大国の板挟みとなった中立国の忍耐と苦悩
その他の国の第二次世界大戦

 
【フランス】 【スイス】 【スウェーデン】 【スペイン】
 【フランス】   1940年5月10日に始まったドイツの西方攻勢は、6月17日にフランス政府が戦闘停止の声明を発表したことでドイツの大勝利に終わった。  実際は戦闘開始3日後で、フランスの敗北は決定的となっており戦前には誰もが予想しなかった結果となってしまった。ドイツのヒトラー総統は、  ドイツ国民(そして自分自身の)の復讐心を満たすため前大戦で休戦協定の締結に使われた食堂車をわざわざ用意させて、そこで6月22日に休戦  協定に調印した。   だが、一方でイギリスという大敵が残っていて、さらにソ連という潜在的な敵国が背後にいる状況でフランスを完全に屈服させて敵愾心を煽るこ  とは得策ではないとしてヒトラーは、フランスに独立国としての面子を保持させたまま親独的な中立国としておくことにした。しかしながら、休戦  協定に調印したドイツとフランスの関係は当然ながら対等ではなく、フランスは3分の2の国土をドイツの占領下に置き、海軍を除く兵器をドイツ  の要請があれば即座に引き渡すことを承諾させられた。他に陸軍の兵員を10万人以下に制限され、被占領地域のドイツ軍駐留費用の全額負担など  も定められるなど、フランスをドイツの属国と見做すような屈辱的な内容だったが、フランスには受諾する以外の選択肢は残されていなかった。そ  して、第1次大戦の英雄アンリ・ペタンを首班とするフランス政府は7月2日にヴィシーに移動して3日後の議会で国家再建と新憲法発布の全権限  を与えられ新たなる一歩を踏み出した。   祖国を蹂躙され屈辱的な休戦を結ばされたフランス国民はさぞドイツに対する敵愾心を高めただろうと思われたが、事実はまったくの正反対だっ  た。戦前からフランス国内には厭戦気分が充満していて、それはスペインやチェコスロバキア、ポーランドといった盟邦を見捨てる原因になってい  た。戦争が始まってからも、前線に配備された兵士の中には銃で自分を傷つける者が続出する有様だった。当時のフランス国民は、自分たちが積極  的にドイツと事を構える必要は無いと考えていたのだ。さらに、7月3日にアルジェリアのメール・エル・ケビール軍港がイギリス海軍の攻撃を受  け、戦艦ブルターニュ以下の多数の艦艇と1297人のフランス兵が犠牲になる事件が起こるとフランス世論は一挙に反英親独に傾き、フランス政  府は翌日にイギリスとの断交を宣言した。   7月11日、フランス南部の温泉保養地ヴィシーにおいてフランス共和国(レピュブリク・フランセーズ)はフランス国(エタ・フランセ)と国  名を改めて新政権を発足させた。ヴィシーに首都がおかれたことから、ヴィシー政権あるいはヴィシー・フランスと呼称される。フランスにはまだ  リヨンやトゥールーズといった大都市が残されていたが、政治的・党派的しがらみが薄い事や温泉地であるためホテルが多数あることからヴィシー  が首都に選ばれた。当時、フランス政府はイギリスも直にドイツの軍門に下り戦争が終わると考えており、ドイツに対して協力的な態度を示せば戦  後の欧州世界でドイツに次ぐ第二の大国の地位にフランスを押し上げることも不可能ではないと楽観的な見通しを持っていた。だが、ヒトラーは彼  らが思っているほど甘い男ではなかった。   先に結ばれた休戦協定でフランスはドイツが占領している地域の費用を全額負担することとされていたが、その時は具体的な数字は記されていな  かった。8月8日になって、ドイツは占領経費として1日4億フランを6月25日に起算して10日ごとに前払いすることを通達してきた。フラン  スの試算では4億フランは1800万人の将兵を賄える金額であり当然ながら抗議した。だが、未だドイツに囚われている150万人の将兵の安全  を考えると、強硬に反対することもできず26日に支払いを了承した。さらに、ドイツのリッベントロップはアベッツ駐仏大使にフランスを分断し  て国力を弱めよと命令して、右翼団体に資金援助してフランス政府に圧力をかけさせ、被占領地域と非占領地域の境界線の規制を9月13日から強  化して、ごく一部の人間以外の往来を禁じた。このことはフランス国民の将来に対する甘い夢をぶち壊したが、イギリスとの関係を断ったフランス  にはドイツと協調していくしか道はなかった。   一方、徹底抗戦を主張してイギリス軍とともに大陸を脱出したド・ゴール率いる自由フランス軍はフランス領の赤道アフリカを支配下に置くと、  次にイギリス軍と合同で西アフリカのダカールに向かった。8月28日にその事を知ったヴィシー政府は独伊両国の許可を得て、巡洋艦3隻と駆逐  艦3隻をトゥーロンからダカールに向かわせた。本国から増援を得たダカールのピエール・ボワソン総督は、9月20日から数日間敵の艦船に砲撃  を加えこれを撃退することに成功した。さらに、ヴィシー政府は独伊の了解を得たうえで24日と25日に報復としてイギリス領ジブラルタルを空  爆して爆弾600トンを投下した。   この一連の出来事は、ヴィシー政府内にイギリスへの反発を再燃させることになった。それと反比例して親独的空気が強くなってきた。ラヴァル  副首相兼外相は9月24日にアベッツ大使と面会して、フランスもイギリス打倒に貢献したいと申し出ている。ペタンも10月11日のラジオ演説  で暗にドイツがフランスと早期講和を結べばフランスはドイツに悪いようにはしないといったことを匂わせる演説をしているが、その思いがドイツ  側に届くことはなかった。10月22日と24日にラヴァルとペタンはそれぞれモントワールでヒトラーと会談しているが、フランス側が望んでい  る早期講和と植民地保全についての明確な回答は先送りされた。イタリアのムッソリーニ首相との会談でヒトラーは、イタリアのフランス領チュニ  ジアへの領土的野心と復活したフランスのイタリアへの報復に対する懸念を伝えられていた。   こうしたドイツの煮え切らぬ態度は、あくまでも中立にこだわるペタンの姿勢に原因があるとしたラヴァルは政府内での発言権を強化しようと画  策したが、そのことはペタンらに警戒心を抱かせラヴァルはクーデターを企てたとして12月13日に罷免されて自宅軟禁となった。   親独派のラヴァルの失脚は当然のごとくドイツ側の反発を招いた。後任のフランダンはドイツに信任されず、メール・エル・ケビールでイギリス  と戦ったフランソワ・ダルランが翌年2月10日付で副首相兼外相に就任した。ダルランは未だ無傷な海軍や植民地が持つ戦略拠点としての価値が、  ドイツとの講和交渉で切り札になると判断していた。4月にイラクで親独派のクーデターが発生すると、ヒトラーはこれに興味を示しヴィシー政府  が支配するシリアに目を付けた。こうして、双方の思惑が一部合致して5月11日、ダルランはベルヒテスガーデンでヒトラーと会談して28日に  パリ議定書に調印した。これによって、フランスはシリアの飛行場と軍需物資をドイツに提供する代わりに、ドイツ軍の駐留費を1日3億フランに  引き下げてフランス軍捕虜を8万人釈放することが取り決められた。こうした対独協力を続けていけばフランスに少しでも有利な条件で講和が結べ  るとダルランは国民に説明したが、事態はそう都合よくは進まなかった。独仏の接近を知ったイギリス軍が5月14日にシリアの飛行場を爆撃して  6月8日に自由フランス軍とシリアに侵攻すると、ダンツに率いられた現地のフランス軍は抗しきることができず7月14日に降伏してしまった。  さらに同じ日、日本が南部仏印への進駐許可を現地の総督府に要請するなどヴィシー政府の海外領土が少しずつ奪われていくことに政府首脳は焦り  を感じ始めた。だが、6月に独ソ戦が開始されると独仏講和が早期に締結される可能性は消滅し、ヴィシー政府はただ指を銜えて事態の成り行きを  見守るしかなかった。   戦争の拡大と長期化でドイツ軍のフランス駐留が恒常化してくると、当然フランス側の負担が増えることになった。1942年のフランス政府の  国家予算が約1420億フランなのに対し、同じ年にドイツに支払われた駐留費は1690億フランに達していた。また、ヴィシー政府が統治する  フランス南部の国民は、ドイツが占領するフランス北部からの物資を輸入しなければならない不便さを強いられていた。さらに、そこへドイツの圧  力によって1942年4月19日に首相職に就任したラヴァルが、6月22日の独ソ開戦1周年記念の演説でドイツの勝利を期待すると明言して、  ヴィシー政府の方針が中立から転換したことを明らかにしたことで国民の不満が一挙に増大した。フランスから搾取するだけで一向に自分たちの誠  意に応えようとしないドイツにフランス国民の不信感は増すばかりであった。しかし、まだこの時点では曲がりなりにもヴィシー政府には主権が残  されていた。だが、11月8日の連合軍によるトーチ作戦でアルジェリアが戦場になると、ヴィシー政府は重大な岐路に立たされることになった。  ダルランに率いられたヴィシー政府に忠実な現地のフランス軍は、連合軍に激しく抵抗して663人の戦死者を出させた。だが、長期的に勝ち目は  無いと判断したダルランは連合軍と交渉して、自身の権威の保証を条件にモロッコとアルジェリアを連合軍に明け渡した。両軍は11月11日に停  戦して、ダルランは米英の後押しで北アフリカ総督となったが、12月24日にアルジェで暗殺された。   北アフリカでのフランスの行動にヴィシー政府の忠誠心を疑ったヒトラーはアルジェリアで停戦が成立した同じ日に、フランス南部の地中海沿岸  を連合軍の侵攻から守るという名目で軍を進駐させた。これによって、フランス全土がドイツに占領され、接収を避けるためにトゥーロンのフラン  ス艦艇が自沈するという最悪の事態になってしまった。植民地と海軍という外交上の切り札を失ったヴィシー政府に、ドイツは12月15日に駐留  費を1日5億フランに値上げすることを通告した。トーチ作戦の成功で北アフリカの枢軸軍が東西から挟撃される状況に陥り、翌年の2月に東部戦  線でソ連軍に包囲されていたスターリングラードのドイツ軍が降伏すると、今次大戦がドイツの敗北で終わるという可能性が現実味を帯びてくるよ  うになり、閣僚の中からは連合国に鞍替えすべきではと言う声があがったが、ペタンは中立という政権発足以来の基本方針に固執することを選択し  た。   ペタンが従来の方針を維持することを決めたことで、ヴィシー政府はドイツの占領統治を行政面で補佐するだけの機関に成り下がってしまった。  1943年2月にドイツがフランスの労働力をドイツの軍需工場に供出させる『強制労働徴用』の開始を要求して、159万人(志願者4万人、強  制徴用65万人、捕虜からの転用90万人)のフランス人をドイツ各地の工場に送って強制労働に従事させ、1942年3月24日から1944年  8月17日にかけてフランス国内のユダヤ人をポーランドのアウシュヴィッツに連行した時も、ヴィシー政府はフランス国内で行われたこの行動に  何の干渉もしなかった。当然、こうしたヴィシー政府の弱腰はヒトラーやドイツ政府のフランスへの感情をそれまで以上に侮りと軽蔑に傾かせるこ  とになり、敗戦に打ちひしがれたフランス国民に将来への希望をもたらすと期待されたヴィシー政府は政権樹立から3年ほどでドイツにただ迎合す  るだけの行政府となってしまった。ヒトラーはフランスの扱い方について次のように述べている。「人望のあるペタンを一種の亡霊のようにして、  我々の側に置いておかなければならん。それがしぼんできたら、ラヴァルを使って時々膨らましてやればいい」   ヴィシー政府が樹立され対独協調という基本方針が示されると、フランス国民の多くはドイツによる『富の収奪』に忍耐強く我慢しながらもそれ  を支持した。第1次大戦の英雄であるペタンを信じてまた期待していたのだが、ペタンの戦功を知らない若い世代や長年の宿敵であるドイツに対す  る屈服を快く思わない御年輩のフランス人たちは、自分たちの手で祖国の独立を勝ち取ろうと考え行動することにした。しかし、この時点では個人  あるいは小集団による散発的な抵抗行動に終始しており、一般大衆からの広範な支持も得られなかった。   こうした状況も1942年以降にヴィシー政府が親独姿勢を強めていくと、ドイツの占領政策に反発するフランス人がレジスタンスに身を投じる  ように変わった。元々、フランスでは18世紀末に革命を起こして王制を倒した過去があり、暴君の圧政に対する抵抗の歴史があった。1793年  6月24日に制定されたフランス憲法の権利宣言第35条には、政府が人民の権利を侵害した時は、反乱は人民の最も神聖な権利であり最もかけが  えのない義務であると明記されている。   とはいっても、1942年末の時点で7万人ほどの勢力に成長したレジスタンスも多数の小集団に分かれており、指揮系統の不統一という重大な  欠陥を抱えていたために思うような成果が上げられずにいた。敗戦時にウール・エ・ロワールの県知事だったジャン・ムーランは、自身がドイツ軍  から暴行と拷問を受け一時は死を覚悟した経緯から、ドイツによる占領政策の実態を思い知ることとなり、1940年11月に県知事を解任される  や渡英の準備に取り掛かって、翌年の10月20日にポルトガルのリスボン経由でイギリスに渡った。彼はそこで亡命政権『自由フランス(42年  7月に戦うフランスに改称)』の指導者ド・ゴールと会談して、自由フランスの指揮下に全レジスタンス組織を編入するという構想を話し合って、  1942年1月1日の夜にイギリスの輸送機で南フランスのアルピルにパラシュートで降下した。   帰国したムーランは、レジスタンスのリーダーと接触して会談を重ねたがどのリーダーもド・ゴールを指導者にすることに難色を示した。地道に  地下で抵抗活動をしてきた彼らには国外に逃亡して安全なイギリスから居丈高に指示を送るド・ゴールに対する猜疑心と反発があったのだ。しかし、  ムーランの粘り強い説得によって1943年5月27日に、ムーランを初代議長とする『全国レジスタンス評議会(CNR)』の第1回目の秘密会  合がパリのデュ・フール通りに面した建物の一室で開催され、これにより共産党系のFTPを除く主要なレジスタンス組織が自由フランスの指揮下  に入った。   だが、フランス国内のレジスタンス組織をまとめ上げた最大の功労者であるムーランは1ヶ月後の6月21日、リヨン郊外のカリュイールで同志  8人とともにゲシュタポに逮捕され、ドイツに移送中の7月8日にメスで死去した。その間、凄惨な拷問が加えられたが、ムーランは組織や仲間に  ついて一切口を割らなかったという。   ゲシュタポやドイツ軍憲兵によるレジスタンス狩りはラヴァルの黙認の下に活発に進められた。ゲシュタポの執拗な捜査で、多数のレジスタンス  指導者が逮捕・殺害され、レジスタンスを匿っていると疑われた村々では見せしめのための処刑が繰り返し行われていた。さらに、ヴィシー政府の  後押しで1943年1月30日に組織されたミリス・フランセーズ(フランス民兵団、団長のジョセフ・ダルナンはナチスの信奉者)も、それに加  担して彼らだけで3万人を下らないレジスタンスが殺害されている。だが、スターリングラード以降のドイツの敗勢や前述した強制労働徴用でレジ  スタンスに参加するフランス人の数は増える一方であった。   CNRの創設でフランス国内のレジスタンス組織を指揮下に置き、政治的発言力を高めたド・ゴールだったが、その独裁者的資質による強権的か  つ尊大な態度はスポンサーである米英にも快く思われていなかった。特にアメリカのルーズベルト大統領はあからさまにド・ゴールを嫌っていたと  いう。イギリスのチャーチル首相も自由フランスから距離を置くことにして、解放後のフランスの指導者は自由フランスのアンリ・ジロー将軍にと  考えた。彼は、ド・ゴールがいずれ自分たちの意向に反する行動に出る可能性があると危惧していたのだ(そして、事実そうなった)。だが、その  ことを知ったド・ゴールは北アフリカにいるジローのところに飛んで、1943年6月2日に二人を中心とする自由フランス国民解放委員会を樹立  して11月9日に議長に就任した。ド・ゴールの目的は単に祖国の解放だけではなく、それ以後のフランスの指導者になることだった。そのために  1944年2月1日にド・ゴールはレジスタンスをフランス国内軍(FFI)に編入してより厳密な指揮系統の一本化を実現させた。   徐々にそれまでの非正規軍的性格から、参謀組織の整備や小隊や連隊などを単位とする部隊の再編などで正規軍に近い組織となったレジスタンス  は連合軍にとって非常に有効な戦力となった。1944年6月に予定されていたノルマンディー上陸作戦を成功させるには、ドイツ軍の兵力規模や  砲台や障害物などの詳細な配備状況の情報の獲得と、上陸作戦前後のドイツ軍の移動の妨害が必要であった。レジスタンスは鉄道や通信設備を攻撃  してドイツ軍の鉄道運行を麻痺させて兵力の移動を阻害したり、ノルマンディーのドイツ軍の配置を詳細に記した地形図を盗み出したりして連合軍  を喜ばせている。こうしたレジスタンスの後方撹乱によって連合軍の上陸作戦は大いに助けられ、橋頭保を確保するまでの上陸作戦で一番危険な時  間を乗り切ることができた。一方のドイツ軍は鉄道が攻撃されたことによって迅速な移動ができずに増援部隊が前線に到着した時にはすでに時遅し  だった。   ノルマンディーの成功でドイツの敗北は決定的となり、フランスの主権回復も確実となったが、ド・ゴールにとって自分がその指導者になれるか  どうかが大問題だった。8月19日にパリでロル・タンギーに率いられた共産党主導の一斉蜂起によって市内の一部がレジスタンスに確保されると、  翌日にド・ゴールはアイゼンハワー連合軍欧州最高司令官に自由フランス軍によるパリ解放を要望した。パリに進撃する気が無かったアイゼンハワ  ーだったが、共産党によるパリ解放によって戦後のフランスがド・ゴール派と共産党勢力による主導権争いが生じることが確実と判断して、米英両  政府に了解を取った上で自由フランス軍のパリ入城を承認した。   1944年8月25日、自由フランス軍第2機甲師団がパリに入城した。すでに、ドイツ軍の防衛態勢は先日の一斉蜂起でボロボロになっていて、  指揮官のコルティッツ歩兵大将はヒトラーのパリ破壊命令を無視して降伏した。その翌日にはド・ゴールがシャンゼリデ大通りでパレードして、祖  国への凱旋を果たした。しかし、CNRと共産党系のパリ解放委員会の代表者はゲストとして参列を認められるにとどまった。さらに、CNRのビ  ドー議長に対してド・ゴールは会見を後回しにしたばかりか、握手を拒否した上にパレードでは「一歩下がりたまえ」と言い放った。戦後の主導権  獲得を狙うド・ゴールにとって、レジスタンスの有力幹部たちは『今日の友は明日の敵』でしかなかったのだ。だが、そんなド・ゴールの他人の功  績を認めない自己中心的な行動に反発するレジスタンスの中には自由フランスと対立する者も現れ、戦後の共産党との権力闘争に敗れたド・ゴール  は一時、表舞台からの退去を余儀なくされるのであった。   当時のフランス国内には『反独派』『親独派』『厭戦派』の3勢力があり、そのうち後者2つがヴィシー政府の支持者だった。だが、1944年  8月のファレーズ包囲戦で多数の戦力を失ったドイツ軍にフランスを占領している余力はなかった。ドイツ軍が荷物をまとめて実家に帰ると、残さ  れたヴィシー政府には崩壊の道しかなかった。8月20日、ペタンはドイツ軍に連れられて祖国を離れ、ドイツ南部のジグマリンゲンにある古城に  移った。   戦後になって対独協力者に対する裁判が開かれることになった。これは戦時中に親独派によって弾圧された反独派の報復という一面もあるが、フ  ァシズムを打倒することによって連合国が戦後の世界をリードすることになった状況の中で、フランスが一定の発言力を持つには事情がどうあれ敵  に協力した者たちを裁かないわけにはいかなかった。ペタンは1945年8月15日に死刑判決を受けたが、二日後に89歳という高齢を理由にし  て終身禁固に減刑された。後にド・ゴールはペタンについてこう語っている。「あの人も、ダルランの代わりにアルジェリアに向かっていれば、白  馬に乗ってパリに凱旋することもできたのに」 ド・ゴールとペタンはかつて部下と上司の関係で、戦前ペタンはド・ゴールを高く評価していた。  ペタンに対する恩赦には人道的見地からという理由付けがなされたが、もしかしたら立場や方針は違えど同じ祖国の困難に立ち向かった者としてド  ・ゴールの脳裏にかつての上官に対する深い尊敬の念があったのかもしれない。1951年7月23日、ブルターニュ地方のユー島でペタンは生涯  を閉じた。戦後のフランスで否定的に語られるヴィシー政府だが、戦後に活躍する政治家の中にはフランソワ・ミッテランのように戦時中にヴィシ  ー政府の下で働いていた者もいた。  【スイス】   中立といえば、戦争に巻き込まれずに平和を維持できると思いがちだが、戦争当事国には中立国に攻め込むのに『保護占領』という口実があった。  例えばドイツの北欧侵攻の場合なら「中立のノルウェーとデンマークを英仏の侵攻から守るため」という口実で中立国が侵略を受けている(実際、  英仏が先に手を出したのだが)。   第一次大戦後、戦争を抑止するはずだった国際連盟が実際には列強の侵略に対して無力であることがはっきりしたことで、集団安全保障による平  和維持への期待は失われてしまった。国際社会による保護が期待できないことが明らかとなったため、中小諸国は自分を守るための方策を考えねば  ならなかった。ポーランドやチェコスロバキアはフランスを頼ることにしたが、1938年に国際連盟を脱退して『制限中立』から連盟に加盟する  前の『絶対中立』に方針を戻したスイスは独力で国土と国民を守る選択をした。   1939年8月29日、6日前に締結された独ソ不可侵条約とそれから間もなくしてドイツ軍がポーランド国境に集結しつつあるとの得たスイス  政府は、ついにドイツが武力侵攻に踏みきったと判断して国境警備隊その他関連部隊に召集をかけた。これは、総動員令の発令に先駆けて動員兵の  配置や集結を円滑に実施するためである。翌日には、上院・下院による臨時合同議会が開かれ、連邦政府に対して有事の際の全権(憲法に縛られる  こともない)を与えること(これにより翌日に連邦政府は世界40ヶ国に戦争に突入した時の厳正中立を通告)、総動員令発令によって召集される  陸軍の最高司令官を決定する『将軍選挙』の実施が決まって選挙の結果、軍団長大佐のアンリ・ギザンが投票総数229票のうち204票を獲得す  るという圧倒的大差をつけて、左派政党推薦の師団長大佐ユーレス・ボレルを破ってスイス陸軍第4代将軍に選出された。   9月2日、すなわちドイツ軍がポーランドに侵攻した次の日にスイス陸軍は動員令を発令して戦闘員43万人と補助である非戦闘員20万人を動  員した。事前の準備が功を奏して7日間で配置を完了することができた。戦争がやがて『まやかし戦争(あるいは奇妙な戦争、花戦争、座り込み戦  争)』と呼ばれる対峙状態が長期化すると、動員された兵たちも順次召集が解除されていった。   スイスは中立国であるため、兵の配置はどうしても全方位均等にならなければならないのだが、実際問題それが非常に厄介なことであるのは明ら  かであった。さらに、ギザンに発せられた連邦政府の訓令に「国家の独立を保持し、領土の不可侵を守る」というのがあるが、「領土の不可侵を守  る」とは国境線をも死守せよということなのかがよくわからない。1940年の夏に、ギザンは『砦の戦略』という国内要地まで撤退して防御に徹  するプランを立案しているが、絶対防衛ラインたる要地と前衛区域を設定することはこの訓令に反するのか疑問を抱かればならなかった。   しかし、自国よりも強力なポーランドがわずか4週間でドイツの軍門に下ったことを考慮すれば、地の利を活かした戦い方以外に国家防衛の方策  はなかった。そこでギザンは、リヒテンシュタイン公国に面した位置のサルガンス要塞からチューリヒを経てバーゼルにかけてのラインを北方すな  わちドイツからの侵攻の防衛線とした。これは、サルガンスから西にワーレン湖、チューリヒ湖、リマット川、ジュラ山地、ゲンペン高地と自然の  障壁が連なっていたからで、防御の拠点はアーレ川下流とリマット川からドイツ側に面する位置とされ主力の3個軍団が配置されることとなったが、  これにより北東部のチューリヒやシャフハウゼンほかのドイツ語圏の諸州が防衛の重点から外されることになり、当然ながらそれらの諸州から批判  が浴びせられた。とはいっても、国境線が突破されたら即スイスの敗北、被占領という事態を防ぐためにはやむを得ない布陣だった。   当初、ドイツだけでなくフランスからの侵攻も考慮した西方防御も二プランほど練られ、これに従った陣地の構築も着手されていた。英仏連合軍  がノルウェーの港を機雷で封鎖した事例を考えたら杞憂とも言えなかったが、予想外にフランスが敗北するのが早かったのでやはり杞憂だった。で  も、1942年にフランス全土がドイツに占領されるとスイスは文字通り四方を枢軸陣営に囲まれた形になってしまったので、やはり西方防御も重  視せざるを得なかった。   1940年4月以降に戦火の拡大が本格化しはじめると、再度の総動員令が発せられて、国境警備の強化が図られた。また、国民に対しても連邦  警察の機能が強化され、祖国防衛に関する報道も統制が図られる一方、右翼団体の活動は禁止され、自由な集会活動も制限された。   スイスは中立国であるため、外国で戦争する機会は皆無である。他国では平時において軍と一般家庭は離れた間柄であり、有事における両者の接  近は不自然な形で図られるが、スイスにおいては軍隊活動が一般家庭と近いところでも行われていた。国民皆兵の国であるため、国民の国防に対す  る意識は非常に高いものとなっている。   1939年11月、ギザンは動員された将兵の緊張感を維持・継続させるため総司令部隷下に『軍隊と家庭部』を設けた。これは、守るべき家庭  との距離を縮めて緊張感をほぐすのと、国民と軍隊の連帯感の醸成や相互理解を図ったもので、前述したように外地での戦闘が考えられず実際には  いつ起こるかどうかもわからない侵攻に対処できる緊張感の維持を求められるスイス軍においては不可欠なものだった。しかし、これは当然でもあ  るが、兵と市民の接近は単なる理解と信頼を促進させることだけが目的ではなく、親ナチス、スパイ、売国主義者の摘発や敗戦思想家の監視なども  目的とされた。この部が新設された時期はまやかし戦争という膠着状態が続いていた時期で、ドイツ国内ではスイス人によるヒトラー暗殺事件が喧  伝され、フランス軍による予備的スイス侵攻の噂が流れていた。   だが、スイスにとって怖いのはやはりナチス・ドイツだった。1938年からナチスのユダヤ人迫害が強化されて、ドイツから逃れるユダヤ人が  激増したが、その年の9月からスイスではユダヤ人入国者のビザに赤いJマークを刻印して入国制限が強められることになった。このビザを持った  者の入国を認めたのはイタリアぐらいで、ユダヤ人たちはスイス国外に出てもナチスの摘発からは逃れなくなってしまった。無論、スイスにもユダ  ヤ人を救おうとした人もいたが、それは例外的な存在だった。   なぜ、スイスにおいてナチス協力と批判されても文句が言えないようなことが行われていたのか。それは大戦初期においてスイス(これは他の中  立国も同様だが)ドイツとの貿易の維持が中立の継続に直結していたからだ。   アルプス山脈よりも高い高度を飛行できない飛行機に対する不信感からスイスでは航空機に何の関心も示さなかった。しかし、1910年9月3  日(23日?)にジェオ・シャヴェーズがブレリオ単葉機で高度3000mはあるシンプロン峠を越えると事態は変わった。飛行機が兵器となった  ときの国防政策の見直しが必要となったのだ。陸軍航空隊たる『パイロット隊』が編成され、航空機工場も設置された。なお、シャヴェーズはその  ときの事故が元で死亡している。   そうしてスイスでも航空戦力が整い始めたが、ギザンが最高司令官に就任した時点になっても質・量ともにお寒いものだった。大戦間のスイスに  は自国での航空機の開発・生産が禁止されているドイツのドルニエ社と、自国ではなかなか注文が取れず航空機メーカーとして行き詰まっていたフ  ランスのドボアチン社があった。ドルニエ社はボーデン湖を挟んで対岸のアルテンラインにスイス・ドルニエ社を興して、十二発の超大型飛行艇D  oXとユーゴスラビアに輸出するDoY爆撃機を製作している。これらに航空機は当時のジェーン航空年鑑にスイス機として紹介され、ドルニエ社  もスイスの航空産業に分類されている。ドルニエ社はドイツで再軍備が始まると里帰りしたが、スイス・ドルニエ社はドイツの練習機やモランソル  ニエのMs406戦闘機のライセンス生産に従事し、ドフルク社となってからは純国産の戦闘機の開発・生産に携わった。一方のドボアチン社はD  27戦闘機を開発(量産はスイス国営のEKW社)している。それとオランダのフォッカー社からライセンス権を購入したC・V偵察機やこれを近  代化したEKWのC−35多用途機が第二次大戦勃発時のスイスの主力航空機となっている。こういった軍用機の燃料や重工業の操業に欠かせない  金属材や石炭などの戦略物資を、スイスは主にドイツから購入しているのだ。   ドイツとフランスからの技術流入で、スイスの航空工業は育成されていったが、いかんせん旧式機ばかりでは何とも心許ない。やはり、英独の最  新鋭機が欲しいところ。ちょうどいい具合にナチスが政権を握ったドイツが国産軍事技術のデモンストレーションに熱心で、1937年のチューリ  ヒでの国際飛行競技会で様々な高性能機を披露している。スイスが求めたのはその中でも最新鋭のメッサーシュミットBf109戦闘機なのだが、  ドイツからしたら友邦にもなりそうにない中立国のスイスに主力機を売るのはどうも…となるのは当然。それでも、大戦直前に購入の話がまとまり、  大戦が西欧に拡大する直前の時期にBf109の旧型Dと新型Eの合わせて90機がスイスに届けられた。スイスにとっては天の恵みのようなもの  だった。   だが、それによってスイスはどうしてもドイツとの貿易を重視せざるを得ず、1940年8月には独瑞通商協定を締結している。スイスからは、  高性能光学機器や武器類(スイスには零戦の20ミリ機関砲などで有名なエリコン社が存在)が大量に輸出され、イギリスに敵視されるようになり  後にそれが対スイス封鎖主義に繋がるのである。だが、スイスからしたら自国の安全を考えたら仕方の無いことだ。現に、同じ中立国のノルウェー  やデンマーク、低地諸国はドイツの侵攻を受けている。ただ単に『中立』を宣言したところで交戦国には何ら意味を持たないのである。特に、フラ  ンスが敗北してからはスイス国民にパニックを引き起こし、富裕層はドイツよりは穏やかなイタリアに近い南部やアルプスの別荘に退去し始めた。  動揺は将兵たちも襲い、政府にも大きな不安を与えた。大統領兼外相のピレ・ゴラは、ラジオ放送で「ヨーロッパの秩序は変わるかもしれない。そ  れでもスイスの伝統は維持しなければならない。しかし、変化にも応じるべきだろう」と玉虫色と受け取れる発言をしている。それ以外の言い方と  したら徹底抗戦か敗北主義しかなかっただろうが、防衛を預かるギザンにしてみたら戦局の推移で趣旨を変える日和見主義の演説ならば黙っていて  くれた方が有り難かったに違いない。   周囲が枢軸の色に染まりつつなってくると、ナチス寄りの団体の言動が目立つようになった。国を守る立場の陸軍でさえ、総動員を解除して交戦  の意思が無いことを示すべきとの意見が出る有様だった。そんなナチス迎合に傾きかけている世論に抗するかのように陸軍の極右過激派とされる秘  密結社『憂国三十七人組』が徹底抗戦の声明を発するも、ギザンによって処分された。ギザンも立場上そうするしかなかった。   周囲が戦火に包まれた状況下でいくら中立を叫ぼうとも完全に戦争と無関係とはいかない。領土を守るというスイス軍の任務には当然、敵に領空  を侵させないことも含まれる。1940年4月21日にドルニエDo17Zが単機で飛来したのを皮切りに、5月にもハインケルHe111が2度  ほどスイスの領空を侵犯している。このうち、ハインケルの方はBf109Eが撃墜しているが、イタリアが参戦した6月10日から枢軸陣営によ  る領空侵犯が相次ぐようになり、それから程なくして夜間にだがイギリス機も領空を通過するようになった。それに対し、スイスは領空外への退去  もしくは強制着陸命令に従わない不明機を撃墜することにしていたが、その迎撃部隊の根幹を成すメッサーシュミットは元々ドイツがスイスに売っ  てやったものである。ドイツにとっては面白くないことだったろう。   だが、ドイツが本気になればスイス軍の抵抗も空しいものになるのは目に見えていた。征服王以来の大陸からの侵略の危機に晒されるイギリスと  同様に、スイスも1499年のシュヴァーベン戦争でマクシミリアン1世の軍隊を退けて事実上の独立を達成(正式な独立は1648年のヴェスト  ファーレン=英語読みでウェストファリア条約)して以来の独立の危機に直面していたのだ。   スイス軍の現役は総動員下でも45万人しかいない。戦車も1935年にイギリスから購入したカーデン・ロイドM1934が6輌と1939年  にチェコから部品で買ってスイスで組み立てたPzW.29が24輌あるだけだが、スイスでは戦車が活躍する余地は少なかっただろう。そこで、  スイス軍が練りだしたのが『砦の戦略』というプランである。   フランスの降伏とイタリアの参戦で、東西国境からの侵略を想定していたそれまでの防衛戦略から南北からの侵略を想定した防衛戦略へと切り替  えられることとなった。スイスはアルプス山脈が横切っており、この険しい自然に主陣地を形成して陣地内の砦に分散して敵に山岳戦を強いる。砦  は空爆の効果が得られにくい場所に築かれた。さらに、枢軸側が欲しがるであろうアルプスを縦断する交通路を破壊することとされた。これは、敵  にスイスを侵略して占領する意味を無くさせるためである。歴史的にスイスではアルプスを越えて南北を往来する際に重要な峠には要塞が築かれて  いた。サルガンス、マティーニ、ゴタールである。補給や連絡を考えると、砦はこれらの要塞を中心に築かれることになる。   ギザンは、侵略の目的を削ぐこの戦略が最善と考えていたが、大きな問題があった。この戦略では前述した「領土の不可侵を守る」という連邦政  府の訓令に背くことになるのだ。防衛ラインの外側となる地域は侵略者を蹂躙を免れることはできない。そこで、ギザンは連邦政府に説明して了承  を得ることにした。  「枢軸国はイギリス本土占領が達成できなければ、次なる目標をアルプス縦断交通路の確保(=スイスの占領)とすることも考えられる。ただし、  枢軸国がスイスへの侵攻が長期化して損害と成果が見合うものではなく、戦争全体に悪影響を及ぼすと判断すればそのような事態は避けられるだろ  う」   このギザンの説明に連邦政府は渋々ながらも納得した。またギザンは軍隊と家庭部を活用して国民からの理解も得るように努めている。以上の経  緯を経て、7月17日に最初の作戦が発せられて9個師団と3個山岳旅団と軽装の3個旅団が前線陣地に配備された。他に陣地構築に訓練と、侵略  を想定した準備に余念は無かったが、やはり実際に侵略が無いことが一番だった。あの大フランスが再軍備が完了していないドイツ軍(宣言して5  年しか経過しておらず海軍にいたっては増強を開始した直後に開戦という有様だった)の前にああも簡単に一敗地にまみれたのを目の当たりにすれ  ば何事も無いことを願うしかない。   建国以来の危機に、臆病風や敗北主義、事無かれ主義に日和見という疾病が国中に蔓延している状況の中でギザンは、7月25日に大隊長以上の  幹部をフィーアヴァルトシュテッテ湖の南東にあるリュトリ草原に招集した。リュトリはハプスブルク家のフリードリヒ3世の怒りを買ったスイス  の原初同盟がこの脅威に対抗するため永久同盟の誓約を発した地とされる。ドイツの脅威が差し迫っている現状で将兵を引き締めるにはまさに打っ  て付けの地であろう。この指揮官会同で、ギザンは国防の意義を説き防衛戦闘についての持論を披露した。すなわち、敗北主義者の流言に惑わされ  る事無く自らの力を信じて鉄の意志を持てるならば、たとえ歴史的にも稀なほど強力で優秀な軍隊が迫ってきても、国土の防衛という歴史的使命を  達成できるだろうと。そして、そのための戦略である『砦の戦略』の説明も成された。   この指揮官会同に枢軸国は大使館を通して不快の意を表明した。その一週間後の8月1日の建国記念日にもギザンは訓辞を発しており、スイス軍  の士気を鼓舞したが、それは防衛責任者の徹底抗戦の決意表明と受け止められた、それは、枢軸国の恫喝に屈しないという意思の表明でもあったの  だが、逆に言えばスイスを言いなりにするには武力侵攻しかないということでもあった。   では、実際にドイツ軍はどの程度スイス侵攻を視野に入れていたのだろう。ドイツ空軍によるスイスの迎撃機基地に対する破壊工作は、すでに6  月初めにベルリンで練られており、ゲーリング空軍元帥は『ヴァルテゴウ作戦』の実施を命じた。工作員を鉄道でスイスに送り込んで、親ナチの現  地協力者と飛行場及びアルトドルフの弾薬工場でテロを実行するという作戦なのだが、計画段階で穴が多すぎたのとスイスの協力者が逮捕されて情  報が漏洩したため予定されたテロが行われることはなかった。   だが、ドイツ陸軍によるスイス侵攻作戦は、実際計画されてはいた。最終的な承認を行うヒトラーのところまで達しなかったことで、主要作戦か  ら外れてはいるが、伝統的にドイツ軍は作戦行動中(この場合は対フランス戦)でも任務達成後に行う次の作戦の計画・準備にとりかかる。スイス  侵攻作戦もスイスに近い部隊で各司令部の参謀たちが研究・計画に取り組んでいた。現場の部隊にとって次の作戦としてのスイス侵攻はあり得る話  だったのだ。   ドイツ陸軍参謀本部の計画した初期の作戦では、無抵抗でのスイスのドイツ軍進駐受け入れという希望的観測に基づくものだった。ドイツとして  もやはりラインラントに始まり、オーストリアやチェコで成功をおさめた無抵抗での武力進駐が望ましかった。しかし、すでにスイス領空でスイス  軍と小競り合いを繰り返し、あのパートタイムのスイス軍最高指導者ギザン将軍が徹底抗戦を訴えている現状では、戦闘は避けられないという判断  がなされ、8月上旬には陸軍総司令部=OKH作戦課の『楡の木計画』に差し替えられた。   『楡の木計画』は作戦課案の他にC軍集団で練られた案もあった。二つの案は、国境線を侵入する場所や占領地域は似ていたが部隊の編成が異な  っていた。検討対象となったC軍集団の案では、3個のグループからなる西方正面攻撃軍がレマン湖からバーゼルにかけての国境から侵入してベル  ンやオルテンなどをめざし、一部はレマン湖からローヌ川を上がって南方からのイタリア軍とともに内陸のスイス軍を背後から攻撃すること、2個  のグループからなる北東正面攻撃軍がチューリヒ、ルツェルン、サルガンスなどの内陸を目指すこととされた。また、イタリア軍の侵攻も想定して  おり、それは作戦課案も同様だった。他にも、侵攻前の展開にかかる時間を作戦課案の半分しかかけなかったり、スイスの協力者による通信妨害活  動なども考慮していた。   しかしながら、ハルダー参謀総長はスイス侵攻は奇襲作戦であるのに動員する兵力規模が大きすぎる(事前の部隊配置の秘匿が不可能)として、  動員兵力を削減して装甲師団と自動車化師団を多用することと手直ししたが、この計画がそれ以上前に進むことはなかった。実は、国防軍最高司令  部=OKWもヒトラーの指示でスイス侵攻を研究しており、スイス内の親ナチ活動の確証が得られないこと、イタリア軍との協同作戦は考えられな  いこと、スイス中部高原の占領は困難ではないがアルプスを縦断する輸送路・鉄道の喪失は避けられないことなど、やっても旨味のないとしてスイ  ス侵攻は本当に必要とされる時まで先延ばしとなった。   直接的な脅威は無くなったものの、連合の航空機も枢軸の航空機も無遠慮にスイス上空を通過し、その機の所属が判明するたびにギザンは厳重に  抗議した。戦争に参加するつもりがないスイスでは灯火管制が敷かれていなかったが、それはまだ夜間航法が未熟だった頃のイギリスの爆撃機にと  って格好の道標となった。すると、攻撃を受ける独伊からスイスを批判してきた。スイスからしたら暗くしちゃったら誤爆の危険があるという理屈  があるのだが、そしたら枢軸国側は迎撃ラインをスイス領空まで伸ばして時によっては発電所や送電施設に手を出すぞと手前勝手な主張してきた。  結局、灯火管制はライフライン確保と発電所や送電施設へのテロを防ぐため11月から敷かれることとなったが、これによってイギリス軍による誤  爆が起こるようになり、後にはそれを理由とした嫌がらせも起きるようになった。   こうしたスイス領空侵犯は1940年だけで708件に上り、国籍が確認されたのは枢軸軍152機と連合軍16機であった。翌年になると、単  機侵入の際は出撃が差し控えられるようになり、そのためかドイツ軍機による侵入回数も減ってきた。スイスが領空侵犯機に対する迎撃発進の実施  基準を緩和したのは、単機侵入の場合は迷子や帰還を急ぐ場合が多かったのと、スイスの空軍力ではあまりドイツを怒らせるのは得策ではないから  だ。   Bf109やモランソルニエのMs412を改造したドフルグD−3801迎撃機と近代的な全金属製単葉引き込み脚のEKWのC−3603複  座多用途攻撃機といった新型機は、数が少ない上に増やそうと思ってもスイスの工業力では列強みたいに大幅な増強は望めなかった。さらに、陸軍  のアンリ・ギザンが空軍も看なければならないことでもわかるように、スイスには航空防衛に関して専門的に指導できる幹部がいなかった。ギザン  も事前の防空対策が皆無だったと認め、終戦の翌年に連邦議会へ提出した報告書でこの不備を厳しく批判している。   1941年になって空の主戦場が英仏海峡から東のソ連に移ると、スイス上空も静かになってきてスイス軍の航空隊も一息つくことができた。そ  の間に、スイスの空軍組織は再編されそれまでの3機編隊からドイツみたいな2機編隊となって配属基地も変更された。だが、戦争の拡大とともに  ドイツ空軍は弱体化し、その替わりにイギリス軍さらには1941年末に参戦するアメリカ軍による領空侵犯や誤爆が目立つようになる。   スイスは連合にも枢軸にも加担するつもりはなかったが、連合はそうは見てくれなかった。貿易額がドイツの方が大きかったからである。国土の  半分以上をアルプス山脈に支配されているスイスでは、鉱物資源や農産物に恵まれず加工貿易や金融による経済が確立されるまでは傭兵事業に頼ら  なければならなかったという歴史があった。したがって、スイスが経済活動や国民生活を維持するには、戦時下でも両陣営との貿易を重視するしか  なかった。特に、ドイツとの貿易は国防の面からも重視され、兵器の生産や運用に必要な石油・石炭・鉄鋼などはドイツから供給され、スイスから  は光学機器や精密機械に武器といった物が輸出された。   1940年8月に締結されたドイツとスイスの経済協定には、連合国への輸出品にドイツの証明書を添える条件で、まだ占領下にない南仏の通過  を許可する代わりに独伊両国はスイス鉄道での輸送を自由にできる(+付帯条件・ドイツに1億5000万スイスフランのクレジットを与える)と  あった。これはイギリスやアメリカにとっては許されないことだった。だが、スイスとしても好きでドイツと付き合ってるわけではなかった。   元々、スイスの輸出額のシェアは独伊よりも英米の方が上回っていた。これが1940年から41年にかけて独伊が輸出入ともに急激に伸びて、  英米は目立って落ち込んだりする。その理由は、先の経済協定を容認できなかったイギリスが、自国が発行した証書がない船舶の輸送には安全を保  障しないと事実上の経済封鎖に出たからである。これにより経済面でのスイスのドイツへの依存度が増して、それを好いことにドイツはスイスにク  レジットの金額の増額を要求してきた。   また、スイスは有名なエリコン社製機関砲のライセンス権を世界中に売りさばいていたが、フランス敗北後はスイスを取り囲んだ独伊が武器類に  関連する品の英米への輸出を禁止した。この貿易統制により、英米からスイスに来る輸入品は食糧や農産品となり、スイスが英米に輸出できるのは  軍事とは無関係と認められた精密機械や特殊な機器ばかりとなった。これが、両陣営の対スイス貿易の輸出入額の差の理由だが、このことが英米の  スイスへの不信感を高めることとなった。英米はスイスがおかれていた厳しい状況を理解しなかった。   理解しなかったのは戦時中のスイスの貿易収支が大幅な黒字だったからである。さらに、ナチス要人の資産の隠し場所を提供したと見られたり、  アルプス山脈縦断トンネルの通過を独伊に認めたり(英米には認めようがなかったが)、ナチスがベルギーで掠奪した金塊と引き換えにスイスフラ  ン(先述のクレジット)を提供した問題など、英米のスイスに対する覚えは悪くなる一方だった。ちなみに、1944年中にスイスの輸出入額は英  米とドイツが逆転している。   経済面でドイツに良いようにされているスイスだったが、政治的外交的には絶対中立の意思を崩さなかった。特に国防責任者のギザンは徹底抗戦  も辞さない覚悟であった。その彼が意を注いだのが、国内のドイツ人スパイとナチス協力者の対策である。国内の敵国協力者いわゆる第五列(スペ  イン戦争時のフランコ将軍の「(自身の率いた4つの部隊の他に)敵中にもう一部隊存在する」という発言に由来する)が次第に増加している状況  は深刻な問題であった。スイスでは既に死刑は廃止されていたが、スパイへの対策として軍事法廷で死刑が採用されることとなった。当初は、死刑  が適用されることは見送られるケースがあったが、スパイの増加や活動のエスカレートに歯止めがかからなかったため、1942年10月9日につ  いに死刑が宣告された。宣告されたのは33人で、無期に減刑された一人を除いて刑が執行された。   スターリングラードで大敗を喫し、北アフリカからも追い出されるなど枢軸国の劣勢が確実となった1943年に再びスイス侵攻が持ち上がった。  イタリアへのドイツの支援は独伊国境(当時、オーストリアはドイツに併合されていた)のブレンナー峠が主要な交通路となっていたが、当然そこ  は連合国の空爆目標となった。そうなるとドイツとしてはスイスのシンプロン・トンネルやザンクト・ゴッドハルト峠を自由に使いたい。さらに、  スイスを予防占領して防衛ラインを築きたいという思惑もあった。原子爆弾が完成するまで要塞戦で耐え抜くというのが、ヒトラーやリッベントロ  ップといったドイツ上層部の考えだった。しかし、駐瑞ドイツ公使のキュッヘルがスイスの抵抗力について尋ねられたときの返答が、損害と戦果が  割に合わないだったためにスイス侵攻はまたもや幻となった。   陸からの侵攻こそ無かったものの連合国・枢軸国問わずスイスの領空を侵犯したことは先述した。大戦初期はドイツからの侵犯が多かったが、後  半になるにつれ連合国軍機による侵犯が多くなった。それに伴い誤爆という事故も発生するようになった。誤爆が起きる原因はまず夜間航法の未熟  にあった。しかし、それも技術の向上によって解消されていく。それでも、1944年4月1日のアメリカ軍によるシャフハウゼン空爆のようにド  イツ国境に近い都市が誤爆を受けるケースが発生している。このシャフハウゼンやドイツやフランスの国境に近いバーゼルが誤爆されるのはしょう  がないとしても、それらよりもスイス内陸部にあるチューリヒなどが空爆を受けたのは誤爆という言い訳は通用しない。スイス政府もそれは誤爆で  はなく、中立国への武力行使として厳重に抗議している。なぜ、このような事になると言うと、アメリカは中立でありながらドイツを貿易相手の筆  頭にしているスイスが気に入らなかったのだ。後半はスイスの貿易におけるドイツの地位は低下したが、それでも連合国はスイスが許せなかった。  アメリカも他国のことは言えないとは思うが、スイスとしてはどうすることもできなかった。ただただ中立を守ることしかできることはなかった。  枢軸・連合問わず最新鋭機を投入するためスイスも対抗上新型を投入する必要に迫られたが、ドイツから購入した新型のBf109FやGは納入検  査で欠陥とされたものが回されたとしか思えないようなものだったり、ドフルグやEKWが開発した国産の新型機も性能は良かったが、終戦の段階  で試作機の審査段階だったり、量産が始まったばかりという状況だった。大戦中にスイスで発せられた空襲警報がおよそ7400回、撃墜した領空  侵犯機は枢軸軍機12機(+墜落・不時着52機)連合軍機13機(+墜落・不時着177機)、被撃墜200機、空の戦いに関する死傷者が30  0人以上。この数字でもわかるように中立国にとっても大戦は決して対岸の火事ではなかった。   1945年になって戦局はドイツの降伏が時間の問題という段階になっていたが、まだスイスにとって心配なことがあった。まず、連合軍による  スイスの中立尊重、敗北して撤退するドイツ軍が国境の交通路を破壊すること、そしてオーストリアからソ連軍が迫ることである。ギザンは自由フ  ランスのタッシーニ将軍と会見して混乱を避ける協定を結んだ。これにより、自由フランス軍がドイツ兵のスイス流入や交通路破壊を防ぎつつオー  ストリア西部まで進出したことで、オーストリアにまで進撃していたソ連軍のそれ以上の西進を阻止した。そのことがオーストリアが戦後の社会主  義陣営に組み込まれることも阻止したのである。   5月8日すなわちドイツが降伏した翌日、スイス軍は総動員態勢を解除した。残務処理の終わりの目処が立った6月4日にはアンリ・ギザン将軍  も陸軍最高司令官を退任して、軍務を連邦政府に引き継いだ。8月19日、スイスで大戦終了のセレモニー『栄誉ある軍旗の日』の式典が陸軍の軍  旗をすべて集めて首都ベルンで開催された。  【スウェーデン】  意外と思われるかもしれないが、かつて東欧の大国といえばスウェーデンを指していた。17世紀にはバルト帝国と呼ばれる大国となったが、18 世紀初頭からの大北方戦争でロシアに敗北してからは、東欧の大国の地位はロシアのものとなった。その後、スウェーデンの絶対王制は崩壊し、貴族 の支配する議会が権力を掌握した。国内では民主化により産業が活発化したが、外交面では失策が続きインフレ経済が悪化してしまった。このスウェ ーデンの衰退は、グスタフ3世の積極的な外交政策で一時歯止めがかけられるかと思われたが、絶対王制を復活させた王は貴族の反感を買って179 2年に暗殺された。  フランスで大革命が発生し、ナポレオンが台頭する激動の時代になると、スウェーデンはイギリス側となった。イギリスと同盟を結べば、同国と友 好関係にロシアの敵対を受けないと考えたからだ。しかし、ロシアはフランス側となって1808年にフィンランドに侵攻した。翌年にはデンマーク も参戦する様子を見せるなど、追い詰められたスウェーデンは500年間領有していたフィンランドとオーランド諸島をロシアに割譲する条件で和平 を結ぶしかなかった。これにより、グスタフ4世は王位を追われスウェーデンが大国に返り咲く機会は永遠に失われた。  グスタフが廃位され、叔父のカール13世が即位したが、彼には後継者がいなかった。そこで、フランスの圧力によりナポレオンの部下のジャン・ バプテスト・ジュールズ・ベルナドッテ将軍が王太子として迎えられることとなった。ベルナドッテはカール・ヨハンと名を変えて、フランス人とし てよりも、スウェーデンとして生きることを決意していた。ナポレオンと決別したカール・ヨハンは、スウェーデンがかつての主君の道連れになるこ とを阻止したが、フランスでは裏切り者とされ人気を完全に失った。そのため、フランス王位を狙ってもブルボン家に取られてしまった。  1818年にカール・ヨハンはカール14世としてスウェーデンの王位に就いた。スウェーデン語が理解できなかった王は疑心暗鬼に陥り国政を混 乱させたこともあったが、積極的な軍事的外交政策から中立的外交政策に切り替えて、内政面でも軍備よりも国内産業の重視に転換してスウェーデン を弱小国転落の危機から救った。  スウェーデンの中立政策は貿易の自由と権益を守るためだった。しかし、それでスウェーデンの安泰は図られたが、国際社会での同国の地位は低下 していくことになる。1848年に、プロイセンが南ユトランドを狙ってデンマークと開戦(第1次シュレスウィヒ戦争)すると、スウェーデンは義 勇軍の名目で軍隊をデンマークに派遣し、デンマークをプロイセンの脅威から守った。これは、当時のオスカル1世が北欧の知識人らの間で活発化し ていた北欧の政治・文化の共同体運動「汎スカンディナビア主義」に同調していたからで、王はプロイセンとの戦争に備えて軍を動員したが、戦争は 1852年に集結してオスカルは名声を得ることに成功した。  しかし、プロイセンに鉄血宰相として名高いオットー・フォン・ビスマルクが登場するとデンマークは再び狙われることとなった。第2次シュレス ウィヒ戦争(1864年)である。ビスマルクは巧みな外交手腕で列強を傍観者たらしめ、さらにオーストリアを引きこんで軍事支援を引き出した。 デンマークはスウェーデンを頼り、カール15世は前回と同じく派兵するつもりでいたが議会はそれに同意しなかった。すでに、政治的権限を失いつ つあるスウェーデンの王ではどうすることもできず、デンマークは見捨てられた。デンマークはシュレスウィヒを失い、領土がユトランド半島北部と 島嶼部だけとなってしまった。当然、スウェーデンに対する失望は大きかった。第1次世界大戦では、連合国と同盟国の板挟みとなったが、どうにか 切り抜けることができた。しかし、戦後のフィンランド独立戦争では公式には不干渉を貫き(義勇軍は黙認していた)、中立を厳守することが隣国か らしたら、冷淡、見殺し政策に受け取れた。  第1次世界大戦が終結すると、未曾有の大戦争の反動からか1920年代のヨーロッパは平和を謳歌していた。各国には厭戦気分が漲り、軍事費も 削減されていた。だが、世界恐慌で各国の経済が大打撃を蒙った1930年代になると、保護主義経済体制で不況を乗り切ろうとする米英と対外領土 拡大路線をとる日独伊が対峙する情勢となった。30年代後半には、ヨーロッパ各国の軍事費が拡大に向かい第1次大戦後の平和が未来永劫続くと思 っていた人たちを驚愕させた。  ドイツでヒトラーが総統となり、隣国へ侵略行為を繰り返す状況はスウェーデンにとっても対岸の火事ではなかった。北欧・低地諸国は中立維持の ための会議を何回か(低地諸国は1回のみ。フィンランドは初回は不参加)開いたが、実りのある成果は得られなかった。1939年5月には、ドイ ツが前月の28日に申し入れた不可侵条約への対応が議論され、スウェーデン・ノルウェー・フィンランドはドイツを申し入れを拒否し、デンマーク が締結交渉に応じると返答した。  こうなってくると、スウェーデンも軍事力を強化せざるを得なかったが、皮肉なことに同国の軍事技術はドイツによって育成されたものだった。ス ウェーデンで初めて戦車が製造されたのは1921年でドイツの試作戦車LK.Uを基にしたStrv m/21(Strv=Stridsvagn スウェーデン語で戦車の意)だった。スウェーデンはこの戦車で機甲部隊を編成している。  スウェーデンの戦車開発は1930年代前半にはハンガリーにライセンスが販売されるL−60が開発されるまでになった。1936年には、戦車 大隊の編成が着手され、30年代末にはチェコスロバキアのCKD/プラガ社で開発された軽戦車のライセンス生産を開始したが、大戦勃発を前に台 数の不足が懸念された。そのため急遽、CKD/プラガ社に11トン級戦車を発注したが、チェコは1939年春にドイツに併合された。当然、発注 した戦車も生産途中でドイツに抑えられた(後にStrv m/41としてライセンス生産が認められた)。  外国にライセンスが販売されたスウェーデン製の兵器といえば有名なのはABボフォース社の機関砲類だろう。スウェーデンはドイツのUボート造 船技術者の指導で潜水艦の開発・建造が進められたり、海防戦艦(沿岸警備用の艦艇で、戦艦の一種ではない)を8隻保有するなど、北欧諸国では強 力な海軍を整備していた。そのスウェーデン海軍艦艇に搭載するために1928年に開発が始まったのが、ボフォースの40ミリ機関砲なのである。 他にもスウェーデン海軍には変わった艦艇として航空巡洋艦ゴトランドがある。  1930年から生産が開始されたボフォースの40ミリ機関砲は、軽量で使いやすいうえに命中精度と破壊力は同クラスの機関砲の中ではトップク ラスの性能を誇り、欧米各国でライセンス生産された。イギリスでは、自国生産だけでなくハンガリーやポーランド製のボフォース砲までも購入して 数を揃えて、1940年のバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍機に対して相当の成果を挙げている。  対空機関砲が標的とする航空機に関してもスウェーデンは意外と先覚者だった。しかし、先覚者のセデルストレーム男爵とエノッホ・ツーリン博士 が飛行中の事故で死亡し事業がそのまま受け継がれなかったため、第1次大戦後のスウェーデンの航空工業は衰退した。そのスウェーデン航空工業を 立ち直させたのもドイツ人たちである。ベルサイユ体制下でドイツ国内での飛行機の開発が禁止されていたドイツの航空技術者たちは海外に渡り、技 術力の維持と向上に努めた。彼らは祖国が再軍備宣言して、人目をはばかることなく飛行機を開発できるようになると帰っていったが、彼らが開発し た航空機はその後もしばらく使われた。しかし、全金属製低翼単葉の航空機が登場する1930年代後半になると、それらの機体は旧式化著しくなり 外国機の購入が望まれたが、ドイツと英仏間の緊張が高まっている欧州情勢で味方になる見込みのないスウェーデンに売ってくれた実戦機は限られた ものだった。買うことができたのはイタリア製の戦闘機と偵察機に、反枢軸国域外への輸出が禁止される前のアメリカのP−35の輸出機型以外は旧 式の複葉戦闘機だけだった。アメリカからは、輸出用のヴァンガード戦闘機も購入する予定だったが、アメリカが先述の武器禁輸措置をとったため、 この戦闘機はスウェーデン語の解説書が添えられたまま日本と戦う中国に送られた。そのため、スウェーデンは自国で近代的な航空機を開発・生産す ることとなった。その際の、航空技術やエンジン技術についてはドイツだけでなくアメリカからも移入されている。  国土を防衛するための軍事費にも事欠く小国では、軍備を増強したくてもできない相談だったが、スウェーデンでは鉄鉱石などの豊富な鉱物資源に すでに育成されていた重工業や機械工業があったため、兵器を輸入に頼らず国産化ということができたのだ。また、ボフォース機関砲など高性能な兵 器のライセンス権を陣営の区別なく販売する武器商人という姿も、両陣営の板挟みとなったスウェーデンが戦争に巻き込まれないための方策だったの だろう。  中立さえ口にしておけば戦争に巻き込まれずにすむという妄想は、すでに第1次大戦で打ち砕かれた。第2次世界大戦でもそれは同様だった。ノル ウェーは厳正な中立を維持しようとしたが、ドイツに占領されてしまった。低地諸国も、独仏国境が要塞線で封鎖されてしまったためにドイツ軍の通 り道となってしまった。中立を侵犯したのは何もドイツ軍だけでなく、連合軍も中立国への侵攻を計画していた。  ポーランドがドイツによって迅速に葬られた後、ドイツと英仏連合軍の間でしばらくは大規模な地上戦はなかったが、その間にソ連軍がフィンラン ドに侵攻する事件が起きた。当然、ソ連に批判が集中したが、ソ連と外交関係を破綻させてまで北欧の小国を本腰を上げて支援しようという国はなか った。それでも、スウェーデンなどの北欧諸国は兵器や義勇兵の派遣などの支援は行っている。しかし、その程度では大国ソ連に対抗するのは無理で (後述する北欧諸国からの支援打ち切りもあって)結局はフィンランドも大国の横暴に屈するしかなかった。ここでも、スウェーデンの中立政策の厳 守は隣国を見捨てるという結果となってしまった。かといって、アメリカのような一方にだけ肩入れをする中立が果たして正しいのかというのも疑問 がある。  ソ連とフィンランドが戦争中の1939年12月13日にハンソンによる挙国一致内閣が成立したが、ソ連はフィンランドを支援する北欧諸国をも 敵と見做すようになった。翌1940年の1月中旬にソ連軍機がスウェーデン領内に爆弾を投下するという事件が起きた。これは、故意か事故かは不 明とされているが、スウェーデンの国民に本物の戦闘というものを垣間見せることとなった。これは、スウェーデンに対する恫喝ともなった。結果、 ハンソン首相は2月16日にフィンランドへの武力支援は行わないと表明するしかなかった。他の北欧諸国も同様だった。  支援を打ち切られても、事前の空軍力の整備や天候や地形を活用した訓練を重ねたフィンランド軍は指導者マンネルハイム将軍の指導力もあって、 ソ連軍に対しかなりの善戦を見せた。だが、国力の差が日米の差以上もあっては、いつまでも抵抗するのは無意味だった。スウェーデンは調停役を 買って出てどうにか3月には停戦に持ち込むことができた。フィンランドの敗北という結果となったが、バルト3国のようなロシア=ソビエトの一部 になるという事態は回避された。このことは、ソ連と直接相対することが避けられたスウェーデンにとっても喜ばしいことだった。  ソ連に侵攻されたフィンランドを支援した国は何も北欧諸国だけではなかった。英仏伊洪といったヨーロッパ諸国や日本といった国が、フィンラン ドに武器や物資を送ったのである。無論、戦争中であったりソ連を刺激したくないのでささやかなものではあったが、日本から送られた竹はスキーの ストックとして冬戦争の戦場では意外と重宝されたようである。  イギリスのチャーチル首相は、ナチズムと同じく共産主義も嫌悪していた。そのため、第1次ソ・フィン戦争(冬戦争)が勃発すると、ドイツと戦 争中であるにも関わらず対ソ開戦を決意していた。後になって、ソ連が連合国として参戦するとイギリスは援助物資をソ連に送るが、これはドイツと 戦う相手ならば地獄の悪魔に対しても援助するというくらいの決意があったからだ。  フィンランドに派遣する義勇軍や支援物資の移動を容易にするため、英仏両国はスウェーデンに領内通過の許可を求めた。しかし、スウェーデンは 3月2日にこれを拒否した。英仏の真意がキルナ地方の鉄鉱石採掘場の占領と、対ドイツ爆撃の前進基地を建設するということを見抜いていたからだ。 さらに、すでに義勇軍の派遣や武器の提供でソ連から睨まれていて、これ以上火に油を注げばせっかくの和平交渉が台無しになってしまうという危惧 もあった。だが、これによって英仏のスウェーデンに対する感情が悪化するのは避けられなくなった。  フィンランドを屈服させたソ連であったが、同時に自軍の問題点も明らかになりそれ以上の拡張政策は一時的ではあるが控えられることとなった。 一方、ドイツからは反ナチスの将校からスカンジナビア侵攻計画の情報がベルリンのスウェーデン公使館にもたらされていた。この種の情報の漏洩は、 信頼性も危惧されたが、コペンハーゲンやオスロにも伝えられた。しかし、北欧諸国はこの種の情報を多少割引いて評価してしまった。  1940年4月9日、ドイツ軍は『ヴェーゼル演習・北』及び『ヴェーゼル演習・南』作戦を発動して、ノルウェーとデンマークへの侵攻を開始し た。デンマークはわずか2時間半で降伏、ノルウェーもその日の午前中に首都を占領され午後には国民連合(ノルウェーのファシズム政党)のクヴィ スリングによる新政権が発足した。だが、当然ながらこの政権はイギリスに亡命した国王の承認も国民からの支持も得られなかった。  国を追われたノルウェー王は、当初は同じ北欧のよしみでスウェーデンに亡命するつもりだった。その道中でドイツ軍機に襲われて、危うく命を落 としそうになる場面もあった。そんなノルウェーノルウェー王の一行にスウェーデンは受け入れを拒否した。受け入れた場合のドイツからの印象を悪 くするのを危惧したためだ。ノルウェー王一行に認められたのは休息のためのわずかな滞在時間だけだった。結局、ノルウェー王は英国海軍の艦艇で ロンドンに渡ったが、このことがノルウェーとスウェーデンの間でしこりを残すこととなった。  ドイツの北欧侵攻が開始された時、スウェーデンはドイツ公使から「スウェーデンが挑発しない限りドイツは武力侵攻しない」と伝えられていた。 スウェーデンはドイツとの伝統的な結びつきが強く、また要人たちの血縁者の居住地でもあった。それでも、スウェーデンは総動員をかけて、ノルウ ェー王が保護を求めた4月12日には、ハンソン首相がラジオで厳正中立を貫くという趣旨の演説をしている。だが、兵器が旧式な上に兵力も先のフ ィンランドへの義勇兵派遣で消耗してしまっているスウェーデン軍では、ドイツ軍の侵攻に抗しきるのは不可能であった。それでも、スウェーデンが ドイツ軍の動きに神経質になっていたのは、ドイツ軍機がスウェーデンの上空を通過してノルウェーに向かっていたからである。ドイツの方も連合軍 が反撃にでたあたりからスウェーデン侵攻も考えていたが、武器の運搬さえ問題なかったらいたずらに戦線を拡大する必要はないと判断した。  しかし、スウェーデンからしたら北欧の平和と中立のためにともに腐心した盟友のノルウェーの人々を殺すための武器の通過など認められるわけも なかった。ただでさえ、国王の滞在を拒否してノルウェーへの義勇兵と武器の派遣も、ドイツの目を気にしてやっていないのだ。もしかしたら、軍事 支援よりも調停役に徹した方が良いと判断したのかもしれないが、フィンランドの時とはまるで違う隣国の対応にノルウェーでは後々まで遺恨が残る 結果となった。  スウェーデンはトレレボルイとリクスグレンセンの間の赤十字車両の連絡とナルヴィクへの民需物資の運搬、商船の乗員や傷病者の搬送のみ領内の 通過を認めるとドイツに通達した。また、スウェーデンへの武力行使の厳禁も求めた。ドイツもスウェーデンの中立尊重を表明したが、実際は武器類 の入った箱に赤十字のマークを貼って運送していた。当然、見つかった時は通過拒否されドイツに送り返された。それに対し、ゲーリングらは冬戦争 でのフィンランドに対する武器援助を引き合いに出して、スウェーデンの武器通過拒否を批判した。当然のことと言うか、何と言うか無論それだけで は済まない。ドイツへの鉄鋼輸出が停止されるような事態になればそれは即両国間の戦争になると恫喝している。また、本心かどうかは別としてゲー リングはスウェーデンは自分にとって第二の故郷(ゲーリングは戦間期の一時期にスウェーデンに滞在していたことがあった)だから、戦争になるよ うな事態は本心では望んでいないとも言っている。スウェーデンの方もただやられているばかりではなく、この事が原因でドイツ軍が領内に侵攻して くるような事態になれば、スウェーデン国防軍は全力でこれに抵抗して港湾も鉱山も橋やトンネルも鉄道も使用可能なままで残さないだろうとやり返 している。  結果、5月下旬に発表された新たなスウェーデン領内の鉄道運搬の枠組みは武器類の輸送を禁止したものとなった。これにヒトラーは激怒し、ドイ ツ軍も中立を維持するスウェーデンを何度か威嚇して、スウェーデンへの侵攻作戦実施の可能性を検討したりもしている。だが、スウェーデンにとっ て幸いなことに、主戦線が西ヨーロッパに移動するとドイツにとってスウェーデンの問題は優先度が低いものなった。  スウェーデンの脅威となっていたのはドイツだけではなかった。ノルウェー、デンマーク、低地諸国そしてフランスまでもがドイツの軍門に下って 同盟国が全滅したイギリスにとって、スウェーデンからドイツに輸出される鉄鉱石は憂慮というレベルを通り越して阻止すべきというレベルに達して いた。スウェーデンは厳正中立を表明しているものの、それが大国間のゲームの場においてはいかに無力で無意味であるかゲームの当事者であるイギ リスにはよくわかっていた。イギリスは本気でスウェーデンの対独戦争協力を阻止する作戦を検討して、実際にスウェーデンの港を攻撃する『カタリ ナ作戦』(9月26日実施予定)を立案している。この作戦は実行はされなかったものの、大国にとって中小国の中立など尊重する価値もないと見做 していることがよくわかる出来事である。  6月にノルウェーの連合軍が撤退してノルウェーもその翌日の8日に降伏すると、ノルウェー人を傷つける武器の通過を認めないというスウェーデ ンの道義的理由は成立しなくなった。ドイツはすかさず14日に軍需物資も含めた無条件のスウェーデン領内通過を要求した。今度拒否したら戦争に なるぞという恫喝(最後通告)も添えて。スウェーデンは議論を重ねた末に、7月8日にドイツの要求を受け入れることにした。無論、国内からの反 発も大きかったが、ノルウェーの二の舞になるのを避けるには、「中立」から「非交戦」の状態に退いての譲歩も仕方ないと結論された。これはスウ ェーデンにとってギリギリの決断であった。この協定は、ドイツ兵が休暇で帰国する際にスウェーデンの領内を通過することを名目に許可しているの で『休暇協定(もしくは輸送協定)』と呼ばれる。  ドイツにとってスウェーデン領内の通過が可能になったことは喜ばしいことだった。ノルウェー戦はドイツ軍の勝利に終わったとはいえ、損害も大 きかった。特に、海軍の被害は陸空軍よりも整備が遅れた彼らにとっては甚大なものだった。中でも駆逐艦の損失は、後のビスマルク追撃戦にも大き な影響を残している。そのため、ノルウェーとスウェーデンの鉄鉱石をノルウェー西岸からドイツに運ぶシーレーンの警戒が難しくなった。スウェー デンの領内を通過すればもっと安全に資源をドイツに運べる。これは、ドイツの戦争継続に大きなプラスとなった。  一方のスウェーデンにとっても一連の出来事は決して悪い物でもなかった。戦争にならなかったおかげで、スウェーデンの経済・産業は無傷である し、国民の反独感情も一時ほど高まりはしなくなった。しかし、イギリスやスウェーデンに見捨てられた形となったノルウェーの亡命政府にとっては、 許しがたいことであり休暇協定の締結に強く抗議している。イギリスに至っては、スウェーデンがイタリアに発注した駆逐艦4隻を回航途中で拘束す る強硬な手段にでている(後、解放)。  だが、スウェーデンもただドイツの言いなりになっているわけではなかった。ドイツが要求拒否を名目に侵攻してきた場合を想定して、鉄鉱石の鉱 山がある北部に兵力の大半を集中させたこともあった。これはドイツに鉄鉱石をただではやらないという意思を態度で示したものだ。これに抗議した ドイツ政府に対しては中立を守るためとやり返している。また、スウェーデンは1940年になってからは25万人規模の軍隊を目指して急ピッチで 軍を増強している。  隣国が次々と侵略にさらされ、自国もいつその後を追いかけることになるか緊張を強いられ、そうならないように心身をすり減らすような労苦も味 わったスウェーデンだったが、実は開戦直前の独ソ不可侵条約で独ソ間ではスウェーデンだけは中立にしておくべきということで一致していたという。 つまり、連合国に通じたり独ソ両国に不利になるようなことをしないかぎり、スウェーデンの中立は保障されていたのだ。だが、それはスウェーデン が両国に属国同様の扱いを受けることを意味していた。  さて、休暇協定だが、最初の半年間は14000人のドイツ兵が交代したと言われているが、その後は次第にノルウェーに向かうドイツ兵の方が圧 倒的に上回るようになった。スウェーデンの鉄道は連合国軍の攻撃を受けずに安全にノルウェーに兵を輸送する手段に使われ、協定を結ぶ名目だった 休みを取ったドイツ兵の帰還のために使われることはほとんどなくなった。それどころか、バトル・オブ・ブリテンで1回だけ(大損害を被って失敗) ノルウェーのドイツ第5航空艦隊がイギリス北部を空爆した際も、後にイギリスからソ連に向かうレンド・リースの船団をノルウェーのドイツ空・海 軍が攻撃した際も、その戦力はスウェーデンを通過して配備されたものだ。だいたい200万人のドイツ兵がスウェーデンの鉄道でノルウェーに輸送 されたと言われている。  また、スウェーデンの外交姿勢も問題だった。厳正中立を標榜するのであれば交戦する両陣営に対して等距離外交しなければならない。しかし、大 戦初期のスウェーデンの貿易は明らかにドイツに偏重していた。スウェーデンからドイツに供給された鉱物資源は3500万トンに達しているという。 当然、イギリスや亡命ノルウェー政府からは批判されたことだろう。  無論、スウェーデンにはそうせざるを得ない事情があった。連合国がノルウェー西岸とスカゲラック海峡に大量に敷設した機雷のために、外洋の船 舶が帰港出来なくなって(60万トン。スウェーデン海運のおよそ半分)しまってスウェーデンの海運が大打撃を被っている。そうなると、近隣諸国 との貿易を重視しなければならなくなり、近隣諸国のほとんどがドイツに占領された若しくは同盟国(フィンランドはドイツ側としてソ連に宣戦布告 している)である状況では、枢軸陣営に貿易が偏るのもしょうがないことだ。そこで英独と交渉して、非交戦国を相手国とした戦時禁制品を除いた一 定運搬量での貿易が、航路を限定されていたが実施されることとなった。これは、安全通航と呼ばれ1940年の秋から月に5隻のペースで実施され、 参戦前のアメリカも貿易対象国に含まれていた。  安全通航はスウェーデンにとってドイツ勢力圏外との貴重な接点だった。ところが、ノルウェー戦の最中にスウェーデンの港にはいったノルウェー 船舶(30〜37隻)の連合国側への移動をめぐって、スウェーデンは要求を拒否した場合は安全通航の撤廃をちらつかせる英独の板挟みとなってし まった。この時は、イギリスの出港要求に従うことが優先され、一時的にではあるがドイツ側での安全通航保障が停止された。  スウェーデンの輸出品といえば鉱物資源だが、SKF社の高品質なボールベアリングも重要な輸出品だった。生産数の半分以上はやはりドイツに輸 出されたが、英ソにも相当な数が密輸されていた。英国に向かう船はドイツの警戒に引っかかって拿捕されたものもあったが、スウェーデン海軍が公 海まで密輸船を護衛するケースもあった。  ドイツに占領されたノルウェーはノルウェー・ナチスの政権が成立していたが、言うまでもなく実体はドイツの傀儡だった。しかし、イギリスに亡 命した自由ノルウェー軍は連合国軍とともに戦う道を選んだ。ソ連に侵略されたフィンランドは、外国から仕入れた戦闘機や冬戦争で墜落したソ連軍 機を回収・修理したりしてソ連軍との再戦に備えていた。一方、北欧諸国で唯一戦火から免れていたスウェーデンだったが、いくら中立を表明してい ても、保護占領という口実の前には無力であることはすでに明らかとなっていた。ドイツは鉄鉱石の輸出停止は即武力侵攻と公言しており、ソ連もフ ィンランドへの侵略を諦めていなかった(当然、その後はどこを狙うか言うまでもないだろう)。  独ソの脅威から国土を守るためスウェーデンは軍備の強化を急いだが、外国産の軍用機は手に入りにくくなった。そこで、国産軍用機の開発が急が れた。これが、現在まで続くスウェーデンの軍備国産化のきっかけとなった。武装中立を標榜するためスウェーデンは軍備を強化したが、それは大戦 が終わってからも続いた。戦後の東西冷戦が熱い戦争になった時にはスウェーデン軍もNATO側として参戦することが決まっていたという。  先の冬戦争でフィンランドを助けることができなかったスウェーデンだったが、それでも依然ソ連の脅威にさらされているフィンランドにはスウェ ーデンしか頼れる相手はいなかった。1940年の秋にはソ芬国境にソ連軍が集結を開始し、ソ連国内ではフィンランドを非難する論調が高まった。 フィンランドはグンテル外相をスウェーデンに派遣して、共同防衛同盟という秘密同盟の交渉を開始させた。この同盟が実現すれば、独ソにとっての 緩衝地帯となり、軍の配備を考慮せずに済むことから独ソ両国も承認するだろうという考えがあった。  ところが、ドイツもソ連もスウェーデンとフィンランドの同盟に否定的な態度をとった。同盟の構想が持ち上がった1940年の秋から冬にかけて の時期は、独ソ間の対立が深まりつつあった時期でもあった。ソ連がフィンランドの隷属化という要求をドイツが拒否したからである。意外にも健闘 したフィンランドをみすみすソ連に渡す手はないとの判断である。しかし、そうなるとソ連としてもドイツとフィンランドを結び付けるわけにはいか ない。それだけではない。マンネルハイム将軍に率いられ大国ソ連の軍隊を貧弱な軍備で苦しめたフィンランドと、急速に軍備を充実させつつあるス ウェーデンが結びつけば独ソ両国にとって無視できない勢力となり、ドイツにとったらスウェーデンとの輸送協定が危うくなるという懸念、ソ連にと ったら再度のフィンランド侵攻の妨げとなる懸念があった。  こうして、同盟の話は消滅した。軍備を強化しつつあるのに助けてくれそうにないスウェーデンに対する失望感からか、フィンランドは頼る相手を ドイツに切り替えた。その時点で、ソ連から守ってくれそうなのはドイツしかいなかったからだ。ドイツとしても、ポーランドや北欧、フランスなど で入手した戦利品を売りつける相手として、工業力の貧弱なフィンランドは格好の商売相手であった。逆にスウェーデンは、ノルウェーに続いてフィ ンランドとの間にも大きな禍根を残してしまった。  中立を守るためとはいえ、実質的にかなりドイツ側に肩入れしていることはスウェーデン国民も認識していた。しかし、スウェーデンはドイツの同 盟国ではない。イギリスに有効な情報を提供したこともあった。水上機を11機搭載(予算不足で実際に搭載されたのは6機)できる航空巡洋艦ゴト ランドは1941年5月に、『ライン演習作戦』のためにゴルテンハーフェンを出撃したドイツ新鋭戦艦ビスマルクを発見し、その情報がイギリスに も提供されたのである。ドイツ海軍期待の巨大戦艦を葬るのに有効な初期情報をもたらしたわけだが、ビスマルクとイギリス海軍の追撃戦が展開され ている最中の5月24日にハンソン首相らはヒトラーの特使から到底受け入れることのできない要求を聞かされた。6月に予定されている『バルバロ ッサ作戦』への参加要求である。当然、スウェーデンはこれを拒否した。      Gotland  無論、ヒトラーもスウェーデンが拒否することぐらいは見通していた。本当の要求は独ソが開戦した後になされた。ドイツの本当の要求、それは完 全武装の1個師団をスウェーデンの鉄道によってノルウェーからフィンランドに輸送するというものだった。これまでにも、輸送協定というものはあ ったが、これは明らかな対ソ戦への戦争協力だった。もちろん、要求を拒否した場合には枢軸同盟軍による武力侵攻という恫喝も一緒に添えられてい た。また、隣国のフィンランドもこれに参加していることも告げられていた(ただし、フィンランドはドイツの対ソ連戦争に加わるという形ではなく、 あくまで冬戦争の継続であると主張。よって、この第2次ソ・フィン戦争は継続戦争と呼ばれる)。  要求を受諾するか否か。スウェーデン国内は紛糾した。ここまでドイツに協力するならいっそのこと枢軸側として参戦という意見も出され、内閣の 総辞職や果ては国王の退位など様々な噂が飛び交った。しかし、もはや周囲を枢軸陣営に囲まれたスウェーデンに選択の余地はなかった。長時間の激 論の末、スウェーデンの非交戦状態維持と独立確保という利益だけを念頭においた1回かぎりの最大譲歩として、1万2千人規模の完全武装のドイツ 第163師団を2週間かけて西から東に輸送することが決定した。国王はドイツとの戦争が避けられるなら退位してもという意向だったらしいが、こ の『夏至の危機』と呼ばれる最大の中立違反あるいは中立国による戦争協力事例は歴史に永遠に刻まれることとなった。  まさにスウェーデンにとっては苦渋の決断だったが、ドイツの要求はさらに続いていった。ドイツはフィンランドに続いてスウェーデンも枢軸陣営 に引き込もうとしていたのだ。かつて、フィンランドとの同盟に難色を示したことなどすっかり忘れてしまったらしい。隣国と同盟や通商協定を結ば せようとさまざまな働きかけを試みた。だが、まだ主権を失っていないスウェーデンは拒否することができた。  要求をことごとく拒否するスウェーデンに、ドイツは7月末にまたもや完全武装の1個師団の輸送を要求してきた。前に呑んだ要求なら断れないだ ろうという計算があったのだろう。だが、スウェーデンにとってそれは受け入れることはできなかった。代わりに海軍の護衛で領海を通ってノルウェ ーのドイツ軍をフィンランドに輸送することとされた。なんてことはない。陸の輸送が海になっただけである。これは独ソ戦の北部戦線がドイツに絶 望的な状況になるまで続けられた。  さらに、これに本国まで帰還が難しくなったドイツ軍機にスウェーデン空軍の基地に離着陸できる権利まで与えられた。ここまでくると、ソ連がバ ルト三国(とフィンランド)に突きつけた相手の領内にソ連軍の基地を建設させるという相互援助条約と大差ないといえるだろう。一方で、イギリス に帰還できなくなってスウェーデンに不時着した連合軍のパイロットを丁重に保護して、こっそりイギリスに送り返すこともしている。  しかし、全体としてスウェーデンが渋々ながらもドイツの要求を断れなかったのは、独ソ戦開始後のドイツ軍がソ連軍を圧倒する強さを見せたため だった。同じ中立で周囲を枢軸陣営に囲まれたスイスでも身の処し方が議論されていたが、アンリ・ギザン将軍が強いリーダーシップを発揮して親独 的な思想を許さなかった。スウェーデンにはギザンのような個性の強い指導者もいなかったら、アルプス山脈みたいな自然の防護障壁もなかった。さ らに、脅威がドイツだけでは無い状況では唯々諾々と要求に従うしかなかった。  ドイツに気を使うあまりスウェーデンでは、ドイツを批判する刊行物の多くが発禁処分になったりするなどの言論統制がなされた。。中には、ノル ウェーでのドイツ軍の残虐な行為に関して、労働組合会長が嫌悪の感情を述べるのを控えると発言したところ、新聞やラジオで犯罪や嫌悪といった表 現が削除された事例もあった。さすがにこれは議会で問題になったそうである。それでも、ドイツを批判する出版物が出てくるのは、スウェーデンが 中立でありまだ主権が残されていたからだ。それら、反独の報道機関や出版社に対してはドイツの高官や政府諸機関からしばしば抗議・恫喝・威嚇と いったことをされることもあったが、政府がドイツの不当な要求を受け入れながらも主権の維持に努力する一方で、民間は剣では無くペンによる戦い いそしんだ。そういったことに対し、恫喝や抗議程度で済まされたのもスウェーデンが主権を維持した中立国家だからだ。  中立を表明したから周辺で戦争があっても、対岸の火事でいられるといった楽観は幻想にすぎないことはいままでので理解していただけると思う。 なぜ助けてくれなかったのか、なぜ中立なのに協力しているのか、自分たちさえ戦争に巻き込まれなかったらそれでいいのか、といった批判が戦後も されるのである。もちろん、言い訳できない部分もあるが、一方でそれはあんたらのエゴだよという部分もある。だが、豊臣秀吉死後の豊臣家臣団の 分裂でもわかるように、感情的な対立は放っておけばそれを解消することは困難である。だが、スウェーデンはただ単にドイツに従順なだけでも、隣 国の苦難に無関心なわけでもなかった。  フィンランドを除く北欧・バルト諸国ではドイツに占領された後にレジスタンス活動が行われたが、これの支援がスウェーデンを通じて秘密裏に行 われていたいたのだ。他にもノルウェー脱出者の渡英を支援したり、祖国の解放を目指すノルウェーやデンマークの兵士の再訓練に携わったり、中立 国ならではの難民の受け入れも実施された。難民の数は、ノルウェーから5万人、デンマークから1万8千人、バルト三国から3万5千人、フィンラ ンドから7万人となっている。  難民の受け入れはともかく、レジスタンスへの支援や、デンマーク・ノルウェー兵の再訓練はドイツからの要求受諾と同じく中立違反になりうるも のである。しかし、単に中立としての立場を主張するだけでなく、こうした二股外交的な腹芸や甚大な戦災を被った国の復興に支援を惜しまなかった 点が周辺諸国との間の蟠りが深刻なレベルに達するのを防いだだけでなく、やっぱりに近くに中立国があってよかったなとか、スウェーデンがあった からイギリスとの結びつきが保たれたとかという評価になったのである。  ドイツからの無理難題を受け入れることで、非戦・中立状態を維持しようとしたスウェーデンであったが、1942年になるとドイツへの譲歩が必 ずしもスウェーデンを戦火から遠ざけることにならないことを思い知らせる出来事が相次いだ。前年にアメリカが参戦して、枢軸陣営の勝利がかなり 怪しくなったこの年、イギリス空軍がドイツ本土爆撃を活発化させスウェーデンの領空を侵犯するようになった。さらに、ソ連にいたってはスウェー デン最北端のハパランダに爆弾を投下する事件を起こしている。また、バルト海を航行する航行するスウェーデンの船がどこかの国の潜水艦に4隻が 沈められたりもした。  こうなってくると、スウェーデンからしたらいつまでもドイツの言いなりになるわけにはいかなかった。ドイツにかつての勢いがなくなったからか どうか、1943年1月に港に留め置かれていたノルウェーの船がイギリスに向かって出港することが許可された。8月にはあの輸送協定による武器 輸送の了承の停止が決定した。ただし、ドイツを徒に刺激しないように軍用郵便の鉄道輸送は継続されることとなった。  こうしたスウェーデンの外交方針転換の背景には、無論連合国側からの圧力もあったが1940年からの急速な軍備増強があった。陸軍はもちろん のこと、海軍も巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、潜水艦30隻以上にまで増強された。ゴトランドも航空巡洋艦から防空巡洋艦に改装された。さすがに水 上機を多数搭載しても戦力にはならないことがわかったのだろう。また、空軍も1943年から待望の国産機であるFFVS・J22軽戦闘機が入手 できるようになった。緊急開発の機体だったが、輸入が困難となったアメリカのセヴァスキーEP−1やイタリアのレッジアーネRe2000よりも はるかに近代的であった。J22の他にも、SAAB17が急降下爆撃機(B17)や水上偵察機(S17)として配備が進められた。あと、双発多 用途のSAAB18があったが、こちらは完成が遅れ気味だった。  まあ、いくら軍備を増強しようとも大国からしたら取るに足らぬ軍備である。しかし、かつての隣国のように数ヶ月で征服されるような事態になる のは避けられるぐらいの規模にはなった。戦争が苦しくなり始めた1942年に、ドイツ軍はスウェーデン占領を目的とする『北極狐作戦』を参謀本 部での研究課題としている。戦争継続に不可欠な鉱物資源の供給を確保したいがための作戦で、1943年春に20万の兵を動員してスウェーデン南 部を制圧することとされたが、この時期のドイツ軍にはこれ以上の戦線を作る余裕はなく作戦は実施されることはなかった。  スイスの項でも述べたように、中立国でも戦闘は発生していた。それは領空侵犯機との交戦がほとんどだが、当然スウェーデンも例外ではなかった。  スウェーデンにおける領空侵犯の件数と機数(件数/機数) 1940年:1211/1737 内訳ドイツ・622/910、連合国・19/27、不明・570/800 1941年:1083/1197 内訳ドイツ・660/740、連合国・7/7、不明・416/450 1942年:940/1138  内訳ドイツ・496/560、連合国・27/88、不明・417/490 1943年:550/1040  内訳ドイツ・168/190、連合国・65/400、不明・317/450 1944年:641/6600  内訳ドイツ・108/140、連合国・188/約5000、不明・345/約1400 1945年:252/4400  内訳ドイツ・69/69、連合国・33/約2000、不明・150/約2300  件数は輸入戦闘機に頼っていた時期が多く、機数はそれ以降が多くなっている。これは、米英の対ドイツ戦略爆撃が強化されたのと、それを迎撃す るドイツの防空体制が強化されて米英爆撃部隊に手痛い損害を与えていたからである。これに対処するスウェーデンの領空警戒も強化されて、レーダ ーによる早期警戒でできるようになった。領空侵犯した機体は領空外に退去させるか、空中逮捕して飛行場に着陸させるかの処置がとられるが、戦闘 になったケースもあった。撃墜された侵犯機は確認されただけでドイツ11機、連合軍8機、海中に没して所属が確認できなかった1機、スウェーデ ン領内での誤爆・爆弾投下・機銃掃射事例も29件発生している。また、1945年の4月にJ20が逮捕したドイツのドルニエDo24飛行艇に反 撃されて撃墜されたこともあった。  先述したように大戦後半になると、連合軍機の領空侵犯が多くなっているが、その中にはスウェーデンに接収されて再利用されたものもある。ボー イングB17は接収された7機が座席14の旅客機に改装されている。他にも回収されたもので変わったものには、V1号やV2号がある。発射実験 で飛ばされたものがスウェーデンに到達したのである。中でも1944年6月13日に飛来したV2は、実戦運用前の秘密兵器だけにドイツは返還を 要求したが、スウェーデンはこれを拒否して残骸を最初に発見したイギリス出身者の意を尊重してイギリスに届けられた。  ドイツの劣勢が明らかになってくると、ドイツと縁を切れと言う米英の圧力が強まってきた。しかし、大戦勃発以後スウェーデンの主な取引先がド イツだけという状況が続いていたので縁を切れと言われても容易にはいかなかった。なにしろ、石油や石炭がドイツから提供されているし、スウェー デンで産出される鉄鉱石の行き先のかなりの部分がドイツになっているのだ。一方で、戦勝国になるのが確実な米英との関係も良くしたい。輸送協定 の停止は板挟みとなったスウェーデンの窮状を打開する案のひとつだった。同時にそれはドイツへの輸出が縮小するきっかけとなった。米英も圧力を 強めるだけでなく、スウェーデンへの石油の輸出量を倍増することを決めている。  スウェーデンの中立違反ともいえる対独協力は連合国から批判されているが、アメリカも中立だった時期にイギリスに燃料や軍用機や駆逐艦を提供 している。これまた等距離外交であるべき中立国としては疑問が残ることといえよう。そんなアメリカが参戦したら、ドイツに協力する国はけしから んとSKF社のボールベアリング工場(ドイツに供給)を誤爆と称して爆弾を投下するのだから大国のエゴここに極まりである。まあ、こうした強硬 な姿勢があったからドイツに対して慎重だったスウェーデンがドイツとの縁を切るのを促進させたのである。1944年8月に自国船に対してバルト 海沿岸のドイツの港への戦時保険の適用を停止、秋にフィンランドで対独戦争(ラップランド戦争)が勃発してフィンランドに向かっての領内通過協 定が解消されて、スウェーデンの領内での輸送は傷病者の搬送だけに制限された。そして、年末までにドイツとの通商関係は停止された。  1945年4月30日、連合国から唯一となる参戦要求が出された。停戦に応じないノルウェーのドイツ軍をスウェーデン軍が制圧してくれないか というのだ。それを受けてスウェーデンからドイツ軍にノルウェーやデンマークで無意味な破壊活動をするのなら軍事介入もあり得ると伝えられた。 だが、ドイツの首都ベルリンが瓦礫の山と化しヒトラーが自決したこの時期、戦争の終結はもう目前であった。そして、スウェーデンは最後まで非交 戦の立場を貫いたままヨーロッパの戦火が収まる5月7日を迎えることができた。  ドイツへの譲歩を重ねてまで中立を維持しようとしたスウェーデンには、イギリスのように自由のために戦うべきだったとか、中立の道義を守れな いなら参戦した方が筋が通るとか、一方にだけ有利になるような外交は中立とはいえないといった批判がなされた。しかし、ハンソン首相らスウェー デン政府は戦争の局外にいることが最善の道と確信していた。戦火から離れていたから戦後すぐに復興支援に乗り出すことができたのだ。フィンラン ドに贈与10億クロノールと貸与20億クロノール、ノルウェーに贈与5億6千万クロノール、デンマークに贈与2400万クロノールの財政支援が 実施された。他にも勝ち負けの区別なく戦災を被った国に食糧や医薬品なども提供された。  どうにか戦争に巻き込まれずにすんだスウェーデンだったが、それは数多くの忍耐も強いられた末に勝ち取ったものだ。その心労がたたったのか1 946年10月、ペール・アルヴィン・ハンソンは首相在任中に突然の心臓発作で亡くなった。  【スペイン】  1936年からのスペイン内戦は、戦死者よりもテロによる犠牲者や処刑された人の数の方が多いという異常な戦争だった。敗北が確定的となった 共和国のファン・ネグリン首相の希望は「報復の無い講和」だったが、血みどろの戦いに勝利を収めようとしているナショナリストは無条件降伏しか 受け入れなかった。1939年2月9日、ナショナリストの指導者フランコは共和国の支持者たちに対する復讐を合法化する政令を発し、その復讐を 恐れた共和国派の人々は国外へと脱出した。27日には、フランコ政権が英仏に承認されてマヌエル・アサーニャ大統領が辞任した。ネグリンもフラ ンスに亡命した。他にも多くの人が南北アメリカやフランス、メキシコ、ソ連に脱出した。逃げられた連中はまだいい。国内にとどまった人たちは、 先の政令で強制労働や最悪の場合死刑の運命が待ち構えていた。1942年までに27万人が逮捕・投獄され十数万人が処刑された。強制労働中に死 亡した者も万を下らなかったとされている。なお、共和国政府派も内戦中に捕らえたファシズムの指導者を処刑している。  全土に広がった内戦のために、交通・工場・農業に一般市民の住居の被害も大きく(特にカタロニア地方はほとんど廃墟になっていた)、多くの熟 練労働者が共和国支持者だったこと、内戦中に支援してくれた国が直後の第二次世界大戦の勃発でスペインを支援する余裕がなくなったこともあって、 スペインの戦後復興はかなり厳しい条件で行うしかなかった。  そうした条件で国を運営しようと思うなら、政府による統制を強めなければならなかった。フランコは内戦中の1938年1月30日に第1次内閣 を組閣して3月に「労働憲章」を定めて全体主義体制を確立させた。次いで、1940年1月にはそれまでの労働運動が実質的に認められなくなって しまう「組合統一法」が成立、続いて3月には反政府活動を禁止する「秘密結社および共産主義者取締法」が成立してファシスト体制に倣ったような 国家体制を形成した。  このフランコ独裁体制下で存在が許されたのはファランヘ党だけだった。しかし、このファランヘ党は内戦以前から存在していた右翼政党のひとつ だった頃の党ではなく、それとは別の1937年の「政党統一令」で組織された様々な異分子からなる集合体みたいなものだった。その点において、 イタリアのファシスト党やドイツのナチス党とは異質の政治勢力であった。  ファランヘ党が独伊のファシズム政党と異なるのはそれだけではない。ドイツやイタリアは指導者であるヒトラーやムッソリーニが政治家で、政権 の中枢がそれぞれの党であるのに対し、スペインの場合は軍人のフランコが指導者であるため軍が政権の要となっているのだ。事実、フランコ内閣の 閣僚の出身勢力はファランヘ党出身者よりも軍出身者の方が多い。フランコも、スペインがファシズム国家と見られるのを避けるふしがあったという。  また、軍出身であるためかフランコには実利と独裁体制の維持には執着しても、政治的なイデオロギーに捉われたところはほとんどなかった。内戦 中の1937年春に、ナショナリストの勢力圏の警察みたいなことを任せられていた(反対派を制圧するための暴力行為=テロの横行)右翼団体のフ ァランヘ党の代表に就任しているが、それは反対派を制圧するためであってファシズムに強く傾倒していたわけではなかった。なお、フランコが国家 元首となる(当然、ライバルとの権力争いはあった)のはその前年の秋で、独伊の承認を得たフランコは「カウディーリョ(総統)」となり、内戦中 のスペインはナショナリストのフランコ総統と共和国のアサーニャ大統領が同時に存在していたことになる。  ナショナリストが内戦に勝利した要因は、ドイツとイタリアの支援によるものが大だった。当然、内戦後のスペインはドイツ・イタリア枢軸に接近 することになる。内戦終結直前の1939年3月27日には日独伊防共協定に参加して、内戦終結に合わせてドイツと友好条約を結んだ。5月8日に は国際連盟を脱退した。  1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発したことはスペインにとって寝耳に水だった。内戦での経緯からフランコは親独派だったが、長期の内 戦でスペイン経済は破綻しており、共和国派の残党狩りのために国防よりも治安維持に重点がおかれていた。とても、ドイツに味方して英仏と戦う状態 ではなかった。もっとも、スペイン軍はドイツ軍の実力に懐疑的であり、またドイツのカトリック教会迫害への反感や独ソ不可侵条約に対する不信感も あって、スペインは英仏がドイツに宣戦布告した翌日の9月4日に厳正中立を表明した(同じ日に日本が不介入を表明し、翌日にアメリカが中立を宣言 している)。  だが、他の中立宣言国と違ってフランコ統治下のスペインはドイツに借りがある身である。完全な中立が許されるはずがなかった。独西は協定を結ん でスペインの港湾をUボートの補給基地とすることにした。当然、これは中立違反であるため極秘とされたが、イギリスが見逃すはずもなく何度か抗議 されている。ちなみに、スペインの港湾を基地としたUボートによる通商破壊は『モーロ作戦』と呼ばれ、1942年までに4ヶ所の港で23回実施さ れている。同年11月以降は、スペインの港への枢軸国の艦船の入港にも一定の決まりごとが設けられた。  ドイツからは当然、参戦の要求があったが、1940年6月16日にフランコの名代として訪独したビゴン参謀総長はヒトラーとリッベントロップと の会見で持参したフランコの親書を渡したが、そこにある参戦の条件は「軍事援助(特に海空軍の再建が急務)」「食糧供給(深刻なくらい不足してい た)」「領土拡大(イギリス領ジブラルタルとフランス領北アフリカを要求)」というものだった。しかし、北アフリカに野心があるのはイタリアもそ うであるし、フランス領北アフリカはヴィシー政府がドイツから保有を認められていた。このことを考えて、フランコの要求は事実上の参戦拒否であっ たと思われる。  なぜ、フランコはドイツの参戦要求を拒否したのか。経済の破綻というのがもっともな理由だが、それがなかったとしてもスペインが参戦する可能性 はなかった。なぜなら、スペイン軍上層部は王党派であり親英派であり、ドイツ支持派はビゴン参謀長ら少数派だったからだ。他にフランコの義弟で、 ファランヘ党の書記長に就任したセラノ・スーニェルも参戦派だったが、スペイン軍はスペインで戦争がある時は外国からの侵略か国民の総意で参戦せ ざるを得ない場合のみとしており、他国同士の争いである今次大戦に参戦する意思は非常に低かった。  ドイツにとってスペインが参戦することのメリット、それは地中海の西の出入り口であるジブラルタル海峡の制圧に他ならない。フランスが脱落して からは、ジブラルタルの陥落は地中海西側からの連合国艦船の進入が絶望的になることを意味していた。連合国にはまだ東の出入り口であるスエズがあ るが、イギリス本土あるいはアメリカからの距離を考えたらジブラルタルの方が重要性が高いのは言うまでもない。  ジブラルタル占領作戦は『フェリクス』と名付けられ、1940年11月12日には作戦指令第18号として実施が発令されるところまでいった。だ が、ヒトラーは作戦の規模を拡大させることにしてジブラルタル攻撃を1941年2月4日に延期して、スペインとその植民地であるモロッコ、スペイ ンの隣国で中立のポルトガルまでも侵略範囲とする新規の作戦を練るように命じた。しかしながら、政治状況の変化によって作戦を実施する必要性がな くなったとして1940年12月10日にフェリクス作戦は中止された。  作戦が中止となったのは1940年10月23日のフランス国境に近いエンダヤで開かれた独西首脳会談が物別れに終わったことが原因と思われる。 スペインの参戦を要求したヒトラーだが、バトル・オブ・ブリテンの顛末を見ていてドイツの対英戦勝利は少なくとも短期的には有り得ないと判断した フランコは、ここでも北アフリカの領土を要求してそれがヒトラーに拒否されると、不満を態度で示して英本土が陥落してもイギリス政府はカナダに逃 亡して抗戦するだろうと言ってヒトラーを憤慨させた。フランコの抑揚の無い淡々とした話し方も、ヒトラーの癇に障ったらしい。  この会談で、フランコはヒトラーを友軍とすべき国の指導者とは見做さなくなった。しかし、まだフェリクス作戦が消えたわけではなく、11月19 日にセラノ・スーニェルがヒトラーと会談した際もジブラルタル攻撃の支援と協力を求められている。だが、事前にフランコが軍の閣僚を集めて今後の 採るべき決断の判断分岐を想定した時に基礎資料となったメモには、スペインの軍事力はイギリスよりも圧倒的に下であり参戦は事実上不可能、秋にタ ラントを攻撃されて以来イタリア海軍の動きは消極的となっている。よって枢軸国側が地中海を我が庭とするにはジブラルタルだけでなくスエズも占領 する必要があり、連合国が地中海で行動可能ならスペインは海上封鎖を免れないという非常に冷徹かつ現実的な情勢分析がされており、スーニェルとし ても作戦に協力するとは返答できなかった。12月7日にはフェリクス作戦の準備を進めていたカナリス提督がフランコを訪ねて協力を要請したが拒否 された挙句に、枢軸国側の勝利による早期終戦も困難であると指摘された。この時点で、フェリクス作戦の実施は撤回されてスペインの参戦もどうにか 回避できた。  1930年代中頃からヨーロッパ諸国はドイツの再軍備によってにわかに高まった大戦争の勃発に備えて、軍備の近代化と増強に力をいれた。しかし、 ちょうどその時期に国を二分しての内戦に突入していたスペインには軍備を増強する余裕はなかった。2年8カ月の内戦で、スペイン海軍はすべての戦 艦を失うなど甚大な損害を受け、内戦が終了した時点での海軍力は重巡カナリアスと軽巡プリンチペ・アルフォンソ、アルミランテ・セルベラ、ミゲー ル・セルバンテス、メンデス・ヌメズ、駆逐艦クールッカ型9隻、アラバ型2隻、潜水艦C1〜C6、D1〜D3というところまで低下していた。これ では英領ジブラルタルの攻略など覚束ない。戦車も1920年代の旧式で、それも内戦で消耗したため農耕用のトラクターを基にした暫定的な戦闘車両 が作られる始末。新型戦車は1940年から配備される45センチ砲搭載の軽戦車を待たねばならなかった。空軍の整備も一から始めるしかなかった。  そのため、フランコ以下スペイン政府の閣僚は高度な駆け引きで独伊からの参戦要求を引き伸ばしというかたちでかわしてきたが、同時に国土防衛の ための軍事力の保持の必要性も認識していた。そこで、1943年1月に着任したモルトケ独大使との間で秘密議定書が交わされた。  この議定書によってスペインはドイツから兵器の供給を受けることになったが、その中にはBf109の新型やV号、W号といった現役バリバリの兵 器もあった。これは、フランコの言う「軍事的準備が整った段階での参戦」への期待がドイツ側にあったからだ。しかし、結果的にスペインと連合軍が 戦火を交えるというような事態は発生しなかった。けれども、スイスやスウェーデンの項でも述べたように領空侵犯の他国機と交戦したことはあり、1 943年3月にモロッコに領空侵犯したアメリカのP38をHe112が撃墜している。  しかし、1943年以降ともなると、スペインはドイツからの軍事援助を受けにくくなってきた。そこで、輸入からライセンス生産に切り替えること にしたが、やがてドイツ製のエンジンも入手できなくなって英国製もしくはフランス製のエンジンに載せ換えたメッサーシュミットやユンカースなどが、 スペイン空軍の主力となって1960年代まで現役を務めた。これらの姿は50年代から60年代ぐらいに制作された戦争映画で、ドイツ軍機のマーク を記した形で観ることができる。  国家としての参戦はなかったスペインだったが、義勇兵の派遣は実施された。やはり、内戦で支援してくれたドイツに恩義を感じているスペイン人も おり、その中の一人外相も務めているスーニェルは恩義に報いるのと反共主義を示すためにファランヘ党の青少年党員から義勇兵を募った『青の旅団』 を独ソ開戦後の東部戦線に派遣することにした。一方、内戦で国外に脱出した旧共和国派の中にはフランス軍やソ連軍の兵士として銃を持った者もいた。 青の旅団は5万人にまで膨れ上がったが、東部戦線でのドイツの敗勢が確定的となった1943年末に撤退が命じられ残留を決めた一部を除いて帰国し た。戦死者は約6000人。中立国としては以上に高い数字である。  あれだけスペインの参戦を要求していたドイツはソ連という大敵と戦うのに義勇兵の派遣に我慢したのだろうか。実は、ドイツは対ソ戦においてスペ インに期待することはなかった。ヒトラーのフランコに対する不信感や、バルカンやエジプト・リビアでイタリア軍に足を引っ張られていたこともあっ て、これ以上のお荷物をしょい込むつもりがなかったのだ。ただし、イタリア軍の名誉のためにいっておくと、彼らは準備もろくにできていない状態で、 何のために戦うのか理解できないまま独裁者の面子のために戦わされたのだ。これでは士気が上がらないのも無理はない。事実、勇敢に戦ったイタリア 軍もあったのだ。  そのイタリアの統領ムッソリーニとフランコは1941年2月12日にイタリアのボルディゲーラで会談しているが、その席でムッソリーニはフラン コに大戦に参加したことを後悔しているととれる本音をもらしている。戦争に参加することは国家の一大事。圧力に屈することなく、国家の利害得失を 考えて自ら決すべきと。独裁者の先輩のこの発言は現実家のフランコに非常に重要なアドバイスとなった。ドイツもスペインの参戦を要求しないことに 決めて独ソ戦が始まる頃には、スペインが戦争に巻き込まれる可能性は事実上消滅した。  食糧を輸入に頼っている中立国にとって周りが戦場になって貿易の自由が失われると、食糧の不足という深刻な事態となってしまう。スイスのように 自給率を高めて、一般家庭に数ヶ月分の食糧の備蓄を求める国もあったが、内戦終結から5ヵ月後に大戦が勃発した上にその年が不作となってしまった スペインは「腹が減っては戦はできぬ。食料がなければ戦争にならない」という深刻な状況に追い込まれた。スペインがドイツの参戦要求を拒否したの も、ドイツからの食糧支援が皆無だったからだ。北アフリカの利益云々は参戦を拒否する口実でしかなかった。  ドイツが駄目なら他の国から支援してもらうことになる。ジブラルタルをスペイン領に囲まれているイギリスにとって、スペインの参戦問題は頭痛の 種となっていた。イギリスとアメリカはスペインに食糧などを支援することで同国が参戦することを回避できるか検討に入ったが、独伊の支援でフラン コ政権が成立したことや、反対勢力の存在を許さない独裁体制に対する疑念もあった。親ナチで参戦派のスーニェルが外相に就任してドイツを公式訪問 したことはその疑念を助長することになった(もっとも、その時にリッベントロップ外相らナチス高官に見下され冷遇されたことから、親独派のスーニ ェルらもナチスへの不信感や嫌悪感を募らせている)。  だが、モーロ作戦の例もあってスペインがドイツ支援に回ることは米英にとっても避けたいところだった。親英派が多数を占めるスペインの閣僚も、 スペインをドイツから遠ざけるには食糧と燃料の支援を公表すべきだとほのめかした。それを受けて、1940年10月にイギリスがスペインへの食糧 援助を表明、アメリカも国務省の反対を押し切って米赤十字社を通じて人道的食糧支援を実施することにした。  だが、1941年になってもスペインの食糧事情は改善されなかった。さすがにスーニェルもヒトラーとの会談で、ドイツからの食糧支援が絶無であ ることとに不満を述べた。また、アメリカ世論がファシズムに対して怒りを強めてていて、スペインもファシズム陣営と見られて警戒されていた。イギ リスのチャーチルの口添えで小出しながらも食糧が支援されることとなった。イギリスからは1941年4月に750万ポンドの借款を受けている。ス ペインを中立のままにしておくための手段だった。だが、アメリカはジブラルタルがドイツに占領されるなら、その前にスペイン領のカナリア諸島とポ ルトガル領のアゾレス諸島を制圧して連合軍の拠点にすべしと考えていた。念のために言っておくと、この時点でアメリカは参戦すらしていない。  1941年の後半になると、スペイン国内で親独派のファランヘ党と親英派・王党派の軍部が対立を強めた。フランコは内閣を改造して、スーニェル から内相権限を奪って外相のみを務めさせた。そして、スーニェルがファランヘ党出身の閣僚に集団辞任を働きかけたことが内政上の転機となった。総 統府次官(元首の補佐官・官房長官)にカレロ・ブランコを起用する一方、スーニェルには東部戦線に義勇兵の派遣という形でのドイツ支援を認めた。 これはファランヘ党のガス抜きだったが、米英はそうは見てくれなかった。フランコが軍事クーデター蜂起5周年の演説で戦争を賛同することばを並べ たことによって、東部戦線への義勇兵派遣とともに米英の怒りを招き食糧支援を打ち切られてしまったのである。  この事態にオルガス将軍ら軍出身の閣僚は、フランコにスーニェルの処分と総統自身の対外的発言の慎重さを求めた。さらに、欧州と北アフリカに限 定されていた戦火がアジア太平洋に拡大して文字通りの世界大戦となった1941年12月には、エル・パルド宮(フランコの官邸)で陸軍最高会議が 開かれてファランヘ党との断絶要求や反対勢力への弾圧政策への批判が述べられた。独裁国家でこのようなことができたのは、フランコに独裁者らしか らぬ批判を受容する能力があったからとされる。さらに、フランコにカレロ・ブランコという懐刀がいたことも大きかった。フランコと旧知の仲で、後 に首相となる逸材であるルイス・カレロ・ブランコは、ファランヘ党重視のファシスト政権からフランコ自身の独裁体制に移行する際に実務者中心の内 閣を成立させるお膳立てをしている。  こうして徐々にファランヘ党から離れていったフランコだが、そんな時期の1942年8月にファランヘ党大学生組合の過激派がベゴーニャ聖母廟で のカルリスタ民兵の鎮魂祭の式典の最中に爆弾を投げ込むテロ事件が起きた。幸い大惨事にはならず、逮捕された首謀者は軍法会議で死刑となったが、 式典に列席していたバレーラ陸軍大臣がファランヘ党のテロに抗議して辞任する騒ぎとなった。これをきっかけに、外遊でのフランコに対する批判的言 動が目立ってきたスーニェルを外相の職から失脚させるなどの閣僚人事の一新がなされたが、まだこの時点では内閣を王党派の軍部出身者で固めること はせず、新任の陸軍大臣に親枢軸派のカバリーニャ将軍を起用して新内相もファランヘ党から選んだ。  こうした人事案を練ったのもブランコであった。さらに、新内閣の目玉といえるのが新外相となったフランシスコ・ゴメス・ホルダーナ将軍だった。 フランコよりも年長で軍人としても先輩にあたるホルダーナは誠実さと事務処理の人だった。前任のスーニェルと違って等距離外交を図れる人でもあっ た。  ドイツのジブラルタル攻略への協力要請に続いてスペインが緊張を強いられたのが、1042年11月の米英を主力とする連合軍による北アフリカ上 陸作戦である。作戦が開始される1時間前の11月8日午前1時、ホア英大使とヘイズ米大使がスペイン外務省を訪れてホルダーナ外相との面談を求め てきた。面談を求めるには常識を疑う時間帯であるだけに、外務省や内閣は最後通牒の手交かそれとも奇襲によるスペイン本土への武力侵攻かと慌てふ ためいた。フランコ総統との会見も希望する両大使に対し、ホルダーナは狼狽しながらも国防軍が情勢分析と状況把握する時間稼ぎに務めた。米英両大 使も作戦の機密もあって説明できることが限られていた。それでもどうにか午前9時にフランコと会見して、北アフリカへの上陸作戦『トーチ作戦』が 成功裏に終わり、米英両政府もスペインに枢軸側に加担する意思が無く中立に徹することが認識できた。  北アフリカでヴィシー政府軍がさしたる抵抗もせず連合軍に投降すると、ドイツ軍は11月11日にフランス全土を占領した。この措置にスペイン軍 は12日に総動員令を発動してピレネー山脈の国境線に部隊を布陣させた。これは、中立国の軍事的対応としては当然のことでドイツには非交戦の意思 を表明している。  トーチ作戦の成功と第二次エル・アラメイン会戦でのイギリス軍の勝利により、地中海での連合軍の優勢は確定的となった。1943年5月には、チ ュニジアで枢軸軍が降伏して北アフリカ戦線が消滅した。7月10日、シチリア島に連合軍が上陸して25日にはムッソリーニが罷免された。そして、 9月にはイタリア半島にも連合軍が上陸してイタリアが降伏した。  だが、それでイタリアが戦争から離脱できたわけではなかった。イタリアの降伏を予期していたドイツ軍はただちにローマを占領した。ドイツ軍は幽 閉されていたムッソリーニを救出して北イタリアのイタリア社会共和国(サロに政府が置かれたのでサロ政権とも)の元首とした。ここに、かつてのス ペインと同じようにイタリアも国を二分しての内戦に突入した(南部のイタリア王国は10月にドイツに宣戦布告)。  このイタリアの混乱に際して、ホルダーナはイタリア王国との外交を継続する一方で、ミラノに領事館を置いてサロ政権とも非公式に外交関係を持つ という現実的な対応をした。スペインはとりあえず事態の推移を見守ることにしたのだ。  しかし、イタリアでのファシズム体制崩壊はスペインの政体をも揺るがしかねない事件であった。国防軍幹部らがイタリアが降伏した日に独裁政権か ら王制に移行する方策を求める連判状を作成していたことを知ったフランコは、突然に解任を言い渡されて失脚したムッソリーニを教訓にして連判状に サインした幹部と個別に接触して、経緯と釈明を求めた後にそれぞれに応じた処理や処分を行った。  王党派が求めた王政復古だが、その時点での王位継承者は第二共和制以前の最後の王であるアルフォンソ13世が1941年2月28日にローマで死 去していたため、ドン・ファンが王位継承権を有していた。フランコ自身、個人的独裁は継承されるべきではないと考えていたし、内戦の引き金となっ た共和制の復活も有り得ないこととしていた。となると、王政復古はフランコにとっても妥当な結論だったが、分裂したイタリアへの外交上の処理やア メリカからの圧力への対応、東部戦線に派遣した義勇兵の撤退に投獄した反対分子の刑罰緩和など問題山積の上に、非交戦から厳正中立に移行している 最中である時期に、フランコ政権を全体主義と批判して王政復古を要求し自身が王位に着いたあかつきにはフランコ政権を拒絶することを口外して憚ら ないなど、状況を見据えない批判を繰り返すドン・ファンをフランコは王位を継ぐに値しないと判断してこの時点での王政復古は棚上げされた。結果、 ドン・ファンが王になることはなかった。  さて、誠実さを持って両陣営と注意深く外交していたホルダーナだったが、日本が占領していたフィリピンで傀儡政権のホセ・ラウレル大統領の独立 宣言に外交部から祝電が打たれたことがアメリカの怒りを招いた。以前よりスペインに厳しい態度を取ってきたアメリカはこれを中立違反としたのであ る。1944年1月末にはスペインに対する石油の禁輸措置がとられスペインの燃料事情が悪化した。ホルダーナは引責辞任をほのめかしたが、前任者 と違って生真面目に中立維持に努力していたホルダーナの辞職は得にならないと、米大使は制裁解除の方策を探ったが本国からの訓示は「スペイン領内 のドイツ人スパイの取締強化」「タンジールのドイツ領事館の封鎖」「タングステンの対独輸出停止」などだった。  結局、タングステンの禁輸(大幅な輸出制限)が落としどころとなって5月にはなんとか石油供給の再開が決まった。ただ、タングステンの対独輸出 は内戦時の借款返済の方便だったので、スペインとしては簡単に禁輸というわけにはいかず密輸という形で輸出を継続することにした。当然、両陣営と の間で抗議と釈明が繰り返された。  中立国にとって交戦国との外交や貿易は、まさに命を削るような難題であった。中立であるが故に余計と慎重さを求められるのである。交戦国が自分 のことしか考えていないのは、ドイツやソ連は言うに及ばずイギリスやアメリカも御同様だった(当然、日本も含まれる)。その心労がたたってか、1 944年8月にホルダーナ外相は狭心症で亡くなった。  1944年も秋になると、そろそろ戦後を見据えた駆け引きが活発となる。スペインの戦後の国際社会で名誉ある地位にありたいとする希望は連合国 から却下された。アメリカはスペインを国際連合から排除するとした。民主国家であるアメリカにとって民主主義を批判するフランコ政権は相容れぬも のであった。そんな折、南仏に脱出していた亡命スペイン人の国民連合がアラン渓谷からスペインに侵入しようとした事件があった。これは親装備を与 えられたスペイン軍に鎮圧されたが、1945年3月19日には王位にこだわっていたドン・ファンが『ローザンヌ宣言』なるものを発した。戦後のフ ランコ政権に代わる民主的な立憲君主制への移行準備(キンデラン将軍首班の暫定政府樹立など)まで取り組んでいた。  それに対し、フランコはその翌日から陸軍最高会議を3日間開いて独裁政権維持の正当化に熱弁を振るった。また、ドン・ファンを生涯の仇敵と見做 し、その対抗策として王国会議を設置した。これは、フランコを終生の摂政として彼の自主的退任もしくは死後に新国王が即位するというもので、これ によりフランコは事実上の終身元首となることが決まった。そして、戦後の1947年7月16日に国民投票で成立した王位継承法でフランコに新国王 の指名権が与えられたことでドン・ファンが王になる道は永遠に閉ざされた。  戦後の国際社会からは孤立してしまったスペインだが、直後の東西冷戦においてジブラルタル海峡を制する形となるスペインはアメリカにとって無視 できない存在だった。反共主義のスペインは西側陣営に入ることで国際社会に復帰し、フランコは1975年に死去するまで権力を維持し続けた。他の ファシズム国家が滅亡した中でスペインの独裁体制だけが天寿を全うできたのは、戦争に巻き込まれなかったことと第二共和制下での議会制民主主義の 無能さに対する記憶が残っていたからだろう。
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