戦艦と〜空母が〜結婚×2し〜た〜、だから航空戦艦なのだ
戦艦 伊勢


 
 
排水量29,900t 全長208.2m 全幅28.7m 喫水8.7m  
出力45,000hp 速力23kt 航続距離14ktで9,680浬   
兵装 45口径36cm連装主砲6基12門 50口径14cm単装副砲20門
   40口径7.5cm高角砲4門 53cm魚雷発射管6門       
乗員1,360名 竣工時の艦長は海兵18期の秋沢芳馬大佐(前職は台湾総督
府の海軍参謀長)                            
同型艦 日向(竣工時の艦長は戦艦安芸艦長だった中川繁丑大佐)      
 
 
 
 
 
 
 
 金剛級と扶桑級による超ド級戦艦部隊を目指した日本海軍だったが、扶桑級は予算の都合も
あって2番艦以降の建造が遅れてしまった。この間にイギリスはクイーンエリザベスをアメリ
カはペンシルバニアを竣工させており、扶桑級はこれらに見劣りするようになった。そこで、
2番艦の山城は艦隊編制の都合上、扶桑級として建造するが3番・4番艦は新たに伊勢級とし
て建造することにした。                               
 伊勢級は扶桑級の砲塔配置が3番砲塔と4番砲塔の間に煙突が配置されているために、主砲
塔と弾薬庫が1・2番、3番、4番、5・6番砲塔と4箇所も分散して防御上の無駄が大きく
機関が3番砲塔で分断されているという欠陥を抱えていたのを、3番砲塔の前に煙突を移動さ
せることで、1・2番、3・4番、5・6番とレイアウトをすっきりさせることによって防御
力を向上させて速力もアップさせている。兵装面でも扶桑級の主砲が最大仰角30度だったの
を、30度で射撃しても命中率が期待できないということで25度に改めたり、主砲の装填装
置を扶桑級が仰角5度でしか装填できなかったを5度から20度までなら自由に装填できるよ
うにしている。また、副砲を15センチ砲弾が小柄な日本人には重過ぎるということで新式の
14センチ砲に変更している。ただ、扶桑級に比べ上部構造をシンプルにしたので兵員室のス
ペースが減少して居住性が悪くなってしまった。                    
 伊勢は1915年5月10日に神戸川崎造船所で起工され、翌1916年11月12日に進
水、その前の9月1日に百武三郎大佐が艤装員長に着任、12月1日に秋沢芳馬大佐と交代、
1917年12月15日に竣工し17日に秋沢大佐が艦長に補せられた。         
 ワシントン条約が締結され新規の戦艦建造が禁止されるいわゆるネーバル・ホリデーの時代
になると、他の戦艦と同様に伊勢も改装工事を施された。主砲が仰角を25度から30度に引
き上げられ射程が延長し、7.5センチ高角砲と14センチ副砲2門を撤去して12.7セン
チ高角砲を8門と、後部煙突の両脇にビッカースの40ミリ連装機銃が2基備えられている。
それ以外にカタパルトが艦尾に設けられ水上偵察機が3機搭載された。軍縮期の伊勢のスペッ
クは排水量31,260トン、全長208.16m、全幅28.65m、喫水8.74mで、
軍縮条約締結時の艦長は前年12月1日に着任した海兵26期の長沢直太郎大佐である。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
排水量36,000トン 全長215.8m 全幅33.83m 喫水9.21m
出力80,000hp 速力25.26kt 航続距離16ktで7,870浬 
兵装 45口径36cm連装主砲6基12門 50口径14cm単装副砲16門   
   40口径12.7cm連装高角砲4基8門 25mm連装機銃10基20挺  
水偵3機 乗員1,385名 開戦時の艦長は海兵43期の武田勇大佐。    
 
 
 
 
 
 
 
 軍縮条約が失効して無条約時代になると伊勢も他の戦艦と同じく大改装を施された。主砲と
副砲がそれぞれ仰角を43度と30度に引き上げられ射程が33,000mと15,000m
に延長された他、水平防御を主に防御力も高められた。扶桑は全体にまんべんなく装甲を施し
ていたが、伊勢は弾薬庫上部を中心に装甲を施して重量の増加を抑えた。さらに船体にバルジ
を設けることで浮力と防御力がアップしている。他には機関が80,000hpに出力がアッ
プしたのと艦尾が4.3m延長したことで速力も25ktに向上している。これに伴い煙突は
1本とされた。                                   
 太平洋戦争開戦時は第1艦隊第2戦隊に所属していたが、低速で機動部隊に随伴できない本
艦は本土から動くことなく1942年6月のミッドウェー海戦でようやく出撃の機会を得たが
空母部隊の壊滅により空しく引き返した。主力であるはずの戦艦が補助戦力の空母の傘が無け
れば戦闘海域に立ち入ることすら許されないという事実は、大艦巨砲主義の権化である日本海
軍にも海戦の主役が戦艦から空母に移りつつあることを認識させた。正規空母を一挙に2/3
も失った日本海軍は空母の増産を決定するとともに、重巡以上の軍艦を空母への改装の対象と
することにした。戦艦では大和級以外が対象となったが、最終的に事故で5番砲塔をなくして
いた日向と姉妹艦の本艦が空母に改装されることになった。といっても、完全に空母に改装す
るのは時間も資材もかかりすぎるので、後部5・6番砲塔のみを撤去して飛行甲板とカタパル
トを装備した航空戦艦として改装されることとなった。                 
 
 
 
 
 
 

 
 
排水量35,350トン 全長219.62m 全幅33.83m 喫水9.03m
出力80,000hp 速力25.3kt 航続距離16ktで9,500浬   
兵装 45口径41式36センチ主砲連装4基8門 40口径89式12.7センチ
   高角砲連装8基16門 96式25ミリ高角機銃3連装19基57挺    
搭載機22機 乗員1,463名 改装工事完了時の艦長は海兵44期の長谷真三郎
大佐                                    
 
 
 
 
 
 
 
 一つの船体に二つの性格を持たせるという発想はどこの国の海軍でも思いついたが、実現さ
せた例は皆無であった。日本海軍でも空母・蒼龍を航空巡洋艦として建造する計画案があった
が、結局は純粋な空母として完成している。航空巡洋艦は重巡・利根や改装後の最上、軽巡の
大淀があるも、それらの搭載機は水上機であり偵察能力の向上以外の効果は望めなかった。巡
洋艦のような小さい船体の艦船では巡洋艦としての機能を残したまま空母としても使えるよう
にするのは不可能であった。完全な空母として改装される予定だった重巡・伊吹(建造途中で
空母に改装が決定)でも空母としての能力が不足しているのだから、航空巡洋艦など夢でしか
ない。                                       
 では、巡洋艦よりも大型の戦艦ではどうか。結果論として、航空戦艦も失敗だった。時間を
短縮する名目で後部の二つの砲塔しか撤去されなかったが、その結果として航空機の運用能力
が制限されてしまった。航空戦艦としての改装が決まった伊勢と日向の艦載機は特別仕様の彗
星艦爆となったが、この機体は発艦はカタパルトで可能だが着艦はできないのだ。高速艦爆で
あるため本職の空母でも運用できる艦が限られるのだから当然だが、1回の攻撃しか使えない
ようでは実用性は低いと言わざるをえないだろう。そのためか継続して使える艦載機として水
上偵察機の瑞雲も搭載予定だったが、確かに瑞雲は急降下爆撃も敢行可能な水上機としては優
秀な機体だが、本職の爆撃機ですら敵艦への命中弾はおろか接近することさえ困難な情勢では
敵迎撃機のパイロットたちにスコアを稼がせるだけにしかならないだろう。しかも、瑞雲は当
時の新型日本軍機の例に洩れず機械的信用性が高いとは言えない機体であった。もっとも、当
時の日本軍の搭乗員の腕前ではどちらにしても一度飛び立てば最後、無事に母艦に帰れる可能
性は皆無なのだから彗星の着艦とか瑞雲の性能とかは大した問題ではない。ちなみに彗星は特
別仕様と前述したが、そのまんまの彗星を使用したのではカタパルトによる発進に機体が耐え
られないからだ。日本海軍の航空機は航続距離を上げるために軽量に造られているのでカタパ
ルトの発進には不向きだった。これが日本空母の航空機運用能力が限られる原因の一つである
のは言うまでもないだろう。                             
 
 
 
 
 
 
 

 
 
空技廠D4Y1彗星                          
全長10.22m 全幅11.5m 全高3.295m(3点静止時) 乗員2名
重量 2440kg(自重)3650kg(正規)3968kg(爆撃過荷)4250kg 
(偵察過荷) 発動機 熱田12型倒立V型12気筒水冷式:離昇1200hp、 
1速公称1010hp/1500m、2速公称965hp/4450m     
燃料780g+翼内補助槽260g+増槽330g×2 速力298kt/4750m
(最大)230kt/3000m(巡航) 上昇力5000m/8’57”    
航続力1400M(爆撃過荷)2100M(偵察状態)            
武装7.7ミリ機銃(固定)×2(旋回)×1 爆弾500kg又は250kg×1+
60kgまたは30kg×2 生産数2152機(全型合計)           
データおよび画像は改造彗星のベースとなった11型のもの。ベースとなった機体
は他に12型などもあるが、すべて22型に分類される。           
 
 
 
 
 
 

 
 
愛知E16A1瑞雲                       
全長10.84m 全幅12.8m 全高4.74m 全備重量3,800kg
速力242kt 乗員2名 発動機 金星54型空冷星型14気筒1300hp 
(離昇) 航続距離2535km 実用上昇限度10,280m       
武装20ミリ機関砲×2 7.7ミリ機銃×1 60kg爆弾×2または250kg
爆弾×1                                
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 伊勢と日向は1944年5月1日に第4航空戦隊を再編し、所属する第634航空隊ととも
に訓練に明け暮れた。634空は艦上機と水上機という運用の異なる機種の混成となっていた
が、最終的には伊勢が瑞雲を日向が彗星を搭載することに決まった。第4航空戦隊は6月のマ
リアナ沖海戦の惨敗の結果を受けて7月に空母・隼鷹を編入し、8月10日に龍鳳を編入して
いる。第634航空隊は10月には捷1号作戦に参加できるまでに練度を上げていたが、台湾
沖航空戦に投入されて消耗してしまっている。そのため伊勢と日向は搭載機無しで作戦に参加
することになった。この捷1号作戦が伊勢が航空戦艦として活躍できる最後の機会になっただ
けに、それが叶わなかったことは伊勢型の改装が無意味であったということだ。      
 普通の戦艦として空母部隊の護衛の任に就いた伊勢と日向は圧倒的なアメリカ軍機の猛攻か
ら空母を守ることはできなかった。しかし、松田4航戦司令官の巧みな指揮で敵機多数を撃墜
し、狙われやすい巨体をしているのに大したダメージを受けなかったりとかなりの奮戦を見せ
た。さらに1945年2月の北号作戦では本土への物資輸送を完遂させている。部隊の半分が
辿り着いたら成功じゃないかと考えていた連合艦隊司令部は全艦無事という知らせを受けて驚
きを隠せなかったという。日本の戦艦で金剛級にしか存在価値がなかったと言われているが、
伊勢型戦艦も十分に戦ったと言えるのではないだろうか。                
 伊勢は7月28日の呉空襲で着底した。主砲以外の兵装を撤去されていても最後まで主砲を
撃ち続けたという。だが、敵機にはほとんど効果はなかっただろう。最後まで戦い抜くという
戦意は日本はどこの国にも負けないだろう。しかし、それだけでは戦争には勝てない。伊勢の
最後の奮闘は日本軍の戦い方そのものを象徴しているのではないだろうか。最後の艦長は海兵
44期の牟田口格郎大佐で24日の空襲で戦死している。日向も24日に大破着底し、最後の
艦長・草川淳少将も戦死した。2隻とも11月20日に除籍され解体処分となった。    
 
 
 
 
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