黒田如水対大友吉統
−石垣原1600−
幼い当主、内紛状態の豊家譜代、天下を狙う徳川家康。太閤豊臣秀吉の死後、不穏な空気
が流れる日本で虎視眈々と勢力の拡大を狙う男がいた。軍師として秀吉を天下人におしあげ
た如水軒円清である。
石田三成の決起を好機として自領の拡大に乗り出す如水。その如水の前にかつて豊後を統
治していた大友左兵衛督吉統が立ちはだかる。
【黒田如水の生い立ち】
黒田如水は天文15年11月29日に赤松氏の一族小寺政職の家臣小寺職隆の嫡男として生ま
れた。幼名は万吉。
17歳の時に官兵衛孝高を称し、22歳の時に家督を継いだ官兵衛は天正3年に主君と共に織
田信長に従属し、羽柴秀吉の配下におかれた。譜代の家臣が皆無で竹中半兵衛、蜂須賀正勝、浅
野長政ら外様の寄騎衆に多くを依存していた秀吉にとって知謀にあふれ洞察力も優れる官兵衛は
なくてはならないものとなった。
しかし、官兵衛の前途は平坦なものではなかった。天正6年に摂津の荒木村重が石山本願寺と
それを支援する毛利家に通じて信長に反旗を翻すと、官兵衛は説得のため伊丹城に赴くが捕らえ
られ1年もの間幽閉されてしまう。この過酷な牢生活で官兵衛は足が不自由になってしまうが、
それでも信長や秀吉への忠節を貫いたとして秀吉の信頼を得た。
天正11年に元々の姓である黒田姓に復した官兵衛は秀吉の天下取りに大きく貢献するが、そ
の溢れんばかりの智謀は主君である秀吉に警戒されるようになっていった。官兵衛がどんなに手
柄をあげたとしても秀吉は決して彼の所領を加増しようとはしなかった。ある日、秀吉が側近に
自分の死後誰が天下人になると思うかと質問した。徳川家康の名を挙げる者もいれば毛利輝元の
名を挙げる者もいたが、秀吉は黒田官兵衛が天下を取るだろうと言った。そのことを聞いた官兵
衛は天正17年に家督を長政に譲って隠居する。
だが、秀吉は隠居した如水を手放そうとはしなかった。警戒すべき人間だとしても如水の智謀
は秀吉にとって必要だったからである。その秀吉が慶長3年に没すると如水は戦乱の勃発を予測
した。
秀吉の政権は横の連携が全くとれていないアンバランスなものだった。家康の専横を抑止する
ための二頭体制(家康と前田利家の)も双方の力関係が拮抗していれば問題ないが、片方が倒れ
るともう片方の方に権力が集中する危険があった。如水ほどの洞察力をもってすれば、この政治
体制がやがて崩壊するだろうということは容易に想像できた。そして、前田利家の死とその直後
の反家康の急先鋒石田三成襲撃事件で集団指導体制は脆くも崩れ去り、天下の実権は徳川家康の
掌握するところとなった。
だが、家康も如水もこのまま何事もなく済むとは思っていなかった。襲撃事件の責任を負わさ
れ政権の中枢から追放された石田三成が必ず決起するはずである。家康は三成らの決起を誘うた
め上杉征伐に乗り出すと、如水は息子の長政を家康に同伴させると同時に自らは国許の豊前中津
で挙兵の準備を整えるのだった。
如水の狙いは家康の留守を突いて挙兵するであろう三成ら反徳川勢力を鎮圧して戦後の論功行
賞で他家を引き離すことであった。そのために如水は長政に5400人の兵を同行させてもなお
国許にほぼ同数の兵を動員したのである。さらに如水は大坂と中津の中継である備後の鞆と周防
の上関に早船を待機させ事態の急変に素早く対応できるようにした。
これだけの準備をしておけば三成とそれに与する中小諸侯の決起が起きても、迅速に上坂した
如水が在坂の親家康派諸侯を掌握してこれを鎮圧することはたやすいことであった。
だが、三成の挙兵は如水が想像したような一部の大名による私的な軍事行動ではなく毛利輝元
・宇喜多秀家の両大老を総帥・副総帥とし、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が諸侯に参
陣を要請する書状に連署するという公的でしかも家康率いる上杉討伐軍に匹敵する規模の大軍を
動員したものであった。
如水の戦略は大きく変更を余儀なくされた。中国の毛利家と筑前の小早川家が三成方西軍に参
加した事によって黒田領は両家に挟撃される危機に陥った。この状況で如水がとれる戦略は領国
の保全しかなかった。だが、偶然かどうかは知らないが毛利家の意志決定に大きく関与する吉川
広家と小早川家の当主秀秋の調略を担当していた長政によって毛利・小早川両家は−当主が主力
を率いて上方に出陣していることもあって−黒田家にとって直接的な脅威とはならなかった。
しかし、たとえ毛利家と小早川家との武力衝突が避けられそうになったとしても当初の計画は
破棄するしかなかった。如水は狙いを近隣諸国に定めた。九州の諸侯の大半は主力を率いて出陣
していて国許にはわずかな留守部隊しか残っていなかった。しかも上方に出陣している諸侯は上
杉征伐に参加している細川忠興や寺沢広高を除きほとんどが西軍に組しており、東軍の黒田家が
それらの領国を侵略する大義名分となっていた。如水は先述の5000人程度の兵に加えさらに
日頃貯め込んでいた財をばらまいて3600人の臨時雇いの不正規軍を召集して、九州の西軍諸
侯が東軍と対峙して動けない隙に乗じて打って出ようと機会を窺った。
宗満―宗信―高教―高宗―高政―重隆―職隆(小寺)― 孝高(黒田)―長政―忠之―光之
【大友吉統の生い立ち】
大友吉統は永禄元年に九州の大大名大友宗麟の息子として生まれている。元服して義統、後に
豊臣秀吉に臣従して吉統と改名した。
一時は九州の大半を支配した大友家だったが、島津氏や龍造寺氏の台頭で次第に勢力を失って
いき、天正15年頃に秀吉から安堵されたのは豊後1国と豊前宇佐郡の南西部だけであった。そ
の領土も文禄の役での味方を見捨てて敗走するという失態によって失い、吉統は秀吉が没した翌
年の慶長4年まで他家お預かりの身となってしまう。
西軍が挙兵したとき吉統は京都にいた。如水もしくは熊本の加藤清正が何らかの軍事行動をと
るであろうと予想した西軍は御家再興を条件に吉統に九州に向かうよう要請した。要請といって
も妻子を人質にとってのことだから実質は脅迫まがいの命令であった。仕方なく命令に従った吉
統は西軍から与えられた武具と戦費で浪人を徴募して海路移動した。豊後に上陸した吉統の元に
は大友家の旧臣が多数駆けつけた。
能直―親秀―頼泰―親時―貞親―貞宗―氏泰―氏時―氏継=親世=親著=持直=親綱=親隆=親繁―政親―義右―親治―義長―義鑑―義鎮―吉統―義乗
【石垣原合戦】
如水は当初、吉統を味方に引き入れようと考えた。島津を相手に最後まで屈しなかった大友勢
を味方に付ければ豊後の制圧はなったも同然である。九州平定以来、黒田家と大友家は親しい間
柄であり吉統が如水の誘いに乗る確率は高かった。
だが、慶長5年9月9日に別府浦に上陸した吉統は田原紹忍や宗像鎮続ら駆けつけた旧臣達の
反対を押し切り如水の誘いを断った。理由はよくわからないが、妻子が人質になってるのと関係
があるのだろうか。もし、そうだとすれば吉統は世間の評判どおり臆病者の愚物だということに
なる。戦国大名たるもの何よりも家名と領土を守ることを第1に考えなければならない。非情の
ように思えるが妻子というのはいくらでも代わりを作ることができるのだ。妻がいなくなったら
またよそから妻を迎えたら良いし、子をなくしてもまた別の子を産ませたら良いだけである。
それはさておき、大友が敵対する態度を明らかにすると如水はこれを叩きのめすべく10日に
豊後に侵攻した。竹中伊豆守重利の高田城を戦わずして降し、その城兵200を自軍に取り込ん
だ如水は垣見和泉守一直の富来城と熊谷内蔵允直盛の安岐城に迫った(両城の当主は上方にあっ
てこの時は不在)。
一方の大友勢は立石城を修築しそこを本陣とすると細川越中守忠興の飛び地である杵築城を包
囲していた。杵築城を守っていたのは名将松井佐渡守康之だったが、大友勢の猛攻にわずか3日
で二の丸を落とされ窮地に陥った。
杵築城の危機を知った如水は4番備の井上九郎右衛門を大将とする4番・5番・6番・7番備
からなる3000人の支隊を杵築への後詰とし、富来への押さえを1番備の母里太兵衛に任せ安
岐には自身が指揮する2番・3番備と旗本が向かうことにした。
黒田勢の後詰が出現すると杵築城を包囲していた大友勢は如水が現れたと勘違いして杵築城攻
略を断念して、12日に立石に後退した。これを見た細川家の諸将は即追撃を主張した。指揮官
の井上は如水から勝手な交戦を禁じられていたが、追撃に同調する者も少なくなく井上は押し切
られる形で追撃を承認した。
その日の日没までに追撃を知った如水は急遽安岐城を放置して戦場に急行した。13日に熊谷
勢が追撃しようと安岐城を打って出たが、殿の栗山四郎右衛門に粉砕された。
13日になって追撃してきた黒田勢が如水の本隊ではないと気づいた大友勢は立石を出陣して
石垣原に布陣した。大友勢の総数は先陣・吉弘統幸、第2陣・宗像鎮続、第3陣・木辺兵庫入道
と吉統の本陣合わせて4000人。一方の黒田勢は細川勢1000を加えた4000人が緒戦の
総数であった。
石垣原は高さ1丈ほどの火山弾が東西6町余にわたって石垣のように列をなして連なっていた。
兵力で劣り、ろくな支援勢力もない大友勢にとってこの「石垣」は絶対に確保しなければならな
かった。大友勢の先鋒となった吉弘統幸と宗像鎮続は死を覚悟して突撃を敢行した。対する黒田
勢も先鋒の久野次左衛門、曾我部五右衛門らが「石垣」を奪取せんと南下して大友勢と激戦を展
開した。
戦いは百戦錬磨の強者が多い大友勢が優勢だった。如水が不在の黒田勢は諸将の足並みが揃わ
ず、久野、曾我部らが次々と討死した。だが、吉弘統幸が井上九郎右衛門との一騎討ちで負傷す
ると大友の先手勢は総崩れとなった。黒田勢はこれを追撃し宗像鎮続ら500人を討ち取った。
戦いに敗れても吉統には旗本と後備が残っていた。これを投入すれば戦局を逆転させることが
できたかもしれないが、吉統は如水の所在が掴めなかったためこの予備兵力の投入を躊躇してし
まった。やがて、如水が黒田勢の拠点であった実相寺山に到着し、大友勢の勝機は完全に消え失
せた。
だが、それでもなお大友勢は立石城に籠城して抵抗を続けようとしていた。石垣原で少なくな
い武将を失った如水は力攻めを避け、14日に降服を勧告する使者を送った。吉統は如水の陣に
田原紹忍を派遣して降服する旨を伝えた。吉統と近臣は中津に護送され、城兵は黒田勢に編入さ
れた。
【如水に天下の野望はあったのか】
大友吉統を降した如水は九州諸国を平定していき、11月に家康から停戦命令が届くまでに島
津を除く西軍諸侯が彼の軍門に下った。だが、それらは如水だけの功績とはされなかった。彼個
人の功績は関ヶ原で決戦が行われた9月15日以前に攻略した豊後高田城のみとされた。如水は
家康から九州が切り取り放題であるとの確約を得ていたが、彼はそれが空手形で終わることを予
測していた。そのため如水は石垣原合戦以降、力攻めを極力避けた。戦後、黒田家は筑前名島5
2万3000石の大名となった。34万石以上もの加増である。しかし、それは如水の息子長政
の功績として与えられたものであった。如水は秀吉だけでなく、家康からも警戒の対象とされた
のだった。
さて、この時期の如水には天下への野望があったとされている。それを裏付けるエピソードも
あるが、はて実際はどうだったのだろうか。おそらく如水にはその野望はなかったと思う。どん
なに智謀溢れる名将だとしてもそれだけでは諸将を従わせることはできない。なぜ、石田三成が
毛利輝元を西軍の総大将にしたのか。それは19万石余の領主でしかない彼の貫禄では諸将を繋
ぎ止めることが不可能だったからである。如水の黒田家はその石田家にも劣る18万石の領主で
しかなかった。さらに、如水は家康や三成のように豊臣家から公儀の軍隊として認められたわけ
でもないのだ。もし、仮に如水が天下取りに着手したとしたら彼は東西どちらが勝利するに関係
なく豊臣政権への反逆者として討伐を受けるだろう。如水ほどの人物がそんなことも見抜けない
筈がない。
筑前52万石の太守。それは如水にとって決して不満ではなかったはずである。彼は持てる限
りの能力、技術を駆使して己の輝かしい戦歴を有終の美で飾ることができたのだ。
戦国最大で最後の名軍師黒田如水は晩年穏やかに暮らし慶長9年3月20日、京都で59年の
生涯を閉じた。
一方、大友吉統は再び謹慎の身となり慶長10年7月に常陸で没した。48歳であった。大名
家としての大友家は彼の代で絶えたが、子孫は高家として幕府に仕えた。
もどる
戦国インデックスへ