常勝ナポレオンを破滅させた死の使い
戦場における伝染病の脅威
エルンスト・ボリス・チェーン (英)1906−1979
アレキサンダー・フレミング (英)1881−1955
ハワード・ウォルター・フローリー (豪)1898−1968
史上初の抗生物質ペニシリンと種々の伝染病に対するその治
療効果の発見の功績により1945年ノーベル生理学・医学
賞を受賞
【古代から中世までの戦場と伝染病】
【近代衛生の芽生え】
【魔法の弾丸】
【果てしなく続く戦い】
【古代から中世までの戦場と伝染病】
1953年に公開されたSF大作『宇宙戦争』は優れた科学力で地球軍を圧倒していた火星
軍が、地球の細菌に対する免疫力がなかったために集団感染してしまい最後は壊滅するという
内容だった。これはなにも空想の中だけの話ではなく現実の世界でもこれに似た出来事は多々
あったのである。そして、それは歴史の流れをも大きく変える事もあった。
古代史において伝染病が戦局を左右した事例として有名なのはペロポネソス戦争(前431
〜前404)での「アテナイの病気」だろう。
ペロポネソス戦争とは、ギリシャの都市国家アテナイが率いるデロス同盟と同じくギリシャ
の都市国家スパルタが率いるペロポネソス同盟がギリシャの覇権をかけて争った戦争であり、
アテナイの病気は戦争を記録に残した歴史家ツキディデスの歴史書『戦史』の第2巻に詳述さ
れている。ちなみにこの戦史は戦争中での伝染病に客観的な視点でもって書かれた最初の記録
である。
アテナイの病気はその名の通りアテナイで発生した。当時、アテナイは陸戦では圧倒的に強
いスパルタ軍に対抗するため城壁で囲まれた都市に籠城する戦略を採っていた。陸地をすべて
封鎖したアテナイへの補給は海からということになる。海軍力ではアテナイが優勢だったから
その戦略に問題はない。指導者のペリクレスは民衆の信頼が厚い人物で、彼の指導の下で籠城
を続ければ戦争に勝利できると思われた。続けられれば。
アテナイの病気が感染症であることは間違いないのだが、それがどのように持ち込まれたか
はわからない。海外からの船によってもたらされたのは間違いないのだが、病気をもちこんだ
のは人間かもしれないし、鼠かもしれない。船にとって鼠は食糧を食い荒らしたり、病気を持
ち込んだりする害獣で、日本海軍では船で鼠を何匹か捕まえると褒美に上陸が許可されたそう
だ。
この疾病による被害が確認されたのは紀元前430年で1ヶ月間にアテナイの重装歩兵40
00名のうち1050名が病死したとされる。さらに疾病は3年後の紀元前427年にも猛威
を振るい、アテナイの人口の約2割が失われる大惨事をもたらした。指導者ペリクレスもこの
病気で死亡し、戦力にも大打撃を被ったアテナイは降服を余儀なくされ第1次戦争は終結した。
アテナイを敗北に追い込んだこの疾病が何なのかは諸説ある。発疹チフスという説もあるし、
ペストという説もある。天然痘もしくはそれと他の病気の合併症だという説もある。なにしろ
記録といえるのは戦史ぐらいなもので、なかなか確定することは難しいそうだ。
病名がなんなのかは不明だが、病気の発生源はどこで、なぜアテナイ市内に短期間に蔓延し
たかはわかっている。発生源はエチオピアでそこからエジプトを経由してアテナイに来たそう
だ。病気が蔓延した理由は当時のアテナイの状況にある。先述したようにアテナイは要塞化さ
れた市内に籠城する戦略を採っていたが、籠城していたのは市民だけでない。周辺から疎開し
てきた人々も多数いたのである。当然、市内は人口過多の状態となり、都市を支えるインフラ
は破綻してしまい、街は不衛生な状態となった。しかも市内は城壁で囲まれているため住居は
密集した状態になっていたはずである。そのため一人が感染すると瞬く間に次々と感染してい
ったのである。
感染症の病気が蔓延するのは不衛生な場所に体調が優れない人間がいるからであるが、その
条件が例外なく一致するのが戦場である。どの時代でもどこで戦争したとしても清潔な戦場は
存在しない。軍人だから一般人より体力があると思われるが、彼等とて戦争をすれば疲れるし、
明日戦争をするとなると殺されるかもしれないという恐怖心とも戦わなければならない。逃げ
たいと思っても、もし発見されたら殺されるよりも残忍な方法で処刑されるかもしれない。
戦争というものはまず戦場まで歩かなければならない。遠征ともなると何日も歩き続かなけ
ればならないのである。重たい防具を身につけ歩かされるとそれだけで疲労がピークになると
きもある。それでやっと戦場に到着しても休む間もなく陣営の設置をしなければならない。そ
れも終わるとようやく一息つけるだろうが、じっくり休めはしない。いつ、戦闘が開始される
かわからないからである。すぐに始まればいい。余計なことは考えずにすむから。戦闘をして
いるときは何も考えていない。人を殺したこと、仲間が殺されたこと、周りが凄惨な状態にな
ってることを認識して嫌悪感を抱くのは戦闘が終わって自分が生き残っているときである。
もし、敵と接触しても戦闘に至らず対陣が何日、何ヶ月に及ぶと伝染病が蔓延する恐れがあ
る。兵士達は当然、野外で寝泊まりするし、軍隊はできるだけ兵を密集させていた。近代まで
の軍隊の指揮能力では部隊を細かく分けて運用するということが出来なかったからである。食
事にしても満足なものが食べられることはない。保存する技術が出来るまでは食糧を補給する
にも限界があった。それよりさらに困った問題が排泄である。勿論、排泄は陣営の外でするの
だが、陣営から離れすぎてもいけない。排泄場所が決められていたかは知らないが、その場所
にはハエ(別に限定ではないが)が発生するし、それが伝染病を持っていると人に感染する恐
れがある。先述したように戦場での兵士は心身共に疲労している状態で、病気に対する抵抗力
が著しく低下している。しかも兵士達は密集しているため一人が感染するとあっという間に病
気が蔓延するのである。
伝染病が発生するのは不衛生な場所であることは当時でも認識されていた。といっても、当
時は不潔なものから生じる悪い空気が病気をもたらすと考えられていた。マラリアの語源がイ
タリア語の「悪い空気」からきているのもそのためである。さらに、中世のヨーロッパでは伝
染病は神からの試練という考えが加えられた。インフルエンザの語源はインフルーエンス(in
fluence)で影響という意味だが、これはこの病気が流行するのは天の神秘的な影響を受ける
ためであると考えられていたからである。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて宗教裁判にか
けられたように、こういった考えに疑問を挟むことは許されなかった。
このような状況では軍隊の衛生面の改善はまったく望めなかった。仮に宗教的な思想がなか
ったとしても傭兵に頼っていた中世の軍隊ではどっちにしても改善は難しかっただろう。
【近代衛生の芽生え】
長く続いたヨーロッパの医学暗黒時代も19世紀に終わりを告げた。ルイ・パスツールやロ
ベルト・コッホらによって細菌学の基礎が確立され、各国の軍隊でも戦場での衛生に対する考
え方が芽生え始めていた。
だが、伝染病はこの時代でも容赦なく戦場の兵士達を苦しめた。1812年のナポレオンの
ロシア遠征では赤痢や腸チフス、発疹チフスによる感染症が流行してフランス軍に大打撃を与
えた。特に7月に発疹チフスが流行したときは8万名が感染し、死亡もしくは戦闘不能の状態
に陥った。これは5個師団に相当する兵力が戦闘以外で失われたことを意味する。
当時のフランス軍はヨーロッパでもっとも衛生に気を使っていた軍隊のひとつだった。ナポ
レオン自身衛生問題に興味があったし、1802年のハイチの反乱では鎮圧に向かった25,
000名のうち23,000名が現地の黄熱病で倒れるという苦い教訓があった。当然、その
教訓を参考にして衛生面の改善がなされたはずである。それでもこれだけの被害を被ったのは
補給計画の失敗による食糧不足で兵士達が栄養不足になって抵抗力が衰えたこと、戦場となっ
たポーランドとロシアが不衛生な土地であったこと、異常気象による酷暑で井戸の水が腐って
赤痢が流行したことが原因である。さらに冬になり冬将軍が到来するとロシア軍の焦土戦術で
寒さをしのげる建物がなくなった兵士達は寒さのために命を落としていった。たまらずナポレ
オンは撤退を決意するが、ドイツまで生きて戻れたのは4万名ほどであった。遠征に用意され
た兵士の総数が60万名超なので55万ぐらいの兵士が酷寒と不潔な大地で死んだことなる。
この遠征以後、ナポレオンの勢力は急速に衰えフランスの第1帝政は崩壊することになるので
ある。
ナポレオンを破滅に追いやった伝染病は同じフランスとロシアの戦いとなったクリミア戦争
(1853〜56)でも猛威を振るった。この時はフランス軍だけでなくロシア軍もフランス
と共に参戦したイギリス軍もさんざんに苦しめられた。この時流行したのは発疹チフスの他に
コレラなどもあったが、その流行がどれだけすごかったかはフランス軍総司令官サン・アルノ
ー、イギリス軍総司令官ラグランが感染症で死亡したことでもわかるだろう。総司令官ですら
この有様だったから兵士達の状況はもっと悲惨なものであった。フランス軍だけでも31万の
兵のうち20万名が病院送りとなった。戦争中に病死した兵は約5万名で負傷による戦死者2
万名を大きく上回った。ちなみにイギリス軍の病死者は17,000名、それ以外の原因によ
る死者5,000名、ロシア軍の病死者は37,000名でそれ以外の死者も37,000名
であった。
これまで伝染病が猛威を振るったのはそれに対する社会の認識が低かったのが原因であった。
それでも20世紀になると各国の陸軍で研究施設や医療専門部隊が設立されていった。20世
紀初期のアメリカ陸軍の衛生部隊の兵数は4283人だったという。
クリミア戦争以後、ヨーロッパでは長期消耗戦となる戦争は起こらず伝染病の集団感染は発
生していなかった。衛生面の改善も成され、もうクリミアのような悲劇は起こらないだろうと
思われた。
だが、人類の期待は無残にも打ち砕かれた。史上空前の大戦となった第1次世界大戦(19
14〜18)は同時に伝染病による被害が最も酷かった戦争のひとつでもあった。
第1次世界大戦といえばスイス国境から海まで続く長大な塹壕だが、そこでの生活はとても
快適といえるものではなかった。塹壕は雨が降ればたちまち水浸しになるし、服はすぐにボロ
ボロになった。また、塹壕内の空間は当然の如く狭いため、兵士達は常に圧迫感のなかで生活
を強いられ精神をすりつぶしていった。劣悪な生活条件と疲弊した兵士となれば伝染病が流行
するのは当然である。西部戦線ではコレラと赤痢が、東部戦線では発疹チフスが流行したそう
だ。
さて、塹壕での生活は退屈なものであった。兵士達は退屈をしのぐ方法を模索するが、常に
警戒を怠ってはいけない。毒ガスが使われるようになると窪地や砲撃などでできた穴にガスが
残留していることが多く、うっかりその場に足を踏み入れると命を落としかねないし、迂闊に
塹壕の外に顔を出そうものなら映画『西部戦線異状なし』のようにたちまち銃弾が飛んできて
その頭部を撃ち抜かれるのである。
まさに非常にスリリングな日常生活を送れる戦場なのだが、それが長期間ともなると戦闘に
なる前に精神を破壊される者が続出した。それに大攻勢が発動されると、退屈だの悲惨だのと
はいってられなくなる。それよりもはるかに悲惨な「この世の地獄」が現出されるからである。
その悲惨さは攻撃精神旺盛なフランス陸軍の将兵でさえ史上最大の集団抗命事件を起こしたほ
どである。
悲惨な状況に置かれた兵士達だが、大戦末期になるとさらに追い打ちをかけるようにスペイ
ン風邪が猛威を振るった。これはたまたま大流行期にあたったわけで、このインフルエンザに
アメリカ軍の将兵達はヨーロッパに向かう途中の船で次々と感染してしまい戦う前に戦力が激
減するという大損害を被った。
伝染病の研究も進み、社会の認識も高まったはずなのに人類はまたしても伝染病によって多
くの人命を奪われた。その原因は第1次世界大戦が未曾有の総力戦となったからである。人類
がかつて経験したことのない空前の大戦争に生まれたばかりの近代的戦場衛生はまったく対抗
できなかった。
【魔法の弾丸】
このようにほんの100年ぐらい前まで人類はウイルスや細菌の感染症になんら有効な手だ
てを講じることが出来なかった。それはコレラやペストといった伝染病だけでなく、我々の日
常に充満している細菌なども同様であった。19世紀まではちょっと指を切っただけで破傷風
菌などの雑菌に感染して死亡することもあったし、手術をする際でもその患部が治癒しても切
開した傷口から細菌が侵入して敗血症を起こすこともあったのだ。
20世紀になると科学の急速な進歩によってサルファ剤などの抗菌剤が世に登場するが、そ
れらが市場に出回るのは1915年で第1次世界大戦には間に合わなかった。しかも、それら
化学薬品は強い副作用があるという大きな欠点があった。
1942年11月28日夜、アメリカ・ボストンのナイトクラブで火災が発生した。多数の
人が火傷を負い病院に搬送された。この時、ニュージャージー州にある製薬企業メルク社の研
究施設から発送された32リットルの液剤が、負傷者の治療に使われ多くの人命を救った。そ
れは史上初の抗生物質「ペニシリン」が初めて一般に御目見得した瞬間であった。
ペニシリンは1928年にイギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングによって発見さ
れた。彼は実験で培養していたブドウ球菌のコロニーが消滅しているのを偶然発見した。それ
をなんらかの物質が細菌を壊したのだと考え調査の結果、その物質をペニシリウム属の真菌ペ
ニシリウム・ノタトゥムが産生するものであることを突き止め、これをペニシリンと命名した。
だが、フレミングはペニシリンの医薬品としての可能性を認識していたが、自らがそれに携
わることはなかった。
ペニシリンはその後、イギリスでオックスフォード大学のハワード・フローリーと亡命ドイ
ツ人のエルンスト・チェインによって医薬品としての研究が開始されるが、ペニシリンを抽出
できるペニシリウム属菌が増殖しやすい培養地がなかなか見つけられなかった。菌を増やす方
法はあるのだが、そこから抽出されるペニシリンの数が少なかったのである。フローリーらも
増殖という問題は解決できなかったが、研究に必要な分のペニシリンは入手できた。
さて、新薬というのはその効用と副作用を調べるために動物実験が行われる。その後、人体
でも実験がされるのだが、現在では絶対安全といえるぐらいの科学的証明がなければ臨床実験
はできないし、それの証明ができてもいろいろな手続きのために実施に数年掛かるのに対し、
当時はかなり杜撰でフローリーは被験者から同意も取らなかったのである。動物実験も1回で
すまされている。
フローリーらは当初、イギリスで研究をしていたが、当時のイギリスは第2次世界大戦の勃
発でペニシリンの研究を進める余裕が失われていた。フローリーはアメリカのロックフェラー
財団に資金援助を要請して5,000$を供与されたが、激化する戦争はフローリーらにイギ
リスでの研究続行が困難であると判断させた。そこでフローリーらはアメリカで研究をするこ
とになった。
アメリカでは1941年6月28日にルーズベルト大統領の署名で科学研究開発局(OSR
D)が設立され、ペニシリンの大量生産の研究を管轄する医学研究委員会(CMR)もその下
部組織として同時に設置されていた。
CMRの役目は軍と研究者の意見や要望を調整することで、メンバーは委員長のニュートン
・リチャーズ博士ら科学者の他にハロルド・スミス少将やジェームズ・シモンズ准将などの軍
人もいた。CMRの仕事は他にもある。ペニシリンは非常に優れた医薬品であるため市場に出
回った際の経済効果は計り知れないものとなる。そのためペニシリンの研究はアメリカの企業
や研究者も実施していた。CMRはそれらの研究機関が取得を目指す特許も統括することにな
った。
CMRは第1次世界大戦の戦訓から感染症に有効な医薬品の開発が必要と判断し、ペニシリ
ン開発がもっとも有効な手段であるという結論に達した。こうしてペニシリン大量生産プロジ
ェクトが始動した。
ペニシリンの開発は二つに分かれた。ひとつは従来のペニシリウム属菌を繁殖させてそこか
ら天然のペニシリンを抽出する方法、もう一つはペニシリンの化学的構造をつきとめてペニシ
リンを人工的に合成する方法である。このうち合成ペニシリンはペニシリンの化学構造がわか
らなかったため戦時中の実用化には失敗した。
しかし、天然ペニシリンの方は順調に開発が進んだ。ペニシリウム属菌の増殖に最適な培養
液は1941年後半にコーン・スティープ液(コーン・スターチを生産するときに生じる副産
物)であることが発見された。この液は従来の12倍もペニシリンを生産することができた。
他にもペニシリンを抽出するペニシリウム属菌がペニシリウム・ノタトゥムからペニシリウム
・クリソグナムに変更された。これはマスクメロンから発見されたものであり、メロンを買っ
てきた女性研究者の名を取って「メアリー株」と名付けられた。その抽出量はペニシリウム・
ノタトゥムの200倍であった。これにX線や紫外線を照射したりして最終的にはその抽出量
は従来の1000倍に達した。さらに菌を培養する容器も小型のものから25,000ガロン
の培養液が収められる発酵タンクに変更された。このタンクでペニシリウム属菌を繁殖させる
深部培養法も開発され、ペニシリンは軍の需要を満たせるほどの大量生産を実現できたのであ
る。天然ペニシリンの成功により合成ペニシリンへの興味は急速に失われていった。
ペニシリンは大戦後半から戦場に供給されるようになり、戦場衛生の向上も相まって戦場で
の感染者を極端に減らし、伝染病の流行も抑制したのである。しかも、抗菌剤のように強い副
作用もなく抗菌剤よりもはるかに強い効用を発揮したのだ。人体を傷つけることなく細菌のみ
を撃ち抜くペニシリンはまさに“魔法の弾丸”であった。そして、それは戦場で失われたかも
しれない兵士達を故郷に帰還させる魔法ともなったのである。
さて、日本でもペニシリンの研究はされていた。日本は古くから味噌や醤油を生産していた
ので基本的に発酵技術は高く、戦後アメリカの科学者を驚かせているが、日本にはアメリカの
CMRのような組織がなかったのと、施設面でもアメリカにかなり劣り、さらには開発をスタ
ートさせたのが大戦後半であったため終戦直前にわずかな量が生産されただけに終わった。
だが、日本のペニシリン開発が失敗したのは何よりも軍の科学に対する無知が原因であった。
原子爆弾の開発にしてもアメリカが国家規模で推進していたのに対し、日本は研究所の範囲に
とどまった。しかも陸軍と海軍が別々に開発を命じるという非常に非効率的なことをするとい
う醜態をさらしている。正面の戦力にしか目がいかない軍とあらゆる方面にも目が行き届く軍
との差か。
【果てしなく続く戦い】
戦後、防腐剤の開発とパッケージ技術の発達で兵士達の食糧は細菌汚染から守られるように
なった。さらにすぐに組み立てられる兵舎や浄水器、濾過器の設置で戦場の不衛生さは解消さ
れた。ようやくにして軍隊は集団感染の脅威から解放されたのである。
だが、人類と疾病の戦いが終わったわけではない。未知のウイルスの出現や現在医術でも治
療が不可能な伝染病など現在でも疾病は人類に脅威を与え続けているのである。もしかしたら
人類にとってゴジラよりもダリーの方が手強い敵なのかもしれない。
※ダリー ウルトラセブンに登場する宇宙細菌で人体に侵入していた。もしセブンが体を縮小
できなかったらどうなっていたのだろうか。
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