惨敗に終わった史上最大の空母決戦
マリアナ沖海戦
−Battle of Philippine sea−

 
 
 
    【日本軍】
  第1機動艦隊(小沢治三郎中将)
   甲部隊(小沢中将直率)
    第1航空戦隊(小沢中将) 零戦52型80機 21型戦爆11機 99式艦爆9機 彗星70機 天山44機
        空母 大鳳(菊池朝三大佐) 翔鶴(松原博大佐) 瑞鶴(貝塚武男大佐)
    第5戦隊(橋本信太郎少将)
        重巡 妙高(石原聿大佐)羽黒(杉浦嘉十大佐)
    第10戦隊(木村進少将)
        軽巡 矢矧(吉村真武大佐)
        第10駆逐隊(赤沢次寿雄大佐)
           駆逐艦 朝雲
        第17駆逐隊(谷井保大佐)
           駆逐艦 浦風 磯風 雪風
        第61駆逐隊(天野重隆大佐)
           駆逐艦 初月 若月 秋月
        駆逐艦 霜月 五月雨
 
 
   乙部隊(城島高次少将)
    第2航空戦隊(城島少将) 零戦52型53機 21型戦爆27機 99式艦爆29機 彗星11機 天山15機
        空母 隼鷹(渋谷清見大佐)飛鷹(横井俊之大佐)龍鳳(松浦義大佐)
    戦艦     長門(兄部勇次大佐)
    重巡     最上(藤間良大佐)
    第4駆逐隊(高橋亀四郎大佐)
           野分 山雲 満潮
    第27駆逐隊(大島一太郎大佐)
           時雨
    駆逐艦    秋霜(中尾小太郎少佐)早霜(平山敏夫少佐)浜風(前川萬衛中佐)
 
 
   前衛(栗田健男中将)
    第4戦隊(栗田中将)
        重巡 愛宕(荒木伝大佐)高雄(林暈邇大佐)摩耶(大江覽治大佐)
           鳥海(有賀幸作大佐)
    第1戦隊(宇垣纒中将)
        戦艦 大和(森下信衛大佐)武蔵(朝倉豊次大佐)
    第3戦隊(鈴木義尾中将)
        戦艦 金剛(島崎利雄大佐)榛名(重永主計大佐)
    第7戦隊(白石萬隆少将)
        重巡 熊野(人見錚一郎大佐)鈴谷(高橋勇次大佐)利根(黛治夫大佐)
           筑摩(則満宰次大佐)
    第2水雷戦隊(早川幹夫少将)
        軽巡 能代(梶原季義大佐)
        第31駆逐隊(福岡徳次郎大佐)
           駆逐艦 長波 沖波 岸波 朝霜
        第32駆逐隊(青木久治大佐)
           駆逐艦 玉波 浜波 藤波
    第3航空戦隊(大林末雄少将) 零戦52型18機 21型戦爆45機 天山9機 97式艦攻18機
        空母 千歳(岸良幸大佐)千代田(城英一郎大佐)瑞鳳(杉浦矩郎大佐)
 
 
   補給部隊
    速吸船団 軽巡 名取
         給油艦 速吸
         駆逐艦 初霜 夕凪 栂
    第1補給部隊 油槽船 日栄丸 国洋丸 青洋丸
    第2補給部隊 油槽船 玄洋丸 あづさ丸
    駆逐艦 響 卯月
 
 
 
 
 
    【米軍】
  第5艦隊(レイモンド・A・スプルーアンス大将)
   第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)
    第1群(ジョセフ・クラーク少将)
      空母 ホーネット(艦戦36機 艦爆33機 雷撃機18機 夜戦4機)
         ヨークタウン(艦戦41機 艦爆44機 雷撃機17機 夜戦4機)
     軽空母 ベローウッド(艦戦26機 雷撃機9機) バターン(艦戦24機 雷撃機9機)
      重巡 ボルチモア ボストン キャンベラ
     防空巡 オークランド サンファン
     駆逐艦 ブラッドフォード ブラウン バーンズ ボイド コウエル シャーレット
         コナー ベル イザード ヘルム マッコール モーリー グリッドレイ
         クレイブン
 
    第2群(アルフレッド・モンゴメリー少将)
      空母 ワスプ(艦戦34機 艦爆32機 雷撃機18機 夜戦4機)
         バンカーヒル(艦戦37機 艦爆33機 雷撃機18機 夜戦4機)
     軽空母 キャボット(艦戦24機 雷撃機9機) モントレイ(艦戦21機 雷撃機8機)
      軽巡 サンタフェ モービル ビロクシー
     駆逐艦 ルイス・ハンコック ステファン・ポッター マーシャル ザ・サリバンズ
         デューイ ハル ヒコックス ハント マクドノー ミラー オーウェン
         ティンゲイ
 
    第3群(ジョン・リーブス少将)
      空母 レキシントン(艦戦37機 艦爆34機 雷撃機18機 夜戦4機)
         エンタープライズ(艦戦31機 艦爆21機 雷撃機14機 夜戦3機)
     軽空母 プリンストン(艦戦24機 雷撃機9機) サンジャシント(艦戦24機 雷撃機8機)
      重巡 インディアナポリス
      軽巡 バーミンガム クリーブランド モントピーリア
     駆逐艦 ワッドワース ガトリング インガソル ナップ アンソニー コグスウェル
         クラレンス・K・ブロンソン ブレイン テリー ケイパートン ヒーリィ
         コットン ドーチ
 
    第4群(ウィリアム・ハリル少将)
      空母 エセックス(艦戦38機 艦爆36機 雷撃機20機 夜戦4機)
     軽空母 カウペンス ラングレー(2隻とも艦戦23機 雷撃機9機)
      軽巡 ヒューストン マイアミ ビンセンズ
     駆逐艦 スタンリー コンバース スペンス サッチャー ダイソン ランズダウン
         チャールズ・オスバーン ラードナー マッカラ エレット ラング スタレット
         ウィルソン ケイス
 
    第7群(ウィリス・A・リー中将)
      戦艦 ワシントン ノースカロライナ アイオワ ニュージャージー サウスダコタ
         アラバマ インディアナ
      重巡 ミネアポリス ニューオーリンズ サンフランシスコ ウィチタ
     駆逐艦 モンセイ ゲスト ヤーノール ベネット セルフリッジ バグリー マグフォード
         パターソン フラム カニンガム ハドソン ハルフォード ストックハム
         トワイニング
 
 
 
 
 
 
 
    【日本軍の作戦】
   1943年2月のガダルカナル島の勝利で始まったアメリカ軍の限定攻勢は11月のギルバー
  ト諸島上陸で全面的なものへと発展した。ソロモンと東部ニューギニアでの航空消耗戦で疲弊し
  た日本軍はこれを阻止することができず各地の守備隊はことごとく玉砕していった。
   こうした状況に対処すべく日本軍は1943年9月30日に絶対国防圏を策定した。さらに海
  軍は独自の計画として新Z作戦を計画した。これはアメリカ軍の進攻路をマリアナ・西カロリン
  ・西部ニューギニアの3つの地域に想定して、そのいずれかで邀撃するというものであった。ま
  た、アメリカ軍はそれまでと同様中部太平洋を進攻するニミッツ麾下の軍とニューギニアのマッ
  カーサー麾下の軍の2本立てで来るであろうとも予測している。
   しかし、1944年3月に新Z作戦を作成した連合艦隊司令部が古賀峯一長官もろとも遭難し
  て消滅すると新Z作戦は破棄され、代わりに軍令部が作成した「あ号」作戦が採用された。
   これは、敵の進攻路を西部ニューギニア・西カロリン・フィリピンを結ぶいわゆる三角地帯に
  限定して、現在二手で侵攻している敵が一つに合流すると想定している。これは的確な状況判断
  に基づくものではなく、自分たちの主観的判断つまりは希望によるものであった。作戦とは敵が
  どのように攻めてくるかを想定しなければならない。「あ号」作戦で想定された三角地帯は日本
  軍が防備しやすい地域である。逆にいえばそれは敵にとって攻めにくい場所ということになる。
  少し冷静に考えたらおかしいと気づくはずである。もちろん、海軍の中にも敵は三角地帯ではな
  くマリアナ方面に侵攻するだろうと正確に予測した者もいたが、上層部はそれらに聞く耳を持と
  うとはしなかった。戦局が絶望的になりつつある状況で日本軍上層部の思考回路は麻痺しつつあ
  ったのだ。
 
 
   さて、実際にアメリカ軍と対決する実戦部隊の状況はどうだったか。これまでの戦訓で海戦の
  主役は従来の戦艦ではなく空母であることが明らかになった。そこで海軍は空母を主力とする第
  1機動艦隊を1944年春に編成した。
   ちょっとここで戦前からの日本空母部隊の艦隊編成を解説する。1937年7月の空母部隊は
  第1艦隊に第1航空戦隊、第2艦隊に第2航空戦隊と分散されていた。それが1940年6月に
  第1航空戦隊の司令官だった小沢治三郎少将が当時の吉田善吾海軍大臣に「空母は集中させて運
  用するべきである」と意見具申したのがきっかけとなって、翌1941年4月に5つの航空戦隊
  から成る第1航空艦隊が編成された。しかし、この時点では海軍の主力は戦艦部隊である第1艦
  隊とされ、空母部隊の第1航空艦隊は補助部隊と位置づけられていた。この状況は真珠湾で1航
  艦を基幹とする機動部隊がアメリカの戦艦部隊を壊滅させても変わることはなかった。
   その状況が少し変化したのは、ミッドウェー海戦後であった。空母4隻が全滅したこの敗戦で
  主力である戦艦部隊は何ら戦局に寄与することなく空しく帰還するしかなかった。この海戦によ
  って戦艦は近代海戦にはほとんど役に立たないことが証明された。それは、世界最先端の大艦巨
  砲主義である日本海軍も認めざるを得なかった。この海戦の後、改大和級戦艦と超大和級戦艦が
  建造される予定だったD計画が、空母の増産を目的とした改D計画に変更されたことでそれは証
  明されている。
   海軍は7月14日、航空戦隊と護衛部隊である第10戦隊で編成された第1航空艦隊(その前
  の4月10日に一回改編されている)を第3艦隊に改編し、戦艦部隊の第1艦隊と重巡部隊の第
  2艦隊に並立させた。それまでの編成では作戦の都度、空母部隊は他の艦隊から艦艇を借りてこ
  なければならなかったが、この第3艦隊は2個の航空戦隊と戦艦の第11戦隊、重巡の第7・8
  戦隊、直衛の第10戦隊で編成されすべてを自分の艦隊で運用できるようになっていた。
   この改編でようやく空母は準主力に昇格したのだが、まだ戦艦が主力であるという意識を完全
  に払拭するには至らなかった。
   その後の戦局は空母部隊が1943年末まで第2次ソロモン海戦と南太平洋海戦を戦い、その
  艦載機部隊が母艦を離れ「い号」「ろ号」作戦に参加したのに対し、戦艦部隊はトラック泊地か
  ら一歩を出ることはなかった。
   戦況が劣勢になっていくのに艦艇を遊ばせておくのはさすがにまずい。海軍は1943年12
  月の小沢第3艦隊司令長官の意見を採り入れ空母を主力とした艦隊の編成を決定した。まず、空
  母瑞鳳と改装が終了した千代田と千歳で第3航空戦隊を新編して1944年2月1日に第3艦隊
  に編入し、21日には明治以来海軍の主力として長く君臨してきた第1艦隊を解隊して第2艦隊
  に編入した。第1艦隊の解隊は戦艦が主力の地位から滑り落ちた瞬間でもあった。
   そして3月1日、第3艦隊と第2艦隊で構成される第1機動艦隊が編成され第3艦隊司令長官
  が指揮官を兼任することになった。第1機動艦隊兼第3艦隊司令長官は小沢治三郎中将、第2艦
  隊司令長官は栗田健男中将で、これは11月15日に第1機動艦隊と第3艦隊が解隊されるまで
  変わることはなかった。
 
 
   開戦当初の日米の空母戦力は日本がやや優勢だったが、1943年中にエセックス級空母とイ
  ンディペンデンス級軽空母が続々と竣工したことによって戦力比は完全に逆転していた。小沢中
  将は劣勢な戦力で敵に勝つ方法を考えなければならなかった。
   小沢は自軍の艦載機が敵の艦載機よりも航続距離が長いことに目を付けた。つまり、敵の攻撃
  圏の外から攻撃することができるのだ。これをアウトレンジ戦法という。自分たちは全く攻撃を
  受けることなく一方的に敵を攻撃する。まさに必勝の策であった。
   さらに、小沢は艦隊の陣形にも頭を使った。それまで単一の機動部隊として編成されていた第
  3艦隊から戦艦と重巡を引き抜き第2艦隊に編入した。小沢は第2艦隊を前衛に配置した。本隊
  の前方に置くことで敵の攻撃を吸収しようというのだ。これは、第2次ソロモン海戦や南太平洋
  海戦で有効だった。
   小沢が考えた戦術はこうだ。まず、敵の攻撃圏外から攻撃隊を発進させアウトレンジで攻撃し
  ていき、徐々に敵の戦力を削っていく。その間、部隊はずっと敵の攻撃圏外に留まることはせず
  に敵に接近していく。そして、前衛の第2艦隊が敵にとどめを刺す。うまくいけば敵を殲滅する
  ことも不可能ではない。
   だが、アウトレンジ戦法を成功させるには搭乗員の練度が高くなければならなかった。彼我の
  距離が長ければ長いほど目標に到着するまでの搭乗員の疲労は蓄積されていく。また、到着する
  まで編隊についていくのも一苦労だ。練度が低いと編隊を見失って迷子になる可能性もある。
   では、小沢機動部隊の搭乗員の練度はどうだったのか。1942年10月の南太平洋海戦で日
  本機動部隊は100機の航空機を失って事実上の攻撃力を喪失した。当時の第3艦隊司令長官は
  南雲忠一中将で、小沢中将はその直後に司令長官に任命されている。新長官に就任した小沢が最
  初にしなければならない仕事は搭乗員の育成であった。
   日本の航空隊は陸軍航空隊と海軍航空隊の2つがあり、海軍航空隊は基地航空隊と母艦航空隊
  に分かれる。陸軍航空隊よりも海軍の基地航空隊の方が搭乗員の育成に時間がかかる。同じ地上
  から発着する航空隊でも基地航空隊は洋上での航法を覚えなければならないからだ。さらに、母
  艦航空隊は空母への着艦も訓練しなければならないからもっと時間がかかる。平時なら一人前に
  なるのに1年はかかる。
   だが、小沢機動部隊に十分な訓練期間が与えられることはなかった。ラバウルへの度重なる航
  空機の転出命令で機動部隊はろくな搭乗員の育成ができなかった。さらに、1944年5月にイ
  ンドネシアのタウイタウイに移動した機動部隊は米潜水艦の跳梁で訓練がまったくできない状況
  に陥った。唯一、救いなのが航空機が先の海戦のものよりパワーアップしていることであった。
  特に戦闘機以外は米軍機よりも性能が上だった。
 
 
   この第1機動艦隊と共に決戦の主戦力として期待された部隊がある。1943年7月に編成さ
  れた第1航空艦隊である。同名の空母機動部隊とは違い、この部隊は基地航空隊である。日本海
  軍の基地航空隊は例えば南東方面(ソロモン・ニューギニア方面)の第11航空艦隊のように決
  められた地域に固定して配置されていた。11航艦はまだ主戦場に配置されていたから良かった
  が、43年9月1日に編成された第12航空艦隊は北東方面(北海道・千島方面)に配置されて
  いるため、緊迫した戦局にはほとんど寄与することができない。仮に、主戦場が北東方面に移っ
  たとしても今度は11航艦が役に立たない事になってしまう。
   新編された1航艦は基地に固定されることなく状況に応じて戦地に赴く機動基地航空隊である。
  その司令長官には角田覚治中将が就任した。角田中将は砲術の専門で航空作戦に関しては素人で
  あったが、持ち前の闘争心で開戦以来空母部隊を指揮してきた闘将である。南太平洋海戦では空
  母隼鷹を指揮して米空母ホーネットにとどめを刺した。
   その直後に中将に昇進した角田は43年7月1日に1航艦の司令長官に任命されたのだが、彼
  が司令部のある千葉県の香取に到着したのは12月1日であった。香取の基地は滑走路がイモと
  南京豆の畑に囲まれた田舎の村にあった。
   さて、1航艦の戦力は書面上はかなりの大部隊となっていたが、その大半は訓練途上の搭乗員
  ばかりでまともな作戦には使えなかった。小沢の空母機動部隊と同様、角田の基地航空隊も搭乗
  員の練成から始めなければならなかった。大本営は訓練が終了するまで1航艦を直属させること
  にした。連合艦隊に編入すると作戦に投入され消耗を余儀なくされるからだ。
   だが、44年2月17日に連合艦隊の前線根拠地であるトラック島が米機動部隊の空襲で壊滅
  すると危機感を強めた大本営は15日に1航艦を連合艦隊に編入した。まだ訓練が完了していな
  い1航艦はマリアナ諸島に展開して22日に米機動部隊と対決した。結果は93機中90機を撃
  墜され戦果は皆無という惨敗に終わった。部隊がマリアナに到着したのは前日だからわずか2日
  で全滅したことになる。さすがの角田も呆然となった。闘将である彼は空母の指揮には適してい
  たが長期の消耗戦を強いられる基地航空隊の指揮には向いていなかったのである。
   そこへさらなる追い打ちがあった。3月31日に古賀連合艦隊司令長官が遭難したのである。
  連合艦隊の指揮は古賀長官の次席である高須四郎南西方面艦隊司令長官が代行することになった
  のだが、高須は地方部隊の指揮官で中央の作戦に全く関与していなかった。ここで高須に勝手に
  やらされてしまったらせっかくの準備が水の泡になるかもしれない。軍令部は高須に部隊を勝手
  に動かさないよう説得した。だが、高須はそれを聞き入れなかった。海軍の作戦を統括する軍令
  部の意向を実戦部隊に過ぎない連合艦隊司令長官(代理)が無視する。アメリカでは考えられな
  いことである。だが、日本では真珠湾以来、軍令部と連合艦隊司令部は対等になってしまい、連
  合艦隊司令部が軍令部の作戦を拒否して自分たちの作戦を押し通そうとした事さえあった。それ
  が、ミッドウェー海戦の惨敗につながったのである。
   米軍がニューギニアのホーランジアに上陸すると高須は角田に攻撃を命じた。角田はこれに抗
  議したが命令が取り消されることはなかった。そして、1航艦はまたもや大損害を被ってしまう。
   この混乱は5月3日に豊田副武大将が後任の連合艦隊司令長官に就任するまで続いた。
 
 


  【マリアナ来襲】
   1944年6月6日、レイモンド・スプルーアンス大将率いる米第5艦隊はマーシャル諸島の
  メジュロ環礁を出撃した。目指すはマリアナ諸島。マリアナは東京への重要な足掛かりになると
  同時にボーイングB−29スーパーフォートレス戦略爆撃機の基地にもなる戦略上の要衝である。
   この「フォレジャー(略奪者)」と名付けられたマリアナ攻略作戦に参加する戦力は海兵隊と
  陸軍の上陸部隊を輸送する揚陸・輸送艦艇200隻とそれを護衛する旧式戦艦10隻、巡洋艦11
  隻、護衛空母12隻、艦載機300機、護衛駆逐艦75隻にマーク・A・ミッチャー中将の高速
  機動部隊、そして潜水艦26隻である。
   日本軍は9日に偵察機がメジュロ環礁を偵察し、港が空っぽだったため米艦隊の出撃に気づい
  たが、彼等はこの敵艦隊がマリアナに向かうとは思わなかった。先月の27日に米軍がビアク島
  に上陸したこともあり、日本軍は米軍の進攻路を自分たちが想定した三角地帯であると確信して
  いたからだ。
   そのため、11日にマリアナの各島が空襲を受けてもそれが攻略を企図しての行動なのか、そ
  れともただの空襲で終わらせるのかと判断がつきかねていた。13日に米艦隊がサイパン島への
  艦砲射撃を開始して沿岸の掃海をし始めるとようやく敵の真意に気づいたのだが、その時点で第
  1航空艦隊はすでに壊滅的打撃を被っていた。海軍の決戦構想は緒戦で早くも瓦解してしまった
  のである。
   13日に「あ号」作戦の決戦用意が発令されるとタウイタウイ泊地に待機していた第1機動艦
  隊はフィリピンのギマラスに燃料を補給しにいって17日の早朝に出撃した。米軍は15日に上
  陸を開始し、16日の夕刻に決戦発動の命令が下された。あわだたしい出撃のため機動部隊は十
  分に燃料を補給することができず、米潜水艦をまくための艦隊行動ができなかった。機動部隊は
  終始、米潜水艦に監視されていたのである。
 
 
 
 
    【決戦】
   第1機動艦隊は18日の午後、サイパンの南西500浬の地点から索敵を開始し、同島から西
  100浬にいる米機動部隊を発見した。前衛の第3航空戦隊は攻撃命令が下るものと思い、攻撃
  隊を発進させたが帰還が夜になることから小沢司令長官は攻撃を見合わせた。すでに発進した攻
  撃隊は呼び戻された。
   翌日、早朝の3時30分から索敵を開始した機動部隊は6時34分、サイパンの西方160浬
  の地点で敵機動部隊を発見した。まだ、味方は敵に発見されていない。小沢司令は攻撃隊の発進
  を命じた。
   一番最初に攻撃隊を発進させたのは3航戦だった。7時25分、中本道次郎大尉指揮の零戦17
  機、戦爆43機、天山7機が発進、続いて第1航空戦隊から垂井明少佐指揮の零戦48機、天山
  29機、彗星53機が45分に出撃した。その直後の8時10分、旗艦の空母大鳳が米潜水艦ア
  ルバコアに雷撃され魚雷1本が命中したが、重装甲空母である大鳳は航行に支障を来すことが無
  く皆を安堵させた。最後に2航戦から石見丈三少佐が指揮する零戦17機、天山7機、戦爆25
  機が9時に発進した。その前の8時45分と9時に索敵機が別の機動部隊を発見したと報告して
  いた。小沢は2航戦の第1次攻撃隊を9時に発見した敵に向かわせ、その前に発見した敵には第
  2次攻撃隊を向かわせることにした。
   第2次攻撃隊は10時15分から発進した。まず、2航戦から宮内安則大尉指揮の零戦20機、
  99式艦爆27機、天山3機が発進、20分に1航戦から千馬良人大尉指揮の戦爆10機、天山
  4機、彗星1機が、最後に2航戦から阿部善次大尉が指揮する零戦6機、彗星9機が30分に発
  進した。攻撃隊発進の報告を受けた連合艦隊司令部や軍令部では祝杯を挙げる用意をしたという。
 
 
   ここで日本海軍の航空機を解説する。前回の南太平洋海戦の頃から1年ほどの間に日本海軍の
  航空機はすべて新しくなっているか改造されパワーアップしていた。艦上戦闘機は零戦21型か
  ら52型に、艦上攻撃機は97式艦攻から天山に、艦上爆撃機は99式艦爆から彗星に変更され
  ている。だが、新型機の不足と小型の空母では彗星の運用が困難なため(ていうか、艦爆の運用
  そのものが無理だったようだ。米軍のインディペンデンス級軽空母と護衛空母も艦爆を搭載して
  いない)旧式機もこの海戦に参加していた。ちなみに、戦爆とあるのは戦闘爆撃機の事で零戦21
  型に爆弾を搭載して艦爆の代役をさせようというものである。
 
 
   さて、満を持して出撃した攻撃隊だったが、実は後に報告された敵艦隊は最初に見つけた部隊
  との重複であり、訓練不足の航法員が位置を間違え報告していたのだ。基地航空隊の2式艦偵と
  前衛の水偵がミスを知らせてきたが小沢は取り合わなかった。
   敵のレーダーに探知されにくくするため低空を飛行していた搭乗員達は長距離の飛行で疲労を
  蓄積させていった。
   9時30分、3航戦の第1次攻撃隊が敵と接触した。米機動部隊はサイパン島への上陸支援に
  専念するため積極的に行動するのを避け、迎撃のみに集中することにしていた。攻撃隊は470
  機ものグラマンF6Fヘルキャット艦戦の迎撃を受け、片っ端から撃ち落とされていった。なん
  とか敵艦隊の上空に到着した機体も近くにいただけで爆発するVT信管が内蔵されている5イン
  チ両用砲の対空放火で撃墜されていった。戦果は戦艦サウスダコタに命中弾1発、重巡ミネアポ
  リスに至近弾1発で、母艦に帰還したのは零戦9機、天山5機、戦爆12機であった。
   続いて1航戦の第1次攻撃隊が10時53分に敵艦隊を発見したが、こちらもF6Fと対空放
  火で大損害を被った。100機ほどが撃墜され戦果は空母ワスプとバンカーヒルに至近弾1発、
  戦艦インディアナに体当たり1機のみであった。間違った方向に向かった攻撃隊は当然敵を発見
  できず、遭遇した敵戦闘機に撃墜されるか海上や地上に不時着した。一部、敵艦隊に到着した部
  隊もあったが、戦果を挙げることはできなかった。
   この戦いで日本軍は200機以上の艦載機を喪失した。対する米軍の被害は30機程度であっ
  た。米軍はこの戦いを「マリアナの七面鳥撃ち」と評した。
 
 
   日本軍の災厄は艦隊にも降りかかっていた。大鳳に続いて空母翔鶴が11時20分に米潜カヴァ
  ラの雷撃を受けたのである。魚雷3本が命中した翔鶴は14時01分に沈没した。その31分後、
  大鳳が突如爆発を起こして炎上した。先の雷撃で航空機用のガソリンタンクが破損してガソリン
  が気化して艦内に充満していた。それが何らかの原因で引火したのだ。大鳳は16時28分に沈
  没した。小沢中将は旗艦を駆逐艦若月次いで重巡羽黒に移した後、態勢を立て直すため一旦西に
  退却した。
 
 
   翌日、機動部隊は早朝から索敵機を飛ばして敵艦隊を捜索した。一方、米軍も前日の戦闘で日
  本軍の航空戦力を殲滅したと判断したスプルーアンス提督が高速機動部隊に日本艦隊の捜索と撃
  滅を命じた。上陸支援に束縛されていた機動部隊は勇躍して西に向かった。
   先に敵を発見したのは米軍であった。14時40分、小沢部隊を発見した米機動部隊は16時
  過ぎにF6F艦戦85機、カーチスSB2Cヘルダイバー艦爆77機、グラマンTBF雷撃機5
  4機を発進させた。目標との距離は米軍機の航続距離ではぎりぎりであったが、ミッチャー中将
  はあえて発進を強行した。
   一方、正午頃に旗艦を空母瑞鶴に移した第1機動艦隊も16時15分に敵を発見した。薄暮雷
  撃を敢行するため小野賢次大尉が指揮する天山8機(前路索敵機1機含む)、彗星2機(前路索
  敵機)が17時25分に発進したが、敵を発見することなく全機未帰還となった。
   17時30分、米軍の攻撃隊が小沢部隊を捕捉した。直掩の零戦44機が迎撃したが戦闘機だ
  けで倍近くいる米軍機を阻止するのは不可能であった。それでも敢闘してF6F6機、SB2C
  10機、TBF4機を撃墜(対空放火によるものもあっただろう)したが、自分たちも25機を
  撃墜され艦隊も空母飛鷹と随伴のタンカー2隻が沈没し、空母瑞鶴・隼鷹・龍鳳・千代田、戦艦
  榛名、重巡摩耶が損傷した。米軍機は20機を失っただけだが、帰還が夜になったため着艦に失
  敗する機が続出して80機を喪失した。
   大損害を被った第1機動艦隊だったが、小沢は諦めることはしなかった。残存機は零戦21機、
  戦爆9機、99式艦爆9機、彗星6機、97式艦攻7機、天山9機だけであったが、小沢は前衛
  の栗田第2艦隊司令長官に夜戦準備を命じ、自らも残存空母を率いて東に向かった。だが、連合
  艦隊司令部の中止命令で小沢は艦隊を反転させた。21日、第1機動艦隊は沖縄の中城湾に帰還
  した。
 
 
   この海戦で日本軍は空母3隻と378機の艦載機を喪失した。対する米軍の損害は艦載機13
  0機だけである。日本が必勝を期した決戦は米軍のワンサイドゲームに終わるという無様な結果
  となった。
   海軍の敗北でマリアナの失陥は決定的となった。7月、サイパンやテニアンが陥落し、そこを
  基地とするB−29によって日本本土は焦土と化していくのであった。
 



 
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