ナポレオン栄光と伝説への第一歩
第一次イタリア遠征
「兵士諸君、諸君は裸だ、食べ物もない。政府は諸君に何も与えてくれない。私は諸君を世界で最も肥沃な平原に連れて行く。
諸君はそこで、名誉・栄光・富を得るであろう」
1795年、フランス革命は危機に瀕していた。2年前の「テルミドールの反動」でロベスピエールのジャコバン派による
政権を打倒して成立した総裁政府は腐敗が蔓延し、権力闘争と陰謀に明け暮れ国内外の危機に対して有効な手段が打てない無
能な政権だった。そして、1795年の10月にはパリにおいて王党派による武装蜂起が発生し、革命政府は重大な危機に局
面した。この時、反乱を速やかに鎮圧したのがロベスピエールの弟・オーギュスタンとの繋がりを理由に休職状態だったナポ
レオン・ボナパルトである。旧知のバラスが総裁の一人だったことから再び軍に登用されたナポレオンはこの戦功により中将
に進級、さらに国内軍司令官を経て翌年の3月にはイタリア方面軍の司令官に任命された。
当時、フランスには5個の方面軍がありイギリス・オーストリアと対峙していたが、その一つのイタリア方面軍は補給の途
絶で戦力を著しく減衰させていた。マルセイユからの補給線は貧弱な道路一本のみで、補給物資を運搬する馬匹は不足しコル
シカに基地をおくイギリス海軍の妨害でただでさえ乏しい物資を各部隊に送ることさえ困難だった。そのため、イタリア方面
軍は攻勢に出るどころではなく、司令官のシェレは総裁政府が命令した攻勢作戦を遂行できず解任されていた。
そうした経緯から後任となったナポレオンには攻勢に出ることが求められたが、彼とて存分に兵員や戦費や物資を持たされ
て派遣されたわけではなく、イタリア方面軍を取り巻く環境が厳しいことに変化はなかった。しかし、彼には服も靴もボロボ
ロでしかも空腹だが未だに革命の情熱を失っていない戦意旺盛な兵士たちと、生まれではなく武勇と能力で任官された将校や
下士官それに後のナポレオン帝国の元帥として活躍する参謀長ベルティエらの歴戦の将軍たちがいた。
1796年3月26日、ニースに到着したナポレオンはただちに攻勢に出ることにしたが、あまりにも惨めな野営地を目に
してそれまでのように海岸沿いにジェノバに進撃(アペニン山脈によって狭い戦線が形成されていた)するのではなく、北の
ピエモンテ平原を目指すことにした。何よりもまず敵地から食糧と物資を奪って餓死寸前の軍を救うのが先決だった。
イタリアと対峙するフランス軍はケレルマンのアルプス方面軍18,000とナポレオンのイタリア方面軍58,000、
それに対する敵軍はボーリューのオーストリア・ナポリ軍3万とコッリのサルディニア・オーストリア軍23.000に各地
のサルディニア守備隊計15,000と、数的には互角だが先述したようにイタリア方面軍は財政的窮乏と兵站部の腐敗で補
給や補充がまったく無い状態で陣中には栄養失調や疫病が蔓延していた。それは規律では統制できないぐらい深刻なもので、
4月14日にデゴを占領した時には兵士たちは勝手に持ち場を離れて掠奪行為を始めてしまっている。そこを翌朝にボーリュ
ー麾下のヴカソヴィチ師団に雨の中を奇襲されて総崩れとなり一時はフランス軍の右翼が崩壊の危機に陥ったが、それ以外は
10日から15日にかけての戦闘でフランス軍はモンテ・ネギノ、コッセリア高地、デゴ(14日のフランス軍が同市を占領
した戦いと15日の前述したオーストリア軍の反撃を撃退した戦い)でボーリューのオーストリア軍に勝利しており、ボーリ
ューとコッリの間に強力な楔を打ち込むことに成功している。さらにフランス軍は22日までの戦いでコッリの部隊にも勝利
して司令官が約束したとおりピエモンテ平原に到着した。この敗北にサルディニアは戦意を喪失してナポレオンと直接交渉し
た末に彼の要求をすべて呑んで26日に休戦協定が結ばれた。これはナポレオンの独断による越権行為だったが、無能で無力
な総裁政府は国民の人気を得ている司令官を解任することができなかった。
サルディニアとの休戦で左翼の安全を確保したフランス軍は後方警備に守備隊を残し、36,000の兵力でボーリューの
オーストリア軍26,000に向かった。ボーリューはポー河とティチノ河が形成するミラノ公領の境界ラインで迎え撃とう
としたが、ナポレオンは重歩兵選抜で編成されたダルマーニュ将軍指揮の臨時師団をポー河の下流から渡河させた。この地域
は中立のパルマ公国領だったが、ナポレオンはラアルプとオージュローの師団も後に続かせた。これが5月7日のことで、フ
ランス軍はラアルプが渡河直後に戦死するなどしたが、10日にはアッダ河のロディにある最後の橋梁をマッセナの歩兵部隊
が縦隊突撃で奪取している。左翼を迂回されたボーリューはミラノを捨てて本国に遁走した。14日、ナポレオンはミラノに
入城し、ボーリューの追撃を命じて5月末までにアディジェ河まで軍を進出させた。ナポレオンはイタリアの諸国や教皇庁と
独断で休戦して莫大な賠償金と美術品をせしめているが、ロンバルディアの交通の要衝であるマントヴァにはボーリューが残
した13,000の守備隊がおり、北イタリアを完全に制圧するにはここを落とす必要があった。
ボーリューを破ったナポレオンだったが、それでオーストリアとの戦争に決着がついたわけではなかった。イギリスから潤
沢な資金援助を受けられるオーストリアはドイツから老将ヴュルムザーを呼び戻して5万の兵で反撃準備を整えていた。対す
るフランス軍は相変わらず兵の補充は不十分で、アルプス方面軍から移ったヴォーボワ師団を含めて44,000の兵しかい
なかった。しかも、本国の総裁政府はそんな北イタリアの状況にはまったく無理解で、それどころか5月上旬(つまり前の戦
いの途中だ)にはイタリア方面軍の指揮権をアルプス方面軍のケレルマンと分けて、ナポレオンに中南部イタリアへの侵攻を
命じる始末だった(さすがにこれはナポレオンの猛抗議で撤回された)。
7月下旬、オーストリア軍は攻撃を開始した。彼らはトレントを起点に三手に分かれた。右翼のクァスダノヴィチ麾下の1
8,000はガルダ湖西岸を進み敵のミラノへの後方連絡線を遮断、中央のヴュルムザー直率の24,000はアディジェ渓
谷を進み、ブレンタ渓谷からヴィツェンツァ経由で進むメザロス麾下の左翼5,000とヴェロナで合流して敵主力を撃破す
るという作戦だ。それに対し、フランス軍はセリュリエ師団の9,000がマントヴァを包囲し、マッセナとオージュローの
23,000がガルダ湖東岸からレニャーノまでのアディジェ河の線に展開していた。他にヴォーボワが後方連絡線の防備を
担当し、キルメーヌが騎兵師団の指揮を執っていた。
以上のようにフランス軍はアディジェ河に広く展開していてガルダ湖西岸にはほとんど注意を払っていなかった。そのため
数に勝るオーストリア軍の南下にフランス軍は各地で圧倒された。戦線崩壊の危機にナポレオンは彼にしたら異例のことだが
将軍たちを集めてオージュローの容れて苦渋の決断を下した。マントヴァの包囲を解いて、兵力を中央に集中し左翼でクァス
ダノヴィチを、次いで右翼でヴュルムザーを各個に撃破することにしたのだ。ソーレがガヴァルドでクァスダノヴィチを拘束
している間にオージュロー・マッセナ・キルメーヌがブレシアに移動した。その背後にはヴュルムザーが迫っていたが、彼は
マントヴァを解囲してミンチオ川の渡河点を奪取するとフランス軍の追撃にリプタイの部隊だけを派遣するという判断ミスを
おかしてしまった。フランス軍の移動を敗走と誤認したからだが、リプタイは8月3日にオージュローの反撃で撃退された。
同じ日にクァスダノヴィチもロナトで敗北して本国に逃げ帰った。5日、カスティリョーネ高地でフランス軍25,000と
オーストリア軍24,000が激突した。オーストリア軍はヴュルムザーの巧みな戦術指揮のもと勇敢に戦ったが、セリュリ
エの師団(セリュリエは病気でフィオレラが代理で指揮)5,000がオーストリア軍の左翼後方を衝くと戦列のいたる所が
寸断され2万の兵を失ってトレントに敗走した。フランス軍の損害は6,000でパルマや教皇領の反仏運動は速やかに鎮圧
された。マントヴァも再び包囲された。
ヴュルムザーの攻勢を撃退したナポレオンに本国から攻勢に出るようにとの命令が届いた。それはモローのライン=モーゼ
ル方面軍と協同してオーストリアのティロルを南北から挟撃せよとの内容で先の勝利を受けてのことだが、勝ったとはいえイ
タリア方面軍には攻勢に出られるだけの余力はないし、それにモローの最近の退嬰的な行動を見れば彼との協同が果たしてう
まくいくかどうかという疑問がナポレオンにあった。そのためナポレオンはとりあえずトレントまで進んで、そこでドイツか
らの情報を待って準備を始めた。
一方、フランスの攻勢準備をキャッチしたヴュルムザーは先制攻撃に出ることにした。9月1日、ヴュルムザーは2万の兵
をトレントの守りに残して自らは2万を率いてブレンタ渓谷→バッサノ→ヴィツェンツァの進路で南下を開始した。前回の反
省で情報収集を強化していたナポレオンはすぐに敵の行動を掴んでアディジェ渓谷を北上して敵の背後を突くことにした。ヴ
ェロナ防衛に12,000を残したナポレオンは2万の兵でトレントを攻撃した。両者の兵力は互角だったが、モローの南下
も警戒しなければならないオーストリア軍は兵を分散しており指揮官のダヴィドヴィチはティロルに敗走してトレントは5日
に無血占領された。
トレントの失陥を知ったヴュルムザーは、当初の予定通りマントヴァへの進行を続けた。マントヴァの包囲を解けば、フラ
ンスの後方連絡線を遮断でき、敵のティロル侵攻を阻止できると判断したからだ。だが、ナポレオンはティロルには向かわず
トレントにヴォーオワを残して、マッセナとオージュローの師団でブレンタ渓谷を進んでバッサノでヴュルムザーの後衛を攻
撃したのである。前衛もヴェロナでキルメーヌに阻止されており、後方からの攻撃を全然予期していなかったオーストリア軍
は敗北して砲を捨てて離脱した。戦略面では有能ではなかったヴュルムザーも戦術面では卓越な指揮官で、フランス軍の追撃
を振り切って9月13日にマントヴァに入った。マントヴァを包囲していたサユゲの6,000の兵ではヴュルムザーの突破
を阻止することはできなかった。15日、ヴュルムザーはマントヴァ東方で反撃に出たが、兵力優勢なフランス軍に撃退され
要塞内に逃げ帰った。以後、彼らはマントヴァに籠城することになるが、食糧難による栄養失調と疫病で次々と倒れ戦力が半
減してしまうのだった。
イタリアのフランス軍に比べドイツのフランス軍は不甲斐無かった。ジュールダンのサンブル=ミューズ方面軍とモローの
ライン=モーゼル方面軍はオーストリア軍に大敗して戦略的主導権を奪われてしまった。オーストリアはアルウィンツィ将軍
に5万の兵を預け、マントヴァ救援を命じた。
そのころ、北イタリアでは総裁政府の命令でナポレオンが国家群の再編成に着手していた。ミラノ公領はトランスパデナ共
和国に、モデナ公国・レッジョ公国・教皇領ボローニャおよびフェラーラはチスパデナ共和国にされた。
だが、これだけの功績を挙げても総裁政府からのご褒美は些細なものだった。半年戦って疲弊したイタリア方面軍には戦え
る兵士が二万しかおらず、ナポレオンは再三政府に増援を要請したが年内に到着したのはヴァンデ治安戦から引き揚げられた
8,000でアルウィンツィのオーストリア軍に対して1対2の劣勢である。
11月1日、オーストリア軍は二方向から進軍を開始した。ダヴィドヴィチの18,000はティロルからアディジェ渓谷
に進み、アルウィンツィの29,000はトリエステからブレンタ河方面に進んだ。それに対して、ナポレオンはヴォーボワ
にダヴィドヴィチを拘束させている間にマッセナとオージュローの師団でアルウィンツィにあたる作戦を計画したのだが、彼
は敵の兵力量を過少に見積もるというミスを犯してしまった。2日、ヴォーボワは倍の兵力のダヴィドヴィチに大敗して、ト
レントを放棄してリヴォリ高地まで敗走した。ナポレオンはリヴォリに急行して部隊を立て直して、ヴェロナに進軍するアル
ウィンツィをカルディエロで迎撃したが、12日の戦闘でフランス軍は大雨で砲兵を移動させることができないという不運も
あって敗北を喫しヴェロナに後退を余儀なくされた。この結果、フランス軍はリヴォリからヴェロナの狭い地域に追い詰めら
れ、二つのオーストリア軍がすぐにでも行動を開始していれば間違いなくフランス軍は北イタリアから去らねばならなかった
だろう。だが、アルウィンツィは防備厳重なヴェロナ要塞への攻撃を躊躇して二日間も部隊を停止させてしまった。もう一方
のダヴィドヴィチは上官からの命令なくば一兵たりとも動かさないタイプの軍人で、この天佑とも言える二日間を活用してナ
ポレオンは各地の守備隊や病院まであらゆる場所からかき集めて19,000の部隊を編成した。
14日夜、フランス軍は『後方への機動』による反撃を開始した。ヴェロナとヴィラヌーヴァの間の狭い地域に展開してい
るオーストリア軍を撃滅するのが目的だ。ヴェロナにはアディジェ河が流れており、そこから分かれたアルポネ河のちょうど
ヴェロナとオーストリア軍を挟む渡河点がヴィラヌーヴァである。ヴェロナにキルメーヌの2,000を残したナポレオンは
先述した19,000を率いてヴェロナを密かに出撃し、アディジェ河南岸を東に進んで未明にロンコで河を渡った。このロ
ンコとヴィラヌーヴァの中間点にアルコラというのがあって、作戦を成功させるにはこのアルコラを絶対に奪取しなければな
らない。だが、そこを守るクロアチア歩兵は頑強に抵抗して、フランス兵はアルポネ河に架かる橋を目の前にしながらも熾烈
な火線に射すくめられてしまった。これに業を煮やしたナポレオンが自ら軍旗を持って先頭に飛び出して、副官に身を張って
守られたというのは有名な話である。結局、アルコラが陥ちたのは夕方でその頃には状況を把握したアルウィンツィの主力は
アルポネ河東岸への撤退を完了していた。しかし、作戦目的こそ達成できなかったものの、このアルコラの戦闘はフランス軍
に勇気と希望を甦らせたのである。とはいえ、作戦に失敗したのは事実でナポレオンはロンコに退くしかなかった。
フランス軍は16日にもアルコラを攻撃したが、橋を奪取するには至らず日没とともにロンコに後退した。そこで、ナポレ
オンは工兵を夜間にアルコラとアルバレドの中間に送ってそこに橋を架けさせた。翌日、フランス軍は三度攻撃を開始した。
アルウィンツィ配下のプロヴェラの部隊を敗走させて左翼の安全を確保したフランス軍は2個師団でもってアルコラを攻撃し
た。マッセナがアルポネ河西岸の敵前衛を奇襲で殲滅してアルコラの橋を攻撃する一方、昨夜に架橋した浮橋を渡ったオージ
ュローの師団が南から進撃したが、ミトロフスキのオーストリア軍3,000の抵抗の前に前進を阻まれてしまった。だが、
ナポレオンが4名の喇叭手と嚮導隊(ナポレオンの身辺警護隊)の25名を密かに湿地帯から敵の後方に回り込ませて、大軍
の来援を装う喇叭と歓声を上げさせるとオーストリア兵は持ち場を放棄して逃げ出した。その機に乗じたオージュローが総攻
撃を開始して敵を崩壊させ、マッセナも橋を確保してアルコラに突入したことで3日間に及んだアルコラの戦いはフランス軍
の勝利に終わった。兵6,000の損害を被ったアルウィンツィはヴェロナ攻略を断念してブレンタ河に後退した。アルウィ
ンツィを撃退したナポレオンはすぐに軍を北西に向けてダヴィドヴィチを21日に撃破してガルダ湖北岸に敗走させた。
二倍の敵に勝利したナポレオンだったが、オーストリア軍は動員した新兵をアルウィンツィの軍に補充して1797年の年
明けまでに兵力を5万に回復させた。しかし、ナポレオンにもようやくにして総裁政府が約束した増援が到着して47,00
0の兵を動かすことができるようになった。
1月7日、アディジェ河上流で戦闘が始まったとの報告を受けたナポレオンはマッセナとオージュローとレイの師団に移動
準備をさせたが、敵の主攻がどこにあるのか見極められていなかった。アルウィンツィは前回とは逆に28,000の主力で
アディジェ渓谷を進み、15,000の部隊をブレンタ渓谷に進ませたのだが、相変わらず双方には連携がなんら考慮されて
いなかった。前回の失敗の要因の一つであった相互の連携不足が解消されていない上に、今回は前回のような圧倒的な兵力の
優勢が失われているのである。アルウィンツィの作戦は最初から失敗が決定していたといえよう。13日に、ラ・コロナで大
兵力の攻撃を受けてジューベールがリヴォリに後退したと報告を受けたナポレオンは、アディジェの部隊がアルウィンツィの
主力と判断して14日未明に司令部をリヴォリに前進させた。
リヴォリの高地から敵の陣営を観察したナポレオンは敵が5個の師団に編成されていると見た(実はオーストリア軍は6個
師団なのだが、モンテ・バルドの稜線に隠れていてナポレオンの視界には入らなかった)。オーストリア軍はリプタイ・ネブ
レス・オスキの3個師団がモンテ・バルド東麓の山道を進み、クァスダノヴィチの師団がアディジェ河西岸をヴカソヴィチの
師団が東岸を進んだ。ナポレオンはリヴォリ高地北端を形成する稜線の確保をジューベールに命じて、ジューベールは夜明け
までに敵を高地から駆逐した。
14日6時、ジューベールの1万の部隊と増援のマッセナの前衛はオーストリア軍3個師団12,000の攻撃を受けて右
翼が大きく後退したが、10時から11時にかけて敵の歩兵を砲兵で叩いてその側背に騎兵を突撃させて撃退した。同じ頃、
ジューベールの右翼の迂回を図ったクァスダノヴィチの7,000も砲兵と騎兵によって撃退された。部隊の連携や諸兵科の
協同も取れていないオーストリア軍は兵力ではフランス軍を上回っているにも関わらず、局所局所での成功を戦場の勝利に結
びつけることができなかった。午後になって、前夜のナポレオンの視界から隠れていたルシグナンの4,000がフランス軍
左翼を迂回してモンテ・ピポロの丘を占領したが、その頃にはリヴォリ高地正面の戦闘はフランス軍の勝利に終わっており、
彼の部隊はマッセナとレイの部隊に包囲されて全滅した。フランス軍の損害2,000に対しオーストリア軍は1万の兵を失
い、さらにその後の追撃戦で4,000名を失った。
この戦いでアルウィンツィが大敗を喫したことで北イタリアの戦いの趨勢は決した。オーストリア軍の別動隊も17日に撃
破されて、万策尽きたヴュルムザーは2月2日にマントヴァを開城した。この期間に飢えと病で倒れた兵士と住民は24,0
00名に達する。新たにベルナドットの師団を増援を手にしたナポレオンはついにオーストリア本国への進攻を発動した。オ
ーストリアはカール大公を新司令官に任命したが、25歳の彼にはナポレオンと歴戦のフランス軍を迎撃するのは荷が重たか
った。ナポレオンはウィーンの城門まで100マイルほどのグラーツまで達したが、ドイツ戦線での攻勢が始まっていないこ
ともあって進撃をそこで停止させた。ナポレオンは独断で4月16日にレオーベンで仮講和を締結した。その後、10月にカ
ンポ・フォルミオで正式に講和が結ばれて戦争は終結し、第1回対仏大同盟は崩壊した。フランスはライン河西岸・ネーデル
ラント・ミラノを獲得し、ジェノヴァ共和国はリグリア共和国に教皇ピウス6世は軟禁されて教皇領はローマ共和国にナポリ
王国はパルテノペ共和国に改編された(その他スイスもヘルウェティア共和国に改編させられた)。しかし、これで北イタリ
アをめぐる戦いに決着がついたわけではなかった。ナポレオンのエジプト遠征とクーデターによる権力奪取を経て両者は再び
北イタリアで激突するのである。
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