伝説となったドイツの通商破壊艦
エムデン戦記
ドイツ東洋艦隊
装甲巡洋艦 「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」
軽巡洋艦 「エムデン」「ライプツィヒ」「ニュルンベルク」
仮装巡洋艦 「プリンツ・アイテル・フリードリヒ」「コルモラーン」
駆逐艦1、砲艦4、河川砲艦3、水雷艇複数
1914年6月28日にボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボで鳴り響いた銃声は複雑な国
際情勢によって、本来セルビアとオーストリア=ハンガリーの2国間で解決されるべき問題を
史上空前の大戦争へと導く導火線となった。事件から1ヶ月以上経過した8月1日の独露間の
戦争勃発に始まり、それから1週間を経ずにして欧州列強がほぼ参戦するナポレオン戦争以来
の大戦となった。参戦国のほとんどが海外に植民地を有していたため戦火は世界規模へと拡大
したのである。
開戦当時に想定される戦場は欧州の他にアフリカ・極東・太平洋が考えられた。この3つの
戦場における同盟国(ドイツ・オーストリア)側の劣勢は明かであった。なにしろこの地域に
同盟国はドイツの海外領土しかなかったからである。特にアジア・太平洋地域はこのまま無為
に時を過ごせば破滅は時間の問題であった。
そこで太平洋のドイツ東洋艦隊は積極的に行動することで事態の打開を図ることにした。そ
れは極めてギャンブル性の高い賭だったが、増援も得られない状況ではそれしか手段はなかっ
た。
当初、東洋艦隊は艦隊決戦で敵艦隊を撃破しようと考えていた。当時は主力艦同士の決戦で
雌雄を決する大艦巨砲主義がまかり通っていたので、こういった戦略が立案されるのも当然の
成り行きであった。だが、軽巡エムデン艦長のカール・フォン・ミュラー中佐はこれに賛成し
なかった。
ミュラーはインド洋での通商破壊を主張した。インド洋はアジア・オセアニアから英本土へ
の物資・兵員の供給路となっており、その供給を妨害することでイギリスの継戦能力を低下さ
せることが期待された。さらに、イギリスが対策に失敗すればインドやビルマにおける同国の
威信低下は避けられず、結果的にイギリスの国力を弱めることができるとミュラーは判断した。
このミュラーの案に参謀長のフォールティッツ大佐や他の艦長達も支持を表明した。艦隊決
戦を主張していたシュペー提督もこれを容れることとし、ミュラーにインド洋での通商破壊戦
を命じた。
8月13日、ドイツ東洋艦隊はマリアナ諸島のパガン島を出撃した。途中、エムデンは石炭
運搬船マルコマニアを引き連れ、艦隊から離脱した。石炭の補給の問題で通商破壊にはエムデ
ンだけで従事することに決まっていたのだ。旗艦シャルンホルストから成功を祈るという信号
が送られたが、これがエムデンの乗組員が東洋艦隊を見る最後となった。この後、東洋艦隊は
フォークランド沖でイギリスの巡洋戦艦部隊と交戦して全滅している。
一方、単独行動を取ったエムデンは偽装の煙突を1本立てて4本煙突の艦に見せかけること
にした。これはイギリスの巡洋艦が4本煙突であったことへの処置で多少は敵の目を欺けるこ
とができると思われた。エムデンはオランダ領東インドを通過してインド洋に入った。すでに
協商国側の艦船がエムデンを捜索しており、エムデンも通信傍受でその事を知っていたが幸運
にもエムデンは敵に発見されることはなかった。
こうして飢えた狼が野に解き放たれた。その最初の餌食となったのがギリシャのポントポラ
ス号だった。9月9日、同船と遭遇したエムデンはこの船を臨検した。1909年のロンドン
宣言で民間船の拿捕や臨検について細かい取り決めがなされたが、エムデンはそれを遵守して
臨検を行った。ロンドン宣言では敵対行為を取らない中立国の船舶には手が出せないことにな
っているが、ポントポラス号の積み荷はイギリス軍の石炭であったためこの場合は船長の同意
があれば接収することができた。
ミュラーは船長と交渉してこの船を徴用することにした、この幸先良いスタートを切ったエ
ムデンは14日までに6隻のイギリス船舶を撃沈し、イタリア船舶を含む2隻を拿捕するとい
う戦果を挙げた。
こうしたエムデンの活躍は英国海軍を強く刺激した。ロイヤルネイビーは巡洋艦を投入して
エムデンを捜索したが、エムデンは彼等が予想だにしなかった場所へと姿を現した。
9月22日夜、エムデンはイギリス海軍の基地があるマドラスに出現した。マドラスは要塞
化されており、誰もたった1隻で襲撃してくるとは思っていなかった。そうした油断をついて
エムデンは10.5p短装砲で石油施設を砲撃した。この砲撃で石油施設は炎上し、エムデン
はさっさと引き上げた。この事件はインドにおけるイギリスの権威を失墜させた。
マドラス襲撃を成功させたエムデンはモルジブ沖で通商破壊を再開した。9月25日のキン
グラッドを手始めに28日までに4隻を撃沈2隻拿捕という戦果をあげたエムデンは修理と休
養、補給のため10月9日にチャゴス諸島のディエゴ・ガルシアに寄港した。そこで休養した
エムデンは15日から3度目の通商破壊に乗り出した。今度もエムデンはモルジブ沖で猛威を
振るい、19日までに5隻を撃沈し、2隻を拿捕した。約40日間でエムデンは22隻の船舶
を撃沈もしくは拿捕するという戦果を挙げている。しかもその間にマドラスを砲撃するという
快挙もしている。
こうしたエムデンの活躍は全世界に報道され罵声と喝采が浴びせられた。罵声は敵国で大き
かったが、それらの国でも喝采の方が罵声よりも大きかった。これはエムデンが国際法を遵守
しフェアに戦ったからで、後のUボートのように無差別に攻撃したからではなかったからだ。
エムデンに積み荷が拿捕されたイギリスの石鹸会社は我が社の石鹸はエムデンでも使われてま
すと広告に出しているほどだ。
いまや全世界が注目したエムデンは進路を西に向け、ペナンを目指した。ミュラーはペナン
を攻撃してマラッカ海峡の船舶通行量を低下させようとしたのだ。しかし、ペナンには敵艦が
いる可能性があった。ミュラーは攻撃目標を敵艦に定めた。
10月28日、エムデンはペナンに出現した。1隻のボートが近づいてきたが彼等は来港し
た艦が4本煙突だったのでこれをイギリス艦と誤認した。午前4時50分、エムデンはペナン
に入港し、ロシア巡洋艦ゼムツークを発見した。午前5時18分、エムデンはゼムツークへの
砲雷撃を開始した。相互の距離は300mで魚雷も砲弾も敵艦に命中した。ゼムツークも反撃
したが、命中弾を与えられなかった。反対側の魚雷を使うため反転したエムデンは再び魚雷を
発射してゼムツークを撃沈した。敵艦の撃沈に成功したミュラーは今回もさっさと引き揚げる
ことにした。ペナンにはフランスの駆逐艦も停泊しており、さらに港外にはもっと強力な艦が
いる可能性があったからだ。この退避の途中、エムデンはフランス駆逐艦ムースケと遭遇して
これを撃沈した。ペナンを去る際、エムデンは「ワレイマぺなんヲサラントス。ようナキヤ」
という通信を送っている。大英帝国の威信はまたしても地に落ちた。
たった1隻で何度もイギリスに煮え湯を飲ませたエムデンだったが、そんな彼女にも最期の
時が訪れようとしていた。無事にペナンを脱出したエムデンだったが、イギリスはこの忌々し
い敵艦を仕留めるため同盟国の艦船も動員してエムデンを捜索した。だが、広大なインド洋を
1隻で行動するエムデンを発見するのは極めて困難であった。
しかし、思いがけない幸運がイギリスに降りかかった。11月9日、エムデンがココス諸島
のディレクション島に現れたという通信が入ったのだ。ディレクション島にはイギリスの通信
中継基地があり、ミュラーはイギリスを混乱させるためこの施設を破壊しようとしたのだ。島
から救援を要請する無電が発せられそれに応じる艦船があったことはエムデンも傍受していた
が、無線員は敵艦の位置を250海里離れた海域だと判断してしまった。実際は50海里の地
点にいたのだ。
そうとは知らないミュラーは作戦が順調に行ってると判断して甲板で祝勝会の準備を始めた。
午前9時、北方の海域から煙が見えた。エムデンの乗組員は先に無電で呼び寄せた石炭運搬船
ブレスクだと思ったが、それはブレスクではなくオーストラリアの防護巡洋艦シドニーだった。
エムデンよりも新しいタウン級の新鋭艦である。主砲も15.2pとエムデンの10.5p砲
よりも強力であった。しかも、エムデンは攻撃部隊を上陸させるために停船したままですぐに
高速を発揮できる状態ではなかった。そのうえ、上陸部隊や石炭運搬船に人員を割いていたの
で各部署で人員が不足していた。それでもエムデンはこの強力な敵艦に勇敢にも戦いを挑んだ。
しかし、エムデンの砲撃は命中してもシドニーの重要部を破壊することができなかった。逆に
シドニーの砲弾はエムデンの電信室や主配電盤を吹き飛ばし、射撃指揮装置を使用できなくし
た。さらにシドニーが優速を活かして距離を取りアウトレンジから攻撃したことでエムデンの
勝ち目はなくなった。反撃しようにもエムデンの砲弾は敵艦に届かないのだ。
午前11時15分、エムデンは珊瑚礁に乗り上げ機関を停止した。シドニーはなおも砲撃を
続けたが、付近にいたブレスクを拿捕するため一旦その場を離れた。午後4時頃、シドニーは
自沈したブレスクの乗員を乗せて再び姿を現し鉄屑同然のエムデンに砲撃を再開した。まだエ
ムデンに戦闘旗が掲げられている事への措置だった。戦闘旗が降ろされるとようやくシドニー
の砲撃も止んだ。エムデンの乗組員は捕虜となってシドニーに乗艦した。こうしてインド南部
のタミル語にその名を残した武勲艦の航海は幕を降ろした。
エムデンの航海は終わったが、島に上陸していた陸戦隊の旅は終わっていなかった。彼等は
島を脱出すると東インドまで行き、そこからドイツ船舶に乗り込んでインド洋を横断し、アラ
ビアを経由して敵対勢力や病原菌と戦いながらドイツ地中海艦隊司令官が待つハイダル・パシ
ャに到着した。出迎えた提督達の前で彼等はエムデンの軍艦旗を掲げて見せた。海外の巡洋艦
部隊で軍艦旗を掲げて帰還できたのは彼等が最後であった。
エムデンの活躍に気をよくしたのかドイツ海軍は25年後の第2次世界大戦でも水上艦によ
る通商破壊を開始したが、エムデンのような伝説が残ることはなかった。伝説とは人がその持
てる能力をフルに発揮して困難を乗り越えてこそ生まれるものであり、レーダーや航空機が発
達した近代戦では伝説が生まれる余地はなかったのである。
エムデンが伝説になったのはたった1隻で連合国を翻弄し、多数の艦船と基地施設を破壊し、
そして何よりも紳士的に戦ったからであった。だからこそエムデンは敵国でも賞賛されたのだ。
エムデンの航海は海のロマンでもあった。これ以降、敵兵を大量に殺戮する兵器や都市への無
差別空爆の登場で戦争は悲惨さしか語り継がれることがなくなり、戦場のロマンといったもの
が生まれることはなくなった。第1次世界大戦は毒ガスや塹壕戦など戦場が悲惨を通り越した
凄惨な状況になっていったのと同時にエムデンなどの伝説が生まれた最後の戦争となったので
ある。
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