるという思わぬ戦術的効果が得られ
た。そのためドイツ軍は海岸線に予備部隊を移動させることができなかった。さらに、82空
挺師団の一部隊が6日にレンヌで予定されていた図上演習に参加するため移動中の独第91空
挺師団長ヴィルヘルム・ファライ少将と偶然遭遇しこれを殺害した。
この空挺師団の活躍によりユタ海岸は米軍が上陸する前から事実上勝敗が決していたのであ
る。
連合軍は5つの地点に上陸したが、そのなかで最も激戦区だったのがオマハ海岸である。米
軍第1、第29歩兵師団とレンジャー部隊を乗せた上陸用舟艇は6日午前3時、海に降ろされ
ていった。だが、荒波によって10隻の小型舟艇が転覆して300人以上の兵士が暗い海面に
放り出されたり、水陸両用型のシャーマン戦車32両中27両も海に沈んでしまった。さらに
沈没を免れた舟艇も激しい揺れでほとんどの兵士が船酔いになってしまっていた。舟艇の中は
嘔吐物でいっぱいだったという。
オマハ海岸は西のラ・ペルセ岬と東のポール・アン・ベッサン村に挟まれた10数qの海岸
である。その間に村が何個か点在するが一番大きなトレヴィエール村でも人口は800人にも
満たない。ドイツ軍はこの海岸を塹壕や有刺鉄線、各種火器で厳重に防備していた。配備され
た部隊も東部戦線から移動した歴戦の第352師団である。
艦砲射撃とコンソリーデーテッドB−24リベレーター爆撃機による空爆にさらされたドイ
ツ軍陣地目指して米軍の上陸用舟艇が砂浜に近づく。何隻かがドイツ軍の攻撃で破壊され、中
にいた兵士のほとんどが吹き飛ばされた。兵士達はただ自分の船がこのまま何事もなく海岸に
到着することを祈ることしかできなかった。しかし、無事に上陸できても今度は弾薬や工兵隊
の火薬に直撃弾が命中して誘爆が相次ぎ、巻き込まれた兵士が火だるまとなってしまった。
それでも30分と経たないうちに歩兵と工兵1000人とシャーマン戦車8両が海岸に到着
した。だが、そこから教範どおりに行動できる者はほとんどいなかった。辿り着くまでに体力
を使い果たし砂浜にしがみつくのが精一杯であった。
重装備を持つ戦闘工兵の損害はもっと甚大だった。16個の工兵隊のうち目的地に到着でき
たのは5個で、しかもうち3個は孤立無援で敵砲火にさらされた。工兵隊は数カ所の障害物を
排除したが、最初の30分で40%の兵士を失った。
上陸開始から3時間を経てもドイツ軍陣地に対して組織的な攻撃は始まっていなかった。海
岸は燃えている車両や破壊された舟艇、無数の兵士の遺体で埋め尽くされていた。戦友の死体
を横目に兵士達は何とかしなければならないという思いを抱き射撃を始めた。実際、敵を倒さ
なければどうにもならなかった。
オマハ海岸は4つの地区に分かれている。西からC(チャーリー)、D(ドッグ)、E(イ
ージー)、F(フォックス)である。戦局が動いたのはE地区だった。E地区はサン・ローラ
ンの谷からコルヴィルの谷の西のはずれまでを指す。まず、指揮官が立ち上がって部下を激励
した。兵士達は勇気を振り絞って前進を始めた。地雷を踏んでしまう恐怖もあったが、このま
ま海岸にへばりついていても危険に身をさらすだけだった。それよりは少しでも前進した方が
ましだ。
やがて、日が昇り霧が晴れると視界が開け連絡が取りやすくなった。部隊は集結を始め、前
進を開始できるかと思われた。だが、右翼と左翼の部隊は強力なドイツ軍陣地にまともにぶつ
かり大損害を被った。左翼のF地区では将校と下士官のほとんどが倒れ、兵士も4分の3が戦
死したため、残された兵士達にはどうすることもできなかった。
だが、戦局は少しずつ米軍に傾いていった。続々と上陸する米軍に対し、ドイツ軍には補充
がなかった。第29師団のコータ副師団長とカナム大佐が上陸すると兵士達の士気が高まった。
コータ副師団長とカナム大佐は敵の攻撃で負傷しても退くことなく兵を激励し続けた。
米軍に多大な出血を強要したオマハ海岸は夕方までに制圧された。だが、兵士の損害400
0、うち戦死1000をだしたこの海岸は“ブラッディー・オマハ”として記録に残ることに
なるのである。
Dデーの戦いは連合軍の勝利に終わった。彼等はその日のうちに5つの海岸全てを制圧した
のである。勝敗を決めたのはドイツ軍の初動の遅れと連合軍の圧倒的な航空支援だった。上陸
地点の制空権は完全に連合軍が掌握していた。Dデーにはのべ11000機以上の連合軍機が
出撃したが撃墜されたのは1機も無かったのである。それに対し、ドイツ空軍は戦場に到着で
きたのがわずか2機という有様だった。この時、パイロットの一人ヨーゼフ・プリラー中佐の
目には涙が溢れていたという。
【西部戦線の崩壊】
Dデーにノルマンディーに上陸した連合軍は歩兵6個師団、空挺3個師団、コマンド2個旅
団、レンジャー1個大隊であった。連合軍の空挺部隊が降下したと連絡を受けたOB−Wは即
座に警報を出して、OKWに装甲師団の使用許可を求めた。ヒトラーはすぐに反撃を命じたが、
OKWはノルマンディー攻撃を陽動と見たため機甲部隊を現地に送ることを許可しなかった。
パットン将軍の囮部隊がドーヴァーにいたためこれを上陸主力部隊と誤認したのが原因だが、
中には独自に行動する部隊もあった。第12SS装甲師団は命令を待たずに出撃準備を始めて
いた。しかし、この師団への出撃命令はノルマンディーへの上陸が確実となった6月6日午後
3時まで出されなかった。しかも、師団は迎撃計画を巡る上層部の対立によって様々な決定が
先送りになったのが原因でノルマンディーまでの移動計画を立てていなかった。それでも同師
団は翌朝までに前線への集結を完了し、8日には全力での反撃ができるまでになった。シュヴ
ェペンブルクは後方に予備を集中させる自らの作戦が正しかったと主張している。
ロンメルが主張した水際での迎撃は失敗した。だが、その場合を想定した作戦が無かったわ
けではない。彼は戦線をセーヌ河まで下げてパリとカレー地区を防御して戦力を温存する作戦
を考えていた。これにはルントシュテットも同意したが、ヒトラーは連合軍の撃退を強く要求
した。ドイツ軍は連合軍への反撃を開始することにした。しかし、カレー地区にいた第2、第
116装甲師団にノルマンディーへの移動命令は出されなかった。この部隊に出動命令がでた
のは7月になってからだったが、OB−Wが予想したとおりセーヌ河の渡河に手間取り戦場へ
の到着は遅れた。
一方、連合軍の作戦も予定どおりには行かなかった。ドイツ軍は生垣や林を利用して執拗に
抵抗を続けた。それでも連合軍の進撃は少しずつだが、前進していた。6月27日に米第7軍
団の第4、9、79師団がシェルブールを陥落させ、7月9日には1ヶ月以上の戦闘の末、英
連邦軍がカーンを占領した。ドイツ軍は指揮系統の混乱で有効な反撃ができなかった。ルント
シュテットとシュヴェペンブルクは7月2日に解任され、ロンメルは17日に空襲で負傷しギ
ュンター・フォン・クルーゲ元帥と交替した。クルーゲはルントシュテットの後任も兼任して
いたが、彼も8月17日にヴァルター・モーデル元帥と交替させられた。さらに上陸戦区の第
84軍団のマルクス司令は戦死、ドルマン第7軍司令は解任の通知を受ける前に心臓麻痺で死
亡した。しかし、個々の奮戦はすさまじく、連合軍は7月20日になってもコタンタン半島と
ノルマンディー海岸を制圧しただけで戦線は膠着状態となった。
この状況を打開すべく米軍はブラッドレー指揮の下、サン・ロー突破作戦『コブラ』を発動
した。7月25日午前9時40分、サン・ロー−ペリエール道に沿うドイツ軍陣地に対する空
爆が開始され、ドイツの教導装甲師団が大損害を被った。地上部隊も午前11時に前進を開始
し、米軍は夕刻までに3q近くの突破に成功した。その後も進撃は続き、右翼の第1師団が2
7日朝にマリニーを占領し、左翼の第2機甲師団がサン・ジールを占領した。クルーゲは教導
装甲師団長にサン・ロー−ペリエール道の確保を命じたが、同師団はすでに戦力を消耗しきっ
ていて退却を余儀なくされた。
防衛戦を突破した米軍は7月31日にブルターニュ半島基部のアヴランシュに到着した。ヒ
トラーは反撃を命じたが、前進を食い止めるのは不可能だった。
7月末の連合軍の戦力は兵士約100万人、車輌15万台、軍需品100万トンにも達した。
この大兵力を打ち負かすのはほとんど不可能であったが、ヒトラーは戦線の後退を主張する将
軍達の意見を退け反撃を強行させた。8月に入ると米軍にパットンの第3軍が加わり、闘将に
指揮された米軍はレンヌ(8/4)、ル・マン(8/9)、ナント(8/10)を次々に占領してい
った。
ぐずぐずしている時間はなかった。8月7日、ドイツ軍は歩兵10個師団、装甲7個師団で
リティヒ作戦を開始した。これはコタンタン半島付け根のモルタンからアヴランシュを進撃し
て連合軍の海岸堡をおさえこむとともにブルターニュ半島への交通を遮断して米軍を枯死させ
るというもので、OB−Wが構想していた内陸での機動反撃を行う絶好の機会であった。しか
し、ロンメルが心配したとおりドイツ軍は連合軍の空爆で出足から躓き、部隊は14日ファレ
ーズで包囲された。包囲されたドイツ第7軍と第5装甲軍の将兵10万人の半数が20日に脱
出に成功するも西方総軍の総力を結集した作戦は失敗し、西部戦線は事実上崩壊した。
【人の造りしもの】
ナチスが宣伝を繰り返した「大西洋の壁」は脆くも崩れ去った。その原因はいろいろ考えら
れるが、もっとも大きな原因は作戦を一つに絞れなかったことだ。ルントシュテットの案かロ
ンメルの案のどちらかにしておけばすくなくともあのような無様な結果にはならなかっただろ
う。たとえ強固な防衛陣地を築いても人が造ったものである以上、人という要因でそれは文字
通り難攻不落の要塞にもなるし逆に砂の城のように脆く崩れやすいものにもなる。そして、造
られたものは造った人をはるかに超える力を持つ人の攻撃を完全に防ぐことはできないのであ
る。それが「人の造りしもの」の宿命であり、限界でもある。
連合軍はついに西部戦線の構築に成功した。他方面でもイタリア戦線では6月5日にローマ
が陥落した。東部戦線でも6月22日に開始されたソ連のバグラチオン作戦によってドイツの
中央軍集団が壊滅した。さらに太平洋戦線でも6月19日のマリアナ沖海戦で日本軍の空母機
動部隊が壊滅してマリアナ諸島の陥落が確実となった。奇しくも同じ時期に全ての戦線で連合
軍が決定的な勝利をおさめているのだ(一部除く)。戦争はこの後も続くが、勝敗はこの時点
で決定されていたのである。
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