フランス植民地帝国崩壊の先駆けとなったベトナムの独立
インドシナ戦争

 
         フランスのベトナム植民地化の歩み
       1858年8月 第1次仏越戦争
       1862年6月 第1次サイゴン条約(仏側名称コーチシナの東側3省と崑崙
               島のフランスへの割譲、ベトナムでのキリスト教の布教活動
               の許可)
       1863年   フランス、クメール王国(現在のカンボジア)を保護国化
       1867年6月 フランス、コーチシナ西部3省を併合
       1871年   普仏戦争の敗北でフランス皇帝ナポレオン3世失脚
       1873年11月 第2次仏越戦争
       1874年3月 第2次サイゴン条約
       1883年   ベトナムの嗣徳帝死去
               第1次フエ条約(ベトナム中部と南部のフランス保護領化)
       1884年   フランス、トンキン保護領に軍隊を進駐
            6月 第2次フエ条約
               清仏戦争
       1885年6月 天津条約(台湾からのフランス軍撤退、フランスのベトナム
               領有確定)
       1887年   フランス領インドシナ連邦成立
       1893年   フランス、ラオスをインドシナ連邦に編入
       1907年   フランス、タイと領土交換(マレー半島のクラ地方をタイに
               かつてクメール領だった境界3州をクメールに割譲)
 
 
 
 
 
 
【日本の進出と独立宣言】 【独立戦争の始まり】 【ゲリラVS正規軍】 【ディエンビェンフー攻防戦】 【フランスの退場と新たなる敵】 【フランスはなぜインドシナに固執したのか】
    【日本の進出と独立宣言】     ようやくにしてインドシナ半島の領有に成功したフランスだったが、20世紀にはいると早    くも独立運動が起こり始めた。独立運動の活動家らは大国ロシアに勝利した日本に留学生を送    ったが、フランスからの圧力を受けた日本政府の取り締まりでこの留学生達は退去を強いられ    た。     これ以降、ベトナムの独立運動は散発したが住民の広範囲な支持は得られなかった。当時、    まだフランスは世界の超大国であったし、何よりも一部のインテリが提唱する国家建設の理念    は一般のベトナム住民にはわかりづらかった。     だが、そういった状況は1940年に大きく変わった。第2次大戦でドイツに敗北したフラ    ンスはヴィシー政府と呼ばれる親枢軸国家となったが、それは同じ枢軸国家の日本にとって好    都合なことだった。当時、日本と戦争状態にあった中国の国民党政府は英米の援助を受けてい    たが、その補給地のひとつがインドシナ半島だったのである。     1940年9月22日と翌年7月に日本はインドシナに軍隊を進駐させるが、ベトナム人達    は日本軍を解放軍として歓迎した。だが、日本がインドシナに進駐したのは南方地域への進出    拠点として利用するためでベトナムの独立を認めるつもりなどさらさらなかった。それに日本    はあくまで進駐しただけでフランスの統治権と在インドシナ仏軍はそのまま残されていた。     日本がインドシナへの影響力を強めていた1941年5月10日、中国との国境に近いパク    ボという町でインドシナ共産党の第8回中央委員会が開催され、ベトナム独立同盟会(通称ベ    トミン)の設立が決定された。ベトミンは共産党を主体にしていたが、民族主義の独立各派を    も取り込んだ共闘戦線で、共産党の創設者である阮愛国が実質的な指導者となった。     阮愛国は本名をグェン・タッ・タインといい、1890年(92年?)5月19日にベトナ    ム北中部のゲアン省に住む儒者の家に生まれた。フエの国学中学を卒業したグェンは21歳の    時にヨーロッパに渡った。そこで労働問題に興味を持ったグェンは「阮愛国(愛国者グェン)」    と名を改め、フランスで隆盛していた社会主義運動に参加していった。だが、彼にとって労働    者の解放を訴えながら一方では白人による植民地支配を黙認する活動家らの欺瞞的な態度は受    けいれられるものではなかった。     そんな時起こったロシア革命は阮愛国に大きな感銘を与えた。革命の指導者レーニンの「植    民地の現地労働者にも白人労働者と同等の権利を差別することなく与えられるべき」といった    内容の演説を知った阮愛国は本格的に政治活動に参加する決心を固めていった。     2年後のベルサイユ会議で阮愛国はベトナムの独立を列強に認めさせようと現地に赴いたが    完全な徒労に終わった。会議の主要参加国であるフランスの利益に反する要求を受けいれるわ    けにもいかないし、なによりも参加国のほとんどが植民地を有している国である。     もはやフランスにいたのでは祖国の独立を達成できないと考えた阮愛国はフランスからソ連    に、そして中国に渡り、1925年6月に在中国ベトナム人を集めて「ベトナム青年革命同志    会」を結成し、さらに30年2月には「ベトナム共産党」を旗揚げした。同党は10月に「イ    ンドシナ共産党」と改名した。     1941年1月にベトナムに帰国した阮愛国は反日・反仏の抵抗組織の活動に尽力したが、    政治工作のため中国に滞在していた1942年8月に蒋介石の命令で逮捕されてしまった。共    産党という潜在的な敵が存在する蒋介石にとって隣国にその流れを汲む組織が誕生するのを容    認するわけにはいかなかった。     蒋介石はベトミンに代わる組織として10月に「ベトナム革命同志会(ドンミンホイ)」を    結成させたが、彼等は在中国ベトナム人がほとんどでベトナム国内での活動にはまったく不向    きだった。その事に気づいたアメリカは蒋介石に阮愛国の釈放と彼のドンミンホイ主席着任を    要請した。同盟国であるアメリカからの要請では蒋介石も断るわけにはいかず、変名を条件に    阮愛国の釈放を承認した。     1943年9月に晴れて自由の身となった阮愛国は名を「胡志明(ホー・チ・ミン)」と改    め、ベトミン及びドンミンホイの指導者に返り咲いた。彼は彼の精力的な活動を知るベトナム    の民衆から歓迎され、ベトナム解放運動のリーダーとしての声望を高めていった。     そんな時、インドシナで新たなる大事件が勃発した。1945年3月、日本軍がクーデター    を起こしてフランスの統治権を完全に解体したのである。     日本軍が進駐した後でも名目だけとはいえフランスの統治権は残されていた。だが、日本の    敗色が濃厚になってくると、武器を持ったままであるフランス軍は危険な存在となっていた。    もし、連合軍がインドシナに上陸して約90000人のフランス軍がこれに呼応して蜂起した    ら、現地の日本軍がこれに太刀打ちできる可能性は低かった。そこで機先を制してフランス軍    の武装を解除しようとしたのだ。明号作戦と名付けられたフランス軍への全面攻撃は約4万人    という劣勢な戦力で3月9日夜に開始されたが、翌日の午後にはベトナム全土が日本軍の支配    下に入った。     フランス軍の武装解除に成功した日本軍は2日後にベトナムの独立を宣言したが、それは日    本の完全な傀儡国家であった。続いて12日と4月8日にカンボジアとラオスも独立したが、    どちらも日本が実質的に統治していた。だが、日本の敗北が決定的になっている当時の状況で    はそれらの傀儡国家が存続できる時間は長くはなかった。     フランスの退場と日本の降伏はインドシナに政治的な空白を生じさせた。それを好機とした    ホー・チ・ミンはベトミンに蜂起を命じた。ベトミンはハノイ、フエ、サイゴンを次々と制圧    し、8月25日には日本の傀儡政権を打倒した。     ベトナムの実質的な指導者となったホー・チ・ミンは9月2日、50万人の群衆の前で君主    制の廃止とフランスからの解放を演説し、ベトナムの独立を宣言した。ベトナム人達が長い間    待ちこがれていた瞬間だった。     【独立戦争の始まり】     ホー・チ・ミンの演説はベトナムの民衆を熱狂させたが、宗主国であるフランスは当然のご    とくこれに反発した。フランスは統治権回復のために日本が降伏した翌日にインドシナへの軍    隊の派遣を決定していた。     これに対し、ホー・チ・ミンはフランス連合の構成国家としての独立という妥協案を提示し    た。これはフランスへの恭順ともいえる案だが、当初独立を認める意向を示していた米中両国    が英仏の反対で態度を改めたため、米中からの支援が期待できない状況になっていったから仕    方なく出したわけである。ホー・チ・ミンは反対する共産主義勢力や民族主義勢力に将来の完    全独立にむけての判断であったと説得した。     しかし、状況は彼の思惑どおりにはいかなかった。1946年2月28日にそれまでベトナ    ム北部に駐留していた中国軍が撤退することが決定すると、インドシナの統治権は再びフラン    スの手に戻った。当初、フランスは3月6日のホー・チ・ミンとの会談でベトナムをフランス    連合の自由国として独立させるとの予備協定を取り交わしていたが、それから20日後にはコ    ーチシナをフランス支配下の独立国としてベトナムから分離・独立させると発表したのである。     こうして統一された形でのベトナム独立を目指したホー・チ・ミンの構想は崩れ去った。南    部の利権を取り戻したフランスはさらに北部へも手を伸ばした。8月29日にハイフォン港で    フランス軍とベトナム税官吏との間で衝突が起きたのをきっかけにハイフォンではフランス軍    とベトナム人の小規模な衝突が頻発するようになった。     こうして双方の関係が悪化していく中、決定的ともいえる事件が11月23日午前9時45    分頃に発生した。3日前にハイフォン港で起きた小規模な銃撃戦をハイフォン制圧の口実にサ    イゴンのフランス高等弁務官が港の明け渡しを要求する最後通牒を突きつけ、これに従わない    ベトナム人居住地に砲撃をしかけたのである。海軍も加わったこの攻撃でベトナム人は600    0人近い犠牲者を出した。     この事件で外交による問題解決は完全に期待できなくなり、ホー・チ・ミンに残された手段    はフランスとの全面戦争に勝利することだけであった。     ハイフォンでの事件はフランス本国を驚愕させた。実は本国では11月10日に総選挙があ    ったばかりで、それによる政争に忙殺されインドシナでの事態急変に対応する余裕がなかった    のである。     12月12日に首相に指名された左派社会党のレオン・ブルムはベトナムを独立させてその    政権と緊密な関係を結んだ方がフランスの利益になると考えていたが、彼が就任するまでの首    相職が事実上空位だった1ヶ月の間にインドシナの高等弁務官や強硬派の軍人は独断で問題の    解決を図ろうとしていた。     そして、ムーテ海外相が紛争を鎮めるためにパリを出発した同じ日の12月19日の午後8    時に現地のフランス軍が治安確保を名目にハノイに攻撃を開始し、翌日の午後4時頃にホー・    チ・ミンの官邸を占拠すると、ホー・チ・ミンはこれに怒りを爆発させ、その日のうちにフラ    ンスへの全面戦争の開始と国民の戦いへの参加を求める声明文を発表した。     【ゲリラVS正規軍】     ついにフランスとの全面対決に突入したベトナムだが、その軍事組織であるベトミンは中国    国民党や日本軍が使用していた旧式の小銃やわずかな軽機関銃しか保有していなかった。しか    も、弾薬や交換部品の近代的な補給システムを持たない彼等は個々の兵士が携帯する武器が全    てで、必要に応じて本国から物資を補給できるフランス軍を相手に緒戦から苦戦を強いられる    ことになった。     一方のフランス軍は戦争勃発当初は現地に15,000人程度しか展開していなかったが、    5ヶ月という短命に終わったブルム政権に代わるラマディエ政権は国内世論の後押しもあって    インドシナに大量の軍隊を増派した。その総勢は翌年の5月で115,000人であった。     この兵力・兵器・物資・兵士の練度と士気といったあらゆる面で優位に立ったフランス軍は    ベトミン軍を圧倒して1947年2月8日にフエを、その10日後には首都ハノイを攻略して    ホー・チ・ミンと彼の軍隊を山間部に追い払った。     緒戦からの勝利の連続にフランスは戦争の勝利を確信した。1948年6月5日、フランス    のボラエール高等弁務官は中国に亡命していたインドシナ連邦の君主にして日本の傀儡政権の    元首でもあった保大帝と会談して、ベトナムのフランス連合内での独立を承認する共同声明を    発表した。独立とはいっても、国家にとって重要な主権である国防と外交の権限はあいまいで    フランスの傀儡政権であることは明白であった。この新政府は1949年6月に正式に発足す    るが、この事が後にベトナムが南北に分断される要因となるのである。     これで一応の独立は達成されたのだが、戦争が終わったわけではなかった。なぜなら新政府    の元首保大は戦争の当事者ではなかったからだ。ベトナムの民衆の望みは外国の支配を受けな    い真の独立であって彼等の代表は保大ではなく、祖国のために戦い続けるホー・チ・ミンであ    る。本来ならフランスはホー・チ・ミンと会談して講和に持ち込むべきだった。だが、既にホ    ー・チ・ミンの政権を「死に体同然」と見限っていたラマディエ政権は彼を対等な交渉相手と    して見なそうとはしなかった。フランスは植民地に対する未練のために戦争を優勢のうちに終    わらせる機会を逃したのである。     フランス軍によって山間部に追いつめられたベトミン軍はそれまでの正面から戦う戦術から    ゲリラ戦に移行することにした。やはり武器の差もあるし、何よりもベトミン軍の総司令官で    ある武阮甲(ボー・グェン・ザップ)が一度も正規軍の訓練を受けたことがなかったので、戦    術面での差も大きかったからである。     しかし、戦術を変更したとしてもそれだけでフランス軍に勝利することは不可能であった。    彼等が目的を果たすには長期消耗戦でフランス軍に出血を強要し、フランス国内に厭戦気分を    起こさせるしかない。だが、それには安定した物資の供給ルートの確保が不可欠であったが、    大国フランスに敵対してまでまだどこからも承認されていないホー・チ・ミンの政権を援助し    ようとする国があるはずがなかった。     そんな状況に変化が起きた。1949年10月1日、隣国中国で繰り広げられた国民党との    内戦に勝利した共産党が「中華人民共和国」の成立を宣言したのである。隣国に同じ共産国家    が誕生したことは孤立無援で戦ってきたベトミン軍にとって神の助けであった。事実、中国か    ら送られてくる大量の武器弾薬によってベトミン軍は息を吹き返すことができたのである。     だが、喜んでいられることだけではなかった。1950年1月にホー・チ・ミン政権はソ連    と中国に承認されるが、それに対抗する形で2ヶ月後にはアメリカとイギリスがフランスの傀    儡政権の正式承認を発表した。フランスとベトナムという当事者だけの戦争はいつしか東西冷    戦の代理戦争に変質させられてしまったのである。     元々アメリカはベトナムに好意的だった。アメリカとフランスは植民地の存在について意見    が対立していた。だが、共産主義の拡大による冷戦の激化はアメリカの方針を変更させること    になった。共産主義の脅威に対抗するにはフランスとの同盟が必要であった。中国に続いてベ    トナムまでもが共産国家になることはアメリカにとって到底受けいれられる事ではなかった。    アメリカのトルーマン大統領はフランスに3000万ドルの軍事援助と2300万ドルの経済    援助を決定し、サイゴンに軍事顧問団を派遣した。     だが、アメリカから本格的な援助を受けられるようになった頃には、フランス軍の優勢は終    わっていた。ベトナムには2000万人の民衆が住み、その大半がフランスを敵視している状    況を12万人足らずのフランス軍が制圧しようとする戦略が破綻しようとしていたのである。     開戦当初フランス軍は戦況を優位に進め、ベトミン軍は北部山岳地帯への撤退を余儀なくさ    れた。この敵にトドメを刺すべくフランス軍は1947年12月に山岳地帯への総攻撃を開始    するが、ザップ率いるベトミン軍は地形を最大限に利用してこの攻撃から逃れることに成功し    た。     絶体絶命の危機を脱したベトミン軍は反撃を開始した。都市間の輸送を行うフランス軍のト    ラックがゲリラに襲撃される事件が相次ぎ、フランスは対ゲリラ戦への移行を強いられること    になった。さらに、フランス兵の死傷者の増大は国内に厭戦気分を起こさせ、果てが見えない    消耗戦を続ける前線の士気も次第に低下していった。また、戦争の長期化はフランスの国家財    政を圧迫し始めてもいた。現地の司令部は事態打開のための新戦略の立案を迫られた。     そこで現地フランス軍総司令部は1953年5月に着任したナバール将軍の名を取った基本    戦略をまとめ上げた。その内容は、フランス軍精鋭部隊をハノイ周辺の重要戦区に集中して攻    勢を実施させ戦争の主導権を取り戻す、ラオス及びカンボジアの反仏勢力とベトミンの連絡を    遮断するというもので、特にベトナムと他のインドシナ諸国の連絡を断つことはホー・チ・ミ    ン政権に大打撃を与える可能性があった。     ホー・チ・ミン政権は主に北部山岳地帯で活動していたが、中部及び南部でも反仏武装勢力    によるゲリラ戦が展開されていた。その武装勢力への武器等の供給はベトナムとラオス・カン    ボジアを縦断する後にホーチミン・ルートと呼ばれる補給線で行われていたが、その維持には    隣国の反仏勢力の協力が不可欠であった。もし、この補給線が遮断されたら中南部の抵抗活動    は事実上不可能になってしまうのだ。     そんなわけで、両軍の視線はある小さな古都に向けられることになった。仏越双方にとって    戦略的に重要な意味を持つようになった街はディエンビェンフーという。     【ディエンビェンフー攻防戦】     フランス軍はナバール計画で1955年の戦闘シーズン終了までにベトミン軍の主力を壊滅    できると考えていた。ナバール将軍着任時点でフランス軍の総兵力は約50万、そのうち機動    戦力として使用できるのは5万人程度であった。一方のベトミン軍の総兵力は約35万名で、    戦略機動可能な兵員はそのうちの125,000名である。     先手を打ったのはベトミン軍であった。ベトミン軍は北部ラオスへ侵攻したが、その時の策    源地とされたのがディエンビェンフーであった。対するフランスもベトミンの進行をふせぐた    めディエンビェンフーへの降下占領作戦「カストール」を策定した。敵支配地域の奥深くへの    降下作戦は部隊を孤立させることになるが、フランス軍には北部ラオスで大規模な軍事行動を    とれる能力がなかった。彼等は空中補給のみでそれを維持できると考えていた。すでに彼等は    それを実験済みであったのだ。さらに政治的理由も降下作戦を実行させる要因となった。イン    ドシナ3国はすでに独立していたが、フランス連合に正式に加盟していたのはラオスのみであ    った。フランスは宗主国としての威厳と信頼を得るためにもベトミン軍のラオス侵攻だけは絶    対に阻止しなければならなかったのだ。     ディエンビェンフーは、ハノイから西へ290qに位置する東西10q、南北20qの小盆    地である。そこは中央を南北に流れるユム川といくつかの川で地形が区切られており、周囲の    山々との標高差は約700mで口の悪いフランス兵達は「おまる盆地」と呼んだ。     フランス軍は1953年11月20日午前10時35分、第1陣として第6植民地落下傘大    隊と第1空挺軽歩兵連隊第2大隊1220名を降下させた。これは完全な奇襲となり現地のベ    トミン第148連隊は敗走した。フランス軍は翌日から日本軍が残した滑走路の整備を始め、    月末までにCIAのダミー航空会社のクルーが操縦するC119輸送機が13,200名の人    員と10両の戦車、24門の105o砲、4門の155o砲、200両のトラックとジープを    運送した。さらにグラマンF8Fベアキャット戦闘機8機を中心とする守備隊の直轄飛行隊も    展開した。部隊規模が師団程度に膨れあがったので守備隊は北西作戦群GONOと命名され、    司令官には名門貴族の出身で騎兵将校のカストリ大佐が着任した。ちなみにカストリ大佐の正    式な指揮権発動は12月8日0時からである。     フランス軍は滑走路を取り巻くように陣地を構築していったが、それらの陣地には女性の名    前がつけられた。さらに各陣地には番号で呼ばれる強化拠点がいくつか造られた。     しかし、こうして造られた要塞にも問題点があった。陣地を強化するのに必要な石や木材は    ユム川の上流や周囲の山まで採りに行かなければならないが、兵士達はあまりこの作業に熱心    ではなかった。それは彼等がここを出撃陣地だと教えられていたからである。現地で手に入ら    ない鉄骨やコンクリートは空輸するしかなく、戦闘が始まるまでに完全に完成していたのは司    令部壕だけだった。陣地構築のため総合的な訓練も行われず、滑走路を見渡すことができる高    地に部隊を配置しなかった。そのためそこにベトミン軍の砲兵が展開することになってしまっ    た。もっとも、フランス軍は地形的理由やベトミン軍砲兵の能力からして、数門ずつの直射で    攻撃するはずであり、それにはGONOが保有する野砲でも十分対抗できると考えていた。     だが、それにも増して大きかったのが指揮官達の意志不一致であった。兵士達はディエンビ    ェンフーを出撃陣地だと教えられていたが、それはGONO指揮官カストリ大佐の意志がそう    だったからである。それに対しトンキン戦域司令官コニー中将はカストール作戦の総指揮官で    あったが、内心では作戦に反対でありディエンビェンフーに兵力を抽出されるのに警戒的だっ    た。元々、ベトミン軍がディエンビェンフーに侵攻したのはソンコイ・デルタのフランス軍兵    力を減らす為であった。ソンコイ・デルタには1951年1月から攻撃をしかけていたが、い    まだ攻略することができずにいた。     このように二人の指揮官の意見は食い違ったが、では現地の最高司令官であるナバール将軍    の考えはどうだったのか。彼はベトミン軍の主力が盆地内に集中するであろうと予測していた。    それを撃滅しようというのが将軍の計画だった。なぜ彼がベトミン軍の動きを予測できたかと    いうと政治情勢の変化があったからだ。     どの戦争でも長期化すれば厭戦気分から和平の機運が盛り上がるものである。フランス国内    の厭戦気分は前述したが、ベトミン側でも厭戦気分ではないが戦争の早期終結を図らなければ    ならなくなっていた。     1940年代末から頂点に達していた東西両陣営の対立は1953年になると、3月5日の    スターリンの死去、7月の朝鮮戦争の終結とやや治まってきていた。特にスターリンの死去で    ソ連はそれまでの対外強硬政策を見直すようになっていた。それはベトナムへの軍事援助にも    影響を及ぼしかねなかった。ソ連や中国からの援助がなくなれば、ベトミン軍の勝利は絶望的    である。ベトミンは戦局がどうあれ中ソが手を引く前に和平にこじつける必要があった。余談    だが、当時の中ソにはアメリカとまともに戦争しようという気はなかった。中国は内戦が終結    したばかりだったし、ソ連は独ソ戦での損害からいまだ完全に立ち直っていなかった。それに    対しアメリカは自国の本土にほとんど被害を受けていなかった。表向きは強気な姿勢でいたソ    連だったが、内心ではアメリカとの全面戦争を心底恐れていたのだ。     ベトミンは戦争が終わるまでに何か大きな戦果を挙げる必要があった。現在の戦況は膠着し    ており、このまま戦争が終結すればフランスの影響力が残ってしまう恐れがあったからだ。フ    ランスの支配を排除しベトナムを完全に独立させるにはフランス軍を正面戦闘で徹底的に敗北    させるしかなかった。暴力による抑圧で維持される植民地体制を崩壊させるには、その暴力を    行使する手段である軍隊そのものを破壊するしかない。ベトミン軍の総司令官ザップは総反攻    の時期に至ったとして、労働党中央委員会でディエンビェンフーへの正攻法による攻撃を主張    した。  だが、中央委員会のメンバーはザップの主張に異を唱えた。前述したようにぐずぐずしてい    たら戦争が終わってしまうかもしれないし、時間が経過すれば敵の防備が固まってしまう。中    央委員会は電撃戦による急襲を主張した。ザップも中央委員会が事を焦る理由は承知していた。    しかし、要塞戦闘の経験がない以上、急戦でいっても勝利は保証されないとして正攻法を改め    て主張した。結局、12月3日の党中央委員会でディエンビェンフー攻略は正攻法でいくこと    が決定した。     作戦が決定するとザップは隷下の部隊に移動を命じた。命令を受けた第302、308、3    12、316師団と第351重装備師団、第304師団から分遣された第57連隊は、中国で    訓練を終えた第151工兵連隊や住民達が造った道路を通ってディエンビェンフーに向かった。    といっても各師団の根拠地から目的地まで約600qの道のりである。ベトミンにもトラック    があったが、数が少ないためそれらはディエンビェンフー攻撃の切り札である105o砲の輸    送に使われ、歩兵は銃と15sの米を背負って歩くしかなかった。その速度は夜間50q、昼    間30qで歩兵達は「自分たちの足は鉄である」と言い合った。      その鉄の足を持つ軍隊は12月末から現地に到着した。最後の部隊である第57連隊が到着    したのは2月3日で同連隊はさらに8日深夜にディエンビェンフー盆地を望める高地に移動し    た。     フランス軍はベトミン軍の兵站系の暗号表を入手しており、彼等の動きはだいたいつかんで    いた。さらに無線傍受でザップが12月6日に移動命令を発したこともキャッチしていた。し    かし、その後は欺瞞や撹乱で動きを読めずディエンビェンフーのフランス軍が自分たちが包囲    下にあると判断したのは12月末頃であった。     先述したようにフランス軍はいくつかの防衛陣地を構築し、それぞれに女性の名を付けてい    た。フランス軍の配置はガブリエル陣地に第5アルジェリア狙撃兵大隊、ベアトリス陣地に外    人部隊第13準旅団第3大隊主力、ドミニク陣地に第3アルジェリア狙撃兵大隊第3中隊、エ    リアンヌ陣地に第4モロッコ狙撃兵大隊、クロディーヌ陣地に外人部隊第13準旅団第1大隊、    その北に第5ベトナム落下傘大隊・外人部隊第1落下傘大隊・第1軽騎兵連隊の戦車隊・砲兵    主力、ユゲット陣地に外人部隊第13準旅団第2大隊第1中隊と第4植民地砲兵連隊第11中    隊、アンヌ=マリー陣地にタイ族第3大隊、イザベル陣地に外人部隊第13旅団第3大隊第3    中隊と第4アルジェリア狙撃兵大隊第2中隊他で、ほとんどが外人部隊か植民地の兵士ばかり    だった。     3月12日、ディエンビェンフーのベトミン軍各部隊の政治委員達がザップの布告を読み上    げた。かつて歴史の教師だったザップは生徒にナポレオンの話をせがまれると授業そっちのけ    で話をしてやったという。この布告の中にも「この歴史的戦闘に参加したことが、後日諸君の    光栄になるであろう事を銘記せよ」というナポレオンが言いそうな内容の文面があった。もっ    ともナポレオンは大勢の前で演説するのが苦手で、いくつかの名演説も後に作られたものだっ    たらしい。     ベトミン軍の動きはフランス軍も察知していた。GONO司令部は複数の情報から総攻撃は    明日又は明後日に開始されると将兵に告げた。     3月13日、ベトミン軍は滑走路に散発的な砲撃を加えた。これはディエンビェンフーに展    開した頃から行っていたものだが、夕方になるとベトミン軍砲兵は全力を挙げた効力射を要塞    に浴びせた。砲撃は滑走路と司令部地区、41号地方道を封鎖するベアトリス陣地に集中し、    外人部隊第13準旅団指揮官ゴーシェ中佐とベアトリス陣地指揮官ペゴー少佐を戦死させ、ベ    アキャット飛行機隊を吹き飛ばした。ベアトリス陣地はベトミン軍の攻撃で深夜に陥落した。     砲撃は一晩中続き、GONO司令部は恐慌状態になった。司令官のカストリ大佐は壕にこも    り嘲笑をかった。やはり貴族出身のプレイボーイにはこのような過酷な戦場は厳しすぎたのか。    フランス軍の砲兵も反撃したが、6000発を消費しながらもいまだ敵砲兵の詳細な位置を掴    めていなかったため何ら効果を上げることができなかった。     翌日、ベトミン軍はベアトリスと同じフランスの外周陣地であるガブリエル陣地を攻撃した。    ガブリエル陣地はパビィ連絡道を塞ぐように位置していた。攻撃隊は前日と同じようにソ連製    の短機関銃を装備し、手榴弾を一斉に投擲しながら突撃した。これに対し、GONO司令部は    有効な対策を打てず、ガブリエル陣地も敵の手に落ちた。その翌日には北西に突出するアンヌ    =マリー陣地も陥落して、ベトミン軍の第1期作戦は終了した。ベアトリス陣地があったヒム    ラム、ガブリエル陣地があったドクラップの丘の反斜面に75o砲を推進することができたベ    トミン軍砲兵は全部隊が滑走路を射程内に収めた。滑走路は18日使用できなくなった。孤立    した戦場で戦う部隊にとって滑走路はいわば生存するための最低条件である。これ以後、ディ    エンビェンフーのフランス軍は補給物資をパラシュート降下させる方法で乗り切ろうとしたが、    守備範囲が狭まるにつれ味方の陣地にではなく敵方に物資が落ちるようになっていった。     ベトミン軍の計画では外周陣地を叩いた後、連続して滑走路を取り巻く内周陣地も攻撃する    ことになっていたが、損害が大きかったためしばらく攻撃を中止した。ベトミン軍の損害の多    くは突撃時と敵陣地内での戦闘によるものがほとんどで、そのための対策として接敵壕をなる    べく敵陣に近づけられた。これは突撃する際に敵陣に到着するまでの距離を短縮するためであ    る。他にも鉄条網を破壊するための爆薬が大量に用意された。     ディエンビェンフーでの地上戦はベトミン軍が優位に立っていたが、制空権はフランスが掌    握していた。爆撃機が周囲の山々を爆撃し、孤立する部隊に物資を投下するために輸送機も飛    来した。ベトミン軍はこれに高射機関砲で応戦した。フランスを支援するアメリカでもディエ    ンビェンフーに対する爆撃作戦が提案されていた。彼等は原子爆弾の投下も考慮していたとい    う。     戦闘が再開されたのは3月30日であった。この日は豪雨であった。しかし、降ってきたの    は雨だけではない。ドミニク・エリアンヌの両陣地には砲弾も降ってきた。二つの陣地はベト    ミン軍の砲兵主力が展開する「幻の山」「はげ山」の西斜面から続く台地にあった。ここが陥    落すれば陣地全体が危険にさらされてしまうのだ。     ベトミン軍は第312師団がドミニク陣地を、第316師団がエリアンヌ陣地を攻撃するこ    とになっていた。対するフランス軍は両陣地にモロッコとアルジェリアの植民地兵を配置して    いたが、彼等はベトミン軍が鉄条網を爆破して大量に流れ込んでくると恐慌を来し潰走した。    フランス軍は予備の外人部隊が反撃して敵に損害を与えたが、彼等が東に気を取られている隙    に西のユゲット陣地が4月1日に敵に襲撃され北西のユゲット7がベトミン軍第308師団に    奪取されてしまった。ベトミン軍はさらに各拠点の合間を縫うように進み、滑走路の半分を占    領することに成功した。フランス軍は予備までもが東の戦線に投入されていたためにこの進撃    に対処できなかった。確保すべき陣地が川を挟んで離れすぎていたことも問題であった。     4月4日までにベトミン軍は滑走路のほとんどとドミニク陣地の大半、エリアンヌ陣地の西    半分を制圧したが、外人部隊の抵抗でユム川東岸の高地帯を押さえることはできなかった。戦    闘は再び中止された。     フランス軍は追いつめられつつあった。事態の打開のため第6ベトナム落下傘大隊が、ユム    川東岸の高地にあるエリアンヌ陣地の奪回に動いた。     4月10日午前6時、120o迫撃砲12門と105o砲20門が10分間1800発の集    中射を実施した後、突撃部隊はエリアンヌ陣地に突撃し彼女を取り戻した。     だが、フランス軍の反撃もここまでだった。4月15日、カストリが准将に昇進したがそれ    は戦闘の行方には何の影響もなかった。この時点でのフランス軍の兵力は2500名程度であ    った。戦闘開始時の兵力が11,000名で、その後約3500名が増強されたから12,0    00名が失われたことになる。勿論、全てが戦闘による死傷で失われたわけではなく、アンヌ    =マリー陣地を守っていたタイ族のように戦わずにして逃げた者も多数いた。それでも、フラ    ンス軍は要塞が陥落する前日まで落下傘で増援を降下させた。しかし、1日100名程度では    戦闘による損害を埋めることはできなかった。この頃からモンスーンによる豪雨で交通壕は水    浸しとなり、便所からは汚物があふれ出した。     戦線は徐々に狭くなり5月1日にはエリアンヌ陣地が再奪回された。浮気性のこのパリジェ    ンヌは生涯のパートナーをベトナム人に決めたようだ。     5月4日、上層部からディエンビェンフーのフランス軍にラオスへの脱出が命令された。5    月6日午後3時、ザップが全軍に総攻撃を発令した。午後5時30分の最後の大砲撃の後、ベ    トミン軍の総攻撃が始まった。エリアンヌ陣地は完全に制圧され7日早朝にはユム川東岸が完    全にベトミン軍のものとなった。正午になると要塞の陥落は決定的となった。カストリ准将も    降服を決意し、午後5時30分をもって戦闘の停止を命じた。最後のフランス兵が降服したの    は9日であった。     ディエンビェンフー攻防戦の結末はジュネーブで行われていた和平交渉にも影響を与えた。    この戦いでフランス軍の敗北は決定的となった。     【フランスの退場と新たなる敵】     ディエンビェンフーの敗北でフランス政府は戦争の継続を断念した。同じ頃、最大の植民地    であるアルジェリアでも独立運動が活発化しており、インドシナ問題にはこれ以上関わりたく    なかったのである。そのためフランスは無責任にも自らが擁立した保大帝の正統性を保証する    ことをしないまま米中ソ3国主導による和平案に同意したのである。インドシナ戦争はフラン    スとベトナムの戦いであったが、和平交渉の主導権は当事者である仏越ではなく両国を支援し    た米中ソ3国に握られていたのだ。     1954年7月21日、ジュネーブでインドシナ半島における戦闘の停止を規定する協定が    成立した。ベトナムはホー・チ・ミン政権が国土の大半を制圧していたにも関わらず北緯17    度線を境に南北に分断された。協定では2年後に統一に向けた選挙を実施することになってい    たが、それが実現する可能性は全くなかった。選挙が実施されればホー・チ・ミン政権が支配    する北ベトナムが圧勝するのが確実で、共産主義の拡大を懸念するアメリカがそのような結果    が明かな選挙を支持するわけがなかったからである。事実、アメリカとその援助を受ける南ベ    トナムはジュネーブ協定には調印しなかった。     ベトナムはそこに住む人たちの気持ちも関係なく東西冷戦という大国の都合で南北に分断さ    れ、同じ民族が敵同士になるという悲惨を味わうことになった。だが、その代償をベトナム人    達はアメリカに支払わせることになる。次のベトナム戦争でアメリカは独立以来初めてとなる    屈辱を味わうことになるのだった。     【フランスはなぜインドシナに固執したのか】     20世紀になると植民地の独立運動が活発化して、第2次大戦後は植民地主義は時代遅れと    なりつつあった。アメリカも当初はフランスの植民地主義を批判してベトナムの独立を容認す    る姿勢を見せた。もし、冷戦がなかったら中ソに代わってアメリカがベトミンを支援していた    かもしれなかった。なぜ、フランスは植民地に固執したのだろうか。     第2次世界大戦でフランスは戦勝国となったが、それは米英ソを中心とする連合軍が勝利し    たおかげであって大戦初期に早々と脱落したフランスは戦局に何ら寄与することもなかった。    国土はドイツに支配され大戦後期には激戦区となったためフランス経済は破綻してしまった。    彼等には植民地からの搾取しか手段が残されていなかったのである。さらに名目上は戦勝国で    も実質的には敗戦国であったことがフランス国民に「偉大なフランス」という幻想を抱かせた    要因であった。これはナポレオン時代の栄光を忘れられなかったために、その甥であるナポレ    オン3世の拡大政策を支持し続けた末に普仏戦争で歴史的な大敗を喫したことに似ている気が    する。     しかし、これでフランスは植民地主義が過去の遺物であることに気づくことができた。イン    ドシナの保持に固執していたド・ゴールが1959年にアルジェリアの独立を容認するような    発言をしたのも大勢の兵を犠牲にしてまで植民地を確保するよりも早々に手放してしまった方    がフランスの利益になると判断したからだ。彼にこのような決断をさせたのはインドシナ戦争    での泥沼の消耗戦とそのあげくの敗北だったのである。
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