鎌倉時代2
主な合戦
奥州征伐
和田合戦
承久の乱
宝治合戦
二月騒動
奥州征伐(文治5年=1189年)
平家を壇ノ浦で滅亡させた源頼朝は鎌倉幕府を全国規模の政権にすべく次なるターゲットを奥州藤原氏
に定めた。当時、藤原氏の下に頼朝が指名手配した源義経が滞在していたので頼朝としては奥州に攻め込
む名分があった。
だが、十数万に及ぶ精強な軍隊と豊富な財力を誇る藤原氏は強敵で、これに戦上手の義経が加われば頼
朝としてもおいそれと手出しはできなかった。
そんな状況が急変したのは義経を庇護していた藤原秀衡が死去して子の泰衡が家督を継いでからだ。義
経と力を合わせろという父の遺命の意味を理解していなかった泰衡は文治5年4月30日、義経とその家
来を討ち取りその首を鎌倉に送ったのである。頼朝からの圧迫に耐えかねた結果である。さらに泰衡は義
経与党として弟の忠衡も6月に攻め殺している。
ところが、父の遺命を破り弟まで犠牲にしてまで泰衡が要求に従ったにもかかわらず、頼朝は義経を庇
護していたことを口実に奥州征伐を御家人達に発令した。頼朝は藤原氏をそのままに残しておくつもりな
ど毛頭なかったのである。秀衡というカリスマと義経という名指揮官を失った奥州軍など敵ではないと考
えたのであろう。たしかに奥州兵は精強だが精強な軍隊は優秀な指揮官が指揮して初めて精強になり得る
のである。実戦経験がない泰衡にそれを求めるのは不可能である。さらにいえば奥州軍そのものに実戦経
験が皆無であった。木曾義仲や平家との戦いで鍛え上げられた鎌倉軍がおくれをとることはまずもって有
り得なかった。
7月19日、頼朝は畠山重忠を先陣に1,000騎を率いて鎌倉を出立した。鎌倉軍は3つに分かれ頼
朝は東山道を進む部隊を直率した。この東山道軍は最終的に1万騎にふくれあがる。総数にして28万の
大軍である。鎌倉軍の作戦は本隊である東山道軍が奥州軍主力を拘束している間に北陸道軍と東海道軍が
その両翼から搦手に迂回して奥州軍全体を包囲するというもので、この「正面拘束・迂回機動」は鎌倉軍
の御家芸ともいえる戦術なのである。
対する奥州軍の戦略は阿津賀志山(福島県伊達郡、現在は厚樫山)に何重もの防塁を築いて鎌倉軍を消
耗させ、その疲労がピークに達したところで後方の予備部隊が一気に攻撃を仕掛け敵を殲滅するというも
のであった。鎌倉軍を極限まで疲労させる最前線の阿津賀志山には2万の兵が配置され泰衡の兄国衡が指
揮を執り、その後方の国分原には泰衡が3万以上の兵を率いて控えていた。
8月7日、鎌倉軍は阿津賀志山麓の藤田駅に到着、翌日早朝阿津賀志山防塁を攻撃してその日の内にこ
れを制圧した。最前線でのあっけない敗北で国衡は緒戦にして作戦の変更を余儀なくされた。一方の鎌倉
軍も損害が多く9日の攻勢が中止され作戦が変更された。新作戦は結城朝光とその伯父宇都宮朝綱の郎党
を中核とした別働隊が西に迂回して大木戸後方の山塊に潜伏し、主力の攻勢が始まって奥州軍が正面の防
戦に目を奪われた瞬間を見はからって攻撃するというもので、本来北陸道軍と東海道軍が果たすべき役割
を朝光らに切り替えたわけである。
10日、畠山重忠を先陣とする鎌倉軍は大木戸防塁への攻撃を開始した。一昨日とは違って奥州軍は必
死に抵抗して戦闘は一進一退の激戦となった。だが、奥州軍が将兵を大木戸に集中させ後方を手薄にした
瞬間をねらって潜伏していた別働隊が山を駆け上って国衡の本営を急襲した。当時は霧が発生していて視
界が悪く別働隊の兵力は過大に見積もられた。急襲は国衡軍を混乱させ大木戸防塁は鎌倉軍の総攻撃で陥
落、大木戸の守将金剛別当秀綱が討死した。国衡はなおも抵抗を試みるが阿津賀志山とその防塁はその日
の内に鎌倉軍に制圧された。
国衡軍の敗北と阿津賀志山失陥は泰衡とその側近に恐慌を来した。それは、たちまち全軍に波及し軍隊
としての統制を不可能にさせた。泰衡軍は戦わずにして崩壊し、泰衡はわずかな近臣とともに敗走する羽
目となった。後方の泰衡軍の逃亡により国衡は敵中に孤立してその首を打たれた。
大将クラスの武将を次々と失った奥州軍に再起する余力はなく、奥州対鎌倉の戦は事実上阿津賀志山で
の戦いで勝敗が決した。
泰衡は逃亡中に家臣に殺され首は9月6日に頼朝へ届けられた。ここに初代清衡以来約100年にわた
り奥羽(奥州と羽州)に君臨した藤原氏は滅亡し、鎌倉幕府の覇権が確立した。
和田合戦(建暦3年=1213年)
幕府の実権掌握を目論む北条義時は強力なライバル和田義盛の排除を企図、義盛の甥による義時暗殺未
遂を利用して義盛を挙兵に追い込んだ。義盛方は善戦するが多勢に無勢では敗北するのは当たり前で義盛
は自刃した。
承久の乱(承久3年=1221年)
後白河法皇の死後、朝廷のドンとして院政を布いていた後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒して王朝の権威を復
活させようと機会を窺っていた。当時、幕府は内部抗争で混乱が生じており朝廷の付け入る隙は十分にあ
った。その混乱が頂点に達したのが建保7年1月13日の3代将軍実朝の暗殺である。
この鎌倉の混乱を見た後鳥羽院は承久3年5月15日、北条義時追討の宣旨を出し挙兵した。まず手始
めに京都守護伊賀光季を殺害して親幕府派の西園寺公経親子を幽閉した。
上皇の義時追討令は19日に鎌倉に届いた。幕府は御家人を召集するが彼等は朝廷に敵対する初めての
事態に動揺していた。幕府に敵対する気もないが、かといって朝廷に弓を引けば朝敵となる。
そんな御家人達の心を動かして結束させたのは頼朝未亡人の北条政子であった。政子は御家人に頼朝の
恩を思い出させる演説で彼等の心を一つにした。さらに、政子は敵を上皇ではなく君側の奸とすることで
御家人の不安を解消した。実をいえば義時も天皇崇拝に囚われており、上皇に刃を向けるという行為に苦
慮していた。政子のリーダーシップがなければ幕府は倒壊の危機に瀕していただろう。
幕府は攻勢に出ることに決したが総大将を努める義時嫡男の泰時はひとつ大きな気がかりがあった。そ
れは、上皇が出陣してきた場合どうすればいいかというものであった。義時は上皇が出張ってきたら降服
すべし、上皇が都に残ってたらたとえ一人になっても命を捨てて最後まで戦えと命じた。
幕府軍は朝廷軍を圧倒して6月16日に入京した。後鳥羽院の野望はわずか1ヶ月で潰えた。戦後、上
皇は流罪となり朝廷の権威は完全に失墜した。この乱を境に日本は古代から中世に移行する。
宝治合戦(宝治元年=1247年)
三浦氏は頼朝の挙兵に参加して流人にすぎなかった頼朝に軍事力を提供した。三浦氏が味方についたこ
とで頼朝は独立に成功した。そのため、三浦氏は幕府内で重きをなすようになった。
それに対し政敵を次々と抹殺してきた執権北条氏は最後に残った三浦氏を滅ぼす機会を狙っていた。執
権といえば独裁的な権力を握っているように思えるが、実際は幕府の政治は評定衆による合議制で行われ
ていたのである。北条氏が独裁体制を確立するためにも三浦氏は排除しなければならない。しかし、三浦
氏は官位も所領もずば抜けており北条氏単独では到底太刀打ちできない相手である。そのため、北条氏は
迂闊に手を出すことができず、むしろ縁戚関係を結んで機嫌をとるようなことをしていた。
だが、名越光時と将軍辞任後も鎌倉に留まり大きな影響力を保持していた藤原頼経のクーデター計画が
発覚して頼経が鎌倉を追放されると両者の関係は急速に悪化した。追放された頼経の側近の一人が三浦家
の当主泰村の弟光村だったのである。当然、クーデターの謀議にも加わっていたはずである。
光村は兄の泰村に挙兵して執権を討つべしと何度も進言するが、泰村は気の弱い性格でそんな気にはと
てもならなかった。それに対し執権の北条時頼の動きは素早かった。母方の実家である安達氏と手を組み
将軍御所を包囲したのである。包囲された光時と頼経らは戦意を喪失して時頼に降服した。
もしこの時、三浦氏が挙兵すれば後の一族の悲劇を回避できたかもしれない。だが、当主泰村は東国一
の武士団の棟梁にしてはあまりも気が弱く優柔不断であった。北条氏と雌雄を決する覚悟など持ち合わせ
ているはずもなく、せいぜい頼経を時頼に売って己の安泰をはかるのが精一杯の男である。
兄のあまりもの体たらくに光村は憤慨するがどうすることもできず、ただ京に送還される頼経に「いつ
か必ず鎌倉にお迎えしますから、それまで御辛抱ください」と慰めることしかできなかった。
こうしてみるとボンクラな兄貴を持って苦労する弟という風に見えるが、兄の泰村が優柔不断なぶんそ
れだけ慎重だといえるのに対し、弟の光村はあまりにも軽率な人間であった。先程の光村が頼経に言った
「鎌倉にお迎えします」という台詞だが、謀反を企て追放された人間が鎌倉に戻ってくることは現在の体
制が崩壊しない限り有り得ないことなのだ。
本気で言ったにしろ頼経を不憫に思って慰める方便として言ったにしろ、この台詞はそう気軽に言いふ
らしていいものではない。ところが、光村は酒の席でその事を同輩に喋ってしまったのだ。しかも、その
相手はあろうことか宿敵北条時頼の弟時定だったのである。当然、時定は兄にその事を告げる。時頼はそ
れを利用することにした。しばらくして鎌倉に次のような噂が流れた。
―三浦一族が前将軍を擁して執権に反旗を翻そうとしている―
これが北条氏の謀略であることは単純な光村にもわかっていた。だが、わかっていても光村にはその謀
略を切り抜けるだけの頭がなかった。兄の泰村も同様である。ただ一人、弟の家村には謀の才能があった
が、謀略の徹底さにおいて家村は時頼の敵ではなかった。
取る道は二つ、執権に屈服するか、断固戦うか。三浦氏は後者を選んだ。もはや、戦は不可避となって
しまった。
宝治元年5月27日、時頼は三浦の屋敷に滞在していたが不穏な動きがあったとして家来一人を連れこ
っそり脱出した。6月1日、時頼は様子を探らせるため使者を三浦邸に送った。泰村は使者に弁明したが、
屋敷に参集する軍勢をごまかせるわけもなかった。その翌日、近隣から御家人達が時頼邸に馳せ参じた。
迫り来る対決に泰村は不安を募らせ飯も喉を通らぬ有様で、遂にたまりかねて時頼に何でも言うことを
聞くから和平を結ぼうと手紙を送った。だが、時頼からは拒絶の返事が来るだけだった。
双方の衝突がもう目前に迫っていると思われた6月5日、三浦邸に時頼から手紙が来た。和平を結ぼう
という内容だった。手紙を読んだ泰村は安堵したことだろう。もしこの時光村がいたら時頼の謀略に気づ
いていたかもしれない。だが、光村は外出していてその場にはいなかった。
戦は回避できたと安心していた三浦邸に安達氏の手勢が攻め寄せてきた。時頼も時定に兵を与えてこれ
に参加させる。不意をつかれても坂東一を誇る武士団は執権方を寄せ付けなかった。そこで、執権方は三
浦邸に火を放った。たまらず、三浦方は屋敷を脱出して源頼朝の墓所である法華堂に立て籠もった。永福
寺で戦っていた光村もこれに合流した。もう、滅亡は避けられない情勢となった。泰村の妹婿毛利西阿が
念仏を唱え一同もこれに和した。ちなみにこの毛利西阿は時頼の舅であの毛利元就の先祖である。
光村は無念の気持ちで一杯だっただろう。もしあの時挙兵していたら。だが、この期に及んで愚痴を言
う程愚かではなかった。郎党が執権方をくい止めている間に泰村ら一族はことごとく自刃して果てた。そ
の数500を超える。騒動はこれだけに治まらず7日、上総の千葉秀胤が泰村の妹婿という理由で討伐さ
れた。
ここに幕府創業の功臣三浦氏は滅亡し、北条氏の独裁体制が確立した。なお、三浦氏は一族の盛時が再
興したが、戦国時代に伊豆の伊勢宗瑞に滅ぼされる。後世、北条早雲と呼ばれる男にである。
二月騒動(文永9年=1272年)
3代執権北条泰時に朝時という弟がいた。母は源頼朝に仕えていた姫の前という美女で、北条義時が熱
心に彼女にラブレターを送るので見かねた頼朝が義時に彼女との結婚を許した。念願かなった義時は彼女
を大事にしたので当然その間に生まれた朝時・重時の兄弟はずいぶん父親に可愛がられたと思う。
そのためか朝時は自分こそが北条の嫡流だと思うようになった。しかし、彼はそのことを表だって口に
することはなかった。彼は名越に居を構えたのでその系統を名越氏と呼ばれる。ちなみに泰時の系統は北
条の嫡流で得宗と呼ばれる。
名越が得宗に反逆を企てるようになったのは2代目の光時からである。その頃、執権は泰時から孫の経
時、次いでその弟時頼と替わっていた。光時はそれが気にくわなかったようで同じく得宗に反感を抱く前
将軍藤原頼経と結託してクーデターを起こそうとしたが、事前に察知されて時頼が断固たる態度に出ると
出家して鎌倉から追放された。その後、時頼の目が黒いうちは名越が不審な行動をすることはなかった。
光時の事件後、幕府から処分を言い渡されたのは光時本人と弟の時幸のみで他の弟時章や教時らにはお
咎めがなかった。それどころか謀反人の弟であるのにも関わらず時頼は時章を評定衆など幕府の要職に取
り立てた。この時頼の温情に時章はすごく感謝して時頼の死後出家している。余談だが時頼の死後出家す
る者が後を絶たず幕府から禁令が出ている。それだけ時頼が周りから慕われていたということだ。時章は
九州3国の守護を勤めているので、おそらく彼が光時追放後の名越の当主なのだろう。だが、彼には統率
力があまりなかったようだ。そのために彼は後に不幸な最期を遂げる。
弘長3年11月22日に前執権最明寺入道時頼(彼は7年前の康元元年に執権職を長時に、得宗の家督
を時宗に譲って出家している。しかし、実権は手放さなかった)が亡くなり、さらにその翌年の文永元年
8月21日に執権の長時が死去して政村・時宗の新体制に移行すると、またもや名越が不穏な動きを見せ
る。といっても、時章が関与しているわけではなくその弟教時が策動していたのだ。
ちょっとここで長時と政村について説明する。長時は時頼政権で連署を務めた重時の子で時頼引退後に
執権に就任した。京都での暮らしが長かったためか鎌倉武士とは対照的に和歌を好む温厚な人柄で時頼や
他の御家人達の信望も厚く六波羅探題北方・幕府評定衆を歴任しめでたく執権となった。といっても実権
は時頼が握ったままだったが。
政村も長時と同じく和歌を好む温厚な性格で2代執権義時の四男である。つまり、時頼の大叔父、長時
の叔父にあたる。青年期に母の陰謀事件に巻き込まれるも異母兄の泰時のはからいで関係なしとされる。
異母兄の重時が連署を辞任すると、その後任となり時頼・長時を補佐し長時が病気で執権を辞任すると
連署を時頼嫡男の時宗に譲って自ら執権となる。ただし、これは時宗が成長するまでのつなぎで時宗が18
歳になると執権の座を降り、自分は連署の職に戻って若き執権を補佐した。
この新体制が発足して数年後の文永3年7月4日、将軍宗尊親王が謀反を企てたとして京に送還される
事件が起きた。親王は無実を主張したが、将軍在職時その周辺には反得宗の御家人が集まっていた。その
中の一人が名越教時だったのである。親王が無実だったかどうかはわからないが、実際に教時は数十騎を
率いて出陣までしている。だが、20年前と同じくこの時も武力衝突には至らなかった。光時といいこの
教時といい肝心な場面でのこの体たらくは何だろうか。だが、光時と違って教時は何の処分もされなかっ
たようだ。兄の時章が奔走したのだろうか。しかし、政村・時宗ら幕府首脳ははっきり名越を敵と認識す
るようになった。だが、敵は名越だけではなかった。
時宗には時輔という3つ違いの兄がいる。時輔は時頼の長男だが正室が産んだ子ではなく妾の子だった
ため嫡男とはされなかった。
この時輔の扱いに父時頼は頭を悩ませる。というのも得宗の長男が嫡男ではない例が過去になかったか
らである。時頼は時宗が嫡男であるというアピールのためことあるたびに時輔との差をつけた。例えば元
服の際の烏帽子親は時宗が将軍宗尊親王なのに時輔の時は御家人の一人に過ぎない足利利氏(時輔は元服
から13歳まで時利と名乗っていた)だったり、正室も時宗が三浦氏滅亡後御家人筆頭となった安達義景
の娘なのに対し時輔(この時点では時利)は下野の御家人小山長村の娘だったりとえらい差をつけている
のである。さらに弘長元年1月4日、時頼は兄弟の序列を改めると息子達に言い渡した。時輔は時宗と宗
政(時宗の同母弟。つまり正室の子)の下に置かれることになったのだ。この屈辱を時輔は忘れることが
なかった。
父が死んで時宗が連署に就任すると、時輔は六波羅探題南方に任じられ京に赴く。六波羅探題は朝廷を
監視し西国御家人に睨みを利かす重要な役職である。時宗を擁する幕府にとって時輔は目障りな人間だが
かといって時頼の長子を粗末に扱うわけにもいかない。時輔を鎌倉から追い出すことができて、なおかつ
時輔自身も納得できる役職。六波羅探題はまさにうってつけだった。
だが、長い京暮らしで時輔は公家達に懐柔されてしまった。ちょうどその頃蒙古(後の元)から国交を
求める国書が来ており、それにどう対応するかで幕府と朝廷の意見が割れていたのである。幕府は国書を
無視し蒙古への抵抗も辞さない態度にでたが、自分たちに巨万の富をもたらす大陸交易が蒙古との開戦で
途絶えるのを恐れる一部の公家や、蒙古剛強の風評に怯える大多数の公家達はそうした幕府の姿勢に懐疑
的であった。そうした反幕府の公家達が時輔と結びついたのである。これに名越氏も加わり無視できない
状況となった。
ここに至り文永5年3月5日に執権に就任した時宗は名越氏の討伐を決意した。蒙古という大敵が押し
寄せてくるかもしれない状況で、一族すら統制できないのでは他の御家人達が執権についてくるわけがな
い。時宗は反抗勢力に断固たる処置をすることで国内の意思統一を図ったのである。そのためには異母兄
の時輔を討つことも辞さない。時宗は文永8年11月、病死した六波羅探題北方北条時茂の後任としてそ
の甥の義宗を京に送り込んだ。義宗は長時の息子で時宗派といえる人物である。南方の時輔の動きを監視
するための派遣であろう。
そして、文永9年2月11日ついに時宗は北条時章と教時の邸を急襲させた。ある者が名越一族が謀反
を企てていると密告してきたためで、不意をつかれた時章と教時はたちまち殺害された。時章は謀反には
加担していなかったが巻き添えを食う形で命を落とした。不運というしかない最期であった。
時宗は名越を討つとすぐさま京都に使者を送った。使者は15日に入洛し北条義宗に執権の命令を伝え
た。義宗はただちに時輔の邸を攻撃し、時輔以下下働きの男まで全員殺害した。
かつて、北条時頼は妻の母方の実家を滅ぼしてまで得宗の権力を強固にした。その時頼が没すると得宗
の地位は揺らぎ始めるが、時宗はそれを庶兄と得宗に一番近い一族の血をもって修復したのである。
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