Content-Type: text/html 鎌倉幕府3

主な合戦2 文永の役 弘安の役 霜月騒動 筑前岩門合戦 平禅門の乱 元弘の乱
  文永の役(文永11年=1274年)  北条時頼が執権を退いてから長時・政村と得宗以外の北条一族が相次いで執権職を継承したが、それは 時頼嫡男の相模太郎時宗が成長するまでのつなぎであった。  時頼が死んで長時が執権を辞任して政村がその後任になると、時宗は連署に就任して老練な政治家であ る政村の下で執権になるための修行を積んだ。その修業期間中に将軍宗尊親王の更迭という大事件が起き たが、時宗がそれにどのくらい関与していたかは不明である。  その時宗が執権に就任したのは文永5年3月5日で時宗が18歳の時である。執権とは現在でいうと総 理大臣みたいなもので18歳では少し早すぎるのではないかと思うかもしれないが、時宗の伯父である4 代経時は19歳で執権になっているし、その弟つまり時宗の父5代時頼は20歳で執権の職に就いている ので別に早すぎるとはいえないだろう。だが、この時期での執権交代は同じ年の正月に日本に来た元(蒙 古)の使者が日本に服従を求める国書を提出したのが原因である。  国書に書かれている内容は、長年にわたり宋(960年に後周の軍人趙匡胤が建国、1127年一端滅 亡するが皇族の生き残りが再興する。再興前の宋を北宋、再興後を南宋という)を圧迫してきた金(12 世紀初めにツングース系の女真族が建国、1123年に遼を1127年に北宋を滅ぼし南宋を一時その臣 下に置いた)を滅亡させ中国全土を征服する勢いの大国の君主が出したものにしては丁重な書き方で南宋 と貿易するのはやめて元と貿易しようというもので、この時はまだ日本を服従させる気はなく南宋との交 易をやめさせるのが第一の目的であった。ところが、国書の最後に武力を用いると威嚇を込めた文面があ ったため幕府はこれを服従を要求していると判断した。  わが国始まって以来の国難に政村は老いた自分ではなく若い時宗が先頭になって対処すべきと判断し、 執権職を辞し日本の将来を時宗に委ねたのである。そして、自分は連署として若き執権を全面的にバック アップしていくことにしたのだった。  執権となった時宗はとりあえずの対策として国書を無視することにした。服従する気はないが、かとい って戦もしたくない。だが、元が力ずくで日本を従わせようとするならば徹底抗戦あるのみ。国書に返事 を出さないのは失礼なものだが、幕府にはどうしても元に服従できない理由(たとえ攻め込まれる危険が あっても)があった。  本来、征夷大将軍は朝廷に刃向かう蝦夷を追討する軍の最高指揮官であり、幕府は将軍の陣所である。 つまり、幕府の仕事は日本を脅かす敵を撃退することなのだ。もし、幕府が元の要求に屈せばただでさえ 弱い御家人への統制が一挙に崩壊する恐れがある。御家人達は幕府が自分たちを守ってくれると信じて忠 誠を誓っているのだ。その幕府が異国に弱腰な姿勢を見せたら御家人達の信頼は失われるだろう。時宗に 与えられた選択肢は一つしかなかったのである。  さて、元の使者が来日してから元が襲来してくるまでに6年の開きがある。その間、何度か使者が来た が幕府の対応は変わらなかった。なぜ、元の皇帝フビライは6年も我慢したのだろうか。それは朝鮮半島 で三別抄という軍隊が半島を支配する元とそれに追随する高麗王朝に対し反乱を起こし、元が高麗に造ら せた日本征服用の軍船が焼き払われていたからである。また、三別抄は海上を行動範囲としているので彼 等を滅ぼさない限り日本への侵攻は困難であるのも理由の一つである。  その6年を幕府は有効に使うことができなかった。幕府は大陸から元の武器や戦法といった軍事的な情 報を入手することもしなかったし、上陸が予想される地域の守りを固めることも防衛計画を立案すること もしなかった。唯一、異国警固番役を設置した程度であるが、それも警備活動の域を超えるものではなく しかもそれにかかる費用や労力は地元(つまり九州ね)の武士がほとんど負担していたのである。  元の日本侵攻を妨害し続けてきた三別抄も1273年4月済州島にて全滅し、元は邪魔されることなく 日本侵攻の準備をすることができるようになった。また、その少し前の2月に南宋の守りの要である襄陽 が6年の攻囲戦の末に陥落し元の戦略に余裕ができたことでフビライは翌年の3月に遠征軍の部署を決定 し対日遠征を正式に発令した。  日本遠征軍の戦力は蒙古兵と元に降服した漢兵15,000、高麗兵5,500の合わせて2万余り。 軍の総指揮を執るのは征東都元帥ヒンドゥ、首席副司令は右副元帥洪茶丘、次席副司令は左副元帥劉復亨、 高麗軍司令は金方慶である。  文永11年10月3日、900艘からなる大船団が馬山を出港した。5日、遠征軍は対馬沖に出現し翌 日対馬に上陸した。対馬には守護代の宗助国ら80余騎がいたがあえなく全滅した。対馬にある助国の碑 文には「全軍笑みを含んで戦う」と刻まれている。討死は覚悟の上か。  対馬玉砕の報は13日に博多に伝えられ、九州の御家人を管轄する鎮西奉行の大宰少弐武藤資能は鎌倉 に飛脚を派遣した。その翌日元軍は壱岐に来襲、守護代平景隆らの奮戦もむなしく壱岐は元軍に蹂躙され た。さらに16日には、日本の有力な水軍衆の一つである松浦党の根拠地である鷹島・松浦沿岸が襲撃を 受けている。こうして日本水軍の拠点を潰していった元軍は20日未明、ついに博多湾の今津に上陸した。  今津には武藤景資(資能次男)を指揮官とする数千の日本軍が展開していたが、一騎打ちにこだわる日 本軍は元の集団戦法に苦戦を強いられた。さらに短弓・毒矢・「てつはう」といった日本では知られてい ない武器も日本軍を翻弄した。  勝手の違う戦いに逃げ腰となった武士の姿に落胆した景資は菊池武房率いる部隊に前進を命じた。武房 以下230騎は敵陣に突入、激戦の末敵を撃退した。  この菊池勢の活躍は例外でほとんどの局面で日本軍は元軍に圧倒された。500騎を引き連れ博多に討 って出た総大将の景資も敵に追いまくられ辛うじて逃げ延びる有様であった。だが、景資は逃げる途中後 ろを振り向き矢を放った。それが敵将とおもわれる大男に命中した。後にそれが元軍の左副元帥劉復亨で あることがわかった。  朝から始まった戦闘で日本軍は大損害を被り博多を放棄して大宰府まで後退を余儀なくされた。やがて、 夜となりその日の戦闘は終わった。その直後に暴風雨が吹き荒れ元の船団が壊滅的打撃を被ったのはよく 知られているが、なぜ元軍は橋頭堡を放棄して船に引き上げたのだろうか。常識で考えると橋頭堡を確保 した上陸軍がそれを放棄して船に戻ることは有り得ない。考えられる理由といえば初めから日本を征服す る意図はなかったか、橋頭堡を守ることができないくらい消耗していたかである。実際、元軍は矢が消耗 しすぎて底をついていたという。矢がなければ接近しての白兵戦しか戦いようがない。そうなれば元軍の 損害もかなりのものになる。遠征軍総司令官ヒンドゥは日本に元の力を見せつけただけでもよしとして撤 退を決断した。指揮官の一人である劉復亨が負傷したこともヒンドゥに撤退を決意させた原因の一つであ ろう。別に暴風雨が来なくても元軍は撤退したのである。そうさせたのは元軍の予想を超える日本軍の抵 抗であった。
  弘安の役(弘安4年=1281年)  先の遠征で元の恐ろしさを日本に思い知らせたと判断したフビライは翌年の四月に杜世忠を主使とする 使節団を日本に送った。降服を勧告するためである。だが、鎌倉幕府は来日した使節を全員処刑した。9 月7日のことである。使節を殺害したことは宣戦を布告したのも同様である。幕府は防備の強化に着手し た。  文永の役では上陸地点が敵に無防備だった。そこで幕府は今津から香椎までの博多湾沿岸に石の防塁い わゆる「石築地」を建設させた。また、肥前・肥後・筑後・豊前・長門・周防・石見・備中・伯耆・播磨 など九州・中国十数カ国の守護を入れ替え、そのほとんどが北条一門で占められた。これは、北条一門が 現地に赴任することで御家人達の士気を高めるのが狙いだとされてる。さらに、杜世忠らが日本に来た時 まず最初に長門に上陸したので、同国にも守りを固める必要があるとされ長門探題が設置された。長門探 題には中国の御家人を統率する権限が与えられ、初代探題には執権時宗の甥兼時が任命された。長門探題 は中国沿岸への元軍の上陸を阻止するのはもちろん、敵の船団が関門海峡を通過して瀬戸内海に侵入する のを阻止することも任務とされた。その他幕府は商人達の私的な大陸貿易を利用して情報収集に努め、元 の第2次襲来をその前年末に探知することに成功している。  一方、大陸では元と南宋の戦争が最終局面を迎えていた。襄陽陥落以降、元は破竹の勢いで進撃し12 76年正月に南宋の首都臨安を攻略した。南宋の皇帝恭宗と皇太后・太皇太后は元に降服し連行された。 南宋は事実上これで滅亡したが、一部の残党は皇帝の兄弟を擁立して再起を図るため南へ落ち延びた。し かし、元の追撃は厳しく1279年2月ついに山の戦いで幼い皇帝は自分を擁立した陸秀夫に背負われ 荒れる広州湾に入水した。最後まで従ってきた侍女や廷臣たちもこれに続いた。  こうして宋の皇室は完全に絶え、西夏・遼・金・元と外圧に悩まされ続けた319年の歴史に幕を下ろ したのである。  南宋を滅ぼし念願の中国の覇者となったフビライは未だ何の返事をよこさない日本に苛立ちを募らせて いた。この時点でフビライは使者として送った杜世忠らが殺害されていたことを知らなかったが、旧南宋 の将軍范文虎の献策を受けもう一度使者を送ることにした。  フビライが先に送った杜世忠らが殺された事を知ったのは2度目の使節団が出発した後だった。辛うじ て脱出した者がフビライに通報したのである。フビライは2度目の使節団が同様の運命を辿ったことを確 認すると1281年1月1日第2次日本遠征を発令した。  第2次遠征軍は東路軍と江南軍に分かれる。そのうち東路軍は第1次遠征軍と兵力・指揮系統はほぼ同 じで艦船が900隻、総指揮官は征東都元帥ヒンドゥで東路軍都元帥洪茶丘が指揮する漢軍部隊15,0 00、高麗軍都元帥金方慶が指揮する高麗軍10,000で構成される。  一方の江南軍はアラクハンを総指揮官とし范文虎を江南軍都元帥とする指揮人事で、その戦力は艦船3, 500隻・兵力は10万にのぼる大軍である。  しかし、江南軍は兵の数こそ東路軍を圧倒的に上回るが質という点において疑問がある。江南軍は降服 した旧南宋の将兵で構成されているが、南宋出身の軍人で精強な者は皇帝直属軍に編入されるか他の戦線 に回されるかしており、江南軍に編入されているのは余った人々つまりどの戦線も欲しがらなかった連中 ばかりだと考えられるためである。南宋においては老人や病気の兵士も珍しくなかったそうである。  そんな集団が長くて辛い船旅に耐え困難な敵前上陸を行うことができるとは思えない。軍隊とは常に極 度のストレス状態におかれている疲労集団であり、鍛えられた者でないととても耐えられるところではな いのだ。  だが、それ以上に問題なのが遠征軍を一括して統率する指揮官がいないことである。詳細な作戦計画も 作られなかった。いついつ出発していつごろ合流するかといったことはあらかじめ決められたようだが、 それは机上で作られた空論でありしかも緻密とは言い難いものであった。なにしろ、東路軍と江南軍は一 度も合同訓練を行っておらず、計画どおり遂行したとしても果たしてうまくいくかどうか不明であった。  弘安4年5月3日、東路軍は馬山を出港し巨済島で半月ほど停泊した後21日に対馬に26日に壱岐に 侵攻して現地の日本軍と交戦した。その後東路軍は軍を二つに分け長門と博多を襲撃する事にした。  6月8日、東路軍別働隊は長門の土井が浜と八が浜に上陸したが、待ちかまえていた長門探題以下の日 本軍に迎撃され数日で撤退した。  一方の東路軍本隊は6月6日に博多湾に侵入したが沿岸に連なる日本軍と石築地を見て上陸は困難と判 断して比較的手薄な志賀島とその近海を橋頭堡にした。博多湾に展開している日本軍は九州勢・中国勢・ 四国勢・東国勢あわせて約4万の大軍で17,000の東路軍本隊が上陸を躊躇したのも無理がなかった。  その東路軍に日本軍は連日のように夜襲をしかけた。司令部からは夜討ち禁止令が出ていたが、それに もかかわらず武士達は争うように停泊する敵船を襲撃した。そのなかでも、河野通有は一族郎党30余人 を引き連れ敵船に進入し、部下5人が射殺され自身も右肩を射られるが敵の大将らしき男を捕虜にして帰 還するなど活躍した。また、石築地を背にして布陣したことから人々は「河野の後築地」と賞賛したとい う。  だが、それらは個々の判断でしたことであり、幕府の命令によるものではなかった。肥後守護代の安達 盛宗は関東からの援軍を率いて陸伝いで東路軍を攻撃した。それに対し東路軍も激しく応戦し時には日本 軍を圧倒する事もあった。  6日から13日までの戦いで日本軍は多くの損害を出したが、東路軍の損害も馬鹿にならずしかも上陸 もままならずに長期間船での生活を強いられた結果、「船腐り、糧尽きる」という状態になり兵士達の疲 労はピークに達した。そこへ疫病が追い打ちをかけ3,000人が死亡した。  こんな状況では戦闘を継続できないとヒンドゥと洪茶丘は撤退を主張するが、金方慶は江南軍と合流す れば戦闘に勝てるとして強硬に戦闘継続を訴えた。当初の計画では東路軍と江南軍が合流してから日本に 侵攻するとあったが、東路軍はそれを無視して独断で単独行動をとったのだ。  東路軍は志賀島を出発して鷹島に寄った後、当初の予定どおり江南軍と合流するため会合予定地の壱岐 に移動した。  29日、江南軍の先遣が壱岐に到着して東路軍と合流した。予定よりかなり遅れての合流である。江南 軍の先遣は出港直前に指揮官のアラクハンが病死してその後任人事のために予定が大幅に狂ったのだと釈 明した。ちなみにアラクハンの後任にはアタハイが任命された。また、先遣隊は会合予定地が壱岐から平 戸に変更になったことも伝えた。東路軍と江南軍の先遣隊は江南軍本隊が到着するまで休息をとることに した。  だが、日本軍がそれを許さなかった。東路軍と江南軍が会合を果たしたその同じ日に鎮西奉行武藤経資 が総指揮を執り筑前・肥前・肥後・薩摩の武士を動員しての反撃を開始したのである。7月2日までの戦 闘で日本軍は経資の父で御年84歳の資能が致命傷を負い、息子の資時が戦死するなどの犠牲を払いなが らも敵を壱岐から追い出すことに成功した。元軍は平戸に移動した。  江南軍本隊がようやく平戸沖に姿を現して先遣隊と東路軍との合流を果たしたのは7日から27日にか けてだった。やっと一つにまとまった遠征軍は泊地を鷹島まで推進すべく平戸を出港した。その事を察知 した日本軍は28日未明までに猛烈な舟艇による波状攻撃を反復して行い遠征軍に相当な損害を与えた。 4,000を超える大船団にとってはそれも大したことではなかったが、休養も与えられずに連日の戦闘 で疲弊した兵士にとってはかなり辛かったのではなかろうか。  28日、遠征軍は再び博多湾に進入し日本軍と対峙した。いよいよ全面対決の時が来たと日本軍に緊張 が走ったが、3日後予想外の出来事に唖然とする。30日夜、大型の台風が博多湾の遠征軍を直撃し船団 を潰滅させたのである。翌日の閏7月1日に日本軍が目撃したのは無数の死体と船の残骸が浜辺に打ち上 げられている惨状だった。  遠征軍の指揮官達は協議して撤退することにした。強硬論を唱えていた金方慶も撤退に同意するしかな かった。遠征軍には平戸に残している有力な予備部隊があったが作戦の継続は明らかに論外であった。彼 等は鷹島と志賀島にいる数万の味方の兵を見捨てて敗走した。見捨てられた兵は5日から開始された日本 軍の掃討作戦で南宋出身者をのぞく全員が殺された。  第2次遠征は大失敗に終わった。その原因は東路軍と江南軍の連携がなかったこと、有力な兵站基地を 保有しなかったこと、敵の勢力圏を会合場所に選んだこと、日本軍の潜在的軍事力を過小評価したこと、 海に対してフビライをはじめとする首脳陣が無知であったことがあげられる。また、遠征軍は防備が強化 された博多湾を上陸地点に選ぶという愚を犯している。要塞化された地点への正面攻撃は絶対に避けるべ き「直接的アプローチ」である。遠征軍は博多湾に入って初めて石築地の存在に気づいたようだが、日本 軍が同地の防備を強化していることはその気になれば事前に察知することができたはずである。それとは 対照的に日本軍は積極的に情報収集を行い遠征軍の来襲をかなり早い段階で知ることに成功している。元 は情報戦においても日本軍に敗北したのである。  では、日本軍の勝因は何か。それは全国規模の兵と資源の集中、上陸予想地点の防備強化、得宗の下に 一元化された指揮統制などが挙げられる。台風の襲来が決定的な勝因だとされているが、たしかにそれに よって遠征軍の船団が潰滅して撤退を余儀なくされたのは事実だ。だが、日本軍は予備を含めて十数万の 兵を動員しており、戦域における両軍の質と量、後方支援態勢、戦力の補充等を考慮した場合たとえ台風 が来なくても遠征軍は最終的には撤退を余儀なくされたのである。  2度にわたる蒙古襲来は日本に深い爪痕を残したが、大小無数の権威に従っていた日本人におぼろげな がらも国家・国民という枠組みを感じさせもしたのである。

  霜月騒動(弘安8年=1285年)  北条時宗は元寇による心労が祟ったのか弘安の役からわずか3年後に病死した。34歳の若さであった。 その死後、幕府の権力を掌握したのが時宗室の兄安達泰盛である。時宗の跡を継いだ貞時がまだ14歳で 政治を取り仕切るのは困難だからである。  安達泰盛は父義景と共に三浦一族を滅ぼし、父の死後家督を継承して引付衆・評定衆・引付三番頭・越 訴奉行を歴任し、元寇では御恩奉行として御家人達の論功行賞を取り仕切った。ちなみに蒙古襲来絵詞で 有名な竹崎季長が自分の手柄が幕府への報告書に記載されてなかったのを不服として鎌倉まで直訴に行っ たとき彼と対面したのがこの泰盛である。  また泰盛は妹が時宗に嫁ぐ際、それ以前に没した父に代わって花嫁の父親代わりになっている。つまり、 泰盛は時宗の後継者貞時にとって外祖父になるのだ。藤原摂関家や平氏のように国家元首に相当する人物 が若年者の場合その外戚としての地位はかなり重いものなのである。  その泰盛の政治は弘安徳政と呼ばれる。徳政といったら少し歴史を学んだ人だったら借金を帳消しにする ことだと理解できると思う。仁政を布くという意味だがテレビとかで徳政という言葉が出た場合大抵借金を チャラにするという意味で使われている。  元寇はかなりの難題だったが、その戦後処理の方が遙かに難題であった。幕府は命を懸けて戦った御家人 に褒美を与えなければならないのだが、その褒美となる土地が足りなさすぎるのである。文永の役で富裕な 御家人が積極的に戦闘に参加しようとしなかったのも褒美がもらえる可能性が低いとわかっていたからであ る。だが、貧窮している御家人達は手柄を立てて恩賞に与ろうと懸命に戦った。泰盛はなんとか彼等に報い ようと考えた。彼は貧乏御家人の大半が借金のカタで土地を差し押さえられているのに目を付けた。土地を 無償で返還させることで新恩給与と同じ効果をもたらそうとしたのである。だがそれは一方的に土地を返還 しなければならない富裕な御家人や高利貸しの反発を受けた。必然的に彼等は泰盛の抵抗勢力である御内人 と結びついた。  泰盛は政治を主導する立場にあったが、決して権力を濫用するようなことはしなかった。さすがにそこは 三浦氏・名越氏の没落を見てきた老練な政治家である。だが、その息子の宗景は若さ故か目に余る行動に出 るのがしばしばあった。  それに目を付けたのが泰盛の政敵である平頼綱である。頼綱は御内人の頭領である内管領で執権貞時の傅 役でもある。泰盛よりも貞時に近い存在なのである。頼綱は事あるたびに貞時に宗景の傍若無人な振る舞い を告げた。貞時の心も次第に動かされたが、それだけでは母方の実家を討つわけにはいかない。頼綱は貞時 の他に近隣の御家人を味方につけようと奔走した。宗景の悪評は鳴り響いているのでほとんどの御家人が頼 綱についた。  少しでも慎重な人間ならば周囲の冷たい視線に気づくものだが、宗景はそんなことはお構いなしだった。 彼は安達家の地位が未来永劫続き父の後は自分が無条件で権力者の座につけるのだと思っていたのだろうか。 調子に乗った彼は「安達家は源氏である」と言いふらすようになった。  頼綱が唆すまでもなく貞時はこれに激怒した。源氏は北条氏以下御家人達の主筋にあたる家柄である。貞 時は安達氏の討伐を決意した。  弘安8年11月17日、不穏な空気を察知した安達勢は武装して執権方と対峙したが、勝敗はすでに決し たようなものである。安達方には近くに味方になってくれる勢力は存在しないのだ。かつて自らが滅ぼした 三浦一族のように敵中に孤立した状態での開戦を余儀なくされたのである。  戦闘は午後4時頃、泰盛らが得宗邸に向かおうとして阻止されたのを発端として始まった。安達勢は一時 将軍御所に肉薄するが、所詮多勢に無勢で次第に押し戻され総崩れとなった。泰盛と宗景以下安達一族は ことごとく討たれた。最後の有力御家人安達氏はこうしてあっけない最期を遂げたでのある。

  筑前岩門合戦(弘安8年=1285年)  九州には安達泰盛に心服する御家人が多く、霜月騒動で泰盛が討たれるとその息子で肥後守護代の盛宗 の下に結集して平頼綱の御内人政権に反旗を翻した。これに文永の役で前線指揮官を務めた武藤景資が加 担した。景資の兄経資は筑前の守護で御内人側の人間である。この兄弟は蒙古合戦の頃からあまり仲が良 くなかったようである。元寇で武勇を轟かせた景資に味方する者も多かったが、肥前守護北条時定が参戦 して大勢は決し、景資も盛宗も戦死した。  この合戦は幕府に対する反逆とされたから景資やその一味の所領は没収され蒙古合戦の恩賞に流用され た。だが、それでも所詮は焼け石に水で御家人達がもらった土地は一例を挙げると400余名に抽籤で分 与されたという。一人あたり数町歩の割合の土地しかもらえない計算である。  恩賞がもらえない中小御家人は貧窮化していき、富裕な御家人にすがるしか生きる手段がなくなってい く。御内人が支配する幕府は彼等に何の保護もしなかった。つまり見捨てたのである。  御家人達の不満は幕府の腐敗が進むにつれ高まっていき、やがてそれは倒幕へと発展するのである。

  平禅門の乱(永仁元年=1293年)  得宗の権力が強くなるにつれその家臣達が政治の表舞台に顔を出すようになる。彼等は自らを御内人と 称し、有力御家人に取って代わって幕政を牛耳っていった。その御内人のリーダーが内管領平頼綱である。  頼綱は安達一族を滅ぼした後、恐怖政治を布き専横の限りを尽くした。頼綱とその一派の権勢の前では 執権の貞時でさえ影が薄くなるほどであった。  だが、執権就任当初は若年で頼綱に操られるままであった貞時も成人して警戒心を抱くようになると、 ようやく頼綱の専横が目に余るようになった。貞時は御内人に反感を抱く御家人達の支援を受け頼綱を抹 殺する機会を窺った。そして、それは意外な形であらわれた。  頼綱には宗綱という長男がいるが、その長男が貞時に「父と弟の助宗が謀反を企んでいる」と通報した のである。  永仁元年4月13日、鎌倉を大地震が襲った。死者が2万人を超えるという大災害であった。その混乱 が治まらない22日午前4時、貞時は武蔵七郎らに命じて頼綱邸を襲撃させ頼綱と助宗を自害に追い込ん だ。  平頼綱を滅ぼした貞時は歴代の執権で最大の権力者となった。時頼にも時宗にも遠慮する人物がいたが 貞時にはそれがいない。合議制を廃止して権力を独占した貞時は傾いた幕府を立て直すべく奮闘していく のである。

  元弘の乱(元弘3年=1333年)  貞時の死後、幕府の実権は再び御内人に移った。内管領長崎高綱・高資親子は執権の継承をも左右する ぐらいの権力を手中にしたが、親子は幕府の立て直しを図ろうとはせず自分たちの利益を追求するだけで あった。  そのため、文保2年に起こった奥州津軽地方の反乱の鎮圧に10年も費やしたり、各地で発生する悪党 を鎮圧できないなど、幕府の統治能力は急速に低下していった。  文保2年に即位した後醍醐天皇はこうした状況を見て倒幕の機会が訪れたと判断した。倒幕の企ては正 中元年に露見したが、天皇はあきらめずまたもや倒幕を計画しそれも露見すると元弘元年ついに笠置山で 挙兵した。この時は幕府軍に敗れ天皇は隠岐に流されたが、天皇の皇子護良親王や楠木正成は各地で倒幕 の兵を挙げた。そのうち楠木正成は幕府の大軍を奇手で翻弄し各地の武士に倒幕への勇気を奮い立たせた。  幕府は事態の打開を図るため足利高氏を派遣するが、高氏は天皇の檄に応じて幕府を裏切り元弘3年5 月7日、六波羅探題を陥落させ探題北条仲時を自害させた。  六波羅探題の陥落は戦争のターニングポイントとなった。九州では大友氏らが鎮西探題を討ち、関東で は新田義貞ら倒幕軍が分倍河原で幕府軍を撃破した。  5月21日、倒幕軍は稲村ヶ崎を通過して鎌倉に侵攻し翌日、北条高時らが自殺して鎌倉幕府は滅亡し た。
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