地球の裏側で起きたもう一つの太平洋戦争
第一次太平洋戦争

 
【戦前】
 
【戦中】
 
【戦後】
 
 【戦前】  800年にも及ぶレコンキスタを勝利によって終結させた西葡両国は大航海時代と呼ばれる征服活動を開始した。 その標的となったアメリカ大陸はアステカ・マヤ・インカといった文明が征服者たちによって滅ぼされていき、1 6世紀の初頭にはポルトガルに征服されたブラジルを除き南米大陸のほとんどがスペイン領となった。  だが、ナポレオンによってスペインとポルトガルが屈服させられると、南米植民地における本国から派遣されて いた官憲たちの権威は失墜した。以前から過酷な植民地支配に反発して抵抗活動をしてきた活動家たちは、これを 機に独立運動を活発化させて各地で蜂起した。国力が衰退した宗主国はこれを鎮圧することができず、南米諸国は 相次いで独立を果たした。  だが、チリをのぞく諸国は保守派と自由主義者、そしてカウディーリョという軍閥勢力が主導権争いを繰り広げ 不毛の世紀と呼ばれる混乱状態に陥っていた。チリだけは保守派が実権を掌握して、軍を文民統制下に置いて安定 した政権を築きあげることに成功していた。政治の安定したチリへは外国からの資本が投入され、銀や銅に硝石と いった鉱山の開発が進められた。この政治の安定と経済の発達はチリの国力を向上させていったのである。  そのチリと北の隣国ボリビアの国境にはアントファガスタ地域があるが、アタカマ砂漠が広がる乾燥地帯でもあ る同地は利用価値が無いと見做され、アントファガスタ自体はボリビア領とされたものの国境線は曖昧なものだっ た。その後、1866年8月に両国は南緯24度線を国境と定め、23度線から25度線までを協同開発地として そこから得られる資源から発生する利益を仲良くわけあうという内容の条約を締結したが、その翌年にアタカマ砂 漠で世界有数の硝石鉱床が発見されたことで事態は一変する。火薬の原料となる硝石は当然、金になるわけで不毛 と思われたアントファガスタは一転して宝の山となったのである。  この宝の山を放っておく手を無かったが、政治的に不安定で先住民の反乱も発生しているボリビアは迅速に対応 することができず、イギリスから資本の提供を受けたチリが積極的に進出を図ったことで両国関係は悪化した。  1873年2月、ボリビアはペルーと防衛条約を締結した。これはチリを仮想敵国とする秘密条約で、チリ人が 国境と定められたはずの南緯24度線を越えて大挙して北進してきたことと、チリ・イギリス系の企業がアタカマ 砂漠北辺のペルー領にも進出したことに両国が危機感を覚えたためであった。アントファガスタでは、1870年 に銀鉱山が発見されチリ系企業の進出がさらに活発化しており、同地域の中心地であるアントファガスタ市では人 口の8割以上がチリ人に占められるなど、あたかもアントファガスタはチリの植民地的な様相を呈していた。さら に、チリ人はさらに北上してペルーのタラパカ州にも進出して同地の硝石採掘施設の5割を占めるようになった。  こうして、ボリビアはペルーと手を組むことにしたのだが、一方で防衛条約締結の翌年にチリとの間で新たな条 約を締結している。その内容は南緯24度線以北の鉱山で発生する輸出税収入をチリが放棄する代わりに、ボリビ ア国内で活動するチリ系採掘企業に対する税額の引き上げを25年間凍結するという内容で、これで硝石をめぐる 対立は収束するかに思われた。  当時のペルーの最大の収入源はグアノだったが、これが枯渇し始めた上に1870年代の世界的な不況でグアノ の価格が暴落したことで財政が悪化していた。そこで、グアノに代わる収入源としてタラパカの硝石に注目したペ ルーは1875年5月に同地で操業するチリ系採掘企業を有償接収してしまった。これに倣って、同じく財政難に 喘いでいたボリビアが74年の条約を無視してチリ系採掘企業に新たな輸出税を課税して、それが拒否されると企 業を接収した。  これに対してチリは実力行使に出た。1879年2月、チリ軍は200名の兵でアントファガスタ市を占領して、 さらに5000人を増派してアントファガスタ地域の海岸線を制圧した。これをもって戦争は避けられなくなり、 3月1日にボリビアはチリに宣戦を布告した。ペルーは両国の仲裁に乗り出したが、先の秘密条約がチリに露見し ていたため逆にチリから宣戦を布告されてしまった。
国境線は現在のものです
 【戦中】  陸軍戦力ではペルー・ボリビアが圧倒的だったが、海軍はチリが優勢だった。長い海岸線を持つチリは早くから 海軍を整備しており、74年に竣工したイギリス製のアルミランテ・コクランとブランコ・エンカラダの2隻の新 鋭艦の他に、オイギンス・チャカブコ・エスメラルダ・アブタオの4隻のコルベット、新鋭砲艦のマガヤネスにス ペインから拿捕した砲艦コヴァドンガなどの艦艇を保有していた。  一方、連合軍の海軍力はチリと同じく長い海岸線があるペルーは海軍の重要性こそ認識していたものの、折から の財政難で装備の更新すらままならず、イギリスに発注した装甲艦の建造もキャンセルを余儀なくされる状態だっ た。ボリビアの海軍はあって無きが如しだった。  この海軍力の差は戦争の行方を大きく左右するものだった。なぜなら、アントファガスタは陸路の整備が遅れて いる荒涼とした大地で、連絡線を確保するには制海権を掌握する必要があるからだ。そして、開戦早々にして戦局 の帰趨を決する海戦が発生したのである。  1879年5月21日、タラパカ州のイキケという港を封鎖していたチリのエスメラルダとコヴァドンガはアリ カ港への輸送船護衛任務を終えたペルーの主力艦インディペンデンシアとワスカルの攻撃を受けた。この時、他の チリの艦艇はペルー艦隊撃滅のために出撃中だったため、砲艦とコルベットでペルーの主力艦2隻と戦わなければ ならなかった。性能からしてチリ側に勝ち目は無かったが、エスメラルダに座乗していた指揮官のプラット中佐は 果敢にもペルー艦隊に挑戦した。プラット中佐は衝角攻撃を仕掛けてきたワスカルに自ら先頭に立って乗り込んだ が、ワスカルが後進したため2名の部下と敵艦に取り残されて戦死した。エスメラルダも3度の衝角攻撃で撃沈さ れた。だが、ペルーもコヴァドンガを追撃したインディペンデンシアを座礁事故で失っている。旧式のコルベット を失ったにすぎないチリに対し、ペルーは貴重な主力艦の1隻を失っており、以後は積極的な行動に出ることがで きなくなった。  主力艦が半減したペルー海軍だったが、艦隊指揮官のグラウ提督は唯一残った主力艦のワスカルで通商破壊戦に 出た。ワスカルは孤兵良く戦い、7月23日には輸送船リマクを拿捕してチリ艦隊司令長官を辞任に追い込んだ。 だが、看過できないほどの被害を受けたチリがこのまま手を拱いているわけはなく、捜索隊を編成してワスカルを 探し求めた。漁船まで動員した捜索の末、10月8日未明にチリ海軍はアリカに帰投中のワスカルを発見してアル ミランテ・コクランが追撃を開始した。  敵艦の接近を知ったグラウ提督は随伴のウニオンに退避を命じると、ワスカル1隻でアルミランテ・コクランに 戦いを挑んだ。しかし、アルミランテ・コクランより8年古いワスカルに勝ち目は無く、砲塔の旋回機能が破壊さ れてしまった。衝角攻撃を仕掛けようにもワスカルに負けない速度のアルミランテ・コクランには通用せず、そう こうしているうちにブランコ・エンカラダが戦闘に参加してワスカルの命運は尽きた。集中攻撃を受けたワスカル はグラウ提督が戦死するなど甚大な被害を受けた。提督の後任たちも次々と死傷して、最後に指揮を執ったガレソ ン大尉が自沈を決意するも、乗り込んできたチリ兵に阻止されワスカルはチリに拿捕された。ワスカルは現在も記 念艦として健在である。  このアンガモス岬沖での海戦によってペルー海軍は事実上壊滅して制海権はチリの掌握するところとなった。ワ スカル捜索のために中断していた港湾封鎖も再開され、ペルー・ボリビアは海上連絡線を断たれて前線への補給路 が砂漠の細い道路1本のみとなってしまった。戦争はこの後も地上戦に舞台を移して数年続くが、この緒戦におけ る海戦の勝敗が戦争の帰趨を決したことからこの戦争は太平洋戦争と呼ばれる。  制海権を掌握したチリは積極的に攻勢に出た。11月2日早朝、エスカラ将軍に率いられたチリ軍はイキケ北方 のピサグアに上陸してこれを占領した。チリ軍はさらに内陸部に進出して、ボリビア軍と合流して反撃に出たペル ー軍を19日にサン・フランシスコ丘陵で撃退した。チリ軍はタラパカ村に後退した連合軍を追撃して、戦闘には 敗れたものの連合軍がアリカに撤退したためタラパカ州を制圧することができた。  タラパカの失陥に焦ったのかペルーのプラード大統領は、ヨーロッパに支援と購入可能な艦船を求めに行ったの だが、これが逃亡と批判されたため辞任に追い込まれた。ボリビアのグロソレ大統領も責任を問われて辞任を余儀 なくされた。  ボリビアの新大統領に指名されたのはカンペロ将軍だが、その麾下の兵士9000名が守備するペルーのタクナ に1880年5月にイロ港に上陸したチリ軍14000が侵攻した。26日の戦闘でボリビア軍は3000名の兵 を失って東の山岳地帯に潰走した。チリ軍も2000人の損害を出したが、さらに南下してアリカに迫った。アリ カには2000人のペルー軍が守備していたが、6月6日のチリ海軍の艦砲射撃で戦意を喪失(それでも砲台の反 撃でアルミランテ・コクランを小破させている)してしまい、翌日黎明からのチリ軍の攻撃であっけなくアリカは 占領された。  タクナ州とアリカ州の制圧で沿岸の資源地帯はほぼチリが占領するところとなった。これでチリは戦争目的を達 成したことになるが、ペルーとボリビアにしたらこのまま終わらせるわけにはいかなかった。そのため、10月に アメリカが調停に乗り出しても占領地からの撤退を求めるペルー・ボリビアとそれを拒否するチリの交渉はまとま ることはなかった。チリはペルー・ボリビアを屈服させるため、ペルーの首都リマへの侵攻を決定した。  チリ軍は4月からリマの外港であるカヤオを封鎖するなどリマへの圧迫を続けていた。ペルー軍の抵抗でコヴァ ドンガが撃沈されたりもしたが、それは些細なことでしかなかった。11月18日、バクエダノ将軍指揮のチリ軍 26000がピスコに上陸してリマに向かって北上した。リマには22000の兵士と100門の大砲のペルー軍 が守備隊としていたが、1881年1月13日からのチリ軍の猛攻を阻止することはできなかった。リマ南方16 キロ地点のチョリロスの1次防衛ラインはチリ軍に3000人の損害を出させたが突破され、そこから6キロ北方 のミラフローレスの第2次防衛ラインもペルー軍の奮闘空しく15日に突破されペルー軍は潰走した。この敗北で リマを守る手段は無くなり、チリ軍は17日にリマに入城した。翌日にはカヤオも降伏した。  【戦後】  首都を失ってもペルー軍はアンデスに撤退してゲリラ戦で抵抗を続けたが、それも限界が来たと判断したイグレ シアス大統領は1883年10月20日、チリとアンコン条約を締結してタラパカ州とアリカ州とタクナ州を割譲 して講和した(アリカとタクナは10年間の期限付き。その後、タクナは1929年に返還されたが、アリカはチ リ領となった)。ボリビアも翌年には停戦に応じて1904年にバルパライソ条約で講和した。ボリビアはアタカ マ州をチリに割譲して豊富な資源地帯とともに海岸線も失って内陸国となった。この戦争の勝利でチリはブラジル とアルゼンチンに並ぶ南米の大国(いわゆるABC三国)に成長した。  一方、ボリビアは先述したように内陸国となってしまったが、どういうわけか現在も海軍が存在している。とい っても兵の約半数が陸戦要員で、活動水域もチチカカ湖とアマゾン川上流と海軍というよりも水軍といった感じと なっている。それでもボリビア海軍の将兵たちは日々の訓練を怠らない。いつかきっと再び海に出られることを期 待して。ボリビアとチリはいまでも断交したままとなっている。
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