熊本城攻防戦

 
 日本三名城の一つに数えられる熊本城は言うまでも無く加藤清正によって築城された。
しかし、加藤氏がこの城の主であった時期はわずか25年でしかなかった。以後は、細川
氏が城主となる時代が明治まで続くことになる。この間、幸か不幸か熊本城は防御要塞と
しての機能を発揮する機会に恵まれていない。そして、迎えた明治という新しい時代。過
去の遺物として一時は無用の長物と解体も検討された熊本城は、にわかに戦乱に巻き込ま
れることになる。明治新政府の政策に反発する薩摩隼人が決起して熊本城に迫ってきたの
だ。政府軍は谷干城を指揮官としてこれを迎え撃つのだった。            
 
 
【前史】
 
【西南戦争勃発】
 
【攻城戦】
 
【日本軍事史の転換点】
  【前史】  最初、この地に築かれたのは千葉城だった。ついで隈本城が築かれ、菊池氏の家臣・鹿子木氏の居 城となる。だが、菊池氏は大友氏との抗争で滅亡し、隈本城には大友方の城氏が入った。秀吉の九州 征伐後は佐々成政が入ったが、領国経営に失敗して一揆を招いた責任を問われ自害に追い詰められた。 成政没落後は、肥後北部を秀吉から与えられた加藤清正が入城したが、清正はこの新しい領地を朝鮮 出兵のための物資集積所としか見ていなかった。秀吉の明征服が成就した暁には、さらなる大封へと 栄転するのは明白だからだ。そのため、領国は執拗かつ徹底的な収奪で疲弊し、それでも兵糧が足り ずに豊臣家から借りるという事態にまでなっている。清正が朝鮮に行っている間にその領内の生産能 力は崩壊寸前になっていたのだ。  慶長5年の関ヶ原の合戦で、清正は徳川方東軍として参戦する。これは西軍の石田三成や小西行長 と不仲であったのと、疲弊した領国を回復させるには領土を拡大させるしかないと考えたからだ。徳 川家康は朝鮮で功績のあった島津らに微量ながらも加増しており、朝鮮出兵の論功行賞を渇望する清 正が家康に味方するのに何の不思議もなかった。そして、期待通りに清正は肥後一国という大封を得 ることに成功した。これにより、家臣たちへの知行宛行も可能となり家中を安定させる一方、治水工 事や対外貿易に城下町整備といった国づくりにも力を注いでいった。そして、慶長12年に熊本城は 完成した。  だが、冒頭にあるように加藤家がこの城の主であった期間は短いものだった。まず、清正が城が完 成して4年後に他界、後を継いだ肥後守忠広は11歳だったが重臣たちが幕府に人質を出すことによ って相続を認められた。しかし、これは幕府に介入の機会を与え肥後は幕府領同然の仕置きを受け、 藤堂和泉守高虎が監察に付けられることになった。忠広には蒲生秀行の娘が将軍・秀忠の養女として 配されることで、徳川治世での生き残りにも望みがあったが、加藤家には重大な問題点があった。  加藤家家臣団はそもそも譜代家臣がいない清正が能力さえあれば来る者拒まずといった状態で集め て作っただけに雑多な集団となってしまった。それを清正がワンマン経営によってまとめていたのだ が、彼の後継者である忠広には歴戦の老臣たちを束ねるのは不可能だった。何と言ってもまだ11歳 である。そのため、家臣団が分裂して抗争を始めてしまっても忠広にはどうすることもできなかった。 抗争は幕府の介入によって関係の処罰だけで済んだが「加藤家に人なし」という状態になってしまっ た。また、加藤家は戦時状態を維持していたため家臣団への給禄高が53万石に対し、主君の直接収 入が20万石足らずという極めて不安定な財政状況になっていた。加藤家ではこうした状況に対する 政策はなされず、そのツケは領民に転嫁された。鉄砲衆同伴での年貢徴収や夫役強要が常態化し、農 民の身売りや逃亡が後を絶たないなど、肥後国政の悪評は他国にまで聞かれた。で、忠広は何をして いたのかと言うと、領民の苦境など素知らぬ顔で日夜酒宴を催していたという。加藤家を取り潰す隙 を狙っていた幕府がこれを見逃すはずがなかった。  寛永9年6月、加藤家は突然改易を言い渡された。直接の理由は忠広嫡男の光広が謀反計画の謀書 を諸大名に回覧したことだという。肥後には豊前から細川少将忠利が移封されて以後は明治まで細川 家が熊本城主となった。細川氏は肥後の統治を円満に進めるため清正を持ちあげることにした。清正 が肥後一国の主であった期間が関ヶ原後から彼の死までの短い間であるにも関わらず現在も熊本県民 に人気があるのは、民衆の支持を得るための細川氏の政策によるものなのだ。実際、細川氏の事業で あった土木工事などが清正の事業とされたものもある。逆に関ヶ原以前に肥後南部を統治していた小 西行長に対して、領民に行長とか摂津守とか呼び捨てにするように命じている。  明治になると、熊本城は一時解体が検討されたが反対論も根強く見送られることとなった。明治4 年の廃藩置県で熊本県が誕生すると県庁が城内に設置されることになり、同年には鎮西鎮台のちの熊 本鎮台も置かれることになった。鎮台とは明治中期までの日本陸軍の編制単位で、常設のものでは最 大だった。九州に置かれた鎮台はこれだけであり、熊本城は九州における日本陸軍の重要拠点となっ たのだ。当然、それは敵の標的になりやすいという意味でもある。  明治9年10月24日午後11時半、神風連と呼ばれる熊本士族の集団170余名が熊本城内の兵 営や県庁を襲撃して、県令の安岡良亮や鎮台司令長官の種田政明少将、参謀長の高嶋茂徳中佐らが殺 害される事件が発生した。他に兵士65名が戦死、第13連隊長の与倉知実中佐ら167名が負傷し て連隊旗までが奪われる体たらくだった。神風連の乱と呼ばれるこの反乱は、負傷をおして出撃した 与倉連隊長指揮の第3大隊を中心とした部隊の反撃で、連隊旗を奪回し反乱士族を撃退したことで終 結したものの、徴兵制で編制される軍隊が脆弱であることを暴露する結果となってしまった。  【西南戦争勃発】  戊辰戦争によって薩長を中心とする新政府が樹立されたが、それによって恩恵を蒙ったのはごく一 部の者たちのみで、旧幕府勢力と命がけで戦ってきた大多数の武士は士族という失業者の集団となっ てしまった。徴兵令で武士としての存在意義を、廃刀令で武士という身分の特権を失い、さらに秩禄 処分で経済的にも困窮した士族は政府への不平不満を抱える不平士族となったのである。  明治7年の佐賀の乱をはじめ、同9年の神風連の乱・秋月の乱・萩の乱といった政府への反逆はい ずれも不平士族によるものであり、また戊辰戦争で勝者となったはずの藩出身の者たちばかりだった。 これらの士族の反乱は、それぞれの地域の士族が独自に行動を起こした結果、政府軍に各個撃破され てしまったが、まだ最大の不平士族集団が生き残っていた。薩摩士族である。  明治6年政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身の官僚や軍人も大量に辞職して薩摩に帰ってしま った。だが、西郷には政府に対する反逆の意思は無く、むしろ薩摩の不平士族が暴発しないように心 を砕いていた。しかし、その甲斐も無く明治10年の私学校(西郷らが後進の育成のために設立)生 徒による火薬庫襲撃と、政府による西郷暗殺計画の発覚で薩摩士族の決起は避けられない情勢となっ た。  薩摩士族の目的は西郷を中心とした維新の再断行だったが、それは他の士族反乱と同じく武士階級 の復権を目指すということだった。皮肉なことに、自分たちが命がけで作り上げた新体制を自らの保 身のために壊して旧体制を復活させようというのだ。  明治10年2月6日、私学校本部に薩軍の本営がおかれ最初の軍議が開かれた。西郷の弟・小兵衛 の海路長崎奇襲、野村忍助の長崎・熊本・豊前への三道並進といった戦略が提案されたが、実質的な 首謀格の桐野利秋は陸路熊本攻略を主張した。小兵衛と野村の案は海上機動で本州に上陸しよういう 意図であったが、薩軍には軍艦はないし長崎にそれの有無を確認する術もなかった。この時、政府海 軍はすでに行動を開始しており、薩軍が軍艦を奪取できる可能性は皆無だった。  それに対して、桐野が攻略すべしとした熊本は豊前・豊後・日向・薩摩の4街道が集中する交通の 要衝であると同時に、鎮台が設置されている軍事上の主都でもあった。当時の九州の中心というべき 熊本の攻略は、薩軍の戦略的優位を確保するとともに他の士族への起爆剤にも成り得た。特に九州の 士族に対するアピールとして熊本の攻略は絶対にスケジュールに組み込まれなければならなかったの だ。  こうして薩軍は熊本攻略を目指すことになったが、この間西郷が積極的に指導しよういうことはな かった。そもそも下野したとはいえ西郷に政府に反抗する意思はないし、鹿児島での西郷は薩摩士族 が暴発しないように努めていた。大久保利通も西郷に不平士族を抑えることを期待していた。だが、 西郷は士族の困窮にも同情していたし、それによる士族たちの政府への不満は西郷でも抑えきれない ぐらいに大きくなっていた。そして、政府が鹿児島にある武器弾薬を運び出そうとしたことで士族た ちの不満が爆発した。私学校生徒が政府の火薬庫を襲撃したことを知った西郷は「しまった」と絶句 したというが、この事で私学校は政府への賊徒というレッテルを貼られてしまった。いままで、私学 校の生徒をはじめとする士族たちの暴発を何とか抑えようという西郷の努力は水泡に帰した。無力感 に苛まれた西郷は彼らとともに死ぬことを決心した。  なお、薩軍が熊本に進攻したという情報を聞いた土佐の板垣退助は西郷は兵を知らないと嘆いたと いう。政府の不正を糺すというなら東京を目指すべきだというのだ。レーダーが無いうえに当時の艦 船がまだ少ない日本海軍の警戒を掻い潜って東京それが無理なら横浜に上陸することも決して不可能 ではなかったはずだ。だが、西郷は死ぬ気で勝つつもりはないし、桐野にはそこまでの戦略を考える 知恵は無い。そもそも、前もって挙兵を計画していて準備もしていたのならともかく、政府の挑発に のって暴発した挙句の挙兵だから薩軍に戦略をじっくり練る時間的余裕がないのだから仕方がないこ となのだ。  一方、政府は神風連の乱後に陸援隊出身の谷干城を熊本鎮台司令長官に任命した。谷は戊辰戦争で 土佐藩兵を率いて関東・東北を転戦し、新政府の勝利に貢献した歴戦の将であり以前にも桐野の後任 で熊本鎮台司令長官になったことがある人物である。陸軍卿の山県有朋から鹿児島の不穏な状況に備 えよとの命令を受けた谷は、小倉の第14連隊を呼び寄せると同時に籠城戦の準備を始めた。薩軍が 決起したらその兵は1万から2万であり、5000人しかいない鎮台兵では野戦は不利だからだ。さ らにいえば、神風連の乱で脆弱さを露呈した徴兵が歴戦の薩軍に野戦で勝利する可能性は低いという こともあった。  だが、火力の応酬では鎮台側が有利だった。熊本鎮台にはスナイドル銃が優先的に配備されており、 政府に新式銃を持って行かれ旧式のエンフィールド(エンピール)銃を装備せざるを得なかった薩軍 とは火力に差があったからだ。熊本鎮台に配備されたスナイドル銃は1500挺ほどだったが、熊本 城に籠城しての防戦でなら脆弱な鎮台兵でも薩軍に対抗するのは十分に可能だった。  2月17日、熊本県令の富岡敬明から暴徒25000人が米ノ津に到着、以後の陸海の進路は不明、 鹿児島方面の郵便が途絶したとの急報が鎮台によせられた。熊本鎮台は警戒態勢に入り、新堀門から 法華坂の一般人の通行を禁止し、翌日の午後2時には城門を閉鎖して鎮台兵とその家族以外の入城を 遮断した。これは神風連の乱で城内が一般開放されていたために賊徒の奇襲を許して甚大な損害を被 った反省からとられた処置だった。また、熊本城が臨戦態勢に入ったことで、県庁は城下の住民に避 難命令をだし、同日、政府は征討令を発して征討旅団に九州への出動を命じた。  2月19日、火事で熊本城の大天守と小天守が焼け落ちるという非常事態が発生した。失火とされ るが、その原因は不明である。だが、薩軍にはこれは鎮台が籠城の決意を示した自焼に映った。近代 戦では天守閣は大砲の標的になるだけだからだ。なお、この日から熊本をめぐる政府・薩摩両軍の動 きが慌ただしくなってきた。薩摩からは西郷の上京と熊本通過の趣旨を記した鹿児島県令の大山綱良 の書が届き、京都からは賊徒の征討が決定し有栖川宮が征討総督を仰せつかった旨の電報と、大阪の 野津道貫少将からも野津(兄)三好両少将が第1・2旅団の司令長官に任命されて博多に向けて出発 するという電報が届いた。さらに同日、小倉の第14連隊の一部、山脇大尉の第1大隊左半隊が到着 し、翌日には綿貫吉直少警視(上から4番目の階級)が率いる東京警視隊400名が入城した。これ が、熊本城への最後の援軍となった。  2月20日、別府晋介率いる薩軍の先鋒が熊本城南方の川尻に到着したとの情報を得た鎮台は、斥 候を出して敵情を確認したうえで2個中隊を翌日未明に威力偵察に出したが薩軍に察知されたため撃 退された。これが両軍の初めての戦闘となった。この時、捕虜から城内の情報を得た別府は桐野に諮 って状況確認の先遣隊を派遣した。午前7時、坪井通町を通過しようとした先遣隊は、侵入を察知し た鎮台側の銃撃を受け、そこで散開して防備状況を探った。  その日の夜、西郷以下薩軍の幹部が川尻に到着して軍議が開かれた。熊本城を全軍で強襲する案と 攻城部隊と進撃部隊に二分する案が議論されたが西郷の断で前者の案が採用された。これは川尻の戦 いで鎮台兵がやはり弱兵であると判断されたことと、かつて西郷に抜擢された樺山資紀ら城内の薩摩 出身者たちの内応を期待していたからといわれている。   【攻城戦】  薩軍には熊本士族も参加していた。最終的に2000人となる熊本士族は当然、現地の地理にも詳し く薩軍はそれを先導として22日午前3時に川尻を進発した。部隊を正面軍と背面軍に分けて払暁を期 して一斉に熊本城を攻撃する手筈になっている以外は具体的な作戦はなかった。正面軍の戦力は、桐野 の4番大隊と池上四郎の5番大隊合わせて2500人、背面軍は篠原国幹の1番大隊、村田新八の2番 大隊、別府の連合大隊合わせて3000人であった。この他に永山弥一郎の3番大隊他3400人があ ったが、到着が遅れたために予備隊とされ2番大隊の大半が政府軍の上陸を警戒して海岸防備に回され た。残りの兵と砲兵はまだ行軍の途中であった。  このように全軍が揃う前に熊本城への攻撃が開始されるのだが、薩軍は現有戦力でも攻略は可能と自 信を持っていた。なにしろ自軍が戊辰戦争で鍛えられた実戦経験豊富な精鋭なのに対し、相手は前年の 神風連の乱で脆弱ぶりを露呈した鎮台兵である。武器の差はあるが、人数では薩軍が勝っており、士気 と経験の差で火力の差は十分に埋められると薩軍は踏んでいた。  熊本城への攻撃は午前6時に開始され、5番大隊1700名が長六橋と安巳橋の両方面から白川渡り 城東から城に入城しようとしたが、下馬橋と飯田丸に据えられた野砲2門と臼砲1門と千葉城からの野 砲・山砲の砲撃と歩兵第13連隊第2大隊第3中隊の猛射で撃退された。  熊本城の本丸がある茶臼山は熊本平野に突き出した京町台地に位置していて、その東側は坪井川に面 した急涯となっていた。この天然の要害に曲輪を二段に構え、さらに多数の櫓や多聞を並べることで対 岸の敵に立体的な火線を構成できるようになっていた。谷はこの巧妙な縄張りを巧みに利用できるよう に部隊を配置することで、薩軍に対し十分な火力を発揮させてこれを撃退したのだ。  城東からの侵入が不可能と判断した池上は、坪井川に沿って北上して千葉城に攻撃を加えた。池上大 隊の一部は錦山神社に上がって京町口の埋門を攻めている。だが、鎮台は千葉城に第13連隊第1大隊 第4中隊と野砲・山砲を1門ずつ配備し、埋門には山砲2門と臼砲1門を据えていた。さらに、千葉城 は坪井川を隔てた要害であり、京町に続く城の北面は錦山神社のところで36メートルの空堀で切断さ れていた。結局、池上大隊の攻撃は失敗してしまった。  午前7時、桐野の4番大隊800名は下馬橋を狙って進んだが、ここを守る第13連隊第1大隊第1 中隊と巡査5番組50名と山砲1門の抵抗で後退を余儀なくされた。桐野大隊は城下に焼け残った土塀 を遮蔽物として、古城にあった県庁や藤崎台を攻めようとしたが、飯田丸の砲台が榴散弾を連発し下馬 橋の守兵も猛射を浴びせたため前に進むことができなかった。なお、桐野はこの時西郷と本陣にいたた め戦闘には参加していない。桐野大隊は午前9時20分に攻撃を再開して古城および法華坂に再び迫っ たが、ここも火力が強化された部分であったため桐野大隊はたちまち撃退された。藤崎台の付け根にあ る法華坂は新町方面で唯一の大きな開口部で、ここを抜かれれば一気に二の丸に突入され段山方面と本 丸の連絡が断たれるという防衛上の大きな弱点の一つとなっていた。そこで谷は、第13連隊第1大隊 第2中隊と山砲2門を法華坂に置き、その東側の一日亭に第2大隊第2中隊を配備して接近する敵に十 字砲火を浴びせられるようにした。さらに必要に応じて古城および県庁の部隊が敵の側面を攻撃するこ とになっていた。  一方、背面軍は篠原が総指揮を執って午前7時ごろに花岡山に進出し、藤崎台および段山への攻撃を 一斉に開始した。薩軍の主攻はここであり、鎮台もそれを予測していた。段山方面は緩やかな傾斜地で 井芹川を挟んで島崎村や花岡山に対していた。城内を見渡すことができる段山は城郭部から孤立するよ うに突出しており、井芹川を外郭防衛ラインとした場合に重要な出城となる存在だったが、逆にここが 占領されたら城に対する絶好の攻撃拠点となる。さらに、段山と3間(5.4メートル)の幅で接する 藤崎台は舌状に突出した挟撃されやすい形状で、井芹川が突破された場合に熊本城の防衛上最大の弱点 となる部分だった。  この弱点をカバーできるほどの兵力がない鎮台は、ここを放棄するかわりに優勢な火力でもって段山 に射圧を加え占領を阻止することにした。そのため、谷は総兵力の半数近くと火砲の約半数となる11 門の大砲を段山方面に集中配備したのである。この火力を集中配備された城西での鎮台側の抵抗は激し く、薩軍はどの方面でも突破はできず幾度も撃退された。  だが、午前10時ごろに別府の連合大隊の一部が段山の占領に成功すると、薩軍はただちに藤崎台の 鎮台兵への狙撃を開始した。薩軍の武器は旧式の前装銃だったが、薩摩兵からしたら使い慣れた銃で命 中精度では鎮台側のそれを上回っていた。さらに午前11時ごろには、薩軍の1番砲隊が到着して島崎 村や花岡山などに展開して砲撃を開始し、段山にも山砲が上げられ至近距離からの砲撃を開始した。  この段山からの銃砲撃で、神風連の乱で活躍した与倉第13連隊長が腹部銃創で後日死亡、藤崎台の 指揮を執っていた樺山参謀長が負傷するなど鎮台側に死傷者が続出した。こうなっては藤崎台を放棄し て防衛ラインを二の丸まで後退させるのが妥当なのだが、谷は最前線の兵に撤退を命じようとはしなか った。  谷が撤退命令を出さなかったのは、激戦の最中で鎮台兵に秩序だった後退を求めるのは無理があった からだ。もし、藤崎台の鎮台兵に後退命令を出したら、薩軍の追撃への恐れから後退ではなく敗走にな る可能性があった。そうなれば、薩軍の城内侵入を許してしまいたちどころに熊本城は落城してしまう だろう。いまのところ、鎮台兵は薩摩兵と互角に戦っている。ならば、兵を信じて最前線を死守するし かないと谷は判断したのだ。  結局、薩軍は熊本城内に侵入することなく後退を余儀なくされた。「糞鎮」と罵倒していた鎮台兵に 敗北したことは薩軍にとって大きなショックを与えた。一方、鎮台兵は大いに自信をつけ薩軍を恐れな くなった。  その日の夜、薩軍は軍議を開いた。無論、議題は熊本城への攻撃を続行するか否か。重苦しい空気の 中、普段口数の少ない篠原がいつになく強い口調で攻撃続行を主張した。篠原はこの日の敗北で自軍の 士気が大きく低下していることを察していた。戦国の昔より、損害を顧みない白兵突撃で威信を示しそ れを伝統としてきた薩摩兵が、負けたからといって攻撃の続行を躊躇するようになっては後々に禍根を 残すと篠原は考えたのだ。篠原の主張に一同は同意して夜襲が決定した。夜襲なら敵の火力も威力が減 殺される。後続部隊も到着しているし、斬り込みは薩軍がもっとも得意とするところである。篠原が予 想したとおり、夜襲が伝えられると薩摩兵の士気は大きく上がった。  だが、後続で到着した野村忍助らが「徒に兵を失うのは上策ではない。一部を包囲に残して主力は北 上して長崎と小倉を攻略すべきである。城はいずれ立ち枯れる」と夜襲案に真っ向から異論を唱えたた め軍議は再び紛糾した。理論的な野村と実戦経験に基づく篠原の意見が相容れることはない。実質的な 総指揮官である桐野は困惑して西郷に相談したところ、西郷は長考した末に主力による熊本城への強攻 は中止すると決断を下した。この瞬間、熊本城の戦いは以後も4月15日まで包囲は続くのだが、この 日をもって事実上終結したのである。    【日本軍事史の大きな転換点】  薩軍が熊本城の強攻を断念したことは、その勇猛なイメージに大きく傷をつけることになった。もし、 薩軍が熊本城を攻略していたら、死をも恐れない勇猛な薩摩兵として全国の士族に与える影響は小さく はなかっただろう。無論、敵方である政府軍の将兵に対してでもある。桐野は後に篠原案を否決したこ とを悔いたという。  西南戦争は生まれたばかりの日本の徴兵制にとって最後の試練となった。町民(無論、士族も混じっ ていたが)で構成された政府軍が士族主体の薩軍に勝利したことは、10世紀に誕生して以来日本の軍 事力を担ってきた武士の存在意義が完全に崩壊したことを意味していた。  だが、その一方でたびたび政府軍が薩軍に戦術的敗北を喫したのも事実で、武士に対する苦手意識や 恐怖感も未だに根強く残っていることも露呈しており、陸軍では以後兵の精神力を鍛えることを重視す るようになる。さらに、薩軍の士気が最後まで高かったのは西郷という存在があったためとされ、天皇 を陸海軍を統率する大元帥とすることで兵の士気を高める政策もとられた。  この西南戦争の終結でもって日本国内では内戦は発生しなくなり、その存在意義を自らの力で示した 日本軍はその活動の場を大陸に求めていくことになる。
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