シリーズ歴史を変えたあの瞬間・1
日本誕生


 
       この国は7世紀に緩やかな豪族連合だったヤマトから大陸から律令制度を導入
      して中央集権化した日本へと生まれ変わった。無論、それは平和的な手段で成さ
      れたのではなく、多くの血が流されての産物であった。
 
 
 
 
【乙巳の変】 【白村江の戦い】 【壬申の乱】
    【乙巳の変】     4世紀に統一を達成してから現在に至るまでこの国の頂点には天皇がいた。そのため日本で    最高権威と言えばそれは天皇を指す。しかし、長い歴史のところどころには天皇を上回る権力    を手にした者もいた。その第1号が蘇我氏である。     蘇我氏は稲目の代に大王(おおきみ)家の外戚となったことから発展した。その子の馬子は    政敵・物部氏を滅ぼし朝廷内の立場を確固たるものとした。気に入らぬ者は大王であっても殺    害の対象とする蘇我氏は大王家をも脅かす勢力となった。当然、蘇我氏は横柄に振る舞うよう    になり、それに反発する者も現れた。     皇極天皇(この頃はまだ大王だが個人名はすべて天皇と記す)の皇子・中大兄は臣下であり    ながら居館を宮門(皇居)と呼ばせたり、山背大兄王を討ったりとその行動が目に余る蘇我氏    に強い敵意を抱いていた。同じく蘇我氏に反発する中臣鎌足と共謀して蘇我氏打倒の計画を練    り始めた。計画はこの二人で主導されたが、その黒幕は中大兄の叔父である軽皇子だとされて    いる。軽皇子は自分が次期大王候補になるには現時点の最有力候補である古人大兄(中大兄の    異母兄。母は蘇我馬子の娘)を排除せねばならず、そのためには古人大兄の後ろ盾となってい    る蘇我氏一党を倒す必要があると決意していたのだ。     皇極天皇4年6月12日、中大兄らは朝鮮三国からの入貢の儀式という場で蘇我氏の当主・    入鹿を襲撃してこれを殺害した。その直後に、父の蝦夷が自殺して蘇我氏の勢力は削減された。    この後、皇極天皇は軽皇子に譲位して、軽皇子は孝徳天皇として即位した。     こうして権勢を思うがままにしてきた蘇我氏はあっけなく倒されたが、なぜ蘇我氏は排除さ    れたのか。蘇我入鹿を殺害した直後、中大兄は母の皇極天皇の詰問に対し入鹿が大王位を狙っ    ていたから成敗したと答えている。本当に入鹿は大王になろうとしていたのか。日本書紀は勝    者である中大兄側に都合良く書かれているので鵜呑みには出来ない。それと入鹿の悪行の最た    るものとされる山背大兄王とその一族を討った件についても疑問点がある。研究者の中には山    背大兄の実在を疑っている人もいるのだ。なぜなら彼には墓も祀られるための神社も存在して    いないからだ。     蘇我入鹿暗殺は大陸を真似てヤマトを中央集権国家に変革しようとした中大兄らと次期大王    候補になりたいと思っていた軽皇子が結びついた結果、両者の共通の邪魔者となった蘇我氏を    除くために起きたものであろう。そして、自分達を正当化するためにことさらに蘇我氏の悪行    をでっちあげていったと思われる。それだけではあきたらず彼等は入鹿を改名までしている。    入鹿は本名を蘇我太郎鞍作という。入鹿の名は死後に付けられた蔑称である。中大兄らは名を    変えさせてまで入鹿の評判を落とそうとしていたのだ。しかし、中大兄らの企みは成功しなか    ったようだ。蘇我氏は仏教を日本に導入した功労者として後々の世まで語られており、入鹿も    江戸時代の人から公という敬称をつけられるぐらい人気が高かったのだ。今日のような悪人の    イメージは明治からつけられたものだ。     【白村江の戦い】     西晋のわずかな平和な期間を除いて184年の黄巾の乱から始まった大陸の分裂と混乱はお    よそ400年という長き戦乱の末に隋の統一によってようやく終息した。隋の中国統一は後漢    王朝以来のスーパーパワーが復活したことを意味しており、当然ながら周辺諸国への影響は多    大なものだった。積極的に隋と関係を持とうとするにしろ、なるべく距離を保とうとするにし    ろ、それらの国は決して隋を無視することは出来ないのだ。その一つが朝鮮である。     隋が中国を統一した頃、朝鮮は高句麗・新羅・百済の三国が鼎立していた。このうち大陸側    にあったのが最大国家の高句麗である。高句麗は敵対する新羅・百済が隋に頼ろうとしていた    ので自身は逆に隋と敵対する道を選んだ。当然、高句麗は隋から何度も攻められるが、その度    に多大な犠牲を出しながらも隋の軍勢を撃退している。この時の無理が祟って隋は統一からわ    ずか29年で滅亡することになる。     隋の煬帝は614年の第4回遠征で高句麗の名目的な降伏を勝ち取るものの、その4年後に    親衛隊に殺害されてしまった。その死後、隋朝を倒して李氏が唐を建国する。     唐の半島政策も隋と変わらないものだった。李氏も楊氏と同じ北朝の鮮卑系軍閥の出身で辺    境の敵性異民族に対する妥協のなさは同じだったのである。その頃の朝鮮半島は新羅が高句麗    と百済の攻撃にさらされ、存亡の危機に立たされていた。その新羅から救援を求められたので    唐は高句麗と百済に停戦命令を出し、それが拒絶されるとこの2国への武力制裁が決定された。     唐・新羅連合軍はまず百済を攻めた。復讐に燃える新羅の猛攻に百済の軍は一部の例外を除    いてあっけなく敗退し、連合軍の攻勢発動からわずか4ヶ月で滅亡した。だが、それは王の降    伏と首都の陥落によるもので、全土を完全に征服したわけではなかった。百済王の降伏からわ    ずか2週間後、各地で武力蜂起が発生しやがて全土に普及した。百済の残党軍は鬼室福信に率    いられ、新羅と唐に戦いを挑んだのである。しかし、百済の遺臣だけで祖国の解放を実現する    のは不可能で、外部の支援が不可欠であった。その外部とはヤマトしかなかった。     百済から支援の要請が来た頃の、ヤマトの大王は孝徳天皇から皇極上皇が重祚して斉明天皇    に代わっていた。66歳の高齢になっていた大王は鬼室福信からの救援要請にただちに応じる    決心をした。ヤマトには百済王族の余豊璋が人質として暮らしており、大義名分は存在してい  た。ヤマトはまず661年9月に余豊璋と共に5000の兵を半島に派遣した。この2ヶ月前    に斉明天皇は死去しており、中大兄が指導者となっていた。その後1年半は百済への支援は武    器と物資の輸送に限定されていたが、その間に余豊璋と鬼室福信の対立が生じて鬼室福信が殺    害されてしまった。卓越した指導者で人望もある鬼室福信を失ったことで百済の残党軍は崩壊    の危機に直面した。     この百済の危機に中大兄は大軍の派遣で対処しようとした。もっと早く派遣したかっただろ    うが、大軍を海外に派遣する経験が皆無だったため準備とかに手間取ったのだろう。663年    3月、上毛野君稚子(かみつけぬのきみわくご)・間人連大蓋(はしひとのむらじおおふた)    ら27000が渡海した。さらに余豊璋らが周留で包囲されるとそれを救援するため蘆原君臣    指揮下の1万を増派した。     周留包囲戦は8月17日に開始された。陸を孫仁師・劉仁願・文武王が指揮する軍、海を劉    仁軌・杜爽の艦隊が周留を包囲している。兵力は推定で7000人、艦船は大型艦170隻で    ある。     ヤマトの艦隊が出現したのは27日であった。艦船は400隻、朝鮮には1000隻とする    記録もあるが、これは敵側の戦力を過大に誇張することでそれを撃退した自分達の力を見せつ    けたいためであろう。兵力は1万人以上とされている。数的には唐・新羅連合軍よりも優勢で    ヤマトの将兵も敵を過少評価していたようだ。敵を侮ったヤマト軍は28日に敵艦隊への突撃    を開始した。     ヤマトにとって初めてとなる大規模海上戦は唐の圧倒的勝利に終わった。海上戦は素人のヤ    マト艦隊は歴戦の唐艦隊に何の策もなく戦いを挑み全滅した。ヤマトは一元的な指揮系統が無    く、個々に行動していた。それを唐は2隻のチームで各個に撃破していった。ヤマトは第1次    遠征軍の将軍で周留城に籠もって戦っていた朴市田来津のように数十人の敵兵を斬り伏せ、さ    らに二人を道連れにして白村江に飛び込んだ豪傑もいたが、そんな個人的な武勇で戦局は覆る    こともなかった。白村江の大敗で百済戦争の帰趨は決した。周留は9月7日に開城し、余豊璋    は高句麗に逃亡した。王の逃亡と周留の開城で百済残党軍は戦意を喪失し、各地で唐・新羅連    合軍に降伏した。これにより百済は今度こそ完全に滅び去ったのである。     白村江の惨敗は本土の中大兄らヤマトの首脳に大きな衝撃を与えた。豪族の連合政権で軍隊    も豪族の私兵の寄せ集めであるヤマトは同様の構造である新羅の軍はともかく、府県制により    高度に中央集権化かつ組織化された唐の敵ではなかったのだ。唐の報復を恐れた中大兄は侵攻    に備え九州に大宰府を建設し、筑紫・壱岐・対馬に防人を設置した。さらに中大兄は自らの政    府を難波から近江に移した。要するに逃げたのである。白村江の大敗はそれほどまでに衝撃的    だったのだ。     しかし、668年1月3日に天智天皇として即位した中大兄の危惧は現実にはならなかった。    この年、百済に次いで後継者争いで弱体化した高句麗を滅ぼすことに成功した新羅が、今度は    唐に対して戦を仕掛け唐の勢力を半島から排除したのである。唐と新羅の戦争は676年まで    続き、ヤマトは唐の来寇という最悪の事態を免れることが出来た。だが、白村江の敗北はヤマ    トに大陸国家の力を思い知らせることになった。以後、新羅と唐との関係を急速に改善したヤ    マトは唐から律令制度を取り入れ、天皇と豪族が個々に民衆・土地を支配する体制から天皇が    全ての民衆・土地を支配する中央集権国家に生まれ変わるのである。     【壬申の乱】     先にも述べたようにヤマトは豪族の連合国家であり、その統合の権威と利害対立の裁定者と    して大王が存在した。大王の補佐として国政に関与する有力豪族は大伴氏・物部氏・蘇我氏等    の畿内豪族に限られ、地方豪族が国政に関与することはまずなかった。反面、中央政府が地方    に行使できる権力も小さいものだった。     大陸で隋唐帝国が成立し、漢王朝以来の超大国が誕生するとヤマトでも大王が権威ではなく    権力で国家を統治する中央集権化への気運が高まった。その過程において有力な(大王をも脅    かす)豪族が淘汰されていくのは必然といえるだろう。まず、540年に大伴氏が物部氏との    権力闘争に敗れ政治の表舞台を去った。次いで物部氏も蘇我氏らとの戦いに敗れ滅亡した。蘇    我氏は聖徳太子と協力して、冠位十二階制や十七条憲法といった国家の理念の整備を推進して    いったが、彼等も645年に中大兄らのクーデターで倒された。     クーデターを成功させた中大兄は叔父を大王に据えるが、何も権力に未練がなかったわけで    はない。自分が大王になるにはまだ敵が多いと思ったのだろう。彼は異母兄の古人大兄をはじ    め、従兄弟の有間王子や義父の石川麻呂など自らの地位を脅かす可能性がある血族を次々と抹    殺している。政敵を葬ったことでかつてない強大な権力を手にした中大兄は「大化の改新」と    呼ばれる改革を断行していくのである。     改新の目的はヤマトの中央集権化であった。まず、都を飛鳥から難波に移した。これは旧来    の勢力の影響力を排除するためである。いつの世でも改革の妨げとなるのはこれら旧勢力(現    在風にいうと保守勢力になるかな?)で、彼等から離れることで改革をスムーズに実行してい    こうとしたのだ。さらに聖徳太子が推進していた中央政府の機構整備を促進し、公民制と評制    の導入や戸籍の造成で従来の部民制(朝廷と豪族が個々に農民と漁民を支配する)の解体を図    り、国家の一元的な民衆の直接統治を目指していった。     中大兄の政策は一定の成果を得たが、部民制の廃絶と造籍は中央政府の介入として地方豪族    の反感を買うことになった。それでも中大兄は改革のスピードを緩めようとはしなかった。白    村江の大敗で唐の襲来を警戒しなければならなくなった中大兄は一刻も早く大王の元に統率の    取れた軍隊を創設したいと考えていたのだ。白村江の敗因はヤマトが何のビジョンを持つこと    なく安易に介入したことと、軍勢が豪族達の私兵による寄せ集めで統制がまったく取れてなか    ったことであるが、半島情勢の急変はヤマトの首脳部に警戒心を抱かせた。幸いにも新羅と唐    の戦争が勃発したことでヤマトの危機は去ったが、今度は大王位を巡ってヤマトで内戦が勃発    するのである。     唐の脅威がヤマトを脅かしていた667年、中大兄は群臣の反対を押し切って都を近江に移    した。これは西から来る唐の軍に対して難波よりも距離がありそれだけ防戦に時間が稼げるの    と、いざとなったときに東国への脱出を容易にするためである。その翌年に中大兄は称制とい    って大王が在位していないときに皇太子が政務を代行する制度によって実権を掌握していたの    をやめて自ら大王位に即位した。天智天皇である。     天智天皇は近江京で46歳で死去し、息子の大友王子が跡を継いだが、彼がすんなりと大王    になれたわけではなかった。日本書紀では当初、太子には天智天皇の弟・大海人王子が立てら    れていたとされている。彼は天智天皇と同じ舒明天皇と皇極(斉明)天皇を両親としており、    伊賀の国造の娘が母の大友とは血統が違いすぎていた。また、妃は姪(天智天皇の娘。驚くこ    とに同母姉の大田王女も大海人の妃となっている。後の持統天皇)で政府内でも兄の補佐役と    して実績を積んでおり、自他共に認める第一の後継候補と目されていた。     だが、息子が成長すればそっちに跡を継がせたいと思うのが人情である。それが文武両道に    優れた若者に成長したとあればなおさらだ。自然と大海人との関係は悪化していくことになる。    『藤氏家伝』によれば大海人が兄の即位式の後の宴で長槍で敷板を刺して兄を睨みつけたとい    う。怒った大王は大海人を斬り捨てようとしたが、中臣鎌足に制止された。     ここまで来ると二人の関係の修復は不可能であった。671年1月、天智天皇は大友を太政    大臣に任じた。太政大臣は国政を担う重職である。大王は大友をその職に就けることで彼こそ    が自分の後継者であるとアピールしたのである。大王がもう幾年か長生きしていたらその目論    見も達成できただろう。だが、大王はこの年の9月に病床に伏してしまう。病状は重く、大王    は自分の死期が近いと悟った。そこで彼は最後の仕事に取りかかることにした。     10月17日、大海人が大王に呼ばれ大王位を譲りたいと持ちかけられた。大王の狙いは大    海人が「うん」と言えば、その場で斬ることであった。ところが、事前に大海人に警告した者    がおり、大海人は細心の注意を払って対応した。この大海人に警告した者とは彼に大王の命を    伝えた使者である。大王位を持ちかけられた大海人は自分にその力量はない、大后を即位させ    て大友を執政につけるべきであると答えた。さらに彼は自分が権力に何の未練もないことを証    明するために出家して吉野に下ると伝えた。この時の彼の態度は冷静で堂々としており、大王    は遂に大海人を殺す機会を見いだせずに吉野下りに許可を与えた。大海人は翌々日に大津を出    発するが、彼を見送った群臣の一人は「虎に翼を与えて野に放った」と呟いたという。天智天    皇が死去したのは12月3日である。     天智天皇が亡くなって2日後、大友王子が即位して弘文天皇となった。日本書紀では大海人    が大王に反逆した事実を隠蔽するために大友の大王即位をなかったことにしているが、江戸期    から大友を大王とする説が唱えられるようになったらしい。弘文天皇は明治3年につけられた    ものなので、ここでは弘文天皇は大友王子でとおすことにする。     一方、吉野に下った大海人王子は大王位簒奪のための準備を着々と進めていた。そして、6    72年6月22日に挙兵に及んだ。日本書紀では朝廷側が大海人を討とうとしたので仕方なく    挙兵したと記しているが、その後の朝廷側の狼狽ぶりを見れば大海人の挙兵は彼等にとって寝    耳に水だったのは明白だ。     行動を起こした大海人は己の根拠地である美濃の湯沐に軍隊の動員を開始させ、その他の東    国諸国にも動員令を発した。彼はまず不破関の占領を命じた。続いて大海人は家族を引き連れ    吉野を脱出した。兄の目を欺くための吉野下りだったとはいえ、一応出家した身なので家来の    数もそんなには多くなかっただろう。脱出に気づいた朝廷が追っ手を差し向ければ女連れの大    海人一行はたちまち追いつかれてしまうだろう。だが、幸いにも追っ手は来ず、大海人は脱出    2日後の26日に伊勢神宮に到着した。この時までに伊賀の郡司や近江を脱出した長男の高市    王子に伊勢国司らが帰順している。さらに三男の大津王子も近江を脱出して父の下に馳せ参じ、    美濃で動員した3000の兵が不破関を占拠したという吉報も届けられた。緒戦の成功に満足    した大海人は東海・東山道の豪族に挙兵を督促すると同時に高市を野戦指揮官に任じて不破に    派遣した。そして、彼は吉野脱出以来はじめて熟睡したのである。     さて、大海人の吉野脱出という緊急事態に朝廷は何をしていたのか。日本書紀は群臣はただ    慌てふためき東国や山に脱出しようとしたと記している。これは敵方を弱く見せようという作    り話かもしれないが、衝撃を受けたのは事実であろう。大海人の脱出を知った群臣はただちに    騎馬隊を追跡に向かわせるべきと進言した。今なら伊賀山中で捕らえることが出来ると。だが、    大友はその進言をどういうわけか退けてしまった。なぜ、大友が追跡を命じなかったのかは不    明だが、彼は叔父の謀反を容易に鎮圧できる最後の機会を逃したのである。これは朝廷にとっ    て大きな失態といえるだろう。事態は大海人が望む戦争へと進んでいくのだった。     先述したように大海人の軍事基盤は東国である。これは彼の領土が美濃にあったのと、公民    制の導入で利権が奪われ(これは別に東国に限ったことではない)、さらに防人という負担も    負わされたことへの反感があったためである。彼等にとって今回の大海人の決起は現状を好転    させるための絶好の機会なのである。     これに対し朝廷は各地に動員令を発したが、東国への使者はすべて大海人側に阻止された。    他に西国の吉備と筑紫も動員を断ってきた。吉備は先の朝鮮半島への出兵で多くの将兵を失っ    ていて、未だにその回復がなされてなかった。筑紫は筑紫大宰栗隈王が国境警備のため兵を動    かすことは出来ないとして命令を拒否した。こうなると朝廷に残された兵力は畿内のみとなる    が、ここでも反乱の狼煙が揚げられたのである。     6月29日、朝廷の兵站基地である飛鳥古京で大伴吹負が挙兵した。物部氏との権力闘争に    敗れて以来、雌伏を余儀なくされていた大伴氏は一族の勢力回復のために大海人の反乱に参戦    したのである。大伴勢は少数で飛鳥古京を奇襲しこれを占領した。この報せを受けた大海人は    吹負を大和方面の指揮官に任命した。     大和の諸豪族の参戦で1000人以上に膨れあがった大伴勢は近江京を攻撃するため7月1    日に飛鳥古京を出発した。対する朝廷も近江と河内から鎮圧の軍勢を派遣した。朝廷軍と大伴    勢は3日と4日に高安城と奈良山で交戦し、いずれの戦場でも朝廷軍が勝利した。だが、朝廷    軍はすぐには飛鳥への進軍を始めなかった。近江からの軍は大海人の主力と対峙する三関方面    の戦況次第ではすぐに引き返さなくてはならないため兵力の損耗は極力避けるよう指示されて    いたし、河内からの軍は河内国司の謀反が露見したためこれの処罰と事後処理に時間が掛かっ    たのである。この間に大伴勢は東国からの援軍1000名が到着したこともあり態勢を立て直    すことが出来た。     軍を再編した大伴勢は8日か9日に河内からの朝廷軍と交戦した。兵力的にはほぼ同等だが、    結果は朝廷軍の潰滅に終わった。これにより河内からの脅威は消滅した。続いて尾張・美濃か    らの増援も得た大伴勢は奈良盆地で朝廷が新たに派遣した軍隊も撃破して、大和での勝利を確    定させた。反対に最大の兵站基地を失った朝廷は動員力が半減し、大和と周辺の反乱分子への    対応のために三関から兵を転用せざるを得なくなったのである。     その頃、主戦線である三関方面では1、2万の朝廷軍が大海人軍の戦備が整う前にその司令    部がある不破関を攻撃しようと大津を出発していた。その前衛は7月1日頃に不破の手前であ    る玉倉部村で大海人軍を急襲した。この攻撃は不破から敵の増援が到着したため失敗したが、    朝廷軍の主力は犬上川に接近しており、数日内に両軍の決戦が行われるかと思われた。     ところが、朝廷軍の司令部内で何らかの原因で指揮官同士の対立が発生し、将軍の山部王が    殺害され、さらに同じく将軍の羽田公矢国とその息子が脱走して大海人に帰順したため、朝廷     軍の指揮系統が混乱し兵士達も脱走し始めたのである。戦力が減少した朝廷軍は7月5日に倉    歴の大海人軍に夜襲をかけ、これに勝利するものの大和への進軍を再開させた結果、翌日に敗    北してしまった。多数の兵を失った朝廷軍は大海人軍の追撃で態勢を立て直すことができず、    そのまま大津に敗走した。     朝廷軍を破砕した大海人軍はついに総進撃に移行した。中央・右翼・左翼の3軍に分かれた    大海人軍は中央軍と右翼軍で大津を攻撃することにした。朝廷軍は息長の横河(7日)、鳥籠    山(9日)、安河(13日)、栗太(17日)で敵の中央軍と交戦したが、ことごとく敗北し    ついには最終防衛ラインである瀬田川まで後退を余儀なくされた。     この深刻な事態に大友は自ら出陣することを決意し、近江京の予備兵力と各地からの敗残兵    をまとめて瀬田川西岸に着陣した。朝廷軍は敵が橋を渡っている時にこれを壊す作戦を立てて    いた。瀬田の戦いは22日に始まり、朝廷軍は予定通り橋を落とすつもりでいた。だが、敵方    の大分君稚臣という豪傑が単身駆け込んでくるのを見て、その機会を失ってしまう。大海人軍    はこぞって橋に殺到し、朝廷軍は完全に戦意を喪失して総崩れとなった。大友は戦場を脱出し    て西国で再起を図ろうとしたが、北からは寝返った羽田公矢国の右翼軍が琵琶湖西岸から大津    に迫っており、大和で左翼軍と合流した大伴勢も北上して難波に進出していた。もはや状況は    絶望的であると悟った大友は近江京郊外の山前で自決した。     内戦に勝利した大海人は24日に大津に入り諸将と会見した後、26日に不破関に凱旋して    届けられた大友の首級を実検した。大海人は再び都を飛鳥に移し、翌年の2月27日に即位し    た。天武天皇である。     大海人の勝因は朝廷の対策が後手に回ったこともあるが、東国の豪族が彼に味方したのが何    よりも大きかった。それだけ天智天皇の強権政治が反感を買っていたということである。しか    し、彼等のおかげで大王になることが出来た大海人は兄以上の強権政治を推進して中央集権化    を徹底させていった。氏姓制を完成させて豪族を統制し、大王直属の常備軍も設立した。さら    に天武天皇は大王の称号を天皇(すめらのみこと)と改称し、国号もヤマトから日本へと改め    た。その後の唐との関係修復で大陸の文化や法制度が取り入られていくことで日本は律令国家    へと変身していくのである。
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