最上義光対直江兼続
−慶長5年戦役羽州戦線1600−


 
       慶長5年9月8日、会津の上杉景勝の軍勢2万数千は隣国出羽国村山郡に侵攻
      を開始した。領国庄内への攻撃に対する報復である。さらに村山郡を制圧するこ
      とで庄内との連絡を直結し、後顧の憂いを除いて関東に攻め込む意図もあった。
       この上杉軍を率いるのは景勝の無二の忠臣にして景勝家督の功労者である直江
      山城守兼続。それを迎え撃つは親兄弟とも戦って版図を拡げた出羽の梟雄・最上
      出羽守義光である。
 
 
経緯 最上義光 直江兼続 対決 その後
    太閤・秀吉の死後危ういバランスの上に成り立っていた豊臣公儀は前田利家の死で一気に崩    壊へと向かい、徳川家康の専横を許すこととなった。。石田三成の失脚、前田利長の家康への    屈服、毛利輝元の家康への接近で豊臣政権は家康の意のままになってしまった。     だが、唯一家康に従おうとしない武将がいた。中納言・上杉景勝である。彼は秀吉の死の直    前に越後から会津120万石に移封され3年間の在国を許されていた。中央が政争に明け暮れ    ている間に景勝は新領土の経営に従事していたのだ。     なぜ自分が会津に移されたのか、景勝はそれを十分に理解していた。会津は蒲生少将氏郷が    治めていた地で奥州の伊達政宗の動向を監視する要衝である。同時に関東の徳川家康を牽制す    る役目を負っていた。氏郷の死後、嫡子・秀行が転封されたのも幼少で大役には向いていない    のと彼が家康の娘婿だったからである。     伊達と徳川という一癖も二癖もある連中に睨みを利かせ、10年間で3度も主を変えている    会津を治めることができるのは上杉しかいないと秀吉は判断した。上杉と徳川は信長の死後の    混乱期に信州を巡って対立した経緯があり、決して良好な間柄ではなかった。     当時、豊臣家にとって国内での仮想敵国は徳川家であった。何といっても徳川は秀吉が武力    を発動させながらも最後まで屈服させることができなかった唯一の例であり、最終的には臣従    させることに成功したが、それは妹と実母を人質に差し出すという最大限の譲歩をした結果で    あった。秀吉にそこまでさせたのは家康ただ一人で、必然と彼は豊臣政権内で別格的な存在と    なり、その地位は秀吉と同盟関係に近いものだったらしい。     この最大の強敵を封じるために秀吉は家康をそれまでの東海甲信から関東に移封させた。関    東は直前まで後北条氏が統治していた地で新しくやってきた徳川家と旧北条家臣が衝突するの    を期待してのことである。かつて秀吉は同じ手で佐々成政を葬り去っている。しかし、家康は    成政ではなかった。彼は旧北条家臣の地位を認め譜代に取り込むことでうまく新領土の経営を    はじめたのである。     アテがはずれた秀吉は徳川領を包囲する戦略に出た。会津に蒲生氏郷を置き、さらに常陸の    佐竹義宣を家康を恨むように仕向けさせ、東海甲信に中村一氏や池田輝政といった配下の武将    を配置することで家康を包囲したのである。これにはさしもの家康も『律儀者』の内府殿を押    し通すしかなかった。     だが、氏郷が死に景勝がその後任となり直後に秀吉が死去する頃には状況は一変していた。    家康の西進を阻む東海道筋の武将が豊臣政権内での内紛の結果、こぞって親家康派となってし    まっていたのである。これによって徳川包囲網は不完全なものとなってしまった。それどころ    か今度は逆に上杉が徳川・伊達・最上・堀の敵対勢力に包囲されてしまったのだ。伊達は上杉    が統治している会津の奪還を宿願としており、最上は庄内を上杉に奪われた恨みがある。そし    て、堀左衛門督秀治は上杉の旧領・越後に移封されてきたが、上杉が年貢を全部持っていった    ので半年分を返すよう要求したものの断られたので遺恨を抱いていたのである。     これらのどれも秀吉が存命であれば問題なかっただろう。しかし、秀吉が死んで家康の専横    が始まると、堀秀治は恨みを晴らす好機として家康に景勝に叛意有りと訴えた。秀治は国内で    一揆の鎮圧に忙殺されており、彼はこれを上杉の差し金と見ていた。秀治は上杉が浪人を大量    に召し抱え、居城を修築していると家康に讒言した。確かに、それは謀反と疑われても仕方の    ない行為である。だが、家康は秀治の訴えを無視した。越後・川中島・庄内・佐渡の約90万    石から会津・庄内・佐渡・越後の一部の120万石に大幅に加増されたのでは人員も大量に必    要になるのは当然だからである。     しかし、慶長5年3月に上杉家重臣の藤田能登守が出奔して景勝の叛意を伝えると、家康も    動き出した。何といっても内部告発である。詮議の対象には十分である。この時すでに景勝以    外の大老が家康によって懐柔、屈服、もしくは弱体化しており、己の単独政権をより確固たる    ものにするために残った上杉家に家康は照準を向けたのだ。     当初、家康は前田家と同じく武力制裁をちらつかせば戦わずに上杉家は屈服するだろうと楽    観していた。だが、景勝は前田利長のような腰抜けではなかった。彼には不識庵謙信の後継者    だという自負があり、戦わずに相手の軍門に下るということは死よりも辛い屈辱なのだ。彼は    上洛して弁明せよという家康の命令に側近の直江兼続がしたためた返書を送った。これが有名    な『直江状』で、これは後世の創作らしいが家康が激怒したのは間違いないようなので実物も    同じようなことが書かれていたのであろう。内容は簡単に言えば上杉には謀反の意思がない、    それでも征伐すると言うのであれば受けて立つといったもので、兼続はこれを家康が激怒する    ぐらい挑戦的で無礼極まりない書き方でしたためたのだ。     上杉景勝の叛意は疑いようがない!6月2日、家康は諸大名に上杉征伐の動員令を発令した。    実は上杉には強硬な姿勢を示せば家康が譲歩するだろうと甘い見通しがあったらしいのだが、    家康は彼等が思うほど甘い男ではなかった。家康には上杉征伐で京都を留守にしている間に反    徳川勢力が挙兵するであろうという確信があり、今回の軍事行動はそれを誘発させるためであ    った。そして、家康の思惑通り反徳川勢力は挙兵した。     予報に反して家康の追討を受けた上杉だったが、こういう事態を考慮しなかったわけではな    い。彼等には家康率いる追討軍相手に勝てる自信があったのだ。国土防衛線の場合、上杉家は    7万以上の兵を動員することができる。さらに、これに新たに召し抱えた浪人衆1万以上が加    えられる。これに対し追討軍の兵力は関東の徳川勢を中心とする15万、奥羽勢6万、越後勢    2万、前田利長の軍勢2万に西国の軍勢を含めると30万に迫る大軍となる。     しかし、上杉家はこれを撃退する自信があった。『会津陣物語』という書物よると景勝は主    力を白河城に配置して革籠原で徳川勢を誘引・包囲殲滅するつもりだったらしい。あまり詳述    すると長くなるのでやめておくが、景勝はこれで家康を討ち取ることも不可能ではないと自信    を持っていたそうだ。しかし、この計画にはまだ上杉方に参戦することが確定されていない佐    竹勢を数に入れているし、徳川勢が上杉の思惑通りに動く保証もない。さらにこの上杉の作戦    計画を徳川方が事前に知っていたという説もあり、景勝の予想通りにいくとは限らない。景勝    には生涯不敗の勇将・不識庵謙信(朝倉宗滴の基準では謙信は名将ではない)に鍛えられた越    後以来の精兵がいるし、景勝も身近で謙信の戦いぶりを見て兵法を学んできたが、場数におい    ては家康の比でない。さらに家康が苦労続きの人生だったのに対し、景勝が苦労したと言える    のは家督争いから織田信長の軍隊に攻め込まれた数年間でしかない。後に徳川勢が上方に転進    したときに追撃を主張する声に「それは卑怯だ」と言って許可しなかったのも彼があまり苦労    してこなかったからだろう。     その上杉景勝を討伐せんとする徳川家康は7月24日に下総との国境近くにある下野の小山    に到着していた。その翌日には信夫口から侵攻した伊達政宗の軍勢が白石城を攻略している。    他にも棚倉口の佐竹義宣、米沢口の最上義光らも布陣を完了しつつあった。ただ、越後からの    津川口では上杉に煽動された一揆で堀秀治が鎮圧に忙殺されており、まだ布陣が完了していな    かったが、前田利長の軍勢が直に到着するであろうからあまり問題はないと言えた。     小山に着いた家康は25日に宇都宮に布陣していた息子の秀忠をはじめ諸将と評定を開いた。    この前夜に伏見城の留守を預かっていた鳥居元忠から上方の異変を伝える書状が届いており、    その対策を練るためである。元忠からの書状には伏見城の明け渡しを要求されているなど開戦    が間近であることが書かれていた。すでに19日に奉行の増田長盛から石田三成と大谷吉継が    共謀しているとの密告があり、家康は石田方挙兵は確実だと判断した。     問題はこの後どう動くかである。会津侵攻は21日と決まっていてすでに伊達勢は上杉領に    侵攻していた。しかし、福島正則ら豊臣譜代の武将は上方転進を主張した。挙兵した西軍の中    核は彼等が恨んであまりある石田三成だからである。仕方無しに家康は彼等と井伊直政・松平    忠吉・本多忠勝らを先に上方に進発させることにし自身は小山に留まった。この時点では西軍    は三成と大谷吉継を中核とする小規模なものだと判断されていて家康自らが出張る程でもない    と考えたのだ。下手に動けば背後を上杉に突かれる恐れがあるし、佐竹義宣が内通している疑    いもあった。それに家康には会津征伐にまだ未練があったらしい。     だが、その未練もわずか数日で吹き飛んだ。家康に三成挙兵を密告した増田長盛ら三奉行連    判の家康を糾弾する『内府ちがひの条々』が発せられ西軍の総・副大将に二大老が就任したの    情報が届いており、三成・吉継らだけと考えられていた西軍の規模が東軍に匹敵する大軍だと    判明したのである。家康に『内府ちがひの条々』の内容が伝えられたのは、同日に起きた細川    ガラシャの自殺の一件が夫・忠興に伝えられたのが27日であるから同日あるいはその翌日ぐ    らいだろう。     西軍が予想以上の規模であることを知った家康は29日に西上中の黒田長政を呼び戻して、    福島正則が裏切らないか尋ねた。正則が西軍の備前中納言宇喜多秀家に説得されて寝返るので    はないかと家康は恐れていたそうだ。これに対し黒田長政は正則と三成はとても仲が険悪だか    ら大丈夫だと答え家康を安心させた。     家康としても自分も上方に上って福島ら豊臣恩顧の武将達を統制したかっただろう。しかし、    上杉の動向が不明でさらに佐竹義宣の向背が定かでない以上迂闊に動くわけには行かなかった。    事実、義宣は家康からの人質要求を拒否したり、上杉に援軍を要請する書状を送ったりしてい    る。元々、義宣は石田三成と親しい間柄で三成が福島ら対立する武将達に襲われたときもこれ    を助けてもいる。義宣の西軍加担は疑いようのない事実であった。しかし、父・義重や重臣達    の反対で実際に軍を動かしての直接行動を取ることはなかった。     8月2日まで小山に滞在していた家康は5日に江戸城に戻った。そして、諸大名に手紙を送    り続けた。まず、伊達政宗に先手衆が西上したことを伝え秀忠を白河表の大将に残しておくか    ら何事も相談するよう申し送っている。これは秀忠を自分の名代として宇都宮に残しておくこ    とで会津の事を疎かにはしないという意思を示したものだ。政宗ら東北の諸大名が家康の江戸    滞在を望んでいたため家康もなかなか江戸を発つことができなかったのである。     家康としても上杉を拘束するために東北諸将特に伊達政宗の協力は必要なので8月22日に    かつて秀吉に没収された政宗の旧領およそ50万石を恩賞として与えるいわゆる『100万石    のお墨付き』という所領宛行状を発給している。翌日には江戸出発を延期するという書状を送    っている。     だが、家康にはのんびり江戸に留まっている余裕はなかった。すでに8月10日には伏見城    が陥落したとの報せが届けられており、尾張清洲城に入った先手衆からは家康出陣を要望する    書状が矢の如くもたらされていたからだ。家康が出陣を決意したのは27日に岐阜城が先手衆    によって陥落したとの報せがもたらされたときだった。そして9月1日、家康は江戸を出発し    た。宇都宮の秀忠も8月24日に家康の命で上方に向けて出発している。     一方、東軍の反転西上を察知した上杉家ではこの事態にまったく対応することができなかっ    た。領内迎撃のみを考えていた彼等はこの絶好の機会にどうするかというプランを何も持ち合    わせていなかったのである。西軍挙兵にあたって石田三成から何らかの連絡はあったはずだが、    家康を拘束するために外へ打って出るといった構想は上杉家の首脳部にはなかったらしい。     が、それも上杉家が包囲されている状況を考えれば仕方のないことであった。上杉が白河に    展開している7万の軍勢は他方面の戦力をギリギリまで切り詰めて抽出したもので、仮に佐竹    勢の加勢があったとしても約10万の東軍に対する兵力的劣勢は覆らないのだ。東軍が領内に    入ってきたのならともかく領外にいたままで転進されたのでは上杉が迅速に行動できないのも    無理はなかった。もし、数日西軍の挙兵が遅かったら東軍は上杉領に侵攻していただろう。こ    れは西軍の実質的指導者である石田三成のミスである。     無論、上杉方も関東に攻勢に出るつもりでいた。そのためには津川口・米沢口・信夫口の安    全を確保することが前提である。すでに津川口では大規模な一揆を起こさせ堀氏以下東軍諸将    を無力化している。次に伊達政宗と最上義光に寝返り工作を行っている。伊達勢と最上勢を味    方にすれば主力が転進した関東を蹂躙することは容易なことだった。     伊達と最上への工作は両家が家康から内諾を得ていたこともあって、戦闘の勃発だけは避け    られた。しかし、上杉家の目的は両家の中立ではなく味方として参戦させることである。両家    の参戦がなければ上杉と佐竹だけで関東に攻め込むことになるからだ。といっても、東軍諸隊    の再転進をさそうのであれば上杉勢だけでも十分であり、両家への工作に費やす日数を考えれ    ばすぐに打って出るべきであったが、彼等はそれを理解することはなかった。そして、それま    で交渉に応じていた最上義光が庄内に軍を進めたことで上杉家は関東侵攻作戦を取り止め、正    反対の最上領への攻勢を発動したのである。     最上義光が息子に1万の兵を与えて加勢に向かわせるとまで言ったのに一転して攻撃に踏み    切ったのは、秋田城介実季(この人の奥さんは織田信長の姪御さんです)が酒田に兵を差し向    けたからである。庄内を自分のものにしたいと思っていた義光はこれに過剰反応して、面従腹    背の方針を転換して約1000の兵を庄内南東部に送り込んだのである。     最上への交渉に時間を費やしていた上杉家はこの背信行為に激怒した。景勝は直江兼続に最    上家への報復的侵攻を命じ、家康だけでなく秀忠も西に向かい戦力が激減した関東への討ち入    りは永久になされることはなくなった。そして、義光と兼続、二人の名将が激突するのである。     最上義光は天文15年、最上義守と大崎氏の娘との間で山形城で生まれた。幼少から武勇に    優れ16歳の時に盗賊数十人を撃退したエピソードがある。最上氏は足利流清和源氏斯波支流    の家柄で斯波兼頼が羽州探題として最上郡に入ったことから始まる。義光はその兼頼から11    代目にあたる。     しかし、義光はすんなりと11代目の地位を確保したわけではなかった。父の義守が義光よ    りも弟の義時を溺愛して、家督を彼に譲ろうとしたからである。これに対して義光は元亀元年、    山寺立石寺に打倒義時を祈願している。     この対立は宿老の氏家伊予守が病をおして建言したので、義光の家督相続と義時の中野城主    就任で和解して落着した。ところが、義光が一族や諸将への統制を強めたため反乱が再発して    しまった。     当時、最上宗家の権威は無きに等しく義光は武力に訴えてでも当主の権力強化を図った。そ    のため抵抗する者には容赦がなく、父・義守を幽閉し弟の中野義時を殺害している。その他、    抵抗した一族をことごとく根絶やしにし、自身の権力を強固なものへしていった。天正15年    には庄内に侵攻してこれを完全に制圧した。この肉親にも容赦がないところや、重臣を離反さ    せて内部から崩壊させたり、城まで招いて謀殺するといった手段を選ばないところから義光は    『出羽の梟雄』と呼ばれた。まさにTHE戦国武将といった生き様だが、ただこの生き様を生    涯貫きとおしたことが最上家廃絶の遠因になっていくのだが。     天正15年から16年にかけての時期は義光の第1期黄金時代だったが、それ以降は上杉家    の支援を受けた本庄と武藤の軍に越後国境で大敗したり、伊達氏との抗争でも支援してきた大    崎氏が政宗に服属したり蘆名家が大敗するなどして衰運に向かっていった。しかし、秀吉の小    田原征伐で辛くも危機を切り抜けた。       兼頼━直家━満直━満家┳義春                  ┗義秋満氏━義淳━義定義守━義光━家親━義俊     直江兼続は長尾政景(上杉謙信の姉婿で景勝の実父)の家臣・樋口兼豊と泉氏の娘との間に    永禄3年に生まれた。著名な人物だが、幼少期は景勝に近侍していたという以外は不明である。    兼続の活躍が見られるのは天正6年3月9日に上杉謙信が危篤状態に陥った時である。生涯不    犯をとおした謙信には当然子がなく、後継者候補として二人の養子がいた。1人は人質として    来ていた北条氏康の七男・三郎景虎と兼続が仕える喜平次景勝である。     血統で言えば謙信の姉の子である景勝が最有力だが、景勝の父・政景は謙信の家督に反対し    て反乱を起こしたこともある人で、その死も謙信による暗殺説があるほどである。一方の景虎    は人質としてあっちこっちをたらい回しにされた経歴を謙信が不憫に思ってかつての自分の名    を与えたぐらい可愛がられていた。といっても謙信が生前にどちらを後継者にするとは語って    ないので上杉家家督を巡って内紛が起きる危険があったのだ。     当時、春日山城には関東出兵に備え5万もの大軍が集結していた。もし後継者が決まらぬま    ま謙信が亡くなれば春日山城で不測の事態が起きないとは限らないのだ。兼続は途方に暮れる    老臣達にはかって、景勝を密かに呼び寄せ謙信の枕元に控えさせた。そして、謙信を看病して    いた直江信綱の未亡人がわずかに謙信の口が動いたのを見て「お後は景勝様と仰せです」と声    高く伝え景勝相続が決まった。直後、謙信は息を引き取った。脳溢血らしい。     こうしてまんまと主君を上杉の当主にすることに成功した兼続だが、当然景虎派がそれを承    知するわけがなく、兼続は謙信の死を隠して集結した軍勢の解散を命じた。諸将が景虎と結ぶ    のを防ぐためである。異変を知って駆けつけた景虎らを兼続は断固として本丸には入れず、4    月になって謙信の死を知った上杉憲政(謙信はこの人の跡を継いで関東管領となった)が景虎    に家督をと申し入れても相手にはしなかった。その後、北条や武田が景虎救援に動いて危機に    陥るが、武田勝頼に上州や信州の領土を割譲する条件を提示してこれと和睦し孤立無援となっ    た景虎を自刃に追い込んだ。     1年に及ぶ家督争いを制して晴れて上杉家を牛耳った景勝と兼続だが一難去って又一難。今    度は西から織田信長が攻めてきたのである。家督争いで外のことが疎かになってしまった結果、    越中の上杉方諸将は信長に懐柔されていった。天正9年には新発田重家が信長に内通して挙兵    している。その翌年に兼続は景勝の命令で直江家を相続して名を樋口与六から直江兼続と改め    た。     この天正10年というのは上杉家がもっとも危機に瀕した年だった。越中からは柴田勝家、    信州からは森武蔵守長可、上州からは滝川一益、領内に新発田重家の反乱と四面楚歌の状態に    追い込まれ、武田勝頼が天目山で自刃したのと同じ3月11日に越中魚津城が柴田勢に包囲さ    れても救援に行けぬ有様だった。6月3日、魚津城が奮戦空しく玉砕すると景勝は絶体絶命の    窮地に追い詰められ、上杉家もまた武田家と同じ運命を辿るのは時間の問題かと思われた。     ところが、越後を目前にして柴田勝家らが兵を引き揚げたのである。織田信長が本能寺で明    智光秀の謀反で自刃したとの報が届いたからである。まさに運が良かったとしか言い様がない。     辛うじて危機を切り抜けた上杉家だが、まだ新発田重家の反乱を鎮圧できていなかった。越    後統一を目指す上杉家は新発田討伐に力を入れるが、なかなか屈服させることができない。こ    の頃、上杉家は信長に替わって天下人とならんとする羽柴秀吉に誼を通じていたが、重家も秀    吉と結んでいたのである。秀吉の方針いかんでは重家の自立も十分に有り得た状態だったので    ある。これに兼続は石田三成に接近して巻き返しに出た。結果、重家討伐の許可が下って天正    15年10月、ようやくにして新発田重家の反乱は鎮圧され景勝による越後統一は完成した。     この前の年、兼続は石田三成から景勝を上洛させるよう勧める書状を受け取った。これを友    情と感じた兼続は景勝に上洛を説得した。だが、上洛は秀吉への臣従を意味する。不識庵謙信    の跡を継ぐ自分が足軽上がりの秀吉に臣下の礼を取ることに躊躇する主君を兼続は説き伏せ、    5月20日に春日山城を出発させている。この時、兼続も同行して初めて京の都を目にし、6    月14日に大坂城で秀吉と謁見した。     兼続は幼少の頃から景勝に仕えていただけあって主の性格をよく心得てサポートした。景勝    という人は非常に無口で気性の激しい性格で家臣は敵よりも彼を恐れていたという。謀略を使    ったり賄賂を贈ったりすることも苦手でそれらは兼続が担当した。     こういうエピソードがある。ある日、景勝が秀吉に伺候に訪れたら曽呂利新左衛門という御    咄衆の1人が秀吉の耳元で口を動かしているのが見えた。秀吉は曽呂利は儂の耳の臭いをかぐ    のが好きだと言った。後日、曽呂利の元に上杉家から進物が届けられ、その事を秀吉に報告す    ると秀吉は「景勝は正直そうで融通も利きそうもない。おそらく直江の差し金だろう」と言っ    たという。秀吉は同じ手を徳川家康や伊達政宗などにも使っており、そのいずれもが曽呂利に    賄賂を贈っているが、景勝が賄賂を贈ったのは少し意外だったらしい。だから直江がやったの    だろうと思ったのだ。こうした主君に足りない部分をフォローするのが兼続の役目で兼続でな    ければできないことだった。     この主従関係を秀吉は羨ましく見ていた。天正16年5月、秀吉は景勝に従三位参議という    官位を与えた際に兼続にも従五位山城守という官位を与えている。これは陪臣としては破格の    待遇であり、兼続を直臣にしたいという秀吉の魂胆が丸見えである。しかし、景勝は断固とし    て秀吉の要望を拒み、兼続も主君を裏切ることはなかった。人たらしの名手といわれた秀吉も    この二人には通用しなかったようだ。     だが、それで秀吉の二人に対する態度が変わったわけではなかった。秀吉は無口だが律儀者    である景勝に好意を示し、景勝が上洛するとそれまでの弾正少弼から従四位下左近衛権少将に    昇進させその2年後には参議に、朝鮮から帰国した翌年の文禄3年10月には従三位権中納言    に任じている。さらに慶長2年には急死した小早川隆景の後任として五大老の一員に加えた。     このように秀吉から信頼を得た上杉家だが、その代償として秀吉の戦略の駒として扱われる    ことになった。文禄4年2月7日に会津の蒲生氏郷が急死すると、秀吉は景勝に120万石の    大封と引き替えに越後春日山から陸奥会津への国替えを命じたのである。120万石とは西国    最大の大名・毛利輝元とほぼ同じ石高で景勝にとって栄転にあることは間違いない。しかし、    越後は父祖以来の強いつながりがある。景勝は秀吉の命令に従うか否か迷った。命令に逆らっ    て改易された例があることを当然しっていただろうが、それでも景勝は決心がつかなかった。    そんな主君に兼続は相談を受けると即座に「会津に参りましょう」と進言した。その迷いのな    い一言で景勝は決心し、その事を秀吉に伝えた。すると秀吉はたいそう喜んだが、景勝に直江    に米沢30万石を与えるよう命じている。30万石とは秀吉側近の石田三成や武功派筆頭の加    藤清正よりも多く、上杉家よりも倍以上石高がある徳川家の井伊直政が12万石であることを    考えると陪臣の身で30万石とは破格の待遇であった。思わず景勝も秀吉と兼続には密約があ    ったのではないかと疑ったほどであった。     景勝の前の領土が90万石ほどであったから、プラスされた分はすべて兼続の方にいったこ    とになる。いくら太閤の命令とはいえ他の家臣達の反発を少しは招いたことだろう。一枚岩の    結束と思われる上杉家だが景勝・兼続の上田・与板政権に反発している家臣は規模はわからな    いが、存在していたらしい。そもそも謙信の後継を巡る家督争いでも景勝を支持するグループ    は少数派だったのだ。だからこそ景勝派はクーデターを敢行したのであるし(謙信の死も彼等    の仕業である噂が当時からあった)、多数派の景虎派は数の多さに油断して機先を制せられた    のだ。景勝も謙信に対して結構ドライで法要も関ヶ原があった慶長5年の23回忌と江戸期の    33回忌の2回しか行っていないのだ。しかも、その2回とも政治的色合いが濃かった。他に    も会津に転封になってからも謙信の墓と遺骸は半年も春日山に残されたままだったし、謙信も    生前、景勝を擁する上田衆には警戒を怠らなかったというし、謙信死去における景勝派の手際    の良さといい、謙信を軍神としてあがめている家臣達が心の中で景勝・兼続政権を快く思って    いなかったとしても不思議ではない。しかし、それを主君に向けることは不忠になるので兼続    に矛先が向けられ兼続死後の直江家断絶につながったのではないだろうか。後に米沢30万石    に減封された際、与えられた6万石をほとんど他人に譲り渡したのも自分への反発を少しでも    そらす狙いがあったのではないだろうか。
実綱━信綱兼続
    最上攻めを命じられた直江兼続は寄騎衆2万数千を率いて慶長5年9月8日から9日にかけ    て行動を開始した。狙うのは無論最上家の屈服だが、最低でも庄内と本国の連絡が確保できれ    ば良かった。     攻め口は全部で六つ。置賜郡の5つと庄内からの1つである。もっとも東の掛入石中山口か    らは横田式部が指揮する4000ほどの軍勢が侵入し、米沢街道を北上して上山に展開して月    岡城を包囲した。彼等の任務は月岡城の拘束だが、後に攻略に改められた。その西の小滝口か    ら侵入する色部長門守ら数千は上山後方に進出して月岡城と長谷堂城の連絡を遮断し、横田の    部隊と共に月岡城を攻めるのが任務だった。しかし、山形城の陥落もしくは義光が屈服すれば    月岡城は降伏するであろうから、この方面の作戦はさほど重要ではなかった。     上杉軍の主攻正面は小滝口の北にある萩野中山口で、兼続が直率する主力がここを通過して    畑谷城を抜き、小滝口から侵攻した部隊(上山に進出した部隊とは別)とともに長谷堂城を攻    略して山形城に迫り、義光を屈服させることになっていた。そのためこの部隊には兼続の寄騎    衆の他に武者奉行として同行していた水原親憲や景勝直属の前田慶次郎ら浪人衆が付属され、    戦力も小滝口の部隊も含め2万数千におよんだ。     この他、大瀬口と栃窪口からは中条越前守ら3000が最上川に沿って北上して寒河江川方    面に進出し庄内口から侵入してくる志駄修理亮ら5000と連絡して、白石城を攻略しその後    は谷地城を攻略して天童北方に楔を打ち込むことになっていた。     これらの部隊は庄内衆と水原親憲に浪人衆の他は兼続の家来か寄騎で、最上攻めが上杉家の    最重要の作戦ではないことがわかる。やはり主要作戦は関東侵攻でそうであるならば時間との    戦いでもあった。最上攻めは上杉勢が義光を屈服させるよりも東西両軍の決戦の結果で終結す    るのが早い可能性があり、兼続は迅速な作戦行動を求められた。     対する義光の作戦は上杉勢の攻撃にさらされる村山郡の各支城を強化して敵の侵攻をただひ    たすら耐え抜くことだった。圧倒的に劣勢な最上勢はとりうる戦略がこれしかなく、ただ耐え    て近隣の諸侯特に甥で上杉に次いで奥州第2位の勢力を持つ伊達政宗の救援を待つか、徳川家    康の勝利の報がもたらされるのを待つということだけだった。     兼続の主力勢は簗沢館を抜いて12日に畑谷城を攻撃し一昼夜の猛攻の末これを陥落させ、    城主の江口五兵衛父子と加勢の飯田播磨守ら500人余りを討ち取って潰走させた。わずか2    日で山形城の西の障壁はことごとく上杉方に制圧されたのである。     勢いにのる上杉勢は15日に山形城への最後の障害となる長谷堂城の攻撃を開始した。ここ    が陥落すれば山形城への道を阻むものはない。義光は鮭延越前守・坂紀伊予守らを加勢として    派遣し、長谷堂城の守備戦力を5000に増強した。同じ日、義光は嫡男・義康(後に廃嫡)    を伊達家に派遣して援軍を要請している。     助けを求められた政宗にしたらこの状況は上杉家の目が最上に向いているので好都合だった    が、義光屈服後の矛先がこっちに向くかもしれないし、何より家康が勝利したら最上を助けよ    うとしなかったとして睨まれるかもしれないということで叔父の留守上野介政景に5000の    兵をつけて山形城の後詰に差し向けた。といっても留守勢は21日に出発して22日に小白川    に進出した後はそこで動きを止めた。会津にまだ3万以上の上杉勢が残っている状況では政宗    にしたらこの5000は貴重で他人のためにすり潰すつもりは毛頭なかったのだ。     だが、伊達勢の来援は苦戦する最上勢の士気を高めた。長谷堂城とその南東に位置する谷柏    館への攻撃は遅々として進まず、3000人が籠城していた月岡城では伊達勢の出現に焦った    攻城軍の横田式部らが21日に攻撃を強行して、里見民部らに伏撃されて本村酒造丞が討ち取    られるなどの大敗を喫して中山城に撤退した。     月岡城包囲陣の崩壊はしかし兼続の作戦を破綻させるには至らなかった。兼続にしたら長谷    堂城を突破して山形城を陥落しさえすれば作戦目的を達成できるわけで、上山での敗北は取る    に足らないものだった。     29日、兼続は長谷堂城の総攻撃を命じた。それまでとは比べものにならないくらい大規模    なもので一気にケリをつけようとしたのだろう。しかし、5000の兵が立て籠もっている難    攻不落の城塞への無理な攻撃は犠牲ばかりが大きく、上杉方は上泉主水ら多数の戦死者を出し    て撃退された。そして、翌日に景勝からもたらされた書状によって兼続は作戦の中止と最上領    からの撤退を余儀なくされた。半月前の9月15日に石田三成ら西軍が美濃関ヶ原で家康率い    る東軍に敗れ壊滅したというのだ。兼続は素早く撤退の序列を定めると山中の夜間行軍を避け、    明るくなってからの撤退を全軍に通達した。残った寒河江方面の攻勢も頓挫してしまっている。     10月1日、上杉勢が撤退をはじめたのを知った義光はこれを家康が勝利を収めたからだと    判断し追撃を命じた。伊達勢も小白川から出撃して追撃戦に参加した。しかし、兼続が事前に    策定した撤退計画と殿の水原親憲や浪人衆の奮戦で追撃は思うようにならなかった。崩れたと    見せて素早く態勢を立て直す上杉軍殿勢の巧妙な戦いで最上勢は義光の兜に銃弾が命中するな    どの苦戦を強いられた。     まあ、それも当然のことで追撃軍は新たに増援された伊達勢を含めても狐越街道を通って撤    退する上杉勢に対する劣勢は変わらず、追撃軍は2000もの死傷者を出した。兼続らは荒砥    城に無事に撤退し、後に家康から激賞されている。     だが、寒河江方面の上杉勢はそうはいかなかった。彼等は一帯に分散していたため撤退を伝    える情報が遅れて兼続らを追撃していた敵の北上を受けて土橋維貞が白岩館で戦死するなどの    損害を出し、散り散りになって敗走してしまった。こうして上杉勢の最上攻めは散々たる失敗    に終わったのである。     上杉勢と最上勢の一連の追撃戦は東北ではかなりの大激戦となり、撤退に成功した兼続は智    将と褒め称えられた。しかし、上杉勢はこの戦いで最上を屈服させるどころか庄内と本国の連    絡を確保するという最低限の作戦目標すら達成していない。さらに全体の最高指揮官である兼    続は上山方面と寒河江方面の統制を怠り、両方面の敗退と壊滅を招いてしまった。撤退戦云々    についても大半は水原親憲らの奮戦によって成功したようなもので、この戦いにおける兼続の    功績はほとんど無きに等しいと言って良い。兵力劣勢の長谷堂城の攻略に手間取った事実から    して兼続は行政面では有能でも軍事面での才能はイマイチではないだろうか。     この戦いの後、上杉家は米沢30万石への減封を言い渡された。上杉の浮沈をかけて臨んだ    今回の戦役で残ったのは兼続に与えられた領土だけだった。この30万石はかつて織田信長に    攻められて上杉家の領土がもっとも狭められた頃に相当しているらしい。つまりは豊臣政権に    臣従して得た領土の全てをこの一戦で失ったと言うことになる。上杉にしたら踏んだり蹴った    りの結果に終わってしまったということになる。このことについて『上杉家御年譜』にはただ    「武運ノ衰運今ニテハ驚クヘキニ非ス」と記してあるだけである。     上杉の猛攻を耐え抜いた義光は戦後、その功績で念願の庄内を手にすることに成功し、置賜    郡をのぞく現在の山形県全域57万石の大封を領することになった。その後は山形藩の初代藩    主として長く君臨して領内の検地・新田開発・最上川の水運開発・港町酒田を整備するなど領    国経営に手腕を発揮するが、一方で大名級の家臣が23もの支城に盤踞して独自の軍事力と経    済力を維持しているという戦国時代の体制を打破して幕藩体制に即した官僚体制を構築するこ    とはしなかった。そして、徳川家とのつながりを強固なものにして藩を盤石たらしめんとする    あまり優秀で人望もある長男・義康を廃嫡した後に殺害して、家康の小姓として出仕させたこ    とがある次男・家親を後継者としたことで山形藩は藩主側とそれに反発する勢力に分裂してし    てしまった。そして、その危険な状態を改めることなく義光は慶長19年1月18日に69歳    で没した。山形藩の内紛は彼の死後も孫の義俊の代まで続き、ついに元和8年領内の監督不行    届として幕府から改易を命じられた。     一方の直江兼続は主君から6万石を与えられたが、5000石だけを残して他人に譲ったと    いう。その後は米沢藩の経営に力を注ぎ、上杉家家臣を1人たりともリストラすることもなか    った。現在の米沢は兼続によって基本形が作られたという。他にも兼続は学問教育にも力を入    れ家中の掟も作っている。     さらに幕府の普請工事にも積極的に参加し、慶長9年には領内を訪れていた本多政重が家康    の側近・本多正信の次男だと知ると10歳の実子がいるにも関わらず彼を養子に迎えている。    すべては御家大事の一心からだ。兼続がこの世を去ったのは元和5年10月のことで、すでに    豊臣家は滅亡し徳川家康も亡くなっていた。幕府は彼に香典銀50枚をおくり、普段無口な景    勝は「わしより先に死ぬる奴があるか」と声もなくないたという。     関ヶ原の合戦で最上義光は伊達家に次ぐ東北第2位の領土を獲得し、逆に上杉家は1/4に    まで削減されてしまった。しかし、その後は領内統治の差で最上家はわずか3代で断絶し、上    杉家は後に15万石に減封されても明治維新まで存続した。その礎を築いたのが直江兼続であ    り、やはり兼続は上杉家随一の忠臣であり有能な武将なのだ。
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