果たせなかった陸軍の決戦による決着
奉天会戦


 
     日本軍戦闘序列
    満州軍
     第1軍  近衛師団 第2・12師団 後備近衛混成旅団 後備歩兵第5旅団
     第2軍  第3・4・5・8師団 後備歩兵第8旅団 騎兵第1旅団
     第3軍  第1・7・9師団 後備歩兵第15旅団 騎兵第2旅団 砲兵第2旅団
     第4軍  第6・10師団 後備歩兵第3・10・11旅団 砲兵第1旅団
     後備歩兵第1旅団
     後備歩兵第13旅団
     後備歩兵第14旅団
     重砲旅団
 
     鴨緑江軍 第11師団 後備第1師団 後備歩兵第16旅団
 
    総兵力約250’000人 重砲(9p以上)146門 野砲574門 山砲258門
    機関銃268挺 
 
 
 
 
     ロシア軍戦闘序列
    極東軍
     第1軍 第1軍団      第22・37狙撃師団
         第2シベリア軍団  第1シベリア狙撃師団 第5東シベリア狙撃師団
         第3シベリア軍団  第6シベリア狙撃師団 第3東シベリア狙撃師団
         第4シベリア軍団  第2・3シベリア狙撃師団
     第2軍 第1シベリア軍団  第1・9東シベリア狙撃師団
         第8軍団      第14・15狙撃師団
         第10軍団     第9・31狙撃師団
         集成狙撃軍団    第1・2・3狙撃旅団
     第3軍 第5シベリア軍団  第54・71狙撃師団
         第6シベリア軍団  第55・72狙撃師団
         第17軍団     第3・35狙撃師団
      第16軍団        第25・41狙撃師団
      騎兵集団         第4ドン・コサック騎兵師団 カフカス・コサック騎兵師団
                   オルレンブルグ・コサック騎兵師団 第2騎兵師団
                   第1ザバイカル騎兵師団 ウラル・ザバイカル騎兵師団
                   シベリア騎兵師団 第2龍騎兵旅団 コサック山岳騎兵旅団
 
    総兵力約320’000人 重砲60門 野砲1039門 山砲120門 機関銃56挺
 
 
 
 
 
 
【日露両軍の作戦計画】 【奉天会戦】 【陸軍記念日】 【この会戦の意義】
    【日露両軍の作戦計画】     今回の題名についている会戦とは何か。日本陸軍は会戦を決戦を意図した野戦と定義してい    た。だから、どんなに戦闘が激しくても旅順戦は決戦を意図して行われたのではないから会戦    とは呼ばれなかった。     なぜ、会戦のことを持ち出したかというと、それが日本陸軍の基本方針だったからだ。つま    り、陸軍は野外決戦でロシア軍の野戦戦力を壊滅させることで戦争を勝利に導こうとしていた    のである。これは日本陸軍だけでなく、当時の列強諸国も野戦の勝利による戦争終結を疑って    いなかった。     だが、第1次世界大戦で決戦による勝利は有り得ないことが判明した。快適とはとても言え    ない塹壕の中で敵の狙撃や砲弾の直撃ないし破片による死傷に怯え、攻勢が発動されるや機関    銃の猛射にさらされながら突撃を余儀なくされる。しかも、一度の攻勢で数十万、数百万の犠    牲を出しても戦線はほとんど移動しなかった。第1次大戦の勝敗を決したのは決戦ではなく、    長期持久戦に耐えられたか否かであった。     陸軍も第1次大戦を研究して近代戦では決戦が生起しないことを理解したが、同時に日本は    第1次大戦の様な消耗戦を戦い抜けないことも理解していた。だから、最後まで日本陸軍は野    戦万能主義の軍隊だったのである。     日露戦争でも陸軍は短期決戦を目論んでいた。なにしろ、ロシア軍は日本の10倍も兵力が    あるのだ。長期戦になれば日本に勝ち目はない。しかし、ロシア軍はその戦力の大半をヨーロ    ッパ方面に配置しており、極東にはわずかな部隊しか展開していなかった。しかも、ヨーロッ    パから極東への輸送手段はシベリア鉄道のみで部隊の増強には時間が掛かるという不利があっ    た。     そこで陸軍は第1軍と第2軍の分進合撃によって極東ロシア軍と決戦に挑み、増援部隊が到    着するまでにこれを殲滅するという戦略案を作成した。決戦の場は戦況の推移によるが最終的    には満州のハルビン付近になると予想された。     一方のロシア軍の戦略は兵力が日本軍を上回るまで守勢に徹する事であった。ロシア軍の見    込みでは制海権は自分達が掌握できるだろうから日本軍は部隊を朝鮮半島南部からでしか上陸    できないと考えていた。そこから満州まで陸路を延々と北上しなければならないから、時間も    掛かるし兵の疲弊も大となる。上手いこといけば疲弊しきった日本軍を撃破して戦争を早期に    集結させることもできるだろう。     ところが、明治37年2月6日(宣戦布告は10日)に戦争が勃発すると日本軍はロシア軍    の予想の遥か北に部隊を上陸させたのである。さらに日本軍はロシア海軍の拠点である旅順が    ある遼東半島にも軍を上陸させて橋頭堡を確保した。日本軍の上陸を阻止するはずのロシア太    平洋艦隊は旅順港に閉じこめられ、日本軍は兵員や物資を自由に輸送することができた。     緒戦は日本軍の思惑どおりに推移したが、以後の戦況は彼等にとって芳しくないものであっ    た。陸軍は8月から9月の遼陽会戦、10月の沙河会戦と2回の決戦のチャンスがありながら    それを達成できずに、挙げ句の果てには包囲にとどめるはずであった旅順の攻略に苦戦すると    いう有様だった。     旅順攻略は長期の封鎖に疲れた海軍が「陸上から港内のロシア艦隊を砲撃してこれを撃滅し    て欲しい」と陸軍に要請したことから始まった。だから、二〇三高地を占領してそこから旅順    港内のロシア艦隊を砲撃、撃滅した時点で旅順攻略は完了する筈だった。しかし、乃木第3軍    は敵艦隊撃滅後も旅順攻略を続行した。二〇三高地の陥落が12月5日、旅順攻略戦が終了し    たのは年が明けてからだから、日本軍は1ヶ月近くも戦闘を継続したことになる。勿論、その    間の損害は無視できるものではなく、決戦を控える日本軍にとってそれは許容しがたいもので    あった。     それなのに何故戦闘が継続されたかというと、度重なる日本軍の攻撃を撃退したことで本来    は準備不足のまま戦争に突入した旅順要塞を国際社会が『難攻不落の要塞』とイメージしたか    らである。戦争に掛かる費用を外国に依存していた日本にとってこのイメージは無視できるも    のではなかった。逆にロシア軍もそのイメージを意識したが為に戦略的価値がなくなった後も    必死になって抵抗しなければならなかった。     ともかくも、甚大な犠牲を出しながら攻略に成功したことで日本軍の国際的イメージは高く    なった。さらに乃木第3軍が自由に使えるようになったことで日本軍は全力で決戦に臨むこと    ができるようになったのである。     【奉天会戦】     この戦争における日本陸軍の基本戦略は敵の陸上戦力が増強される前にこれを野戦で撃滅す    るということである。これは終始一貫しているが、対するロシア側の戦略は必ずしも一致を見    なかった。現地の総司令官であるクロパトキン将軍は戦力が十分に整うまで守勢に徹するつも    りだったが、ペテルブルクからは積極的攻勢によって日本軍を殲滅すべしといった皇帝やその    側近からの要請が来ていた。     季節が冬から春になると満州の大地を覆っていた雪は溶け、辺りを泥濘と化した。雪解けの    泥濘は大軍の行動を著しく阻害する。そのため日本軍は雪解けの前に攻勢を仕掛けることにし    た。一方のロシア軍も攻勢を企画していた。これは守勢に徹するというクロパトキンの戦略に    反するが、ペテルブルクからの圧力に屈した結果だった。攻勢開始日は2月25日と予定され    た。     両軍が交戦状態に入ったのは2月24日であった。ロシア軍防衛線左翼に日本軍最右翼の鴨    緑江軍が接触したのである。この鴨緑江軍は新編成の部隊で韓国駐箚軍の配下に属していた。    その任務は旅順戦のために延期されていた沿海州への攻勢だったが、兵力不足に悩む満州軍が    これに反発、その結果事実上の満州軍配下として行動することになったのだ。     戦闘開始がクロパトキンに報告されると彼は鴨緑江軍を乃木の第3軍と誤認した。第3軍の    出現にクロパトキンは過剰に反応した。なぜなら彼も難攻不落の旅順要塞というイメージの虜    となっており、それを陥落させた第3軍をかなり過大評価していたのである。実際の第3軍は    第11師団を鴨緑江軍に取られるなど部隊を抽出された上に、残った部隊も旅順戦で被った打    撃から完全に立ち直っていなかった。     ともかくも第3軍の出現に慌てたクロパトキンは乗り気でなかった攻勢案をあっさりと破棄    して中央の部隊を左翼に引き抜いていった。これは満州軍が期待していた行動だった。満州軍    は鴨緑江軍と黒木第1軍が敵左翼を突き、次いで乃木第3軍が右翼を攻撃する。そして、敵が    中央の部隊を右翼と左翼に振り分けたのを見計らって、その中央部を奥第2軍と野津第4軍が    突破して敵戦線を崩壊させるという戦略を立てていたのである。もっとも、満州軍は中央突破    でなく両翼包囲を狙っていたという説もある。     鴨緑江軍を第3軍と誤認していたクロパトキンもそれが第3軍ではなく、右翼に現れた部隊    こそが乃木の第3軍であることにようやく気づいた。第3軍はロシア軍右翼に対し延翼運動を    開始しており、包囲を恐れたクロパトキンは右翼へも兵力を投入していった。兵力を増強され    たロシア第2軍は乃木第3軍に対し逆襲を開始した。左翼でも鴨緑行軍と黒木の第1軍の進軍    が険しい地形とロシア軍の抵抗に阻まれストップしていた。     ロシア軍が右翼と左翼に兵力を投入したため、その中央は手薄になっているはずだった。3    月1日、満州軍は奥の第2軍と野津の第4軍に敵中央部への総攻撃を発令した。だが、日本軍    の総攻撃は何重もの縦深陣地によって開始早々頓挫してしまった。この攻撃の主力である奥第    2軍は28p榴弾砲を含む250門の砲を集中させていたが、それでも敵陣地を制圧すること    はできなかった。戦線は膠着し、3月3日の時点で順調に進軍していたのは第3軍だけであっ    た。その第3軍に対してもロシア軍は防衛線を強化していった。     【陸軍記念日】     中央突破が不可能と判断した満州軍は包囲戦に切り替えることにし、第2軍を第3軍に追随    させることにした。これは攻勢の主軸が中央戦線から西部戦線に変更されたことを意味する。    だが、ロシア軍も日本軍の意図を察知し、第3軍の前面に戦力を集中させた。この結果、3月    5日には第3軍の進撃も停滞し、戦線は完全に膠着状態となった。     このままの状態が続けば日本軍にとって由々しき事態になる危険があった。膠着といっても    戦闘状態は続いているわけで連日の激戦で日露両軍に大量の死傷者がでた。特に兵力劣勢の日    本軍がこれ以上の消耗戦に耐えられないのは明かであった。     そんな日本軍の窮地を救ったのがクロパトキンにもたらされた誤報だった。司令部がある奉    天から北方60q地点の鉄嶺に日本の大規模な騎兵部隊が出現したというのだ。その数1万騎。    前述したようにそれは誤報だったが、クロパトキンはそれを事実と信じ込んでしまったのだ。    鉄嶺が陥落したら唯一の後方連絡線が遮断されてしまう。クロパトキンは6日、部隊の一部を    後方に引き下げさせた。     満州軍司令部がロシア軍の退却に気づいたのは8日の早朝だった。直ちに追撃命令が出され    たが、これまでの激戦で部隊は疲労困憊の極みにあった。しかも、ロシア軍も敗走したわけで    なく整然とした後退だったから、各地で日本軍に反撃を加えていった。そのため日本軍の追撃    は思うようにいかず、中には武器を捨てて敗走する部隊もあった。     この時点ではまだ勝敗は決していない。クロパトキンも戦線を後退させはしたが、それは北    方の敵に備え戦線を整理するためであった。ところが、一部の部隊が規律を失って敗走すると、    それが他の部隊に伝染していき、ついには整然とした退却だったのが完全な敗走へと変わって    しまったのである。     3月10日、第4軍の第6師団が奉天に突入し翌日これを占領した。これにより奉天会戦は    日本軍の勝利に終わったのである。日本軍の損害7万人、対するロシア軍の損害は9万人であ    った。戦後、この奉天占領日が陸軍記念日として国民の祝日となったのである。     奉天会戦は日本軍の勝利で幕を下ろした。その判定は日本軍が奉天を占領したことで下され    たのだが、日本軍の目的は奉天の占領ではなく敵野戦軍の殲滅である。確かにロシア軍は相応    の打撃を被ったが、日本軍もそれに引けを取らないくらいの犠牲を出している。しかも、ロシ    ア軍がまだヨーロッパに大量の戦力を残しているのに対し、日本軍の兵力は枯渇しかけていた    のである。上の日本軍の序列に後備とつけられた部隊があるが、この後備とは現役を退いたい    わば老兵で編制された普段なら第1線には使わない部隊である。そんな部隊も投入しなければ    ならないほど日本軍は兵力が不足していたのである。     陸軍が戦前から立てていた敵野戦軍の撃滅というプランはこの奉天の戦いでも実現しなかっ    た。決戦による戦争終結は陸でなく海でもたらされたのである。     【この会戦の意義】     陸での決着に失敗した日本陸軍だったが、奉天での勝利が全く意味がなかったわけではない。    致命的な敗北こそ喫しなかったものの、ロシア軍は緒戦から敗北を続けており国民の政府への    不満は高まり続けていた。それが血の日曜日事件となり戦艦ポチョムキン号の反乱となったの    である。ロシア軍にとってもこれ以上の戦争継続は困難だった。もし、日本軍が奉天で敗北し    ていたらロシア国民の不満も高まることなく、ロシア軍の兵力移動は容易に進み日本海海戦の    前に日本軍が大敗していたかもしれない。陸軍は日本海海戦までの時間を稼いだのである。日    本にとってのこの会戦の意義はそんなところだろう。しかし、世界的に見ると奉天会戦で日本    が勝利したことは十分すぎる意義があった。二流の後進国である日本が欧米列強のロシア帝国    に正面から挑んで勝利したのである。この事は欧米列強の侵略に悩まされてきた他の後進国に    勇気と希望を与えることになった。     さて、日本国内では戦争の状況をどのように伝えられていただろうか。途中での苦戦やその    末の勝利は報道されていただろう。だが、日本がこれ以上の戦争に耐えられないことは伏せら    れていた。もし、その事が外国に知られたら日本を支援している国からの援助に影響がでるだ    ろうし、何よりロシアに知られたら大変なことになる。だから、その事は伏せられることにな    ったのである。     だが、その事が一つの弊害を生み出した。事実を知らない国民は奉天や日本海海戦に勝利し    たことでロシアとの戦争に勝利したと勘違いして賠償金の獲得は当然と考えていたのである。    それがポーツマス条約で賠償金が得られないことが明らかになると国民は激怒して日比谷焼討    事件を引き起こすことになる。     この事は日本の軍部にトラウマとして残ることとなった。負けを許されない軍隊として日本    陸海軍は戦い続けなければならなくなり、それが日中戦争の泥沼化そして太平洋戦争の開戦と    なり敗戦へと繋がっていくのである。     もしかしたら日本は戦争に負けていた方が良かったかもしれない。たとえ戦争に負けたとし    ても国が滅ぶことは有り得ない。無論、ロシアの勢力が史実よりも強大となるだろうが、それ    も革命が勃発するまでである。     しかし、日本は勝ってしまった。その事が本来海洋国家である日本を大陸へと引き寄せる結    果となった。それがどのような結末を生んだか歴史を見れば明白であろう。戦後の明治41年    に朝日新聞で連載された夏目漱石の『三四郎』に主人公の三四郎と髭の男が会話する場面があ    るが、その中で男が「日本には富士山以外に自慢できるものはない。その富士山も昔から自然    にあったもので我々が拵えたものではない」と言うと、三四郎が「日本も是からは段々と発展    するでしょう」と弁護した。すると男はすました顔で「亡びるね」と云った。この予言がもの    の見事に的中したのは云うまでもない。     最後にクロパトキンに後退を決断させた大規模な日本の騎兵集団がロシア軍後方で破壊活動    をしているという誤報は何故生まれたのか。確かに日本軍騎兵部隊はロシア軍の後方で活動し    ていたが、その規模は報告にあったように1万騎という数ではなく極々小規模なものだった。    これに満州やモンゴルの馬賊を含めても1万騎という規模にはならないだろう。それなのにク    ロパトキンに届いた報告には1万騎とあるのは何故か。それはロシア軍騎兵と日本軍騎兵のあ    る戦いが大きく影響していた。     奉天会戦が始まる前の明治38年1月9日、騎兵第8連隊長永沼秀文中佐率いる第1挺身隊    がある村から出撃した。その任務は戦線後方奥深くの鉄道施設や橋梁を破壊して回ることであ    った。その途中の2月14日の夕方に永沼挺身隊はロシア軍騎兵部隊と遭遇した。このロシア    軍部隊は永沼隊を追撃していた部隊だった。その数およそ400。一方の永沼挺身隊の戦力は    出撃当初で176騎、これまでの過程で死傷者も出ておりこの時点での戦力はそれより低かっ    ただろう。生きている者もこれまでの長期の活動で疲労していた。普通に考えれば永沼隊に勝    ち目はなかった。しかも、敵は砲を2門も持っているのである。     だが、永沼隊長は部下達に突撃命令を下した。戦闘可能な者は3分の1程度に過ぎなかった    が、それでも部下達は優勢な敵部隊に向かって突撃していった。この日本軍の最後の気力を振    り絞った突撃に恐れを成したのか、ロシア軍騎兵部隊は算を乱して潰走した。日本軍騎兵部隊    の奇跡の逆転劇であった。     この戦闘で敗北を喫したロシア軍騎兵部隊の隊長は自分達の失態を誤魔化すため上官に敵は    自分達の10倍いたと報告した。400の10倍だから4000となる。これがクロパトキン    に届いた頃には満州やモンゴルの馬賊を味方にした日本軍騎兵部隊1万騎という数に化けたの    である。     とまあこれだけの事例を見れば日本の騎兵はロシアの騎兵よりも優秀だと思われるかもしれ    ない。倍以上の敵に勝利したのだからそう思うのも仕方ないが、実は日本の騎兵が乗馬格闘戦    でロシア騎兵に勝利したのはこの永沼挺身隊の事例が唯一だったのである。     日本の軍馬というのは大陸や西洋のものに比べ体格も軍馬としての資質も劣っていた。去勢    されていない日本の馬は集団で行動することを強制される軍馬としては不的確だったのである。    牡同士が隣に居合わせたら喧嘩をするし、牝馬の匂いがすると大声で嘶いて部隊の位置を敵に    暴露したこともあった。実際、ロシア軍は牝馬を放して日本軍の陣地を探り当てたこともあっ    た。イギリスの通信員は日本の軍馬を馬のような格好の猛獣と評している。明治33年の北清    事変では日本馬の汽車での輸送を拒絶されたほどである。     劣っていたのは馬だけでなくそれに乗る騎兵の技量も低いものだった。開戦前の閲兵式で各    国の武官の前で落馬して失笑を買ったものもいた。それに対し、ロシアのコサック騎兵は子供    の頃から馬に慣れ親しんでおり、個々の戦闘力では日本の騎兵を圧倒していたのである。日本    騎兵が彼等よりも勝っていたのは気迫だけだろう。この戦争でどえらい労苦を強いられた日本    軍は戦後、馬匹改良に積極的に取り組み大正期には欧米並の馬に仕立て上げたのであった。
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