帝国海軍初の超ド級戦艦
戦艦扶桑


排水量29,330t 全長205.1m 全幅28.7m 喫水8.7m 出力40,000hp 速力22.5kt 航続距離14ktで8,000浬 兵装 45口径36p連装主砲6基12門 50口径15p単装副砲16門    53p魚雷発射管6門  乗員1,193名            同型艦 山城                            
    巡洋戦艦金剛をイギリスに発注して超弩級艦の技術を修得した日本海軍はその超弩級巡洋戦    艦と行動を共にする超弩級戦艦の建造を計画した。     日本初の超弩級戦艦となる扶桑は金剛と同じ36p砲を12門搭載して、砲撃力を金剛の1.    5倍にいているがこれはイギリスの超弩級戦艦のアイアン・デュークの34p砲10門を上回    る火力であり、排水量も当時の世界最大であることから誕生当時の扶桑は文字通りの最大最強    の戦艦であった。     だが、問題もあった。扶桑は製造コストや人員の訓練や統一配置などの点を考慮して金剛と    同じ連装砲塔を採用したのだが、その結果艦の防御範囲が長くなってしまって艦の大きさの割    には防御が薄い戦艦となってしまった。また、速度も22.5ktと当時の戦艦としては高速    を誇っていたが、これもある大海戦をきっかけに低速とされてしまった。     扶桑級戦艦が建造されていた時期に発生した英独間のジュットランド沖海戦で、戦艦同士の    砲撃戦では防御力の不足が致命的な弱点であること、25kt以下の戦艦は海戦に参戦すること    もおぼつかないことが明かとなった。そのため、2番艦の山城が完成して扶桑級が揃ったとき    にはもうすでに最強戦艦とは言えなくなってしまったのだ。     扶桑級は4隻の建造が予定されていたが、予算の不足で2番艦以降の建造が大きく遅れてし    まったこと、その間にジュットランド沖海戦が発生して時代遅れとなった扶桑級を建造するメ    リットはないとして、艦隊編成の都合上2番艦の山城は扶桑級として建造するが、3番・4番    艦は設計を改め伊勢級として建造することとされた。     扶桑級は1番艦の扶桑が1912年3月11日に呉海軍工廠で起工して1914年3月28    日に進水、1915年11月8日に竣工し、2番艦の山城が1913年11月20日に横須賀    海軍工廠で起工して、1915年11月3日に進水、1917年3月31日に竣工した。     軍縮条約が締結され戦艦の新規建造が中止されると、扶桑は大改装が実施された。機関をそ    れまでの前部缶室を廃止して重油タンクとし、後部缶室も全面的に改めて機関出力を75,0    00hpに引き上げた。これにより速力が24.5ktに向上した。また、1番煙突がこれによ    り廃止された。     問題とされた防御力も向上した。ジュットランド海戦の教訓を取り入れて弾薬庫と機関室の    上面に51〜102oの装甲が追加され、さらに舷側にバルジを装着して遠距離からの砲撃や    魚雷に対する防御力を高めている。     他には主砲や副砲の仰角を高めて、それぞれ43度と30度として射程距離を30,000    m以上と15,000mに伸ばした。対空火器も強化され12.7p連装高角砲が新たに4基    搭載された。また、カタパルトが艦尾に設置され水偵3機が運用できるようになった。
排水量34,700t 全長212.75m 全幅33.08m 喫水9.69m 出力75,000hp 速力24.7kt 航続距離16ktで10,000浬  兵装 45口径36p連装主砲6基12門 45口径15p単装副砲14門       40口径12.7p連装高角砲4基8門 25o連装機銃8基16挺       水偵3機                              
    軍縮条約が失効し無条約時代に入ると、扶桑は1番・2番副砲を撤去して25o連装機銃8    基を搭載している。扶桑級が開戦までに施された改装はこういうささやかなもので、他の戦艦    が第2次改装で性能が向上したのと対照的となっている。これは旧式の上に低速な扶桑級はこ    れ以上改装してもさほどの性能の向上は望めないだろうとの判断があったからである。     開戦後はミッドウェー海戦に参加した以外は出撃の機会がなく、トラックで無為に過ごす日    々を送っている。この間に25o機銃が増載されて連装10基、単装17基の搭載量となった。     その後、一旦は山城が練習戦艦となって連合艦隊付属になったため、所属していた第2戦隊    が1944年2月に解隊され、同年6月のマリアナ沖海戦にも参加しなかったが、この海戦で    惨敗を喫したことにより扶桑にもようやく出番が回ってくることになり、9月に第2戦隊を再    編している。10月の捷1号作戦では対空火器を大幅に増強して25o機銃を3連装8基、連    装16基、単装39基の計95挺と各種レーダーを搭載して第2艦隊麾下として参加するが、    低速の本艦は主力と一緒に行動することができず、別働隊として参加することになった。これ    が扶桑級にとって最後の出撃となり1944年10月25日にスリガオ海峡海戦で米駆逐艦の    雷撃で沈没した。生存者はゼロという痛ましい最期であった。僚艦の山城も米戦艦の砲撃で司    令官の西村中将と共に沈んだ。
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