毛利元就対陶晴賢
―厳島1555―
弘治元年9月22日、陶尾張守晴賢率いる大内軍1万が厳島に上陸、毛利方の宮尾城を包囲した。
一方、毛利右馬頭元就は大内軍を奇襲で殲滅すべく、それに必要な水軍衆の到着を待った。しかし、
水軍衆はなかなか到着せず宮尾城は陥落寸前に追い込まれてしまう。手元にある水軍だけで行動を開
始するか、それとも増援の水軍を待ち続けるのか、悩む元就。そして、待ちこがれていた水軍が到着
した。元就以下毛利軍は一世一代の大勝負を挑むため厳島への逆上陸を敢行した。
毛利元就は明応6年3月14日、安芸の国人領主毛利弘元の次男として郡山城で誕生した。幼名は
松寿丸、母は正室・福原広俊の娘である。
毛利氏は天穂日命を祖先に持つ家柄で26代諸士の時、桓武天皇から大枝の姓を賜る。大枝姓は2
8代音人の時に大江姓に改められた。毛利姓を名乗るのは鎌倉幕府創業の功臣として知られる38代
大江広元の四男季光からで彼の孫時親が安芸毛利氏の直接の祖となる。
元就が誕生した当時の毛利家は安芸北東部の高田郡吉田荘を領する中小国衆でその所領はわずか3
300貫、徳川家康が誕生した当時の松平家よりも劣る矮小な猫の額のような土地である。それでも
似たような規模の群小領主がひしめきあう安芸では家柄がしっかりしている毛利氏は国人連合の盟主
的な立場にあった。
父の死後、300貫の所領を分与され多治比猿掛城主になった元就はその所領を重臣の井上元盛に
押領されるなど苦難な青年時代をすごしたが、父の跡を継いだ兄興元と、その子供幸松丸が病没した
ことで思いがけず毛利家の惣領の座を手にすることができた。元就は重臣に懇願されて当主になるの
だが、彼を推薦した重臣のなかには多治比猿掛の所領を押領した井上元盛もいた。
毛利家の当主になった元就は自身の家督に反対する異母弟の相合元綱とその与党を滅ぼし、さらに
元綱一派を支援していた出雲の尼子経久と断交し、周防の大内氏に従属して勢力を伸ばしていった。
毛利氏略系図
天穂日命・・・野見宿祢・・・諸士(大枝)―本主―音人(大江)― 千古―維時―重光―匡衡―挙周
―成衡―匡房―維順―維光=広元(藤原光能子)―季光(相模毛利)―経光―時親(安芸毛利)―
貞親―親衡―元春―広房―光房―熈元―豊元―弘元―興元―幸松丸
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元就―隆元―輝元―秀就・・・就親(明治維新)
一方の陶晴賢は大内家臣団筆頭で周防守護代陶興房の次男として大永元年に誕生している。幼名は
五郎、元服して隆房と称した。母は陶久詮の娘である。
陶氏は大内氏の一族で大内家15代当主貞成の次男盛長の曽孫弘賢を祖とする。陶氏は応永8年に
長門守護代、永享4年に周防守護代に任じられ以後その職を世襲で受け継ぐなど大内家中で重きをな
し、大内家当主も代々陶家の当主を他の家臣とは一緒に扱わなかった。
天文8年、父の死没により家督と周防守護代の職を継いだ隆房は19歳という若年であったが、陶
家の当主として一目置かれる存在であった。主君の大内義隆が学芸を好んでいたのに対し、隆房はそ
ういう物には興味を示さず武道一辺倒の性格であった。そのため隆房は主の代理として出陣すること
もあり、家督を継いだ翌年には尼子詮久の軍勢に攻められた元就を救援する軍の大将として出陣して
見事尼子勢を撃退して元就の窮状を救っている。以後、毛利家と隆房は親密な関係となる。
隆房は武勇に優れていただけではなく忠義に厚い人物だったが、その忠誠の対象は義隆個人ではな
く大内氏そのものだったようである。先の毛利家救援で尼子氏を撃退した大内氏は勢いに乗ってその
本拠である出雲の月山富田城を攻撃した。だが、義隆も出陣したこの戦いは大内軍の惨敗に終わり、
義隆の養嗣子晴持が逃亡中に溺死するという悲惨な結果となってしまった。
敗戦と跡継ぎの死という二重のショックは義隆から政治や軍事への関心を完全に失わせた。それ以
後、義隆はそれまで以上に文化・芸術に傾倒していくのだが、それは多額の資金を浪費するというこ
とであり領民へのさらなる増税と負担を意味していたのである。
隆房は義隆を諫めたが、義隆は聞き入れようとはしなかった。いつしか二人の間には深い溝ができ、
大内家中は義隆とその側近のグループと隆房ら義隆の文弱政治に反発するグループに分かれてしまっ
た。二人の確執はやがて隆房による謀反の噂が流れるに至り、それは義隆の耳にも届いた。だが、義
隆はそれが現実になるまで何の対応もしなかった。大内家の宿老であり他の家臣の追随を許さない勢
力である陶家の当主を討つとなれば家臣の大半の支持が不可欠だが、義隆に愛想をつかしたのは隆房
だけではなかったのである。そして、隆房の決起が実行された。
天文20年8月28日、陶隆房・長門守護代内藤下野守興盛・豊前守護代杉伯耆守重矩の3人の重
臣が挙兵し大内氏館を襲撃した。筆頭格の重臣3人がそろっての挙兵ということは大内家臣団のほと
んどが反乱側に加担していると見て良かった。事実、守護代クラスの重臣であくまで義隆に忠義を尽
くそうとしたのは筑前の杉豊後守興運ただ一人であった。義隆は9月1日、深川大寧寺で自刃して果
てた。その翌日には義隆の嫡男義尊も殺害され、隆房のクーデターは成功したのだった。
守護側の勢力をほぼ一掃した翌天文21年3月3日、隆房は豊後の大友義鎮の弟晴英を義隆の後継
として山口に迎えた。晴英は義隆の姉の子で義尊の誕生がなかったら大内家の家督継承になるはずの
人物であった。晴英は将軍足利義晴の一字をもらい受け義長と改名し、隆房も晴英から一字をもらっ
て晴賢と改名した。
陶氏略系図
弘賢―弘政―弘長―盛長―盛政―弘房―弘護―興房―隆房(晴賢)―長房
反対勢力をあらかた掃討した新生大内家だったが、ただひとり抵抗を続ける者がいた。石見の三本
松城主吉見大蔵大輔正頼である。わずか数万石の所領しか持たない吉見正頼が大内家に抵抗を続けた
理由は彼が義隆の姉婿だということもあるが、それにもまして吉見家と大内家を実質上支配する陶家
との間には長年にわたる積もりに積もった遺恨があったのが一番の理由であったのだ。
しかし、石見の一武将にすぎない吉見正頼の抵抗などすぐに鎮圧できるはずである。だが、大内家
は吉見家攻撃を石見の国衆に任せきりで本格的な討伐を実行しようとはしなかった。そのため吉見家
攻略は2年以上になる長期戦となってしまった。このような事態になったのは新生大内家内の不協和
音に原因があった。
新しく生まれ変わった大内家であったが決して一枚岩でまとまっていたわけではなかった。大内家
を実質仕切っていたのは晴賢であったが、すべてが彼の思い通りになったわけでもなかった。晴賢と
共に義隆を討った杉伯耆守が義長の実家である大友家から派遣された高橋左衛門大夫鑑種らと結託し
て晴賢への抵抗勢力を形成していたのである。彼等の暗躍により、大内家は本格的な吉見家攻略を実
行できずにいたのだ。
だが、それも長くは続かなかった。天文22年9月、晴賢に攻められた伯耆守が自刃に追い込まれ、
もう一人の重臣で長老格の内藤下野守が病で床にふせっている状態になると、晴賢に意見できる者が
皆無となった。大内家はついに九州をのぞくすべての領国に対し動員令を発令した。それは、毛利家
にも伝えられた。
晴賢のクーデターが起こると毛利家はこれに加担し、安芸の守護側の勢力を掃討していった。この
頃の晴賢と元就ら安芸の国人衆の関係は友好的だった。国人というのは外部の干渉を嫌うものである
が、この場合外部とは大内家を指す。統制を強めようとする大内家に対し、安芸の国人達は内心それ
を嫌いながらも口に出せない状態であった。そこで、元就らは大内家の重臣を後盾にして大内家から
の介入から家を守ろうとしたのである。大内氏の一族で筆頭重臣でもあり、さらに安芸守護代の上位
に位置する晴賢はまさにうってつけの人物であった。晴賢も安芸国人衆の窮状を理解しており、なに
かと守護代である弘中三河守隆兼の頭越しに目をかけていた。
だが、両者の関係はその後悪化する。原因は備後平定の事後処理にあった。大内家が出雲遠征に失
敗すると備後北部の国人達は尼子氏に寝返ってしまった。そのために備後平定が始まったのだが、大
内家に混乱が続いたためそれは安芸国人衆が丸受けの状態で進められた。ところが、晴賢は元就が奪
回した旗返城を毛利家に与えず、自分の被官である江良丹後守を送り込んで陶家の直轄にしてしまっ
たのである。毛利家の人々が激怒したのはいうまでもない。そこへ、吉見家討伐の軍令が届けられた
のである。元就は当初これに応じようとしたが、家臣はそれに猛反発した。たとえ晴賢が信用できな
くなったとしても軍役を断ればそれを口実に攻められるだけである。元就はそう考えたが、家臣は晴
賢との断交を主張した。双方の議論は果てしなく続けられ遂に元就が押し切られる形で決着した。断
交挙兵である。
元就の背信が晴賢に伝えられたのは天文23年5月12日であった。この時、晴賢は義長を奉じて
吉見正頼の三本松城を包囲する陣のなかにいたが、元就の挙兵が伝えられると晴賢は毛利家との交渉
のため岩国に残していた江良丹後守と三本松包囲陣から引き抜いた被官の宮川甲斐守房長に毛利征伐
を命じた。
安芸に侵攻した宮川勢は途中で山代一揆衆を加えて4,000余に兵力を増し、毛利方の桜尾城を
眼下に見下ろす折敷畑山に布陣した。宮川甲斐守はここで岩国の江良丹後守らを待つことにした。だ
が、その前に毛利勢が動き出した。
毛利軍はこの時安芸の大内方の諸城と厳島の制圧のために兵力を分散させており、手元にあるのは
3,000人ほどであったが、宮川勢が先遣隊にすぎず後続を待っている状態であることを見抜くと
即座に行動を開始した。
6月1日、毛利軍は元就・隆元(毛利家現当主)の本隊による正面からの攻撃を開始した。元就の
作戦は新手を段階的に投入することで兵力と地形の不利を克服しようというものだった。毛利軍本隊
と宮川勢先手の山代一揆衆の戦闘が一進一退になると横合いから小早川隆景の部隊が押しだし、さら
にそれに対応するために甲斐守が山腹まで釣り出されると、その背後を吉川元春と福原・宍戸の部隊
が急襲した。包囲された宮川勢は総崩れとなり折敷畑山から追い落とされてしまった。宮川勢は西麓
の明石で踏み止まったが、5日までの戦闘で山代一揆衆から多数の寝返りがでたことにより敗北は決
定的になり、甲斐守以下750人が討ち取られた。
折敷畑山合戦は双方の力関係をすぐに逆転させるものではなかったが、三本松包囲陣に少なからず
の影響をもたらしたと見て良かった。8月下旬、吉見正頼は晴賢の怒りの矛先が元就に向けられたの
を最大限に利用して、嫡男亀王丸を人質に出して降服した。両家の遺恨を考えれば吉見家が滅ぼされ
ても不思議ではなかったが、それが降服しただけですんだのは明らかに元就の策動のおかげであった。
さて、三本松包囲陣の終結は晴賢が対毛利戦に集中できることも意味していた。だが、大内家の分
国のうち石見が東隣を尼子氏に脅かされ、さらに屈服したとはいえ依然晴賢の潜在的な敵対勢力であ
る吉見家が西端に位置しているため動員対象から外され、筑前も同国を実質支配する高橋鑑種が動員
に難色を示しているため、大内家が毛利征伐に使用できる兵力は一万数千にすぎなかった。安芸と備
後の大半を支配する毛利家が相手ではこれは少々心もとない数字である。そのため、毛利征伐は十分
な兵が動員できるまで見送られることになった。
元就はこの時間的猶予を最大限に利用した。まず、元就は謀略を用いて尼子晴久に同家の最大軍事
勢力である新宮党を討たせ、その軍事力を削減させることに成功し背後の憂いを無くした。おかげで
毛利家は大内家に集中することができた。
元就の謀略は大内家にもしかけられた。元就は江良丹後守が毛利と内通しているという噂を流した。
丹後守は先の折敷畑山合戦で宮川房長が戦死するまでまったく兵を動かしておらず、この噂は信憑性
があるとみられた。少なくとも晴賢はこれを事実と信じた。丹後守が動かなかったのは単に宮川甲斐
守と連携がとれてなかっただけかもしれないが弘治元年3月16日、丹後守は晴賢から命じられた弘
中三河守に殺害された。晴賢はこれで子飼いの被官を二人も失う羽目になったのである。指揮統制上
これは由々しき事態である。晴賢は毛利征伐を急ぐ必要に迫られた。
毛利家の対大内戦の戦略は決戦による短期終結を目指すというものであった。国人衆の寄合所帯に
すぎない毛利勢は大内家の大軍が太田川まで進出すると寝返る者が続出する事態が予想されるからで
ある。長期戦になっても同様である。
元就は大内勢を廿日市で阻止することを決めた。毛利家にとって幸いなことに大内勢の安芸進攻路
は非常に限られていた。つまり、石見からの侵攻は先述した理由により論外で、周防の内陸側からの
侵攻は山々の悪路のため大軍が一度に通れるわけもなく、兵力を小出しにすれば折敷畑山の二の舞に
なりかねなかった。となると必然的に大内勢の進攻路は海路も併用できる海岸線となる。
また、元就は大内勢主力即ち晴賢の軍勢を厳島におびき寄せ奇襲で殲滅する作戦も立てた。厳島は
大内家の安芸侵攻が実行される度にその総司令部が置かれていた。伝統を重んじる晴賢が厳島を本拠
とすることは容易に想像できた。
勝利をさらに確実にするため元就はさらなる謀略を用いた。廿日市をおさえる桜尾城の桂能登守元
澄に内応を装わせ、厳島に宮尾城を築いたのを後悔しているという噂を流したのである。
弘治元年9月20日、大内軍はついに安芸侵攻の準備を整え岩国への集結を完了した。大内軍の進
攻は元就が予想したどおり陸と海からであった。大内軍の大将である晴賢とその被官、大内家では一
番元就の戦略に詳しい安芸守護代の弘中隆兼は桂能登守の内応も宮尾城築城を後悔しているという噂
もそれが元就の謀略であることは見抜いていた。だが、その謀略が何を目的としたものであるか彼等
まったく理解できなかった。元就の狙いは罠の存在を疑わせることで大内勢が兵を二分するようにす
ることである。そして、晴賢は元就の思惑どおり兵をほぼ半分にわけ自分は1万の兵を率いて厳島に
上陸した。
9月22日、厳島に上陸した晴賢の大内勢は勝山城を拠点とし宮尾城を包囲した。ここまでは元就
の計画どおりである。しかし、元就にはある重大な問題点があった。制海権である。
厳島に逆上陸するにしても晴賢を島から出さないようにするためにも制海権は絶対に必要であった。
だが、制海権を奪取するために必要不可欠な水軍の数が明らかに不足していたのである。元就は大内
側の水軍である大内警固衆の白井衆に内応を働きかけていたが、白井衆の奉行人である白井越中守の
説得に失敗して貴重な時間を浪費する結果となった。交渉の重点はその後沖衆と呼ばれる来島・能島
の両村上水軍に移されたが、沖衆の帰趨は27日になっても明らかにならなかった。宮尾城は陥落寸
前にまで追いつめられていた。元就の作戦は大内勢を宮尾城に集中させておいてその隙に背後から上
陸するというものであったが、肝心の宮尾城が陥落してしまったらすべてが台無しになってしまう。
元就は自前の水軍だけで作戦を開始すると言い出すほど錯乱状態に陥った。沖衆への増援要請は自
前の水軍だけでは作戦の成功がおぼつかなかったからである。慎重な元就が初めて打った大博打は最
も肝心な部分で綻びかけていた。そして、元就にそれを繕う術はなかった。
その元就に朗報が伝えられたのは28日であった。待ちに待った沖衆がついに到着したのである。
これにより元就の手駒である川之内警固衆・沼田小早川警固衆・因島村上警固衆に沖衆を加えた毛利
水軍の軍船の数は500を超え大内水軍に若干優位に立つことができたのである。
30日、地御前の火立岩に全軍を集結させた元就は軍を3つにわけ夜陰に紛れて行動を開始した。
まず、元就と毛利・吉川勢を乗せた川之内警固衆が最初に出発し、その後残りの部隊も出発した。
この時、大内勢は元就の狙いどおり宮尾城に意識を集中させており、また夜だということもあって
か水軍衆も含めて大半が熟睡していた。
奇襲の条件は整えられた。だが、毛利勢は事前に大内警固衆に発見されてしまった。しかし、警戒
のため軍船を分散させていた大内警固衆は陣形を整える前に沖衆に突入を許してしまう。そこへ川之
内警固衆に追い崩された聖崎沖の軍船が逃げ込み、大内警固衆は混乱を来した。
海の異変は陸にもすぐ伝わったが、伝わると同時に大内勢は恐慌状態になってしまった。最初に異
変に気づいたのは弘中三河守であったが、彼が敵の強襲上陸を警戒して海岸に陣を移そうとしたとき
にはすでに事態はどうしようもないところにまで悪化していた。東岸の包ヶ浦に上陸した1,000
人ほどの毛利勢が山を越え密かに博奕尾周辺に展開していたのである。毛利勢の突撃で三河守麾下の
岩国衆は脆くも崩れ去った。
水上でも大内警固衆が敗走していた。小早川勢を揚陸した小早川警固衆と因島警固衆が九州からの
増援を装って背後から攻撃すると白井衆と共に瀬戸内の大内警固衆を形成する屋代島衆が次々と寝返
ったのである。水上での毛利方の勝利は明かであった。
陸の戦いは小早川勢が参戦したことで大内勢の崩壊に拍車がかかり、晴賢も敗走せざるを得なかっ
た。晴賢に残された手段は脱出しかなかった。出雲遠征につづく2度目の挫折である。だが、あの時
と違う点があった。厳島から脱出するには船を手に入れる必要があったのだ。しかし、すでに味方の
水軍は姿を消していた。晴賢は警固衆が引き返すのを待とうとしたが、毛利勢の追撃は厳しく10月
1日ついに観念した晴賢は青海苔浦で自害した。
晴賢は自害したが、その首が見つからなかったため残敵掃討はその後も続けられた。弘中三河守父
子が戦死したのが3日、晴賢の首級が発見されたのが5日で、掃討戦が終了したのは11日であった。
この戦いで大内方は守護代2名奉行人多数を含む5,000人以上の戦死者を出し、その軍事能力
に深刻な打撃を被った。双方の力関係はこの一戦で完全に逆転したのである。
戦いに勝利した元就は弘治3年、義長を長府の功山寺で自害させ大内家を滅ぼし、その領国を自分の
ものとした。さらに、永禄9年11月28日には尼子氏も屈服させ安芸の一国人にすぎなかった毛利家
を一代で中国地方の大半と一時的ではあるが九州の筑前と豊前の一部を支配する大大名に成長させたの
である。厳島合戦時すでに元就は60ちかい高齢であった。大器晩成という言葉は元就のためにあるよ
うなものである。
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