ウエリントン対ナポレオン
−ワーテルロー1815−


 
 
      “麒麟も老いれば駄馬にも劣る”若き頃は類い希なる才能と運によって栄光を手に
     した人間も時が経つに連れ衰えやがては消えていく。かつてヨーロッパの大半を支配
     下に置いた男も例外ではなかった。男の名はナポレオン・ボナパルト。
      だが、男はかつての栄光を忘れられなかったのか、再び野望の実現のため舞い戻っ
     てきた。瞬く間に祖国の実権を握るナポレオン。しかし、彼が欧州世界で受け入られ
     るにはその存在はあまりにも強烈だった。再び対ナポレオンの同盟を結ぶ欧州各国。
     ナポレオンは自分が権力者の地位に居続けるには戦いに勝利しなければならないと十
     分に承知していた。そして、その勝利を得るには連合国が動員を完了するまでに各個
     撃破していくことが唯一の手段であることも。
      男は再び戦場に戻ってきた。対する敵軍はゲプハルト・フォン=ブリュッヒャー率
     いるプロイセン軍と、ウエリントン卿アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍であ
     る。
 
 
 
 
ウエリントン ナポレオン 対決 去りゆく英雄の季節
    ウエリントン公爵こと本名アーサー・ウェルズリーは1769年4月29日、アイルランド    のダブリンで初代モーニングトン伯爵ギャレットと妻アンの息子として生まれた。1787年    に第73連隊に入隊したウエリントンは革命が勃発したフランスとの戦争に従軍する。180    8年のイベリア戦線で戦闘を有利に進めていたウエリントンはその功績を認められ翌年、元帥    府に列した。1812年にナポレオンがロシア遠征に失敗するとイギリス軍を率いて1814    年に南フランスに上陸してトゥールーズを占領、同年公爵に叙せられウィーン会議にイギリス    の主席全権として参加している。     ナポレオン・ボナパルトは1769年8月15日、フランス領コルシカ島の貧乏貴族シャル    ルとマリアの子として生まれた。フランス革命では革命側につくものの、革命政府内の政争に    巻き込まれ一時失脚する。その後、釈放されたナポレオンはイタリア戦役、エジプト戦役、マ    レンゴ戦役と戦い抜き、1804年、国民の圧倒的支持を得て皇帝に即位する。翌年からのオ    ーストリア、ロシア、プロイセンとの戦いでいずれも勝利を収めたナポレオンはヨーロッパの    支配者として君臨した。1812年のロシア遠征に敗北して続くドイツ戦役とフランス戦役に    も敗れたナポレオンは退位を強要されエルバ島へ流された。しかしナポレオンは1815年3    月20日、再びパリに凱旋して皇帝に復位した。     ナポレオンが復活したとの情報がもたらされると周辺諸国は再び対仏連合を結成し、70万    もの兵を動員した。それに対するフランスは20万しか動員できなかった。だが、連合軍は必    ずしもお互いに協調しているとは言い切れず、そこを突けば各個に撃破することも不可能では    なかった。     連合を形成する主な国家は英普露墺4ヶ国だが、そのうち出足が早かったのがイギリスとプ    ロイセンである。情報収集でそれを知ったナポレオンは自ら軍隊を率いて出撃した。この時、    英普軍はお互いの距離が80q離れており、ナポレオンは各個撃破のチャンスが到来したこと    を確信した。さらに彼はイギリス軍を指揮するウエリントン公とプロイセン軍を指揮するブリ    ュッヒャー元帥の仲があまり良くないことも知っていた。     ナポレオンは1815年6月14日にベルギーとの国境に到着した。かつて足で戦争に勝利    したと謳われたフランス軍の迅速な機動はいまだ健在で、翌15日にはシャルルロワ周辺でプ    ロイセン軍と交戦してこれを撃破した。さらにその翌日もフランス軍は英普軍と交戦して、プ    ロイセン軍に半分近い損害を与え、ブリュッヒャーを寸前のところまで追いつめた。一方、イ    ギリス軍を攻撃したフランス軍は攻撃開始が遅れたのと兵力不足が原因で苦戦したが、孤立を    恐れたウエリントンはワーテルローまで退却した。     この日の戦いは一応フランス軍の勝利に終わった。だが、それはその場かぎりの勝利であっ    て戦争の勝利に直結するものではなかった。なぜナポレオンが二つの軍を同時に撃破しようと    したかはわからないが、この時はプロイセン軍のみに攻撃を集中するべきだった。そうすれば    ブリュッヒャーを討ち取ることも可能だったし、プロイセン軍に早々と御退場を願うこともで    きたのだ。     退却した英普軍はそれぞれ離れた場所にいた。イギリス軍はワーテルローにいたが、プロイ    セン軍の位置は特定できなかった。そこでナポレオンはド・グルーシー元帥に全体の3分の1    の兵力を与えこれの捕捉撃破を命じた。ド・グルーシーは捕捉する自信がないと辞退したが、    皇帝が一度出した命令を取り消しするはずもなかった。仕方なくド・グルーシーはどこに行っ    たかわからないプロイセン軍の捜索に向かったが、石頭で柔軟な思考に欠ける彼は皇帝からの    命令のみを意識して本隊との距離を一定に保つことをせずにどんどんと離れていってしまった。    そして、最終的にはプロイセン軍よりも遠くに行ってしまったのだ。これが後の敗退の大きな    要因となるのである。     ド・グルーシーを送り出したナポレオンは残り3分の2の兵力をもってワーテルローのイギ    リス軍と対峙した。ワーテルローに展開するイギリス軍は兵員68,000と大砲156門、    対するフランス軍は兵員72,000に大砲250門と敵方を上回っていた。フランス軍は雨    が降る中、ラ=ベル・ラリアンスに布陣して決戦に備えた。     ワーテルローに降り注いでいた雨は18日になっても続いていた。この時期は4時頃に日の    出となるが、この日はようやく空が明るくなり始めた程度であった。この雨のせいか砲兵隊の    準備が遅れ、ナポレオンから各軍団長に作戦命令書が通達されたのは11時頃であった。もう    雨はとっくに止んでいた。     11時45分、戦闘が開始された。火力で優勢なフランス軍はイギリス軍を中核とする連合    軍を押していった。ナポレオンは中央突破を狙っていた。そして敵の中央の厚みを減らす為、    末弟のジェロームが指揮する師団をウーグモン城館に向かわせた。これは敵の中央戦力をそっ    ちの方へ吸引する陽動であったが、ナポレオンの意に反してジェロームはウーグモンへの攻撃    を師団全体で行ってしまった。ナポレオンの弟である以外に何の特徴もないジェロームは兄か    らの命令をそのままの通りにしか受け取らなかったのだ。ナポレオンも弟の軍人としての無能    は知っているはずだからきちんと陽動であることを説明すべきだった。かつてナポレオンは詳    細な作戦命令書を作って部下に配っていたが、今回の作戦命令書は簡潔な物だった。そのため    肝心の部分が欠けているときもあった。     師団をあげての総攻撃を実施したジェロームだが、わずか2個大隊の守備隊に苦戦を強いら    れしまう。これをみて他の部隊もウーグモンへの攻撃に参加してしまう。さすがにウーグモン    も陥落寸前となり、イギリス軍の幕僚は救援を進言したがウエリントンはそれを却下した。彼    は中央の部隊を動かせばナポレオンが中央突破を仕掛けてくると判断していたのだ。     13時、戦場から遠く離れた場所から近づいてくる軍隊が確認された。それはフォン・ビュ    ーローのプロイセン軍だった。まだフランス軍の脅威になるような距離ではなかったが、参謀    総長のニコラ・スルト元帥はド・グルーシーの別働隊を呼び戻すことにした。そこまではよか    ったが、この参謀総長は広大なベルギーの平原に行方もわからない部隊を捜索するのにわずか    1騎の伝令しか派遣しなかった。遅れてその事を知った皇帝はあまりもの判断力のなさに前の    参謀総長とおもわず比較して呆れてしまった。     戦闘は膠着しつつあった。それを嫌ったナポレオンはイギリス軍戦線のほぼ中央にあるラ=    エイ=サント農場の占領を図った。そこには400人のイギリス軍がおり、そこをデルロン軍    団の4個師団が攻撃した。イギリス軍に参戦していたドイツ小邦、オランダ、ベルギーの部隊    はこの攻撃を阻止することができず総崩れとなった。イギリス軍も師団長の一人であるピクト    ン中将と龍騎兵隊司令官のポンソンビー中将が戦死した。     15時、ラ=エイ=サントの戦いは続いていたが、ウーグモン城館がついに陥落した。ナポ    レオンはミロー将軍の胸甲騎兵をネイ元帥の指揮下に移した。ネイはこれを総攻撃の指示が下    ったと判断して騎兵のみの総攻撃を実行した。このネイという人物は勇猛果敢だけが取り柄で    ナポレオンから「君の軍事知識は入隊したての少年兵と変わらないね」と言われた程、知略に    乏しく頭に血が上りやすいタイプの軍人だった。     ナポレオンが気づいたときにはネイの騎兵だけでなく、ルフェーブルの槍騎兵と猟騎兵、さ    らには何を考えているのか近衛騎兵までもが攻撃に参加していた。つまりはフランス軍騎兵の    大集団が敵陣に接近してしまっていたということだ。この発端がネイの軽率な騎兵のみによる    突撃だと知ったナポレオンは「イエナの時と同じだ。ネイがすべてを台無しにしようとしてい    る」と激怒した。結局、フランス軍はイギリス軍の陣地の半分を潰滅させるが、損害もまた大    きくネイは攻撃の失敗を悟った。気を取り直したネイは歩兵を率いてラ=エイ=サントの攻防    戦に参加してこれを占領した。     戦闘はフランス軍の優勢に進んでいた。18時頃にはナポレオンは勝利を確信していた。一    方のウエリントンは幕僚達に敗色濃厚であると認めていた。     あと一歩でイギリス軍をワーテルローから駆逐できる。そう判断したネイは皇帝に予備兵力    の投入を要請したが、近衛部隊の温存を考えた皇帝はこれを拒絶した。1時間後、ようやく皇    帝は近衛部隊の投入を決意するが時既に遅く、イギリス軍は態勢を立て直して反撃に移行して    いた。そこへブリュッヒャーのプロイセン軍が到着してフランス軍の敗北が決定した。結局、    ド・グルーシーの軍は決戦に間に合うことができなかった。まったく無駄な動きに終始したと    いえるだろう。そして、そうなった原因の大半は皇帝にあるといって良いだろう。かくして再    起をはかった男の挑戦は100日天下という結果に終わった。     敗北したナポレオンはフランスに戻ることはできたが、もはや再挙は不可能であった。逮捕    されたナポレオンは孤島セント=ヘレナに流されて1821年5月5日午後5時49分、その    地で没した。病死とも毒殺ともいわれるが死因ははっきりしない。彼が祖国に戻ることができ    たのは1840年12月だった。     一方、ナポレオンの再起を叩きつぶしたウエリントンは戦後、首相、外相と歴任して陸軍総    司令官を最後に公職から引退した。1852年9月14日、ケント州ウォルマー城で死去。     ワーテルローの会戦はナポレオン戦争の最後となる戦いだった。だが、この会戦の意義はた    だ単に一人の男の戦いの人生が終わったというだけでなく、1701年のスペイン継承戦争か    らはじまる第2次百年戦争の最終的な決着がついたことにもあった。そして、一つの時代が終    わろうとしていることも。     ナポレオン戦争とは一個人の判断によって戦争の趨勢が決せられる最後の例となった。アレ    クサンダー大王にしろ、カエサルにしろ、チンギス・ハーンにしろ古代から近世までの時代は    英雄の活躍で戦争の勝敗が決まることが多かった。これは軍隊の規模もさほど大きくなく、組    織編制も単純なものだったことが原因だろう。     しかし、フランス革命で国民皆兵の時代が到来すると軍隊の規模は拡大し、組織も複雑なも    のへと変化していき、一個人の手腕だけでは軍隊を運用することができなくなってしまった。    拡大し複雑化する軍隊組織を円滑に運用できるようにするため参謀が登場し参謀本部が設置さ    れることになったのである。ナポレオンも参謀の存在なくしては軍隊を完全に運用できなくな    っていた。もっともナポレオンの参謀本部は後方支援が主な役割で皇帝に作戦を具申すること    はなかった(というより皇帝がそれを嫌った)。それに対し、プロイセンは参謀本部の組織を    拡大させることでナポレオンという英雄に対抗し勝利を得ることに成功する。     ワーテルローでプロイセンを含む連合軍にナポレオンが敗北した瞬間、それは英雄の時代の    終焉を物語っていた。以後、一個人の英雄の動向で戦争の勝敗そのものが決せられた例は存在    しない。かくして最後の軍事天才ナポレオンの没落と共に英雄の季節は過ぎ去り、組織運営の    差で勝敗が決まる季節へと移り変わるのである。
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