流浪の終わり、戦乱の始まり
第一次中東戦争
【イスラエル建国】
【開戦】
【イスラエル建国】
かつてパレスチナの地にはイスラエル王国が栄えていた。旧約聖書によるとこのユダヤ人王
国の王はサウルという人で彼の跡を継いだダビデ王は内戦を制して王国の領土を拡大し、エル
サレムに首都を築いた。その次のソロモン王はエルサレムに神殿を建設して国の結束を固めよ
うとし、また近隣と貿易を行い王国の経済を向上させることに成功した。
だが、古代イスラエル王国の繁栄も紀元前922年のソロモン王の死去で終わりを告げ、王
国はイスラエルとユダの南北に分裂し内乱が発生した。その結果、疲弊したユダヤ人国家は外
敵の侵入を防ぐことができず紀元前8世紀頃にはイスラエルの名は歴史から消えた。そして、
70年に神殿がローマ人に破壊されるとユダヤ人はパレスチナから離散した。その後、637
年ごろからこの地に定住したのがイスラム教を信奉するアラブ人である。それから1300年
以上の間、アラブ人と残っていた少数のユダヤ人は共存を続けていた。
こうした状況が変化するのは20世紀に入ってからだった。第1次世界大戦の勃発で敵国の
オスマン・トルコに中東の権益を侵されそうになったイギリスは1915年にパレスチナのア
ラブ人指導者ハーシム家のフセインと会談して、後に「フセイン=マクマホン書簡」と呼ばれ
るイギリスに味方してトルコに対する反乱を成功させればパレスチナにアラブ人の独立国家を
創設させるという約束事を交わした。これだけなら問題はないが、イギリスはユダヤ人にも同
様の約束をしていたのである。そしてイギリス政府はアラブ人との約束を無視してユダヤ人と
の約束を実現させることを選択した。
パレスチナを離れてからのユダヤ人はヨーロッパなどに移住したが、ユダヤ教が偶像崇拝を
否定したり選民意識を有する宗教であったために現地社会との軋轢を生じ長い間迫害の対象と
なった。何といってもキリストを処刑した民族の子孫である。カトリック教会の勢力が増すと
同時にユダヤ人は憎悪の対象となり童話にも悪くないユダヤ人が処刑されるといった話がある
ようにヨーロッパにおいてユダヤ人迫害は定着したようなものだった。
このようなユダヤ人迫害はキリスト教徒の復讐心や人種差別による理由の他にユダヤ人にも
原因があった。ローマ帝国にも決して屈しようとしなかったようにユダヤ人には他民族と妥協
するという意識はなかった。その結果、パレスチナを離れる羽目になったのだがユダヤ人のこ
の頑なな態度はその後も変わらなかったらしい。
それから年月が流れユダヤ人は自分達の国を持ちたいと思うようになった。ナチスのユダヤ
人迫害は異常なことだが、それが現実に起こった背景にはヨーロッパ人のユダヤ人への差別的
感情があった。1894年のドレフュス事件はユダヤ人差別が原因での冤罪事件で、事件を取
材したテオドール・ヘルツルはこの事件でユダヤ人が自由を勝ち取るにはユダヤ人の国家を創
設するしかないと確信し、事件から2年後にウィーンで『ユダヤ人国家』という題名の小冊子
を刊行した。それ以降、ユダヤ人のパレスチナ移住は増え続け、1882年で推定24,00
0人だったパレスチナのユダヤ人は1919年に56,000に増加し、さらにドイツでユダ
ヤ人迫害が本格的になると1933年で23万人だったパレスチナのユダヤ人は3年後には4
0万人までに増加していた。当初、黙って見ていたアラブ人も移住したユダヤ人がユダヤ系富
豪の支援で土地を買い上げていくのを見る内にユダヤ人への反感を募らせ各地でユダヤ人を襲
撃するようになり、1936年にはアラブ人の指導者会議でユダヤ人のパレスチナ移住をこれ
以上容認しないことが決定された。
これに対し、イギリスは5月11日にアラブ過激派に弾圧を警告して鎮圧を試みたが、これ
を「フセイン=マクマホン書簡」における裏切りと感じたアラブ人は9月22日に反ユダヤ闘
争を反英闘争に拡大させるという方針を掲げた。するとイギリスは1939年のマクドナルド
白書でパレスチナ国家はアラブ人主導でユダヤ人移住は5年間で75,000人に制限し、そ
れ以上はアラブ側の承諾を要すると宣言しアラブ人の懐柔を図った。この決定はドイツとの戦
争が不可避となりつつある情勢で中東に反英感情が生じるのは不都合と判断したからだが、今
度はユダヤ人に反英感情が生まれユダヤ人はイギリスに頼らず自力での国家創設を決意した。
ユダヤ人に敵視されテロの標的となったイギリスは当初、強硬策で臨んだが次第にパレスチ
ナを統治する自信を喪失していった。第2次大戦の戦勝国でありながら経済が破綻寸前になっ
ていたイギリスは1947年2月19日に無責任にもパレスチナ問題を国際連合に一任すると
一方的に宣言した。これを受けて国連は「パレスチナ問題特別委員会」を設立して現地を12
回調査するなどしてパレスチナを分割するか否か協議したがなかなか結論は出ず、アメリカと
ソ連(ソビエト連邦、現在のロシア)が分割案を支持したので委員会は分割案の採用へと審議
を進めた。そして、1947年11月29日にパレスチナの分割を規定する国連決議第181
号が採択された。
この決議でパレスチナはアラブ人地区、ユダヤ人地区、国連統治領に分割されユダヤ・キリ
スト・イスラムの三宗教の聖地であるエルサレムは国連の管理都市となったが、この分割案は
ユダヤ人に極めて土地配分が有利であるとしてアラブ人の猛反発を招いた。彼等が怒るのも無
理はない。1946年でユダヤ人の所有地がパレスチナ全体の約26,000平方キロメート
ルの7%にすぎなかったのが、この決議では半分以上の14,000平方キロメートルがユダ
ヤ人の居住地とされ東地中海沿岸の肥沃な農耕地がその中に多く含まれていたのである。決議
が採択された11月29日をアラブ人指導者達は「服喪と圧制の日」と定め、ユダヤ人達への
武装闘争を開始した。これに対しユダヤ人も報復行動に出て、パレスチナ全土でテロによる報
復が繰り返された。12月17日にはアラブ連盟が国連のパレスチナ分割案の施行を許さない
という決議を発表し、アラブ人民にユダヤ人へのジハードの遂行を訴えた。こうした事態を沈
静化すべきイギリスは撤退の期限を国連が定めた1948年8月1日から大幅に繰り上げて5
月15日にするなど、治安を維持しようなどという気持ちが無くただ傍観を決め込んで無事に
本国に帰還できることを願っているという有様で、かつてはお隣さん同士で共に生活を営んで
きたアラブ人とユダヤ人は完全な戦争状態へと追いやられたのである。
アラブ人とユダヤ人の抗争は1948年になるとエスカレートしていき、各地で爆弾テロな
どが頻発した。老人や子供までもがテロの犠牲になる状況で大勢のアラブ人が隣国のシリアや
ヨルダンに脱出した。これがいわゆる「パレスチナ難民」の発生である。そして、彼らに同情
したアラブ人たちは義勇兵としてシリアとヨルダンから銃を持ってパレスチナに足を踏み入れ
た。
一方、ユダヤ人たちも国連決議によるユダヤ人国家建設への第一歩を踏み出したことによる
前途への希望にひたる間もなく来る軍事衝突への準備を整えていった。だが、ユダヤ人勢力で
最大の武装集団であるハガナは最も有力な政治指導者となったベングリオンの命令で、全軍を
6つの軍管区に分け、それぞれの軍管区で旅団(48年2月の時点でゴラニ、カルメリ、ギバ
ティ、アレクサンドロニ、エチオニ、キリアテ。後にネゲブ、イフタフ、ハレルが追加)を編
成したものの、旅団とは名ばかりでそもそもイギリスから非合法組織とされていたハガナにま
ともな銃器の移送や備蓄ができるわけもなく、一般のユダヤ人も銃器の保持を厳禁されていた
ため用意できたのは1万挺のライフルと3,500挺のサブマシンガンで、支援火器も76.
2ミリと50ミリの迫撃砲だけで重機関銃や野砲などは一切なかった。弾薬の備蓄量も3日分
のみで、これ以後ユダヤ人たちは海外の兵器市場からの武器調達に力を入れることとなった。
この時期は第二次世界大戦の終結直後ということもあって、ヨーロッパの兵器市場には各国の
余剰兵器が大量に出回っており、ユダヤ人勢力は容易にドイツ製の短機関銃やイギリス製の対
戦車擲弾発射筒などを主にチェコスロバキアの市場から購入することができた。他にも市場で
は購入が不可能な戦車も、若くて綺麗なユダヤ人の女性に戦車兵を誘惑させて盗み出し小規模
だが機甲部隊を編成している。航空機もイギリスのスピットファイアやモスキート、アメリカ
のP51やB17、チェコのS199(ドイツのBf109G)などを入手している。これら
を調達するうえで欠かせない資金は、皮肉にもヒトラーの政策で海外に流出した1億マルク以
上のユダヤ系の資産から賄われていた。
こうして双方とも本格的な武力衝突に備えていったが、アラブ人側には周辺諸国の支援が受
けられるという強みがあった。すでに第二次大戦末期の1945年3月22日にアラブ連盟が
結成されており、カイロでの調印式に参加したエジプト、シリア、トランスヨルダン、レバノ
ン、イラク、サウジアラビアは3年後の1948年2月9日に再びカイロでパレスチナでのユ
ダヤ人国家建設を断固阻止することを決めた。もっとも、アラブ諸国は決して一枚岩ではなく
て、内部には主導権争いがありユダヤ人国家粉砕後についても各国の思惑一致しておらず次第
に足並みが乱れていくことになる。これが後々影響していくのだが、この時点ではユダヤ人勢
力に対して兵員や武器・装備といった点で圧倒的有利にあり、アラブ人側は今後の見通しに楽
観的だった。
両勢力による武力衝突が本格化したしたのは、パレスチナのユダヤ人居住区のテルアビブで
ユダヤ国民評議会という臨時政府が誕生して、その正規軍となったハガナが各地で組織的な軍
事行動を開始した1948年3月以降だった。これに対してアラブ人側も本格的なゲリラ戦を
開始してユダヤ人勢力は劣勢に立たされた。この状況にハガナはイギリス軍が撤退することに
よって発生する一時的な軍事的空白状態を狙って、パレスチナのアラブ人社会を完全に破壊し
てアラブ人を強制的にパレスチナから追放し、全土でユダヤ人国家建設の既成事実を作るとい
う「ダレット作戦」を立案した。その第一段階として4月に開始された「ナハション作戦」は
テルアビブからエルサレムに至る最も重要な回廊を切り開いてアラブ人側の領土を分断してか
つエルサレムの長期持久態勢を確立させることを狙った作戦で、最終的には失敗するもののア
ラブ人側の名将アブド・エル・カデルを殺害するなどアラブ人側に大きな損害を与えた。そし
て、9日から10日かけて起きたデイルヤーシンというアラブ人の村でのユダヤ人武装勢力に
よる虐殺事件は、アラブ人側による報復を招きはしたもののパレスチナのアラブ人社会の破壊
と住民の追放を目標とするダレット計画に大いに貢献した。このダレット作戦の成功により、
パレスチナの大都市をほぼ手中に収めたユダヤ人たちはイギリス軍が撤退した5月14日の夕
刻にイスラエル国の建国を宣言した。イスラエルとは「神と闘う人」という意味で、第1次ユ
ダヤ戦争で民族の離散が始まり第2次ユダヤ戦争で祖国回復に失敗して以来、1800年以上
もの長きにわたったディアスポラの時代はようやく終わりを告げたのである。ちなみに、パレ
スチナとはユダヤ人たちの抵抗にてこずったローマ皇帝プブリウス・アエリウス・トラヤヌス
・ハドリアヌスがこの地からユダヤ的なものの排除を命じて属州としての名称も「ユダヤ」か
ら「シリア・パレスチナ」に変更させたこと由来する。
【開戦】
イスラエルが独立を宣言すると、その3時間後にアメリカのトルーマン大統領が独立を承認
する声明を出し、4日後の18日にはソ連もイスラエルの独立を承認して東欧諸国もそれに続
いた。だが、イスラエルの一方的な独立を認めないエジプト、シリア、トランスヨルダン、イ
ラク、レバノンは14日に宣戦を布告して翌日にイスラエルに侵攻した。
アラブ軍はヨルダン川のアレンビー橋からパレスチナに侵入した部隊が5月17日にエルサ
レムを眼下に見下ろせるオリーブ山頂とラトルンの警察砦を占領した。ラトルンの陥落でテル
アビブからエルサレムに通じる回廊は再び遮断された。イスラエルはラトルンを奪回するため
の作戦を何度か繰り返すが、訓練不足の部隊ではアラブ側の防衛線を突破することはできなか
った。
5月18日、オリーブ山を下ったアラブ軍はエルサレムの旧市街に突入した。エルサレムを
包囲したアラブ軍は1万発以上の砲弾を叩きこんで、ユダヤ人が多い新市街を集中的に攻撃し
た。だが、狭い街路では装甲車はイスラエル軍のPIATと火炎瓶の恰好の餌食とされて、ア
ラブ軍は攻撃のシフトを旧市街に切り替えた。旧市街への総攻撃は20日に始まって、守備隊
は補給を断たれながらも抵抗を続けたが、これ以上の犠牲は出すべきではないというユダヤ教
のラビたちの進言に従って28日に旧市街の守備隊は銃を捨てて投降した。
戦闘はエルサレム−テルアビブ間だけではなかった。エジプト軍も5月15日に1万の兵力
で国境を越えて来たのである。ファルーク国王は特別記念切手を発行させて大勝利の吉報を待
ち望んでいたのだが、当初こそイスラエル軍が3800名の兵士しかおらず重火器も皆無と劣
勢でエジプト軍はガザ、マジダル、ベエルシェバと進軍したもののヤッド・モルデハイで頑強
な抵抗に遭遇する。5日間の攻防の末、24日に陥落したがその間にイスラエル軍はテルアビ
ブの防備を強化することができた。そして、29日にイスラエル軍はチェコ製戦闘機S199
4機でエジプト軍を空爆した。爆弾の不発などで戦果はなかったが、イスラエルが航空機を保
有していたなどエジプト軍からしたら全くの想定外で、それ以上の北上を諦めて防御態勢に移
行するのを余儀なくされた。一方、北部のガリラヤ湖周辺では18日にシリア軍が進攻を開始
して、まともな対戦車火器の無いイスラエル軍はシリアのフランス製ルノー戦車に苦戦を強い
られるも20日に65ミリ砲が到着して砲撃すると、シリア軍はパニックになって退却した。
イスラエル軍は開戦当初は苦戦を強いられたが、重火器の陸揚げと組み立てが進むと各地で
反撃に出て一部ではアラブ側の軍隊を撃退することに成功していた。だが、ラトルンとエルサ
レムの旧市街が未だにアラブ側の手にあり、エルサレム−テルアビブ間の回廊が遮断されてい
る(ラトルン奪回に失敗したイスラエル軍はその南方の峡谷を通過するビルマ・ルートと呼ば
れる迂回路を6月4日から切り開いて7日にほぼ開通させている)など全般的な戦況はイスラ
エルに不利だった。追い詰められたイスラエルだったが、そこに救いの手が差し伸べられた。
戦争が勃発すると、パレスチナ問題は再び国連安保理で取り上げられ29日に4週間の停戦
と、国連によるパレスチナ休戦監察機構の設置を決める国連決議第50号が可決された。これ
によりアラブ・イスラエル両軍は6月11日から7月8日までの停戦に合意した。
停戦で破滅から免れたイスラエルは、それによって得られた貴重な時間をフルに活用して次
の戦いに備えた。イスラエルにとって問題だったのは同国の軍事力が統一されていないことだ
った。そこで、臨時政府は5月28日に政令第四号を発令してイスラエル国防軍(IDF)を
正式に創設した。だが、それは紛争が始ってから独自の路線を進んできた極右武装組織イルグ
ンの反発を招いた。IDFの創設はイルグンやレヒといった武装勢力も同軍に編入されること
を意味していたからだ。イルグンはヨーロッパからの義勇兵900人と武器弾薬を満載して到
着した輸送船「アルタレナ号」をIDFに引き渡すことを拒絶し、それによりIDFとイルグ
ンはテルアビブ近郊で戦闘状態になったが、6月28日には戦闘も終結してイスラエルの武装
勢力はすべてIDFの統括指揮下に置かれることとなった。
イスラエルが次なる戦いを効率よく進められるように努力していたのに対し、アラブ側では
足並みの乱れが表面化してきた。アラブ側の連合軍は名目上の総司令官にトランスヨルダンの
アブド・アッラーフ国王を据えていたが、休戦期間を利用して各国を歴訪して協力関係の強化
を訴えようとしたヨルダン王は、エジプト軍の前線を視察したいという要請をエジプトのファ
ルーク国王に拒絶されてしまう。エジプト王はパレスチナをヨルダンに編入しようとするヨル
ダン王の意図を見抜いていたのだ。彼だけでなく、周辺のアラブ諸国も対イスラエル戦争がヨ
ルダンの勢力拡大に繋がるのではないかという警戒感を抱きつつあった。その結果、休戦期間
中にアラブ側は有効な強化策を打ち出すことができなかった。
7月9日夜、IDFは「ダニー作戦」を発動した。テルアビブを脅かすロッドとラムラの占
領が目的で、ハレル、イフタフ、キリアテ、第8機甲の各旅団が南北からアラブ軍陣地に進攻
した。IDFは第8機甲旅団のフランス製H35軽戦車やイギリス製クロムウェル中戦車が故
障で次々に脱落するというハプニングに見舞われながらも、第89機械化コマンド大隊が荷台
を薄い金属板で覆っただけの装甲トラックでロッドに強行突入(町内を銃で乱射しながら走り
回った)するなどしてアラブ軍をパニックに陥らせて敗走させた。わずか1時間でロッドとラ
ムラは陥落して首都テルアビブへの直接的脅威は取り除かれた。
パレスチナで再び戦闘が発生すると、国連安保理は無期限の軍事行動の停止とエルサレムの
非軍事化を指示する決議第54号を採択し、イスラエルもアラブ連盟も決議を受諾して7月1
8日付で2回目の停戦が合意された。だが、前線は小規模な衝突が頻発しており、停戦などあ
って無きに等しい状態だった。何より、イスラエルにとってアラブ側の足並みが乱れている今
こそが領土を可能な限り拡大する好機だった。IDFはガリラヤ湖とネゲブ砂漠でも攻勢に転
じて、10月16日にはネゲブ砂漠のエジプト軍に対する総攻撃「ヨアブ作戦」を発動した。
ギバティ、ネゲブ、イフタフの3個旅団と第8機甲旅団の2個大隊を投入したIDFはエジプ
ト軍の拠点を各個に撃破して同軍を包囲した。アラブ側で最も精強なアラブ軍団を指揮する英
国人のグラブ中将はヨルダン王に包囲されたエジプト軍の救援を進言したが、4か月前にエジ
プト軍の前線を視察しようとして断られたのを根に持っていたヨルダン王はそれを却下した。
ファルージャで包囲されていたエジプト軍は抵抗を続けたが、IDFは「ホレブ作戦」を発動
してエジプト領内に流れ込んだ。これにより、イスラエルはアラブ軍団に占領されたヨルダン
川西岸地区とエジプト国境付近のガザ地区を除くパレスチナのほぼ全域を手中に収めることに
成功した。
1949年1月1日、イスラエルは「イスラエル軍がエジプト領内から撤退しないならイギ
リスが介入する」という警告により、2日までにシナイ半島から全兵力を撤退させるよう命令
を出し、戦争は終結へ向かうようになった。当初の熱狂的な反ユダヤ感情も戦局の悪化により
次第に冷めていってアラブ側の抗戦意欲は失われていた。一方のイスラエルも国家の維持に最
低限必要な領土を確保したことで和平の気運は高まった。休戦交渉は1月12日からロードス
島で開始され、2月23日にイスラエル−エジプト間の休戦が成立した。停戦時の最前線が休
戦ラインとされたため、ガザはエジプトに占領されたままとなった。続いて3月23日にレバ
ノンと、4月3日にトランスヨルダン(こちらもヨルダン川西岸地区はヨルダンに占領された
ままだった)と、7月20日にシリアとも休戦が成立した(イラクは休戦を結ばないまま兵を
撤退)。これにより、第一次中東戦争は終結したのである。
第一次中東戦争での勝利で独立を達成したイスラエルだったが、アラブとの戦いが終わった
わけではなかった。イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区が敵の手中にあるまま(第三
次中東戦争で占領)ということに不満を抱いていたし、アラブ側も故郷を追われたパレスチナ
難民への同情とイスラエルに寛大な欧米への不信感とそこからくるかつての植民地支配への反
発が強烈なナショナリズムを巻き起こしていた。
この頃にはヨーロッパの植民地だった地域も独立していったが、その影響力は未だ残ってい
た。例えばエジプトはすでに1920年代前半に独立していたが、地中海と紅海を結ぶスエズ
運河にはおよそ8万人のイギリス軍が駐留していた。エジプト政府もイギリスの言いなりで、
それへの反発から第二次大戦末期に愛国心に燃える若き軍人たちからなる自由将校団が結成さ
れた。第一次中東戦争が敗戦という結果に終わると、以前から不人気だったエジプト王室への
国民の支持は完全に消えうせた。1952年7月23日、自由将校団はカイロでクーデターを
起こした。エジプト革命の始まりである。26日にはナギブ将軍からファルーク国王に退位要
求が出され、王は豪華な王室ヨットに美女たちを乗せてエジプトを去った。翌年の6月には王
政の廃止とエジプト共和国の成立が宣言され、アレクサンダー大王のエジプト征服以来230
0年ぶりにエジプト人による統治(革命で倒された王家はギリシャのマケドニア地方の出身)
が復活したのである。
エジプトの情勢を取り上げたのは以後の中東戦争がイスラエルとエジプトの戦いを中心に進
行していくからだ。ナギブ政権を倒してエジプトの大統領となったナセルは第二次・第三次、
ナセルの急死後に大統領となったサダトは第四次の中東戦争を戦っていくが、イスラエルとの
戦争はエジプト経済の発展を決定的に遅らせることとなった。そのことを憂慮したサダトはイ
スラエルとの恒久和平を決断した。そして、1979年3月26日にアメリカのホワイトハウ
スでエジプト・イスラエル平和条約が調印されて、自由将校団の出身でナセルの友としてとも
にイスラエルとの戦争を戦ってきたサダトと、テロ組織のイルグンの隊長だったイスラエルの
ベギン首相との間に握手が交わされた。だが、パレスチナの地に平和が訪れることはまだ無く
いまなお多数の犠牲者が出ている。
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