足利尊氏対楠木正成
−湊川1336−
 
   性急かつ現実を無視した建武の新政は、武士はおろか公家たちからも冷ややかな視線で見られるような失敗だった。新政に失望
  した武士たちの期待を背負って反旗を翻した足利左兵衛督尊氏は一旦は京都を制圧するが、政権側の反撃で京都を放棄して九州へ
  の逃亡を余儀なくされる。だが、尊氏はすぐさま勢力を挽回し再度京都に迫る。これに対し、政権側の名将・楠木左衛門少尉正成
  は後醍醐天皇に京都からの脱出を進言するが却下されてしまう。反乱軍の迎撃を命じられた正成は勝ち目が無いことを知りながら
  も出陣するのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 建武の新政が世間の支持を失ったことは、旧勢力にとっては復権の好機だった。すでに建武に改元する以前から新政権に対する反乱が勃発して全
国に広まりつつあった。それは親鎌倉幕府派として失脚していた西園寺大納言公宗の謀反を招いた。最後の得宗(北条氏の嫡流)北条高時の弟・時
興を匿っていた公宗は光厳上皇を奉じて挙兵を企てたが、弟の公重の密告で露見してしまい流罪に処された(後、処刑)。だが、時興は脱出に成功
して甥の時行を擁して建武2年7月に信濃で兵を挙げた。信濃守護・小笠原貞宗の軍勢を撃破して、さらには鎌倉を守っていた足利直義を追い出し
て鎌倉を占拠する勢いを見せた北条勢だったが、弟の危機に駆け付けた足利尊氏によって反乱は鎮圧された。
 この中先代の乱は北条氏残党による最大の反乱だったが、その鎮圧ですべてが丸く収まったわけではなかった。そもそも、旧政権が倒されて新政
権が樹立されて2年しか経っていないのに、旧政権残党による反乱によって一時的にしろ東国の最重要地である鎌倉が占領されたことは新政権に対
する失望や反感が大きいという裏付けでもあった。旧政権を見限りさらには新政権にも失望していた武士たちは足利尊氏への期待を高めることにな
る。京都を出立した時は、500騎だった尊氏軍は駿河に到着した時には3万騎にもなっていた。北条氏が滅亡して武士を束ねることができる唯一
の存在である尊氏の信望の高さは君主独裁を目指す後醍醐天皇にとって脅威でしかなかった。天皇は尊氏に京都に帰還するよう命じ尊氏もそれに応
じようとしたが、兄が暗殺されることを危惧した直義に諫言されて思い止まった。後醍醐天皇の新政に見切りをつけていた直義は兄に武家政権の再
興を託していたのである。だが、個人的に天皇を尊敬している尊氏は命令に従わなかったことは遺憾として政務の一切を直義に任せると宣言して隠
棲してしまった。
 
 その尊氏に朝廷は当然、疑いの目を向けた。尊氏が源頼朝に倣って幕府を開こうという野心を抱いていることは朝廷も見抜いており、閏10月7
日に京都で大熾盛光法が修された。これは、国家の危機や疫病の流行の際に挙行される法要で、朝廷が尊氏を反逆者と見做したことを意味していた。
それに対し、尊氏は自分が朝敵と宣言される前に新田義貞の討伐を上奏した。謀反の際の常套手段である「君側の奸を除く」という口実だ。
 新田左馬助義貞は尊氏とは先祖が兄弟という同族関係にある。だが、足利氏が源氏将軍断絶後の鎌倉幕府において清和源氏の棟梁とされていたの
に比べ、新田氏は源頼朝の挙兵にすぐに応じなかったことが災いしてその宗家ですら無位無官という状態が鎌倉時代の間続いた。そんな新田氏が世
に出るきっかけとなったのが義貞による鎌倉攻略だったが、勝利の余韻に浸る間もなく足利氏の圧力によって義貞は鎌倉から追い出されてしまう。
失意のまま上洛した義貞とその一族を天皇は尊氏への対抗馬として利用しようと目論んだ。それによって義貞は念願だった官位を手に入れて複数の
守護職も得られた。弟の脇屋義助も駿河守に任じられて、新田一族は新政権内で厚遇された。だが、所詮新田氏の勢力など足利氏に比べれば取るに
足らないもので、義貞も自分が実力・声望ともに尊氏に遠く及ばないことを自覚していた。しかし、やはり同族としての対抗心はあり新政権内での
勢力の伸長を図っていた。尊氏が征夷大将軍になるには現実問題として、後醍醐天皇の勅許を得る以外に術は無い。そのためには血統的にはほぼ互
角の義貞の存在はどうしても邪魔となる。尊氏は天皇に自分か義貞のどっちを取るかを迫ったのである。
 だが、天皇は愚かにも尊氏を捨てて義貞を選択してしまった。権力基盤が脆弱(天皇の側近グループは討幕の過程で消耗していた)な後醍醐天皇
が権力を維持するには強力な支持者が不可欠なはずだが、それはちょっと前まで上野のわずかな土地しか支配していなかった無名の義貞ではなかっ
た。尊氏しか天皇の権力を支える者はいなかったのである。この時点で建武政権の崩壊は半ば決まったようなものとなってしまった。
 11月19日、天皇は尊良親王を奉じた義貞に尊氏と直義の討伐を命じた。義貞は東海道を進み、東山道からは洞院実世が、奥羽からは北畠陸奥
守顕家が軍を率いて鎌倉に迫った。討伐軍はこの期に及んでも大将が天皇への叛旗を逡巡して意気が上がらない足利勢の抵抗を退けて遠江・駿河に
侵攻した。業を煮やした直義が手越河原で義貞と対決したが、大敗を喫して箱根に撤退した。
 だが、討伐軍の進撃もそこまでだった。弟の危機に遂に出撃を決意した尊氏が、予備部隊を率いて鎌倉を出陣したのである。尊氏は箱根の義貞で
はなく、足柄に進んで12月11日に竹ノ下で尊良親王の軍勢を撃破した。尊良親王は駿河の佐野山で再戦を挑むも、大友貞載の寝返りで大敗して
しまった。孤立を恐れた義貞も箱根を撤退したため足利氏は危機から脱した。義貞は尾張で防戦するつもりでいたが、朝廷が帰還するよう命じたた
め帰京することにした。だが、この時の退却があまりにも急であったため、取り残される形となった義貞麾下の諸国の軍勢はこぞって尊氏に帰順し
た。足利軍はそのまま京都への進軍を開始した。
 
 翌延元元年(改元は2月29日)正月、朝廷軍は勢多・淀・宇治で足利勢を迎撃したがここでも退却を余儀なくされ京都に撤退した。後醍醐天皇
は比叡山に避難し朝廷は足利軍の京都侵入を許したが、ようやく諸方からの軍勢も天皇が避難している東坂本に集結して京都の足利軍と対峙できる
状況となった。1月16日、奥羽から北畠顕家の軍勢が到着して戦力が上がった朝廷軍は比叡山を出撃して反撃を開始した。27日には、賀茂河原
と鞍馬口からも進撃して、足利方の上杉憲房・三浦貞連らを討ち取った。尊氏と直義も危うかったという朝廷方有利の戦況だったが、軍を洛中に駐
屯させたら兵たちが掠奪に走って統制が利かなくなり、敵にその隙を突かれると言う楠木正成の進言を容れた義貞の判断により朝廷軍は京都から撤
退した。だが、勢いは朝廷方にあり、結局は足利軍は京都を維持することができず2月1日に丹波篠村に敗走した。いったんは兵庫に退いた尊氏は
大内長弘らの増援を得て反撃を企図したが、朝廷軍も西方から増援を得ており10日の豊島河原の合戦で足利軍は大敗を喫した。尊氏は赤松円心の
進言を容れて九州に落ち延びることを決意した。
 西方への敗走を余儀なくされた尊氏だったが、その海路の途中で瀬戸内沿岸を一族・与党で固めることに成功した。この中国・四国の軍勢だけで
朝廷軍を凌駕する大軍となったが、北畠顕家によって関東との連絡を断たれている尊氏は安全な後方策源地を欲していた。そのために九州まで下っ
たのだが、九州には肥後の菊池氏など朝廷を支持する勢力もあった。足利方の少弐貞経は菊池武敏と阿蘇惟直に攻められて自刃し、勢いに乗った菊
池勢は3月2日に多々良浜で足利勢と対峙した。このとき、菊池勢以下の朝廷軍が6万だったのに対し、足利軍は1000人ほどだったという。勝
ち目が無いと尊氏が自害を決意するほどの圧倒的な戦力差だったが、朝廷軍は菊池・阿蘇勢以外は寄せ集めの烏合の衆で心情的には尊氏を支持して
いる者も多かった。そのことを見抜いた尊氏は真正面から戦いを挑むことに決して、突風と砂塵で菊池勢が怯むという僥倖にも助けられて、阿蘇惟
直を討ち取り菊池武敏を負傷退場させるという逆転勝利を収めた。この一戦で、九州は足利方の手中に入ったのである。
 
 
 
 
 
 
 足利尊氏は嘉元3年7月27日に足利貞氏の次男として生まれた。母は側室の清子。15歳の時に元服して、時の権力者・北条高時の偏諱を賜っ
て高氏と名乗った。兄がいたが、早世したため高氏が父の後を継いだ。元弘3年4月29日に高氏は後醍醐天皇の討幕運動に加担することを決意し
て、5月7日に北条仲時・時益らの六波羅探題(上方における幕府方の拠点)を全滅させた。この功により、天皇から一字を与えられて尊氏と改名
した。
 
   義康━義兼━義氏━泰氏━頼氏━家時━貞氏━尊氏
 
 
 
 
 
 
 楠木氏は源平藤橘の橘氏を本姓とするとされるが、本当かどうかわからない。正成も永仁2年の生まれとか父は楠木正遠とか伝えられるが確証は
無い。つまり、それだけ身分の高くない家柄の出身ということだ。正成自身、河内国赤坂村で誕生したとか幼名が多聞丸だった以外は前半生の経歴
がよくわからない。元弘年間から悪党として史料に名が残るようになり、討幕を企む後醍醐天皇とも接触していたという。その後、後醍醐天皇の決
起に応じて赤坂城や千早城などで幕府の大軍を相手に巧妙な防御戦を展開して倒幕に大いに貢献した。足利尊氏や新田義貞よりも早く天皇方として
戦ったためか、天皇の信任が厚く建武政権で幾つかの役職に就いている。しかし、建武政権は現実を無視した政策で武士の支持を失い、尊氏の離反
と台頭を招いてしまう。正成個人としては義貞よりも尊氏と結ぶべきと考えていたが、尊氏による武家政権の復活を危惧した天皇は義貞を選択して
尊氏を切り捨ててしまった。君主独裁を目指す天皇からしたら、たとえ実力や声望があっても自分の完全な統制下に置けない人間など邪魔でしかな
かった。その結果、進軍してきた尊氏軍に建武政権は京都まで攻め込まれたが、この時宇治を守っていた正成は他方面が破られても数日は抵抗を続
けており、討幕戦争でも見せた巧妙な防御戦の手腕を発揮している。悪党と称されるように既定の枠内に収まらない生き方をしてきた正成は、新し
い戦術を編み出すのも得意で、京都での攻防戦では相互に連結も分離も可能な楯を数百枚用意して、敵が押し寄せたら連結して保塁代わりとし敵が
退いたら分離して間隙から追撃するという戦法で足利方をさんざんに破ったという。さらに、豊島河原の合戦ではわざと退却して足利方を誘引し、
後続の新田勢とともに足利方を圧倒して尊氏らを海に追い落とした。だが、一連の激戦で朝廷方も消耗してしまい尊氏を追撃することができなかっ
た。
 
 
 
 
 
 
 九州を平定した尊氏は水路から東上する準備に取り掛かったが、一方の朝廷方は3月に義貞を将とする軍勢を差し向けるものの、水軍が無いため
に陸路を使うしかなかった。ここで、義貞の指揮能力の限界が露呈してしまう。赤松円心の白旗城を攻めあぐねて50余日も浪費してしまったので
ある。ついこないだまで田舎っぺ大将だった義貞に大軍の指揮を任せること自体が失敗だったのだ。正成は義貞を切り捨てて尊氏と和議を結ぶべき
と進言したが受け入れられることはなかった。
 4月3日、尊氏は博多を出発して5月5日に備前の鞆津に到着した。ここで、尊氏は陸海の二つのルートで京都に進むことに決し、陸路の大将を
直義として自らは海路で京都を目指した。10日に鞆津を出帆した尊氏勢は四国からの増援も得てさらに戦力を増し士気も上がった。一方、この時
播磨にいた義貞は後方を断たれることを恐れて摂津に後退して兵庫に防衛線を築いたが、退却により兵力も士気も著しく低下した朝廷方に勝ち目は
なかった。
 この事態に驚いた後醍醐天皇は急遽正成を呼び寄せて義貞への加勢を命じた。だが、敵の戦力が圧倒的な上に味方が疲労困憊している状況では敗
北は必至と考えた正成は、天皇に比叡山に避難して京都を足利方に明け渡してその隙に正成が淀川を封鎖して敵の補給を断ち態勢を立て直した上で
敵を東西から挟撃すべしとの戦略を奉上した。朝廷方が勝利するにはこれしかない現実的なプランだが、天皇の側近たちはたとえ人数が少なくとも
自分たちには天が味方しているとして却下した。合理的な判断で却下されるならまだしも、精神主義を振りかざされては正成としても反論のしよう
がなかった。天皇からも直ちに出陣すべしとの叱責が含まれた勅命が出され正成は敗北が必至な戦いに赴かなければならなかった。この時、正成は
死を覚悟した。
 24日に湊川に布陣した正成は義貞と会談して、義貞に天皇の守護こそが大事と説いたとされるが、実際の緊迫した状況では会談などしている余
裕などなかったであろう。翌25日午前8時ごろに水陸から進軍を開始した足利軍は尊氏軍が新田勢と、直義軍が楠木勢と対決することになった。
戦力比は2倍(諸説あり)という劣勢だが、楠木勢は奮戦して三方から攻めかかる足利軍に後退を強いて一時は直義を追い詰めたが、一方の新田勢
は義貞の弟の脇屋義助が経島で上陸した細川定禅の第一陣を撃滅する活躍を見せたが、細川勢がさらに後方の紺辺の浜に上陸すると後方を断たれる
ことを恐れた義貞が急速に離脱しようとしたため正成らは敵中に孤立してしまった。尊氏勢も上陸して一部を義貞の追撃に回した他は楠木勢にぶつ
けた。細川勢も退却する新田勢には目もくれず、直義勢に加わって楠木勢と戦った。足利方にとって義貞は眼中には無く、尊氏は強敵である正成を
葬る絶好の好機と見ていた。正成以下の楠木勢は1000ほどという圧倒的な劣勢ながらも6時間も戦い続け、最後は50人ほどにまで激減してし
まった。正成は近くの民家で自刃し、弟の正季以下の一族・郎党もそれに殉じた。
 
 
 
 
 
 
 正成に一目を置いていた尊氏は彼の首を丁重に遺族に送り返している。味方からよりも敵方に評価されていたことはなんとも皮肉ではあるが、楠
木氏は以後も後醍醐天皇とそれに続く南朝に忠義を尽くした。そのため、内乱に勝利した足利方の北朝からは朝敵扱いを受けてしまう。朝敵指定が
解かれたのは、後に織田信長と豊臣秀吉に仕えた正成の子孫と称した楠木正虎が松永久秀に取り成しを頼んで赦免願いを出してそれを正親町天皇が
許した永禄2年のことである。
 敗北を覚悟しながらも天皇に忠義を尽くして死んでいったその姿は皇国史観が形成されていく中で、忠義の士の鑑として賞賛され決戦を前に父と
ともに死ぬという幼い息子に天皇への忠義の方が大事と諭して涙ながらに別れた逸話は、美談として戦前の国語や修身などの教科書に必ず掲載され
た。ただ忠義だけを求める考え方からしたら正成は格好の材料だったが、それよりも重視すべしは正成のような忠勇なる武将をあたら無駄死にさせ
たことへの教訓だろう。絶望的な状況でも合理的な戦略を追求しようとした正成にただ精神主義を振りかざすだけだった上層部。たとえ数百年後に
賞賛されたとしてもそれで彼の死が報われたとは思えない。彼が無駄死にを強いられたという事実は変わらないからだ。尊氏に対抗できる唯一の軍
事的才能を持つ正成を失ったことは後醍醐天皇にとって大きな痛手だった。そのために遂に天皇は己の権力を回復することができぬまま吉野の山に
没した。楠木正成という逸材を活かすことができなかった後醍醐天皇が敗れるべくして敗れたと同じく、その教訓を正しく理解できなかった日本の
帝国陸海軍もまた大敵アメリカを相手とした太平洋戦争に敗れるべくして敗れたのである。
 
 最大の強敵を屠った尊氏は6月14日に入京を果たした。前回の教訓で光厳上皇から院宣を授かった尊氏は逆賊の汚名を着せられることを恐れた
武士を参集させることに成功した。すでに脱出していた後醍醐天皇の代わりに光明天皇を即位させ、後醍醐天皇から三種の神器を譲渡させたが、そ
れは後に偽物と主張され光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝が対立する事態となった。尊氏は延元3年(南朝)に念願の征夷大将軍に任じられたが、
南朝の抵抗を鎮圧することは最後までできなかった。延文3年(北朝)4月30日、反逆した子の直冬(弟・直義の猶子)の討伐に向かおうとした
ところを背中の腫れ物が原因で死去した。
 
 
 
 
 
 
 正成の死で後醍醐天皇が権力を奪回する可能性は永遠に失われた。天皇が開いた南朝は明徳3年まで続くが、それは足利方の内紛が原因であり、
ただ単に延命できたにすぎない。南北朝の内乱はその初っ端の段階ですでに峠を越していたのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
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