わが帝国に勝つ可能性はあったのか
太平洋戦争の敗因研究
【国力的要因】
【体制の欠陥】
【作戦偏重の弊害】
【戦略の無能】
【思った通りの戦争が出来なかった日本海軍】
【通信の不備】
【最後に】
【国力的要因】
まあ、これは言うまでもなかろうと思えるが、だいたいどのくらいの国力差があったのか。
昭和19年における日米双方の兵器生産量を見てみると、航空機で26,500機と90,0
00機、造船で1,750,000dと19,000,000d、戦車で295両と19,5
00両となっている。念のために前者の数字は日本で後者はアメリカの数字である。この昭和
19年という年は日本の航空機生産がピークに達した年なのだが、それでもアメリカに3倍以
上も差を付けられている。しかも、他の兵器の生産を犠牲にしての結果である。
これだけでも日本がアメリカに敗北した原因が理解できるだろう。だが、問題はそれだけで
はなかった。問題なのは果たして日本が物資の生産量拡大にベストを尽くしたかである。戦前
から戦時中にかけて日本を支配してきた陸軍の統制派と呼ばれた人達は総力戦を研究してきた
連中で、昭和16年には『昭和16年体制』と呼ばれる強力な国家統制を実現した。例を挙げ
るなら、日本の車両用エンジンはシリーズ化がされていて雑多なエンジンを量産してきたアメ
リカよりも合理的だった。だが悲しいかな、日本は全ての戦争に関わることを軍主導でやって
いたのである。
前述したとおり、日本は昭和19年に25,000機以上の航空機を生産している。だが、
軍需大臣の藤原銀次郎(慶応大学工学部創設者・王子製紙社長)はそれをはるかに超える数の
航空機生産を目指していた。藤原は日本工業界での効率・生産性向上の第一人者で、全国の軍
需関係の工場を視察して前記の生産計画を打ち立てた。彼が軍需相として入閣したのが昭和1
9年7月22日でマリアナ沖海戦で日本が惨敗を喫した後である。本土への資源供給が途絶え
つつある状況でも彼は自分の計画に自信を持っていたそうだが、たった半年で辞表を提出して
内閣を去ってしまった。原因は彼が軍人ではないと言うことで必要な情報が提供されなかった
ことである。それでも藤原は前線が何が必要かを聞こうとするが、軍人から口出しするなと言
われてそれで打つ手無しとなって辞任した。
陸軍の上層部は確かに総力戦を研究してきた人達だろうが、それは軍人の側から見てのこと
で生産や物流といったことに精通していたわけではなかった。否、別にそれは構わない。軍人
とはそう言うものだからだ。工業や経済は専門外である。なら、その分野を専門家に任せるべ
きではなかったのか。しかし、軍は各工場に監督官を派遣して工場で働く労働者などを監督さ
せたが、戦争しか知らない軍人の監督官達は現場を混乱させ労働者や彼等を雇う工場関係者の
勤労意欲を低下させ生産効率や兵器の質をも低下させることしかできなかったのである。
航空機も戦車も熟練された技術で製造されないとその性能を発揮しない。しかし、監督官達
はノルマを達成することしか頭になく、その結果前線で稼働させるのに苦労する粗悪な兵器ば
かりが生産されるようになった。戦争が激化すると工場で働いていた熟練工達も次々と徴兵さ
れ戦地へと送られていった。残されたのは勤労動員の女性や学生である。日本軍の兵器は数量
的劣勢を性能で補うことにしているので、非常に精密に造られている。つまり、造るのに技術
と手間がかかるということだ。それを素人が造って、前線でこれまた経験の浅い若手搭乗員が
操縦して敵と戦うのである。勤労動員の若者達もその現場で経験を積めば技術も身に付くのだ
が、軍が彼等をたらい回しにしてしまったため技術が身に付くことはなかった。
それに対し、盟邦のドイツでは民間人のベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・
シュペーア軍需相に軍需に関する全ての権限を与えている。これはシュペーアがヒトラー総統
から信頼されていたからであるが、彼はこの信頼に見事に答えてドイツの兵器生産に多大な貢
献を果たした。時には軍部から無茶な要求をされることもあったが、彼はそれをはねつける勇
気も持ち合わせていた。軍の方もシュペーアの背後に総統がいればあまり強くはでられなかっ
ただろう。もし、軍部(ここでは政府と同じと捉えて)が軍需省を早期に設立して有能な専門
家をトップに据えて生産に関する全権を与えていたら、もっと多くの兵器が生産されていただ
ろうし、烈風艦戦も比較的早期に実用化されていただろうと考えると残念でならない。もしか
したら、日本製の自動小銃が実戦に投入されるのも夢ではなかったかもしれない。
このように日本にはアメリカのように豊富な資源と巨大な工業力が無く、それが両国の戦力
の優劣に繋がった。しかも、ドイツのように限られた資源と工業力を最大限に活かすこともで
きずに終わっている。これは軍の指導者達が総力戦を真に理解していなかったからであろう。
もっとも、彼等が本当に総力戦を理解していたら太平洋戦争は起こらなかっただろうが。
【体制の欠陥】
第二次大戦に参加した主要国の大抵は国家としての統一された戦争指導があった。無論、ア
メリカでの主に太平洋方面での陸海軍の対立、ドイツでの空軍と海軍の対立はあったが、それ
らの国には大統領や総統といった強力な指導者が存在していた。しかし、日本だけは政府も軍
部も指導できる人物が存在しなかったのである。
あまりこの時代のことを知らない人達でも軍部が戦争を指導していたことぐらいは知ってい
ると思うが、ではその軍部を指導していたのは誰かと聞かれたらまず東條英機の名が挙がるだ
ろう。確かに、東條は開戦を決定した総理大臣で陸軍大臣も兼任していた。しかし、彼は決し
てヒトラーやルーズベルト大統領ほど権力を持っていたわけではないのだ。
現在、日本は政府が軍(自衛隊)を統括していて、文民の首相と防衛大臣が軍人(自衛隊
員)を統制している。現役の自衛官は退職しない限り、首相にも長官にもなることができない
のだ。これがシビリアン・コントロールだが、戦前の日本ではこれはまったく機能していなか
った。
まず、軍が政府から独立していた。これを統帥権の独立という。軍は政府にではなく天皇に
直結していたので政府の言うことに従う必要はないのだ。また、政府を構成する内閣も首相に
各閣僚の任免権があるわけではなく、各省からの推薦された大臣がそれぞれの省を代表して内
閣を形成していた。首相に任免権がなければ大臣は自ら辞表を出して辞任する形となる。その
後任を決めるのも大臣が所属していた省で、その省が後任を出さなければ内閣は総辞職するし
かなくなるのだ。陸軍はこの手段を持って政府を無力化し自分達がコントロールできるように
したのである。
なぜ、シビリアン・コントロールが必要か。それは文民である政治家が軍を統制しなければ
軍は暴走していく一方だからである。日中戦争が拡大したのは軍が後退を重ねる中国軍を追い
かけたからである。軍人は目の前の敵が逃げたら本能的にそれを追いかけようとする。軍の上
層部としても敵が逃げるのにそれを追撃させないわけにもいかない。そうして日本軍は大陸の
奥地へと足を踏み入れていった。やがて、米英などの経済制裁で二進も三進もいかなくなった
軍は今度は米英と戦端を開いてさらに戦争を拡大させてしまった。戦争をしている軍が国家を
指導していたのだから自制がきかないのは当然である。無論、軍の上層部には戦争を回避しよ
うとする人達もいたが、やはり自分達をおさえることはできなかった。もし、日本で政府が軍
を管理下に置いていたら最悪でも対米戦の勃発だけは避けられただろう。しかし、現実は軍人
という視野の狭い集団に牛耳られていたためにアメリカとの戦争という自殺行為に走ったので
ある。
軍人は本質的に政治の介入を嫌う。これは古今東西どこの軍でも同じである。だからこそ、
制度としてシビリアン・コントロールが必要なのだ。しかし、戦前の日本は政治を行う統治権
と軍事を担当する統帥権が分立していて、それぞれが国家元首であり帝国陸海軍を統率する大
元帥である天皇に直結していた。制度として政府と軍が分立していたら、政治家が軍事に口を
出してくることに軍人が激しく反発するのは当然である。大正後期から昭和初期にかけての軍
縮は政府が軍の反発を押し切って実行したものだが、軍はその事を統帥権の侵害だとして政府
を激しく批判した。これを統帥権干犯問題といって、軍縮を断行した濱口首相は右翼に銃撃さ
れて死亡した。これ以後、政府は弱体化の一途を辿り満州事変から始まる軍の暴走を阻止する
ことができなくなってしまった。抑えようとすれば陸軍大臣を辞任させて後任を推挙しない手
段で内閣を潰してしまうのだから手の打ちようがない。それは軍人でも例外ではなかった。
東條は関東軍参謀長や陸軍次官といった要職を歴任し、第2次近衛内閣から陸軍大臣を務め
た陸軍のトップクラスに位置する人物だが、そんな彼でも首相となってからは陸軍の作戦に関
与しにくい状態に置かれた。たとえ現役軍人で陸軍大臣を兼任しているとしても、作戦に関す
ることは参謀本部が担当することであって、政府の人間が口を出すことは許されなかったので
ある。東條もようやくにして政府と軍が独立している弊害を認識して、陸軍大臣だけでなく参
謀総長も兼任することにしたのである(他に軍需大臣も兼任)。
陸軍大臣の参謀総長兼任は前代未聞の事だった。軍も一つの組織で成り立っているのではな
く、軍政と軍令に分かれているのだ。軍政の長である大臣と軍令の長である総長は天皇から直
接任命される親補職でほとんど対等な関係なのだ。それを一人で兼任するのだから軍部で東條
に対する批判が強まった。結果、東條は孤立を深めて辞任に追い込まれた。
陸軍が東條の参謀総長兼任に強く反発したのは、これが統帥権の侵害にあたると考えたから
だ。たとえ軍人でも政府の長である総理大臣が軍人の長である参謀総長を兼任することは軍人
の許容するところではなかった。
軍人がなぜ政治の介入を嫌うか。それは軍事のことを知らない素人が口を出せば、円滑な作
戦ができないと考えているからだ。事実、ベトナム戦争でのアメリカ軍の敗北は政治が作戦に
介入したことが主因だった。だが、その弊害も軍事に対して政治が無力であるという弊害より
ははるかにマシである。第1次世界大戦時のドイツは戦争に対し政府が発言権を持たないが為
にドイツが優勢の時があったにも関わらず、みすみすとそのチャンスを逃して帝政の崩壊と次
なる世界大戦を招いてしまった。
日本でもそうだ。すでに敗戦が確定的にも関わらず軍人は戦争を止めようとしなかった。そ
れは軍人としては正しい。安易に軍人が敗北を認めるのはそれは無責任である。だからこそ、
軍は政府によって統制されなければならないのだ。シビリアン・コントロールが発揮された良
い例として朝鮮戦争でのマッカーサー元帥の解任がある。
北朝鮮の侵攻から始まった朝鮮戦争は中国軍の参戦で激化していた。戦争のこれ以上の激化
を望まないアメリカ政府は38度線を北上の限界とすれば中国も和平に乗ってくるだろうと考
えていた。ところが、国連軍を指揮するマッカーサー元帥が「38度線には何の軍事的意義は
ない」と発言してしまったのである。それ以前にも、中国領土への空爆拡大や、中国沿岸の封
鎖、原子爆弾の使用に台湾の国民党軍の投入を進言するなど、中国との全面戦争になりかねな
い(そうなればソ連も黙っていられないだろう)発言が相次いでいるマッカーサーにトルーマ
ン大統領は神経を苛立たせていたが、この発言についに堪忍袋の緒が切れた。太平洋戦争の英
雄で最高勲章に輝く陸軍の重鎮をクビにすることは大統領としても相当の勇気がいることだっ
たが、これはアメリカがシビリアン・コントロールを発揮した瞬間だった。
現代の日本で軍を持てば戦争に繋がると短絡的におっしゃる先生方がおられるが、軍の存在
そのものが問題なのではなく、政治が軍を統制するシビリアン・コントロールが機能している
か否かが問題なのだ。なぜ日本が戦争へと突き進んでしまったのか。もうちょっと、勉強して
から発言してもらいたいものである。それと民主主義もちゃんと理解してね。議論することは
民主主義の義務ですよ。
さっきも前述したが、戦前の日本という国家は政府と軍が分離しているだけでなく、政府も
軍もひとつにまとまっていなかった。政府が軍を制御できなかったように軍も中央が現地部隊
を制御することができなかった。1931年の満州事変は現地の関東軍が独断で起こしたもの
だが、彼等は政府や軍中央の戦闘不拡大の意向を無視してついには満州を中国から独立させて
しまったのである。その後も彼等は中国との戦争を拡大させていき、ついにはアメリカとの戦
争にも発展した。その時の陸軍の中枢にいたのがかつて関東軍で好き放題やっていた連中なの
だから戦争が避けられなかったのも無理はない。戦争は軍人に任せるにはあまりに大きな仕事
である。軍人は政治に服従するべきで、そうでなければ国が滅ぶことにもなりかねないのだ。
【作戦偏重の弊害】
他の何よりも作戦を重視というか偏重していたのは陸軍もだが、ここでは海軍のみを取り上
げる。
海軍の未来の提督や参謀達は海軍大学校で学ぶ。そこでは作戦の事しか教えなかったとされ
ている。無論、そんなことも無いとは思うが、作戦にかなり重点をおいたのは間違いないだろ
う。その結果、柔軟かつ合理的な思考が出来る人材が育ちにくくなったのは否めない。
1922年のワシントン軍縮条約で日本は戦艦の保有量を対米7割にするよう要求した。な
ぜ、7割かというと6割では計算上不利と判定されたからだ。静的な比率で6割と7割の差は
100:60と100:70になるが、それが動的戦力になると100:36と100:49
になってしまう。それでは戦争にならないとして是が非でも7割を押し通すつもりだった。し
かし、結果は日本の戦艦保有量はアメリカの6割に抑え込まれた。日本は最後まで7割を主張
したのだが、議論は平行線を辿り結局は日本政府が妥協して6割案で条約は締結された。
海軍はこれに不満を持った。だが、当時の国家予算に占める海軍の割合は大正10年度で3
1.6%でこれに陸軍を含めると49%となる。さらに八八艦隊が揃う昭和2(大正16)年
には艦艇の維持費だけでも年度予算の40%に達するとされていたのだ。これでは国家が破産
してしまうのは目に見えているではないか。平成17年度の防衛関係の予算が5.9%でしか
ないことを考えれば如何に八八艦隊計画が実現性に乏しいかわかるだろう。
だが、作戦本意で物事を考える海軍の軍人はそれが理解できなかった。これは陸軍の話なの
だが、ある時陸軍の担当者が政府に予算を増やして欲しいと要求した。政府は財政的にそれは
無理と答えると、陸軍の担当者は「ならば紙幣を印刷すれば良いではいないか」と言ったとい
う。日本の軍人とはこの程度の経済感覚しかなかったのだ。それでも、当時はまだ冷静に物事
を考えられる人達がいたので、軍縮条約は結ばれ日本は破産から救われた。もし、軍縮条約が
なかったら太平洋戦争は史実よりもかなり早い時期に始まっていただろう。
軍縮条約は日本の戦略的勝利だった。だが、年月が経つに連れそうとは考えない人達が海軍
内で勢力を増してきた。ワシントン軍縮条約で戦艦と空母を、1930年のロンドン軍縮会議
でそれ以外の補助艦艇の保有量を抑え込まれた日本海軍は単艦の性能を向上させることで、数
量の劣勢を補おうと考えた。しかし、極度の性能向上は艦艇の安定性を低下させ、友鶴事件や
第4艦隊事件を引き起こした。これは船体の許容範囲を超える武装を施したが為に復元性が損
なわれたのが原因だった。海軍は数量の劣勢を跳ね返す手段を失ったのだ。
「条約に縛られずに自由に軍艦を建造したい」との思いは海軍にワシントン体制からの脱却
を決意させた。この頃は政府も力を失っていて海軍を抑えることはできなかった。そして、昭
和11年に日本は軍縮会議からの脱退を通告し、15年間のネーバル・ホリデーは終わりを迎
えた。
自分達の思い通りに軍艦を建造できると海軍の軍人達は喜んだだろう。だが、彼等は非常に
厳しい現実を突きつけられることとなる。
日本が海軍の増強を図れば当然、アメリカもそれに対抗する。日本海軍はB計画で大和級戦
艦2隻と翔鶴級空母2隻を建造し、その後のC計画で信濃級戦艦2隻と空母大鳳、水雷戦隊旗
艦用の乙型軽巡4隻に潜水戦隊旗艦用の丙型軽巡2隻の建造を開始した。
これに対し、アメリカは1937年からノースカロライナ級戦艦の建造を開始し、日本の新
型戦艦4隻が揃う1945年までに実際に戦艦10隻を竣工させている。これらの戦艦の主砲
は16インチで大和の18インチより1門あたりの威力は低いが、アイオワ級戦艦の50口径
16インチ砲は1分あたりの発射弾量で大和を上回っているのだ。発射弾量とはつまりその戦
艦の攻撃力と思ってもいいのではないだろうか。
なら、長門級戦艦の主砲を50口径にして9門搭載したら、長門の攻撃力は大和を超えられ
るのかと言うと決してそうではない。日米の戦艦の主砲弾は重量に差があったのだ。
アイオワ級の主砲弾の重量が1,225sなのに対し、長門級のそれは1,020sでしか
ない。アウトレンジからの攻撃を考慮する日本海軍は射程距離を伸ばすため砲弾の重量を軽く
しなければならなかったのだ。これは迂闊に戦艦を傷つけることが出来ない持たない国の宿命
と言わざるを得ない。さらにアメリカ海軍はアイオワ級をもう2隻建造することを予定してお
り、そのアイオワ級よりも主砲を3門多く搭載しているモンタナ級戦艦5隻の建造も計画して
いたのだ。そうなれば幾ら個々の性能が良くても不利は免れない。日本は対抗策としてD計画
で大和と同じ18インチ砲を搭載する戦艦1隻と20インチ砲を搭載する超大和級戦艦2隻の
建造を計画した。とにかく、質で量的劣勢を克服しようというのだ。
だが、超大和級は重量を大和級と同等に抑えるため20インチ砲を6門しか搭載できなかっ
た。これでは1分あたりの発射弾量が17,550sにしかならず、アイオワ級の22,05
0sはおろか大和級の19,710sにも劣る攻撃力となってしまう。つまり、日本戦艦は米
戦艦の射程圏外から攻撃しなければ勝つ見込みが薄いのだ。無論、装甲は日本戦艦の方が厚い
が、防御力とは単純に装甲の厚い薄いで決まるものではない。被害をどのくらい低く抑えられ
るか、損傷をどれだけ早く回復できるか、数値に表すことができない部分でも防御力は左右さ
れるのだ。日本海軍は防御力の強化には熱心だったが、損害を修復させる努力はアメリカ海軍
ほど熱心ではなかった。これがミッドウェーで空母を4隻も沈められた原因である。
条約失効後に計画されたアメリカの戦艦はノースカロライナ級2隻・サウスダコタ級4隻・
アイオワ級6隻で、これだけで太平洋戦争時の日本が保有した戦艦と同じ数である。さらにモ
ンタナ級5隻も建造が予定されていた。それに対し、日本海軍は大和級2隻を除くと改大和級
3隻と超大和級2隻の計5隻でモンタナ級と同数だが、アメリカにはまだ15隻の旧式戦艦が
あるのだ。
大差がつけられているのは戦艦だけではない。空母も日本が大鳳と改大鳳級5隻なのに対し
アメリカはエセックス級を18隻も建造する予定だったという。その他の巡洋艦や駆逐艦、潜
水艦も大量建造が予定されておりもし戦争がなかったと仮定すると、1941年11月で日米
の艦隊戦力の比率が日本が対米7割程だったのに対し、1945年には4割にまで差が開いて
しまうのだ。6割でどうのこうの言ってたのに4割である。日本海軍は戦う前から敗北が確定
してしまうという窮地にたたされたのだ。ようやくにして条約の軛から解放されたと思ったら
これである。彼等はここに至ってやっと軍縮条約が日米の差を広がないようにできる唯一の手
段であったことを認識できただろうか。たとえできたとしても今更どの面さげてもう1度条約
を結びましょうなんて言えるのか。
もし、日本海軍の中枢にいる人達がグローバルな視点で物事を判断できる人達だったなら、
軍縮条約を自分から破棄するような愚は冒さなかっただろう。しかし、作戦本位でしか物事を
判断できない人達が幅を利かせてしまったが為に海軍は対米戦を避けることができなくなって
しまったのだ。
1941年10月に東條内閣が成立すると、アメリカ政府は日本が交渉による和平を放棄し
たと判断した。東條はそれまで強硬に対米開戦を主張していたからだ。現在でも東条内閣の成
立で日本が戦争を決意したと思われているが、実は東條はこいつなら強硬な陸軍を抑えてアメ
リカとの対立を解消できると期待され組閣を命じられたのだ。天皇への忠義心が厚い東條なら
天皇が戦争を避けたいと思っていることを知れば必ずアメリカとの交渉を継続させるだろうと
考えられていた。事実、東條も交渉打ち切りの期限を延ばしてアメリカとの交渉を継続させて
いる。
だが、東條が開戦派であることには変わらない。しかし、開戦を決意すれば天皇の意に背く
ことになる。そこで東條は海軍に対米戦の勝算を尋ねることにした。もし、海軍が勝算なしと
返答したなら避戦も考慮していたらしい。しかし、海軍が「このまま行けばさらにアメリカと
の戦力差がひらくので、まだ戦力にそれほど差がない今の内に戦争した方がいい」と返答した
ので、開戦を決意したらしいのだ。もし、海軍が対米戦は避けるべきだと返答していたなら、
東條は開戦の意思を撤回させるには至らないまでも交渉の期限をさらに延期することぐらいは
しただろう。そうなればドイツがモスクワ前面で敗退したとの情報が入って、対米戦の勝算を
ドイツの快進撃に依存していた陸軍も開戦を思いとどまっていただろう。
日本海軍は作戦平たく言えば戦闘の事しか考えておらず、政治とかには関わろうとはしなか
った。彼等はアメリカをどのように打倒できるかの作戦を練るのに夢中だった。だが、彼等は
水上決戦による勝利しか追求しなかった。日本海軍は今までそれでしか勝利したことがないの
だ。日露戦争の時はそれでも良かった。しかし、大多数の艦艇を有する海軍同士の戦いが一度
きりの艦隊決戦で雌雄が決する事態が起こらないのは、第1次世界大戦での英独海軍で証明さ
れていた。もはや、海戦は一度きりの決戦で決着がつく時代から消耗戦の時代へと移行してい
たのだ。
しかし、日本海軍はそれが理解できなかった。否、したくなかっただけかもしれない。消耗
戦となれば圧倒的に国力が優る方が有利だからだ。彼等は太平洋戦争開戦までの間、如何にし
てアメリカ海軍に勝利するかの研究を重ねてきた。その結果、正面の事にしか目が向かなくな
り、後方がおざなりとなってしまった。
戦前の海軍は戦艦・巡洋艦・空母・駆逐艦・潜水艦以外の中小艦艇の整備が遅れていた。こ
れは正面の戦力を整備するのに精一杯で、それ以外の戦力に回す予算がなかったのだ。で、ど
うしたか。海軍は旧式化して第一線で使えなくなった老朽艦を後方任務に回すことで穴埋めを
しようとした。他にも海軍は中小艦艇のほとんどに対潜装備を施すことで対潜警戒が可能なよ
うにした。
対潜警戒はこれで一応形とはなったが、それ以外ではどうか。日本海軍では敵地への着上陸
作戦の研究がなされていなかった。それをしていたのは陸軍であった。日本は世界でもいち早
く強襲上陸用艦艇を建造した国だが、それを建造したのは海軍ではなく陸軍であった。日本陸
軍には運輸部というものがあり、そこが海上輸送を統括していた。なぜ、陸軍かと言えば、島
国である日本は海外に軍を派遣する時は必然的に海を渡る必要があることと、海軍が正面戦闘
に忙しくて陸軍部隊を運搬する船団の護衛にまでは手が回らないからである。
だが、陸軍はあくまで日本から大陸沿岸への輸送しか想定していなかった。しかも、中国と
の戦争では揚陸中に攻撃を受けて荷物が焼失するといった事態は起こらなかった。しかし、太
平洋戦争でアメリカ軍がガダルカナルに上陸すると、せっかく揚陸した物資が敵機に攻撃され
てしまう事態が起こった。日本軍には港湾施設が貧弱な地点への物資の揚陸と内陸への運搬を
迅速に行う能力が欠けていたのだ。そのため、せっかく揚陸した物資が敵の攻撃で焼失してし
まうといった事態が度々あった。そこで、日本軍はこの問題を解決するため水陸両用トラック
のスキ車や二等輸送艦などを生産したが、それらが出回る頃には戦争は日本に極めて厳しい状
態になっていた。もし、戦前から研究をして整備を始めていたら、ガダルカナルでの勝敗もど
うなっていたかはわからない。
【戦略の無能】
対米開戦にあたって日本陸海軍は第一段階の戦略として、南方の資源地帯への進攻を計画し
た。これは予想以上の進捗で成功裡に終了したが、次なる戦略をどうするかが決められていな
かった。対米戦を直前まで想定していなかった陸軍はともかく、海軍も戦前に想定していたと
は異なる状況のため次にどうするかという戦略を立てられなかった。信じられない話だが、日
本軍は確固とした戦略を持たずに戦争に踏み切ったのだ。無論、一応の戦争計画はあったが、
その中にドイツがイギリス(ソ連も)に勝利すればアメリカは戦意を喪失するだろうという他
力本願的な事も書かれていた。
次の第2段階をどうするか。陸軍はこれ以上東と南に戦線を拡大するのは日本の国力を超え
るとして反対し、西の中国とインドへの攻勢(できれば北のソ連にも)を主張した。これに対
し、海軍はアメリカ海軍の戦力が立て直される前にこれを叩くべきだと主張した。さらに、そ
の海軍内でもアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断しようという軍令部とハワイの攻略を
主張する連合艦隊司令部との意見が対立していた。経過から見るに陸軍の東方への進撃はなく
なったが、残された海軍の二つの案は両方を交互に行うことで妥結した。つまり、まずポート
モレスビーを攻略し、その次にミッドウェーを攻略する。その次にフィジーとサモアへの攻勢
を発動し、それが終わったらハワイ攻略を開始しようということだ。
結果は、ポートモレスビー攻略には失敗し、ミッドウェーも空母4隻を撃沈される敗北を喫
し、空母部隊が壊滅したことでフィジー・サモア攻略作戦も変更を余儀なくされ、やがてそれ
も中止が決定した。日本は攻勢に出る戦力も作戦計画も失ったのだ。その直後に開始されたア
メリカのウォッチタワー作戦で日本は防戦一方となり太平洋の島々から駆逐されていった。
日本海軍の戦略の特徴に融通の利かなさと一貫性の無さがある。1944年10月に発動さ
れた『捷1号』作戦は各艦隊が決められた行動を予定どおりに遂行することを想定して立案さ
れていたが、もし不測の事態が起きて予定に狂いが生じた場合の対処が何も考えられていなか
った。南からフィリピンのレイテ湾に突入しようとした西村部隊が米戦艦部隊の待ち伏せで全
滅した時点で南北同時に湾に突入するという日本軍の作戦は失敗したのだが、先述したように
そうした事態の対処が考慮されていなかったので、残った栗田艦隊にはただ突っ込めとしか命
令が出せなかった。日本海軍には戦力的劣勢を精巧な作戦で挽回しようという傾向が強く、そ
れが他の可能性を一切考慮しない言うなれば融通の利かない作戦となることが多かった。
一方のアメリカ海軍のレイテ島上陸作戦は参加した艦隊の指揮系統が統一されていないなど
の欠点があり、守るべきレイテ湾の輸送船団と上陸部隊が危機にさらされる事態が生じたが、
その程度の失敗など致命傷にはならないぐらいの戦力ポテンシャルがあった。対して、日本に
は作戦に齟齬を来しても、それを修復できるだけの戦力的余裕がなかった。だからこそ、精巧
すぎる作戦を練ったのだが、残念ながら日米の戦力差はその作戦が忠実に実行されるのを許さ
なかった。
元々、対米戦に確固たる勝算があって開戦に賛成したわけではなかった海軍は、戦局が不利
になると有効な対策が打ち出せなかった。1943年11月にギルバート諸島が米軍に占領さ
れると次にマーシャル諸島が狙われるのは明白だった。戦前の計画ではマーシャル諸島近海で
米艦隊と決戦を行うとされていたので、遂にその時が来たのだ。ところが、その1年以上前か
らソロモン・ニューギニア戦線で多数の航空機と艦船が失われ決戦を挑む戦力がないという有
様だった。特にギルバート戦の直前に発動された『ろ号』作戦が痛かった。この戦略的に全く
意味のない作戦で母艦機をも喪失したことで日本海軍は事実上の攻撃力を失ったのだ。
ギルバート・マーシャルもソロモンとニューギニアの間にあるラバウルも南洋における海軍
の最大の根拠地であるトラックの外郭防衛ラインと位置づけられていた。そのため、海軍は撤
退を勧める陸軍を押し切ってこれらの死守を図った。ところが、片方のラバウルで戦力を消耗
してしまったためにギルバートとマーシャルがあっさりと奪われてしまう失態を冒した。その
直後にトラックが空襲を受け基地機能が麻痺したことで、ラバウルの戦略的価値も失われた。
海軍はラバウルからの航空隊の撤収を決定したが、それはあまりにも遅すぎた。海軍は先が見
え無さすぎた。もし、先を見通した戦略を立てていれば多くの将兵が無駄死にすることはなか
っただろう。彼等は日本軍上層部の戦略的センスが欠如していたが故の犠牲だった。
その戦略的無能の極みなのが、1944年春以降のアメリカ軍の進攻路を予想したときだ。
海軍はパラオ方面に来襲すると予想していた。いろいろと理屈を並べているが、パラオならイ
ンドネシアやマレーシアに近いので燃料の心配が無く行動ができるというのが本音だった。呆
れたことに日本海軍の作戦は客観的判断ではなく、自分に都合の良いようにしか考えない主観
的な判断で立てられたものだったのだ。中にはマリアナ進攻を正しく予測した参謀もいたが、
彼の意見は取り入れられなかった。そして、海軍はアメリカ軍が自分達の想定どおりに行動す
ることを信じ込んでしまった。結果、マリアナ諸島もあっさりと奪われてしまった。その年の
末頃になると日本軍が取れる作戦は特攻しかなくなってしまった。
【思った通りの戦争が出来なかった日本軍】
直前まで対米戦を想定していなかった陸軍はともかくとして、何十年も前からアメリカを仮
想敵国としてきた海軍は対米戦をどのように遂行するかという戦略プランを策定してきた。し
かし、状況の変化(真珠湾作戦と南方作戦)により戦前からのプランは実行されなかった。た
だ、初期攻勢でフィリピンとグァムを攻略してその後のアメリカ艦隊の来襲を待ち構えてこれ
を邀撃するというプランは1944年に実現したが、攻勢の終了から敵艦隊との決戦までの期
間が長すぎたために海軍は戦力を消耗しきってしまって決戦本番で無様な敗北を喫してしまっ
た。逆にアメリカはほぼ予定どおりに戦前のプランを遂行することが出来た。日本軍の最大の
敗因は開戦の当初からいきあったりばったりの戦略しか立てられなかったことではないだろう
か。では、日本海軍が事前に想定した対米戦プランとはどのようなものだったのか、そして何
故海軍はそれを破棄しなければならなかったのか。
日本海軍の対米戦プランは漸減邀撃構想と呼ばれるもので簡単に言うと次の通りとなる。
1.フィリピンとグァムその他の西太平洋におけるアメリカ勢力圏の制圧
2.ハワイを出撃するアメリカ艦隊を補助戦力で持って漸減する
3.アメリカ艦隊の戦力が日本主力艦隊の3割増程度にまで減少したら決
戦を挑みこれに勝利する
まず、第一段階のフィリピン他の制圧はさほど手こずることなく終了するだろう。実際はフ
ィリピンの攻略には手こずったが、それも漸減邀撃構想には大きな影響は与えないだろう。問
題なのは第2段階で、これが首尾良くいくか否かで漸減邀撃構想の成否が左右されるのだ。
ワシントン軍縮条約で主力艦である戦艦の保有比率を対米6割に抑えられた日本海軍はこの
劣勢を巡洋艦以下の補助艦で補おうとした。すると今度は補助艦の建造にもストップがかけら
れるようになった。ロンドン軍縮会議である。主力艦はおろか補助艦の戦力まで制限を加えら
れた海軍はこの劣勢を跳ね返す手段を模索し続けたが、結局は有効な解決策が練り出されるこ
とはなかった。漸減邀撃構想も何度も練り直されていて、これが完成形だと言えるプランはな
いそうだ。とりあえず第2段階の補助艦による敵艦隊漸減がどのように成されようとしていた
のか書き込ませてください。
第2段階の先陣は潜水艦である。潜水艦には海大型と巡潜型があり、巡潜型が搭載する小型
水偵で敵艦隊や泊地の動向を偵察し、海大型が敵艦隊を攻撃するのである。この2タイプは後
に甲型・乙型・丙型に発展する。
潜水艦部隊の任務は敵の監視と追尾、そして攻撃である。しかし、演習の結果潜水艦側から
敵泊地の監視は可能、敵艦隊の追尾は困難、敵艦隊への攻撃は無理という報告が成された。実
際の戦闘でも潜水艦が敵の大型艦を発見捕捉し、攻撃に成功したという例は空母ワスプなど数
例でしかない。
潜水艦の次は航空機である。日本海軍はこの作戦に母艦機はおろか陸上機や飛行艇までも投
入することにしていた。そのため双発の陸攻や大型の飛行艇には雷撃機能が備えられている。
これは上手くいくだろう。実際にも陸攻隊がマレー沖で戦艦2隻を撃沈している。航空隊には
敵空母の殲滅という任務も加えられている。これも全艦撃沈まではいかずとも、戦闘不能に追
い込むことはできるだろう。
その次は水雷戦隊による夜襲である。これが第2段階の目玉で、海軍は夜襲の訓練を重ねて
きた。しかしながら、敵戦艦に魚雷を発射するには敵の巡洋艦・駆逐艦部隊を撃破しなければ
ならない。当然、敵は数に優っている。日本の重巡は攻撃力を重視することでこれに対抗しよ
うとしたが、果たして数的劣勢を跳ね返すことはできるだろうか。よしんば、それに成功した
としても味方の損害も甚大になるはずで、その時点で敵戦艦を雷撃する余力は残っているのだ
ろうか。そこで、海軍は金剛級戦艦を夜戦部隊に投入することも検討した。戦艦である金剛級
が投入されたら戦力のバランスは日本側に傾くだろう。アメリカでこれに対抗するために建造
されたアイオワ級が登場するのは1943年なので、それまでにこの戦いが始まっていれば夜
戦部隊の攻撃も成功する可能性がある。
だが、たとえ敵の戦力を漸減することができても最大の問題がまだ残っている。果たして敵
艦隊が戦意を失わずに進攻を続けてくれるかどうかである。アメリカ艦隊は上陸船団を伴って
いる。この船団を守る力を失ったと判断された時点で反転するかもしれないのである。そうな
れば漸減邀撃構想は失敗となる。たとえ戦闘に勝利したと言えるとしても敵艦隊を全滅させな
ければ漸減邀撃構想は成功したとは言えないのだ。この問題をどう解決するか何度も研究を重
ねてきたことだろうが、最後まで答えは見つけられなかったようだ。あらゆるパターンを想定
した戦略が組み立てられなかったところをみると海軍の参謀の作戦能力を疑うしかない。
それで仮に敵艦隊が前進を続けてくれたとして戦艦部隊がこれを殲滅したとしよう。ところ
が、それでも日本は1年以上の戦争の結果敗北したと図上演習の結果そうなったという。何故
か。戦争の終結には敵戦力の殲滅だけでは不十分で、敵国民がこの結果に戦争の前途に悲観し
て戦意を失うことが必要なのだ。で、敵国民が戦意を失わずに戦争が続行されたと想定してみ
ると、以後の戦況は実際とほとんど変わることはないだろう。なぜならアメリカは決戦で失っ
た戦力をそれ以上に回復することができるのに対し、日本は決戦前の戦力に回復させることす
ら困難だったからだ。
以上のような理由で漸減邀撃構想の実現は困難と考える海軍軍人が現れるようになった。第
1航空艦隊の編制と金剛級戦艦の夜戦投入を提唱した小沢治三郎が山本五十六連合艦隊司令長
官に「これからの戦争は一回こっきりの決戦ではなく、消耗戦で決まりますね」と言うと山本
長官は「そうだな」と答えたという。ご存じの通り、山本長官は漸減邀撃構想を破棄して真珠
湾攻撃を実行するのだが、この変更に軍令部反対しきれなかったのは彼等に漸減邀撃構想を成
功させる自信がなかったからである。対米戦間近の1941年にはアメリカだけでなくイギリ
スとオランダにオーストラリアとも戦わなければならないことが明白となったので、そっちの
ほうにも戦力を割かなければならない。そしたら、もひとつ日本は不利になるのだ。
でも、日本海軍の弁護をすると事前の作戦計画どおりにいかなかったのは日本海軍だけでは
ない。何例か似たことは起こっていた。関係のない話だが、少し見てみよう。
ドイツ第二帝国の場合
19世紀末から20世紀初頭のドイツは外交政策の失策によってロシアとフランス
の同盟締結を許してしまった。その結果前後から挟まれる形となったドイツはこの不
利を覆す手段を考えなければならなかった。
1891年からドイツ陸軍参謀総長の職に就いていたアルフレート・グラーフ・フ
ォン・シュリーフェンはロシアの伝統的な動員の遅さに目をつけ、ロシアの戦争準備
が完了する前にフランスを撃破して、その後にロシアを始末する計画を立案した。世
に言う『シュリーフェン・プラン』である。
当時、フランスの対独国境付近にはフランス軍が建設した要塞群による強固な防衛
ラインが形成されていて、正面からの突破は困難と見られていた。そこで、シュリー
フェンは中立国のベルギーを通過して右翼から敵を包囲することを考えた。当初は、
右翼の迂回は小規模でフランス軍左翼を攻撃する程度だったが、1906年から19
07年の開進計画では攻撃の重点が右翼にシストして、戦術的にではなく戦略的にフ
ランス軍主力を包囲することが計画されていた。中立国ベルギーを通過するという奇
襲と圧倒的戦力による衝力でフランス軍を急速に包囲して決着を付ける。かつて、普
仏戦争でナポレオン3世をセダンで降伏させたのと同じやり方でドイツはフランスに
勝利しようというのだ。最終的に迂回の規模はエッフェル塔を左に見て旋回し、パリ
ごとフランス軍を包囲することとされた。
以上のようにシュリーフェン・プランは大胆な構想で練られたもので、このことが
シュリーフェン・プランを名作戦とし実戦で大軍を指揮した経験がないシュリーフェ
ンを名将に祭り上げてしまった。実際にはこのプランの実現には様々な問題を解決せ
ねばならなかった。
まず、兵力の問題である。シュリーフェンは全兵力の7/8をフランス戦に投入す
ることにしていた。さらにそれを左翼と右翼に分け、右翼にかなり重点を置いた配置
を取った。しかし、それでもフランス軍を丸ごと包囲するには兵力が不足しているの
だ。さらに、シュリーフェンは戦闘による疲労や補給の問題、中立国を侵略するとい
う道義的問題には全く注意を払わなかった。ドイツは作戦万能主義で後方補給が軽視
される傾向があった。
兵力の不足はシュリーフェンもよく認識しており、参謀総長を辞しても死ぬまでプ
ランを練り直した。しかし、とうとう完全なるプランが作成されることはなく、諸問
題も未解決のまま戦争を迎えた。
シュリーフェンの後任となったヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モル
トケはシュリーフェン・プランを改悪して西方攻勢を失敗させた人物であるとされて
いる。だが、当初の計画通りベルギーを突破して国境会戦でフランス軍を撃破して、
フランス領内に進出しても、ドイツの各軍には進撃の差による間隙が生じ孤立する危
険が高まっていた。間隙は所によっては30キロもあったという。さらに、急速な進
撃で補給が追いつかなくなり、ベルギー侵攻を口実にイギリスが参戦し、ロシアも予
想より早く動員を済ませて東部戦線のドイツ軍は危機に陥った。モルトケは仕方なく
西部から2個軍団を引き抜いて東部に派遣したが、これらが到着する前にタンネンベ
ルク会戦で東部の危機は回避された。そのため、2個軍団の転進は西方攻勢失敗の原
因とされるようになった。確かに兵力不足のドイツ軍はプランどおりにエッフェル塔
を左に見て旋回するのではなく、右に見て旋回せざるを得なかった。つまり、パリご
とフランス軍を包囲するというシュリーフェン・プランはこれで事実上消滅した。し
かし、たとえ2個軍団が東に転進しなくてもドイツ軍にはフランス軍を包囲する兵力
的余裕がなかった。遅かれ早かれ、ドイツは補給に苦しまれ進撃を停止することを余
儀なくされただろう。だいたい、シュリーフェン・プラン自体が机上の空論にすぎな
いのだ。最後まで完全なプランとならなかった計画のどこが名作戦なんだ?普仏戦争
でフランス軍を包囲することができたのは敵がフランスだけだったからである。二正
面作戦のプランとしてはシュリーフェン・プランは現実的ではなく失敗を運命付けら
れていた。
モルトケは小心者だったから大胆になれなかったとされている。確かに彼は偉大な
叔父のように卓越した軍人ではなかったかもしれない。しかし、現実的な判断を下す
ことはできた。各軍が勝利まであと一歩と考えていた1914年9月には彼だけが戦
局に悲観的だった。捕虜の数が少なすぎることからフランス軍が敗走ではなく、秩序
だった後退をしていると正確に判断していたのだ。
ドイツは確かに短期決戦に失敗した。だが、長期戦という点からすればフランス軍
に打撃を与え、経済的な要所とベルギーを確保することができた。かなり優勢な態勢
で英仏連合軍に対峙する事ができたのだ。事実、戦争が後半になるまで戦況はドイツ
に有利だった。結果的にドイツは戦争に敗北するのだが、それはモルトケの責任では
ない。彼の後継者たちが戦略を誤った結果なのだ。
石田三成方西軍の場合
豊臣秀吉、前田利家死後の徳川家康の専横を危惧する石田三成は家康が会津の上杉
景勝討伐の為に上方を出陣すると、同志らと語らい挙兵した。三成は公式に認められ
た会津征討軍に対抗する大義名分を手に入れるため、豊臣政権の重鎮である三奉行連
名の徳川弾劾状を発表し、家康に次ぐ地位にある毛利輝元を総大将とした。ただし、
輝元の総大将は名目上だけで実際の西軍の指揮は石田三成らが執った。さらに、豊臣
秀頼からも公儀の軍として認められた西軍は人質徴集策もあって、家康率いる東軍に
匹敵する大軍勢となった。
家康に対抗できるだけの戦力を手にした三成は、上方における徳川方の拠点(伏見
城・田辺城)を真っ先に攻略して上方を完全に掌握、北陸の前田利長の南進を阻止し
伊勢を攻略、美濃の織田秀信を味方にして美濃を掌握して尾張に進出し清洲城を接収
して東軍の来攻に備えるというプランを考案した。
しかし、予想よりも早く東軍の先遣隊が尾張表に到着して清洲城に到着し、その後
美濃に進出して織田秀信の軍を粉砕して岐阜城を攻略したことで、三成のプランは修
正を余儀なくされた。短期間で岐阜城が陥落したことで後方地点として使われる予定
だった大垣城がいきなり最前線となってしまったのだ。この時点での美濃における西
軍は東軍よりも劣勢で、これは西軍が丹後や伊勢、近江に分散していたのが原因だっ
た。よく西軍が関ヶ原で敗北したのは小早川秀秋らが東軍に寝返ったのが原因と言わ
れるが、一番の敗因は肝心なときに戦力が分散していていたことであった。もし、関
ヶ原合戦がもう少し後に始まっていたら、大津城を攻略した部隊が合流したであろう
から西軍が勝利した可能性は高い。要するに三成のプランは机上の空論に過ぎず、予
想外の出来事に柔軟に対処できなかったこと、三成の身分では毛利輝元に出陣を強要
することができず、決戦を総大将不在で始めらければならなかったことが、三成が考
えていたとおりの戦が出来ずに敗北した原因だろう。
ジオン公国の場合
地球連邦からの独立を武力で達成しようと目論むジオン公国は軍備の拡大に邁進し
た。しかし、30倍の国力の差を埋めるのは並大抵のことではなく、ジオンはその困
難を技術的革新によって克服した。それが、汎用人型兵器のMSとレーダーを無効化
するミノフスキー粒子である。
だが、これだけでは局地的な戦闘では圧倒できても戦争に勝つという保証は得られ
ない。長期戦ともなれば国力の無いジオンは不利で何としてでも短期決戦で勝利する
しかジオンが生き残る道は無い。ジオンは奇襲で連邦軍の宇宙艦隊を殲滅し、コロニ
ーを連邦軍本部のジャブローに落下させて地球連邦の戦意を徹底的に挫く戦略を立案
した。ジオン軍首脳部は連邦軍宇宙戦力の殲滅もしくは無力化とコロニー落下による
ジャブロー壊滅に一週間、その後の残敵掃討と連邦との講和交渉で開戦から1ヶ月で
決着を付けられると考えた。
ジオンが地球連邦に独立戦争を挑んだのは宇宙世紀79年の1月3日だが、本当は
8月ごろに開戦したかったのではないだろうか。国民へのデモンストレーションとし
てはジオン公国が成立した8月に開戦して勝利した方が効果絶大だろうからである。
ところが、連邦軍もMSの研究・開発に着手しているとの情報がもたらされると事情
は変わってきた。当初は、連邦がMSを実用化するには数年掛かるだろうと楽観して
いたジオンも、連邦が訓練中の事故で遭難したMSをほとんど無傷で入手したらしい
ことを知ると大いに動揺することとなった。これで連邦も自分達と同程度のMSを開
発できるようになったからである。ジオンは予定を早めて開戦を決意した。既に戦略
プランは出来上がっていて、そのための戦力も整備されていたが問題は短期決戦構想
が破綻した場合の対応策が検討されていなかったことである。一応、地球侵攻という
プランはあったが、それをどのように行われるかといった詳細なプランはなかった。
仮にあったとしても、ジオンには広大な地球を制圧・維持するだけの国力が無かった
のである。それでも地球連邦軍がMSを持つことでジオンの優位性が失われる事態よ
りはマシだとして開戦が決まった。
そして、いざ開戦となると緒戦は予定通り連邦軍宇宙艦隊に大打撃を与え、連邦側
のサイドを壊滅させることに成功し、コロニーを地球への落下コースに乗せることに
も成功した。だが、コロニーは途中で大きく崩壊し、目標とされたジャブローには落
着しなかった。コロニーの破片が飛来した地域やコロニーが落着した地域では深刻な
ダメージがもたらされたが、開戦から一週間で連邦の戦意を徹底的に挫くというジオ
ンの戦略は失敗した。
作戦に失敗したジオンは再度のコロニー落しを実行するため未だ無傷のサイド5に
侵攻、同宙域に集結した連邦軍艦隊と交戦しこれを撃破した。再度のコロニー落しに
は失敗したものの、連邦軍艦隊を指揮していたレビル将軍を捕虜とすることに成功し
た。艦隊の壊滅と指揮官の拉致という事態に連邦内部ではこれ以上の戦争継続は不可
能とする意見が大勢を占め始めた。このまま何事もなく事態が進めば、ジオンの目論
見どおり戦争が1ヶ月で終結していただろう。ジオンでは誰もが自国の勝利を信じて
疑わなかった。
だが、予期せぬ事態が起こった。捕虜となったレビル将軍が脱走に成功したことで
将軍本人の口からジオンがかなり消耗していることが暴露されたのである。この事件
により南極で行われた講和交渉は決裂し、ジオンの短期決戦構想は破綻した。そして
それはジオン公国の破綻の始まりでもあった。
【通信の不備】
よく枢軸国の暗号を解読できたことが連合国の勝利に繋がったといわれる。たしかに、
暗号を解読したことで連合国は戦いを楽にすることができたが、それが戦争の帰趨に決定
的に関与したわけではない。
軍隊の規模も拡大し、戦争も複雑化すると通信の重要性は飛躍的に高まった。別に通信
云々で戦争の勝敗が決定されると言うつもりはないが、戦場ではそれが大きく関係するこ
とがある。
1942年秋のガダルカナル攻防戦で、日本軍が二度の総攻撃に失敗したのは指揮官が
配下の展開状況をよく把握できないまま攻撃命令を下し、全軍揃っての攻撃ができなかっ
たのが原因である。日本陸軍の通信は有線が主で、しかもジャングルのような高温多湿の
環境で使用されるのを想定されてなかった。仕方なく、伝令を走らせるのだが、初めて見
るジャングルで地図もない状況で迷子になったり、連絡を伝えるのにえらい時間がかかっ
てしまった。そして、いざ戦闘が開始されても各部隊がバラバラに行動して全く統制取れ
た攻撃ができなかった。もし、日本軍が無線で連絡をすることができたら、川口支隊の総
攻撃も成功しただろうと言われている。
ガダルカナルの戦いが日本軍の敗北で終わり連合国の反攻が開始されると、有線による
通信は攻撃側の砲爆撃でケーブルが切断されて遮断される事態が起こるようになった。1
944年夏のサイパン戦で、上陸した敵軍に夜襲をかけようとしたのだが連絡がつかなか
ったために態勢が万全でない状態で攻撃を開始したために何ら戦果を挙げることが出来ず
に敗退を余儀なくされている。
又、有名な話に航空機の無線の性能が低いため、無線機を取り外したパイロットが多か
ったというものもある。基地迎撃戦では基地との連絡が非常に重要なのだが、これではそ
れも望めない。これは認識不足ではなく、技術的なことに起因することだろう。本土防空
戦では、他にも原因があるのだが肉声で命令を伝えるために高射砲を短い範囲に集中させ
て一度の爆撃で大損害を被った例もある。航空機などの一部の分野では欧米と対等の技術
力を持つに至っても、総合的な技術水準はまだまだ二等国の日本は戦争を近代的に進める
ことが出来なかったのである。
【最後に】
他にもいろいろと敗因はあるが、簡単に言えば余裕の無さ過ぎる国が余裕の有りすぎる
国に喧嘩を売ったことが一番の敗因ではないだろうか。しかも、向こうにはいっぱい友達
がいるのに、こっちには遠くて助けてもらえない友達しかいない。しかも、余裕が無いの
にあっちこっちに手を広げていっぱいいっぱいになっている。さらにあまりに厳しい現実
に正面から向かおうとしない。これでは勝てるわけがない。仮に彼我の国力差が無かった
としても、日本がアメリカに勝つことは不可能ではないだろうか。戦争に勝つには絶対に
勝利するんだという確固たる決意とそれを実現させるための最大限の努力が必要である。
果たして、当時の日本はそれが出来ていたのだろうか。
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