徳川家康対石田三成
慶長5年9月15日、美濃国関ヶ原において空前の大合戦が始まった。はるか昔、大海人王子と大友王子
が大王位をかけて戦った同じ場所で今度は天下人の座を巡り東西両陣営が激突する。東軍の総指揮官は豊臣
政権の重鎮で五大老筆頭の内大臣徳川家康、対する西軍の実質的指揮官は亡き太閤秀吉の子飼いの側近で五
奉行の一人、治部少輔石田三成である
慶長3年8月18日、豊臣秀吉が死去した。絶大な権力を握った専制君主の死は跡を継いだ子の秀頼が
幼少ということもあってせっかく訪れた天下泰平が戦国乱世に逆戻りする可能性をはらんでいた。秀吉は
幼い我が子と豊臣家の行く末を案じながら没したのである。
秀吉にとって何よりも警戒すべきは徳川家康である。秀吉が武力で屈服させられなかったただ一人の男
そして豊臣政権最大の大名でもある家康はその動向次第では天下が大きく揺れる恐れがある危険人物であ
った。そんな危険人物は排除すべきなのだが、秀吉は遂にそれができなかった。臣従したとはいえ家康は
秀吉に敵対した武将の中で唯一その領土を削減されなかった人であり、臣従といっても秀吉から再三の催
促を受けても動かず彼の妹と母親を人質に出させるという最大限の譲歩を引き出させてからのものであり、
その関係は君臣関係ではあっても同盟関係に近いものであるためさすがの秀吉も慎重にならざるを得なか
った。もちろん家康も疑われるようなことは慎んだし、それどころか「律儀者の内府殿」と呼ばれるぐら
い豊臣政権に尽力していた。秀吉はその律儀さが本物であると期待しながら家康に秀頼成人までの政務の
代行を依頼する反面、その暴走を防ぐため政権を彼個人の独裁体制から家康と加賀大納言前田利家の二頭
体制に移行させた。
その効果は秀吉死後、家康が遺命に背いて諸大名と婚姻関係を結んだときに発揮された。家康に抗議す
る利家らの陣営に予想以上の勢力が結集し、家康を屈服させたのである。秀吉が目論んだとおり利家は家
康の監視役を見事に果たしたのである。ところが、利家はその2ヶ月後に病で没してしまう。利家の死で
豊臣政権のパワーバランスは大きく崩れた。利家派の武断系大名の加藤清正・同嘉明・細川忠興らが家康
側に奔り、彼らと家康派の福島正則ら7人の武将が反家康の急先鋒石田三成を急襲、失脚させたことで政
権内における家康の発言力は急激に高まったのである。
邪魔者がいなくなった家康は襲撃事件から10日ほど経過した慶長4年閏3月13日、伏見城に入り奉
行の前田玄以と長束大蔵少輔正家を追い出した。伏見城は豊臣政権の中枢であり二人はその留守居である。
その二人を追い出して城を占拠したのだから糾弾されてもいい筈だが、家康に面と向かって意見を述べる
者はいなかった。
そんな家康を不快に思う連中は密かに家康暗殺を企てる。9月9日の重陽の節句を祝うために上坂する
家康を大坂城内で殺害するという計画だったが、長束正家と同じく奉行の増田右衛門尉長盛が家康に密告
したため計画は露見してしまう。このとき家康暗殺の実行犯として名が挙げられたのは五奉行筆頭の浅野
弾正少弼長政・大野修理亮治長・土方勘兵衛雄久の3人でさらにその背後に前田中納言利長がいるという
のだ。家康は利長に謀反の嫌疑を掛け、豊臣家の公式命令による前田征伐を諸大名に下令した。追いつめ
られた利長は母を人質に出して辛くも難を逃れたが、これによりかつて家康と政権を二分した前田家は完
全に家康に屈服した。この他に毛利輝元も家康に誼を通じるようになり五大老のうち家康をのぞく二人が
徳川派になった。
この五大老というのは秀吉の生前に設置されたもので外様有力大名で構成される。家康も利家もこの五
大老のメンバーである。幼い秀頼を補佐して政務を代行するのが任務だが実際に政務を行うのは家康と利
家、五奉行である。後の3人はそんなに政治に関わることはなかった。というのも五大老というのは全員
が同列ではない。家康は内大臣、次席の利家は大納言なのに対し残りの3人は中納言である。この中納言
という官位は特別なものではなく家康の息子秀忠(秀頼の未来の舅)、利家の息子利長(秀頼の傅役)も
中納言である。というかこの二人の方が3人の大老よりも序列が上なのだ。他に織田秀信・小早川秀秋ら
も中納言である。領国の規模(毛利輝元・上杉景勝は100万石を超える大大名)や秀吉との関係(宇喜
多秀家は秀吉の猶子で数少ない豊家一門)で大老に選ばれたのだろうが、家康が政務の代行を担当し利家
が秀頼の後見を務めるのに対し後の3人はこれといった仕事がないのだ。それじゃ何のために3人は大老
職にあるのか。先に秀吉は自分による独裁から家康・利家の二頭体制に移行させたと書いたが、利家は決
して家康と五分に渡りあえる人ではない。家康の太閤遺命違反を巡る両者の対決でももしそれが家康・利
家の一騎打ちだった場合、利家は家康を抑えることはできなかっただろう。しかし、利家に残りの大老が
荷担したことで家康を上回る力となりその暴走をくい止めることができた。輝元らに期待されたのは単独
では家康に対抗できない利家の力を補強することではないだろうか。
さて、先に利家の死で豊臣政権内でのパワーバランスが崩れたと書いたが、それは五大老の序列や勢力
関係にも大きく影響した。94万石の利家が120万石の毛利輝元よりも上位にいられるのは官位や年齢、
尾張時代から親交があったという秀吉との個人的関係からであった。その利家が死んだことで前田家の地
位は大きく揺らいだ。単純に領土や年齢を比較した場合、利長が跡を継いだ前田家は毛利家はおろか上杉
景勝にさえも上位を奪われる結果となったのである。利長が輝元らに唯一有利にたてる秀頼の傅役という
地位も自らの帰国によって放棄している。その間、輝元が家康に接近しちゃっかり大老次席の地位を手に
いれている。利長も次席の座を奪回せんと家康に接近したので、利家存命の時は4対1と圧倒的に家康に
不利だった五大老の勢力関係は3対2と家康有利に逆転している。しかも、上杉景勝は帰国して中央に口
出しできる立場ではないし宇喜多秀家は論外である。秀吉の猶子というだけで大老に選ばれたこの若造は
己の家中すら統制できない有様で、とても家康に対抗できる状況ではなかった。
つまり、家康はこの時点で豊臣政権を牛耳ったことになるがそれで満足する古狸ではない。家康が目指
すのは豊臣家の配下での天下取りではない。あくまでも豊臣家の上に立つ形での天下取りである。そのた
めには反徳川勢力を一掃する必要がある。家康は手始めに前田家を血祭りにあげることにした。家康暗殺
計画に関与した疑いは晴れていないので大義名分も成り立つ。家康は利長が謀反を起こすとは思ってはい
ないが、利長が家康の挑発に受けて立てば反徳川の大名はこぞって利長に味方するだろう。それを利長も
ろとも叩きつぶす。それが家康の筋書きである。
だが、先述したとうり利長はうまいこと逃げた。それどころかこれを家康に接近するチャンスにして輝
元に奪われた大老次席の地位の奪回をはかることにしたのだ。
前田征伐は取り止めになったが家康は諦めることなく次の標的を探した。そんな時、越後春日山城主堀
秀治が上杉景勝に叛意有りと告発してきた。さらに、景勝の家臣藤田信吉も主家を出奔して徳川秀忠に景
勝が城郭を修理したり浪人を大量に召し抱えるなど不穏な動きをしていると密告した。家康は景勝に釈明
を求めた。この時、上杉家の家老直江山城守兼続が出した返書が有名な「直江状」である。この「直江状」
は後世に創作されたものらしいが、家康が激怒したのは事実なので実際に出された返書はそれに近い内容
だったようである。
慶長5年5月3日、家康は景勝の叛意は明らかとして会津(景勝領地)征伐を諸大名に伝達した。太閤
亡き後初めての軍事行動となるため、前田・長束・増田の三奉行が制止したが家康は聞く耳を持たなかっ
た。この機に上杉と反徳川勢力を一網打尽にするつもりなのだから当然だ。ちなみに徳川と上杉は秀吉に
臣従する前からあまり仲が良くなかった。
6月18日、家康は諸大名を引き連れ伏見城を出発した。その隙をついて石田三成が挙兵する。両者の
対決は刻一刻と迫っていた。
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