シリーズ 武田軍団崩壊への軌跡・PART2
設楽原に潰えた勝頼の野望

 
    元亀4(1573)年4月12日、天下にその名を轟かせた名将武田信玄が上洛の野望を
   果たさぬままこの世を去った。その跡を襲った勝頼は偉大なる先君が成し遂げられなかった
   偉業を達成すべく果敢に信長に挑戦する。勝頼だけでなく武田家の誰もが疑わなかった栄光
   への道。だが、それは破滅への道筋であった。
 
 
長篠城攻囲戦 長篠合戦
    【信玄の死と武田家の混乱】    武田信玄による上洛戦はその第1段階である徳川攻略の最中に他ならぬ信玄の死によって中途   半端なままに終わった。作戦途中の主君の死は以後の武田氏の戦略を束縛することになる。    信玄の後継者となった勝頼は父の戦略を継承することにした。というよりも、先代に比べて求   心力や指導力に乏しい勝頼が先代からの老臣達を統率するにはそれしか方法がなかった。    だが、それでも家臣団全体を統率するには至らなかった。武田家中には未だに上杉謙信との戦   闘を継続しようという武将がいたのである。彼等の大半は武田家の方針が越後侵攻から京への上   洛に変更されたことで不遇を囲うようになっていた。春日弾正忠虎綱や内藤修理亮昌豊といった   北部の武将達は兵力の供給だけを命じられるか、出陣を命じられても先手を任されることはなか   った。    そんな彼等にとって信玄の死は不遇から脱却するチャンスであった。彼等は勝頼に戦略の転換   すなわち信長と対決しての上洛戦から上杉謙信との対決への変換を迫った。だが、それは勝頼に   とって容認できるものではなかった。春日らは信長との和睦もやむなしとしているが、織田信長   と上杉謙信は元亀3年11月以来同盟関係を結んでいる。謙信との対決は上杉と織田との2正面   作戦を余儀なくさせる恐れがあった。しかし、若年の勝頼に歴戦の強者達の主張を完全に退ける   ことはできなかった。また、長年不遇だった春日らに対織田・徳川戦の最前線に立ってきた山県   昌景らが同情したこともあって、勝頼は北方の守備戦力を増強して主戦線の戦力を削減するとい   う妥協策を選択するしかなかった。    これが織田家なら家臣達は信長の意向に従うだろう。織田家中で信長は独裁的な権力を有して   おり、たとえ宿老であっても彼に逆らうことは相当な覚悟を必要とした。だが、武田家は重要事   項は当主と重臣達の評定で決めていたのである。    両家の政策決定の方法が異なるのは理由があった。守護から戦国大名に脱皮した武田家は従来   の譜代家臣や国人領主が温存されていたのに対し、尾張の守護代の家臣にすぎなかった織田信長   にとってそれらは自分と同格か上位にあたる者ばかりであった。守護の直臣だけではない。信長   は自身の身内とも戦わなければならなかった。その結果、尾張国内の反対勢力をすべて掃討した   信長は他家では想像もできないほどの独裁者として君臨できたのである。    武田家でも当主の独裁を確立しようとする人がいた。信玄の父信虎である。信虎は家臣の粛清   で独裁体制を築こうとした。しかし、天文10年6月14日、信虎は彼の粛清と独裁に危機感を   強めた家臣達によって追放されてしまう。その家臣達に擁立されたのが廃嫡寸前だった信玄であ   る。彼等がいなかったら当主になることができなかったであろう信玄はその負い目もあって、信   長や信虎のような独裁はできなかった。甲斐一国から中部地方の大大名に成長した信玄だったが、   その彼と一門ではあるが甲斐の一国人にすぎない小山田氏や穴山氏などは同盟関係に近い関係だ   ったのである。つまり、信玄は小山田氏などに軍役や労役を課すときでも合議のうえでなければ   ならなかったのだ。    治世の後半になって独裁的な権力を保持するようになった信玄だったが、それは彼の実績とリ   ーダーシップによるものであって、武田家のシステムが変わったわけではなかった。そのため、   信玄が没すると武田家は自分たちの権益を侵害するかもしれない主君の専制君主化を望まない重   臣と絶対君主として君臨しようとする勝頼の対立が生じるようになる。    勝頼は正式な家督ではなく息子の信勝が成人するまでの陣代だったとされている。これは勝頼   がすでに(永禄5年6月)母方の実家である信州諏訪家の名跡を継いでいたからであろう。なる   ほど、仮の当主にすぎない勝頼を重臣達が重く見ないのも当然である。しかも、勝頼が当主にな   るとそれまで地方官僚にすぎなかった諏訪の家臣達が勝頼の側近として中央に乗り込んできたの   だから重臣達はおもしろくない。それに、重臣達は勝頼の大将としての資質に疑問を持っていた。    永禄12年の小田原遠征で信玄は武蔵滝山城を攻撃したが、その時の大将に選ばれたのが勝頼   である。勝頼は奮戦して二の曲輪に攻め寄せたが、その際なんと大将でありながら自ら槍を持っ   て最前線で戦い敵の荒武者と槍あわせをしていたのだ。勝頼が討死するのを恐れた信玄はあわて   て滝山城の包囲を解いた。    その翌年の天正13年(元亀元年)4月に上杉謙信が信濃に侵攻したときも勝頼の勇猛は発揮   された。父信玄が駿河侵攻で不在だったので勝頼が出陣したのだが、上杉勢15000に対し勝   頼勢は800人。まともにやりあったらひとたまりもなかった。幸い、寡兵で挑んできた勝頼の   勇敢さに感心した謙信が陣を引き払ったから大事には至らなかった。    このように勝頼は勇猛果敢な将であったが、大将としては度が過ぎていた。甲陽軍鑑は国を滅   ぼす大将のタイプの一つに強すぎる大将を挙げているが、その代表例が勝頼である。     【家康の反撃】    信玄の死去で一番救われたのが直前まで攻められていた徳川家康である。現在、確認されてい   る範囲でいち早く信玄の死をキャッチしたのは飛騨の江馬輝盛である。信玄の死後13日しか経   っていない元亀4年4月25日に江馬の家臣河上富信が上杉謙信の重臣河田長親に宛てた書状に   その事が触れられている。もっとも、この時点では死んだらしいという程度で信玄が死んだこと   を確認したわけではなかった。    家康も4月か5月頃には信玄が死んだらしいという情報を得ていた。5月にはさっそく反撃に   出ている。家康は大井川を越え駿河各地を放火する一方、三河でも威力偵察を試みている。その   間、武田勢による積極的な対応はなかった。    消極的な武田軍の対応を見た家康はその士気の低さを信玄の死によるものと判断、信玄に奪わ   れた失地を少しでも取り返すべく反撃に打って出た。    家康はまず長篠城の奪回に動いた。奥三河にある長篠城は豊川回廊の北端に位置し、周辺を伊   那街道、別所街道、金指街道が通る交通の要衝である。さらに、そこから豊川沿いの街道を南下   すれば吉田城があり、その城が陥落したら徳川領は東西に分断されてしまう。家康からしたら真   っ先に奪回したい城である。もし、長篠城を奪取できたら吉田城の守備兵力を野戦用に転換して   二俣城の奪回に使用することが可能となる。    7月19日(9日後に天正に改元)、家康は奥三河に兵を進め長篠城を包囲した。武田勢も武   田信豊や小山田信茂らが後詰に出動したが作手の奥平一族が家康に調略されていたため長篠城を   救援することができず、城は城将・菅沼正定らが逃亡して9月10日に陥落した。    この体たらくに怒った勝頼はすぐさま15000の兵を率いて駿河から遠江に侵攻した。勝頼   の武田勢は天竜川を渡河して家康の居城・浜松城に迫った。勝頼の意図は家康との決戦である。   だが、三方ヶ原の大敗で懲りた家康は城外に出ることはしなかった。仕方なく勝頼は諏訪原城を   落とすと11月に甲斐に戻った。     【勝頼の絶頂期 ―“我が軍歴で最も輝ける瞬間”】    翌年の天正2年1月19日、織田信長にとってとんでもない事態が発生した。占領したばかり   の越前で一向一揆が勃発して、守護の桂田播磨守が殺害されたのである。それを機に越前各地の   門徒が蜂起したため、一揆は加賀守護家を滅亡に追いやった長享の大一揆に匹敵するほどの規模   となった。越前は再び信長の敵国となったのである。    勝頼にとってこの越前情勢の急変は好機であった。1月27日、勝頼は大軍(一説には3万)   を動員して美濃の明智城を包囲した。家康との決戦が不発に終わった勝頼は一気に信長との決戦   に臨もうとしたのである。    だが、信長は城の近くまで出陣していながら武田勢と戦おうとはしなかった。信玄の死をきっ   かけに第1次の信長包囲網は潰えたが、石山本願寺や長島一向一揆は未だ健在でさらに越前一向   一揆が発生したため、迂闊に兵を失うわけにはいかなかったのである。また、明智城が陥落して   も直接岐阜城の脅威にはならないので、無理に戦う必要もないのだ。やがて2月6日に明智城が   開城すると、信長はさっさと兵を引き揚げた。    明智城が陥落した後も勝頼は4月上旬まで東美濃に留まり、織田方の城塞18を落とした。さ   らに、帰還するついでに三河に侵攻して4月19日に足助城を攻略した。武田軍の猛攻はこれだ   けではすまず、29日に二連木の戦いで徳川勢が山家三方衆と下伊那衆をひきいた山県昌景に敗   走させられているし、武田勢が侵攻する以前の6日には遠江の犬居城を攻撃していた家康軍が返   り討ちにあって、野戦兵力に大打撃を被る敗北を喫している。    東美濃を蹂躙し徳川の野戦戦力に大打撃を与えた武田軍だが、それでも信長に直接的なダメー   ジを与えるには至らなかった。武田軍が東美濃で軍事行動をとっている間、信長は何をしていた   かというと、3月28日に東大寺正倉院の蘭奢待を切り取るなど余裕のある行動をしていた。信   長にとって武田軍の脅威などこの程度でしかなかったのだ。なぜなら現時点での戦略的な優勢は   織田方のものであり、武田軍がいかに戦術的な戦果を挙げたとしてもそれだけでは国力で勝る織   田軍に致命傷を負わせるには至らないのである。    だからこそ信玄は上洛戦の際に畿内とその周辺の反信長勢力に決起を呼びかけ、包囲網を形成   することで戦略的な優勢を手にしようとしたのだが、他国に誇れるような実績がない勝頼にそれ   は不可能である。それどころか逆に織田・徳川・上杉の半包囲下に置かれている状況である。    勝頼がこの状況を打破するには戦略で凌駕するか戦術的な戦果を強引に戦略的な戦果に結びつ   けるかだが、勝頼は後者を選択した。しかし、戦術の失敗を戦略の成功でカバーすることはまだ   容易だが、その逆は極めて難しいことである。    だが、状況は勝頼に有利になりつつあった。徳川の戦力は疲弊し、信長も一向一揆や三好の残   党への対応に精一杯で家康の支援にまで手が回らない状態である。    5月8日、勝頼は数万の大軍を率いて遠江に侵攻し、高天神城を包囲した。高天神城は東遠江   の要衝で、かつて父信玄が落とすことができなかった城である。この城が落とされると北に位置   する掛川城は孤立し、家康は東遠江の兵を動員することができなくなってしまう。勝頼は家康を   誘い出す餌として高天神城を包囲したのである。そのため、12日に始まった攻城戦は十数日で   落城寸前となったが、勝頼はわざと攻撃の手を緩めた。落としてしまうと家康を誘い出すことが   できなくなるからだ。    その家康はひたすら信長の応援を待ち続けた。高天神城の陥落がどのような影響を与えるかは   家康も知っていたが、徳川勢単独では到底勝ち目がないことも承知しておりただ信長の増援を待   つしかなかった。だが、その信長は7月に予定されていた長島攻めの準備のため一時的な兵の欠   乏状態に陥っていた。そのため、織田勢の動員は遅々として進まなかった。信長が岐阜を出陣し   たのは高天神城包囲の知らせを受けてから1ヶ月近く経過した6月14日であった。    家康が首を長くして待ち続けた援軍がようやく到着しようとしていたのだが、武田勢にとって   は由々しき事態である。勝頼は徳川勢のみを標的としていたからだ。これは信玄の代からの基本   方針で、徳川勢を屈服させるまでは織田勢との決戦を避けることにしていた。勝頼は作戦を変更   して高天神城の小笠原与八郎長忠を所領一万貫という破格の条件で寝返らせ17日に開城させた。    19日に浜名湖の今切の渡しで高天神城の陥落を知った信長はすぐに撤退を始めた。周辺を敵   に囲まれている信長はいつまでも徳川領に兵を駐留させておくわけにはいかない。しかし、三方   ヶ原合戦以降、満足な支援をしてくれない信長に対し徳川の家臣達から不満の声が挙がっていた。   信長は徳川家の人々をなだめるため黄金を送ったが、その程度で彼等の不満を抑えられるわけも   なかった。    一方、徳川勢との決戦は実現しなかったが信玄が落とせなかった高天神城を陥落させたことで   勝頼の武威は一挙に高まった。この時点で武田家の領土は信玄の時代より10万石ほど拡大して   歴代最大となった。勝頼に厳しい甲陽軍鑑でさえこの時期の勝頼の活躍には良い評価を下してい   る。     【長篠城攻囲戦】    武田勢に高天神城を落とされ、野戦戦力にも大打撃を被った徳川家をさらなる衝撃が襲った。   天正3年4月、三河の代官の一人である大賀弥四郎が武田に内通していたことが彼の仲間の密告   で判明したのだ。一味は処刑されるか逃亡したが同じ月の21日、勝頼は大軍を率いて三河に侵   攻した。この後に行われる長篠合戦での武田勢の兵力が15000ほどだからだいたい2万近い   軍勢だろう。    武田勢は5月1日に長篠城を囲むと、豊川回廊を南下して牛久保や二連木などを攻略し6日に   は家康が籠城する吉田城に迫った。勝頼としては吉田城を攻略して家康を討ち取りたいところだ   が、双方の戦力差は倍ほどでしかなく無理に攻めても落とすことは困難であった。勝頼は徳川勢   を城外へ誘引しようとしたが家康はその手には乗らなかった。    家康は前回と同じく信長の増援が到着するまでは武田との決戦は回避するつもりでいたが、た   だ待っていただけではない。自ら後詰勢を率いて武田勢と対峙することで信長の早期出陣を促そ   うとしたのだ。現在の徳川氏の急激な発展は家康一代によるものであり、その家康が死ねば徳川   家は家康の祖父・清康が急死したときと同様、一気に崩壊するだろう。徳川家の崩壊は織田氏の   東方戦線の崩壊も意味する。家康は必ず信長は来ると確信していた。もし、家康を見捨て徳川が   滅亡するような事態になれば今度こそ信長の信用は失墜するだろう。    だが、勝頼は吉田城を本気で攻めるつもりはなかった。家康が率いる徳川の主力が籠城する城   を2万に満たない軍勢が陥落させるのは非常に困難である。そのため勝頼は徳川勢を城外に釣り   だして野外決戦で殲滅しようとしたのだが、それが不可能とわかると豊川回廊を引き返した。徳   川を釣り出すには家康が無視できない城を攻めるしかない。勝頼は長篠城を包囲した。    家康は長篠城の城主に武田から寝返らせた奥平九八郎貞昌を任命していた。貞昌はかつて家康   の傘下だったが武田の勢力が近隣に及ぶとそれに組し、そして今また徳川に鞍替えしたのだ。境   目の小領主は常に強い勢力につかなければその領土を維持することはできない。しかし、貞昌が   もう武田につくことはできない。武田が優勢な時期でしかも人質を見捨ててまでの寝返りである。   そのために人質が処刑されたのだから、戻れるわけがなかった。    家康はそれを見込んで貞昌に長篠城を託したのだが、それは家康の戦略を拘束するものでもあ   った。裏切りが不可能な武将を重要な地点に配置したのに、それを見捨てたとなればもう二度と   家康に寝返る者はいなくなる。勝頼もそれを知っていたから長篠城を包囲したのである。    2年前に長篠城を奪回した家康はこの城を徹底的に改修した。長篠城は豊川と宇連川の合流点   の崖の上に位置しており、背後から攻められる心配が無く戦闘正面を限定することができる「後   ろ堅固の城」である。しかし、この城の場合その利点は同じく地形的なデメリットで相殺されて   いる。    この時代、守備側が行う戦術は逆襲して敵を撃破する事が一般的だが、後ろ堅固の城はそうし   た攻撃がしにくい。それと、もう一つの戦術が縦深を深く取って敵に出血を強要するというもの   であるが、長篠城の場合それも不可能であった。500人しかいない劣勢な戦力もそうだが、一   番の理由は城のすぐ北側まで大通寺山という高地が迫っているからである。しかも、この高地の   端と長篠城の比高は30mで攻撃側は城を完全に見下ろせるどころか、突撃する味方部隊の支援   射撃を行うことができるのである。    もし、長篠城がそのままの状態で武田勢の攻撃を受けていたらおそらく信長の増援が到着する   前に陥落していただろう。そのために家康はこの城に徹底的な改修を施したのである。    長篠城は主郭、野牛曲輪、弾正曲輪、巴城曲輪、帯曲輪で構成されていて、主郭と帯曲輪の間   と帯曲輪と巴城曲輪の間に空堀が設けられているが、徳川氏はその二つの空堀の中間点つまり帯   曲輪のど真ん中にもうひとつ空堀を掘っているのだ。これによって、帯曲輪は曲輪としての機能   を喪失することになるが、地形上の問題で帯曲輪は敵の射撃に制圧されることが予想されていた   ので元々曲輪としての機能はないも同然であった。そこで徳川氏は空堀を設けることによって敵   の突撃速度を低下させようとしたのだ。    この時代、城へ突入するのに必要なのは歩兵の突撃による衝力である。空堀はその歩兵の突撃   衝力を弱めるために設けられる。長篠城の場合、その空堀を縦深30〜50mの間に3本も設け   ているのだ。当然、敵の突進速度は低下する。それを主郭の土塁の上から射撃して制圧する。徳   川氏は火力の密度を高めるため500の城兵に対し、200挺もの火縄銃を配備している。装備   率にして40%という当時としては異常なほどの鉄砲が用意されたことになる。
   勝頼は15000の兵を8つにわけて配置した。長篠城の北方に位置する大通寺山に武田信豊   ・馬場信春・小山田昌行ら2000、西北に一条信竜・真田信綱・土屋昌次ら2500、西方の   瀧川左岸に内藤昌豊・小幡信貞ら2000、南方の篠場野に武田信廉・穴山信君・原昌胤・菅沼   定直ら1500を配置。予備として有海村付近に山県昌景・高坂昌澄ら1000、鳶ヶ巣山に武   田信実ら1000、医王寺山に勝頼の本陣3000、その後方に甘利信康・小山田信茂ら200   0が布陣している。    長篠城への攻撃は11日から開始された。武田勢は竹束を盾にして帯曲輪まで攻め寄せるが、   城方の射撃で800人余の死傷者を出して撃退された。だが、30倍の兵力差は次第に城方を追   いつめ、戦闘開始3日目までに今泉内記や後藤助左衛門が負傷し、徳川からの増援である松平景   忠配下の設楽雅楽助重次が戦死している。    その後も武田軍の猛攻は続いた。13日の明け方からは金堀人夫による土塁や石垣の破壊も始   められた。これは信玄以来の城攻めの戦術で北条綱成の駿河深沢城も三河の野田城もそれによっ   て陥落させられている。14日には長篠城は主郭、帯曲輪、野牛曲輪を残すのみとなった。    長篠城の陥落は寸前に迫っていた。だが、勝頼の目的は長篠城の攻略だけではなかった。家康   を引きずり出すために長篠城を攻撃したのである。当然、城を落とせば家康は出てこないはずで   ある。そこで、勝頼は攻撃を一旦停止させ包囲するだけにした。    一方、戦闘開始から30倍(もちろん全てが攻撃に参加したわけではない)の兵力差をものと   もせず戦い続けた長篠城の兵達だが、死傷者が続出し戦える者も疲労困憊という状況で降服も覚   悟しなければならないまでに追いつめられていた。そこで、城将の奥平貞昌は家康に増援要請を   出すことにして使者になってくれる者を探した。しかし、周囲を武田の兵に厳重に包囲されてい   る状況では城からの脱出は容易ではなく誰も名乗りでなかった。貞昌が困っていると鳥居強右衛   門という雑兵が「私が行きましょう」と名乗り出た。貞昌は強右衛門に書状と城の運命を託すこ   とにした。    城を無事に脱出した強右衛門は15日に岡崎城に到着した。強右衛門は貞昌の父貞能に対面し   た後、家康と増援に来ていた信長に接見した。信長は諸説あるが信長公記では3万の兵を動員し   ており、家康も1万近い兵を集めていた。    大軍の増援に感激した強右衛門は周囲が止めるのも聞かず、急いで城に戻ろうとした。だが、   強右衛門の脱出はすでに武田の知るところとなっており、強右衛門は16日に捕縛された。    強右衛門の捕縛で信長の増援が来ていることを知った勝頼は、強右衛門に増援は来ないと城方   に言えば命を助け恩賞も与えるとそそのかした。長篠城は陥落寸前で力押しでもすぐに落とせる   のだが、戦闘の騒音で落城が織田と徳川に知れれば彼等は撤退してしまう恐れがあった。せっか   く、信長が自ら出張ってきているのだ。いまここで一気に決着をつけてやる。勝頼は城方を降服   させることで落城を信長に知られるのを防ごうとしたのだ。    だが、勝頼の要請を聞き入れたと思われた強右衛門は磔にされた状態にも関わらず、城方に増   援はすぐそこまで来ていると叫んだのである。強右衛門はすぐに槍に突かれて絶命したが、城方   の士気は一気に上昇した。その瞬間、城の降服開城は有り得なくなった。    5月1日の包囲以来、孤立無援だった長篠城だったがついに救援が現れた。18日に連子川西   岸の極楽寺山に本陣を置いた信長は20日の深夜、家康の重臣酒井左衛門尉忠次に自身の馬廻の   金森五郎八長近らと旗本鉄砲組をつけて長篠城周辺の敵を一掃するため密かに出陣させた。総勢   4000の酒井支隊は土砂降りの中を移動し、翌日の午前8時頃菅沼山の麓に集結した。    酒井忠次らが標的としたのは鳶ヶ巣山砦であった。その頃武田の主力は織田・徳川と対決する   ため西に移動しており、長篠城の周辺には大通寺山から瀧川西岸にかけての地域に小山田備中守   昌行と高坂昌澄・室賀信俊ら2000と鳶ヶ巣山砦の武田兵庫助信実ら1000が展開している   に過ぎなかった。それでも、奇襲部隊との兵力差は4:1ほどでしかなくそう簡単に崩れるもの   ではないのだが、酒井支隊が800挺以上の鉄砲を持っていたため戦闘は一方的に推移した。    奥平貞能と牧野康成を先頭に鳶ヶ巣山砦に突入した酒井支隊は、2時間程度の戦闘で武田信実   らを討ち取って砦を占領した。同砦の陥落で長篠包囲陣はその一角が崩れ、残った陣地が掃討さ   れるのも時間の問題となった。長篠城の危機はこの時点で消滅し、その瞬間織田・徳川は城の後   詰に成功するという戦略的勝利を手にしたのである。その直後に開始された主力同士の決戦は馬   防柵と鉄砲隊に武田勢が苦戦を強いられる展開となり、それを見た救援部隊と長篠城兵は正午過   ぎに打って出た。武田勢は総崩れとなり、勝頼はわずかな兵のみを引き連れ退却した。    20日に及ぶ籠城戦に耐え抜いた奥平貞昌は信長から一字を与えられ信昌と改名した。家康も   かねてからの約束どおり信昌に娘を嫁がせた。余談だが、この娘は家康の長女亀姫で後に徳川幕   府の有力者本多正純を失脚に追い込むきっかけをつくった女性である。それはさておき、家康の   娘婿となった信昌は徳川の外戚の地位を手にいれた。彼の四男忠明は松平姓を与えられ武蔵忍藩   の祖となり明治に至る。    主君のために犠牲となった鳥居強右衛門の息子は8歳で家督を許され知行も100石から30   0石に加増された。これは足軽としては破格の出世であり、さらに松平忠明付に抜擢され120   0石の大身に栄達した。
    【長篠合戦】    長篠城が武田勢に包囲されたとの情報を得た信長は5月13日に岐阜を出発した。前回の高天   神城は長島への攻勢作戦の準備中だったため兵の動員に時間がかかり結局救援には間に合わなか   った。しかし、今回は作戦が一段落ついた時期だったため兵を出し惜しみする必要はなかった。    信長が動員をかけた地域は美濃・尾張・伊勢・東近江で畿内は対象から外された。しかし信長   は、その地域からも鉄砲隊だけは徴用していた。その数は1000挺とも3000挺とも言われ   ているが、これに信長の旗本鉄砲組と先の4カ国から動員をかけられた諸将の鉄砲隊を加えると   織田勢の鉄砲の総数は5000挺にもなった。    しかし、鉄砲隊だけを徴用してもそれらは連携訓練をまったくしていない寄せ集めに過ぎなか   った。信長はその寄せ集めの集団を馬廻衆の佐々内蔵助成政・前田又左衛門尉利家・塙九郎左衛   門尉直政・福富平左衛門尉秀勝・野々村三十郎正成の5人を臨時に鉄砲奉行に任命して統率させ   た。    その鉄砲集団を含む3万の大軍が岡崎城に到着したのは14日であった。これに徳川勢を加え   ると連合軍の総兵力は4万に迫るほどとなる。家康が一日千秋の思いで待ちこがれた十分な兵力   の増援がようやく到着したのだ。もはや勝利を逸することはあっても敗北することは有り得なか   った。織田・徳川勢が鳥居強右衛門の報告で長篠城の危機を知り岡崎城を出陣したのは16日で   あった。    強右衛門の捕縛で織田勢の来援を知った武田勢は20日に滝沢川(現・寒狭川)を渡河して連   子川西岸に布陣した織田・徳川勢と対峙した。右翼に馬場美濃守信春を先鋒に真田源太左衛門信   綱、弟の兵部丞昌輝、土屋右衛門昌次、一条右衛門大夫信龍らとそれを指揮する穴山陸奥守信君   の隊3000、中央に武田逍遙軒信廉を将に先鋒の内藤修理昌豊、原隼人昌胤、和田兵衛大夫業   盛、安中左近大夫景繁、五味与三兵衛高重及び西上野衆3000、左翼に武田信豊を将に先鋒の   山県三郎兵衛昌景、小山田兵衛尉信茂、小幡上総介信貞、弟の左衛門信秀、跡部大炊介勝資、甘   利藤蔵信康、小笠原右近大夫信嶺、菅沼新三郎定直ら3000、そして、武田勝頼の本陣と望月   遠江守信雅、武田左衛門左信光ら3000が予備として配置された。総数は12000人。    これに対し織田軍は極楽寺山に信長の本陣、天神山に長男信忠、御堂山に北畠信雄、茶磨山に   佐久間信盛、池田信輝、丹羽長秀、滝川一益、それらの東方に水野信元、安藤範俊、蒲生氏郷、   森長可、羽柴秀吉、不破光治らと大和・河内・和泉・摂津・若狭等の兵合計3万が布陣、徳川軍   は弾正山に徳川家康の本陣、松尾山に長男信康、弾正山の東方に大久保忠世、本多忠勝、榊原康   政、石川数正、平岩親吉、酒井忠次、鳥居元忠、内藤家長、松平忠次、本多広孝、柴田康忠、菅   沼定利、松平清宗、松平真乗、三宅康貞、高力清長、大須賀康高、本多重次、小笠原康広、戸田   忠次、松平信一、本多信俊、本多忠次、酒井正親の兵8000が布陣していた。連合軍は馬防柵   や空堀などからなる陣城を構築していた。    ようやく実現した主力同士の対陣だが、信長も勝頼も似たような形勢判断をしていた。信長が   長岡藤孝に送った書状には敵の殲滅は目前であるという内容が書かれているし、勝頼も陣城に籠   もっている信長の戦意は低いと判断、長篠城を陥落させたら信長は撤退するだろうからそれを追   撃すれば一気に崩れるだろうと見ていた。高天神城の例を見たらまず妥当な判断だろう。    だが、21日朝に長篠城を包囲していた武田軍の鳶ヶ巣山陣地が織田・徳川の別働隊の奇襲を   受け陥落すると勝頼は苦しい立場に立たされた。長篠城との連絡がついたことで織田・徳川軍は   その目的を達成したからである。さらに、武田軍は長篠城と連子川西岸に布陣する信長と家康の   主力部隊に挟撃される位置にあった。この時点で武田軍が取りうる最良の選択は転進して長篠城   を一気に落とし、今度は自分たちが籠城することであるが、それにはまず正面の敵を撃破しなけ   ればならない。正面に有力な敵部隊を残したまま転進すれば容易にそれが敗走に変わってしまう   恐れがあったからだ。    勝頼が判断に迷っている時、織田・徳川の陣から発砲が為された。明かな挑発である。最早、   迷っている時間はなかった。勝頼は攻撃命令を下した。    武田軍で一番早く敵陣に突入したのは左翼の先手である山県昌景の隊であった。山県隊は徳川   の陣に突撃した。中央の先手内藤昌豊の隊は織田勢の滝川一益の陣に、右翼の先手馬場信春の隊   は同じく織田勢の佐久間信盛の陣にそれぞれ突進した。    先手の三隊は柵の前面に出て応戦した敵を後退させたが、それは彼等を柵に引き寄せるための   罠だった。柵の前後に配置された1000挺の鉄砲が火を噴くと寄せ手は次々と倒されていった。   大打撃を被った先手は2番手と交替したが、山県隊は退かず柵を取り付けていない連子川の下流   に迂回して徳川の背後を突こうとした。それに気づいた徳川の先鋒大久保七郎右衛門忠世と弟の   治右衛門忠佐の隊がその行く手を阻んだ。昌景はその相手を部下に任せ自身は織田勢の柵に向か   った。昌景の部下達は大久保隊と九度にわたる一進一退の激戦の末撃退された。その後、2番手   の小山田信茂隊、3番手の小幡信貞隊、4番手で左翼主将の武田典廐信豊が突撃したが、柵の前   で鉄砲隊の餌食となった。しかし、徳川方も小幡の赤備えとの激戦で河合又五郎が戦死している。    右翼でも馬場信春隊に続いて真田兄弟の隊、土屋昌次隊、一条信龍隊、穴山信君隊らが突撃し   て柵を2段目まで突破したが、3段目の柵で力尽きて真田兄弟と土屋昌次らが討ち死にした。    中央では内藤昌豊隊に続いて原・和田・安中・五味・武田信廉の隊が織田方の滝川左近将監一   益と佐久間右衛門尉信盛の陣を目指して突撃したが、鉄砲隊の前に無数の屍を晒すだけだった。   佐久間・滝川隊は勢いづいて柵の外に打って出たが、そこを馬場信春の隊が佐久間勢に攻撃をし   かけ柵内への突入に成功した。内藤隊も滝川勢を撃破して柵を突破しようとした。その様子を見   た信長は柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀、羽柴筑前守秀吉の隊に側面からの攻撃を命じた。   これに内藤隊が応戦し、さらに態勢を立て直した山県昌景の隊が側面から攻撃したため柴田・丹   羽・羽柴の諸隊は総崩れとなって敗走した。山県隊は方向を転じて徳川の陣に突撃した。    山県隊を迎撃したのは本多平八郎忠勝の隊だった。待ち構えていた鉄砲隊の射撃で山県隊は次   々と倒れていったが、昌景は銃弾の雨をものともせず突進を続けた。それを見た忠勝は「あれが   山県だ」と叫び鉄砲を撃ちかけさせた。銃弾を浴びた昌景はしばらく持ちこたえたが、やがて馬   から真っ逆さまに落ちて絶命した。    土屋や山県らの無様な戦死を見た勝頼は愕然とした。戦線は乱戦状態となり、武田勢の統制は   取れにくくなっていた。織田・徳川勢は新手を繰り出して攻撃を強めた。織田勢の佐々成政は内   藤隊に、徳川勢の石川伯耆守数正、鳥居彦右衛門元忠、平岩七之助親吉、榊原小平太康政、本多   忠勝、大須賀五郎左衛門康高らの諸隊もそれぞれの敵に向かって突進した。    これに対し、和田・安中らの残存兵が徳川勢を迎撃した。勝頼の本陣も前線に移動して白兵戦   を展開した。武田勢は不利な戦況をものともせず勇戦して敵を何度も押し返したが、望月信雅ら   が討死して引き退いた。この信雅は八幡原で戦死した信玄の弟典廐信繁の次男である。    正午を過ぎた頃、戦線を決定的に動かす事態が発生した。長篠城包囲陣を撃破した酒井忠次ら   の別働隊が長篠城兵と共に打って出たのだ。それを機に信長は総攻撃を命じた。武田勢は徐々に   崩れ始めた。その中で内藤昌豊は100余人の残存兵を率いて徳川の本陣に突撃した。しかし、   寡兵での突撃は鉄砲隊の猛射で粉砕され内藤隊は全滅した。昌豊も朝比奈弥太郎泰勝に討ち取ら   れた。    最早、武田勢の敗勢は明らかだった。勝頼はそれでも戦況を立て直そうとしたが、酒井らの別   働隊への応戦に穴山信君を大将とする隊を転進させたのが裏目に出て武田勢は完全に崩壊した。   穴山隊が親族衆を主体に編成されていたため彼等の転進が前線の兵達から撤退に映ったのである。   それまで前線でなんとか持ちこたえていた武田勢はこれを機に一挙に崩壊した。戦国時代の軍隊   は精神的な衝撃で精強な軍隊もたちまち弱卒となって崩壊する。武田勢も例外ではなかった。万   策尽きた勝頼はその場で切腹しようとした。それを馬場信春が制止して勝頼を戦場から離脱させ   た。信春は主君を逃がすため敵に突撃して壮絶な戦死を遂げた。    織田・徳川勢は勝頼を討つべく追撃を開始した。武田勢も主君を逃がそうと笠井肥後守らが立   ちふさがって戦死した。これらの犠牲により勝頼は辛うじて甲府に帰還することができた。だが、   本国に帰還できたのは3000ほどでしかなかった。     【終わりの始まり】    長篠の合戦は武田軍に未曾有の大損害をもたらした。軍勢の中核となる重臣が多数戦死したこ   とで武田勢は野戦戦闘力に致命的な打撃を被ったのである。    さて、織田・徳川勢の勝因は鉄砲隊の大量投入とされている。確かに、鉄砲隊は武田勢に大打   撃を与え、味方の損害を最小限にした。だが、鉄砲隊は決して決定的な勝因ではなかった。仮に   鉄砲の数が3000挺で武田勢の兵数が諸説の中で一番少ない7000人程度だったとしても、   当時の火縄銃の性能でそれを撃退するのは不可能である。実際、武田勢は柵の突破に一時的にし   ろ成功しているのだ。    しかし、いくら先手が突破口をつくっても後続がそれを拡大できなかった。理由は兵の不足で   ある。つまり、総合的な兵力差故に武田勢は敗退したのだ。本来なら勝頼は織田・徳川の陣に攻   撃をしかけるべきではなかった。強固に防備がされた陣地への直接攻撃は絶対避けるべき戦術の   愚策である。だが、鳶ヶ巣山陣地の陥落は勝頼に集団自殺ともいえる無謀な突撃を強制した。そ   の意味で、戦闘は鳶ヶ巣山が陥落した時点ですでに勝敗が決していたのだ。    否、それもあたらないかもしれない。武田勢は少なくとも3万以上の兵を動員できたはずであ   る。しかし、越後の上杉勢への抑えとして1万余の兵力を信州に置いていたため半分ほどの兵力   しか動員することができなかった。勝頼が本気で信長に決戦を挑むなら上杉勢が軍事行動をとれ   ない冬季にすべきである。それが無理なら徳川を屈服させるまで信長との決戦は避けるべきだっ   た。だが、勝頼とその家臣達は信長の戦意を過少評価して彼との決戦を追求したあげく設楽原で   屍を晒すことになったのである。つまり、武田勢の敗北は戦う前に約束されていたのだ。    この合戦後、武田家は7年命脈を保ったが、それは信長が対武田戦に専念できなかったからに   過ぎない。というより、長篠合戦で惨敗した武田家などすでに信長の眼中になかったのである。    設楽原で武田の将兵が無様に戦死していった瞬間こそ、武田最強伝説の終焉であり、上洛とい   う野望の挫折であり、逃れ得ぬ滅亡への第一歩だったのである。
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