曹操対袁紹
-官渡200-


 中原に覇を唱えんとする二人の武将がいた。曹操孟徳と袁紹本初である。片方は宦官の子孫、片方は名門の出身。若い頃はつるんで悪さをしていたとい
う二人は、反董卓連合では共に戦う戦友でもあった。しかし、三公をつとめるほどの名家である袁紹と宦官の養子の子である曹操は家柄も勢力もまるで比
較にならなかった。若い頃は行動を共にしていたというが、恐らく曹操は袁紹の取り巻きの一人にすぎなかったのではないだろうか。だが、曹操は次第に
勢力を拡大させ、さらに後漢の皇帝を迎え入れることで自身に刃向かう勢力を討つ大義名分を手中にした。そんな曹操の台頭を袁紹が黙ってみているはず
がなかった。彼もまた天下に覇を唱えたいという野心を抱いていたのである。そして、二人は中原の支配権をかけて激突する。







 中平元年に勃発した黄巾の乱で後漢王朝は大きく揺らぎ、地方では諸侯が力を増して中央政府の統制を離れつつあった。そうした事態に対応しようにも後漢王
朝では幼君や病弱な皇帝が多く、政治の実権を外戚や宦官に掌握されている状況で有効な対策を打てずにいた。もちろん、王朝内にも宦官支配を打倒しようとい
う人たちはいた。彼らは清流派を称し、宦官や外戚を濁流派と呼んで時にはクーデターまで起こそうとしたが、その度に徹底的に弾圧され宦官支配を改めること
はできなかった。
 反対派を弾圧した濁流派はその後も後漢を支配し続けてきたが、そうした状況が一変する事件が起きた。中平6年に12代皇帝・霊帝が崩じて少帝が即位する
が、その生母の兄である何進と宦官が対立していたのである。妹が宦官に皇后に推挙されたおかげで肉屋の主人にすぎなかった何進が宰相や大将軍の地位に就け
たのだが、金儲けと女を引っ掛けるしか興味の無い何進もいざ宮中に入ってみると宦官がのさばっている状況に驚いた。政治に疎い何進もさすがにこれは何とか
しなければと思った。だが、去勢されたという共通の被害者意識を持つ宦官は結束力が強く、同時に権力欲も半端ではなかった。人はどうやら性欲を失うと、権
力欲が異常に強くなるらしい。そんな連中を排除するには武力によるしかなかった。何進は袁紹と結託して、宦官を一掃しようと袁紹らの軍勢を都に集結させた。
ところが、妹が兄のクーデターに反対したのである。いまの自分たちがあるのは宦官のおかげではありませんかという妹に何進も躊躇したが、袁紹らは彼に決断
を強く促す。何進は再び妹を説得するため宮中に伺候したが、彼の計画を事前に察知していた宦官に殺害されてしまった。
 その時、禁門の外では何進に集められた諸侯の軍勢が待機していたが、何進の首が城外に投げ落とされたのを見て一気に宮中に殺到した。恐らく、宦官は何進
の死を知らせることで諸侯らを追い返せると思ったのだろうが、すぐにでも宮中に殴りこみたい軍を何進が抑えていた状況であったためその何進が死んでしまえ
ば彼らを止める術は無かった。宦官たちは見つかり次第に殺されて皇帝をつれて脱出した者たちも董卓によって自殺させられた。この事件によって後漢を蝕んで
いた宦官や外戚による支配は終焉を迎えたが、それで国内が安定に向かうことはなく混乱に向かうことになった。
 董卓は役人の次男として生まれ、異民族討伐で名を挙げた。董卓は袁紹らと同じく何進の求めに応じて上洛して運よく皇帝とその生母の何氏を保護した。だが、
何氏は董卓が同族と信じ込んでいた霊帝の生母・董太后を追放した人であり、董卓にとっては敵も同然だった。そこで、董卓は皇帝を幼年なうえに病弱で世を乱
れさせたとして、これを廃し異母弟の陳留王(彼は董太后に養育されていた)を即位させた。皇帝は弘農王に落とされ、後に母ともども謀殺された。
 一臣下にすぎない董卓が独断で皇帝のすげ替えをしたことは、当然周囲の反発にあった。特に袁紹は公然と異を唱えた。名門の出である袁紹には低い身分の董
卓が我が物顔で朝廷を牛耳っているのが我慢ならなかったのだろう。帰郷した袁紹は打倒・董卓の兵を挙げ、これに袁紹の異母弟(従弟とも)である袁術・公孫
?・鮑信・孔融・孫堅・韓馥・陶謙・馬騰らの諸侯が馳せ参じた。さらに、鮑信の陣には曹操がいたし、公孫?の陣には劉備の姿もあった。20万にもなる大軍
が誕生したのだが、この反董卓連合は結局はその目的を果たすことはできなかった。なぜなら、彼らは打倒・董卓では一致していたものの、その後についてはそ
れぞれの思惑が食い違っていた。諸侯は袁紹がこれを機に自分が天下を取ろうとしているのを見透かしており、袁紹のために命がけで戦うつもりは毛頭なかった。
やがて、袁紹と袁術の争いが勃発したことで反董卓連合は空中分解した。
 その後、董卓が呂布に殺害される事件が発生し、その混乱で皇帝が再び路頭に迷う事態になった。蔑ろにしていたとはいえ、董卓が皇帝を守護していたのは事
実である。その守護者を失ったことで皇帝は極めて危険な状態に置かれた。盗賊にまで助けを求めて断られた皇帝を救ったのが曹操だった。この時はまだ小さな
勢力でしかなかった曹操は皇帝を擁して、その権威を最大限に利用した。それに対して、袁紹は曹操に皇帝を渡すよう要求したが、曹操はこれを拒否した。いま
だ、曹操を自分の配下ぐらいにしか思っていなかった袁紹はこの拒否に面食らってしまった。以後、二人は急速に対立を深めていくことになる。
                                                    ※?は王偏に先が二つ並んでその下に貝






 曹操は永寿元年に沛国ショウ県(現・安徽省。ショウは言偏に焦)で誕生した。字は孟徳、幼名は阿瞞。漢王朝草創の功臣・曹参の子孫とあるが、事実かどうかは不
明である。さらにいえば曹操の父は夏侯氏の出であり、宦官の曹騰の養子になって曹の性を名乗るようになったのだ。時の皇帝・霊帝の売官制度で官位を買収で
きるようになっていたから、曹操の父は太尉という高官の地位を金で買い取っている。
 さて、若い頃の曹操は頭はいいが仁侠気取りで素行不良だったという。後に争うことになる袁紹とつるんで悪さをしていたというエピソードもあるが、二人の
家柄の差を考えると曹操は袁紹の取り巻きの一人にすぎなかったのが事実だろう。曹操は宦官の孫であり、袁紹はその宦官を嫌う名士のグループに属していた。
黄巾の乱での功績で魯西の長官に任命された曹操は、峻烈厳正な政治を行いその業績をかわれてさらに河北省の太守に出世した。その頃、後漢王朝は政治腐敗が
深刻化しており、地方の豪族の力を借りなければ反乱も鎮圧できない有様だった。そうした政府首脳部の無能さに不満を募らせた中堅の官吏たちが、時の皇帝・
霊帝を廃し、権勢をふるっていた宦官や何一族を一掃するクーデターを企てたことがあった。そのメンバーに曹操と同郷の者がおり、武勇に優れ河北省の軍権を
掌握している曹操に誘いをかけた。しかし、曹操はクーデター派には準備が不足しているとして拒否した。威勢衰えたりとはいえ、地方の豪族に反乱軍を鎮圧さ
せるぐらいの威厳は後漢にはまだあった。そうした状況でクーデターを成功させるには万全な準備が不可欠となる。しかし、クーデター派にはそれがない。曹操
が指摘したとおり、クーデターは事前に察知され加担した者は重罰に処された。曹操は河北省から都に呼び戻され近衛部隊長に任じられた時も、ある策動に参加
するよう誘われたがこの時も断っている。
 曹操がクーデターに加わらなかったのは勝算がなかったのもあるが、やはり彼が宦官の子孫ということも影響しているのだろう。宦官は確かに後漢王朝を腐敗
させた。しかし、当初からそうだったわけではない。役に立つ存在でもあり、ましてや武力を持たない彼らを抑制することぐらいそう難しいことではない。何進
が宦官を一掃しようとして袁紹らを呼び寄せた時も、曹操はそう言って何進からの協力の要請を断った。もし、宦官という猫を追い払うために諸侯という虎を中
に入れたらどうなるか。宦官は殲滅されたが、董卓という虎に都は制圧されてしまった。
 董卓支配下の都で曹操は典軍校尉になっていたが、さすがの曹操も董卓の横暴さに耐えかねて董卓の暗殺を企てた。しかし、董卓には呂布というボディガード
がいて容易には近づけない。しかし、ある時呂布を遠ざけて董卓一人にすることができた。しかも、董卓はゴロッと横になり曹操に背を見せている。これはチャ
ンスと曹操は剣に手をかけたが、董卓に気付かれてしまった。咄嗟に剣を献上すると言ってその場は逃げたが、董卓に不審を抱かれたのは確実なので馬に乗って
都を脱出した。故郷にもどった曹操は一族を集めて挙兵し、袁紹の反董卓連合に参加した。だが、連合は諸侯らが互いを牽制しあうという有様で、一致団結して
事に当たろうとはしなかった。真剣に董卓と戦おうとしたのは曹操と孫堅ぐらいである。やがて、董卓が長安に遷都して孫堅が洛陽を制圧すると反董卓連合は解
散した。
 初平3年に董卓が呂布に殺害されると、朝廷を支配する大勢力が存在しない事態になり各地で諸侯がそれぞれの思惑で動く群雄割拠の時代となった。この頃は
袁紹と袁術の対立を軸に諸侯が動いており、曹操は袁紹配下として袁術陣営と戦っていた。広く人材を集めて、さらに黄巾賊の残党を青州兵として自軍に編入し
たりして勢力を拡大した曹操だったが、それでもまだまだ小さな身代で袁術派の陶謙に父親を殺害されてしまっている。そして、興平元年に呂布との抗争で劣勢
になった曹操に袁紹から提携の申し出があった。ただし、家族を人質に差し出すという条件付きで。それを受け入れることは袁紹の隷下に完全に組み入れられる
ことを意味する。袁紹派に属しているとはいえ、曹操は袁紹に心服などしていない。むしろ、都に皇帝が健在なのに新しい皇帝を擁立しようとする袁紹に嫌悪感
を抱いていた。宦官の孫である曹操には勤皇の意思も少なからずあった。しかし、袁紹は自分が皇帝になろうとしている。できれば、これ以上袁紹の風下に立た
されるのは勘弁してほしいというのが曹操の気持ちだろう。だが、弱気になっていた曹操は受諾寸前にまで追い詰められていた。
 そんな状況を打開する出来事があった。皇帝を保護することに成功したのだ。曹操は宦官の子孫という誇ることができない家柄の出身で、それによって袁紹ら
の名門出身の群雄にどうしても見劣りしてしまう。皇帝の奉戴はそんな家柄の差を補うことができ、さらに朝廷の人事・賞罰の権限を掌握することでそれを餌に
周辺勢力の取り込みも可能となる。だが、皇帝の奉戴は袁紹と完全に袂を分かつことにもなる。袁紹は先帝の外戚・何進の配下だった人で、現皇帝は彼にとって
は仇敵といえる存在だった。だからこそ、袁紹は皇帝の確保に積極的ではなかった。ところが、曹操が朝廷の権威を利用して勢力を拡大させていくのを見て、よ
うやくその価値に気付いた袁紹は曹操に皇帝を自分に渡すよう要求した。だが、曹操はこれを拒否した。屯田制で曹操は袁紹に楯突く力を手にしはじめていたの
だ。






 袁紹本初の生年ははっきりしない。曹操よりは年上なのだが、どれだけ年長かはわからない。袁成の子であるが、成の兄弟である逢の庶子で成の養子になった
ともいう。袁氏は4代にわたって三公を輩出した名門中の名門である。若くして出仕し、20歳で地方官となるも母の死で致仕した。喪が明けても袁紹は再仕官
せず、天下に知られた名士たちと交際する日々を送っていた。彼ら名士は反宦官的存在であり、その名士と交際する袁紹は当然宦官から危険視された。曹操の項
でも述べたように、袁紹と曹操はともに放蕩無頼の生活をしていたらしい。袁紹は堂々たる体躯と威厳ある容貌の持ち主で、曹操も彼を慕っていたという。また、
家柄の割に謙虚だったともいう。
 政府に反抗的な名士と交際することで袁紹は宦官から睨まれるようになった。それを危惧した叔父に諭されて袁紹は、大将軍・何進の招きに応じてその腹心と
なった。霊帝が崩じて何進の妹が産んだ少帝が即位すると、袁紹は外戚となって専権を振るえるようになった何進に名士層の宿願である宦官の排除を具申した。
だが、何一族が栄達したのも宦官のおかげであり、そのことを妹や弟に指摘されると何進も躊躇するしかなかった。煮え切らぬ何進に袁紹は地方の軍隊を集めて
その武力を持って一気に決着をつけることを進言した。何進はその進言を受け入れたが、それを察知した宦官に殺害されてしまった。
 宮門の外に投げ落とされた何進の首を見て、袁紹は激昂し宮中に兵を突入させた。宦官は見つかり次第に殺され、その混乱の中で少帝は董卓に保護されたもの
の後に弟への譲位を強制された挙句に殺害された。袁紹は董卓に協力を求められたが拒否して洛陽を脱出する。その後、董卓の懐柔政策により渤海太守に任命さ
れた。董卓は政権を維持するため名士層を優遇したのだが、にも関わらず反董卓の気運は高まる一方で各地の地方官が挙兵する事態となった。袁紹もその一人で
ある。
 初平元年正月に反董卓連合の盟主となった袁紹は、車騎将軍・領司隷校尉を号し諸将への叙任を行う。これは朝廷の権限であり、董卓が牛耳る後漢朝廷の認め
るところではない。戦闘が長期化して陣営内に厭戦気分が高まると、袁紹は幽州牧の劉虞を皇帝に擁立して結束の中心にしようとしたが、曹操や袁術らに反対さ
れたのと当の本人に拒絶されて断念した。そもそも、反董卓連合は君側の奸を除く名目で結成されたものである。しかし、新帝を擁立となるとそれは現皇帝の朝
廷と敵対することを意味する。袁紹にとって董卓に擁立された現皇帝は認められるものではなかった。袁紹は殺害された先帝の外戚・何進の配下だった男である。
また、袁紹は末期状態の後漢に見切りをつけて自分が皇帝になることを目論んでいた。
 新帝の擁立に失敗して反董卓連合も瓦解すると、袁紹には渤海太守としての勢力しか保ち得なくなった。袁術が周辺に勢力を拡大して自分に対抗しようとして
いる状況で、袁紹も勢力の拡大に乗り出す必要があった。まず、初平2年7月に策略でもって韓馥から冀州牧の地位を譲渡させた。冀州は富裕の地であるだけで
なく、沮授・田豊・審配といった名士も住んでいた。特に沮授は袁紹に河北を策源地として天下を統一する戦略を提示して、内政・軍事両面を統括する監軍に任
じられた。こうして、周辺へと勢力を拡大していった袁紹だが、事はそう順調には進まなかった。先に袁紹が皇帝に擁立しようとした劉虞を討って自立した公孫
サンが袁紹に抵抗したのである。公孫サンは袁術の陣営に属しており、袁紹はこれに手こずったが興平2年の鮑丘の戦いで大勝した。大敗した公孫サンは幽州に撤退し
て易京に籠城した。難攻不落となった易京の攻略に袁紹は数年を要した。最終的に公孫サンは滅亡するものの、袁紹はそれまでの間は皇帝を確保して勢力を拡大し
つつある曹操に有効な手段が打てずにいた。建安4年3月に公孫サンを討って河北の主となった袁紹はついに対曹操戦の開始を決断した。






 袁紹が河北を制圧した頃、曹操もまた地盤を強固にしていた。公孫サンが滅びた前年の末に呂布を討ち、朝廷内の親袁紹派を粛清、さらにそれまで手こずらせ
た張繍が家臣の賈ク(クは言偏に羽みたいな字)を進言を容れて帰順してきた。また、この頃は皇帝を僭称していた袁術が周囲に見放されて自滅する形で窮死
している。
 当時の国力は袁紹が圧倒的に優勢であったが、先に仕掛けてきたのは曹操だった。曹操は部下を冀州牧に任命しているが、冀州は言うまでもなく袁紹の拠点
である。その長官である牧も大将軍・袁紹が兼任していた。しかし、それは朝廷が認めたものではなかった。当然、曹操が朝廷を通じて任命した牧が本物とな
るため、袁紹の官位は剥奪となった。これは事実上の曹操からの宣戦布告だった。
 建安5年正月、曹操は徐州で反旗を翻した劉備を討つため出陣した。この時、袁紹陣営では曹操が留守にしている彼の拠点・許都を攻撃すべきだと田豊が進
言しているが、袁紹は子供の病気を理由に進言を退けたという。曹操も袁紹が機を活かせぬ人間と知っていたから自ら劉備討伐に出陣したというが、袁紹から
してみたらそんな姑息なことをしなくても正々堂々と戦って勝った方が、後漢王朝にはもう天命が去って袁氏による王朝創設にこそ天命があるとアピールでき
るという思いがあったのだろう。ちなみに劉備は他愛もなく敗れて、関羽が捕虜となり自身は袁紹のもとに逃れている。
 だが、田豊が曹操の留守を突くように進言したのには理由があった。彼は曹操との正面衝突にはむしろ消極的だったのだ。連年の公孫サンとの戦いで領内は疲
弊していてまずはその回復が先決であること、公孫サンに勝利したことで兵士が驕慢になっていること、曹操を討つ大義名分がいまのところ無いことなどを理由
に早期の全面衝突は避けるべきだと田豊は考えていた。曹操は皇帝を奉戴しており、それを理由もなく討つとなれば賊軍の誹りを受けるのは免れない。まずは、
公孫サン討伐の勝報を朝廷に報告して、それを曹操が妨害したらそのことを口実に挙兵すればよい。田豊の消極論には沮授も賛成していた。一方で郭図や審配は
こちらが準備を整えている間に曹操は勢力をさらに拡大させるかもしれず、興隆著しい曹操と雌雄を決するのはいましかないと考えていた。お互い、自分の主
張をまげず議論したが、結局は袁紹の裁断により曹操討伐が決定した。主君の命であれば沮授もそれに従おうとする。ところが、郭図の讒言で袁紹は沮授が一
人で勤めていた監軍を、彼と郭図と淳于瓊の3人に分けて沮授の権限を削減してしまった。
 2月、袁紹は許都攻略の命令を下した。歩兵10万、騎兵1万からなる袁紹軍は3軍に編成され、監軍の3人がそれぞれ一軍を指揮することとされた。なお、
本来参謀として従軍すべき田豊は、あくまで現時点での開戦に反対したため任を解かれ投獄された。一方、曹操は袁紹軍の南下を阻止するため黄河南岸の白馬
と延津に守備兵を置いた。なぜ、この二つかというと袁紹軍が本営を置くであろう黎陽に近い渡河ポイントがこれらだったからである。そして、そこから許都
までの経路にあたる官渡を要塞化して兵糧を大量に集積し、曹操自ら官渡に進出した。許都の留守は荀ケに任された。
 曹操が予測した通り、袁紹軍先鋒の顔良の軍が白馬津を渡河して東郡太守・劉延が守る白馬城を攻撃した。袁紹の本軍が無事に黄河を渡るための橋頭堡を築
くためだが、劉延は頑強に抵抗して2ヶ月が経過しても白馬城は陥落しなかった。袁紹軍が黄河を渡河するのを阻止したい曹操だったが、白馬を救援すれば顔
良の軍と交戦している途中で、袁紹の本軍が到着して決戦を強いられてしまう。そこで、曹操は荀攸の策に従って延津に進出して黄河を渡るそぶりを見せた。
曹操軍に黎陽の背後を突かれると恐れた袁紹は延津の対岸を固めるため兵を派遣した。その隙を突いて曹操軍は白馬に急行した。顔良は曹操軍に属していた関
羽に討ち取られ、白馬城の包囲は解かれた。しかし、曹操は白馬を維持することができず、結局は住民を率いて西に退却した。なお、関羽と顔良の一騎打ちは
著名な武将同士が戦って片方が討たれたことが正史に記録された珍しい例である。
 曹操が白馬から撤退したことを知った袁紹は再渡河を命じたが、沮授は迂闊に全軍を河南(黄河の南にあるから河南)に投入すれば不測の事態が起きた時に
河北(同じく黄河の北にあるから河北)に撤収するのは容易ではないとして反対した。まずは、延津に本営を置き、軍の一部を割いて官渡を攻略してから主力
が黄河を渡っても遅くは無いと沮授は進言したが、袁紹はこれを受け入れなかった。さらに、袁紹は病気を理由とする沮授の辞任願いを許さず、彼の指揮権を
剥奪してその指揮下の軍を郭図の軍に編入した。
 文醜と劉備を前衛とした袁紹軍は延津に進撃した。曹操は延津を放棄して軍民を官渡に撤収させた。その殿軍を曹操自ら務めたが、南阪に騎兵600を隠し
て輜重隊を囮にする作戦で袁紹軍の騎馬隊を攻撃した。袁紹軍は曹操軍の10倍だったが、略奪のために隊形が乱れたところを奇襲されたため蹴散らされ文醜
も討ち取られてしまった。曹操軍は緒戦で、もっとも警戒していた顔良・文醜という袁紹自慢の猛将を討ち取ることに成功したのである。しかし、白馬と延津
という第一線を維持できず官渡に撤収を余儀なくされたことで全般的な戦況は曹操に不利だった。

 軍を官渡の北にある陽武に集結させた袁紹は、そこから徐々に官渡に迫る作戦を採った。8月になると、袁紹軍は官渡城前面に到着し砂丘沿いに陣地を展開
した。それに対し、曹操軍も同じく陣地を構築して対峙したが、数に勝る袁紹軍に大敗を喫して城内に退却した。袁紹軍はついに官渡城に迫って攻城戦を開始
した。
 袁紹軍の攻城戦における常套手段として、城外に土塁を築いてその上に高櫓を立てて城内を俯瞰できるにして弓弩を乱射するという戦術がある。これには、
楯の下に隠れて防ぐしかない曹操軍は大いに士気を低下させた。すると、曹操は発石車という投石器を作らせて袁紹軍の高櫓を破壊させた。袁紹軍は次に、易
京を陥落させた坑道作戦を採ったが、これも事前に察知した曹操軍が城壁に平行して幾条もの塹壕を掘って、袁紹軍の工兵が掘り進んで出てきたところを駆逐
したため失敗した。
 こうして、双方打つ手が無くなり戦況は膠着状態になった。両軍は後方撹乱や補給線遮断で戦局の打開を図るようになった。沮授や許攸は、袁紹に許都を奇
襲して皇帝を奪取する作戦を進言したが却下された。その一方で、袁紹は劉備に袁氏の本貫であった汝南郡(この当時は曹操の勢力圏)での後方撹乱を命じて
いる。劉備はそこそこの成果を挙げたものの、曹仁に敗れて荊州の劉表のもとに落ち延びた。
 後方撹乱がうまくいかないと見た両軍は互いの補給線を攻撃するようになった。この決戦において袁紹軍は物資が豊富であるのに対し、曹操軍は兵站を維持
するので精一杯だった。とうとう曹操は音を上げて、許都の荀ケに撤退を打診した。弱気になった主君に荀ケは、味方が苦しい時は敵も苦しいと激励し守るだ
けでなく奇策を用いるようにと認めた返書を出した。敵地に遠征している袁紹軍の補給線は長く、その警備・護送体制には欠陥が多かった。河北からの補給物
資を満載した数千両の荷車が袁紹陣営に到着するとの情報を得た荀攸は、これの襲撃作戦を立案し曹操軍は袁紹軍の補給部隊を故市で襲撃して物資を焼き払っ
た。これが戦局を大きく動かすことになるのである。
 10月になると、曹操軍の兵糧備蓄が一ヶ月分を残すのみとなっていた。一方、袁紹軍は1万両の荷車からなる補給部隊を動かしていた。先の故市での失敗
を教訓としたのか1万余の護衛がつけられていた。補給物資は陽武の北にある烏巣に運び込まれたが、そこでは特に厳重な警戒・防備はされなかったらしい。
そのことを曹操は投降してきた許攸に知らされた。許攸は曹操とは旧知の仲で、自分の策が悉く袁紹に却下されたのと郭図らとの派閥抗争で命の危険を感じた
ため袁紹から離反してきたのである。烏巣の兵糧が焼かれたら袁紹軍は三日ともたずに崩壊するとの許攸の言葉を信じた曹操は、自ら5000を率いて夜半に
官渡城を出撃して夜明け頃に烏巣を攻撃した。守将の淳于瓊は必死に抵抗したが陥落は時間の問題となっていた。
 烏巣が曹操軍に攻撃されているとの報を受けた袁紹は、烏巣を救援するか曹操不在の官渡城に総攻撃を仕掛けるかで悩んだ。張コウ(コウは合におおざと)は烏
巣救援を、郭図は官渡攻撃を主張した。結局、袁紹は官渡を攻撃することにして張コウと高覧に主力を率いて官渡城を攻撃するよう命じ、烏巣には騎兵部隊を送
った。だが、依然として官渡城の守りは堅く、そうこうしているうちに烏巣の淳于瓊らが敗死してしまう。さらに、郭図に讒言されることを恐れた張コウらが曹
操に投降したことが追い打ちとなって袁紹軍は崩壊した。袁紹は辛うじて河北に脱出できたが、取り残された8万の袁紹軍の兵は積極的に投降してきた張コウら
の麾下の者以外は生き埋めにされて殺害された。曹操軍には大量の捕虜を養う余裕が無かったのである。この事からわかるように、曹操にとっても際どい勝利
であった。






 袁紹に大勝した曹操は袁紹の死後、袁氏の内紛に乗じて河北を制圧し中原を制した。他の群雄を圧倒する勢力を築いた曹操は、まさに天下統一まで目前に迫る
ところまでいったが、建安13年の赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に大敗を喫する。その後、西方の馬超や韓遂らを討伐、その4年後には漢中に進出して張魯
を降伏させるが、劉備との戦いに敗れ漢中から撤退を余儀なくされた。さらに、劉備に呼応した関羽が荊州から北上したため曹操は挟撃される窮地に陥ったが、
司馬懿らの提案に従って孫権と同盟を結び関羽を撃破して窮地を脱した。曹操は建安18年に魏公に3年後に魏王となるも、最後まで帝位は奪わずに後漢の臣下
のまま建安25年1月に没した。死後、帝位を簒奪した息子・曹丕から太祖武帝と追号された。

 一方、命からがら河北に逃げ帰った袁紹だったが、優秀な人材(その中には先に投獄され、敗戦後に讒言によって処刑された田豊も含む)、大量の兵士と膨大
な物資を失いはしたものの河北の地が少しでも奪われたわけではない。思わぬ大敗に国内が動揺して、反乱が勃発したがそれらは程なく各個に鎮圧された。敗れ
てもなお袁紹には広大な勢力圏を維持するだけの力量と人望があったことになる。曹操も、袁紹の存命中には河北の地を侵そうとはしなかった。しかし、やはり
惨敗を喫したことへの失意は重く、袁紹は敗戦からわずか2年後の建安7年5月に没した。袁紹の死後、河北は袁紹が明確な後継者を定めぬまま没したことで、
袁紹の息子らの間に内紛が勃発して曹操に漁夫の利を取られることとなった。袁氏は滅亡し、河北は曹操に制圧されたのである。袁紹の死後わずか5年であった。






 官渡の戦いは三国志の前半最大の見どころとして名高い。しかし、決して曹操が勝つべくして勝った戦ではなかった。そのことは当の曹操の言葉にも表れてい
る。決戦の後日、袁紹軍が遺棄した物の中に味方が袁紹に内通している証拠となる手紙が多数含まれていたが、曹操は「自分でもあの強大な袁紹と戦ってどうな
るかわからなかった。ましてや、他の者では」と言って中身を確かめずにすべて焼却させた。これは光武帝の故事に倣ったものであった。官渡の戦いは、曹操が
すべてを賭けて挑んだ人生最大の大博打だった。そして、それに見事勝利したことで曹操の魏は劉備の蜀や孫権の呉に対する優勢を最後まで維持することができ
たのである。そして、魏から王朝を受け継いだ晋によって中国はようやくにして統一を見たのであった。




 
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