大艦巨砲主義の幕開けとなった一大艦隊決戦
日本海海戦


 
       連合艦隊
     第1艦隊
      司令長官 大将・東郷平八郎
       参謀長 少将・加藤友三郎
       参 謀 中佐・秋山真之
       参 謀 少佐・飯田久恒
       参 謀 大尉・清河純一
       副 官 中佐・永田泰次郎
       機関長 機関総監・山本安次郎
 
      第1戦隊(三須宗太郎少将)
       戦艦    「三笠」「敷島」「富士」「朝日」
       装甲巡洋艦 「春日」「日進」
       通報艦   「龍田」
 
      第3戦隊(出羽重遠中将)
       防護巡洋艦 「笠置」「千歳」「音羽」「新高」
 
      第1駆逐隊(藤本秀四郎大佐)
       駆逐艦 「春雨」「吹雪」「有明」「霰」「暁」
 
      第2駆逐隊(矢島純吉大佐)
       駆逐艦 「朧」「電」「雷」「曙」
 
      第3駆逐隊(吉島重太郎中佐)
       駆逐艦 「東雲」「薄雲」「霞」「漣」
 
      第14艇隊(関重孝中佐)
       水雷艇 「千鳥」「隼」「真鶴」「鵲」
 
 
 
 
     第2艦隊
      司令長官 中将・上村彦之丞
       参謀長 大佐・藤井較一
       参 謀 中佐・佐藤鉄太郎
       参 謀 少佐・下村延太郎
       参 謀 大尉・山本英輔
       副 官 少佐・田中治平
       機関長 機関大監・山崎鶴之助
 
      第2戦隊(島村速雄少将)
       装甲巡洋艦 「出雲」「吾妻」「常磐」「八雲」「浅間」「磐手」
       通報艦   「千早」
 
      第4戦隊(瓜生外吉中将)
       防護巡洋艦 「浪速」「高千穂」「明石」「対馬」
 
      第4駆逐隊(鈴木貫太郎中佐)
       駆逐艦 「朝霧」「村雨」「朝潮」「白雲」
 
      第5駆逐隊(広瀬順太郎中佐)
       駆逐艦 「不知火」「叢雲」「夕霧」「陽炎」
 
      第9艇隊(河瀬早治中佐)
       水雷艇 「蒼鷹」「雁」「燕」「鴿(どばと)」
 
      第19艇隊(松岡修蔵中佐)
       水雷艇 「※鴎」「鴻」「雉」   ※旧字体は區と鳥
 
 
 
 
     第3艦隊
      司令長官 中将・片岡七郎
       参謀長 大佐・斉藤孝至
       参 謀 中佐・山中柴吉
       参 謀 少佐・百武三郎
       副 官 中佐・荒尾富三郎
       機関長 機関大監・下条於莵丸
 
      第5戦隊(武富邦鼎少将)
       防護巡洋艦 「厳島」「松島」「橋立」
       戦艦    「鎮遠」
       通報艦   「八重山」
 
      第6戦隊(東郷正路少将)
       防護巡洋艦 「須磨」「千代田」「秋津州」「和泉」
 
      第7戦隊(山田彦八少将)
       戦艦    「扶桑」
       砲艦    「高雄」「筑紫」「鳥海」「摩耶」「宇治」
 
      第1艇隊(福田昌輝少佐)
       水雷艇 「第67号」「第68号」「第69号」「第70号」
 
      第10艇隊(大瀧道助少佐)
       水雷艇 「第39号」「第40号」「第41号」「第43号」
 
      第11艇隊(富士本梅次郎少佐)
       水雷艇 「第72号」「第73号」「第74号」「第75号」
 
      第15艇隊(近藤常松中佐)
       水雷艇 「雲雀」「鷺」「鷂(はいたか)」「鶉(うずら)」
 
      第20艇隊(久保来復少佐)
       水雷艇 「第62号」「第63号」「第64号」「第65号」
 
 
 
 
     付属特務艦隊
      司令官 少将・小倉鋲一郎
      参 謀 中佐・平岡貞一
      副 官 少佐・奥田貞吉
 
     「亜米利加丸」「佐渡丸」「信濃丸」「満州丸」「八幡丸」「台南丸」「熊野丸」
     「日光丸」「台中丸」「春日丸」「大仁丸」「平壌丸」「京城丸」「愛媛丸」
     「蛟龍丸」「高阪丸」「武庫川丸」「第5宇和島丸」「海城丸」「扶桑丸」「関東丸」
     「三池丸」「神戸丸」「西京丸」
 
 
 
 
 
 
【ロシア海軍の状況】 【日本海軍の戦略】 【バルチック艦隊の回航】 【史上希にみる勝利】
    【ロシア海軍の状況】     かつて旧ソ連はアメリカの海軍力に対抗するため大幅な海軍力の増強を図った。ソ連海軍の    急激な増強は西側に脅威を与えたが、陸上戦力でも西側諸国を圧倒するために大兵力を維持し    ているのに海上戦力でも増強を図った結果、経済を大きく圧迫することになってしまった。     ソ連が成立する前にかの地を支配していたロシア帝国も海軍力増強を推進していた。大陸国    家でありながら、ロシアはイギリス・フランスに次ぐ世界第3位の海軍力を持つようになった。     だが、ロシア海軍には様々な問題があった。艦隊が太平洋と黒海とバルト海に分散されてし    まうことで、しかも相互に協力しあうことは不可能であることだ。このうち、対日戦に使用で    きるのは太平洋とバルト海の2艦隊のみで、黒海艦隊は長年の宿敵であるトルコが支配するボ    スポラス海峡を通過しなければならないため動けない状態にあった。     また、乗員の質にも問題があった。ロシア海軍で一番練度が高かったのは太平洋艦隊で同艦    隊には最新鋭の艦が優先的に回されたが、それでも日本やイギリスに比べ低いと言わざるを得    なかった。一番の部隊でさえこれだから他の艦隊乗員の練度は素人同然といえるものであった。    しかも、太平洋艦隊の乗員には欠員も多く、経費削減や砲弾不足のため航海や実弾訓練も満足    にできないため乗員の練度は下がる一方であった。     さらに、対日戦の最前線となる極東の海軍基地には満足な施設がないというのも問題であっ    た。極東のロシア海軍の根拠地といえばウラジオストクと旅順だが、旅順には戦艦や装甲巡洋    艦を修理するドックがなく平時の修理も満足にできなかったし、ウラジオストクも主力艦を収    容できるドックを一つしか持ってなかった。それに付け加え極東には修理に必要な資材も燃料    となる石炭も不足していた。     そして一番致命的なのが、ロシアが海軍というものを真に理解していなかったことである。    いかに世界第3位の艦隊を保有していたとしてもロシアは後に世界第2位の海軍力を持つドイ    ツと同じく、大陸国家としての習性から広義な範囲での海軍を持つことが出来なかったのであ    る。ロシア海軍には輸送船舶が少なく(開戦時の旅順で8隻)、特務艦としての役割も果たさ    なければならないため、部隊の輸送は実質的に不可能であった。開戦に備え、ロシアも優秀な    船舶の確保に乗り出したが、特務艦以外に回す余裕はなかった。それに対し、海洋国である日    本は優秀な船舶を多数保有しており、広義な意味でのシーパワーを持つことが出来たのである。     そんなわけだから、ロシアは太平洋艦隊だけで日本海軍と戦うのは無理と判断して、ヨーロ    ッパからバルチック艦隊が到着するまで戦力を温存する策をとった。     【日本海軍の戦略】     日清戦争時と同じく、日本海軍の任務は日本と大陸のシーレーンを守ることである。そこで、    海軍はロシア海軍を早急に撃滅することで制海権を確保し、シーレーンの安全を図ろうとした。    当時は、航空機も潜水艦もなかったので制海権さえ確保できたらそれで事足りたのである。     その制海権の確保に障害となるのがロシア太平洋艦隊である。黄海の制海権を握るにはこの    艦隊を全滅させる必要があった。極東での両軍の海軍力は主要艦でほぼ互角だが、水雷艇やそ    の他の艦船では日本が圧倒的に優勢で後方基地も日本はロシアよりも数が多く設備も充実して    いた。だから、太平洋艦隊だけを相手にした場合は日本海軍の勝利はまず間違いないものとい    えるのだ。だが、バルチック艦隊が来援すれば形勢は一気に逆転し、日本は制海権を喪失して    しまう恐れがあった。そのため日本海軍はバルチック艦隊が到着するまでに太平洋艦隊を撃滅    する必要があったのだが、事を焦ってしまったばかりに陸軍にも多大な犠牲を強いてしまう結    果となったのである。     さて、対露戦に備え編成された連合艦隊の司令長官に舞鶴鎮守府の東郷平八郎中将が抜擢さ    れ、周囲を驚かせたという話は有名だがなぜ東郷が任命されたのか、彼以外に候補者はいなか    ったのかという疑問がある。実は候補者はいたのである。常備艦隊司令長官の日高壮之丞とい    う人で、開戦直前まで日高に連合艦隊を指揮させた方が良いのではないかと意見が海軍内で多    数を占めていた。東郷は冴えない平々凡々にして律儀なだけの頑固者と見られていたのに対し、    日高は勇猛果敢で幕末から日清戦争まで最前線に立ち続けた実力派である。だが、日高には欠    点があった。血の気が多くて行動に軽率さがあることである。     ある時、ロシアが朝鮮の馬山を租借しようとする動きがあった。山本権兵衛海軍大臣はこれ    でロシア艦隊の戦力が分散されるとして内心ほくそ笑んだ。ところが、ロシアの計画を察知し    た陸軍が外務省と協力して事前に馬山浦の地を買収してしまったのだ。これに日高も協力して    いたのである。さらに決定的だったのが、日高が神戸で投錨していたロシア艦隊に日本海軍を    誇示する態度をとったことである。山本はロシアに日本海軍の実勢を知られまいと再三、各艦    隊司令官や鎮守府に訓令を発していたのだが、日高はそれを無視したのである。勇猛だが、中    央の意向に平気で逆らう者に連合艦隊を任せるわけにはいかない。山本は日高を更迭して東郷    を起用した。     東郷が連合艦隊司令長官に任命されたと知って、明治天皇が山本にその理由を尋ねたところ    山本は「あの男は運がよい男であります」と返答したという逸話は有名であるが、無論それだ    けで抜擢されたわけではない。山本と東郷は旧知の仲で、山本は東郷の最後まで勝負を捨てな    いしぶとさと従順で素直という性格を熟知していたのである。山本は東郷に連合艦隊司令長官    の内示を告げた後、「万事、中央の指令どおりに働いてもらうがどうか?」と尋ねた。東郷は    「わかった。けど、現場での駆け引きは自分に任せてもらいたい」と返答した。山本はそれに    異論はなかった。     司令長官が決まれば次は参謀人事である。詳細な作戦計画は部下に任せることが多い日本軍    の将軍にとって頭脳にも手足にもなる参謀の人事は大切なことである。     1903年10月27日、東郷司令長官以下の常備艦隊の人事が発表された。長官の女房役    である参謀長には以前にも東郷が務めていた常備艦隊の参謀長だった土佐出身の島村速雄大佐、    先任参謀には紀州出身の有馬良橘中佐、作戦参謀には愛媛松山出身の秋山真之少佐が任命され    た。3人とも以前に東郷長官の下で働いていたことがあり、ある程度は気心が知れた仲であっ    た。このうち、島村と有馬は旅順が陥落した頃に転出となったが、秋山は日本海海戦に参加し    て連合艦隊の勝利に大きく貢献した。     常備艦隊の人事が決定した頃は日露関係が修復不可能なまでに悪化していたので、海軍は1    2月28日に常備艦隊を廃止して第1、第2、第3艦隊を新編し、第1艦隊と第2艦隊で連合    艦隊を編成した。連合艦隊司令長官は第1艦隊の初代長官も兼任した。これは太平洋戦争の直    前まで続くことになる。     ちょっとここで明治期の海軍について少しお話を。というのも、これから先に明治期の海軍    について取り上げることはないだろうなと思ったので今のうちに。     日本に艦隊が誕生したのは1870年である。主要港と日本沿岸海域を警戒する小艦隊が編    制され、それが中艦隊や大艦隊に拡大し、1884年に中艦隊を解隊して常備小艦隊が編制さ    れた。この艦隊編制を定めた『艦隊編成例』に「二艦隊以上ヲ集合シテ連合艦隊ヲ編成スルコ    トアリ」とあり、連合艦隊という用語が初めて表れている。初代の連合艦隊司令長官には薩摩    出身の井上良馨少将が1889年7月29日付けで任命された。この井上という人物はあまり    知られていないが1875年に江華島事件を起こした人である。連合艦隊司令長官に任命され    た当時の井上は常備小艦隊の司令長官も務めていているが、実際に編制されたのは日清戦争の    時だそうだ。この時の長官は1889年に編制された常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将で、当    時は常備艦隊と警戒部隊の西海艦隊で連合艦隊を編成した。常備艦隊司令長官が連合艦隊司令    長官を兼任する体制は常備艦隊が廃止されるまで続き、廃止後は第1艦隊司令長官が連合艦隊    司令長官を兼任した。そして、1922年12月にそれまで臨時編成だったのを常設とした。     明治期の海軍はこれから作り上げていくという段階だったので、その過程でいろいろ混乱も    あった。その一つが軍令部の独立問題である。陸軍の参謀本部が1878年に発足したのに対    し、軍令部の成立は日清戦争前年の1893年とかなり遅れての発足となった。これは当時の    日本で海軍が陸軍よりも軽んじられていたことを表す。ちなみに参謀本部と軍令部は意味が同    じで陸軍の軍令系統を“参謀本部”、海軍のそれを“軍令部”もしくは“作戦部”と呼称して    区別していた。     日本は島国なので海軍は重要ではないかと思われるが、明治初期の日本は内乱が相次いで発    生したため、それを鎮圧する陸軍の整備が優先されたのである。誕生間もない新生日本には陸    軍と海軍を同時に増強することは出来なかった。陸軍の風下に立たされるのを嫌がった海軍は    軍令部の成立を主張し続けたが、陸軍によってそれは黙殺され1886年3月に海軍は参謀本    部によって陸軍と統合する方向に進み、統合参謀本部が設立された。明らかに陸軍の方が優遇    されていたのがわかるだろう。さらに典型的なのが海軍初の大将が海軍出身者ではなく、陸軍    出身の西郷従道だったことである。これは結果的にプラスに作用したようだが、陸軍の格下で    あることに海軍は反発し、執拗に軍令部の独立を主張した。結局、1889年3月に軍令部は    海軍参謀部として独立して海軍省の管轄に戻ったのだが、この事が原因で陸海軍に深刻な感情    的対立が生じることになった。その後、海軍参謀部は1893年5月19日の『海軍軍令部条    例』によって海軍軍令部として海軍省の管轄から独立することになった。初代軍令部長は海軍    参謀部長だった肥前出身の中牟田倉之助中将が就任した。     話はそれてしまったが、日本海軍はロシアがヨーロッパから増援の艦隊を派遣してくること    は把握していた。極東のロシア艦隊と増援艦隊が合流したら日本に勝ち目はない。連合艦隊は    増援艦隊が到着するまでにロシア太平洋艦隊の撃滅を図った。そのために奇襲をかけたり、機    雷を設置して封鎖しようとしたり、出てきたところを必死に追いかけて追い返したりといろい    ろ苦労した結果、二〇三高地の占領で太平洋艦隊を全滅させることに成功した。その甲斐あっ    て、連合艦隊は新たな敵艦隊が来るまで訓練と損害の回復に専念することが出来た。     ヨーロッパから来るロシア艦隊はまずウラジオストクに向かうことが予想された。というよ    りも旅順が陥落した後の極東におけるロシア海軍の拠点はウラジオストクしかなかったのだ。    そこまでの航路は対馬海峡を通過するコースと津軽海峡を通過するコースがあるが、連合艦隊    は敵は前者のコースで来ると判断した。距離的に近いからだ。連合艦隊はロシア艦隊の殲滅を    狙っていた。もし、戦力を残したままウラジオストクに入られたら、また旅順と同じように封    鎖をし続ける羽目になるからだ。     近代軍隊で作戦計画を立案するのは参謀の仕事である。良い作戦計画を作成するには優秀な    参謀が不可欠だが、計画を練っているときは上出来と思えてもいざ実践してみたら何の役にも    立たなかったというような机上の空論も多々あった。昭和期の海軍は正面戦闘にばかり気を取    られ兵站や情報、政治といった点には見向きもしなかったのでバランスの取れた思考が出来る    参謀が育たなかったのである。     明治期の海軍も似たようなものであった。日本海軍に(陸軍もだが)名参謀は少ないといわ    れているが、その中で希有な例外が作戦参謀の秋山真之少佐である。この人は軍人としては変    わった人で人々から変人参謀とか呼ばれていた。軍服のままベッドに寝転がったり、食事中に    席を立ったり等、軍規や軍隊内の約束事を守らなかった。規律に厳しい軍隊で彼の行動は咎め    られても仕方のないことだが、上官の島村参謀長も東郷長官も彼の頭脳をかっていたので黙認    していた。東郷長官は作戦計画は部下に一任して自分は責任だけを負う典型的な日本軍人なの    で、秋山の奇行も仕事が出来たらそれでいいと考えていたのだろうが、島村参謀長は秋山を非    難する声が挙がるたびに彼を庇い、長官にそれとなくお目こぼしを願う役目を背負わされるこ    とになった。たとえ仕事が出来ても上官が駄目ならせっかくの仕事の出来も活用されることな    く終わってしまう。日露戦争時の日本海軍で幸運だったのは秋山という希にみる名参謀がいた    ことと、彼を思いっきり働かせることができる上官がいたことである。もし、秋山がいなかっ    たらあの大勝利はなかったかもしれないし、東郷でなく日高が連合艦隊の長官になっていたら    秋山の起用もなかったかもしれない。日本海軍にとってこの人事はまさに奇跡だが、悲しいこ    とにこのような人事は以後の日本海軍には見られなくなってしまった。     日本海海戦で重要な役割を果たしたものに無線がある。その無線を世界の誰よりも軍事に応    用できると注目したのが秋山である。無線電信はイタリアのマルコーニが発明して、祖国で価    値を認められなかったのでイギリスに渡って実用化に乗り出していたが、この頃は通信距離は    短く実用化のメドは立っていなかった。それでも秋山はイギリスの科学雑誌まで読んでマルコ    ーニの研究をいち早く評価し、海軍省軍事課長宛に無線の採用を具申して認められた。海軍は    「海軍無線電信調査委員会」を設置し、逓信省電気試験所と木村駿吉・第二高等学校物理学教    授の協力を得て、国産無線電信器の開発に合流し、1903年に木村教授の手によって36式    無線電信器が完成した。海軍はこの無線機を通信距離がさらに長くなるように改良をすすめる    一方、士官と兵から120人ほどを選抜して操作の猛特訓を施した。その甲斐あって海軍は開    戦時に全艦隊に無線を扱える将兵を配備することが出来た。     それに対し、ロシア海軍は艦上に最新式の英国マルコーニ社製とドイツ製の無線機を搭載し    ていたが、操作は民間技師に任せきりだったようだ。ロシアは情報を軽視していたのである。    そのせいか乗組員と喧嘩して艦を降りた技師もいたそうである。     【バルチック艦隊の回航】     バルチック艦隊を極東に派遣することは戦前から考慮されていたが、ロシア海軍内部で回航    が具体化するのは開戦から2ヶ月後だった。ロシアの記録ではこの遅れはロシア国内の海軍に    対する理解の低さが原因だという。海軍元帥であるアレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公    がバルチック艦隊を第2太平洋艦隊と改称して極東に回航すると発表したのが1904年4月    30日、ロジェストヴェンスキー海軍軍令部長に回航準備が命じられたのが5月2日であるが、    最終的に艦隊が出港したのは10月15日であった。     なぜ、ここまで出港が遅れたのか。それは旧式艦と海防戦艦の換装工事やオーバーホールで    時間が必要なのと、新造戦艦の完成を待っていたからである。日本はこうしたロシアの状況を    見て開戦のタイミングを計っていたのである。艦隊司令長官となったロジェストヴェンスキー    は開戦前に極東に派遣されていたウィレニュース支隊をジブチから呼び戻し、バルチック艦隊    の中から新型のボロジノ級4隻とちょっと旧式の戦艦2隻、そんでウィレニュース支隊の戦艦    オスラビアの7隻を選出し、これらを中核にした艦隊を極東に回航することにした。この時点    では旧式艦や外洋での航海に向かない海防戦艦は残しておくことになっていた。海防戦艦とは    聞き慣れない艦種だが、沿岸警備用の艦艇のことで主に北欧諸国で建造されていた。     そんなわけで、ロジェストヴェンスキーが戦艦スワロフに将旗を掲げたのは8月16日とか    なり遅く、しかもスワロフはまだ工事を完了していなかった。ようやく主要な艦の整備が終わ    ったのが8月下旬で、艦隊運動のテストを実施できたのは25日だった。これでやっと出港に    メドが立ったと思った矢先に戦艦アリヨールが着底するという事故が発生し、その引き上げと    修復にまた時間をとられてしまった。     これに加えロシア艦隊は急いで集めた17隻の商船を特務艦に改装する作業や、外国から購    入した客船を仮装巡洋艦に改造する作業があった。購入した客船は6隻だが、なぜ外国から購    入したかというと、それだけの客船を揃えることすらロシアには困難だったからである。これ    が世界第3位の海軍の現実であった。     乗員の数もまた不足していた。バルチック艦隊は経験豊富なベテランの乗組員が少なく、新    兵や予備士官といった未経験者が乗員の多数を占めていた。本当ならこれらの訓練を徹底しな    ければならないのだが、準備作業に忙殺され訓練に時間を割くことが出来なかった。さらに、    新造のボロジノ級戦艦は舵を切ると風向きによって大きく傾斜するという欠点があった。つま    りは転覆しやすいという軍艦として致命的な欠陥である。それに訓練もろくにうけていない乗    員が乗り込むのだ。頼りないことこの上無しである。     そんなこんなで準備作業がひとまず完了したのは9月10日頃で、艦隊がロシアを出発した    のは10月15にであった。     ようやく出港することができたバルチック艦隊改め第2太平洋艦隊だったが、その道のりは    平坦なものではなかった。出発する前のロシア艦隊は言うまでもなくバルト海にいるのだが、    呆れたことに彼等はそこで日本海軍の水雷艇部隊の夜襲を極度に恐れていたという。乗員の多    数が未熟者だったのに加え、水雷艇の攻撃から艦隊を守る駆逐艦の数が少なかったことがいる    はずのない日本海軍に対する警報が出された原因だろうが、そのあげくに彼等は9月22日の    夜に北海のドッガーバンクでイギリスの漁船を水雷艇と間違え砲撃する事件を起こしてしまう。    この不祥事にイギリスの世論は激高し政府はロシアに抗議した。また、本国と地中海の艦隊に    出撃準備を発令した。     結局、この時は何も起こらなかったが事件の影響で第2太平洋艦隊は数日間の足止めを余儀    なくされた。その間、ロシアの乗員達はイギリスの巡洋艦部隊の熟練された艦隊運動を見せつ    けられ、自分達の技量不足を思い知らされることになった。     やっと事件も決着して再度、遠征の途についた第2太平洋艦隊だったが、今度は航路につい    ての問題が浮上した。極東に行くにはスエズ運河を通過するのが近道なのだが、ボロジノ級戦    艦は喫水が深いため運河を通行できないのだ。仕方なくロジェストヴェンスキーは艦隊を本隊    とフェリケルザム支隊に分割して、マダガスカル島で合流する決定を下した。本隊はスエズ運    河通過を断念して喜望峰回りでマダガスカルに向かうこととなった。     このマダガスカルまでの航海で第2太平洋艦隊はさらなる問題に直面した。後方支援能力の    不足による石炭補給の問題と、長期の航海で機関に不調を起こす艦が続出してその都度、工作    艦カムチャッカが修理をしなければならないという問題である。あれだけ時間を掛けたという    のに不調を起こす艦が出るのはロシア海軍の整備能力に問題があるのか、それとも艦の設計に    問題があるのかどっちだろう。また、日本との戦争中のため中立国の港が使いにくいことも問    題だった。世界各地に植民地があるイギリスやフランスは自国の港を使えばいいが、ロシアは    近隣諸国を征服して拡大した大陸国家である。海外に植民地を持たないロシアは中立国の港を    使うしかない。なるべく友好国のフランスの港を使わせてもらうのだが、それでも日本からの    抗議で入港を拒否されることもあったという。フランスは中立国なのであからさまに戦争協力    はしにくいのだ。参戦すれば堂々とロシアに協力できるのだが、それはイギリスとの戦争を意    味する。1898年のファショダ事件でフランスがイギリスに譲歩した例でもわかるようにフ    ランスはイギリスとの対決を望まなかった。     話はそれたが、艦隊は1905年1月16日にマダガスカルでフェリケルザム支隊と合流し    た。だが、この時既に旅順は陥落して太平洋艦隊は全滅していたのである。太平洋艦隊と協力    して日本艦隊と戦うという戦前からのプランはこれで消滅したのである。     旅順の陥落はロジェストヴェンスキーを大いに動揺させた。戦前からのプランが実現不可能    となった以上、引き返すのが得策だが今更それはできない。ならばとロジェストヴェンスキー    はすぐにウラジオストクに向かうことを希望したが、本国からネボガトフ支隊の到着を待つよ    うにとの命令が来てしばらくマダガスカルに待機を余儀なくされた。     ロシア本国が新たに派遣した第3太平洋艦隊いわゆるネボガトフ支隊は第2太平洋艦隊が残    しておいた旧式艦と航洋性能の低い艦艇で編成された部隊で、戦力はさほど期待できない二線    級の部隊である。戦力にならないから置いてきた部隊を寄越されてもロジェストヴェンスキー    にとったらありがた迷惑なことだった。時間が経過すればそれだけ日本海軍が迎撃の準備を整    えることになる。一刻も早く向かいたいところだが、本国からの命令には逆らえなかった。     しばらくマダガスカルに留まることになったのでロジェストヴェンスキーは士気の低下を防    ぐため訓練を実施した。といっても弾薬不足のため十分な訓練は出来なかった。ロジェストヴ    ェンスキーは弾薬を送るよう要請したが、本国の決定で弾薬はシベリア鉄道で直接ウラジオス    トクに送られることになっていた。海軍省が海上輸送中に襲われることを恐れたからという。     3月16日まで待っていたロジェストヴェンスキーはしびれを切らしたのかネボガトフ支隊    の到着を待たずにマダガスカルを出港した。艦隊はフランス領インドシナのカムラン湾に向か    ったが、日本がフランスに外交圧力を掛けたため停泊地をホンコ−ヘ湾に変更した。艦隊はこ    こでネボガトフ支隊を待つことにしたが、国際法に中立国の港に入港するときは滞在期限を2    4時間(損傷艦の場合は延長可能。1939年にドイツ装甲艦グラーフ・シュペーがモンテビ    デオに入港したときは72時間の猶予を与えられた)と定められており、艦隊は日ごとに入港    と出港を繰り返さなければならなかった。     ネボガトフ支隊は5月9日に本隊と合流した。これで全戦力が揃った第2太平洋艦隊は14    日にホンコーヘ湾を出港した。後はウラジオストクに向かうだけだが、そこに向かうには宗谷    ・津軽・対馬のいずれかの海峡を通過しなければならない。このうち、宗谷海峡は遠回りでし    かも霧が多いことから論外だとして、残りの2つのいずれを通るかそれとも艦隊に二手にわけ、    別々に海峡を通過するか。ロジェストヴェンスキーは対馬海峡を全部隊で通過することにした。     【史上希にみる勝利】     極東方面のロシア海軍戦力を潰滅させた日本海軍はいずれ来る敵増援部隊の迎撃準備を急い    だ。海軍は外国の駐在武官や外交官、民間の商社を利用して第2太平洋艦隊の動向を調べると    共に偽の情報を流してロシア側を撹乱させることもした。     1月に旅順の「要塞艦隊(米国の軍事評論家マハンは旅順艦隊をこう罵倒した)」を全滅さ    せてから5月に第2太平洋艦隊が現れるまで日本は迎撃プランの立案や戦力の充実を図ってい    たが、ただ敵艦隊を待っていただけではない。極東で唯一ロシアに残された海軍根拠地ウラジ    オストクへの封鎖作戦が1月から実施された。これによりロシアの14隻の商船が拿捕され、    8万トンの石炭が押収された。さらに4月15日にはウラジオストクの入口に750個の機雷    が敷設され港の封鎖はますます強められた。     さて、日本海軍は敵艦隊をどう迎え撃つつもりだったか。日本は防護巡洋艦の新高と仮装巡    洋艦2隻をジャワ近辺まで派遣して、あたかも日本艦隊が待ち構えているように装わせたが、    海軍が迎撃ポイントに選んだのは日本近海であった。近海で行動すれば陸上の施設も使えるし、    航洋性の低い軽快な小型艦艇も戦闘に投入できるメリットがあるからだ。     そこで秋山作戦参謀が考案したのが昼間砲撃戦と夜戦を繰り返す7段構えの作戦である。こ    れは昼間砲撃戦と夜戦を2日繰り返し、成功すればその翌日から日本海軍の大部分の艦艇を投    入して残敵掃討を行い、可能であればウラジオストク付近まで追撃して残敵を機雷原に追い込    んで全滅させるというもので、連合艦隊はこれによってロシア艦隊の殲滅を図っていた。別に    殲滅しなくても戦力が残っていればウラジオストクを封鎖することで制海権を確保することは    可能であったが、海軍が旅順で封鎖の困難さを痛感しているのと何より3月の奉天会戦で日本    陸軍は勝利したものの敵戦力を殲滅できず、ロシアを講和の席に着かせることができなかった    ので海の決戦で敵艦隊を殲滅する必要が生じたのである。     ところで日本海海戦と言えば敵前で回頭する『丁字戦法』が有名だが、それは東郷司令長官    が考えたのではなく、秋山参謀のアイデアである。秋山に丁字戦法のアイデアを作り出すヒン    トとなったのが戦国時代の水軍・能島水軍の『能島流海賊古法』という数冊の和本だったそう    だ。能島水軍は常に長蛇の陣をとるようにと云っているが、これは近代海軍でいうところの単    縦陣である。この陣形は素早く編成ができ、また他の陣形にも移りやすいというメリットもあ    った。しかも敵の頭を押さえ、敵全体を包囲するのにも便利である。さらに海賊古法は云う。    初めに敵の先頭の船を数隻で攻撃してこれを打ち破る。2、3隻も沈めたら敵全体の勢いは挫    けると。秋山はこの海賊達の戦い方をベースにいろんなところから仕入れたアイデアを元に7    段構えで敵艦隊を殲滅する作戦を立案したのである。     ロシア第2太平洋艦隊は3個の戦艦部隊と2個の巡洋艦部隊、それと2個の駆逐隊と特務艦    部隊で構成される。第1戦艦戦隊は艦隊司令のロジェストヴェンスキー中将を指揮官とし、戦    艦「クニヤージ・スワロフ」「インペラトール・アレクサンドル3世」「ボロジノ」「アリヨ    ール」で編制される。戦艦「オスラビア」「シソイ・ウェリーキー」「ナワリン」装甲巡洋艦    「ナヒーモフ」で構成される第2戦艦戦隊はあのフェリケルザム支隊だが、フェリケルザム自    身はこの海戦の直前に病死している。第3戦艦戦隊は第3太平洋艦隊として派遣されたネボガ    トフ支隊で戦艦「インペラトール・ニコライ1世」と海防戦艦「アドミラル・アブラクシン」    「アドミラル・セニャーウィン」「アドミラル・ウシャーコフ」で構成される。他に第1巡洋    艦戦隊は防護巡洋艦「オレーグ」「アウローラ」装甲巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」「モ    ノマーフ」、エンクイスト少将の第2巡洋艦戦隊は防護巡洋艦「スウェトラーナ」「アルマー    ズ」「ジェムチウグ」「イズムルド」、第1駆逐隊は駆逐艦4隻、第2駆逐隊は駆逐艦5隻で    構成される。合計すると戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、防護巡洋艦6隻、駆逐艦    9隻で、日本の連合艦隊の戦力、戦艦4隻(第3艦隊の2隻は二等戦艦に分類されるので数に    は含まない)、装甲巡洋艦8隻、防護巡洋艦15隻、駆逐艦21隻と比較すると主力艦の数で    はロシアがやや優勢だが、補助艦の数は日本が圧倒していた。     第2太平洋艦隊は5月27日早朝に仮装巡洋艦・信濃丸に発見された。信濃丸から報せを受    けた連合艦隊は防護巡洋艦・和泉を監視に向かわせた。無線で敵の行動を報せる和泉に対し、    仮装巡洋艦ウラルはジャミング(通信妨害)をロジェストヴェンスキーに具申したが、司令官    はそれを却下した。ちなみにこれが史上初の電子戦の試みといわれている。それはともかく和    泉からもたらされる情報によって連合艦隊は待ち伏せを成功させることができた。     午前10時、日清戦争時の主力艦で編制された第3艦隊と第4駆逐隊が偵察のためロシア艦    隊と接触して小規模な砲戦を行った。これが両艦隊初めての戦闘となるが正午に第4駆逐隊が    ロシア艦隊を横切ったことでロジェストヴェンスキーが機雷をされたと誤解して陣形を変えさ    せてしまった。艦隊運動に慣れていないロシア艦隊はこの命令に混乱して隊形をバラバラにし    てしまう。事前に索敵を怠ったのがこの体たらくの原因だが、第2太平洋艦隊はこの不利な状    態で連合艦隊と対決する羽目となる。     連合艦隊主力は午前5時に「敵第2艦隊見ユ」との電報を受け、午前6時34分に出撃した。    その際に大本営に発した電文が「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃    滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」という文章である。天気が晴れだから敵を見逃す    ことはないし、波が高いので射撃の巧い連合艦隊の方が有利であるという意味である。     連合艦隊と第2太平洋艦隊が遭遇したのは午後1時40分頃であった。敵艦隊を視認した東    郷司令長官は55分に戦艦・三笠のマストに信号旗を掲げさせた。「皇国ノ興廃此ノ一戦ニア    リ、各員一層奮励努力セヨ」という意味のZ旗である。     両艦隊は互いに行き違う反航戦の態勢で接触した。午後2時05分、東郷長官は敵との距離    8000mの地点で全艦に一斉回頭を命じた。すでに連合艦隊は第2太平洋艦隊の射程圏内に    入っており、回頭中は砲撃ができない連合艦隊は一方的に砲撃されることになる。それでもあ    えて危険な冒険を冒して自軍に有利な態勢を作ることに成功した東郷は海戦史上に残る名将と    され、逆にこのチャンスを逃してしまったロジェストヴェンスキーは凡将とされてしまったの    だ。     第2太平洋艦隊は08分に距離7000で砲撃を開始した。だが、乗員の練度が低い上に先    に陣形が崩れたことで第1戦艦戦隊が第2戦艦戦隊の陰になってしまったため満足な砲撃がで    きなかった。その上、エンクイスト少将の巡洋艦部隊は後方で運送船の護衛をしていて戦闘に    は参加できなかった。ウラジオストクの後方支援能力が貧弱なのを知っていたロジェストヴェ    ンスキーはこの時点でも4隻の運送船を引き連れていたのである。     ロシア艦隊の砲撃は旗艦の三笠に集中した。何発かが命中して射撃不能となった砲塔もあっ    たが、東郷長官は艦橋に立ったまま微動だにしなかった。この長官はどんな危機的な状況でも    どっしりと構えられる人物だ。10分になると今度は連合艦隊が距離6400で砲撃を開始し    た。回頭の結果、連合艦隊は数隻で1隻ずつ攻撃することができた。     主力艦同士の昼間砲撃戦は開始わずか30分で大勢が決した。信管が過敏すぎて敵戦艦の水    線装甲帯を貫通できなかった徹甲弾に対し、下瀬火薬を装填した榴弾はロシア戦艦の上部構造    物を徹底的に破壊し非装甲部に大穴を空けた。連合艦隊が大本営に打った電報にあるように当    日の日本海は波が高かった。その上にロシア艦は石炭を過剰に搭載していたため艦体が沈み込    んでいた。下瀬火薬が空けた穴から海水が流れ込み、艦内はなんとか艦の浮力を保とうと奮戦    する水兵とどうしていいかわからず右往左往するだけの水兵で混乱した。30分にはロジェス    トヴェンスキーが弾片で頭を負傷して意識不明の重態に陥るなどロシア艦隊の指揮系統にも乱    れが生じた。艦隊の指揮はネボガトフ少将が引き継いだが、夕刻までに戦艦オスラビア、アレ    クサンドル3世、ボロジノ、旗艦のスワロフと工作艦カムチャッカが撃沈された。その多くは    浸水でバランスを崩して転覆した。ロシア期待の新造戦艦が発揮したのは性能ではなく転覆し    やすいという欠点だった。それでもロジェストヴェンスキーとその幕僚は駆逐艦に救出され脱    出した。     戦艦部隊の後方を進んでいた巡洋艦部隊にも日本艦隊の攻撃が開始された。これに対し、ロ    シア艦隊はまともな応戦もできず運送船2隻と曳船1隻を撃沈された。     日が沈み、夜になると予定されたとおり駆逐艦と水雷艇による夜襲が敢行された。ロシア艦    隊も反撃して水雷艇を撃沈したが、この戦闘で戦艦ナワリンとシソイ・ウェリキー、装甲巡洋    艦ナヒーモフとモノマーフが撃沈された。     この時点で残っていた戦力はネボガトフ支隊だけであった。支隊は翌日、戦艦アリヨールと    合流してウラジオストクへの逃亡を図ったが、連合艦隊に包囲され降伏した。この時、海防戦    艦の1隻が抵抗したが装甲巡洋艦に撃沈された。高速の防護巡洋艦イズムルドは脱出に成功し    たが、ウラジオストク付近で座礁した。結局、無事にウラジオストクにたどり着けたのは巡洋    艦とは名ばかりの大型武装ヨットのアルマーズと駆逐艦ブラーウィ、グローズヌイの3隻のみ    で、残りは撃沈されるか捕獲されるか中立国に逃げ込んで抑留されるかした。負傷したロジェ    ストヴェンスキーを収容した駆逐艦ベドウィも降伏して艦隊司令もろとも捕獲された。これに    より第2太平洋艦隊はわずか2日で事実上潰滅した。それに対し、日本側の沈没艦は水雷艇3    隻のみで海戦は日本海軍の圧勝に終わった。     日本海海戦の勝利で日本はロシアの海軍戦力を潰滅させてロシア海軍を世界第3位の地位か    ら引きずり降ろした。日本は戦争の結果、手に入れたロシア艦を修復して自国の軍艦とするこ    とができた。その主な艦は次の通り。         インペラトール・ニコライ1世 → 二等戦艦・壱岐         ポルタワ           → 一等戦艦・丹後         ペレスウェート        → 一等戦艦・相模         ポビエダ           → 一等戦艦・周防         レトウィザン         → 一等戦艦・肥前         アリヨール          → 一等戦艦・石見         バヤーン           → 装甲巡洋艦・阿蘇         ワリヤーグ          → 防護巡洋艦・宗谷 1916年に返還         パラルダ           → 防護巡洋艦・津軽         レシーテリヌイ        → 駆逐艦・山彦         シルーヌイ          → 駆逐艦・文月         ベドウィ           → 駆逐艦・皐月         ガイダマーク         → 駆逐艦・敷波         ブサドニク          → 駆逐艦・巻雲     これによって日本海軍は世界第3位の規模を誇る大戦力となった。とはいっても、捕獲した    ロシア艦は修復が必要な状態で戦力化には時間が掛かりそうだった。そして、日本が捕獲艦を    修復している間にイギリスが戦艦ドレッドノートを竣工させてしまい、せっかく日本が修復し    たロシア戦艦の戦力価値を皆無にしてしまった。皮肉にもイギリスにドレッドノートの建造を    決意させたのは日本海海戦の完全勝利だった。     たった1回の海戦で敵戦力を殲滅して戦争を終結に導いたことは、各国の海軍に艦隊決戦で    戦争を終結させることができるという思想と、それに勝利するには攻撃力も防御力も優れた戦    艦を他国よりも多く保有しなければならない大艦巨砲主義を植え付けることとなった。それに    一番敏感に反応したのがイギリス海軍である。そして、1906年のドレッドノート竣工を皮    切りに1921年のワシントン海軍軍縮条約で戦艦の新規建造を禁止されるまでの15年間に    全世界で139隻の戦艦(うち巡洋戦艦は24隻)が建造されるという建艦競争の時代が到来    するのであった。     世界の海軍に多大な影響を与えた日本海海戦は当事者の日本海軍にはどのような影響を与え    たのだろうか。結論からしてあまりよろしくない影響であった。この海戦で予想もしなかった    完全勝利を収めたことで以後の戦略も日本海海戦の再現を狙うという進歩のないものとなって    しまったのだ。次なる日本海軍の敵はアメリカとなるが、対米戦にこれといった決め手を持た    ない海軍はかつての栄光にすがるしかなかったのだ。     かつてプロイセンのフリードリッヒ大王はロイテンの会戦で斜行戦術でもって倍近いオース    トリア軍を撃破した。だが、大王はこの会戦以降大規模な斜行戦術は行っていない。その理由    は斜行戦術は一度見せると容易に対抗策を出されるからである。しかし、大王の部下とその子    孫は斜行戦術を厳格に遂行することに固執し、新しい戦術を生み出そうとも時代が斜行戦術を    過去の遺物にしていったことにも目をそむけ続けた。そんなプロイセン軍を打ち破ったのがナ    ポレオンである。     日本海軍もプロイセン軍も同じ道を歩んでいったといえるだろう。ただ一つ違うのはナポレ    オンに敗北したプロイセン軍が態勢を立て直して再びナポレオンと対決する時間的余裕が与え    られたのに対し、日本海軍は立ち直る余裕すら与えられずに消滅していったことだろう。日本    海海戦の再現を狙った日本海軍。だが、艦隊決戦が日本に勝利をもたらすことは遂になかった    のである。
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