伊達政宗対蘆名盛重
−摺上原1589−
奥州の地は何重もの婚姻関係によって結ばれていた。そのためこの地は戦国時代という
争乱の中にありながら虐殺などという血なまぐさいものとは縁がない状態だった。だが、
それは一人の武将の登場で終わりを告げる。その武将の名は伊達左京大夫政宗。その果敢
で苛烈な戦いぶりは織田信長を彷彿させるものだった。そして、信長と同様政宗も周囲を
敵に囲まれる危機に陥るのだった。時には死を覚悟するまでに追いつめられた政宗だった
が、やがて包囲網を瓦解させるチャンスを手にする。政宗は逆転をかけて宿敵・蘆名盛重
に戦いを挑むのだった。
【政宗の生い立ち】
伊達政宗は永禄10年8月3日、伊達家16代当主輝宗とその正室・義姫の長男として米沢
城で生まれた。幼名は母・義姫が大山祗命をまつる霊山・湯殿山に祈願したことによって生ま
れたことから「梵天丸」とつけられた。
子供の頃の政宗は内気な恥ずかしがり屋で、人の前に出ることすら嫌がったといわれている。
しかも5歳の時に疱瘡によって右眼が失明して顔が異様な様相になると、ますます人前に出る
ことは少なくなったと思われ、側近の者ですら政宗に将器はないとぼやく有様で母親ですら顔
が醜い政宗を嫌い弟の竺丸を溺愛していた。
そんな政宗の数少ない味方が父・輝宗だった。輝宗は政宗の将器を見抜き、わざわざ名僧・
虎哉宗乙を招き政宗に京都五山文学の教養を身につけさせた。さらに、輝宗は側近の人事にも
気を配った。側近は当主の相談役をも務める重要な仕事である。そして輝宗は最良の側近を政
宗につけた。それが片倉小十郎景綱と伊達成実で、後に両者は「伊達家にその人あり」といわ
れるほどに伊達家で重きをなす存在となるのである。
天正12年10月に家督を継承した政宗はその翌年の閏8月、一度は伊達に降るとみせなが
ら結局は会津の蘆名氏についた大内定綱の支城・小手森城を攻略したが、その時政宗は奥州で
は例のないことをやってのけた。城中の者を老若男女の区別なく処刑したのである。いわゆる
「撫で斬り」である。他の地域では珍しくもなかった行為だったが、奥州ではこれが初めてで
あった。すでに中央では藤原秀吉が関白に任じられ天下人となっていた。
この政宗の苛烈な戦いぶりに危機感を抱いた周辺の諸大名は、連合軍を組織して政宗を追い
つめた。11月17日の「人取橋合戦」で政宗は自刃を覚悟したが、運良く敵の総大将・佐竹
義政が陣中で殺害されたため危機を脱した。しかし、苦境に立たされている状況に変化はなく
政宗は事態を打開する術を模索した。そして、それは思いの外早く訪れた。連合軍の中核・蘆
名家の家督問題である。
藤原鎌足・・・伊達朝宗━宗村━義広━政依━宗綱━基宗━行朝━宗遠━政宗━氏宗━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗持宗━成宗━尚宗━稙宗━晴宗━輝宗━政宗━忠宗━綱宗━綱村━吉村━宗村━重村━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗・・・斉邦━慶邦
【盛重の生い立ち】
蘆名盛重は天正4年に常陸の戦国大名・佐竹義重の次男として誕生した。そして白川義親の
養嗣子となり義広と名乗った。そのままの状態でいけば白川義広として人生を送っていたかも
しれない。しかし、天正14年11月21日に会津の蘆名亀王丸が3歳で死去すると、義広が
その後継候補として擁立されたのである。義広は同じ後継候補である伊達政宗の弟・小次郎と
の争いに勝利して蘆名家当主となり名を盛重と改めた。
佐原義連━蘆名盛連━光盛━泰盛━盛宗━盛員━直盛━詮盛━盛政━盛久━盛信━盛詮┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗盛高━盛滋━盛舜━盛氏━盛興━盛隆━亀王丸━盛重
【蘆名家の家督騒動】
天正12年10月6日に蘆名盛隆が家臣の大庭三左衛門に斬殺されると蘆名家家督は子の亀
王丸が継いだ。しかし、その亀王丸も同14年に死去すると蘆名宗家は断絶の危機に陥った。
そこで他家から養子を迎え家督を継がそうという事になったのだが、その候補に挙がったのが
伊達政宗の弟・小次郎と佐竹義重の次男・義広である。
なぜ、この二人が候補となり得たのかは蘆名家との血縁関係にある。小次郎と義広はともに
蘆名盛高の玄孫にあたるのである。つまり、盛高の娘と伊達稙宗との間にできたのが晴宗でそ
の直系の孫が小次郎で、晴宗の娘と佐竹義重との間にできたのが義広なのである。
蘆名家は南奥最大の戦国大名で同家が佐竹側になるか伊達側になるかによって双方の勢力関
係は大きく変わる。そのため、伊達も佐竹も必死に工作を進めたが伊達側には有利な点があっ
た。義広がすでに白川家の養嗣子になっている点である。そのこともあって、一門衆筆頭の猪
苗代家、家臣筆頭格の四天王の半数、外様の国人領主が小次郎擁立に支持を表明し、小次郎派
の勢力は義広の勢力を凌駕した。
だが、継嗣に選ばれたのは義広だった。義広派の領袖である金上遠江守盛備が上方とのコネ
を最大限に活用し小次郎派を切り崩した結果だった。豊臣秀吉とのコネクション確立は勿論の
こと、御館の乱で景虎を支援して以来疎遠な関係にあった上杉景勝と親しい間柄である佐竹家
との縁組みは蘆名家にとって願ってもないことである。しかも、佐竹は秀吉に盛んに使者を送
って誼を通じていた。それに対し、伊達家は秀吉との結びつきがほとんどなく、秀吉から敵視
されている北条氏との友好関係を無条件で維持していた。近い将来、秀吉が北条氏討伐を実行
するとその一味として伊達が討伐の対象になる可能性が高く、そんな家から養子をもらっても
一緒に滅ぼされるだけである。盛備ら義広派の家臣はそう考えていた。結果、義広が黒川城に
迎えられ蘆名盛重と改名したのである。
蘆名家と佐竹家との一体化が避けられなくなったことで、政宗の戦略は転換を余儀なくされ
た。これまでのように守勢に徹していたのでは佐竹によって蘆名家が完全に乗っ取られてしま
う。それよりも積極的に攻勢に出ることで両家を分断した方が危険が少ないと政宗は考えた。
幸い蘆名家内部に親伊達派を多数抱えていた状態で、それらを内応させることで一時的な優位
をつくりだすことは難しいことではなかった。しかも、政宗にとって都合がいいことに蘆名家
内部で盛重に重用された家臣達と小次郎を擁立した結果、政権の中枢から追放された宿老達と
の間に深刻な対立が起こっていたのである。伊達の調略は十分に成功する可能性があった。
蘆名家の内紛は義重から盛重の後見を命じられた佐竹家家臣・大縄讃岐守義辰の失策が原因
だった。盛重がまだ若年のため義辰が実質上蘆名家を支配していた。義辰は小次郎派の家臣の
粛清を進める一方、その問題から蘆名家家臣を締め出し佐竹家家臣を中心に事を進めようとし
たのである。しかし、それは事態を悪化させただけでなく不満と反感の矛先を佐竹家家臣に集
中させる結果となった。そして、義辰はその事態を沈静化することができず、蘆名家は家中の
統制ができない状態になってしまった。
そんな状況の蘆名家に追い打ちをかける事件が勃発した。かねてより対立していた猪苗代盛
国と息子の盛胤との間に戦闘が起きてしまったのである。猪苗代の地は会津盆地を守る東の要
であり、蘆名家にとって重要な地域であった。
事の発端はすでに盛胤に家督を譲って隠居していた盛国がその後の小次郎擁立の失敗、佐竹
系の家臣による小次郎派の弾圧などで息子の能力を危惧し、隠居を後悔し始めたことにあった。
天正16年5月10日、盛胤が黒川城に出仕した隙を突いて盛国が猪苗代城を奪取した。盛胤
は兵を集め城を奪回しようとしたが、仙道筋(白河・岩瀬・安積・安達・信夫など奥州街道に
沿った各郡をさす)に出陣を予定していた盛重には盛胤を支援する余裕がなかった。その場は
金上盛備の仲介でとりあえず和睦が成立したが、それは問題を先送りしただけのその場しのぎ
の解決でしかなかった。そして伊達との対陣中に蘆名勢が猪苗代城への警戒を終始緩めなかっ
たことで政宗に猪苗代家の内応の可能性を察知されることになったのである。
【決戦】
天正17年4月22日、政宗は軍勢を率いて出陣した。大森城に入った政宗は5月3日に南
下して本宮城に入り、片倉景綱・伊達藤五郎成実・大内備前守定綱・片平助右衛門親綱に安子
ヶ島と高玉の両城を攻めさせた。安子ヶ島は4日に無血開城したが高玉は抵抗した末に5日に
陥落して撫で斬りにされた。
両城を手に入れた政宗は相馬方面に転進した。政宗の狙いは敵の注意を仙道筋と相馬にそら
してその隙に猪苗代に進出して蘆名勢が不在の黒川城を攻略することだった。そして蘆名盛重
は政宗の期待通り安子ヶ島と高玉の奪回に動いた。蘆名勢と佐竹義宣の軍勢は27日に須賀川
に集結した。しかし、佐竹義重は主力を白河城から動かそうとはしなかった。義重は猪苗代父
子の対立に妥協の余地がないことを大縄義辰から報告されており、政宗の狙いが猪苗代である
ことぐらい見抜いていたのである。
6月1日、猪苗代盛国から内応受諾の返報を受けた政宗は片倉景綱と伊達成実の部隊を相次
いで先発させると同時に、米沢に使者を送り待機させていた支隊に南下を命じた。そして、政
宗自身は重臣達の反対を押し切って3日の日没後に雨の中での夜間行動を強行して4日午後に
猪苗代城に入った。この時、政宗は須賀川に集結中の蘆名・佐竹の連合軍の付近を通過してい
たのだが、連合軍はこの政宗の動きを察知していなかった。彼等が察知していたのは片倉隊の
動向だけで、それも3日から4日にかけての強い雨でその後の動きを掴み損ねている。それは
伊達勢も同様で政宗が探知できたのは連合軍の須賀川集結と義重の未着だけでそれも不完全な
情報だった。対する義重が探知したのは伊達先遣隊の猪苗代入城と伊達主力の本宮城集結のみ
で、それも政宗が掴んだ情報と同様不完全なものだった。
不完全な情報を基に情勢の判断をしなければならない両者だが、政宗は義重父子を出し抜い
たと判断して予定どおり黒川城攻略に動いた。一方、義重は判断を保留した。
5日の未明に蘆名勢が黒川城を出発したとの報告を受けた政宗はその日のうちに黒川城に迫
ろうと全軍に出陣を命じた。しかし、その直前になって蘆名勢が日橋川を渡って高森山付近に
集結中との情報が届いたため、黒川城への出陣は中止となり急遽蘆名勢との決戦に挑むことに
なった。
5日早朝、伊達勢は摺上原付近で高森山に布陣した蘆名勢と対峙した。両軍の兵力はほぼ同
数の1万人ほどだが、日橋川を背にした蘆名勢は背水の陣に身を置くことになった。
伊達勢は大きく二手に分かれる。猪苗代勢と片倉隊を一番備とする本隊と伊達成実隊と旗本
衆の一部からなる別働隊である。政宗の戦術は本隊が正面の敵を拘束している隙に別働隊が後
方に迂回して蘆名勢の後備を釘付けにするというものである。それで戦況が拮抗しているとき
に黒脛巾組から選抜した少数の破壊工作部隊が日橋川の橋を破壊する。そうなれば伊達勢は正
面戦力だけで蘆名勢を包囲することができ、退路を遮断された蘆名勢は戦意を喪失して崩壊す
るはずである。
一方の蘆名勢だが盛重は伊達の主力部隊が出現したことに仰天していた。彼は片倉隊と猪苗
代勢のみを殲滅するつもりでいたのだ。蘆名勢は猪苗代の攻略を諦め、仙道方面で佐竹勢が攻
勢に出るまで持久すべく布陣を改めようとした。猪苗代へ進軍中の蘆名勢は細く伸びきった状
態にあったからだ。
蘆名勢を実質的に指揮する大縄義辰は高森山の内堀を形成する窪地へと下る坂に猪苗代盛胤
や河原田治部少輔、新国上総介らの外様衆と指揮下の佐竹系家臣の諸勢をむかわせた。この坂
の上端を敵に押さえられたら反撃の足掛かりを失うことになるためである。さらに義辰は金上
盛備指揮の譜代衆・浪人衆を窪地の中に配置し、その左後方に宿老の佐瀬源兵衛と与力の慶徳
善五郎、中目式部、沼沢出雲守ら親佐竹派の譜代家臣からなる部隊を前進させた。これで蘆名
勢の先手衆は坂の上端を占拠した猪苗代勢を除き反斜面に布陣したことになり、伊達勢の視界
から姿を消すことに成功した。その後方は高森山麓の旗本衆で富田将監が先手を本陣と馬廻衆
を義辰の子・与七郎が指揮を執った。以上の先手衆と旗本衆は戦意旺盛な精強部隊だったが、
問題は後備で平田周防守・富田美作守は蘆名家の宿老だったが、小次郎擁立に積極的だったた
め失脚していた。旗本先手を指揮する富田将監は美作守の嫡男だが、彼は盛重擁立派だったた
め盛重の側近になっていた。これにもう一人宿老の松本源兵衛がいたが、彼の家は家督騒動の
はるか以前から累代の蘆名家当主から疎まれていた。つまり、蘆名家を支える四天の宿老のう
ち戦意を期待できるのは唯一、盛重擁立に加担した佐瀬家のみだったのである。さらに、富田
一族と松本一族は前々から仲が悪かった。そのため後備の諸勢は前方の部隊が布陣を終えても
依然として行軍中だった。
蘆名勢の持久作戦に対し、政宗はその態勢が完了する前に攻撃することにした。現時点での
兵力は伊達勢がやや優勢だがぼやぼやしていたら佐竹に後方を遮断される恐れがあった。
午前8時頃、伊達の鉄砲衆の射撃で合戦が始まった。伊達勢の射撃に義辰は応戦を命じ、猪
苗代隊、新国隊、河原田隊の鉄砲衆が反撃した。先述したように大縄義辰は盛重の参謀として
蘆名勢を実質的に指揮する立場にあったが、同時に彼は先手衆の総指揮官でもあった。これは
致命的なミスだった。総司令部であるはずの盛重の本陣は14歳の盛重と若い側近で構成され
ていてその機能を果たしていなかった。本来なら義辰が本陣で指揮を執るべきだったが、彼は
前線で戦闘を指揮していた。そのため、前面の戦闘の変化には即応できても後方部隊を完全に
制御するのは不可能であった。
それでも緒戦の戦況は蘆名勢が優勢だった。伊達勢の先手を十分に引き付けたと見た義辰は
敵から見て反対斜面に隠れて射撃から身を守っていた先手の全部隊に攻撃を命じた。先手隊は
射撃で隊形を乱して進撃する伊達勢を切り崩した。猪苗代勢は片倉隊右翼に、河原田治部少輔
の久川衆は同左翼に、新国上総の長沼衆は猪苗代勢の正面に突進した。これに佐竹系の諸隊も
続き、片倉隊と猪苗代勢は後退し始めた。そこへ金上盛備の部隊が左側背に押し寄せ、片倉隊
は敗走、猪苗代勢も総崩れとなった。
味方の苦戦を見た政宗は旗本衆から200人の鉄砲隊と左右を固める大内・片平兄弟に救援
を命じた。太郎丸掃部に率いられた鉄砲隊は猪苗代盛胤の正面に展開し射撃を開始した。主力
を父・盛国に奪われた盛胤はこれに抗することができず深手を負って敗走した。
猪苗代盛胤の手勢を撃破した伊達勢だったが苦戦は続いていた。しかし、この状況に焦って
いたのは政宗よりも優勢に戦いを進めている大縄義辰であった。万以上の大軍を指揮した経験
がない彼は暴走する先手衆を制御することができなくなっていたのだ。突出する先手衆を伊達
の大内・片平の両隊が締め始めていていた。もはや、持久戦どころではない。全軍を挙げての
進撃をしなければいずれは破綻しかねない状況だった。
ところが、蘆名勢の後備は伊達成実の別働隊の攻撃で混乱し動きを止めていた。前線からは
新手をの投入の要請が届けられたが、ただでさえ統率力に乏しい本陣からの命令は混乱する後
続の諸隊に無視された。さらに黒脛巾組による橋梁破壊と松本・富田・平田の三宿老寝返りの
流言は蘆名勢に致命的な打撃を与えた。寝返りを名指しされた宿老衆は次々と戦線を離脱し、
金上家との対立が深刻化していた針生盛信も逃走した。
後続から崩壊していく裏崩れによって奮戦していた先手衆も限界に達し蘆名勢は総崩れとな
った。金上盛備と佐瀬源兵衛、畠山義綱らは後退中に成実の手勢に退路を断たれ討死した。盛
重は義辰の説得で離脱を決意し、殿を志願した富田将監と500人の旗本衆が敵を食い止めて
いる隙に撤退した。残った旗本衆は太郎丸掃部を討ち取ったが、押し寄せる伊達勢に抗しきれ
るわけもなかった。富田将監がどうなったかはわからない。離脱とも戦死とも伝えられている。
蘆名勢は3000の兵を失う大敗を喫した。黒川城に戻った盛重は籠城しようとしたが麾下
のほとんどが逃走してしまったため10日夜に城を捨て脱出した。その翌日に政宗が黒川城に
入城した。摺上原の戦いからわずか6日で鎌倉時代から続く名門・蘆名家は滅亡したのである。
【その後の両雄】
会津を追われた盛重は実家の佐竹家に戻り、翌年に秀吉から常陸の江戸崎に45000石を
与えられた。しかし、それも慶長7年の佐竹家の秋田転封で没収され、以後は秋田藩士として
余生を過ごした。寛永8年6月没。56歳であった。
一方、蘆名家を葬った政宗は須賀川の二階堂氏を滅ぼすなど秋まで周辺の制圧を続けた。そ
の翌年の正月を政宗は黒川城で迎え大層上機嫌だったという。秀吉からは大名間の私戦を禁じ
た惣無事令に違反したことを釈明するために上洛せよとの命令が来ていたが、得意の絶頂にあ
る政宗はそれを無視した。政宗は秀吉の力を侮っていたのである。そのため小田原征伐に出陣
せよという命令にもすぐには従わなかった。その代償として政宗は摺上原で獲得した領土を失
うことになった。その後、政宗が秀吉に表立って反逆することはなかったが、政宗謀反の噂は
何回か流れた。その度に政宗は秀吉に釈明を繰り返した。実際は政宗には隙あらばという思い
があったとされているが、秀吉の目が黒いうちは無理と判断し表向きは猫をかぶっていた。
そして秀吉の死とその後の混乱で政宗にチャンスが訪れたかに思えたが、そのチャンスをも
のにしたのは徳川家康だった。以後、政宗は徳川幕府の外様大名として生きる道を選び、寛永
13年5月24日午前6時頃に江戸で没した。享年70。
摺上原の戦いは戦国期の奥州では最大規模の合戦であった。しかし、この合戦の真の勝利者
は伊達政宗ではなかった。彼が獲得した会津の地は早くも翌年に秀吉に没収された。もし、蘆
名盛重が勝っていたら、或いは合戦そのものがなかったとしたら秀吉が会津を手に入れること
はなかっただろう。秀吉は政宗が勝ったからこそ会津を手にすることができたのだ。それはま
さに漁夫の利であった。それに対し、政宗は自分の力ではどうすることができないことがある
と悟るしかなかった。それは同時に戦国争乱の幕が下ろされた瞬間でもあったのである。
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