新田義貞対北条泰家
分倍河原1333


 
       上方で巻き起こった倒幕の波は幕府のお膝元である関東にも波及した。源頼朝
      以来、冷遇されてきた新田氏の当主義貞は足利高氏の催促に応じて挙兵する。各
      地で味方を募った義貞は鎌倉を目指す。それを迎え撃つ北条左近衛大夫泰家率い
      る幕府軍。義貞は見事幕府軍を撃破し、鎌倉幕府を滅亡させた。だが、その勝利
      の栄光を味わえたのは彼ではなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    新田義貞は正安3年に新田朝氏の次男として生まれた。新田氏の祖・義重は八幡太郎義家の
   子・義国の嫡男で本来なら彼の家系が義国流の嫡流であった。しかし、源頼朝の挙兵にすぐに
   応じなかったとして義国流の嫡流の座は義重の弟・義康の流れを汲む足利氏に奪われることと
   なったのである。そして、足利氏が源家将軍断絶後に源氏の嫡流と見なされ北条氏に次ぐ勢力
   を確保したのに対し、新田氏は長く冷遇され続け義貞も30を過ぎているのにまだ無位無官と
   いう有様だった。また、その所領も代替わりごとの細分化で義貞の代には上野国新田荘約60
   郷のうちわずか数郷にまで支配地が減少してしまっていた。
    清和源氏の家系を持ちながら一般御家人と同等の扱いしか受けなかった義貞はそれでも幕府
   の命に従って元弘3年の千早城攻囲戦に従軍する。その時に後醍醐天皇の綸旨を得た義貞は病
   と称して帰国する。さらに帰国した義貞に同族の足利高氏から挙兵を促す書状が届けられた。
   “どうするべきか”思い悩む義貞に幕府から課税の要求が出された。郷民から厳しく勢を取り
   立てる幕府の役人を見てついに義貞は決断する。幕府の役人を捕らえて処刑した義貞は元弘3
   年5月8日午前6時、一族を生品明神に集め挙兵した。
 
 
      義重━義兼━義房━政義━政氏━基氏━朝氏━義貞
 
 
 
 
 
 
    北条泰家は鎌倉幕府9代執権・北条貞時の子として生まれた。生年は不明。母は兄の高時と
   同じ大室泰宗の娘。高時が執権を引退するとその後継になることを望むも内管領の長崎高資の
   反対で実現しなかった。以後、泰家は長崎一族を深く恨むことになる。
    後醍醐天皇らの挙兵で元弘の乱が起こると泰家は上方へ向かう援軍の大将に任命されたが、
   新田義貞の挙兵が伝えられるとその鎮圧を命じられるのだった。
 
 
     時政━義時━泰時━時氏━時頼━時宗━貞時━泰家
 
 
 
 
 
 
    決起に及んだ義貞勢だが、当初の軍勢は150騎ほどでしかなかった。そこで義貞は隣国越
   後の新田一族を糾合してから鎌倉を目指すことにした。第1の目標は上野守護所である。上野
   の守護は得宗家(北条氏嫡流)なので実際の任は代官の長崎孫四郎左衛門尉が就いていた。長
   崎には義貞討伐の命が下っていたが、新田勢との合戦で瞬時に壊滅してしまった。
    上野守護所を制圧した義貞勢は信濃源氏などの同族の来援で数を増やし、5月9日には利根
   川を渡って武蔵に入った。ここで義貞は足利高氏の嫡男・千寿王とその麾下200騎の軍勢と
   合流した。千寿王は北条氏の人質となっていたが、脱出して行方をくらませていた。この時、
   千寿王はわずか4歳だが、源氏嫡流の足利氏の嫡男の合流で新田勢の士気は大いに上がった。
   義貞自身も素直に喜んでいたのである。その後、義貞の下には続々と味方する武将が集まって
   きたが、彼等は義貞を総大将とは見なかった。倒幕軍の総大将は千寿王で義貞は足利氏の末の
   一族と誤解されていたようだ。それでも自分達の力だけでは不安を感じていた義貞は足利勢の
   合流で勢力が一気に増大したのでホッと胸をなで下ろした。千寿王の来援は高氏の陰謀だった
   が、この時の義貞にはそれを見抜くだけの力量はなかった。
 
    足利勢の合流で意気盛んな倒幕軍に対し、幕府は討伐隊を差し向けることにした。丁度、京
   都に向かう北条泰家の軍があったのでそれを向かわせることとなった。5月10日、討伐隊は
   桜田治部大輔貞国率いる武蔵・上野の御家人6万余騎と金沢武蔵守貞将率いる上総・下総の御
   家人5万余騎の二手に分かれ北上した。このうち、義貞が指揮する倒幕軍の方に向かったのが
   桜田治部大輔の部隊で、化粧坂の切通しから鎌倉を出て鎌倉街道上ノ道を北上した。桜田勢は
   鎌倉の外濠的役目のある入間川で倒幕軍を迎撃する計画を立てていた。だが、倒幕軍はすでに
   入間川を渡河し小手指ヶ原に進出していた。
    外濠渡河を阻止できなかった桜田勢は何としてでも敵を撃退しようと合戦に挑んだ。11日
   午前8時頃、両軍は交戦状態に入り日没まで戦った。勝敗はつかなかったようで倒幕軍は入間
   川まで幕府軍は久米川まで後退した。
    翌日、倒幕軍は夜明けから幕府軍を急襲した。幕府軍もそれを想定していたようで両軍は昨
   日と同様の激戦を展開した。数の差を利用して包囲殲滅を図る幕府軍に対し、義貞は敵本陣の
   突破を企てた。両軍乱れての白兵戦の末、桜田治部大輔は全軍を多摩川の分倍河原まで撤退さ
   せた。一方の倒幕軍は勝利したものの疲労が激しくこれ以上の戦闘継続は不可能と判断して追
   撃は行わなかった。
 
 
 
 
 
 
 
    久米川の敗退を知った幕府軍は急遽、北条泰家率いる援軍10万余騎を出発させた。桜田か
   らは総退却すべきかの打診が来ており、士気の低下を心配した泰家は軍勢を猛スピードで北上
   させ14日の夜に桜田勢と合流した。援軍の到着に桜田勢の士気は上がった。
    一方、幕府軍に増援が到着したことを知らない義貞は軍勢を分倍河原まで進出させた。分倍
   河原の敵を撃破して多摩川を渡れば鎌倉まで一直線である。15日未明、義貞は全軍に突撃命
   令を出した。勢い盛んに突撃する倒幕軍。それを横に並べられた3000人の射手から放たれ
   る無数の矢が迎えた。飛び交う矢の多さに倒幕軍は動揺し前進を阻まれてしまった。これを好
   機と幕府軍は前進を始めた。義貞は事態を好転させようと自ら精鋭を率いて敵陣を何度も突き
   崩したが、兵力差から来る劣勢は挽回できず倒幕軍はついに潰走した。小手指ヶ原より北の堀
   金まで後退したというから完全な敗走である。
    無様な敗北を喫した義貞だが、その日の夜から彼の下に続々と援軍が馳せ参じた。三浦義勝
   が率いる6000の相模の武士団である。幕府の援軍として来たのが義貞に寝返ったのだ。他
   にも坂東八平氏や武蔵七党といった武蔵の武士団も義貞の味方となっている。どうやら、足利
   高氏が六波羅探題を急襲して探題北方・北条仲時及び南方・北条時益以下が全滅したとの情報
   が届いていたらしい。六波羅探題の滅亡は上方の戦闘が倒幕軍の勝利に終わったことを意味す
   る。関東の倒幕軍の士気は昨日の敗戦を吹き飛ばす程向上し、逆に幕府軍の士気は一気に低下
   した。
    軍勢を早期に立て直すことが出来た義貞は、16日の午前4時に再度分倍河原に迫った。こ
   の時、三浦義勝が義貞に策を告げた。その策とは三浦勢が増援を装って幕府軍に近づき、油断
   したところを攻撃する。そうすると幕府軍は混乱するからそこを義貞が突くというものである。
    義貞はその策を採用することにした。三浦勢は先陣を進み、声も旗もあげずに幕府軍の陣地
   に迫った。幕府軍はこの三浦勢を味方と思いこみ傍観していた。すると、三浦勢がいきなり旗
   を掲げ、鬨の声をあげて流れ込んできたのである。三浦勢の突入を見て、背後にいた倒幕軍も
   左右に散開して三方から幕府軍を攻めた。三浦勢の裏切りと昨日撃退したばかりの倒幕軍が攻
   めてきたことで幕府軍は脆くも崩れ去った。大将の泰家も敗走を余儀なくされ、関戸で倒幕軍
   に捕捉されるが、弓の名手である横溝八郎や安保入道らの奮戦でなんとか鎌倉に逃げることが
   出来た。その代償に横溝と安保は壮絶な討死を遂げている。同じ頃、別働隊の金沢武蔵守の軍
   勢も武蔵の鶴見で義貞に呼応する武士団に敗れ去っている。
    勝利を収めた義貞は関戸で軍を一泊させたが、その後も参陣する武将が後を絶たず、翌日に
   は607’000人に達したという。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    鎌倉幕府滅亡後、北条泰家は奥州に逃げその後は南朝方で挙兵したとされる。彼がいつ没し
   たかは不明である。
    一方、新田義貞は5月22日に鎌倉を攻略して北条高時以下を自刃に追い込んだ。挙兵から
   わずか2週間で鎌倉幕府と北条氏は滅亡したのである。
    だが、義貞がその勝利の余韻に浸ることはなかった。幕府倒壊後、倒幕軍に参加した武将の
   大半が義貞ではなく4歳の足利千寿丸の下に参集したのである。そこへ高氏が派遣した関東討
   伐軍が到着すると、義貞は追われるように鎌倉を去って上洛する羽目となった。その後、鎌倉
   は高氏の弟・直義が管理するようになり、関東は足利氏の実質的な支配下に置かれることとな
   った。
    義貞は戦術的には優れた武将であった。だが、天下を動かせる力量は全くなかった。足利氏
   が源氏の棟梁として武士達から北条氏に変わる指導者と認められたのに対し、少し前まで無名
   だった義貞に対抗する術はなかった。それが義貞の限界である。それを見抜いていた楠木正成
   は後醍醐天皇に義貞を切って尊氏と手を結ぶべきだと進言している。最早、世の中は武士なく
   しては成り立たず、その武士達を束ねることが出来るのは足利尊氏しかいないと。だが、その
   進言は受けいられず、義貞は南朝方を代表する武将として各地を転戦し、暦応元年(延元3年)
   6月末に越前藤島で討死した。それから2ヶ月後の8月11日に尊氏が征夷大将軍に任命され
   新しい武士の時代が始まるのである。
 
 
 
 
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