慶長5年9月15日早朝、徳川家康の家臣で四天王筆頭の井伊直政が家康四男松平忠吉の陣を訪れた。
 
直政は忠吉の舅で今回が初陣となる忠吉の後見を命じられていた。
 
 合戦が間近に迫っているときに直政の訪問は奇妙に感じられるが、忠吉は彼が来た理由を察していた。
 
「忠吉殿、此度の合戦豊臣恩顧の武将に先手を任せたとあっては後々まで彼らの広言を許すことになり申
 
す。先鋒は我ら徳川の兵が果たすべし」
 
 直政の言葉に忠吉は大きく頷いた。忠吉は中山道を進軍中の秀忠の同母弟で遅参した兄の分まで働かん
 
と決意していた。
 
 御曹司を危険にさらすことに家老の小笠原和泉と富永丹波は反対したが、直政は二人を説得して忠吉の
 
同行を同意させた。その人数両勢合わせて300人ほど。
 
 一行が前線に出るため福島正則の陣を通りかかると笹のついた青竹を指物にしている武士が行く手を遮
 
った。正則の家臣で宝蔵院十文字槍を使う槍の名手可児才蔵である。
 
「何処の部隊か、本日の先陣は福島左衛門大夫なり。どなたであろうと抜け駆けは御法度でござる」
 
 才蔵の抗議に直政は平然と答えた。
 
「井伊直政でござる。下野公御初陣故、敵の形勢を見るための物見である。抜け駆けではござらん」
 
 だが、才蔵はなおも疑い
 
「ならば人数を減らし手勢のみで行かれよ」
 
と、要求したので直政は承知して4、50騎のみで駆けだした。
 
 福島の陣を通過して前線に出た一行は宇喜多秀家の陣に向けて鉄砲を放つとそのまま自分たちの陣に戻
 
った。
 
 銃声は正則にも聞こえた。彼はそれが直政の仕業だと聞かされると憤怒の表情を露わにした。
 
「おのれ、この正則を出し抜きおったな」
 
 正則は鉄砲衆800を率いて秀家の陣に銃撃を浴びせた。それを合図に東軍黒田長政、西軍石田三成・
 
小西行長の陣から開戦を知らせる狼煙が揚がった。午前8時頃である。
 
 猛将福島正則は自ら陣頭指揮を執り宇喜多隊に突撃した。他の諸将もそれぞれの敵に突撃を開始する。
 
事前に打ち合わせをする余裕がなかったため東軍は自分の目についた敵を相手にすることにした。正則が
 
秀家を攻撃目標にしたのもたまたま目の前にいたからである。
 
 西軍の中で一番東軍各隊の目に留まったのはやはり石田三成の陣であった。黒田長政をはじめ細川忠興
 
・加藤嘉明・田中吉政・筒井定次・生駒一正の軍が三成の陣めがけ殺到した。
 
 三成は陣を野戦築城で強化して敵を待ちかまえた。さらに島左近と蒲生郷舎に兵を1,000人ずつ預
 
け前方の守りを固めさせた。
 
 この二人とくに島左近の奮戦ぶりはすごかった。左近は隊を半分に分け500を守備に残して自らもう
 
半分を率いて敵勢に突進したのである。左近は馬上で槍を振るい
 
「かかれ、かかれい」
 
 と、麾下の兵を叱咤した。勇将の下に弱卒なしの言葉の通り左近に率いられた兵達は力を十二分に発揮
 
し黒田勢を大きく後退させた。この左近の戦いぶりを目の当たりにした黒田家の家臣は後年こう回想して
 
いる。
 
「わしはいまでも左近の名を聞くと身の毛がよだつ。もし鉄砲を撃ちかけなかったら我らの首は左近めの
 
手に渡っていただろう」
 
 鬼左近の面目躍如といったところか。しかし、長政が鉄砲隊に側面から銃撃させると左近は深手を負っ
 
て後退した。それでも戦ったがついに討たれた。開戦からわずか1時間ほどしかたっていなかった。ちな
 
みに東軍の筒井定次は左近のかつての主君である。
 
 左近の負傷に三成勢は動揺して徐々に後退したが、大筒(大砲)を放って寄せ手を撃退した。
 
 他の戦場でも東軍は西軍よりも数で優位に立っていたが敵陣を突破できずに逆に攻め立てられる始末で
 
あった。
 
 その中で例外なのが福島正則勢であった。正則勢は自軍の3倍近い兵を有する宇喜多勢を相手に一進一
 
退の死闘を展開した。東軍の中で自軍よりも優勢な敵と戦ったのはこの福島勢ぐらいであろう。
 
 宇喜多勢の先陣は明石掃部で前衛8,000を指揮して槍衾を形成して突撃、たまらず福島勢は最初に
 
陣があった場所からさらに500mも後退させられた。それを見た正則は血相を変えた。
 
「退くな、退くな、敵に後続の兵なし。退くな」
 
 正則の叱咤激励に兵は勇気を与えられ反撃に転じた。今度は宇喜多勢が後退していく。昨年の家中での
 
内紛で陣大将や組頭・与力の大半が離反して宇喜多勢はその指揮能力に深刻なダメージを負っていた。
 
 福島勢の奮戦があるものの全体的な戦況は西軍に分があった。
 
 その様子を家康は苛立ちながら眺めていたが、ついに我慢できなくなり本陣を前線の近くまで移動させ
 
た。苦戦する各隊にはっぱをかけるためである。その効果は覿面だった。士気が上がった東軍の猛攻に三
 
成勢は柵内に追いつめられた。だが、東軍の進撃はここが限界であった。長篠合戦の例のように野戦築城
 
で造られた防衛ラインを攻城兵器を持たない野戦軍が突破するのは至難の業である。
 
 三成は松尾山と南宮山の諸将に参戦を要請する狼煙を揚げた。ここで全軍が総攻撃に移れば東軍を包囲
 
殲滅できる。だが、松尾山からも南宮山からも何の動きも見られなかった。
 
 南宮山に布陣する毛利秀元(輝元従兄弟)の陣にはその麓に布陣する安国寺恵瓊と長束正家がしきりに
 
参戦を促したが、秀元陣の前方に布陣する吉川広家(輝元従兄弟)が行く手を遮っているため攻め込めな
 
いのだ。吉川勢は広家から
 
「何人たりとも通すことまかりならぬ。毛利殿の兵にも道をあけるな」
 
 と、厳命を受けていた。そのため秀元は恵瓊と正家の使者に
 
「いま、兵達に食事をとらせているのでしばらくお待ちいただきたい」
 
 などと、苦し紛れの方便をつくことになった。これが後に「宰相殿の空弁当」と揶揄されることになる。
 
 一方、松尾山の小早川秀秋の陣では黒田長政の家臣大久保猪之助が秀秋の家老平岡頼勝に即刻に西軍を
 
裏切り東軍に味方するよう迫っていた。大久保は刀に手をかけ、いまにも斬りかからんとする形相である。
 
頼勝はあわてて主君に決断を急ぐよう施した。だが、秀秋は煮え切らない。家康には恩義がある。秀吉に
 
越前へ転封されそうになったとき庇ってくれたのが家康である。上方在留中に西軍が挙兵したため仕方な
 
く伏見城攻撃に参加したが、その後は西軍の軍事行動には加わらなかった。秀秋は最初から家康に味方す
 
るつもりであった。だが、合戦直前になって三成から味方したら秀頼が成人するまで秀秋に関白職を与え
 
るという条件が提示されると、秀秋の心に迷いが生じた。かつては秀吉の後継候補と目されながら現在は
 
一地方大名としての扱いしかされない秀秋にとってこの条件はその心を繋ぎ止めるのに十分な効力を発揮
 
した。
 
 そんな秀秋の目を覚ましたのは家康だった。秀秋がなかなか裏切らないのに激怒した家康は松尾山に向
 
けて鉄砲を放たせた。
 
 秀秋は銃撃が徳川勢からと聞かされると顔を青ざめさせた。
 
(内府殿は怒っておられる)
 
 彼は迷いを振りきると麾下の兵に出陣を命じた。
 
「目指すは大谷刑部の陣」
 
 小早川の裏切りは大谷吉継にとって驚くべき事ではなかった。あらかじめ予測していた吉継は温存して
 
いた精兵600に迎撃を指示した。与力の平塚・戸田の両勢も迎撃に参加する。
 
 小早川勢は15,000の大軍だが、地形に邪魔され兵を小出しに投入するしかなかった。そのため大
 
谷勢の迎撃が成功する。小早川勢は500mまで後退させられた。
 
 だが、後退する小早川勢を追撃しようとして隊列が伸びたところを藤堂高虎・京極高知・織田有楽の軍
 
に横撃される。さらに、小早川の主力は側面から迂回して中山道沿いに大谷勢に攻撃を掛ける。そこへ、
 
吉継が小早川勢が裏切った時のためにその周辺に配置していた脇坂・朽木・赤座・小川の軍勢までもが東
 
軍に寝返り大谷勢に突進してきた。平塚・戸田の両将は敵に包囲されながらも最後まで奮戦して討死した。
 
 吉継は病のために目がほとんど見えず終始輿に乗って采配していたが、いまはそれを降ろさせていた。
 
戦いの帰趨はすでに決した。かれは近臣に首を隠すよう命じた後こう叫んで自害したという。
 
「おのれ金吾、人面獣心なり。3年の内に祟りをなさん」
 
 小早川秀秋は慶長7年に狂乱して死んだという。大谷吉継の首は最後まで発見されなかった。
 
 秀秋の裏切りを知った三成は味方に動揺が広がらないうちに決戦に挑もうと、家臣の八十島助左衛門を
 
島津惟新の陣に派遣して参戦を要請した。ところが、八十島は急いでいたためか馬上から口上を述べてし
 
まう。これが、島津兵を怒らせた。
 
「馬上からの物言い無礼であろう。さっさと失せろ。さもなくばたたっ斬るぞ」
 
 八十島はあわてて逃げ帰った。すると今度は三成本人がやって来て先程の無礼を詫びた後改めて参戦を
 
要請した。だが、三成に対面した島津豊久(惟新甥)はその要求を拒否した。
 
「本日の戦、おのおのが手柄次第に働くという約束のはず。前後を顧みる暇はござらん」
 
 三成は落胆して帰ったという。
 
 三成が帰った後、豊久は惟新にそのことを伝えた。
 
「仕方あるまい。もうこの戦先が見えた。秀頼公御為と念じてこの戦に加わったが、豊家一門に等しい小
 
早川が真っ先に裏切るような不様な戦いに外様の我らが付き合う義理はもうなかろう」
 
 惟新の偽らざる本音である。さらに、かれは悔しげにこう呟いた。
 
「薩州兵が5,000もいれば今日の戦勝っていたものを」
 
 だが、国許の兄龍伯と嫡男忠恒が局外中立の立場をとり兵を派遣しなかったので惟新の下には1,00
 
0人ぐらいしか集まらなかった。
 
 大谷勢が潰滅すると宇喜多勢と小西勢も崩れ、秀家と行長は伊吹山中に逃亡した。それでも三成勢は態
 
勢を維持していたがそれも時間の問題であった。蒲生郷舎は三成に戦場を離脱するよう進言した後、主君
 
を逃がす時間を稼ぐため前線に戻り織田有楽の兵に討ち取られた。郷舎死後、三成勢も崩れはじめ三成は
 
伊吹山に逃亡した。島津勢も南宮山の諸将も撤退を開始した。東軍はこれを追撃、毛利勢(吉川含む)以
 
外は殲滅された。
 
 すべての戦闘が終わったのは午後4時頃である。開戦からわずか8時間であった。
 
 
 三成は伊吹山に潜伏中に田中吉政の兵に捕縛される。20万に及ぶ大軍が対峙した大戦がわずか1日で
 
決着がついたのは日本史上例がない。やはり中堅大名の三成には荷が重たかったのだろうか。だが、処刑
 
に臨む三成の顔に悔いはなかった。後世に残る大戦を指揮した満足感に胸が一杯であろう。彼が処刑され
 
たのは10月1日。享年41。
 
 関ヶ原の勝利で家康は抵抗勢力を一掃した。豊臣家は65万石の大名に転落し家康の覇権を阻む者はな
 
い。時代は徳川へと移ったのだ。
 
 
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