家康が上杉討伐に行くまで石田三成はどうしていたのか。慶長4年閏3月3日に福島正則・加藤清正・
 
池田輝政・黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・浅野幸長(資料によって若干メンバーが異なる)に襲撃され
 
た三成は伏見の家康に匿ってもらう。家康は正則らを説得して軍を退かせたが、騒動を起こした責任をと
 
らせる形で三成を奉行の職から解任して居城の近江佐和山に蟄居させた。
 
 豊臣政権の中核からはずれた三成は時間が自由に使えるのを利用して打倒家康の策を練っていただろう。
 
密かに家康の反感を抱く他の大名とも連絡を取り合っていたかもしれない。ただ、三成と上杉家の重臣直
 
江兼続が家康を東西から挟み撃ちにする策を前々から立てていたかはわからない。上杉家が中央の政争に
 
積極的に介入するとは思えない。だが、上杉討伐が発令されてからは何らかの連絡を取っていたようだ。
 
 慶長5年6月18日に家康が上杉討伐に出発すると畿内に権力の空白が生じた。当初、息子の重家を自
 
分の代理として会津に出陣させようとしていた三成はこの機会に気づいて出陣を取り止め、西軍の旗揚げ
 
に奔走した。7月2日に重家を迎えにきた親友の大谷刑部少輔吉継に三成は挙兵の決意を語った。すでに
 
毛利家に繋がりがある安国寺恵瓊が味方に付いていた。吉継は驚いて三成に翻意するよう説得した。吉継
 
は親家康派で家康と前田利家が対決したときも三成が利家についたのに対し、吉継は家康に味方したので
 
ある。吉継は幼君が跡を継いで弱体化した豊臣政権を維持するには家康の強大な力が不可欠で、そのため
 
には多少の専横も仕方ないと考えていた。
 
 吉継は一端自分の陣に戻ると、与力の平塚為広を佐和山に派遣しもう一度三成を説得させた。しかし、
 
三成の決意は固く吉継は悩んだ末西軍に属することを決意した。吉継は三成に毛利輝元を西軍の総大将に
 
担ぎ上げ三成自身は参謀役に徹するように提案した。三成は正義感が強く不正を極端に嫌う性格で言って
 
みれば融通が利かないという短所があった。そんな性格のため三成は朝鮮の役で福島正則ら武断派と修復
 
不可能なまでに溝を深めることになったのだ。つまり、人望がないということだ。三成もそれを心得てお
 
り、吉継の案に賛成した。さらに19万石の三成と120万石の太守である輝元では諸大名を惹きつける
 
魅力が違う。それに輝元は大老の一人だ。家康に対抗するうえで輝元の総大将就任は絶対不可欠となる。
 
 7月12日、三成らは三奉行の名で輝元に出馬を要請した。輝元は国許の安芸広島にいたので要請は書
 
状によるものだろう。書状に三成の名がないのは彼がすでに隠居していて公的な立場にないからである。
 
事はスムーズに運んだ。安国寺恵瓊が輝元を口説いて西軍参加を承諾させており16日には早くも輝元は
 
大坂に到着した。その間に、西軍は大名の妻子を人質にとる作戦を展開していたが細川越中守忠興室・玉
 
(ガラシャ)が自殺するなど混乱が生じたため途中で頓挫した。
 
 17日、輝元は大坂城西ノ丸に入城した。そして、家康を弾劾する「内府ちがひの条々」が発せられた。
 
輝元の他に同じ大老の宇喜多秀家や三奉行の名が記された檄文で諸大名への召集令状でもあった。西軍は
 
輝元到着以前から会津に通じる街道を封鎖して上杉討伐に出征する諸大名の軍勢を強引に引き留めていた。
 
そのため、大坂やその周辺には行き場所のない軍勢がかなりたむろしていた。そこへ西軍から召集がかけ
 
られた。その召集令状には豊臣政権を構成する中核メンバーの三奉行や二大老が連署しているから豊臣政
 
権の公式命令となる。拒否すれば逆賊だ。大名達はとりあえず西軍に身を置くことにした。決して進んで
 
西軍に属したわけではない。大半が行きがかり上そうなってしまったという連中だから数の上ではともか
 
く戦意では家康に味方する東軍諸将に比べかなり劣っていた。これは謀略(寝返り工作)に対しかなり脆
 
弱な事を意味している。西軍の中核となる毛利家も例外ではなく、重臣の吉川広家(輝元の従兄弟)や一
 
応一族扱いの小早川秀秋(秀吉未亡人高台院の甥で先代隆景の養嗣子になっていた)はかなり早い段階で
 
東軍に内通していた。他にも家康から調略を受けた大名はかなりいた。
 
 このように、西軍の結束は非常に脆く戦意を期待できる者はごく少数であった。三成がこの状況を把握
 
していたかはわからないが、挙兵した以上軍事行動をとる必要がある。三成らが作成した作戦の第1段階
 
は畿内とその周辺に位置する東軍の城を攻略することである。それは家康の老臣鳥居元忠が守る伏見城と
 
細川忠興の父幽斎が守る丹後田辺城である。田辺城には小野木縫殿介公郷ら15,000の軍勢が進攻し
 
伏見城は18日に開城要求をした後その翌日、宇喜多秀家ら4万の軍勢が攻撃を開始した。
 
 西軍挙兵の一報は24日に鳥居元忠から家康に届けられた。その5日前には奉行の増田長盛が三成と大
 
谷吉継の謀議を密告している。その頃、家康は上杉征伐のため下野の小山にいた。
 
 知らせを受けたとき家康は自分の思惑通り事が進んだことに満足した。だが、この時点では家康は西軍
 
の規模を三成とその与党ぐらいであると過少評価していた。25日に有名な小山評定が開かれ全員一致で
 
西進が決定し翌日、福島正則と池田輝政を先鋒とする先発隊が出発した。家康は上杉への対応のためしば
 
らく現地にとどまった。
 
 「内府ちがひの条々」を家康が知ったのはその数日後であった。内容を見て家康は仰天した。その書状
 
に輝元・秀家の二大老と三奉行が連署していたからだ。豊臣政権の中核である大老と奉行が加担している
 
ということは、西軍は三成らの私的な軍隊ではないということだ。おそらくその規模は東軍に匹敵すると
 
思われる。家康は輝元と秀家が西軍に味方するとは思っていなかった。二人とも上杉討伐に先発隊を出陣
 
させていたし、輝元とは兄弟のように仲良くしようと誓った仲である。また、奉行の増田長盛は西軍の情
 
報を流すなどしていたから当然味方であると家康は思っていたが、彼までもが家康の弾劾状に名を連られ
 
ていた。長盛は西軍には仕方なく味方しているが本当は家康の味方であると言いたかっただろうが、家康
 
は彼が二股をかけていると判断した。戦後、長盛は領土を没収されている。大きな判断ミスを犯したと悟っ
 
た家康は8月5日に江戸に帰還するが、情勢が流動化しているためしばらくその場を動くことができなかっ
 
た。
 
 さて、家康に急報をもたらした鳥居元忠は伏見城で20倍以上の大軍を相手に文字通り必死の抵抗をし
 
ていた。伏見城は城攻めの天才豊臣秀吉が最後に築城した城で城郭の規模は大坂城に匹敵した。しかし、
 
わずか1,800人の守備兵ではその大城郭をフルに生かすことはできず、元忠は外郭防衛を放棄して城
 
の規模を縮小することを余儀なくされた。そのため、伏見城はその防衛力を最大限に発揮することができ
 
ずわずか13日で陥落した。元忠以下城兵はことごとく討死にした。
 
 伏見城を攻略した西軍は西進する東軍を迎撃するため伊勢・美濃・尾張方面への進出を計画した。三成
 
が考えた戦略は軍を3つに分け、3方向から尾張に進出し三河との国境にある矢作川で東軍を迎え撃つと
 
いうものである。まず、大谷吉継が南下を始めた前田利長の軍(丹羽長重・山口玄蕃頭正弘と交戦、正弘
 
を討ち取る)に対処するため北陸に向かい、首尾良く行けば南下して三成と合流する。宇喜多秀家・毛利
 
秀元らの毛利勢・長束正家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・鍋島勝茂らの軍は伊勢に侵攻し東軍方の松坂城
 
・安濃津城・上野城・長島城を攻略しその後美濃で三成と合流する。三成・小西行長・島津惟新らは直接
 
美濃に入り織田秀信(信長の孫)を味方にして美濃を掌握し、その後尾張に進出して福島正則の居城清洲
 
城を開城させ尾張を制圧する。三成は状況次第では三河にも進出するつもりだったという。
 
 三成は8月10日、美濃大垣城主伊藤盛正を説得して城を開城させそこを拠点とした。その間に織田秀
 
信を西軍に参加させることに成功している。秀信は13万3千石と三成よりも石高が少ないが美濃では最
 
大であり、しかも織田宗家の流れを汲む家柄のため織田氏の家来だった大名が多い同国では多大な影響力
 
を保持していた。現実に美濃には1万石以上の大名が18人いたが、その内14人が西軍に味方している
 
(内4人が東軍に内応)。さらに、尾張の犬山城主石川貞清も味方になったので西軍は尾張にも足がかり
 
を得た。これで清洲城が開城すれば西軍は尾張を掌握し計画通り東軍を矢作川で迎撃する態勢が整う。
 
 ところが、清洲城の開城交渉が難航している時に福島正則をはじめとする東軍先発隊が三成の予想を超
 
える速さで西進し13日に清洲城に入城したのである。その兵力は34,980人。それに対して西軍は
 
新たに加わった美濃勢を含めてもせいぜい1,4000人程と半分以下の劣勢である。これは宇喜多秀家
 
らが伊勢平定に手間取り三成との合流が遅れたからである。そのため三成は防衛ラインを岐阜城まで下げ
 
ざるを得なかった。
 
 一方、清洲城に入った東軍先発隊は総大将家康の到着を待ったが、家康が江戸を発ったという知らせは
 
なかなか来なかった。福島正則が「俺達を捨て駒にするつもりか」と憤るなど東軍諸将の不満は高まって
 
いったが、家康には動こうとも動けない理由があった。それは上杉と対峙している諸将が家康の江戸滞留
 
を強く望んだからである。ここで下手に江戸を出て西に向かえばこれらの諸将が上杉に寝返る可能性があ
 
るため家康は先発隊から矢の催促があっても動くことができなかったのである。
 
 とは言ってもこのままじっとしていたら先発隊が離反する恐れもあり、とりあえず家康は使者を送るこ
 
とにした。19日、家康の使者は清洲に到着し諸将に家康が風邪をひいたので出発が延期になったと伝え
 
た。この家康の仮病を信じるほど先発隊の諸将はお人好しではないが、加藤嘉明が「我らが内府の味方で
 
ある証拠を示せば内府殿もご出馬されるだろう」とうまく引き取ったのでその場は収まった。20日、先
 
発隊諸将は軍議を開き織田秀信の岐阜城を攻めることにした。
 
 21日、東軍は二手に分かれて木曽川の上流と下流から美濃に進撃した。22日、福島正則ら下流渡河
 
組が杉浦重勝の竹ヶ鼻城を攻略する一方、池田輝政ら上流渡河組は河田の渡しで秀信の軍を粉砕した。23
 
日、正則らは輝政らと合流して一気に岐阜城を攻めてこれを陥落させた。黒田長政らは岐阜城が落城する
 
前に三成らが本陣としている大垣城への進出を企て長良川の合渡で西軍を撃破、三成の家臣舞兵庫らを討
 
ち取った。24日、先発隊は赤坂に着陣し大垣城の西軍と対峙した。
 
 岐阜城のあっけない陥落は三成にとって大誤算であった。わずか10日で三成が構想した第1次防衛ラ
 
インはおろか第2次防衛ラインまでもが難なく突破され、後方に位置づけられていた大垣城がいきなり最
 
前線となったのだ。三成は居城の佐和山に戻って防備を固めるなど戦略の抜本的な見直しを迫られること
 
になった。
 
 一方、27日に岐阜城陥落の知らせを受けた家康はついに決断し9月1日江戸を出発した。家康は信州
 
上田城攻略を命じておいた息子の秀忠にも城攻めを中止して中山道を西進せよと使者を送った。
 
 家康が赤坂に到着する間、大垣城には援軍が続々と到着していた。2日、大谷吉継が関ヶ原の山中村に
 
布陣。3日、宇喜多秀家がようやく伊勢から到着し大垣城に入城した。7日、同じく伊勢から毛利勢と安
 
国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親が南宮山とその麓に布陣した。他にも援軍が到着する予定であったが、
 
ここでまたもや三成が予想していなかった事態が起きた。3日、近江大津城の京極高次が東軍に寝返って
 
籠城の準備を始めたのだ。そのため毛利勢(伊勢にいたのとは別部隊)や立花宗茂らが大津城を攻めるこ
 
とになりこれの到着が大幅に遅れた。
 
 戦略の誤算は東軍側にも起きていた。家康は11日に清洲に到着していたが13日になるまでそこに滞
 
在した。中山道を西進しているはずの秀忠勢の到着が遅れていたのだ。家康は秀忠がどこまで来ているか
 
は知らなかったが、しばらく待つことにした。このままでは東軍は豊臣恩顧の武将を主力として戦うこと
 
になる。徳川の天下取りになる大事な一戦に他人様の力に大幅に頼るなど末代までの恥である(家康が自
 
軍の損害を抑えるためにわざと秀忠を遅参させたと書いた馬鹿な本があったが、もし家康がそんな姑息な
 
人物だとしたらとても天下を取る器とはいえないだろう)。悩む家康に美濃高須城を守っていた同国松木
 
城主徳永寿晶が三成が増田長盛に送った密書を届けた。内容は輝元の出馬は有り得ないが毛利勢の後詰め
 
は必至であること、田辺城が開城したこと、大津城がまだ持ちこたえていること、三成が持久戦を指向し
 
ていることなど西軍の最重要機密といえるものだった。家康は決断した。敵の増援が来る前に決着をつけ
 
る。もしかしたらその前に秀忠が来るかもしれない。14日、家康は赤坂に到着した。
 
 総大将の到着に東軍の士気はいやがうえにも高まり、逆に西軍は家康がいきなり現れたことに大きく動
 
揺した。この瞬間まで西軍は家康の出陣を察知してなかったのだ。動揺する西軍にさらに追い打ちをかけ
 
る事態が起きた。その去就が疑われている小早川秀秋が松尾山に着陣したのだ。松尾山には三成に居城を
 
明け渡した伊藤盛正がいたが、それを追い出してのことである。三成は松尾山には毛利勢(大津城を攻め
 
ている連中か?)を入れるつもりだったので、秀秋の松尾山占拠は明らかに予想外の出来事である。大垣
 
城は赤坂と松尾山に挟撃される恐れが出てきた。三成の不安は高まる一方だろう。杭瀬川で東軍を撃退す
 
る一幕があったが、そんな小競り合いで勝ったぐらいでは今の危機的状況に変化はない。
 
 さて、家康の到着で盛り上がった東軍諸将は一気に大垣城を攻めるべきと強攻策を唱えた。だが、家康
 
は城攻めは時間がかかりすぎるとしてこれを却下した。あまり時間をかけると大津城を攻撃している西軍
 
が増援として来るだろうし、最悪の場合輝元が秀頼を擁して出陣する可能性もあった。家康は陣替をして
 
敵を野戦にて討ち取る作戦を提案した。諸将は家康の作戦に賛成した。陣替の場所は竹中丹後守重門(有
 
名な半兵衛重治の子)が布陣している菩提山と決まった。菩提山は大垣の西北西に位置し中山道を挟んで
 
南の南宮山と向かい合っていた。家康は菩提山と南宮山の間にある青野原の垂井付近に西軍を誘き出そう
 
と考えていた。南宮山には東軍に内通している吉川広家が布陣しており、うまくいけば西軍を南北から挟
 
撃できる。
 
 ところが、東軍が陣替の準備を始めたときに吉川広家から西軍が大垣を出て関ヶ原方面に向かっている
 
との知らせが来た。挟撃される位置にある大垣城を抜け出して関ヶ原に転進し秀秋の裏切りを抑止する作
 
戦である。
 
 西軍関ヶ原方面へ移動中の報告を受けた家康は15日午前2時、全軍に出陣命令を下した。両雄の激突
 
は目前に迫っていた。
 
 
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