旺盛な攻撃精神がもたらした敗北と奇跡
第一次マルヌ会戦

 
【世界大戦の勃発】
 
【シュリーフェンプランと第17号計画】
 
【危機と勝利】
 
【理想の死】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
【世界大戦の勃発】                                  
 ドイツを統一に導いたかの鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクは、バルカン半島で起きた事件が戦
争の引き金になると予言した。その予言どおり1914年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナの首都
サラエボで轟いた銃声が欧州はおろか世界をも巻き込む空前の大戦争の引き金となったのである。   
 1866年の七週間戦争の敗北でドイツの盟主たる地位をプロイセンに奪われ、統一ドイツからしめだ
されたオーストリア帝国は古すぎてガタがきていた帝国を維持するためマジャール人に自治権を与えてオ
ーストリア・ハンガリー帝国と国名を改めた。しかし、ドイツ人とマジャール人を合わせても総人口の半
数にも満たない状態で、クロアチア人とポーランド人の協力を得ることで過半数を獲得している有様だっ
た。それでも被支配民族の要求が自治と権利で帝国からの独立を望んだものでなかったのは、帝国主義が
蔓延している世界情勢でドイツ・イタリア・ロシアの大国に挟まれた地域で小国が生き残れる可能性が小
さいことを知っていたからだ。                                 
 そのオーストリアがバルカン半島への進出を図った結果、同じく同地に進出を企むロシア帝国と対立が
生じた。オーストリアからしたら北はドイツ、西はイタリア、東はロシアと接していて南のバルカン半島
にしか勢力を拡大できる地域が無いのと同じように、ロシアも日露戦争での敗北で極東での勢力拡大が頓
挫した状況では再びバルカン半島に目を向けるしかなく、両者の対立は深刻化し1908年にオーストリ
アがオスマン=トルコからボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことで完全な敵対関係となった。ロシア
はボスニアはセルビアが併合すべきと考えるセルビア民族主義者を支持し、その結果、オーストリア国籍
のセルビア人青年によるオーストリア皇位継承者(結婚にまつわる複雑な経緯があり皇太子とはよばれな
かった)フランツ・フェルディナント・カール・ルートヴィヒ・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロー
トリンゲン大公と妻のゾフィー(結婚を猛反対された身のため大公妃の称号ではなくホーエンベルク公爵
夫人の称号が与えられた)射殺事件が起きたのである。                      
 皇位継承者を殺されて激怒したオーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけてそれを拒否されるや事
件から1ヵ月後の7月28日に同国に宣戦を布告した。実はセルビアは要求のほとんどを受け入れる回答
をしていたのだが、オーストリアはすべての要求の受諾を迫った。最初からこれを口実に戦争を仕掛ける
つもりだったのだ。これに対し戦争は不可避と判断したセルビアは後ろ盾となっていたロシアが支援を約
束したことでオーストリアの要求を拒絶した。                          
 オーストリアがロシアが背後にいるセルビアに対して強硬な手段に出たのは同盟国のドイツが支援を約
束していたからだ。しかし、この時点ではまだ問題は外交で解決できるものと楽観視されていた。だが、
当時の軍隊は動員を開始したら途中で止める方法を考えていなかったのだ。それが相互の不信を生み、ド
イツが8月2日にロシア、翌日にロシアの同盟国で30年来の宿敵であるフランスに宣戦を布告してオー
ストリア・セルビア戦争は世界大戦へと発展した。                        
 
 
 
 
 
 

 
【シュリーフェンプランと第17号計画】                         
 きっかけはオーストリアとセルビアの戦争だったが、ドイツとフランスはそのはるか以前から互いを仮
想敵国として戦争計画を練り続けていた。普仏戦争(1870〜1871)の敗北でフランスは多大な賠
償金とアルザス=ロレーヌの割譲をドイツ(当時はプロイセン)に強いられた。しかも、自国内のベルサ
イユでドイツ皇帝の戴冠式をされるという屈辱もついた。フランスはドイツへの雪辱を誓うが、当時のフ
ランスはドイツ宰相ビスマルクの外交手腕によって国際的に孤立している状態で、ロシア(三帝同盟18
73年、独露再保障条約1887年)、オーストリア・ハンガリー(三帝同盟、独墺同盟1879年、三
国同盟1882年)、イタリア(三国同盟)と結んでいるドイツには迂闊に手を出せない状況に追い込ま
れていた。ドイツは他にもイギリスやスペインなどとも友好関係を保っており、この所謂ビスマルク体制
によって列強間の戦争は発生せず、欧州は平和を享受することが出来た。              
 だが、1890年にビスマルクが引退してヴィルヘルム2世が親政を開始すると、今度は逆にドイツが
外交的に包囲される事態に陥った。まず、皇帝の親政が開始された同じ年の1890年に独露再保障条約
が延期されずロシアとの協調関係が崩れた。新たな同盟相手を探すロシアはフランスに接近して、189
4年に露仏同盟を締結した。この同盟の成立により、ドイツは東西に二正面作戦を余儀なくされ以後の戦
略に暗い影を落とすことになる。さらに、ヴィルヘルム2世の積極的な海外進出政策と海軍軍備の増強は
イギリスとの関係をも悪化させて、同国を露仏同盟に接近させることになってしまった。そして、190
4年の英仏協商、1907年の英露協商の成立で、20世紀初頭の欧州はイギリス・フランス・ロシアの
三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に二分されたのである。           
 
 
欧州列強の同盟・敵対関係の変遷
      
オーストリア継承戦争            七年戦争            ナポレオン戦争
 
  
   普仏戦争後           三国同盟と三国協商
赤線は敵対関係、青線は同盟・協調関係
 
 
 普仏戦争でのプロイセン=ドイツの勝利はドイツが対フランス戦に戦力を集中できたことと、フランス
の戦争準備が整っていなかったのが要因だった。しかしながら、露仏同盟の成立でドイツは背後にも戦力
を振り向けなければならなくなり、必然的に対フランスに使用できる戦力は限定されたものとなった。し
かも、フランスは対ドイツ戦に備えた軍備計画を立てており、普仏戦争のような圧勝は得られにくい状況
になっていた。                                        
 こうした状況で作成されたのがドイツ陸軍参謀総長シュリーフェンが立案した『シュリーフェン・プラ
ン』である。シュリーフェンは伝統的に動員が遅いロシアの準備が整う前にフランスを撃破することで勝
機を見出そうとした。そのために全兵力の1/8をロシアに振り向けて、残りの7/8をフランスに集中
させておよそ6週間でフランスを倒すのがシュリーフェンの基本構想だが、問題はフランスを如何にして
短期間で敗北に追い込むかである。フランス国境は要塞化されている。日露戦争の旅順などの例を見るま
でも無く、要塞への正面攻撃はいたずらに兵を強制的に昇天させるだけだ。ならば迂回して要塞の背後に
回ればいい。フランスはドイツとの国境は防備を固めていたが、ベルギーとの国境には政治的理由もあっ
て防備が薄かった。第2次ポエニ戦争のカンネーの戦い(前216年)を研究していたシュリーフェンは
中立のベルギーを通過して、防備が薄いベルギー・フランス国境を突破してフランス軍を一挙に包囲殲滅
することで短期決戦を成功させようと考えたのだ。もっとも、カンネーではカルタゴ軍は両翼包囲でロー
マ軍を殲滅したが、ドイツ軍の場合右翼のベルギーは迂回しやすいが左翼のスイスは山国のため迂回には
適さないので右翼からの片翼包囲となった。このことはシュリーフェンプランにも大きな影響を与えた。
 当初の計画では右翼の迂回は小規模な戦術レベルのものだった。1904〜5年の開進計画では23個
軍団と予備師団15個で編成される7個の軍をバーゼル(独仏瑞3国の国境に接する)からアーヘン(白
蘭国境に近接)までの間に展開して、7個軍団と6個予備師団から成る迂回部隊でもってルクセンブルク
とベルギー南端をかすめて、ヴェルダン地域のフランス軍を包囲することが主眼であった。しかし、19
06〜7年の計画ではベルギーを通過して戦略的にフランス軍を包囲するという大規模なものに修正され
ていた。今日、シュリーフェン・プランと呼ばれる作戦計画はだいたいこれによるものだ。先述したよう
にドイツが置かれていた地理的制約でカンネーのような両翼包囲は不可能で、メッツ(フランス語読みで
メス)より北側に25個軍団を配置して、ベルギーとルクセンブルクから大きく回りこんでフランス軍の
大半を包囲しようというのだ。シュリーフェンはフランス軍が独仏国境で攻勢に出ても、それは自軍にと
ってプラスになると考えていた。リデル・ハートが表現したようにまるで回転ドアのように独仏両軍が動
いて、フランス軍がドイツ軍の懐に引き込まれることになるからだ。かつて、普仏戦争でナポレオン3世
のフランス軍をセダンで包囲して降伏に追い込んだのと同じ手口である。そのため、この計画は作戦上の
『超セダン』とも呼ばれることがる。                              
 だが、このプランには大きな問題があった。シュリーフェンの計画ではドイツ軍の最右翼は英仏海峡を
かすめて通過して、エッフェル塔を左に見て旋回することになっている。つまり、パリごとフランス軍主
力を包囲してしまおうということなのだ。問題はこの壮大な計画を実現させるだけの兵力がドイツ軍に無
いことだ。現役の他に予備役までも前線に投入してもなお足りないのである、シュリーフェンは生涯をか
けて計画を練り直したが、その結果オランダ侵攻あで考慮するぐらいにまで迂回の規模は大きくなってい
た。当然、ドイツ軍右翼は前以上の兵力を必要とするが兵力的余裕はもう無い。他にも中立国のベルギー
を侵攻する道義的な問題や右翼への補給の問題など、シュリーフェンの計画は問題が山積だった。そもそ
も、シュリーフェン(というよりもドイツ軍全体)は補給を軽視しがちな人だったが、戦争が短期間で終
了すれば中立国侵犯や補給の問題は無視しても良いと考えたのだろう。ベルギー侵攻でイギリスに参戦の
口実を与えることや、ロシア軍の実際の動員速度がどのくらいなのか、兵士たちの疲労はどのくらいにな
るとかは全く考慮されていなかった。シュリーフェンは1913年に亡くなるまでプランを練り直し続け
たが、結局完成した形でのプランが作り出されることはなかった。彼の最期の言葉は「右翼を強化せよ」
だったという。                                        
 
 
 一方のフランス軍は普仏戦争の雪辱を何とか晴らしたいとは思っていたが、現実はなかなか厳しかった
ようだ。総人口でドイツに劣っていたのである。徴兵制が当たり前の時代にこれは由々しき問題だ。そこ
で、フランス軍は徴兵期間を2年から3年に延長したが、それでもドイツ軍に劣勢でしかも現役を延ばし
たしわ寄せが予備役にいってしまって戦時の戦力増強に問題を残した。               
 兵力で上回るドイツ軍にどう打ち勝つか。フランス軍はその答えを精神主義に見出そうとした。フラン
ス軍はベルグソン哲学の影響を受けており、アンリ・ベルグソンの説くエラン・ヴィタールの精神に感化
されてしまっていた。極端な攻撃主義に陥ってしまったのだ。その根拠はフランス人特有のゴール人気質
は攻撃に適しており、ドイツ人よりも兵士として資質に先天的に優れているからだそうだが、フランス軍
は本気で積極的に攻勢に出ることで勝機をつかめると信じていたのである。例えば、陸軍大学校長のフェ
ルディナン・フォッシュは「征服の意志こそ勝利の第一条件」と説き、参謀本部第三局のグラメゾン大佐
は「死を賭しての攻撃」を主張した。どことなく日本陸軍を思わせるが、それもそのはずそもそも日本の
陸軍はフランス陸軍を手本として発足した組織で、その後ドイツ式に改められてもフランス式の影響は色
濃く残っていたのである。                                   
 このように精神主義に傾倒したフランス軍は1913年の作戦要務令で「今後は攻撃以外の法則を排す
る」と宣言するくらいになるまで極端な攻撃主義の軍隊となってしまった。その一方で日露戦争やバルカ
ン戦争での教訓であった機関銃などの新兵器やカムフラージュの重要性は無視された。また、攻撃重視の
思想は日露戦争で活躍した野戦重砲を重くて移動がしにくいという理由で敬遠し、生まれたばかりの航空
機に兵器としての価値を認めなかった(それでも航空機先進国であったため航空隊は保有していた)。カ
ムフラージュの問題にしても陸軍大臣のメッシミが青の上着に赤ズボンという軍服を灰色がかった青に変
えようとすると、陸軍はこれに猛反発して撤回させた。胸甲騎兵はいまだにナポレオン時代みたいな派手
な服装とピカピカな胸当てを身につけていた。                          
 では、フランス軍は対ドイツ戦略をどのように練っていたのか。普仏戦争後は防御戦略を採っていたフ
ランス軍は20世紀になって国力が回復してくると精神主義・攻撃主義が作戦計画に暗い影を落とす。1
914年2月採用の『第17号計画』はフランス軍はアルザス・ロレーヌ奪還とドイツ中心部への進撃を
目指すものとされた。この計画では21個軍団を5個軍に編成してベルギーからスイスまで配置し、第1
・2軍はロレーヌ方面へ、第3・4軍はメッツへ進軍する予定になっていた。ドイツ軍がベルギーに侵攻
したときは第5軍がこれを撃退する予定だった。この軍の最左翼つまりドイツ軍から見たら右翼に配備さ
れていたのは、騎兵3個師団のみでベルギー方面は事実上がら空きの状態だった。フランス最高軍事会議
(戦時は参謀本部)GQG副議長のミシェル将軍はベルギー防衛を考慮したプランを提出しているが、採
用されること無く将軍はその地位を逐われている。まあ、こうした事例は他にもあり、1944年12月
にドイツ軍の大規模な攻勢があると報告したアメリカ軍の情報将校ベンジャミン・ディクソン大佐は「過
労のせいで分析が悲観的になっている」という理由で4日間の休暇を与えられている。彼の分析が正しか
ったことは、それからわずか2日後に証明されている。                      
 フランス軍はGQG第二局などの働きでシュリーフェン・プランの情報を入手していた。ドイツ軍は予
備役を投入して右翼を強化してベルギーからフランスに侵攻すると正確に警告もされていたが、首脳部は
ドイツ軍の兵力ではベルギーを通過してフランスに侵入した場合戦力密度が大幅に低下して、かえって自
分達の攻勢にプラスになるはずだとしてその警告を無視した。ドイツ軍は予備役まで投入して右翼の強化
を図ったが、それはフランス軍首脳部にとっては考えられないことだった。なぜなら、彼らの予備役に対
する評価は「予備役? 奴らはゼロだ」というぐらい低かったからだ。こうして、フランス軍は知らず知
らずのうちに敵国の戦略を助けてしまうような作戦計画を立ててしまったのだ。           
 
 
 
 
 
 

 
【危機と勝利】                                     
 1914年8月4日、ドイツ軍は予定通りベルギーに侵攻を開始した。リエージュ要塞攻略でてこずっ
たものの、弱体なベルギーの抵抗をものともせず一路パリを目指した。このドイツのベルギー侵攻を口実
にして同日、イギリスが連合国側として参戦した。これにより、オーストリア・セルビア間の戦争が世界
大戦に拡大することが確実となった。                              
 ドイツ軍がベルギーに侵入すると、フランス軍はかねての計画どおり作戦行動を開始した。8月7日に
フランス軍最右翼の第7軍団がミュールーズへ進撃したことで、国境会戦と呼ばれる一連の戦闘が発生し
た。独仏両軍はロレーヌ・アルデンヌ・シャルルロワで激突し、そのいずれもフランス軍は大敗して4日
間で14万人もの損害を出した。原因はフランス軍が中隊ごとに指揮官が先頭に立って縦隊突撃を敢行し
た事にあった。機関銃が存在している戦場にこの行為は集団自殺でしかなかった。しかし、その事は軍当
局によって厳重に隠蔽され外部には知らされなかった。                      
 ドイツ軍の当初の予定ではロレーヌ付近では防御に徹して、フランス軍の攻勢を阻止したら兵力を右翼
にシフトさせるはずだった。だが、目の前のフランス軍が敗退するのを見てドイツ軍は二重包囲の誘惑に
駆られてしまう。しかし、そこで反撃に転じれば右翼を強化することは出来なくなってしまう。結局、前
線から攻撃許可を求められた参謀本部OHLはそれを許可し第6・7軍は反撃に転じた。ドイツ軍は北の
ベルギー方面から南のアルザス方面まで第1軍から第7軍までを順に配置しており、左翼の第6・7軍が
進攻を開始したら右翼の主力と連動してフランス軍を二重包囲することも可能と考えたのだろう。一方の
フランス軍は逆に南から順に第1軍から第7軍と第2軍と第3軍の間にロレーヌ軍の8個軍を配置してい
た。ドイツ軍の反撃を知ったGQGは第3・4・5軍の3個軍でもってアルデンヌ方面での攻勢を企画し
た。GQGはドイツ軍の主力はロレーヌであってアルデンヌは手薄と判断したのだ。         
 だが、実際にドイツ軍主力が展開していたのはアルデンヌだった。両軍は霧と森で視界を遮られ各所で
いきなり遭遇戦を展開した。戦闘はドイツ兵が密集していたところにフランス軍が砲撃を加え、何千人も
のドイツ兵が倒れずに折り重なって立ったまま絶命したといわれるぐらい凄惨なものだったが、8月23
日にはアルデンヌの戦いはフランス軍の敗北に終わった。しかし、未だドイツ軍主力が北にあることを信
じないGQGは、第5軍にドイツ北部軍(つまりはドイツ軍主力の2個軍)を攻撃させようとした。さら
に、GQGはようやく海を渡ってやってきたイギリス海外派遣軍BEFにモンス運河を越えて攻撃に参加
するよう要請した。                                      
 ドイツ軍とBEFは8月23日にモンスで衝突した。2個軍団からなるドイツ第1軍に対し、BEFは
歩兵4個と騎兵1個師団という劣勢だった。しかし、兵士の質ではBEFが上回っていた。イギリス陸軍
は志願制の軍隊で、徴兵制の他の陸軍よりも兵士の練度が高かったのだ。特にボルトアクション小銃で1
分間に15発も撃てるという名人芸を誇っていた。密集隊形で運河の橋を突破しようとするドイツ軍は彼
らの格好の的となった。無論、BEFの損害も大きかったが彼らは1日の間ドイツ軍の進撃を阻止するこ
とに成功した。これが、「聖ジョージが率いる天使の弓兵が矢を射掛けた」とか「天使のバリアが連合軍
を守った」とかといった『モンスの天使』事件を生み出し、イギリスに一大センセーションを巻き起こす
ことになる。                                         
 モンスでのBEFの奮戦も空しく24日にはフランス軍左翼は総崩れとなり、100万のドイツ軍主力
がベルギーからフランスに流れ込んだ。もはや第17号計画は潰え去り、フランス陸軍総司令官ジョゼフ
・ジョフル将軍も敗退を認めるしかなかった。しかし、将軍は敗退は作戦計画ではなく、兵士の敢闘精神
の不足にあると見なしていた。GQGは戦況が落ち着いたロレーヌから部隊を抽出して新たに第6軍を編
成して、これと第4軍と第5軍そしてBEFでもって9月2日に攻勢に出ることにした。奇しくもその日
は、シュリーフェン・プランでドイツ軍がパリに到着する予定日となっていた。           
 フランス軍左翼を崩壊させたドイツ軍右翼は進撃を続けたが、その速度に補給が追いつかなくなってい
た。とりあえずドイツ軍は現地調達で賄うことにしたが、武器弾薬の類はやはり後方からの補給でなけれ
ばならない。さらに、ドイツ軍は広いところで部隊間の距離が30キロも開いており、そこを突破される
と包囲される危険があった。ドイツ第1軍と第2軍の司令官はこの危険を認識し、第2軍のカール・フォ
ン・ビューロー将軍は第1軍のアレクサンダー・ハインリヒ・ルドルフ・フォン・クルック将軍に自軍よ
りに旋回(つまりは内側)するよう要請した。しかし、シュリーフェン・プランでは第1軍はセーヌ川を
越えてエッフェル塔を左に見て旋回することになっていたが、この時点で旋回すればエッフェル塔を右に
見て旋回することになる。つまり、パリごとフランス野戦軍を包囲するシュリーフェン・プランが成立し
ないのだ。かといってドイツ軍には右翼に増援を派遣して部隊間の隙間を埋める兵力的余裕はなかった。
アントワープのベルギー軍にも対処しなければならないし、英露軍がベルギーに上陸したという噂もあっ
てベルギーにも兵を割かなければならない。ロレーヌ方面は反撃中で兵の抽出はできない。その上、東部
戦線からは戦線崩壊の危機が伝えられてきた。参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モ
ルトケは2個軍団を抽出して東部戦線に派遣する決断を下し、第1軍の内側旋回を許可した。そして、8
月30日、第1軍は予定よりかなり早く旋回した。直接的動機は目前のフランス軍が敗走するのをみて追
撃包囲しようとしたからだが、この瞬間シュリーフェン・プランは事実上消滅した。         
 しかし、依然として戦況はドイツ軍が優勢だった。フランス第5・6軍とBEFによるソンム川での阻
止作戦も失敗して首都パリも危うい状況になってきた。ちょうど、普仏戦争でフランスが敗北したのもこ
の時期で、政府はパリからの疎開の準備を始めた。パリ防衛軍のガリエニ司令官も口やかましい政府を追
い出すため退去を勧めた。元々、当時の第3共和制では政府が軍に介入する権限を法律上は持ち合わせて
いなかったが、軍は口先だけの介入も嫌った。戦況報告も満足にしなかったようで、当然のように両者の
関係は良好とはいえなかった。                                 
 パリ防衛の指揮を執るガリエニはそのための戦力としてGQGに1個軍を要請した。GQGのジョッフ
ルはかつてのガリエニの部下で、その要請にこたえてパリにロレーヌから転出した1個師団とモロッコ師
団そして4個の予備師団から成る1個軍を配備することにした。戦前はゼロ評価だった予備師団もこれま
での戦いで意外に有用だというのが判明していた。これに加えて、ガリエニはアルジェリアの精鋭第45
師団と戦力を回復している途中の1個軍団を強引に自分の指揮下に組み込んだ。それにプラス第6軍も加
わることになったため、ガリエニは2個軍から成る戦力を手にすることが出来た。クルックが敗走中と見
たフランス軍はパリに向かう増援部隊だったのだ。さらに、フランス軍はドイツ軍の予定進路を記した書
類を入手する僥倖に恵まれている。9月3日には航空機がパリ北方をマルヌ川に向け行軍中のドイツ軍を
発見するという決定的な出来事が起こっている。これまた、戦前はスポーツと馬鹿にされた飛行機がその
有用性を証明した瞬間だった。                                 
 クルックのドイツ第1軍が側面をさらけ出していると知ったガリエニは、GQGに今こそ攻勢に打って
出るべきと攻撃発動を要求した。元々、時が来れば反撃に出るつもりだったジョッフルもそのつもりだっ
たが、その前に彼は第5軍の司令官を解任して後任にフランシュ・デスプレイ将軍を任命した。前任者の
ランルザック将軍はこれまでの戦いでGQGへの信頼と攻撃精神を失っていたため更迭された。新任のデ
スプレイの第一声は「文句は許さない、前進しろ」だったという。                 
 ジョッフルは準備を万端整えてから反撃に出るつもりだったが、ガリエニに押し切られる形で即時の攻
撃開始を決意した。GQGは第5軍とパリ防衛軍がドイツ第1・2軍を攻撃して、BEFがそれを支援す
るという作戦計画をまとめ上げた。                               
 一方のドイツ軍は勝利までもう少しという気分に浸っていた。先を急ぐクルックの第1軍は疲労困憊で
側面の防御も満足にしていない状況だったが、クルックはフランス軍が敗走中であれば問題ないと判断し
た(先述したように誤認である)。モルトケは捕虜があまりにも少ないことからフランス軍の後退は敗走
ではないと正確に判断していたが、軍を停止させるようにという彼の命令はなかなかクルックには届かな
かった。クルックは独断でマルヌ川を越えることにして、結果第2軍との距離が離れることとなった。業
を煮やしたモルトケは通信参謀のヘンチュ大佐をクルックの司令部に派遣して直接命令を伝えさせた。本
来、参謀に命令権は無いが、参謀総長の名代では話は別だ。クルックは5日ついに軍を停止させた。ちな
みに、この時フランス軍はエッフェル塔から妨害電波を出してドイツ軍の通信を妨害していた。    
 9月6日、ついに連合軍の反撃が開始された。まず、第6軍がドイツ第1軍を右翼から攻撃した。その
結果、ドイツ第1軍と第2軍の距離はさらに開いてしまう。その隙間を第5軍とBEFが攻撃したが、問
題は左翼の第6軍と右翼の新編成の第9軍がドイツ軍の攻撃を支えられるかだ。ガリエニはパリのタクシ
ーを総動員して、増援を前線に送り続けた。これは以後のフランス軍が電撃戦に関心を払わなくても機械
化師団を保有する要因となっている。                              
 戦況はフランス軍が押される場面もあったが、彼らは最後まで持ちこたえた。エラン・ヴィタールの精
神は未だ失われていなかった。ドイツ第1軍と第2軍の間隙はBEFに浸透され、第2軍はフランス第5
軍に第3軍はフランス第9軍に後退を強いられていた。戦線が崩壊する危機と見たモルトケは9日に後退
命令を出した。ドイツ軍は12日にエーヌ川で停止した。                     
 敗北寸前だったフランス軍が形勢を逆転したことで『マルヌの奇跡』として戦史に名を残したが、フラ
ンス軍が持ちこたえたのは精神力によるものが大だった。この戦いを研究していた日本陸軍も改めてこれ
に感化されたようだ。しかし、緒戦の敗北がこの精神主義の行き過ぎにあったことも忘れてはならない。
 一方のドイツ軍の敗因はモルトケの作戦指導の拙さにあるとされてきた。つまり、モルトケがシュリー
フェンの遺言を守らずに右翼を強化しなかったばかりか、東部戦線に2個軍団を派遣して戦力を自ら弱め
たことがドイツの敗因とされたのだ。確かに転出された2個軍団が到着する前に、タンネンベルク会戦で
ドイツ軍は東部戦線崩壊の危機を脱している。しかし、それは結果論に過ぎない。後世から結果を知った
上で評価を下す戦史家とちがって、その時代を生きる人たちは結果を自分で予測してどう行動するか判断
しなければならない。もし、モルトケが2個軍団を東部戦線に派遣せず、史実どおりのタンネンベルク会
戦が発生せず戦線が崩壊していたら、戦史家はこう評価を下すのではないだろうか。「プランに拘りすぎ
て戦争を敗北に終わらせた」と。さらに言えば、2個軍団があったとしてもシュリーフェン・プランの成
功の確立は低いと言わざるを得ない。作戦万能主義のドイツ軍は兵士の疲労度や補給の問題を軽視してい
たと先述したが、もう一つ重要な見落としがあった。フランス兵の過剰なまでの敢闘精神である。これだ
けは予測のしようがないことだった。かくして、戦争が短期間で終結する機会は失われた。未曾有の犠牲
者を出すことになる第1次世界大戦はまだ始まったばかりであった。                
 
 
 
 
 
 

 
【理想の死】                                      
 19世紀のヨーロッパは戦争に対する楽観主義が蔓延していた。これはヨーロッパを戦場とした戦争が
普仏戦争以来40年以上も無かったことも影響しているだろう。そのため人々は戦争を国家間のスポーツ
ぐらいにしか受け取らなくなっていた。また、科学技術の急激な進歩で兵器もまた進歩を遂げる。軍艦は
木製帆走から鋼製機走に、小銃は前装式から後装式にさらに単発式から連発式へと進化を遂げた。それは
つまり兵器が人を多く殺傷できるようになったことを意味する。人々はこうも思った。「これだけ科学が
進歩して大量破壊兵器(過剰表現かも)が出るようになれば人類は戦争などしなくなるだろう」と。フラ
ンスの文豪ヴィクトル・ユゴーは1864年に「空飛ぶ機械が発明されれば人類は一つにまとまり、軍隊
や戦争が消滅する平和革命が訪れる」と高らかに宣言している。                  
 だから、欧州各国はサラエボ事件が起きても問題は外交交渉で解決できると楽観していたし、戦争が始
まっても独仏両国は短期間で決着をつけるつもりでいた。末端の兵士たちもクリスマスまでに家に帰れる
と信じて疑わなかった。こうした無邪気ともいえる科学と人類の叡智を過信した理想主義は新世紀が始ま
って、わずか10数年後に無念の戦死を遂げた。                         
 だが、戦争がどのように行われるかを正しく理解していた人たちもいた。その一人が開戦時のイギリス
陸軍大臣ホレイショ・ハーバート・キッチナーである。キッチナーは職業軍人のみで構成されるイギリス
陸軍では戦争には耐えられないとして大規模に志願兵を募った。こうしてできた軍隊はキッチナー陸軍と
呼ばれ、1回目の募集で48万人が志願し1915年にフランスに上陸したが、激化する戦争にはそれで
も足りずについにイギリスは1917年に同国初の徴兵制度を施行した。わずか4年の間に死傷行方不明
あわせて4000万人近い犠牲者を出した戦争はそれまでの人類の歴史ではなかったことである。20世
紀は人々の期待とは裏腹に破壊の世紀となってしまったのである。                 
 
 
 フランス軍はどうにか敗北を免れた。だが、長引く戦争と損害ばかりでかくて戦果が少しも挙げられな
い現実はフランス軍自慢の攻撃精神も完膚なきまでに叩き潰してしまった。戦後、フランスは教訓として
戦前の極端な攻撃主義から真逆の守勢主義に転換しているが、その象徴が仏独国境に築かれた要塞線マジ
ノ・ラインである。そして、凄惨な塹壕戦がトラウマとなってしまったフランスはドイツが再軍備を宣言
して近隣諸国を侵食し始めても、戦争の勃発を恐れて強硬な手段に出ようとしなかった。盟友のスペイン
人民戦線政府も、フランスを頼りにしていたチェコスロバキアやポーランドもフランスは助けることがで
きなかった。そして、ついに1940年フランスは再びドイツと相まみれることになる。今度は長期戦に
なると思われたが、実際はわずか6週間でフランスは首都を占領されて降伏するという屈辱を味わうこと
となった。電撃戦という新しい戦術を編み出したドイツ軍に要塞に頼りきったフランス軍は敵ではなかっ
た。マルヌの奇跡は二度も起こらなかったのである。                       
 
 
 
 
もどる
 
トップへ