シリーズ 武田軍団崩壊への軌跡・最終章
風林火山、天目山に散る


 
       長篠の合戦は織田・徳川と武田の戦略状況を一変させた。多数の武将を失った
      武田家はそれまでの積極的攻勢から守勢への転換を余儀なくされたのである。危
      機的状況の中、勝頼は武田の勢力と己の威信を回復させるために心血を注いでい
      く。それは一時的に達成されたかに思われたが、他ならぬ勝頼自身の失策によっ
      てそれすらも失敗に終わってしまう。そして、一向一揆を屈服させ余裕ができた
      信長の総攻撃の時を迎えるのだった。
 
 
【かつてない危機】 【外交政策の致命的な失敗】 【滅びの時】 【信玄の遺産】
    【かつてない危機】     天正3年5月の長篠合戦はあくまで徳川と武田の戦いであって織田はメインではなかった。    そのため11月に美濃岩村城を奪回した他は武田への対処は徳川に任せていた。一方、領国の    広範囲を敵に占領されていた徳川家康は勝利の勢いに乗じてそれらの奪回に動いた。6月から    12月までの間に家康は遠江二俣城を奪回し、光明城・諏訪原城・小山城を攻略、さらには駿    河にも侵攻して伊豆の境目にまで達して方々に放火して回った。これに対し、武田勝頼は7月    に2万の大軍を率いて遠江に出兵した。徳川勢に攻撃されている小山城を救援するためである。    だが、それはほとんど意地での行動であり、大敗のショックから脱しきれていない武田勢の士    気は上がらず勝頼は空しく引き上げるしかなかった。勝頼は9月にも2万の兵で駿河に出兵し    ているが、この時もさしたる戦果を挙げることはなかった。     長篠敗北後、勝頼は軍勢の再建を急いだ。まず、勝頼は鉄砲衆の強化に着手した。武田家で    は信玄の時代から鉄砲に関心を持っていたが、長篠で鉄砲が大きな戦果を挙げると家臣の鉄砲    軍役の負担が増加されている。例えば、長篠以前では知行高228貫586文の大井左馬允の    軍役量45人のうち鉄砲は一人だけである。177貫40文の桜井六郎次郎が鉄砲の軍役を負    っていないので、この時の武田家はだいたい200貫以上の家臣に鉄砲の軍役を負わせていた    と思われる。これが長篠以後になると、50貫ぐらいの家臣が鉄砲1の軍役を義務づけられて    いるのである。さらに勝頼は鉄砲の鍛錬を怠れば処罰の対象にすると規定し、天正8年からは    鉄砲玉薬奉行の輪番制を定めている。これは鉄砲と玉薬を武田の大名権力の下に管理しようと    したからだろう。     しかし、武田家が被った打撃は鉄砲の強化だけでは修復できるものではなかった。長篠では    多数の譜代重臣や寄親が戦死してしまっている。織田家や北条氏は城主クラスの武将が討死し    てもすぐに適当な後任が決められるが、武田家では城主の後任はその息子もしくは一族しか有    り得なかった。これは2世、3世の能力如何ではその部隊の戦力が大きく低下する可能性があ    ることを意味する。さらに数千人ともされる兵士の損失も埋めなければならないのだが、勝頼    は軍役衆以外の雑兵をかき集めることで急場をしのごうとした。信玄は軍役衆以外の者が従軍    するのを兵の素質低下を招くとして一切認めなかったのだが、勝頼としてはそうは言ってられ    ない状況だったのである。     そんな勝頼にとって織田信長が一向一揆との戦いに忙殺されていることは不幸中の幸いであ    った。信長との直接対決が当分避けられる情勢になったことで、勝頼は徳川勢だけを相手にし    ていればいいからである。長篠以後でも武田は徳川よりも優勢であり、一時的にしろ勝頼は勢    力を拡大させてすらいたのである。     だが、信長が本腰いれて武田領に侵攻すればいまの武田勢に勝ち目はないのは明白であり、    勝頼は早急に勢力を回復させる必要があった。しかし、たとえ徳川領を併呑したとしても織田    家との国力差を埋めるのは困難であり、徳川家を屈服させる事自体が困難になっていたのであ    る。     焦る勝頼に思いがけないチャンスがめぐってきたのは天正6年であった。隣国越後の上杉謙    信が急死し、上杉家に内紛が勃発したのである。いわゆる「御館の乱」である。     【外交政策の致命的な失敗】     天正6年3月9日、上杉謙信が春日山城の厠で倒れ昏睡状態に陥った。上洛して信長と雌雄    を決しようとしていた矢先であった。御周知のように謙信は生涯不犯を通した人であり実子は    いない。従って養子の中から後継を決めなければならない。謙信には4人の養子がいたが、そ    の中で有力な候補となったのが謙信の姉の子である長尾喜平次景勝と北条氏から人質として送    られてきた上杉三郎景虎である。     この二人のうち、景勝は謙信の甥であり血筋からいって彼が最有力であると思われるだろう    が、景勝の父政景はかつて謙信に反逆したことがある人で、その死も謙信による暗殺ではない    かとされているのである。それに対し、景虎は上杉家に来る前は武田家に養子に出されており    謙信はそれを不憫に思って景虎を手厚く迎えた。当時、氏秀と名乗っていたこの養子に謙信は    自分の初名である景虎の名を与え、景勝よりも先に上杉姓を授けるなど明らかに景虎の方を優    遇していたのである。といっても、謙信が生前に後継者を明言したことはなく、そこが景勝派    の付け入るところとなったのである。     謙信の近習樋口与六(後の直江兼続)は11日、謙信が再起不能と判断すると密かに景勝を    呼び出し謙信の枕辺に控えさせた。そして13日の午後2時頃に謙信が危篤状態に陥ると、ず    っと側で看病していた直江信綱の未亡人が謙信の遺命として景勝家督を声高に告げたのである。     こうして景勝家督が決定したのだが、それで景虎派が納得するはずもなく武力衝突は避けら    れない状況となった。景勝派は先手を打って景虎派の籠もる三の丸に砲撃を加え彼等を城外に    追放し春日山城を完全に制圧した。だが、景虎は前関東管領の上杉憲政の館に逃げ込み、実家    の北条氏に救援を求めた。景虎の下にも武将達が続々と参集したため、上杉は二つに分裂して    の内紛に突入した。そして決着がつかぬまま天正6年が暮れていった。     弟から救援を求められた北条左京大夫氏政は2500の軍勢を上野に差し向ける一方、盟邦    の勝頼にも出兵を要請した。勝頼は要請に応じ、5000の兵をを率いて北信に出陣した。勝    頼にとっても景虎は妻の兄弟という身内である。     北条と武田の動きは景勝を窮地に陥れるものであった。だが、樋口与六は冷静に状況を見極    め、勝頼に和睦を求めた。その条件は、勝頼に金50枚を贈る、東上州と奥信濃の上杉領を武    田に割譲する、勝頼の妹を景勝の正室とするの3つでこれは武田への服従を意味していた。勝    頼はこの申し出に困惑するも考えた末に受諾することを決意し兵を引き揚げた。     武田勢の撤兵で情勢は一気に景勝に傾いた。景虎に味方していた諸将も次々と景勝に寝返り、    孤立した景虎は天正7年3月24日に自刃した。     勝頼が景虎を見捨てたことで武田と北条の関係が悪化し、同盟の破棄に繋がったとされてき    たが、それには疑問を感じる。確かに武田勢の撤退で景虎の命運は尽きたのだが、その間北条    勢は何をしていたのか。たとえ武田勢が兵を退いたとしても氏政が本腰いれて景虎を救援すれ    ば形勢は挽回できたはずである。しかし、氏政は自ら出陣することもなく、しかも派遣した軍    勢も武州勢2500のみである。その軍勢も上越国境の三国峠周辺に布陣したまま2ヶ月も動    かず、武田勢が引き揚げるとそそくさと本国に退いているのである。つまり氏政は弟を見捨て    たのである。     正直、北条氏にとって景虎は兵を損じてまで助ける価値のある人物ではない。景虎は天文2    3年に北条氏康の七男として生まれたが、10代前半の頃に人質として武田に送られ永禄10    年に送り返され大叔父・北条幻庵の養子となるも元亀元年に上杉への人質として越後に赴いた。     この経歴からもわかるように景虎は北条氏にとって人質要員でしかなかった。当主の弟とい    っても数多くいる中の一人に過ぎず、氏政にしたら代わりは幾らでもいるのである。親子兄弟    が殺し合うのが珍しくない時代だから、氏政が弟を見捨てても不思議ではない。     しかし、景虎が上杉の家督を継げば越後と越中・東上州・奥信濃が北条の勢力圏となる筈で    ある。こんなうまい話滅多にあるものではない。だが、北条氏にとって何よりも重要なのは関    東の支配であってそれ以外の領土にはあまり興味がなかった。事実、後の武田遺領を巡る徳川    との交渉で北条氏は上野の領有を家康に認めさせる代わりに甲斐と信濃から撤退している。い    くら状況が不利(甲斐での局地的敗北の連続と真田昌幸の寝返り)だったとはいえ、その気に    なれば甲信両国にも領土を拡大できたはずである。北条にとって甲信よりも関東である上野の    方がはるかに重要だったのである。     それに上杉家が傘下になれば北条氏は信長との戦いを覚悟しなければならない。うまいこと    信長と和睦できればいいが、最悪の場合信長の次の標的となりかねない。氏政は上杉家を乗っ    取ってもさほどメリットはないと判断したのではないだろうか。     積極的に動こうとしない北条勢に勝頼は不信感を抱いた。北条は武田だけを戦わせようとし    ている。救援を欲しがっている景虎も協力してこようとしてこない。北条が景虎を助けようと    しないのになぜ武田が戦わなければならないのか。勝頼は景勝が提示した条件に目が眩んだの    ではない。北条と景虎が信用できなくなったから兵を退いたのである。弟を見捨てた氏政に勝    頼を非難する資格があろうか。     とはいえこの一件で両者の関係が悪化したのは事実である。しかし、それも上杉から割譲さ    れた東上州の帰属を北条との間で調整すれば友好関係の回復ぐらいは期待できるはずである。    上州を放棄したことで上杉家は謙信以来の関東政策を破棄したことになり、それによって北条    と上杉の対立関係も解消となる。さらに上杉との和睦が成立したことで勝頼は上杉に備えてい    た1万ほどの兵を他方面に転用することが可能となったのである。     奥信濃と東上州の割譲で武田は信濃と上野のほぼ全域を領有することに成功した。しかも上    杉との同盟が成立したことで勝頼は全力で信長と家康との戦いに専念することができるように    なった。     ところが、なにをとち狂ったのか勝頼は兵を遠江ではなく関東に差し向けたのである。その    ために信長に和睦を申し入れ、人質となっていた信長の四男・勝長を返還さえしている。そん    なことしても信長が武田を許す筈がない。勝頼は信長という男を甘く見過ぎていた。そして対    北条戦の見通しも甘すぎたのである。勝頼は北条を屈服させることができなかった。当たり前    である。信玄や謙信でさえできなかったことが勝頼にできるわけがない。しかも、勝頼が北条    戦に夢中になっている間に遠江の要衝・高天神城が徳川の攻撃で陥落してしまっている。     高天神城は「この城を制する者は遠州を制す」といわれる程の要衝であり、勝頼にとっては    父・信玄が落とせなかったのを自分が攻略したという栄光の象徴であった。だが、家康の執拗    な攻撃により高天神城は天正9年3月22日に城将・岡部丹波守元信以下城兵ことごとく玉砕    して落城した。同城の陥落で遠江の武田勢力はほぼ一掃された。さらに北条氏が信長に臣従し    たことで勝頼は正面と背後に敵を抱える羽目となった。     これは明らかに勝頼の失策であり、武田家をさらなる窮地へと陥らせるものであった。それ    まで勝頼を支えてきた一族の中にも勝頼を見限る動きが出始め、ついに最期の時が訪れようと    していた。     【滅びの時】     勝頼は信玄の後を襲って武田家の当主となった。しかし、勝頼が継承しようとしたのは信玄    のやり方ではなく信長のやり方だった。     勝頼は天正9年2月に自分の居城である新府城の築城を開始した。その前年の12月に信長    が武田攻略の準備を始めさせているので、それに対応してのことだろう。     御周知のように信玄は居城というものを持たなかった。「人は石垣、人は城・・・」とうた    われるように信玄は家臣団の結束で国を守ろうとした。それが勝頼の代になって城に頼まなけ    ればならなくなったことで、ことさら勝頼に対する評価が厳しくなってしまった。確かに、人    を頼りにできなくしてしまったのは勝頼の責任だが、だといって先君のやり方をそのまま続け    ていくのは愚策以外の何者ではなかった。勝頼は現状を認識してそれに適応した対策を立てて    いたのである。それに城は大名の居城とか軍事上の拠点だけを意味するものでない。     城は権力の象徴である。豊臣秀吉が「普請狂い」といわれるほどに城を築城していったこと    も、徳川幕府が諸大名に命じた「天下普請」も配下の諸大名に自らの権力を誇示するためであ    る。信長の安土城や秀吉の大坂城、家康の江戸城はただ無駄に規模の大きくしているのではな    い。他の者には到底真似のできない城を築くことによって心理的圧迫を加えることで、抵抗し    ようとする意志を挫くためである。徳川幕府の天下普請によって加藤清正や福島正則ら豊臣恩    顧の大名は幕府に刃向かう力も意力も奪われていったのである。     その点から見ると信玄の権力ははなはだ小さく感じられてしまう。実際、甲斐国で信玄の権    力が及ぶのは甲府盆地のみであった。穴山や小山田といった連中には信玄の支配はほとんど及    ばなかった。武田家が一枚岩の結束を保っているように見えるのは信玄の個人的カリスマによ    るものである。下手すれば下剋上を招きかねない状況で領土を飛躍的に拡大させた信玄は確か    に天下の名将である。だが、その体制は旧来のものから脱却したものではなかった。 勝頼とその側近達は織田家との差を軍団構成によるものだと見ていた。信長は一族・家臣を    強力に統制することで京に上洛し、足利幕府に代わる天下人として君臨した。勝頼もそれを真    似て強力な指導体制を築こうとしたのである。新府城築城に城下町の建設が含まれているのは    家臣達を城下に住まわせるためである。そうすることによって勝頼は家臣の反逆を事前に防止    し、彼等を自分の統制下に置こうとしたのである。     だが、信長が長い年月をかけて抵抗勢力を力で屈服させていったのに対し、勝頼にはそれが    なかった。信長の家臣が信長に服従するのは信長への恐怖からだ。勝頼の家臣には勝頼を恐れ    る気などまったくなかった。そんな状況で勝頼が家臣への統制を強めても彼等との軋轢が増す    ばかりである。そしてついに勝頼は彼等から見放されることになるのである。     ついに武田と織田・徳川の最終抗争が始まるのだが、その前に武田氏の防衛構想を見てみよ    う。武田領国の防衛上の弱点といえば縦深が短いということだろう。毛利氏や上杉氏は信長と    戦端を開いた時点の前線と本城の距離は長かったが、武田家のそれは短かった。織田勢が美濃    から攻めてくる信濃にしても、徳川勢が遠江から攻めてくる駿河にしても、甲斐国までの距離    はさほどない。それでも敵に出血を強要することは可能で、その消耗した敵を新府城で撃滅す    るのが勝頼の狙いである。     その新府城での決戦だが、単純な籠城戦は論外である。籠城戦での勝機は強力な後詰が来る    か、敵の攻勢限界まで持ちこたえるかであるが、前者は武田に強力な援軍を送ってくれる味方    が存在しないので無理、後者も織田に対してはあまり効果はない。美濃斉藤氏にしても江北浅    井氏にしても伊勢長島願証寺にしても石山本願寺にしても籠城で信長に対抗しきれた勢力は存    在しない。     そんなわけで勝頼が構想した作戦とはまず西から信濃に侵攻するであろう織田勢を伊那〜諏    訪のルートで迎撃し出血を強いる。勝頼にとって幸いなことにその地方は自分が武田家に呼び    戻される以前に拠点としていた地域で最も忠誠を期待できる地域でもあった。そこに複数の防    御ラインを形成することで織田勢を消耗させ自軍と戦力差がなくなったところを見計らって野    外決戦に挑むというものであった。つまり勝頼は新府城を決戦戦力を収容する器と見なしてい    たのである。     さて、新府城は韮崎に築かれたのだが、この地は甲府盆地の西の入口にあった。なぜ中枢で    ある甲府に築城しなかったといえば、甲府盆地に敵の侵入を許せばその時点で勝頼の政権が崩    壊してしまうからである。そのくらい勝頼(というより武田家)の権力基盤は脆いものだった。     織田勢の進軍をできるだけ長引かせ甲府盆地の外側に位置する地理条件を有する場所それは    韮崎以外に有り得なかった。勝頼は韮崎に自分と武田家の命運を託したのである。     だが、新府城が完成することはなかった。それ以前に信長の攻勢が発動されたからである。     天正10年2月1日、信州木曽谷の木曽義昌が美濃遠山氏を通じて信長に内通した。義昌は    勝頼の妹婿で上杉景勝と同じ立場の武将である。武田氏の一門である義昌だが、同時に織田領    と国境を接する境目の領主でもあった。常に織田の圧迫を受け続ける位置であり、義昌の心労    は積もるばかりであったろう。主君の勝頼といえば関東侵攻に執着したあげくに遠江を失う失    態を犯している。義昌は武田一門である以上に木曽の領主でもあった。自分の領土を守ること    が至上命題なのである。     義弟の裏切りに激怒した勝頼は義昌の人質を処刑して15,000の兵を率いて2月2日に    上諏訪まで出陣した。一方、義昌の帰順を知った信長は3日、武田への最終攻勢を飛騨口の金    森長近、駿河口の徳川家康、関東口の北条氏政、そして伊那口の嫡男・三位中将信忠に発令し    た。信忠の軍勢は5万で勝頼は木曽攻めを中止して引き返した。練りに練り上げた決戦構想を    実現するときが来たのである。     ところが、予期せぬ事態が起きてしまったのである。2月29日に駿河衆を指揮する穴山梅    雪が家康の説得に応じて寝返ったのである。これが致命傷となった。一門衆筆頭の梅雪の裏切    りで武田家の結束は崩壊し、勝頼は決戦に使用できる兵を戦わずに失っていった。2万だった    兵は3000にまで減ったという。こうなっては決戦どころではない。勝頼は一門の小山田信    茂の勧めで3月3日に新府城を捨て、津留郡岩殿城に向かった。その間に信忠勢は勝頼が予想    したルートを経由していたが、5万の大軍の前には勝頼が形成した防御ラインはまったくの無    力だった。そして、信茂にも見捨てられた勝頼は天目山麓の田野で3月11日、最後まで従っ    た一族郎党と共に自刃した。ここに新羅三郎義光の流れを汲む甲斐源氏の名門武田氏は滅亡し    たのである。     ちなみに勝頼を裏切った小山田信茂はその後、信長の命令で24日に処刑された。これは木    曽義昌や穴山梅雪が事前に寝返ったのに対し、信茂は土壇場での裏切りだったからだろう。後    年の関ヶ原合戦でも事前に裏切りを約束していた小早川秀秋と脇坂安治は恩賞を受けたが、秀    秋の裏切りに慌てて西軍を裏切った朽木・赤座・小川は処分されている(このうち朽木元綱は    小早川勢の寝返り前に内通してきたので減封ですまされているが後の二人は改易された)。     勝頼滅亡後の武田家は穴山梅雪が継承する予定であったが、梅雪は本能寺の変のとばっちり    で非業の死を遂げたため、彼の遺児が跡を継ぐことになった。その子も幼くして死亡したので    家康は五男の信吉に武田の名跡を継がせた。信吉の母は信玄の姉の曾孫でその縁でのことだろ    う。だが、信吉も若死にしてしまったため家康は武田家の再興を諦め、信吉に付けられた武田    遺臣は水戸徳川家の家臣となった。     【信玄の遺産】     3月29日、信長は武田遺領の分配を行った。一部を除く甲斐国と信濃国諏訪郡は川尻秀隆    に、甲斐国八代・巨摩の2郡は穴山梅雪に、信濃国伊那郡は毛利秀頼に、信濃国木曽・安積・    筑摩郡は木曽義昌に、信濃国高井・水内・更科・埴科郡は森長可に、信濃国小県・佐久郡と上    野国は滝川一益に、そして駿河国は徳川家康にそれぞれ分与された。後に、上野と奥信濃を除    く全域が家康の手中にはいることになる。     家康が武田遺領の大半を制圧できたのは、武田家の遺臣達を味方に引き入れたからである。    武田滅亡後、信長は激しい残党狩りを行い多数の武田旧臣を殺害していった。家康は彼等を密    かに匿い保護していたのである。その恩義と10年に及ぶ戦いで徳川の精強さを思い知ってい    た武田の遺臣達は信長横死後の武田遺領を巡る攻防戦いわゆる「天正壬午の乱」で家康に味方    し北条勢と戦いこれを退かせた。甲信2ヶ国と武田遺臣を手にした家康は秀吉と互角に戦い抜    き、秀吉が武力で屈せられなかった唯一の大名として天下に一目置かれる存在となった。その    後、家康が天下取りに動いたことは御周知の通りだが、彼にそれを可能にさせたのはまさしく    信玄の遺産だった。信玄の遺産がなければ家康は幕府を開くことはできなかったかもしれない。    だが、徳川幕府が誕生しなかったら武田最強伝説もなかったかもしれないのである。     それと家康は勝頼の遺産も利用していた。それは新府城である。さきほどの天正壬午の乱で    家康は新府城に本陣を置ているが、それは新府城を要害と認めてのことだった。北条氏直は諏    訪方面から甲斐に侵入してきたが、そうした敵を迎撃するのに新府城はまさにうってつけだっ    た。そして、家康は8000の兵で43,000の北条勢を相手に優勢に戦いを進め、ついに    北条を撃退することに成功したのである。     家康は10年間も武田との戦いに苦労を強いられた。だからこそ家康は信玄を尊敬し彼が残    した遺産を継承したのである。後に家康は徳川の軍制を武田式に改めている。これは関ヶ原合    戦で不備を露呈することになるのだが、家康にとってそれは些細なことだった。彼は遺臣と遺    領という目の見える遺産だけでなく、信玄の戦いのノウハウという目に見えない遺産までも継    承することで天下への道を開いていったのである。
もどる トップへ