河内源氏
武家の棟梁の家系として最も有名な源氏。ご周知のとおり、源氏にはいくつかの系譜があり、その中で
一番有名なのが清和源氏である。今日、源氏といえばこの清和源氏をさす。
さて、この清和源氏もいくつかの系統がある。勢力を扶植した国から名をとって近江源氏とか甲斐源氏
などであるが、その中で唯一天下人を輩出したのが河内源氏である。鎌倉幕府を開いた源頼朝も、足利幕
府を開いた足利尊氏も、そして、徳川家康が源氏姓を詐称するのに利用した新田氏も河内源氏の嫡流若し
くは分家である。この河内源氏とはどのようにして生まれたのか、そして如何にして天下を掌握したのだ
ろうか。
河内源氏は清和源氏の祖・源経基の子・満仲の三男・頼信が河内国壷井を本拠としたことに始まる。ちなみに
長兄の頼光(土蜘蛛や酒呑童子退治で有名)は父の地盤を受け継いで摂津源氏の祖となっているし、次兄の頼親
は大和源氏の祖となっている。
摂津源氏が京都を活動の舞台にしていたのに対し、河内源氏は東国に下って勢力を扶植している。これは、頼
信が兄との競合の場を同じくするのをさけたためと言われているが、後に東国の源氏と言われるぐらい東国で源
氏の勢力が拡大するのは既にこの時点で種が埋められていたのである。頼信は1031年に平忠常の乱を鎮圧し
て東国に勢力を植えつけるのに成功し、子の頼義や孫の義家の時代に前九年・後三年の役に勝利して武家の棟梁
という地位を得るに至った。ちなみに後のライバルとなる伊勢平氏はこの時点では義家に臣従している状態だっ
た。
だが、義家の晩年あたりから河内源氏の隆盛に陰りが見え始めた。東国での勢力拡大に朝廷から警戒されるよ
うになったのだ。さらに次男・義親の反乱や家督を継いだ四男・義忠が叔父の新羅三郎義光や快誉に暗殺される
という内紛の結果、次第に勢力が衰退していった。その背景には摂関家に仕えていたことで白河院政に敬遠され
たことや、摂関家とも疎遠になったことで中央政界における後ろ盾を失ったことも影響しているとも言われてい
る。
衰退していく河内源氏と院に接近することで繁栄のきっかけをつくった伊勢平氏。かつて源氏優位の状況は何
時しか立場を逆転させるようになる。源義親の反乱を鎮圧し、西国に勢力を拡大させるなど非凡の才を発揮させ
た平正盛に比べ、義忠の後継となった為義は凡将であったとされ傾きかけた家運を回復させるだけの力量がなか
った。その後も、西国や畿内に勢力を拡大させていく伊勢平氏に対し家督争いで勢力の衰えた摂関家との関係を
維持していた河内源氏は中央政界における非主流派となってしまう。しかも、為義は平氏が藤原忠通と昵懇して
いるのに対抗して、弟の頼長に接近するという愚を犯してしまう。確かに頼長は学識高く父の忠実に偏愛され藤
氏長者の地位を得るに至った人物だったが、融通が利かず酷薄な性格の持ち主で周囲からは嫌われていたとされ
ている。特に近衛天皇にあからさまに嫌われていたことが致命的であった。近衛の次となった後白河天皇が即位
すると頼長は失脚してしまう。
頼長の失脚でさらに立場が悪くなった為義は起死回生を図った頼長に同調して不遇を囲っていた後白河の兄・
崇徳上皇に接近した。これを知った後白河陣営も味方する武士を集めて一触即発の状態となった。保元の乱であ
る。この天皇家の兄弟喧嘩に、為義は息子達を率いて上皇側に加わるが長男の義朝だけは上皇方に勝ち目は無い
と判断したのか、父や弟達と不仲であったからか天皇方に加わっている。結果、天皇方が勝利して義朝が生き残
ったが、父や弟達を処刑せざるを得なかったことで河内源氏の勢力はさらに衰えてしまう。焦った義朝は藤原右
衛門督と結託してクーデターを起こしたが、平清盛に敗北して逃亡途中に暗殺された。義朝の敗因は彼の軍勢が
彼を頂点とした主従関係にある武士からなっていたのに対し、清盛は一門とそれぞれが主従関係を持つ武士を率
いておりそれらを清盛が統合する形態をとっていたため動員できる兵力に差ができたことである。さらに畿内と
その周辺に勢力を扶植していた清盛がすぐに反撃態勢を整えることができたのに対し、義朝の勢力地盤は関東で
あったため畿内での戦闘は不利だった。しかも、東国の武士は自分達に直接関係の無い都での戦いに乗り気では
なかった。こうした不利を跳ね返すには可及的速やかに清盛を討つべきだったが、徒に時間を浪費して破滅した
のである。その結果、河内源氏は滅亡寸前に追い込まれてしまった。
河内源氏没落、清和源氏で最大の勢力となったのは先の戦いで義朝方に参加していながら清盛に寝返った摂津
源氏の源頼政だった。その結果、平家政権の時代となってからも源氏の長老として中央政界に留まることが出来
た。清盛は頼政を信頼しており、彼を従三位に昇進させている。公卿は従三位から列せられることになっており
武士としては破格の待遇である。このことを九条兼実は日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記している。それだ
け頼政を信頼していたのであって、頼政が以仁王を擁して謀反を企てた時もすぐに彼が首謀者だと気付かなかっ
たぐらいだ。
一方、敗死した義朝の嫡男・頼朝は一命を助けられて伊豆に流されていたが、以仁王の平家追討の令旨を受け
取ると舅の北条時政らとともに平家打倒の兵を挙げた。平家の失敗は以仁王の死を世間に証明することができな
かったことだ。首は検分されたのだが、王の顔を詳しく知る者が少なかったためハッキリとこれが王のモノであ
ると断言できなかったのだ。王の死が確認されない限りその令旨の効果は持続する。頼朝はこれを利用して平家
に破れて安房に逃れた後にも関らず勢力を急速に拡大することができたのである。その後、富士川で平家を撃退
した頼朝は勢いに乗じて上洛しようとしたが、配下の反対にあって鎌倉に引き返している。関東にはまだ頼朝に
従わない佐竹・志田・足利(藤姓)といった勢力が存在していたからである。平家が畿内周辺の反乱の鎮圧に忙
殺されていたり、木曽義仲が都に攻め上ろうとしていた時期に頼朝は勢力圏を固めることに意識を集中していた
のである。
しかし、義仲が破竹の勢いで勝ち進み平家を都から追放して受領任官を果たすと頼朝陣営の結束に綻びがみえ
はじめた。この時点で頼朝はまだ謀反人扱いだったのだ。近隣の反対勢力を排斥したことも結束の弱体化に繋が
った。頼朝はこの状況を打破しようと、朝廷に自分が源氏の嫡流であることと唯一の武家の棟梁であることを認
めてもらおうとした。朝廷も年貢などの物資を供給してくれる人物を求めていたこともあって、東国の荘園など
からの年貢納入を条件に頼朝の東国支配を認める宣旨をくだした。これにより、頼朝は配流前の官位に復するこ
とができ謀反人の身分から脱することができた。一方、これを知った義仲は激怒し朝廷との関係が悪化した。朝
廷から義仲追討を命じられた頼朝は軍勢を都に派遣して義仲を滅ぼした。義仲の滅亡で頼朝は源氏勢力を統率す
る唯一の存在となったのである。次いで平家、奥州藤原氏を滅ぼしたことで河内源氏は唯一の武家の棟梁として
の地位を確立した。
河内源氏の嫡流は頼朝の次男・実朝の死で断絶した。嫡流には他に頼朝の弟・阿野全成(義経の同母兄)の系
統があったが、全成が謀反人として甥の頼家(頼朝の長男)に誅殺されたことや勢力が非常に小さかったため嫡
流を維持することが出来なかった。代わりに源氏最大の勢力として台頭したのが足利氏である。足利氏も河内源
氏の一族で、頼朝の挙兵に参加して武功を挙げた。その功績で足利氏は頼朝から将軍家の一門である御門葉に加
えられている。源氏将軍断絶後も北条氏との関係を強化することでその地位を確保している。
足利氏は一門を多く輩出し、勢力を全国に拡大させた。そのため元弘の乱ではその去就が注目され、足利氏が
天皇方に味方したことで戦局は一気に動いて鎌倉幕府を滅亡させた。しかし、天皇方も後に足利氏と袂を別った
ため政権から追われている。足利氏は鎌倉幕府に替わる武家政権の樹立を宣言し、京都に幕府を開いた。名実と
もに河内源氏が武家の棟梁の地位に返り咲いたのである。3代目将軍・義満の代には源氏全体の氏長者である源
氏長者にもなっている。以後、義持・義教・義政・義稙が源氏長者となっている。徳川幕府成立後は、徳川家が
源氏長者となっている。
最後に徳川家だが、前身の松平氏始祖の親氏は世良田氏の出身とされている。世良田氏の祖・弥四郎頼氏の父
・得川四郎義季は新田氏の祖・義重の四男なので、親氏は足利将軍家と祖先を同じくする新田氏の末裔というこ
とになる。ただし、親氏が本当に世良田氏の出であるかを示す証拠はなく、徳川家康が系図を偽造したともされ
る。事実、祖父の清康が世良田氏を称していたのに家康は一時、藤原氏を名乗っている。これは徳川家に限った
ことではなく、当時はどこにでも見られたことだ。
以上、信憑性はともかくとして鎌倉・足利・徳川と武家政権の代名詞ともいえる幕府を河内源氏が開いたこと
になる。清和源氏としての源頼朝や足利尊氏は有名だが、彼等が河内源氏の流れをくむ家柄であることはあまり
知られていないだろう。河内源氏からは他に甲斐源氏や常陸源氏などが輩出されている。
源氏長者
源氏長者とは読んで字のごとく、源氏という名が付く一族でもっとも官位が高い者が任じられる職である。い
わば源氏の元締め役で、正六位上の源氏を従五位下に推挙する権限を有し源氏の氏寺となっている薬師寺・東大
寺の管理に俗別当として関ること、平野社や八幡宮などの氏社の祭祀に関ることなどを職務としている。初代は
初めて源姓を賜った嵯峨源氏の源信で、淳和院・奨学院両別当を兼任するようになったのは源融若しくは子の昇
からと推定されているが、確実なのは平安時代末期の源雅定(村上源氏。初代の師房から嵯峨源氏に替わって源
氏長者を世襲する)からである。平安時代末期といえば源義朝らが活躍していた時代だ。勢力に陰りがあったと
はいえ、源氏一族で最大の勢力だった清和源氏の義朝が長者になれなかったのは彼の官位が左馬頭という低いも
のだったからだ。その息子で天下を掌握した頼朝にしても権大納言で、大臣に昇進できる源氏唯一の清華家の家
格を誇る村上源氏には官位で負けるのだ。朝廷からしたら武家源氏で初めて生前に大臣となった足利義満が13
83年に源氏長者となるまで源氏で最も偉い家柄は村上源氏だったのである。以降は足利氏と中院流村上源氏で
源氏長者を務めていくが、足利氏の権威が著しく失墜してからは村上源氏が再び源氏長者を独占するようになり
徳川家康が征夷大将軍になってからは徳川家が世襲していった。
【関連年表】
寛平 9年 経基王、貞純親王の子として生まれる。(清和源氏祖、陽成源氏とする説も)
安和 1年 源頼信、満仲(摂津源氏祖、経基の子)の三男として生まれる。(河内源氏祖)
長元 4年 頼信、平忠常の乱を鎮圧。以後、東国に勢力を扶植する。
康平 5年 源頼義(頼信の子)、前九年の役を平定する。
寛治 1年 源義家(頼義の子)、後三年の役を平定する。
天元 1年 源義親(義家の次男)、平正盛に討たれる。
天仁 2年 源義忠(義家四男で家督継承者)、叔父の義光らに暗殺される。
天治 2年 源義重、義国(義家の三男)の長男として生まれる。(新田氏祖)
大治 2年 源義康、義国の次男として生まれる。(足利氏祖)
保元 1年 源為義(義親の子で義忠の養子)、保元の乱に敗北して処刑される。
永暦 1年 源義朝(為義の子)、平治の乱に敗北して逃亡中に暗殺される。
治承 4年 以仁王(後白河法皇第三皇子)、諸国の源氏に平家追討の令旨を発する。
以仁王、摂津源氏の源頼政らとともに挙兵する。(治承・寿永の乱の始まり)
源頼朝(義朝の子)、伊豆で平家打倒の兵を挙げる。
寿永 2年 頼朝、朝廷から東国支配を公認する宣旨を受ける。
寿永 4年 壇ノ浦で平家滅亡。(治承・寿永の乱の終わり)
建久 3年 頼朝、征夷大将軍に任じられる。
建保 7年 源実朝(頼朝次男)、鶴岡八幡宮で暗殺される。(源家将軍の断絶)
永仁 6年 松平親氏、世良田有親の子として生まれる。(松平氏祖)
暦応 1年 足利尊氏、征夷大将軍となる。(足利将軍の始まり)
永徳 3年 足利義満(尊氏の孫)、武家源氏として初めて源氏長者に任じられる。
永正 6年 足利義稙、足利将軍家として最後に源氏長者に任じられる。
天文11年 徳川家康、松平広忠の子として生まれる。(徳川氏祖)
永禄 9年 家康、松平氏から徳川氏に改姓する。
天正 2年 足利義昭、織田信長に京都を追放される。(足利幕府の事実上の終焉)
16年 義昭、征夷大将軍を辞任する。(足利将軍の断絶)
慶長 8年 家康、征夷大将軍に任じられる。(徳川将軍の始まり) 同時に源氏長者にも任
じられる。以後、源氏長者は徳川家の世襲となる。
慶応 3年 徳川慶喜、朝廷に政権を返還する。(大政奉還。徳川将軍の断絶)
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