難攻不落の要塞を巡る凄惨な消耗戦
旅順要塞攻略戦


 
      【日本軍】
      第3軍(乃木希典大将)
       第1・第7・第9・第11師団 後備歩兵第1・第4旅団 野戦砲兵第2旅団
       攻城砲兵司令部 攻城特殊部隊 後備工兵隊
 
 
 
 
      【ロシア軍】
      関東軍(ステッセル中将)
      旅順要塞(スミルノフ中将)
       第4・第7東シベリア狙撃兵師団 第5東シベリア狙撃兵旅団 国境警備大隊
       義勇兵団 補充大隊 要塞砲兵大隊
 
 
 
 
【日露両軍の戦略と旅順】 【旅順港封鎖作戦】 【黄海海戦】 【総攻撃】 【旅順陥落】
    【日露両軍の戦略と旅順】     日本陸軍は師匠であるドイツ陸軍の影響もあって大陸でのロシア軍との決戦で勝敗を決する    戦略を構想していた。それもヨーロッパからの増援が到着する前に現地ロシア軍を撃滅すると    いう短期決戦構想である。     日本軍は3つの軍に分かれる。朝鮮半島の確保が任務の第1軍、遼東半島に上陸する第2軍、    朝鮮半島の日本海側から沿海州方面に進出するウスリー支隊である。余裕があれば樺太占領作    戦も実施されることになっていた。     このうち、主攻勢を担うのが第1軍と第2軍でこれらは別々に進撃して、遼陽から奉天に集    結するであろうロシア軍主力と決戦してこれを撃破する事になっていた。そして、これに成功    したら東清鉄道沿いに北上して、ウスリー支隊とハルピンで合流する。これが日本陸軍の基本    戦略である。この戦略の中には旅順攻略は含まれていない。満州の内陸部に進撃するのが目的    なのだから旅順を攻める必要などないのである。陸軍は旅順は包囲だけに済ませておけば良い    と考えていた。     それに対し、日本海軍は旅順攻略にこだわった。旅順はロシアが清国から租借している港湾    都市で艦隊が停泊するのに適した地形になっていた。というのも旅順は陸地は山で囲まれ、湾    口が狭いため外部からの侵入は勿論、外から港内を観測することすら困難にしていた。事実、    日本軍は戦うまでに旅順の情報をほとんど入手していなかったのである。まあ、湾口が狭いの    は船の出入りが面倒だという欠点になるのだが、それも港外からの侵入を防ぎやすいという艦    隊にとってのメリットになっていた。     さらに旅順にはロシアにとって何よりのメリットがあった。それは冬季に凍結しないことで    ある。極東におけるロシアの軍港にはウラジオストックなどもあったが、それらは冬になると    海が氷結して艦隊が行動できなくなる欠点を抱えていた。ロシアにとって不凍港の確保は至上    命題だったのである。そして、旅順の租借権を獲得するとロシアはこの港に太平洋艦隊を配置    していた。そう、海軍の主張する旅順攻略はこの太平洋艦隊の撃滅を目的としていたのである。     太平洋艦隊は戦力だけを見ると日本海軍とほぼ同等であり、これにバルト海からの増援であ    るバルチック艦隊が到着すれば日本は制海権を脅かされ大陸との通商路が遮断される恐れがあ    った。日本海軍はバルチック艦隊が到着するまでに太平洋艦隊を全滅もしくはなんらかの方法    で無力化する必要があった。それも損害をできるだけ少なくして。     しかし、陸軍は旅順攻略に消極的だった。対等な立場である日本の陸海軍はお互いに無理強    いすれば深刻な対立を招きかねなかった。そこで海軍は独自で旅順攻略に着手することにした。    陸軍も要塞担当の参謀本部第5課が研究を開始したが、満州軍総参謀長・児玉源太郎大将の判    断で攻略戦自体は実施されないことになった。     だが、海軍が旅順攻略に失敗すると陸軍も旅順を無視することができず、ウスリー支作戦や    樺太攻略作戦を延期して旅順攻略作戦を急遽決定した。そして、明治37年(1904)5月    29日、旅順攻略を担当する第3軍の戦闘序列が発令されたのである。     攻勢による短期決戦を意図していた日本軍に対し、ロシアは戦力が整うまでは持久戦に徹す    る戦略を採ることにした。ロシアの弱点は陸軍の大半がヨーロッパに配置されていることで極    東の戦力はアムール軍管区全体で(国境警備隊を含めても)日本の5割ほどしかなかったこと    である。しかも、ロシアはヨーロッパや中央アジアから極東に部隊を送る手段がシベリア鉄道    1本しかなかった。これは部隊の集中に時間が掛かることを意味する。     状況は海軍も同様だった。旅順に展開するロシア艦隊は戦力こそ立派だが、乗員の練度は甚    だ低く単独で日本艦隊と交戦するのは困難とされた。そのためバルチック艦隊が到着するまで    は戦力の維持に努めることとされた。     意外と思われるかもしれないが、当時のロシアの海軍力は世界第3位であった。だが、ロシ    アはその地理的特性から海軍を3つの地域に分散配置することを余儀なくされていた。そのた    め極東地域では日本海軍と同等の戦力しか保有できなかった。もちろん、戦争ともなれば他の    艦隊が増援として派遣されるが、派遣されるのはバルチック艦隊であることは容易に想像でき    た。なぜならもう一つの黒海艦隊はトルコの領土であるダーダネルス海峡を通過しなければな    らないからである。また、ロシアは元来が大陸国家であるためイギリスや日本みたいな真の意    味でのシーパワーを持つことができなかった。つまり、戦闘艦艇はたくさんあるがそれを補助    する支援艦艇や陸軍を海路で運送する輸送艦、そして商船や漁船は貧弱だということだ。日本    海軍は一度に2個師団以上の戦力を大陸まで輸送することができるが、ロシアにはそれは望め    なかった。     前述したように旅順はロシアが清国から租借した都市である。ロシアは旅順を手に入れると    防備の強化に乗り出した。だが、明治34年に皇帝の許可を得て開始された要塞の構築は予算    と人員の不足で思うように進捗せず、開戦までに完成させることができなかった。     しかし、それでもベトンで覆われた永久堡塁や旅順市街を囲むように設置された防衛ライン    は日本軍にとっては厄介なものであるし、海上に向かって配備された220門の火砲は日本艦    隊を港に近寄せなかった。     【旅順港封鎖作戦】     日本海軍は戦争に備え連合艦隊を編成し、仁川への奇襲作戦で戦争の火蓋を切った。明治3    7年2月8日、中立港であった朝鮮の仁川港へ第4戦隊と輸送船団が接近して陸軍部隊を上陸    させた。そして、ロシアと各国の艦船に退去を要請した。ロシアとしても中立国の船を巻き込    んで戦闘するわけにもいかず、なんとか旅順に逃げ込もうと図った。しかし、第4戦隊の攻撃    でロシアの巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コレーツ」はあえなく撃沈された。     さらに、翌日の午前0時20分には旅順への攻撃も開始され、駆逐艦と水雷艇の部隊が旅順    港に突撃して戦艦「ツェザレウィッチ」と防護巡洋艦「パラルダ」を座礁させ、戦艦「レトウ    ィザン」に損傷を与えた。この奇襲の結果、ロシア艦隊司令官スタルク中将は責任をとらされ    罷免された。後任は『海戦論』などの名著で名高く将兵の人気もあるマカロフ中将が任命され    た。     緒戦の敗北でロシア艦隊はバルチック艦隊と合流するまでは戦力の温存を図ることとし、旅    順港に引きこもったまま出てこなくなった。これにより、日本海軍は遠巻きに旅順を包囲する    戦略を余儀なくされた。だが、封鎖作戦は長期間続ければ艦隊に大きな負担を与えかねなかっ    た。封鎖している期間は艦の整備も訓練もままならないからである。     旅順のロシア艦隊の全滅は困難だと判断した日本海軍は、機雷による封鎖で敵の動きを封じ    ようとした。外海に出られないようにすれば全滅させたも同然である。当時の艦隊の任務は何    よりも敵艦隊との決戦に勝利することであり、たとえ船体が無傷でも港から一歩も出られない    艦隊は価値がないと判断された。そのため旅順に籠もったまま日本艦隊に何のアクションも起    こそうとしないロシア艦隊は米国のマハンから「要塞艦隊」と罵倒されることになるのである。     艦隊の士気の低下を危惧したマカロフ中将は、積極的に活動することで士気を盛り上げよう    と試みることにした。4月13日、中将は港外に機雷を設置している日本の駆逐艦を攻撃しよ    うと自ら戦艦「ペトロパウロスク」に乗艦して出撃した。ところが、不運なことに中将が乗艦    したペトロパウロスクは日本が設置した機雷に接触して中将もろとも海に沈んだのである。中    将は着任したばかりであり、彼の死はロシア艦隊の士気を大きく低下させた。     機雷は日本だけでなくロシアも多数設置していた。動こうとしないロシア艦隊よりも日本艦    隊の方が機雷の被害が続出した。5月15日に戦艦「初瀬」と「八島」が、機雷に接触して沈    没した。当時、日本海軍の戦艦(2等戦艦を除く)は6隻しかなく初瀬と八島の喪失は大きな    打撃となった。しかし、陸軍の作戦を支援するためにはロシア艦隊を旅順に閉じこめておく必    要があり封鎖をやめるわけにはいかなかった。     日本海軍は機雷ではなく湾口に船を沈めて艦隊が外に出られないようにする作戦を採用した。    この「旅順港閉塞作戦」は2月24日から5月3日までの間に3回実施されたが、損害ばかり    が目立って効果は薄いという結果に終わった。     【黄海海戦】     8月7日、旅順に艦隊を置いておくことは危険と判断したロシア皇帝はマカロフ中将の後任    となったウィトゲフト中将に旅順を脱出してウラジオストクに向かうよう命じた。これを受け    ウィトゲフト中将は10日午前6時35分に戦艦6隻、防護巡洋艦4隻、駆逐艦8隻を率いて    旅順を出撃した。     ロシア艦隊の動きは直ちに日本に察知され連合艦隊がこの敵艦隊攻撃に向かった。午後12    時30分、連合艦隊はロシア艦隊を捕捉して攻撃を開始した。午後1時15分、先頭の装甲巡    洋艦「日進」が13,000mの距離から砲撃を開始、次いで35分に戦艦「三笠」が距離1    0,000mから砲撃を開始し両国艦隊は交戦状態となった。しかし、距離がありすぎたため    双方とも敵に命中弾を与えられなかった。やがて、距離が狭まって命中弾も出るようになった    が決定的な打撃にはならなかった。     連合艦隊はロシア艦隊が旅順に逃げ込むのではないかと危惧して、ロシア艦隊と旅順の間に    割って入ろうとした。だが、ロシア艦隊の目的はあくまでウラジオストクなので両艦隊の距離    は一気に30,000mに開いてしまった。それでもロシア艦隊には旧式艦が多く艦隊速力は    14ktがやっとであり、18ktは出せる日本艦隊は容易に追いつけるはずである。しかし、6    ヶ月に及ぶ封鎖で連合艦隊の艦は整備不良のものが多く最大速力は16kt程度でなかなか追い    つくことができなかった。そのため再度追いつくのは日没後になる可能性が高くなり、ロシア    艦隊を取り逃がす恐れが出てきたが、幸運にもロシア戦艦「レトウィザン」が機関故障で速力    が10ktに低下したため、再び捕捉することができた。午後5時30分、戦闘は再開された。     連合艦隊は距離7,000mから攻撃を開始した。しかし、命中弾は得られるものの敵艦を    沈没はおろか落伍させることすらできずにまたもや取り逃がすのではないかと思われた。午後    6時30分、三笠が発射した砲弾がロシア艦隊旗艦のツェザレウィッチの艦橋に2発命中した。    そのうちの1発は艦橋にいたウィトゲフト中将以下の幕僚達を吹き飛ばし、もう1発は司令塔    に命中して操舵士を死亡させた。この時操舵士は舵を左に回す形で死亡したためツェザレウィ    ッチは左に回頭した。これを見た後続艦は転進したものだと誤認してそれに続こうとした。そ    れが事故であると気づいたときにはロシア艦隊の陣形はバラバラになってしまっていた。     ロシア艦隊の混乱は連合艦隊にとって大きなチャンスだったが、日没により戦闘は午後8時    25分に終了した。この海戦で指揮官を失ったロシア艦隊は旅順に引き返したが、一部の艦は    帰還できなかった。ツェザレウィッチと防護巡洋艦「アスコリド」は膠州湾と上海に逃げ込ん    で清国に、防護巡洋艦「ディアーナ」はサイゴンまで逃げフランスにそれぞれ抑留された。さ    らに防護巡洋艦「ノーウィック」が樺太まで逃亡したが、防護巡洋艦「須磨」の攻撃で自沈し    た。駆逐艦も5隻が中立国に抑留された。     この海戦で連合艦隊はロシア艦隊を再び旅順に閉じこめておくことに成功した。以後、ロシ    ア艦隊が湾を離れることはなかった。だが、一歩間違えれば彼等をウラジオストクに逃がして    いた可能性も高く、特にロシア艦艇を1隻も撃沈できなかったことは大きな課題となった。     【総攻撃】     海軍による旅順攻略(港内のロシア艦隊撃滅)は不調に終わり、陸軍は仕方なく旅順攻略    に着手したが、その攻略プランは歩兵による強襲というものだった。このような判断がされ    た原因は事前に旅順の状況をつかんでいなかったことだが、日清戦争で旅順を攻撃した際に    あっけなく占領できたので甘く見ていたのだろう。それに日本陸軍はドイツ陸軍の影響で野    戦万能主義に固まっており要塞そのものの価値も軽んじていた。これは日本陸軍だけでなく    列強各国に共通した認識であり、第1次世界大戦で大損害を出す事になるのである。普仏戦    争以来、ヨーロッパ列強同士の戦争はなく現実の戦場に教科書の内容が追いついていなかっ    た。     8月19日、日本第3軍は旅順要塞への1回目の総攻撃を開始した。攻撃目標は要塞北東    の望台であった。攻撃に先立ち、準備砲撃が5日間実施されたが要塞に損害を与えることは    できなかった。砲撃の後、歩兵が突撃を開始したが、ロシア兵の射撃で死体の山を重ねてい    った。日本軍は15,000の損害を出し撃退された。ロシア側の損害は1,500である。     日本軍が苦戦した理由は敵兵力を15,000と過小に見積もったことである。さらに永    久堡塁も甘く見ていた。永久堡塁は外堀で覆われ堀の中に飛び込んだ兵士は外部匣室からの    機銃掃射でたちまち壊滅させられた。     第1次総攻撃の失敗で第3軍は塹壕を掘り進んで要塞施設に迫りトンネルも掘って要塞の    下に爆薬を仕掛けて爆破するという作戦を採用した。     9月19日、第2次の総攻撃が開始された。今度の目標も望台の占拠である。そのため前    回と同様、望台前面の防衛戦を突破する必要があった。この攻撃で初めて28p砲が火を噴    いたが、要塞の一部を破壊しただけに終わった。     日本軍はまず攻撃方向から見て側面にあたる龍眼北方堡塁と水師営堡塁から攻略すること    にした。また、第1師団長の提言で南山坡山と二〇三高地への助攻も実施されることとなっ    た。日本兵は塹壕を利用することでロシア兵の射撃から身を隠して、突撃開始地点まで移動    することができた。日本軍は龍眼北方堡塁・水師営堡塁、主防御線の一戸堡塁と南山坡山を    占領したが戦果はそこまでであった。それでも南山坡山を占領できたことで、限定的ながら    も28p砲で旅順港内を砲撃することができるようになった。日本軍の損害は前進堡塁への    攻撃によるものが4800、10月26日からの主防御線への攻撃によるものが3800、    対するロシア軍は損害4500であった。     1回目の時よりは幾分か前進したが、ミスも犯していた。二〇三高地への攻撃を中途半端    にしたことである。この時期の二〇三高地は主防御線から外されており本気で攻略しようと    すれば成功できたかもしれなかった。日本軍の攻撃はロシア軍に高地の重要性を気づかせる    こととなってしまった。     二〇三高地といえば日露戦争屈指の激戦地として有名だが、日本軍は最初から高地の攻略    を考えていたわけではなかった。第3軍の攻撃目標はあくまで望台という高地である。望台    を占領すれば周囲の防御施設を観測して攻撃することができる。つまり、望台占領=要塞防    御線の崩壊というわけである。二〇三高地も高所なので旅順港内を観測することができたが、    この高地は要塞の外側にあるため港に停泊する敵艦隊に攻撃はできなかった。     二〇三高地の攻略を主張したのは海軍であった。28p砲の到着で二〇三高地からでも港    内への攻撃が可能になったからである。1回目の総攻撃の失敗で海軍は旅順の早期攻略は無    理と判断して、とりあえずロシア艦隊の撃滅を優先させることにしたのである。これには大    本営の長岡次長(陸軍)も賛成であった。彼は第3軍が採用した要塞地下に爆薬を仕掛ける    という戦術に懐疑的だった。陸軍は旅順攻略を早々に切り上げて奉天での会戦に移りたかっ    たのである。陸軍も海軍も旅順はロシア太平洋艦隊の無力化だけで十分と考えていた。     しかし、満州軍の児玉総参謀長の意見は違った。彼は第3軍の望台攻略というプランを支    持して二〇三高地攻略に反対したのである。彼は旅順に別の価値を見いだしていた。それは    難攻不落の要塞というイメージである。旅順要塞は開戦時はまだ未完成であった。だが、日    本軍の攻撃を二度も撃退して多大な損害を与えたことで難攻不落というイメージが定着して    しまったのである。もし、攻略できないまま旅順から手を引けば陸軍の威信低下は免れない。    しかし、旅順を攻略すれば陸軍は難攻不落の要塞を攻略したという栄誉を手にすることがで    きるのである。国民の士気を上げるためにも旅順は完全に占領する必要があったのである。     【旅順陥落】     第3軍が進めていた坑道作業は進捗して11月中旬には永久堡塁の外堀壁と匣室の爆破に    成功した。これを受け第3軍は11月26日に3回目の総攻撃を開始した。それまで日本兵    の進出を阻んでいた外堀も機銃掃射で死体の山を築いていった匣室ももうない。だが、日本    軍は永久堡塁まで肉薄できたものの、それ以上は進む事はできなかった。白襷隊による松樹    山堡塁への奇襲も行われたが、それも無残な結果に終わった。     ここにいたり、第3軍司令官乃木希典大将は27日に二〇三高地攻略を決定した。第1師    団と第7師団が二〇三高地に向けられたが、ここでも熾烈な消耗戦が展開された。12月1    日から児玉総参謀長が一時的に指揮を執り、その効果か二〇三高地は6日に占領された。ロ    シア側の記録では二〇三高地の放棄は予備兵力の枯渇によるものとされている。高地からの    攻撃でロシア太平洋艦隊は11日に全滅した。当初の目的はこれで達成された。     だが、旅順攻略は引き続き続行された。そして望台の陥落がきっかけとなって明治38年    1月1日、旅順のロシア軍は降服した。第3軍が旅順に入城したのは13日であった。
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