戦国時代ってどんな時代?
  戦国時代の始まりは応仁の乱とする説と伊勢盛時が伊豆をかすめ取った時とする説がある。戦国時代
 と聞いて思い浮かぶのは、数多の群雄が己の力のみを頼りに敵を倒していき天下を目指すという感じだ
 と思う。そこでは天皇や朝廷といった古い伝統や権威は全く意味をなさないと思う人もいるだろう。
  では、実際の戦国時代はどんなものだったのだろうか。
 
 
 
 

    戦国大名とは   戦国大名とはどういう人たちをいうのだろう。典型的な例はやはり下剋上でのし上がった人だろう。  応仁の乱によって幕府の全国への影響力が失墜すると、日本中で下剋上の嵐が吹き荒れた。当時、日本  では一国につき一人(国によっては複数)の守護が配置され、その国の武士を統率していた。   守護は鎌倉時代以前から存在していたが、はじめの頃は中央政府に何の影響力もなかった。それが南  北朝期になると力をつけはじめ室町時代では幕府を支配するようになった。室町幕府は有力守護の連合  政権であったのだ。   だが、幕府を支配するということは京都に長く滞在するということである。彼等は本来の任務である  領国の管理をどうしていたか。守護といってもずっと現地に留まってなくてはならないというわけでも  なく、大抵の守護は京都に滞在することの方が多かった。領国を不在にすることが多い守護の代わりに  領国の管理運営をするのが守護代である。守護の代理を務めるのだから当然その地位は家臣団筆頭であ  る。やがて、守護代は守護を上回る力を持つまでになる。例えば、中国と九州の複数の守護を兼任する  大大名の大内氏だが、その守護領国の一つである周防では守護代の陶氏の方が守護であり主君でもある  大内氏よりも権力が上なのである。   守護の力が強いうちは安泰であるが、何らかの原因で守護の力が低下すると下の者から守護に取って  代わろうとする輩が現れてくる。それは、守護代の場合もあれば守護からすれば陪臣にすぎない身分の  者の場合もある。彼等は伝統的な権威もなければ由緒正しき家柄でもない。己の力のみで立身出世を果  たそうとする人々を戦国大名という。彼等の前に古き伝統や権威に頼った守護は敵ではなかった。   守護を倒し実力で一国の主となった戦国大名は幕府の命令に従う必要はなく、その戦国大名が全国に  乱立したことによって中央政府たる室町幕府の統制が全国に行き届かなくなり日本は大和朝廷による統  一以来初めて小国家による分裂状態の時代に突入したのである(王朝たる朝廷や天皇は健在だったが)。
    天皇と将軍   さっき戦国大名は幕府の命令に従う必要はないとした。守護は幕府から任命されたのだから当然その  組織に組み込まれるが、自分の力でのしあがった戦国大名は幕府に任命されたわけじゃないから幕府の  組織から独立することができたのだ。幕府の統制が非常に限定されるようになった原因は日本全国に戦  国大名が乱立して幕府の統制から離れたからである。室町幕府の統制は山城一国に限られるまでになっ  た。   じゃあ、戦国時代では将軍は全く無力だったかというと決してそうではない。下剋上で守護を倒した  戦国大名だが、今度はその戦国大名が守護職に任命されようと幕府に働きかけたのである。   なぜか、それは国を統治する正当性を得ようとしたからである。力で抑え込んだだけではその地位は  安泰とはいえない。力だけで国主になれるのだったら誰もが隙あらばと思うはずである。なにしろいい  お手本が目の前にいるのだから。だから、戦国大名は守護職を得ることによって俺は将軍にこの国の統  治を任されたからおまえ達は俺に従わなければならないとアピールするのである。日本人は権威に弱い  からこれは効果があった。   幕府の権威を利用した例は、一時幕府の実権を掌握した三好長慶が自分の配下でない領主や地域に命  令を出すときに主君である管領(将軍を補佐する幕府最高の職)細川氏の権威を利用した、越後の上杉  謙信が関東に兵を送る大義名分と同地域の武将を味方に取り込むため将軍から関東管領に任命してもら  った、織田信長が上洛する口実として足利義昭を担ぎ上げた等いろいろあるが、それは将軍が実力者達  にいいように利用されている反面、幕府の権威を利用しなければ周りを屈服させるのは困難であるとも  いえるのだ。織田信長が上洛後しばらくして周囲を敵に囲まれる事態に陥ったのも足利義昭という権威  を敵にしたからである。   将軍だけでなく天皇の権威もよく利用された。戦国大名のなかには国司になろうとする者もいたから  である。守護も国司もその国の管理を任されている職だから、守護になりそこれた戦国大名は朝廷に頼  んで国司にしてもらおうというわけだ。国司の例としたら三河を統一した松平家康が三河の統治者であ  ることの証として朝廷に働きかけ徳川への改称と従五位下三河守の任官を承諾させた事例がある。   また天皇は将軍を超える権威として将軍と仲違いしてその権威を利用できなくなった織田信長によく  利用された。11年もの長きにわたった石山合戦も天皇の仲介で和平が成立したのである。これは双方  が和平に踏み切るのに都合が良かった。信長からしたら天皇の仲介だから仕方なく戦をやめてやるとい  えるし、本願寺からしてもまだまだ戦えるけど天皇がせっかく仲介してくれたのだから和睦しましょう  ということができるのだ。本当は本願寺の抵抗は限界に来ていたのだが彼等にも意地がある。このまま、  安易に降服したのではその後の教団の行く末が案じられる。信長もこのまま本願寺を殲滅することは不  可能ではないが、そうなれば伊勢長島一向一揆のようにすさまじい抵抗を受けるかもしれないから、な  るべく穏便に事を済まそうと考えたのである。   天皇と将軍の大きな違いは天下人に相応しい地位を与えられるかにある。室町幕府に替わる武家政権  を樹立したいと考えるならば天皇に接近するのが得策である。将軍に取り入ってもせいぜい副将軍か管  領に任命されるぐらいである。つまり、実権は掌握できても武家の棟梁にはなり得ないということだ。  しかし、天皇なら征夷大将軍にも関白にも任命することができる。豊臣秀吉も天皇から関白に任命され  て天下人になることができた。   このように暴力が支配する弱肉強食の戦国乱世で力を失った天皇や将軍が存続し続けることができた  のは権威を持っていたからである。
    姓について   源平藤橘という言葉を知っているだろうか。日本の政治を担ってきた源氏・平氏・藤原氏・橘氏を示  すもので、戦国大名はいずれかの姓を名乗っていた。といっても下剋上で成り上がった戦国大名はそん  な由緒正しき家柄でない者が多く、そのほとんどが名門の姓を自称していた。   例えば、織田信長は出自は越前の土豪にすぎないにもかかわらず藤原姓を名乗っていたし(元亀2年  から平姓に改称)、徳川家康も三河守になるのにそれまでの松平姓はただの土豪にすぎないため許され  ず、藤原姓の徳川に改称することでようやく任官されている。   なぜ、戦国大名は偽ってまで名門の姓を使いたがるのか。それは、家康の例でもわかるように官位を  手に入れるには由緒正しき血統でないとだめだからである。なかでも豊臣秀吉は姓の獲得に躍起になっ  た。   周知のように秀吉は百姓の子である。そのため他の大名のように姓を偽称するのは不可能であった。  秀吉に残された手段は誰かの養子になることだった。まず、足利義昭の養子になろうとしたが拒絶され  たため果たせず、その次に近衛前久に働きかけ猶子にしてもらって藤原姓を名乗ることができた。藤原  姓を手に入れた秀吉は天正13年関白に任じられ天下人としての地位を掌握した。   さて、秀吉は関白任官の翌年に朝廷から豊臣の姓を賜ったが、この豊臣姓は従来の源平藤橘に属さな  い新しい姓で秀吉は藤原姓から豊臣姓に改称したことになるのである。どういうことかというと、秀吉  が羽柴を名乗っていたのは知っているだろうが、この羽柴というのは名字で姓ではないのだ。つまり、  秀吉は死ぬまで羽柴秀吉だったのである。秀吉を豊臣秀吉と呼ぶということは家康を源家康、信長を平  信長と呼ぶということなのだ。   下に主な戦国大名の出自を挙げてみた。
今川氏清和源氏足利流。初代国氏は吉良長氏の長男
上杉氏始祖は藤原鎌足から19代目にあたる重房という人。皇室領の丹波上杉荘を管理していたから上杉を名乗ったという
島津氏伝説では初代忠久は源頼朝の御落胤とある。そのためか、戦国時代では源姓(藤原姓も混用)を使用したが、実際は惟宗姓
伊達氏本姓は藤原氏で魚名の流れを汲む。初代朝宗が阿津賀志山の戦で功があり、恩賞として伊達郡を拝領して伊達を称した
大内氏渡来人の子孫である多々良氏の流れを汲む。大内を名乗るのは平安時代末期、多々良盛房が大内介を称してからという
大友氏初代能直は源頼朝の庶子とも古庄能成の子で波多野(大友)経家の養子になり大友を名乗ったともいう
武田氏初代信義は新羅三郎義光の曾孫で甲斐源氏の流れを汲む
京極氏近江源氏佐々木流。名字の由来は初代氏信の京都の居館が京極高辻に位置していたから
佐竹氏新羅三郎義光が常陸国久慈郡佐竹郷を与えられ、子の義業が佐竹進士を称したことに始まる
畠山氏元は桓武平氏だったが一端滅亡し、清和源氏の足利義兼の長男義純がその遺領と名跡を継いで再興した
山名氏清和源氏新田流の祖である義重の長男義範が上野国名胡郡山名郷に住んで山名氏を名乗ったのが始まり
六角氏佐々木流近江源氏の本宗で京極氏の祖氏信の兄泰綱が祖。京都屋敷がある六角東洞院にちなんで六角氏を名乗った
斯波氏清和源氏足利流。足利泰氏(尊氏の祖父のそのまた祖父)の子家氏が陸奥国斯波郡に住んだのがはじまり
織田氏越前国織田荘の土豪から守護斯波氏の被官となり、その後尾張守護代に抜擢されたのが尾張織田家のはじまり。伊勢守系と大和守系があるが信長の家系は弾正忠家といって守護代家の家来筋にあたる
尼子氏佐々木流近江源氏京極氏の分家で婆娑羅大名で有名な佐々木導誉の孫高久が近江国犬上郡尼子郷を給与されたのがはじまり
毛利氏鎌倉幕府の重鎮大江広元を祖先に持つ。毛利氏を称するのは広元の四男季光が相模国毛利荘を領してから。元就の安芸毛利家の直接の祖は季光の孫時親
松平氏三河国賀茂郡松平郷を発祥の地とする土豪で初代は親氏。家康の代で三河守の官位を得るため藤原姓に復するという名目で徳川と改称。その後家康が征夷大将軍に就任するため源姓に改姓する
浅井氏藤原姓を称するが藤原氏の流れを汲むかどうかは不明。出自がはっきりわからないのは単なる土豪だったからか。初代は重政という説があるがそれ以前にも浅井氏の名が見られはっきりしない
朝倉氏本姓は日下部氏。朝倉を称するのは宗高からで名字の地は但馬国養父郡朝倉庄。
長宗我部氏秦能俊が土佐国長岡郡宗我部郷に住んだのがはじまり
北条氏伊勢宗瑞を祖とする新興大名。北条氏を称するのは宗瑞の長男氏綱から
羽柴氏木下秀吉が近江長浜城の城主になって改称したにはじまる
斉藤氏藤原北家魚名流。道三は斉藤氏の家臣長井新左衛門尉の子で、長井氏の惣領を殺害し次いで斉藤氏の名跡を奪った
最上氏斯波家兼の次男兼頼が出羽国最上郡に入部したにはじまる
足利氏名字の地は下野国足利庄。元々は藤原秀郷がこの地に土着して足利氏を称したが、その子孫の代になって源義家の孫義康に名字を奪われた
細川氏足利義康の次男義清の孫義季が三河国額田郡細川の地に住みつき同地の名を名字にしたことにはじまる
三好氏甲斐源氏小笠原貞宗の曾孫義長が同族で阿波守護の長隆の養子になって阿波国三好郡芝生に移住して三好氏を名乗ったことにはじまる
龍造寺氏藤原秀郷の流れを汲むとも、藤原兼隆の後裔だとも伝えられるがはっきりしない

    家督継承   どんなに偉大な戦国大名もやがては命を落とし、後継者が跡を引き継ぐ。その家がさらに発展するか  それとも衰退するかはこの後継者にかかっているといえる。そのため戦国大名達は自分の跡継ぎの選定  に頭を悩ましてきた。後継者候補が一人の場合は問題はないがそれが二人だった場合は厄介なことにな  る可能性がある。跡継ぎの座を巡って争いが生じる可能性があるからだ。戦国大名は自分の跡継ぎをど  のように決めたのだろうか。   江戸時代では長子相続が当然であった。戦国時代も基本的には長男が父親の跡を引き継ぐのだが、江  戸時代と違うのは正室の子ではないといけないのだ。江戸時代は側室の子でも長男だったなら跡継ぎと  なるが、戦国時代はたとえ長男でも側室から生まれた場合弟に正室の子がいたらその子に跡継ぎの座を  譲らねばならないのだ。例えば織田信長は上に二人(一人という説も)の兄がいるが、その二人とも側  室から生まれたため跡継ぎには選ばれず正室から生まれた子供では一番年長の信長が跡継ぎとなったの  だ。   跡継ぎとなる子供は未来の戦国大名となるべく教育を受ける。当然ほかの兄弟とは扱いが違う。だが、  その地位が絶対安泰かというとそうでもない。なにしろ跡継ぎの選定は父親が決めるものであり、たと  え正室の子であろうとも父親が「この子はだめだ」と判断すれば他の兄弟が跡継ぎに指名される場合も  ある。例を挙げると、甲斐の武田信虎が晴信という立派な嫡男がいるのにこれを廃嫡して弟の信繁を跡  継ぎにしようとした事例がある。結果は、重臣の支持を得た晴信が信虎を追放して家督を奪った。   この事例は血を流さずに解決したが、次の事例は凄惨な殺戮劇となった。 「   二階崩れの変   豊後の戦国大名大友義鑑は後妻との子である塩市丸を溺愛し、いつしかその子に家督を継がせようと  思うようになった。その背景には塩市丸を擁立しようとする後妻と重臣入田丹後守親誠の強い働きかけ  があった。後妻はともかく入田親誠は義鑑の長男つまり正統な後継者である義鎮の教育係だった男であ  る。しかし、義鎮のあまりの非行ぶりに嫌気がさし彼を見限ったのである。かくして義鑑は義鎮を廃し  て塩市丸を世継ぎにすることに決めたのである。   天文19年2月、義鑑は義鎮に湯治を勧めて別府の浜脇に行かせると重臣の斉藤播磨守・小佐井大和  守・津久見美作守・田口蔵人佐を府内西山城に呼び出し、塩市丸の家督決定を申し渡した。だが、4人  はこれを入田親誠らの策謀によるものと猛反発し最後まで承伏せず退席した。   どうしても塩市丸に家督を譲りたい義鑑は4人の粛清を決断し再度登城を命じた。使者から登城する  ように伝えられた4人のうち2人、斉藤と小佐井がこれに応じたが後の二人は不吉な予感がして病気と  偽って登城しなかった。案の定、斉藤と小佐井は待ち伏せていた義鑑の刺客に殺害された。   斉藤らの死を聞いた津久見と田口はいずれ自分たちも殺されるだろうと判断し先手を打って城に討ち  入り潔く死のうと覚悟を決めた。   2月10日夜、両人は手勢を引き連れ西山城の大友館を襲撃した。裏門から進入した襲撃者の一団は  二階に駆け上り、津久見が塩市丸を田口が後妻をそれぞれ斬り殺しさらに娘や侍女達も次々に惨殺し義  鑑の寝所に乱入した。義鑑は刀を抜いて抵抗したが津久見に致命傷を負わされた。津久見はとどめを刺  そうとしたが、駆けつけた武士達に襲撃者達はことごとく討ち取られた。   致命傷を負った義鑑は義鎮に家督を譲ることを承諾して12日に亡くなった。これが二階崩れの変で  ある。                                           」   なんとまあ痛ましい事件だろうか。実の親子で斬り合う場面がないのが何よりの救いである。さて、  なぜ4人の重臣は義鑑の決定に猛反発したのだろうか。誰に家督を譲ろうが他人には関係ないはずであ  る。しかし、戦国大名の場合はそうはいかなかった。自分たちの主君が誰になるかは家臣達にとっても  重大な関心事なのである。それによって自分たちの将来が左右されるのだ。   では、義鎮と塩市丸の素質はどうだったのだろう。義鎮は享禄3年に義鑑の長男として府内で生まれ  た。同母弟に後に大内家の家督を継ぐ晴英がいる。正室の長男ということで九州一の大大名の御曹司と  して大事に育てられた。この頃の義鎮は苦労知らずの坊ちゃんとして育っていた。   だが、義鎮が元服を迎えるのと前後して母親が死去すると彼の性格は荒んでいった。原因は父義鑑が  新たに迎えた後妻であった。野心家の彼女は自分が産んだ塩市丸を家督継承者にしたいがため邪魔とな  る義鎮を目の敵にし、さらには入田親誠に義鎮の殺害を依頼している。   こんな義母と一緒では義鎮の性格が荒っぽくなるのも仕方ないだろう。彼は、非行に走り粗暴化して  いった。父の義鑑も息子の非行を見かねてあれこれ注意したり手を打ったりするのだが、彼は息子がな  ぜそうなったかを理解しようとはしなかった。そのため義鎮はかえって非行に走るようになってしまっ  た。重臣達も乱暴者で気にいった者しか側に置かない義鎮に不安を抱くようになっていった。   一方の塩市丸は性格がおとなしく利発で学問好きな子で、義鑑がいっこうに態度を改めない義鎮を廃  嫡して塩市丸に家督を継がせようと考えても不思議ではないだろう。重臣達にとっても乱暴者の義鎮よ  りもおとなしい塩市丸が家督を継いだ方がいいと思うはずである。   しかし、義鑑から塩市丸家督の決定を言い渡された4人の重臣はこれに反発した。なぜか。それはこ  の決定が自分たちに何の相談もなく一方的に決められたことに腹を立てたからである。また、彼等は義  鎮がなぜああなったかを少なからず理解していたのだろう。さらに一番大きな理由としてもし塩市丸が  家督を継いだら彼を推戴した入田親誠の専横を招く危険があると判断したからである。そのため4人は  主君の決定に反対したのである。   二階崩れの変の後、入田親誠は義鎮に攻められ肥後にいる舅の阿蘇惟豊を頼った。しかし、惟豊は親  誠を助けるどころか逆にその首を撥ね義鎮に差し出した。義鎮は2月20日家督を継いだ。   このように後継者の地位は決して安泰ではない。さらに、当主になるための試練は当主になってから  も続く場合がある。兄弟若しくは一族の者が当主の座を狙って謀反を起こす場合があるからだ。   いくつか例を挙げると、弘治2年8月の織田信長と弟信成(一般には信行の方がわかりやすいだろう)  の争い、大永4年の毛利元就と異母弟相合元綱の争いなどがある。もう一つの事例を下に挙げてみた。 「   花蔵の乱   天文5年4月17日、駿河の戦国大名今川氏輝が死去した。氏輝には子が無く最上位の継承者は次弟  の彦五郎であったが、その彦五郎も同じ日に急死するという予想もしないアクシデントによって今川家  は後継者が存在しない事態に陥った。   当時、今川家はそれまでの守勢から攻勢に転じようとしている時期で家督相続者不在の状況はせっか  く訪れた好機を潰しかねないものであった。そこで、選ばれたのが氏輝の弟の栴岳承芳だった。   承芳は父氏親の五男だが長兄と次兄と同じ氏親の正室が産んだ子で、家督争いの火種になりかねない  として真っ先に仏門に入れられた。ところが、長兄も次兄も死んでしまったため正室の第3子である承  芳に当主の座が転がり込んできたのである。承芳は5月3日将軍足利義晴から偏諱を賜り義元と改名し  た。将軍から偏諱を賜るということは幕府が義元の家督相続を公認したことを意味しており、義元の家  督は家臣団にも周知されほぼ確定していたのである。   ところが、義元と彼の師である太源雪斎が甲斐の武田陸奥守信虎との和平交渉に着手した結果、それ  まで武田との交渉役を担ってきた福島一族の反発を受けたのだ。義元と雪斎が頭越しにすすめた武田家  との和睦は福島一族の利害を大きく阻害するものであった。そのため、福島一族はにわかに義元の家督  に異を唱え、一族の血を引く玄広恵探(氏親三男、義元の異母兄)を担ぎ出したのである。   義元派は義元の生母である寿桂尼に恵探派の説得を依頼したが、結果はその翌日の5月25日未明に  恵探派の首魁である福島越前守らが挙兵して今川館を襲撃するという最悪なものとなった。反乱は福島  一族の本拠地がある遠江ばかりか駿河でも同調者の挙兵が相次ぐなど拡大の一途を辿り、家督相続をほ  ぼ完了したかに見えた義元を一転して予想外の窮地に陥れた。   だが、義元が北条氏に加勢を求めると状況は一変した。6月8日までに北条勢が駿河東部の恵探派を  鎮圧し10日には恵探が自害して果てた。擁立する恵探が死んだことで福島一族はただの反乱軍となっ  てしまい14日までにことごとく鎮圧された。                         」   今川家は将軍家に世継ぎがいない場合は吉良家から養子を迎え、吉良家にも男子がいない時は今川家  から養子を迎えるとされるほどの名門であったが、それ故に家督を巡る争いも頻発した。この事例の他  に義元の父氏親、その祖父の範忠の時も家督争いが内乱に発展している。   こうして家督の座を確保した戦国大名達はさらに過酷な戦国サバイバルレースを戦って行かねばなら  ない。当主の座を射止めるには親兄弟とも争わなければならない悲惨な時代だが、それは当主になるた  めの試練だけではなく乱世を生き抜くための試練でもあるかもしれない。     合戦   戦国時代の軍隊はゲームのように騎馬・弓・槍・鉄砲が厳密に分類されてはいなかった。まず、騎  馬という兵種だが明治以前に日本にそれは存在しなかった。どういうことかというと、日本の騎馬武  者は我々が想像しているような騎兵隊みたいな事はしなかった。騎馬武者だから常時馬に乗って戦う  と思いがちだが、実際には馬から下りて戦うことが多いのである。それに、ゲームや外国・明治以降  の日本の騎兵隊はだいたい騎兵だけで編成されるが、戦国の騎馬隊は違う。   ここで戦国時代の軍隊編成を見てみると、最上級指揮官たる総大将つまり戦国大名を頂点にその下  に侍大将、そのまた下に軍奉行という編成になっている。この侍大将と軍奉行は大名の家臣でもかな  り上のクラスの者が務めている。その下に物頭の寄親がある。侍大将も軍奉行も寄親と呼ばれる大名  の直臣である。そして、大名の直臣ではあるが物頭クラスの寄親に付属される寄子がいる。国によっ  ては寄子が寄親の被官になってしまっているところもある。被官とは直属の家臣のことをいう。寄親  と寄子の1個の編成を備といい、騎馬武者は寄子以上の指揮官を指す。寄子には2種類の被官がいて  馬には乗らず徒歩で戦う徒歩(かち)武者(上層被官)と長柄の槍を持つ雑兵(下層被官)がある。   つまり、日本の騎馬武者は指揮官であって騎兵隊みたいに集団で行動することは普通はしないので  ある。それに、日本の馬は現在のサラブレッドより体格が劣るため激しい連続機動には耐えられない  し、なにより日本の馬は去勢がされておらず集団で行動することなど不可能なのだ。明治になってか  らのことだが日本の馬を見た外国の記者が「日本は馬の格好をした猛獣を使っている」と揶揄したと  いう。   騎馬だけで戦う時もある。関ヶ原で撤退する島津勢を井伊直政は騎馬だけで編成した精鋭で追撃し  ている。だが、それは臨時にそうしただけであってその部隊が常時編成されていたわけではないのだ。   日本の在来馬は集団行動ができない上に重たい甲冑武者を乗せての激しい運動に長時間耐えること  ができない。大河ドラマとかで騎馬武者と徒歩武者が一緒に駆ける場面をよくみるが、つまり甲冑武  者を乗せた馬の速度はその騎馬武者に従う雑兵の走る速度とあまり変わらないのだ。それに日本の馬  は決して人間に従順というわけではないのである。ちなみに明治初期日本には品種改良がされていな  い馬が150万頭いたそうである。   騎馬武者は鎌倉時代までは戦の主役であった。その時代の兵士の数え方が何人ではなく何騎なのも  そのためである。そして、その時代によく使われていた兵器が弓矢である。鉄砲の普及で弓矢の全軍  に占める割合は低下したが、それでも幕末まで弓兵が無くなることはなかった。つまり、日本におい  ては鉄砲は弓に完全に取って代わる程の兵器ではなかったということになる。   鉄砲の登場で旧式化したように見える弓矢だが、いくつかの点で鉄砲より優れたところがある。ま  ず、生産コストが安い、鉄砲の弾と違って矢は射出された後でも矢柄が折れてさえいなかったら再利  用ができる(再利用するのは敵の方だが)、装填に時間のかかる鉄砲の穴埋めとしての遠射兵器とし  ての価値がある等いろいろあるがその中でも一番大きな利点は弓矢が曲射兵器だということである。   鉄砲伝来後の戦国時代の合戦は一番最初に鉄砲の撃ち合いから始まる。この時、鉄砲足軽達を敵弾  から守るため前方に盾が設置されているのだが、その盾は直射兵器である鉄砲に対応するためのもの  であるため頭上を越えて降ってくる矢を防ぐことができないのだ。   以上の利点により弓矢は全軍における装備率は低下したが無くなることはなかったのである。大坂  夏の陣での伊達政宗の軍勢の実に6割以上が鉄砲だったが、それでも弓矢は2%ほどはいたのである。   つぎに鉄砲について。天文12年の伝来以降、日本中に広まった鉄砲だったがしばらくはそんなに  普及はしなかった。戦国終盤の天正18年頃でさえほとんどの地域で鉄砲の装備率は10%にも満た  なかったのである。なぜ、鉄砲は普及に時間がかかったのか。昔、ある本で武田信玄が鉄砲は装填に  時間がかかる、弓矢に比べ遙かに高額であるなどを理由に積極的に採用しようとはしなかったと書い  てあったのを覚えているが、いまおもうと果たしてそうだったのだろうか。永禄から天正にかけての  武田軍の鉄砲装備率は7.1%で騎馬7.4%、弓8.3%とそんなに大差がないのだ。それに長篠  合戦で武田軍は500挺の鉄砲を装備しているが、これに対する織田軍の鉄砲は諸説あるが仮に10  00挺とするとその装備率は両軍とも3%と大差がないのである(両軍の兵力も諸説あるため厳密に  この数字が正しいとは言い切れないのだが)。   長篠合戦で明暗を分けた両軍の差はどこにあるのか。それは織田軍が鉄砲を集中させたのに対し、  武田軍は分散させていたことにある。これは武田軍の誤りというより当時の状況ではどこも似たよう  なものであった。鉄砲は大名の所有物ではなく寄子の私有財産で大名は寄子から鉄砲部隊だけを抽出  して、それを集中させることができるほどの支配力がなかった。   騎馬武者のところで備についてふれたが、もう少し説明すると備は一人の寄親と複数の寄子で構成  される。寄親も寄子も規模の差はあるがそれぞれ被官を従えていて、その隊列は縦列となっている。  戦場では寄子の縦の隊列が横に並んでいて、その後方に寄親の隊が控える。   この備では最前列に位置する鉄砲隊が統制された射撃ができるか疑問である。なにしろ隣の鉄砲足  軽の指揮官が自分の指揮官ではないこともあるのだ。それにこの備は鉄砲隊や弓隊が射撃後に安全地  帯に避難しやすいように隊列と隊列の間に隙間がある。縦の繋がり(指揮系統)があっても横の連携  が取りにくいのがこの備の問題点であるが鉄砲普及以前の日本の軍隊ではこれでも問題はなかったの  である。   だが、その備が改善されると鉄砲はすさまじい威力を発揮するようになった。一部の大名で編成が  された組衆という備である。以前との違いは縦列隊形が横列隊形に変わったことである。以前の備は  一つの隊列が鉄砲・弓・槍・徒歩武者とその従者・騎馬武者(寄子)とその従者の混成で編成されて  いてその隊列が横に並んでいるのに対し、組衆化された備は一つの隊列が同じ部隊で編成されそれが  前から後に並んでいるのである。一つ一つの隊列(以後、組と称す)は組頭が指揮を執り、組衆全体  の指揮は足軽大将が執る。組衆の最前列に位置する鉄砲隊は以前と異なり一人の組頭の命令で統制が  とれた射撃ができるようになった。それとこの組衆の利点は1個の組が単一の兵種で構成されること  で戦略的にも戦術的にも機動力が安定していることと、戦闘正面への戦力の集中を徹底できることで  ある。特に鉄砲は火力の密度が従来の数倍に達したと考えられ、相手もまとまった鉄砲隊を投入して  こない限りは無敵の存在であった。   そんな組衆にも問題点があった。それは大名の配下すべての部隊の備を組衆化する事が困難だとい  うことだ。大名が組衆の対象にできたのは自分の親衛隊的な存在である旗本衆というある程度自由に  できる子飼いの兵力だけであって、寄親や寄子の鉄砲兵に手をつけたわけではない。戦国大名といえ  ども家臣から鉄砲とその射撃手を召し上げ組衆にすることができるほどの権力はなかったのだ。その  ため鉄砲は集中配備されることなく分散配備のまま運用されていった。   長篠合戦での武田軍も鉄砲を分散させていた。武田信玄のイメージから見ると意外かもしれないが  彼の国主としての権力は決して強いものではなかった。彼の領国は滅亡するまで中世の構造から脱し  きれなかった。信玄の跡を継いだ勝頼が積極的に攻勢にでたのも、そうすることで自分の国主として  の力量を家臣に認めさせ、さらに戦という大事業を利用して国内をまとめるのが目的だったからであ  る。   そんな武田軍に対し信長の軍隊は彼自身だけでなく重臣クラスの者でさえ子飼いの組衆化を達成し  ており他よりも一歩進んでいた。それだけではない。信長は敵対勢力が存在しない大和や近江などの  外様領主から鉄砲隊だけを徴用している。これらの地域の外様領主はそれまで畿内以外で動員される  ことはなかったが、信長は一般兵種の動員を免除する代わりに鉄砲隊を臨時に動員するという交換条  件で外様領主への支配力強化と彼等の利害に直接関係のない遠隔地への動員と一時的な組衆化に成功  したのだ。こうして集められた数千挺に及ぶ鉄砲は寄せ集めのため前田利家・佐々成政ら5人が臨時  の鉄砲奉行として統制することになった。   この未曾有の規模を誇る鉄砲部隊の大火力の前に分散された武田の鉄砲隊は反撃する間もなく沈黙  させられた。織田軍の鉄砲隊の火力は武田軍の盾を粉砕するほどだった。   さて、鉄砲の普及が遅れた原因だがそれはやはり鉄砲のコストの高さであろう。鉄砲はそれ自体も  高ければ弾薬にも火薬にも維持経費にも金がかかる高価な品物である。そのため鉄砲が伝わった西国  や経済に余力のある豊かな国以外つまり関東・東北地方では普及しなかったのだろう。それら東国で  は鉄砲よりも馬の方が安く仕入れることができたのである。   最後に鉄砲が騎馬武者に与えた影響について。鉄砲が普及するとともに騎馬武者が馬から下りて戦  う事が多くなった。それは馬の上は鉄砲の格好の餌食になるからであろう。   最後は槍について。槍は登場が遅く文献での初見は鎌倉時代末期の正中元年(後醍醐天皇とその側  近が倒幕を企て未然に発覚した〈正中の変〉が起こったのがこの年である)で普及しだしたのは応仁  の乱頃であるとされている。   槍は大きく分けて武士やその従者が持つ2mから4mぐらいの(持)槍と足軽(雑兵)がもつ6m  ぐらいの長柄(の持槍)がある。その区別は戦国大名によって異なり、武田氏のように槍を約4.4  5m、長柄を約5.45mと明確に分けているところもあれば、長宗我部氏のように長柄と槍を区別  していなかったところもあった。   長柄と槍は長さが違うので使用方法も異なった。槍は相手を突くことを目的とした刺突兵器として  使われたが、長柄は相手を叩くことを目的とした打撃兵器として使われたのである。また、先述した  ように長柄と槍は使う人も違っていた。   まず槍を使うのは武士とその従者である。彼等は合戦が始まる前は抜け駆けを禁止されるなど軍規  に縛られていたが、合戦が始まると個々の判断で手柄を立てようと戦った。彼等は戦いにおいては誰  からの指示も受けなかった。この武士が個々に手柄を争う戦い方は平安時代末期より変化はなく、さ  らに江戸時代まで受け継がれていく。   一方、長柄は槍足軽が使用した。足軽達は武士と異なり集団で戦う。その役目は鉄砲や弓矢と同じ  く後方の武士のための突破口を作る他に、単独では自分の身を守れない鉄砲足軽と弓足軽を敵の攻撃  から守る事であるが、時代が流れるとともに大将の本陣を守る後衛となっていった。これは長柄部隊  の重要性が低下したことを意味する。戦いに参加しない場合が多い本陣の護衛であれば当然彼等も戦  いに参加する機会が少ないからだ。それを証明するかのように備に占める長柄の比率は時が流れるに  つれ低くなった。戦国時代では武士25%、鉄砲0.6%に対し長柄は69%(上杉氏)と長柄が圧  倒的に多かったが、江戸時代前期になると武士・鉄砲共に31%なのに対し、長柄は22%(酒井氏)  と比率が逆転してしまっている。   長柄の重要性が低下した原因は鉄砲の普及と騎兵活動が低調であったことである。長柄は鉄砲が普  及する以前は弓と共に遠戦兵器として使われたが、鉄砲が普及すると長柄の遠戦兵器としての役割は  鉄砲に置き換えられていき、長柄は鉄砲・弓足軽を守る守備的な役割をさせられるようになった。だ  が、その守備的な役割でさえ長柄は決して重要ではなかった。同時期のヨーロッパでは日本よりも鉄  砲の装備率が高いのに槍兵の価値は下がらなかった。それはヨーロッパでは銃兵が弾を装填している  間に騎兵の突撃を受ける危険があったからで、槍兵は銃兵を敵騎兵から守る兵種としての価値があっ  た。しかし、日本では騎兵活動というのが全くの低調であったため歩兵が騎兵の餌食になることは全  くなかった。ヨーロッパでの戦術隊形が密集型(これは古代ギリシャ時代より変化はない)であった  のに対し、日本でのそれが散開型でいられた原因は日本では散開した歩兵が敵の騎兵に大打撃を被る  という可能性が皆無だったからである。尚、ヨーロッパの密集隊形は第1次世界大戦でそれが敵の機  関銃の格好の的になることが明らかになるまで存続する。   戦国時代の合戦は日本国内での内戦ということもあり、兵士の体格・武器の質がほぼ同一であるた  め戦いの帰趨を決するのは兵の数である場合がほとんどである。そのため戦国大名は相手よりも兵を  多くしようと苦心した。それでも兵力が劣った場合は籠城という選択もある。しかし、籠城戦で勝利  するには1)敵の兵糧が自軍のそれよりも早く尽きる、2)籠城戦を長引かせることで敵の厭戦気分  を引き出す、3)有力な援軍が到着する、4)敵が攻城戦に集中できなくなる等を期待しなければな  らない。そのどれもが期待できないときは討死を覚悟で城外出撃するか、奇跡を信じて籠城を続ける  か、降服するかを選択しなければならない。   城から討って出る場合、よく採られる戦法が奇襲である。奇襲というと夜襲を思い浮かべるが奇襲  とは相手の意表を突くことなので、その条件が成立すれば昼間での正面からの攻撃でも奇襲となる。   なぜ、奇襲が有効なのか。それはこの時代の軍隊が抱える問題点にある。足軽と呼ばれる人々は戦  国初期は野武士、それ以降は百姓を本業としている連中である。戦国時代の軍隊は戦闘部隊に限って  いうと個々で戦う武士と集団で戦う足軽に分類される。数の上では足軽が圧倒的に多いが、先述した  ように足軽は普段農作業をしている百姓である。その百姓が戦場に赴くのは領主から強制的に徴兵さ  れたからだけではなく少しでも稼ぎたいが為である。領主のために命を懸けて戦う気がある足軽は皆  無だったと思う。だから彼等足軽は味方の敗北が決定的になるなど動揺することが発生すると一目散  に逃げ出すのだ。足軽だけではない。死を覚悟しているはずの武士も味方が崩れ出すと死の恐怖にと  りつかれ敗走を始める。戦国時代の軍隊の問題点は動揺すると崩れやすいということだ。それが大軍  であればあるほど動揺すれば混乱しやすくなる。戦国時代の合戦で寡兵の軍隊が優勢な敵軍に勝つ場  合が多いのは奇襲をかけることで相手を動揺させ、さらにその動揺を広げることで敵を混乱させ敗走  させるという戦術を採ったからである。敵の動揺を決定的にするには敵の大将を討ち取るのが一番で  ある。   もちろん、奇襲がいつもうまくいくわけではない。事前に敵に発見されたら終わりだし、奇襲に成  功したとしても敵が総崩れになる前に態勢を立て直されても終わりである。奇襲を行う時はいつ実行  するか、そして奇襲を実行したらどこを集中して攻めるかの判断と一度奇襲に成功したら目的を達す  るまで退かない覚悟が必要である。   奇襲を掛けるのは籠城側つまり戦力で劣る側である。では攻める方はどんな戦術で城攻めに挑んだ  のか。力攻めか、それとも兵糧攻めか、調略という手もある。でも、力攻めは成功すれば短期間で終  わるが失敗する場合もあるし犠牲も大きい。兵糧攻めは味方の損害は抑えられるが長期化は避けられ  ない。先述したように戦国大名の軍隊の大半を占める足軽や小荷駄隊などの後方支援をする人たちは  百姓であるから長期間軍務に就かせていると農作業に支障を来す恐れがある。それに城攻めが長引け  ばそれだけ自国を不在にする状態が続くわけで、その隙に別の大名が侵攻してくる可能性もある。調  略による手段も失敗する可能性がある。   一番いい城攻めは城そのもを攻めずに敵を城から誘き出して野戦で撃破する戦術であろう。野戦な  らまず兵の数の多い軍が勝つのは間違いない。例を挙げるなら三方ヶ原の合戦だろう。武田信玄は徳  川家康を浜松城から三方ヶ原に誘い出して散々に叩きのめした。この時、武田軍は行軍隊形から魚鱗  の陣にすばやく陣形を組み替え徳川軍を迎撃している。信玄の見事な采配とそれに対応できる武田軍  の精強ぶりが伺える。   だが、この戦術も完璧なものではない。たとえ籠城している敵を野外に誘い出して撃破したとして  も、敵がその指揮中枢と籠城に必要な最低限の戦力を維持したまま城に逃げ込むのを許したら何の意  味もないのである。先の三方ヶ原でも武田軍は家康を取り逃がしたために徳川を屈服させることがで  きなかったし、織田信長も浅井・朝倉の連合軍を浅井長政の居城小谷城から姉川に誘き出して勝利し  たものの肝心の小谷城を陥落させるには至らなかった。   とはいっても、戦力的に優勢な方からしたら戦は城攻めよりも野戦の方が良いと思うはずである。  逆に戦力劣勢な方はなるべく野戦は避けるか、野戦に挑むにしても正面攻撃は絶対避けるべきである。   ところが、その正面攻撃をしてしまった武将がいるのである。それは長篠の合戦での武田勝頼であ  る。勝頼は15,000の兵で38,000の織田・徳川連合軍に正面から攻撃するという愚を犯し  て惨敗した。長篠の勝敗を決したのは鉄砲ではなく兵の大小の差と信長と勝頼の戦術の差であったの  だ。   双方の戦力が拮抗している場合、戦いの場は野外になることが多い。先述したように戦国時代は兵  の体格、武器の質共にほとんど差が無く、戦いの帰趨を征するのは兵の数がほぼ互角であれば兵士の  士気と指揮官の指揮統制能力が優れている方である。また、多少兵の数に差があっても指揮官と兵士  が優れていれば十分に勝利をつかむことができる。   戦術レベルに限っていえば戦国最強の武将はおそらく上杉謙信だろう。彼が戦った敵は彼の領国よ  りも国力が上の者ばかりである。しかし、謙信が戦場に出たら相手が関東の雄であろうと甲斐の虎で  あろうと第六天魔王であろうとも決して後れをとることはなかった。   さて、野戦で欠かせないのが陣形である。陣形は基本的に8つあり状況に応じて変えていくのが必  要でその判断が優れているかどうかでその武将の質がわかる。では、簡単に説明する。   【魚鱗】魚の鱗のように中央が突出し、そして後続が左右に展開する突破型の陣形。陣形のなかで       はもっとも基本的なものである   【鶴翼】鶴が翼を広げて飛ぶ様に見立てた陣形。備を横に展開し突撃する敵を包囲するのに使われ       るが、兵の数が敵よりも劣勢だと中央を突破され各個に撃破されてしまうかも   【雁行】雁の群が列をなして飛ぶ様にたとえた斜方陣。状況に応じていろんな陣形に変化すること       ができる。合戦では一備ずつ攻めたり引き下げたりするのに便利   【偃月】細い月のような湾曲した格好の陣形。先陣と後陣の距離が短いので増援が容易で左右への       移動がしやすい。しかし、魚鱗か鋒矢で突撃されると分断されやすい   【鋒矢】形は魚鱗に似ているが、中央に縦隊で戦力を集中するため左右に幅がない。側面や後方か       ら攻められると脆いが、小軍で大軍を打ち破るのに使われる。厳島や桶狭間で元就と信長       がこの陣で見事勝利を収め、大躍進へのきっかけとした   【衡軛】先陣を軛(くびき。牛車の轅の先端にある横木のこと)のように横隊に後陣を轅のように       縦隊に配置した陣形。後陣が予備となり側面の防御や先陣への増援を容易にする巧妙な陣       形。魚鱗や鋒矢といった突破型の陣形に有効だが、主力が前方にあるので後方からの攻撃       に弱い   【長蛇】行軍中からそのまま合戦に移行するのに適した陣形。いきなり敵と遭遇して他の陣に変え       る余裕がないときに使うと便利   【方円】いわゆる円陣。書物によっては兵法の極意とまでいわれているそうな。敵襲を警戒するた       めの陣形として世界的にもポピュラーな陣形。中央に本陣をおいて八方に部隊を配置し不       意打ちを阻止する   ついでに同時期のヨーロッパの陣形も解説する。この時期のヨーロッパは中世の重装騎士が衰退し  小銃に代表される火器が発展する過渡期であった。とはいっても重装騎士を戦場の花形から引きずり  降ろしたのは小銃ではなく槍兵の密集隊形であった。1477年のナンシーの戦いでブルゴーニュ公  国のシャルル突進公の騎兵をスイスの槍兵が撃破して突進公が戦死すると各国はスイスの密集方陣を  自国の軍隊に取り入れた。   だが、その後のイタリア戦争で槍方陣は騎兵には有効だが銃兵の格好の的になることが明らかとな  った。銃兵は1503年のチェリニョーラの戦いでフランス騎兵を圧倒し、また、1522年のビコ  ッカの戦いではスイス槍兵の突進を斉射で阻止するなど活躍し、さらに1512年のラヴェンナの戦  いでは大砲の砲撃戦で双方に大損害がでて火器の威力と有効性を各国に思い知らせた。   しかし、それで銃兵が戦場の王者になったわけではない。当時の小銃は発射速度・有効射程共に弓  矢には及ばず、最初の斉射で敵の騎兵または槍兵の突撃を阻止できなければ次弾を装填している間に  蹂躙されてしまう危険があった。また、大砲も重すぎて移動が大変という欠点があり戦いに敗れて撤  退する際には放棄するしかなかった。   そうした状況に対応するため1534年にスペインで発明された密集方陣が“テルシオ”である。  テルシオは縦深約40列の槍方陣の周囲に縦深数列の銃隊を配置したもので、初めの頃は約3,00  0人で構成された。テルシオの利点はどの方向からでも防御が可能だということと、複雑な訓練が必  要ないということである。   だが、テルシオには機動性に欠けるという欠点もあった。それに戦闘に参加できるのは槍隊の前方  5〜6列と銃隊の前列にすぎなかった。また、槍隊は銃隊を敵から守るのが任務だがテルシオでは両  者の協調が難しく、その上銃隊は射撃後は槍隊の前進を阻害することがあった。それでも他に有効な  隊形がなかったためテルシオは16世紀から17世紀前半にかけて最強の隊形として諸国に取り入れ  られた。   火器の発達は騎兵の戦法をも変えてしまった。1540年代からピストル騎兵やカービン騎兵が登  場し、それまでの槍で武装した重装騎兵を決定的に打ち負かした。それによって重装騎兵は姿を消し、  新たに騎兵の主役となった銃騎兵がとった戦法が縦深10列程度で敵に近づき前列から順に発砲した  後、旋回して最後尾につき装填してまた発砲するをくりかえすカラコール戦法である。   しかし、カラコール戦法では歩兵の隊形を崩すことはできなかった。銃撃戦では歩兵の銃隊の方が  優勢だったのだ。それに歩兵の隊形に近づけば槍兵との近接戦闘となり装填に時間が必要な銃騎兵で  は分が悪かった。つまり、銃騎兵は重装騎兵との戦闘では圧倒的に有利だが、歩兵に対する衝撃力で  は重装騎兵に及ばなかったということだ。   騎兵の歩兵に対する衝撃力が低下し、歩兵がその脅威からいくらか解放されると槍兵主体だったそ  れまでの隊形は変化し、槍よりも銃に依存する傾向が進んだ。それに伴いテルシオも改良され、それ  までの槍方陣の四方を銃隊が厚く囲む形から、やや横長の槍隊の周囲を銃兵が薄く取り巻き、四隅に  銃隊の小方陣を持つ形へと変わり、人数も1200〜1500人に減らされた。   鈍重なテルシオ・効果の薄いカラコール・移動にえらく手間のかかる大砲、ヨーロッパ諸国が抱え  ていたこれらの問題を解決して新戦術“三兵戦術”を確立したのは一人の王であった。   1618年5月23日の「プラハの高窓」事件をきっかけに30年戦争が勃発すると、ドイツの完  全なカトリック化を企てる神聖ローマ皇帝フェルディナント2世(即位は1619年)とカトリック  (旧教)派諸侯の連合軍とプロテスタント(新教)派諸侯の連合軍は戦闘を開始した。カトリック派  には皇帝と同じハプスブルク家の王が統治するスペインとカトリックの総本山ローマ法王がつき、プ  ロテスタント派にはカトリック教国でありながらハプスブルク家とは宿敵関係にあるブルボン家のフ  ランスとイングランド・オランダ・トランシルヴァニア・オスマン=トルコ・北欧の覇者にならんと  しているクリスティアン4世のデンマーク(ノルウェーとシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公領含む)  ・北方の獅子王の異名を持つグスタフ・アドルフのスウェーデンがついた。このグスタフ・アドルフ  が三兵戦術を作りだした人物である。   グスタフ・アドルフの軍隊の基本隊形はオランダのマウリッツが考案したのを元にしている。当時  オランダはスペインからの独立戦争の最中でマウリッツはオランダの軍司令官の地位にあった。その  マウリッツが考案したのが改良後も縦深が長いテルシオの後半分を省略し、縦深10列の槍隊を左右  の銃隊が挟む形の線状隊形である。   グスタフはこれをさらに縦深を6列に減らし、横も槍隊36列、銃隊16列とし機動性を高めた。  この隊形を基本にグスタフは複数のユニットを組み合わせた戦隊を編成し、その両翼に銃兵の小部隊  に支援された騎兵隊を展開させ大砲に全体を守らせる諸兵科統合の戦列を考案した。   グスタフの軍事改革はこれだけでなく小銃を改良して射撃速度を向上させたほか、騎兵隊のカラコ  ール戦法を改めピストル騎兵(若しくはカービン騎兵)を前列のみに配置して後の2〜3列を従来の  サーベル騎兵に戻して騎兵本来の衝撃力を取り戻させた。大砲も威力と射程はあるが機動性が無きに  等しい重砲ではなく、軽量で持ち運びが便利で発射速度に優れる軽砲に変えた。   グスタフはこの新戦術と鍛え上げた軍隊でカトリック派のティリー伯の軍をブライテンフェルトで  撃破しその不敗神話を打ち崩した。戦闘が始まるとスウェーデン軍の砲兵はティリー軍の砲兵を圧倒  した。スウェーデン軍砲兵はティリー軍砲兵に対し門数で2倍、発射速度で3倍の優位を誇っていた。  そして、状況の打開のためにティリー軍に参加しているフュルステンベルク伯の騎兵がスウェーデン  の同盟国であるザクセン軍を蹴散らしスウェーデン軍の後方に進出するという最大の危機に際しては  軽砲兵とホルン将軍の騎兵ですばやく左翼を形成し敵の進出を阻止した。さらに、スウェーデン軍の  右翼を攻撃していたパッペンハイム伯の騎兵に対しても随伴銃兵の支援を受けたバネル将軍の騎兵が  数的質的劣勢を覆し壊滅的打撃を与え敗走させた。このパッペンハイムの敗走をきっかけにスウェー  デン軍の反撃が開始されティリー軍は全軍の47%にあたる16,600人の損害を出して敗走した。  対するスウェーデン軍の死者は全軍の3%にあたる700人、ザクセン軍の死者は全軍の11%にあ  たる2,000人にすぎず、グスタフ・アドルフは自身とその軍隊の勇名を戦史に轟かせたのだった。   だが、1回の野戦ですべての決着がつけられなかった点ではテルシオも三兵戦術も変わりがなかっ  た。当時の軍隊は兵站の問題から補給地点から遠く離れることが不可能だったからだ。ブライテンフ  ェルトでグスタフが敗走するティリー軍を追撃すれば殲滅できる状況にもかかわらずそれをしなかっ  たのも補給という問題があったからだ。とくにスウェーデン軍のように外国の地で戦っている軍隊な  らばなおさらこの問題に神経質にならねばならなかった。   先の第1次ブライテンフェルト会戦の後も戦争は続き最終的に30年もの長きにわたる途方もない  消耗戦になったのだが、それは当時の軍事技術からすれば仕方ないことであるのだ。野戦ですべて決  着がつくいわゆる決戦が行えるようになるのはナポレオンが台頭してからであった。   マウリッツやグスタフ・アドルフの新戦術は火力と機動力を重視したものだった。それはそのまま  真似られることはなかったが、欧州諸国の標準的なドクトリンとなっていった。17世紀半ば以降、  機動力を向上させるため歩兵の防具は廃止され、17世紀末に発明された銃剣の登場で槍も姿を消す  ことになるのである。   戦国時代は足軽は集団で行動したが、武士は個人で戦闘していた。主人である武士とその従者で構  成されるユニットは武士の最小単位である。武士は己が持つ武器を任意で選んだが、そのなかでもっ  とも多く装備されていたのが刀である。槍とか薙刀などを使っている者でも刀は持っていた。   刀での戦闘といえば時代劇のチャンバラを思い浮かべるが、合戦では重い甲冑を身につけているた  め時代劇のように軽々しく動くことはできなかった。特に兜は鉄製のため重たくバランスを取るため  腰を低くした姿勢が武士の戦闘態勢である。   刀で戦う場合、相手の隙を狙わなければ致命傷を与えることができなかった。日本の甲冑は西洋の  騎士が着用していたプレート・アーマーとは違い、動きをよくするため各所に隙間があった。腰の動  きをよくするために胴と草摺の間は上下をつなぐ糸しかないし、手首の裏も手の甲の方は籠手で守ら  れているから斬撃に耐えることができたが裏側は無防備だ。手首の裏は動脈が流れる人体急所の一つ  であり、そこをやられたらどうなるか言うまでもないだろう。急所といえば首も忘れたらいけない。  最大の急所である首は横と後は兜の垂れで守られているが前部はかなり隙間があり、そこをやられた  ら辺り一面血の海と化す。   他にも狙える箇所はいくつかあるが足も狙い所だ。足は足袋だけのほとんど無防備な状態のためそ  こを刀でグサッとやられるとその人は立っていられなくなる。一度でも倒れたらその人間はおしまい  である。頭が重い甲冑武者は起きあがるのが困難だからである。漫画とかで甲冑武者が馬から跳び上  がるというシーンがあるが、実際そんなことしたら頭から落ちて首を折るか、起きあがろうとしてあ  がいているところを狙われるだけである。   装備率では刀が一番多かったが、実際の戦闘で使われている武器とすれば槍とか薙刀といった長物  が多かった。長物は刀よりもリーチが長く、刀のように相手の隙間を狙わなくとも槍ならば鎧ごと相  手の身体を貫くことが可能であり、薙刀なら遠心力で兜ごと首を打ち落とすができた。   そんな槍にも弱点はある。懐にまで接近されるとその長さがかえって邪魔になるのだ。刀が届く範  囲では槍よりも刀の方が有利なのである。そういう時は柄を使って応戦する。槍はなにも穂先だけが  武器になるのではない。柄尻の石突も武器になるし、長い柄は棒としても使うことができる。このよ  うに戦国時代において刀よりも槍の方が多く使われた理由は槍が圧倒的に有利だからである。
    御食事   漫画日本昔話で百姓の家がよくでてくる。だいたい中央に囲炉裏があって鍋が置いてあるが、その  中身は雑炊である。戦国時代の足軽も本業は百姓のため普段の食事は朝も夕方も雑炊である。彼等が  収穫した米は年貢としてほとんど持って行かれるため雑炊にはいる米穀はとぼしく、彼等は葱や大根  ・蕪・青菜などの雑菜を鍋に加えて煮込みそれの増量を図った。   武士達の食事も質素である。まず食事は1日2回しかとらなかった。合戦ともなると何日も喰えな  い状態が続く場合もあるので普段からならしておくのだ。食事の内容も、2.5合の玄米と鰯の丸干  に芋や大根の煮物とみそ汁といった具合である。しかも、それはまだご馳走で梅干しか漬け物だけの  時も多い。   これが出陣になると武士の食事はがらりと変わる。白米が食べられるのだ。白米はおにぎりにされ  ることが多い。白米と味噌で合戦中の食事は補えた。他に梅干しや煮干しなどもあるが、西洋に比べ  ると兵站は(30年戦争当時のヨーロッパの軍隊はパン750〜1,000g、ビール1〜2L、肉  500〜750g必要とされた)かなり軽量である。   兵站が軽いということは戦略的な機動力が高いということである。日本の軍隊がヨーロッパの軍隊  より大量の兵を動員できた(先のブライテンフェルト会戦を例にすると遠征してきたスウェーデン軍  の兵力は歩兵・騎兵合わせて約24,000、対する日本軍は文禄の役で朝鮮に16万の兵を派遣し  ている)のはそこに理由があると思う。
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