江北戦線

   足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は敵対勢力の殲滅に取りかかった。その最初の標的
  にされたのが越前の戦国大名朝倉義景であった。だが、朝倉征伐は浅井長政の離反で失敗に終わ
  ってしまう。怒り心頭の信長は大軍を江北へ差し向けるが、それは3年に及ぶ戦いの幕開けであ
  った。
 
【信長の越前侵攻と浅井長政の裏切り】 【姉川合戦】 【志賀の陣】 【比叡山焼き討ち】 【江北の陣】 【信長の最終攻勢】
    【信長の越前侵攻と浅井長政の裏切り】    永禄13年(元亀元年)1月23日、織田信長は畿内とその周辺の諸大名に2月中旬に上洛せ   よとの命令を書状で送付した。信長は天皇と将軍の権威を利用して諸大名を支配していこうと考   えたのだ。彼は2月中旬という日程をわざと遅らせ、諸大名の動向を探った。そして、信長が予   想したどおり招集に応じなかった者がいた。越前の朝倉左衛門督義景である。    朝倉家と織田家は共に斯波氏の元家臣という家柄である。しかし、義景の家系は斯波氏の直臣   であったが、信長の家系は織田家の本家ではなく大和守家の奉行に過ぎず斯波氏から見たら陪臣   という家系である。さらに義景が生まれたときから越前の国主の座が確定していたのに対し、信   長は尾張を統一してわずか6年しか経っていないいわば成り上がり者であった。    こうした家格の違いと足利義昭を奪われたことへの反発から義景は上洛を拒否したのだが、信   長はそれを見越した上で上洛を促したのである。    4月20日、信長は若狭の武藤友益を討伐するため京都を出陣した。武藤友益が反抗的だとい   うのが討伐理由で、戦いを正当化するため信長は討伐を将軍の「上意」によるものにした。それ   だけでは不足だと思ったのか出陣の前日には参内して天皇から勅命までちょうだいした。    信長の動員を受け集まった兵は3万に及んだが、若狭の一国人にすぎない武藤氏を攻めるのに   これだけの大軍は必要ないはずである。武藤氏討伐を利用して何か口実をつけて越前に攻め寄る   というのが信長の真意であった。    22日に若狭に入った信長は25日、突如越前侵攻を開始した。織田勢の猛攻に天筒山城・金   ヶ崎城・疋田城が26日までに相次いで陥落し敦賀郡全体がわずか2日で制圧された。敦賀郡を   支配する敦賀郡司家が粛清の対象になって弱体化していたのと、朝倉家首脳が彼等を見捨て援軍   を送らなかったのが敗因であった。    敦賀郡を難なく制圧した信長は義景と雌雄を決するため木芽峠を越えようとしていた。だが、   その信長の元に彼を驚愕させる知らせが届けられた。同盟者で妹婿でもある江北の浅井備前守長   政が織田と手を切って朝倉に寝返ったというのだ。    信長は最初その情報を信じようとはしなかったが、次々と寄せられる報告は長政の離反は確実   であると思わせた。信長も長政の裏切りは間違いないと判断するしかなかった。    浅井長政が離反した理由は、朝倉を攻める際は事前に通告するという約束を信長が破ったから   だとされている。他に上洛戦で浅井勢も参加して血も流したのに何の恩賞も与えなかった事への   不満とか、主筋にあたる朝倉家の苦境を座視することができなかったとか、密かに足利義昭から   信長討伐の命令を受けたからとかある。    28日夜、信長は馬廻だけを従え真っ先に逃亡した。その後を麾下の軍勢が追いかける。殿と   して残った木下秀吉は追撃する朝倉勢を必死に撃退しながらなんとか逃げ延びた。これが、秀吉   の手柄の一つとして有名な「金ヶ崎退き口」である。といっても、この時殿を務めたのは秀吉だ   けでなく、明智光秀や池田勝正らもいたし徳川家康も信長から置き去りにされていた。    信長が京都に帰ったのは30日の午後11時頃である。浅井勢の攻撃を避けるため遠回りした   ので帰還するのが遅れたのだろう。越前遠征は信長に屈辱を与えるだけの結果となった。     【姉川合戦】    浅井長政の離反と元近江守護の六角氏一党の挙兵で、美濃と京都を繋ぐ江南の連絡路が遮断さ   れる危険が高まった。信長は柴田勝家・佐久間信盛・森可成・中川重政をそれぞれ長光寺城・永   原城・宇佐山城・安土城に配置して浅井氏と六角氏に備えた。    一方、浅井長政も信長の復讐に備え織田領との境界線にある鎌刃城を強化し、朝倉氏の支援で   苅安城と長比城を築城した。妻から義兄の性格を聞かされていたであろう長政は、離反した以上   信長を倒す以外に生き残る術はないと思い境界ラインの防御を強化したのである。    ところが、その一つの鎌刃城主である堀秀村と同家を実質支配する樋口直房があっさり信長に   寝返ってしまったのだ。境目の領主は常に外敵からの脅威にさらされるので、どちらに従えば良   いのか慎重に見極めるのである。この時、堀・樋口が信長を選んだのは間違ってはいなかったが   正解だったともいえない。なぜなら浅井氏が滅亡した後、彼等も粛清されるからである。    堀・樋口が降服してきたとの報告を受けた信長は自分に恥をかかせた張本人である浅井長政を   討つべく6月19日に岐阜を出発した。    織田勢は長比と苅安の両城を難なく攻略すると本陣を虎御前山に構え、全軍で長政の居城小谷   城の城下を焼き払った。浅井勢が憤慨して城から出てくるように挑発したのである。それでも敵   が動かないと見るや信長は横山城を包囲した。横山城は鎌刃城の喪失で孤立しつつある佐和山城   への中継拠点で、これが織田勢の手に落ちれば佐和山は敵中に孤立することになる。    しかし、それでも浅井勢は動かなかった。信長は浅井勢が動かないと判断すると、翌日の22   日に本陣を虎御前山から姉川南岸に移動させた。それをみた浅井勢はそれまでの消極姿勢から一   転城外出撃に踏み切った。追撃で敵にある程度の打撃を与えようとしたのだ。だが、後衛の簗田   広正・中条家忠・佐々成政の部隊が田川を背にして浅井勢の追撃を遮った。    信長は翌日まで浅井勢の追撃を警戒していたが、長政にその意思がないことを確認すると横山   城の包囲に専念することにした。23日から24日にかけて横山城は織田勢に完全に包囲された。    長政が積極的な行動に出なかったのは朝倉勢の増援を待っていたからであった。そして、その   待ちこがれていた援軍が到着した。同名衆(朝倉姓を称した一族)次席の朝倉景健率いる8,0   00の軍勢である。すでに小谷城周辺に展開している先遣隊と合計すると、その数は信長が戦後   に書いた書状によれば15,000人になる。越前には義景直属と大野衆しか残っていないので   だいたいその数になる。これに浅井勢を加えると総数は2万人前後となり、長政は信長に決戦を   挑むことができるようになった。    一方、信長にも援軍が来た。徳川家康の数千の軍勢である。    信長は横山城を包囲する部隊を分散させていた。しかも、本陣を敵にもっとも近い位置である   城の北側、半島のように平地に突き出た龍ヶ原に置いたのである。これは、明らかに浅井・朝倉   勢への挑発であった。    この挑発に長政と景健は罠であることを見抜いていたが、あえて乗ってみせることにした。2   7日早朝、浅井・朝倉勢は大依山の陣を引き払い陣替えのため麓の北国脇往還に降りた。織田勢   はこれを撤退と判断した。敵が自分たちから見て山の反対側に降りたからである。    しかし、それは誤認であった。浅井・朝倉勢が28日未明に野村と三田村に進出したのである。   信長の本陣からただちに諸将を呼び戻すために母衣武者が派遣されたが、開戦には間に合いそう   にもなかった。浅井・朝倉勢を前にして信長には馬廻衆と美濃三人衆からなる織田勢8,000   と徳川勢3,000しか手駒がなかった。姉川合戦は信長に誘い出された浅井・朝倉勢の完全な   奇襲という皮肉な形で幕を開けたのである。    最初に動いたのは朝倉勢であった。先手衆8,000が川を渡り、岡山の前面に布陣した徳川   勢に襲いかかった。徳川勢は戦上手で知られる酒井忠次率いる東三河衆がそれを迎撃し、両軍は   一進一退の激戦を展開した。    一方、浅井勢は磯野員昌を先頭に姉川を渡河し、信長の馬廻衆を攻撃した。浅井勢の攻撃は熾   烈で、織田勢先頭の坂井正尚隊を粉砕し後続の池田恒興隊も押し戻されていった。    左翼の徳川勢の状況も予断を許さなかった。全体を合わせても朝倉勢先手の半分以下でしかな   い徳川勢は正面の敵を撃退しても、倍以上の兵力の朝倉勢は徳川勢を包囲しようと左右に展開し、   家康はそれを防ぐためただでさえ少ない戦力を分散するしかなかった。精強とされる朝倉勢の猛   攻を半分以下の戦力で持ちこたえている徳川勢も精強といえるが、その崩壊は時間の問題となり   つつあった。    序盤の戦況は浅井・朝倉勢が優勢だったが、時間が経つにつれ織田・徳川勢が優勢になるのは   明かであった。そこで浅井・朝倉勢は主力である朝倉勢を徳川勢にぶつけ、それを粉砕した後浅   井勢と交戦している織田勢の側面を突くという作戦を立てた。うまくいけば信長の首級も頂戴で   きるかもしれない。それには織田勢の後続が到着するまでに徳川勢を粉砕することが不可欠だっ   たが、景健も長政も作戦の成功を疑わなかった。自分たちの利害とは直接関係ない遠国での戦場   に駆り出されている徳川勢の士気は低いであろうし、なによりも彼等は自分たちの軍隊の強さに   自信を持っていた。    だが、それは信長も同じだった。本陣のすぐ近くまで敵が迫って来ていても彼は自分が鍛え上   げた軍隊の機動力を疑ってはいなかった。    その信長の期待通り織田勢の後続は長政や景健の予想を超える速さで戦場に到着し始めた。池   田勢が後退し始めた頃から秀吉隊2,000と柴田勝家隊が到着し、浅井勢と交戦を開始した。   浅井勢の突撃は勢いを失い始めたが、織田勢も坂田隊の潰滅と池田隊の後退で後続が来ても部隊   が入れ替わった程度の効果しかない状況で戦況を好転させられずにいた。浅井勢は信長の目前に   まで迫り、森可成が指揮する馬廻衆までが攻撃にさらされた。    この緊迫した状況にも関わらず信長は苦戦を続ける徳川勢の支援を決意し、秀吉隊に続いて到   着していた丹羽長秀隊と池田隊に徳川勢への加勢を命じた。この加勢で徳川勢は崩壊を免れ、態   勢を立て直すことができた。    戦況は織田勢最大の兵力を有する佐久間信盛隊4,000が到着したため、浅井勢の突進は食   い止められ朝倉勢も徳川勢を撃破できずにいるというものであった。この時点で徳川勢と浅井勢   は予備を使い果たし残っているのは大将の警護部隊のみ、織田勢は信長の警護部隊と美濃三人衆   3,000を、朝倉勢は全体の半数近い戦力を有する敦賀衆を無傷で温存していた。    信長は残っていた美濃三人衆を姉川の北岸に迂回させ浅井勢の側面を突かせた。疲労困憊して   いた浅井勢はこの攻撃で総崩れとなり敗走した。同時に朝倉勢も敦賀衆が戦わずに後退したため   前線の諸将も力つきてじりじりと後退し始めた。魚住景固や朝倉掃部らが奮戦するも猛将真柄直   隆の戦死でついに総崩れとなった。    浅井・朝倉勢は小谷城に逃げ込むと、信長は再び横山城を包囲した。合戦の結果は城主の大野   木土佐守も知っており、救援の望みは無しと判断した彼は信長の勧告に従って城を明け渡し退去   した。横山城には秀吉が入り、以後の対浅井戦の先頭にたって活躍することになる。     【志賀の陣】    姉川の勝利で信長は近江情勢をひとまず安静にすることができた。だが、浅井・朝倉勢は潰滅   したわけではなく合戦で被った損害も短期間で回復できる程度であった。    元亀元年9月、朝倉義景は自ら軍勢を率いて越前を出発した。途中で浅井勢と合流した朝倉勢   は近江の坂本に進出した。信長が石山本願寺との戦いで摂津から動きがとれない隙を突いたので   ある。    この時、坂本周辺には宇佐山城の森可成や信長の弟信治らが配置されていたが、多勢に無勢で   19日の合戦には勝利したものの翌日の戦闘に大敗してしまい可成も信治も戦死した。浅井・朝   倉勢は勢いに乗じて宇佐山城も攻撃したが、留守を守っていた武藤五郎右衛門らの必死の抵抗に   より城攻めを諦め21日、大津から山科方面を放火していった。    浅井・朝倉勢の京都接近を知った信長は23日、三好三人衆や石山本願寺との戦いを切り上げ   急いで京都に向かった。その日の夜に京都に到着すると休むことなく翌日には近江に進出し、浅   井・朝倉勢との戦いに臨んだ。信長の接近を知ると浅井・朝倉勢は比叡山に陣を張った。    信長は比叡山にある延暦寺の僧侶を招いて、味方になれば押領した延暦寺の寺領はすべて返還   する、味方になるつもりがなかったらせめて中立を維持してもらいたいと要請した。だが、延暦   寺はその要請を拒否してしまった。    短期戦を諦めざるを得なかった信長は、25日から比叡山の麓を包囲して持久戦の構えを取っ   た。以後、11月26日に堅田で戦闘があった以外は両軍による武力衝突は無く睨み合いの状況   が続くが、そうしている間にも情勢は信長に不利になる一方であった。すぐ近くでは六角承禎が   挙兵して柴田勝家らと交戦しているし、国許でも長島で一向一揆が勃発して小木江城を守ってい   た織田信興(信長弟)が自刃に追い込まれた。    まさに四面楚歌の状態であったが、朝倉勢も兵糧が底を突こうとしていて持久戦が維持できな   くなりつつあった。それに、冬になれば雪が深くなって帰還が難しくなる。そのためか、11月   28日に将軍足利義昭が和睦せよという上意を伝え、さらに12月9日には天皇が延暦寺宛に綸   旨を出すと義景はそれに従って14日に信長と和睦した。それと同時に信長は六角承禎や三好三   人衆方の篠原長房とも和睦を結んでいる。信長の生涯で最も苦しい状況であった元亀元年はこう   して暮れていくのであった。     【比叡山焼き討ち】    年が明け諸将が年頭の挨拶に参集すると、信長は彼等の前で延暦寺を殲滅すると宣言したとい   う。俗世界から距離を置くべき立場でありながら合戦で片方に味方するなど、その姿勢は戦国大   名となんら変わりもない。中立を守っているならともかくも敵対する勢力を匿い現在も織田と戦   闘状態にある延暦寺(延暦寺は前年末の将軍と天皇の和睦命令にも応じなかった)は、滅ぼされ   ても仕方のない存在であった。    さて、浅井・朝倉勢との対峙を権威を利用するという姑息な手段で辛くも乗り切った信長であ   ったが、年が明けると近江の状況は少し好転しつつあった。織田方に包囲され孤立していた浅井   方の佐和山城が2月に開城したのである。城将の磯野員昌は姉川で浅井勢の先陣を務めるなど勇   猛な武将であったが、防戦7ヶ月あまりで遂に力つきてしまった。降服した磯野は信長に厚遇さ   れ近江高島郡の支配権を与えられた。信長は降服した敵でも役に立つと見ればそれやりに厚遇し   ているのである。    佐和山城は京都と岐阜を結ぶ通路を脅かし、小谷城を攻めようとする織田勢を牽制する位置に   ある重要な要衝である。佐和山城の開城は織田勢が背後の憂い無く小谷攻めに専念できることを   意味する。    事態を重く見た浅井長政は5月6日、浅井井規に軍勢を預け鎌刃城を攻撃させた。鎌刃城が陥   落したら秀吉の横山城は孤立してしまう。鎌刃城から増援を要請された秀吉は100騎を率いて   救援に赴き、奇襲によって10倍の兵力(秀吉勢と鎌刃城兵を合計した数に対して)の浅井軍を   撃退した。    同じ頃、信長は長島の一向一揆を攻撃して、氏家卜全らが戦死するという惨敗を喫していた。   それからしばらくは軍事行動を控えていたが、8月になって近江朽木谷の朽木元綱が内応すると   近江に出陣した。26日から翌日にかけて江越国境に近い余呉と木本を放火した後信長は28日   に佐和山城に入った。その間、浅井勢との衝突はなかった。単独では織田勢に抗し得ない浅井勢   は直接小谷城が脅かされない限り、出撃して織田勢と事を構えるようなことはしなかった。    9月1日、信長は近江に配置していた諸将に小川城と志村城の攻略を命じた。志村城は陥落し   小川城は降服した。続いて3日には江南の一向一揆の拠点である金森城を陥落させた。    12日、坂本に移動した信長は3万の軍勢をもって町を焼き討ちした。繁栄を誇った坂本は炎   に包まれ、町が炎上する様を背景に織田勢は比叡山に攻め上った。延暦寺にいた者は逃げる間も   なく僧侶もそうでない者も老若男女の区別無く虐殺された。その数は1,600人とも4,00   0人ともいわれるが、この攻撃で伝教大師が開いた比叡山延暦寺は焼失し周辺は地獄絵図と化し   た。    信長との対決姿勢を鮮明にした延暦寺はなぜこうも簡単に焼き討ちを許したのだろうか。すで   に前年には信長から警告が出ていたのである。それはやはり信長という男を甘く見ていたからだ   ろう。また、「王都の鎮守」という伝統的権威を背景にした自分たちを本気で潰そうとはしない   だろうという甘い憶測もあったに違いない。だが、信長にとってそんな権威も伝統も全く意味の   ないものだったのである。焼き討ちを知った武田信玄は信長の所業を非難する書状を送ったが、   信長はそれに対する返書に「第六天魔王」と署名したという。第六天魔王とは仏教破壊の神で外   道界最強の神の名である。天台宗の総本山を焼き討ちした信長は仏教の側から見ればまさに「魔   王」であった。    焼き討ちは15日まで続いたが、信長は13日の午前10時頃馬廻衆のみを連れ京都に入って   いる。延暦寺などから没収した土地は江南の部将に分与された。     【江北の陣】    比叡山に籠もっての信長との対峙いわゆる「志賀の陣」で信長打倒という好機を逃した浅井・   朝倉勢だったが、武田信玄の上洛戦の開始でまたもや信長打倒の機会が巡ってきた。「江北の陣」   である。    元亀3年7月19日、信長は岐阜を出陣して江北に向かった。今度の出陣は嫡男信忠の初陣と   いうことで5万の大軍が動員された。信長は今度こそ小谷城を落とし浅井を滅ぼすと決意してい   た。    城攻めは21日から始まり、周辺の城も攻撃を受け、浅井に味方する一向一揆衆も掃討されて   いった。    一方、朝倉義景は24日に自ら15,000の兵を率いて越前を出陣し、28日に近江の柳ヶ   瀬に着陣した。義景は信長との決戦を避け小谷城北西の大嶽山に陣を移動させた。正面からぶつ   かっても勝ち目がないと判断した義景は持久戦に持ち込もうとしたのだ。しかし、織田勢が虎御   前山に砦を築いていくのを妨害しようとしなかったのは如何なるわけか。大軍を率いているのだ   から小規模な部隊を編成して敵を攪乱することぐらいしても良さそうだが、義景は全く兵を動か   そうとしなかった。    信長にしたらいつまでも江北に留まっていることはできないから、義景を決戦に誘って一気に   決着をつけようとしたが断られた(当たり前だ)。    そんな主君を頼りないと見たのか、朝倉の部将である前波吉継や富田長繁・戸田与次郎・毛屋   猪介らが織田の陣に投降してきた。このうち前波は朝倉家の奉行も務めた重臣である。重臣さえ   も掌握できないほど義景の統制は衰えていたのか。    9月16日、信長は虎御前山を秀吉に任せると信忠と共に横山城に戻り、10月になって岐阜   に引き揚げた。武田信玄が上洛するという情報を掴んだからである。    信長去った後、虎御前山には7、8,000の兵が残された。11月3日、朝倉勢は虎御前山   から宮部に築かれた堤防を壊しにかかったが、秀吉らの必死の抵抗により撃退され以後何もする   ことなく12月3日に越前に撤退した。    朝倉勢の撤退を知った信玄は「せっかく信長を滅ぼす絶好の機会が巡ってきたのに帰国するな   んて驚き入った次第だ」と義景を非難する書状を送った。    結果論からしたら信玄はこの後すぐ死んでしまうため早めに切り上げた義景の判断は正しかっ   たといえるが、当時の目で見ればせっかくの好機をみすみす逃した愚将となる。さらに結果論か   らすると、この江北の陣は滅亡を回避する最後の機会になったのである。     【信長の最終攻勢】    着々と進められていく小谷城包囲網に対して浅井・朝倉はどのような対策を施したのか。小谷   城の陥落は朝倉家にとっても致命的な打撃となる。義景は江北に部隊を派遣して小谷城の強化を   図った。朝倉勢によって大嶽・山崎丸・福寿丸が改修され、朝倉氏の勢力側ということでそれま   で防備が手薄だった東北部には月所丸が築かれた。さらに城下にも小谷城と北国脇往還を挟んだ   地域に丁野山城と中島城が築かれた。この朝倉勢の迅速な築城で小谷城の防御は強化され、江北   戦線は長期化の様相を呈していた。    だが、破滅は意外なところから訪れた。天正元年8月8日、山本山城の阿閉淡路守貞征が信長   に投降して同城と月ヶ瀬城を明け渡したのだ。両城の降服によって小谷城は完全に包囲された。    阿閉の投降を知った信長はすぐに出陣を命じ、10日に小谷城北方の山田山を占拠した。増援   に来るであろう朝倉軍を阻止するためである。浅井勢はすぐさま山田山に直面する大嶽北尾根に   焼尾砦を築いた。    小谷城の危機を知らされた義景は2万の兵を率いて出陣してきたが、山田山の織田勢に牽制さ   れ小谷城に近寄ることができず余呉・木本・田部山に布陣した。    12日、焼尾砦が信長に投降した。砦といっても現在その遺構らしき物が認められてなく、ご   く簡単な防備しかされてなかったのだろう。それに時間もなかったしね。    焼尾に続いて去年から在小谷朝倉軍500が守っていた大嶽砦も陥落した。大嶽が陥落したの   は夜で、しかも激しい風雨だったので義景の本陣からは大嶽の様子はわからないだろうと予測し   た信長は降服した敵兵を義景の本陣に送った。そして、諸将に朝倉勢が撤退するから見つけたら   直ちに追撃せよと何度も命令した。    その予想通り13日の夜、朝倉勢は越前へ撤退を開始した。それまでの戦いで信長は義景が一   か八かの決戦に挑むことができない男だと見切っていたのである。だが、織田勢は動かなかった。   誰もが半信半疑だったのである。信長が馬廻衆だけを率いて駆けだしたのを見て、初めて敵の撤   退に気づいた諸将はあわててその後を追った。    朝倉軍は中河内と刀根の二手に分かれていた。信長は左の刀根方面に逃げた敵を追えと命じた。   義景も重臣達も敦賀を目指すはずである。織田勢は刀根のあたりで朝倉勢に追いつき、主立った   武将を次々と討ち取っていった。その中には信長に美濃を追われた斉藤龍興もいた。    17日、信長は木芽峠を越えた。3年前に越そうとして越えられなかった因縁の地である。義   景は何とか一乗谷館に辿り着いていたが、織田勢が迫るのを見て大野郡山田庄に逃れた。しかし、   従兄弟の大野郡司朝倉景鏡(同名衆筆頭)の裏切りで20日、自刃に追い込まれた。24日、織   田勢が一乗谷を占拠して朝倉家は滅亡した。    朝倉を滅亡させた信長は26日に虎御前山に戻り小谷城への総攻撃を命じた。27日、秀吉の   部隊が京極丸を占拠し長政と父親の久政の連絡を断ちきり、久政の籠もる小丸を攻撃した。28   日、追いつめられた久政は自害して果てた。    長政は最後まで抵抗を試みたが9月1日、力つきて自害した。その前に長政は妻のお市の方と   3人の娘を信長の陣に送っている。彼女らは信長の血縁にあたるため信長も保護してくれるだろ   うという思惑があったからだ。嫡男の万福丸の方はさすがに助命されないだろうから、こっそり   城を抜け出させた。しかし、万福丸は発見されて処刑されてしまう。これにより浅井家も滅亡し   た。    小谷城の陥落で江北は信長の支配するところとなった。江南では六角父子が抵抗を続けていた   が天正2年4月13日、ついに諦めて逃走した。六角氏の屈服で近江全域が信長の版図となった   のであった。
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