戦国合戦の戦術解説


 
       あの日、あの時、あの場所であの武将は如何なる戦術でもって合戦に勝利した
      のか。今回は様々な合戦を例にして戦国時代の戦術についてやりたいなーと思う。
 
 
 
 
【敵を誘き出して勝つ】 【敵の不意を突く】 【機動力で勝つ】 【謀略を駆使する】 【気象条件を読む】
    【敵を誘き出して勝つ】     野戦というものは大抵の場合、兵の数が多い方が勝つ。だが、兵力差がありすぎると劣勢な    方は城に籠城するのが常だ。そうなると戦闘は長期化するし、最終的に勝ったとしても兵の損    失は大きくなる。そこで攻撃側はあらゆる手段を使って敵を野外に引き出そうとする。勿論、    必ず成功するわけではないが、うまいこと誘き出せれば後はもらったようなものだ。では、戦    国武将はどういう手段でもって敵を城から引きずり出したのか。      ケース1.姉川の戦い      元亀元年6月、織田信長は大軍を率いて近江に出陣した。江北の浅井長政を討つためで     ある。長政は信長の妹婿だったが、信長が越前の朝倉氏と戦闘を開始すると朝倉側に寝返     ったのである。信長は退路を遮断される前に這々の体で逃げる羽目になった。      屈辱を受けて黙っている信長ではない。怒りに燃える信長は浅井氏を討つため長政の居     城・小谷城に攻め寄せた。だが、小谷城は難攻不落の城で浅井氏が江北の国人達を従える     ことができたのもこの城があったからだ。しかも、城には浅井勢だけでなく越前からの朝     倉勢も籠もっていた。力攻めすれば味方の損害も大きくなると予想した信長は城から浅井     ・朝倉勢を引きずり出すため横山城を包囲した。      この横山城包囲で信長は当時の常識では考えられないことをした。軍勢をいくつかに分     散させ、本陣を小谷城に近い位置に置いたのである。通常、本陣は自国になるべく近い場     所に置くものである。敗走となった場合の距離を少しでも縮めるためである。これは明ら     かに浅井・朝倉勢を誘き出す罠であった。      浅井長政もその事に気づいていたが、彼はあえて信長の罠に乗ることにした。越前から     さらなる増援が到着して織田勢に野戦を挑めるだけの兵力を得られたからだ。後は織田勢     が集結する前に信長の本陣を潰せばいいだけである。      こうして信長は敵を野戦に誘き出すことに成功した。浅井・朝倉勢は緒戦は優勢だった     が、次々と投入される新手に抗しきれなくなり敗走した。      ケース2.三方ヶ原の戦い      元亀3年12月、甲斐の武田信玄は徳川家康の居城・遠江浜松城に迫った。25000     の大軍を率いる信玄にとって織田の援軍を含めてもやっと1万を超える程度の徳川勢を叩     きつぶすのは造作もないことだろう。しかし、徳川勢が浜松城に籠城したらその攻略は容     易ではなく、味方の損害も馬鹿にならない。かといって、そのまま無視して進軍すれば後     方連絡線を危険にさらすことになる。      そこで、信玄は浜松城の徳川勢を野外に引き出す作戦を立てた。浜松城を無視して西に     向かったのである。家康は戦力の大半を遠江に配置しており、西の三河にはわずかな留守     部隊しか残していなかった。三河が敵に蹂躙されれば浜松の自軍は孤立し、家康自身の威     信低下にも繋がる。家康は城外出撃を決意した。それまで主君の出撃策を諫めていた重臣     達も三河が危険にさらされる事態を看過できずこれに同意した。      こうして出撃と決まった徳川勢だったが、家康もまともに武田勢と戦うつもりは毛頭な     かった。攻撃しては撤収を繰り返す一撃離脱戦法を考えていたのである。これは当時の状     況からしてもっとも妥当な判断だろう。だが、この戦術は統制がきちんとされていなけれ     ば実行が難しいという欠点があった。      家康は22日の日暮れ前に浜松城を出撃した。徳川勢の出撃は日が暮れてからと考えて     いた信玄はこの事に少なからず驚いたが、せっかくの好機を見逃すつもりはなかった。彼     は右翼の郡内衆に投石を命じた。投石は原始的なものと思われがちだが、戦国期は結構石     の投げ合いが多かったのだ。この投石に憤激した徳川の旗本勢と西三河衆が鉄砲で応戦し     て合戦が始まった。緒戦はそれまでの武田勢の跳梁に神経を苛立たせていた徳川勢が怒り     を暴発させて郡内衆を敗走させたが、結局は多勢に無勢で日が沈んだ頃には防戦一方とな     り午後6時頃に潰走した。家康は討ち洩らしたものの、信玄は一時的にしろ徳川の野戦戦     力を消滅させることに成功したのである。
三方ヶ原布陣図
    【敵の不意を突く】     敵に圧倒する兵員を動員した軍勢にとって一番の懸念が油断である。敵を甘く見ることで警    戒心が緩み、敵の奇襲が受けやすくなるからである。大軍であるだけに一旦混乱すればその回    復は容易ではなく、富士川の平家のように戦わずにして敗走という失態も有り得るのである。     とはいっても、敵全体を混乱させるにはそれ相応の兵が必要だし、何よりも敵が混乱から立    ち直る前にこれを敗走させなければならない。そこで一番確実なのが敵の本陣を狙うことだ。    本陣は言うまでもなく軍の指揮中枢機関である。その中でも総大将を討ち取ることが出きれば    敵は統制を失って潰走すること必定である。      ケース1.河越の戦い      始祖の早雲庵宗瑞以来、関東の新興勢力・後北条氏と関東管領の名門・上杉氏は関東の     覇権を争ってきた。関東では後北条氏が勃興する遙か前から戦乱の時代を迎えており、上     杉氏はその長い戦乱を最初から戦い抜いてきたのである。だから、新興の後北条氏がのさ     ばるのが我慢できなかったのである。      天文10年7月17日に2代目北条氏綱が55歳で死去すると、扇谷上杉朝定は同族の     山内上杉憲政と古河公方(すでに幕府から鎌倉公方への復帰を許されていたが、とても鎌     倉に戻れる状況ではなかった)足利晴氏を誘って家督を継いだばかりの3代目北条氏康に     戦を仕掛けたのである。      天文14年9月、扇谷・山内の両上杉と足利晴氏の軍勢8万は武蔵の河越城を包囲した。     河越城の守備は北条綱成以下3000のみで圧倒的に劣勢だったが、それでも半年間持ち     こたえた。      河越城包囲さるの知らせを受けた氏康だったが、すぐに救援に向かうことはできなかっ     た。この時、北条勢は駿河の今川義元と交戦中だったからである。二正面に敵を抱えるこ     とになった氏康は駿河の河東地方を割譲することで今川と和睦を結び、上杉との戦いに専     念できるようにした。      だが、それでも氏康が動員できたのはわずか8000でこれでは上杉と正面から戦うの     不可能であった。そこで氏康は翌年4月に出陣すると、上杉憲政と足利晴氏に河越城を明     け渡すから包囲を解いてくれるよう嘆願した。これは敵の油断を誘う策略だった。そうと     は知らない上杉方はすでに勝った気分でこれを却下した。      敵は完全に油断している。そう判断した氏康は20日、敵陣地に奇襲を敢行した。夜襲     だという説もあるが、当時の資料でそれを裏付けるものはない。完全に虚を突かれた上杉     勢はあっけなく崩壊した。上杉朝定は討ち取られ、上杉憲政も居城に向けて敗走した。足     利晴氏も出撃した河越城兵の攻撃で古河に逃げた。      この戦いで扇谷上杉は滅亡し、武蔵は北条氏が支配することになった。山内上杉の憲政     も居城を維持できず越後の長尾景虎を頼って落ち延びた。これにより西関東は北条氏が支     配することになったのである。      ケース2.桶狭間の戦い      永禄3年5月、駿遠三3国の軍勢を率いて尾張に侵攻してきた今川義元を攻撃するため     織田信長は清洲城を出撃した。      この時の信長の作戦は中島砦を中心に戦闘正面を限定し、押し寄せる今川勢を撃退し続     けるというものだった。もし敵が来なかったらこちらから攻撃を仕掛け敵に出血を強要す     る。このような作戦が実行できたのは中島砦という拠点と、機動力の高い馬廻衆がいたか     らだ。      この頃の義元は桶狭間で休息していた。近くの村の村長などから挨拶を受けているので     義元にとっては戦闘の時間から政治の時間に切り替わっていたのだろう、謡や舞を披露し     たという。      そんな今川勢を信長が襲撃した。だが、それは散発的なものでいずれも今川の前衛に撃     退された。その様子を本陣の義元はきちんと把握していた。信長が自分の親衛隊を率いて     出陣していることも。今川勢がきちんと本陣を守っている限り織田勢が勝利を得るのは不     可能だった。このままの情勢が続けば信長は一旦中島砦か清洲城に引き揚げるしかなかっ     たろう。      そんな状況を一変する事態が起きた。突然の集中豪雨である。この豪雨に両軍はしばし     呆然となり戦闘は一時中断された。そして一足先に我に返った信長がこの状況を好機とと     らえたのである。信長は突撃を命じた。      敵の不意をつくことを奇襲という。この時の織田勢は敵の一瞬の不意を突いたのである。     それまで織田勢の攻撃を撃退していた今川の前衛は脆くも崩れ去り、豪雨のために指揮機     能を一時的に麻痺していた今川の本陣も態勢を立て直す間もなく大混乱に陥った。義元は     わずかな馬廻に守られながら戦場からの脱出を試みたが、織田勢に捕捉され自ら太刀を抜     いて抵抗するもその首を取られた。     【機動力で勝利する】     戦は力だけでない。戦場に迅速に向かえる機動力も必要である。無論、最終的には力のぶつ    かりあいで決着をつけるのだが機動力の高さが勝利に導くことは何例かある。      ケース1.山崎の戦い      天正10年6月、織田信長は家臣の惟任光秀に急襲され本能寺にて自害した。その頃、     備中高松城で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉は主君の死を知るとすぐさま毛利と和睦して     光秀を討つべく軍勢を撤収させた。といってもすぐにその場を引き払ったのではなく、毛     利の追撃を警戒してある程度の防衛線を構築しての撤収である。      その後の秀吉の行動は迅速である。11日には早くも摂津の尼崎に到着している。本能     寺の変を知ったのが3日だから、わずか8日間で遠く備中から引き返したのである。これ     が全てを決した。光秀が態勢を完全に整える前に秀吉軍が出現したことで、光秀の配下だ     った大和の筒井順慶が光秀の助力要請を断り、摂津衆の池田恒興・中川清秀・高山重友が     秀吉の陣営に馳せ参じたのである。      摂津衆と信長三男・信孝の四国遠征軍の参加で秀吉は光秀よりも多くの軍勢を手にする     ことができた。13日の天王山付近の戦いで秀吉勢は光秀勢に圧勝し、光秀は敗走途中に     土民に殺された。      もし、秀吉の到着がもっと遅れていたら筒井や摂津衆は光秀の陣営に加わっていただろ     うし、そうなれば四国遠征軍は敵中に孤立し壊滅を免れなかっただろう。そして、秀吉が     ようやく到着した頃には柴田勝家や徳川家康も光秀追討の軍を出して、秀吉よりも先に光     秀を討ったかもしれない。そうなったら秀吉の天下はなかったかもしれないのである。秀     吉は誰よりも迅速に行動して光秀を討ったことで、弔い合戦の手柄を独占して大多数の織     田家臣から信長の後継者として認められることに成功したのである。      ケース2.ウルム包囲戦      1805年9月、オーストリアのフェルディナント大公の軍はフランスの同盟国である     バイエルン選帝候の領内に侵攻した。劣勢なバイエルン軍は戦わずに首都ミュンヘンを放     棄し、大公軍はウルムとメミンゲンという古い要塞を拠点として来攻するフランス軍を待     ち構えた。      大公軍の実質的な指揮を執る参謀長のマック将軍は、フランス軍が5年前のマレンゴ戦     役におけるライン方面軍と同様にライン河西岸のストラスブールから東岸のシュヴァルツ     ヴァルトを通過してこちら側に侵攻してくると予測していた。それに対し、マックはドナ     ウ河とイラー河の防御線に自信を持っていたし、よしんば敵の攻撃に耐えられなくなって     も東に後退すれば来援のロシア軍と合流して反撃に転ずることも可能だと考えていた。      一方、フランス軍は24日までにライン河に達していたが、皇帝ナポレオンはシュヴァ     ルツヴァルトを通過するつもりはなく、ウルムの北を迂回してオーストリア軍とロシア軍     を分断することを狙っていた。マックも自軍の北が無防備であることを知っていたが、フ     ランス軍がそこを通過するとは思っていなかった。なぜなら、そこには中立のプロイセン     領アンスバッハ=バイロイト辺境伯領が広がっており、兵力で劣るフランス軍がプロイセ     ンの参戦を招きかねない事をするとは思えなかったからである。      だが、ナポレオンは騎兵予備軍団と第5軍団をシュヴァルツヴァルトに残してオースト     リア軍の正面を拘束すると、残る全軍を率いてアンスバッハ=バイロイト辺境伯領の境目     に沿ってドナウ河下流に進撃したのである。その事をマックが知ったのは30日になって     からで、その時にはもう手遅れとなっていた。フランス軍は10月7日にドナウ河を渡河     し、オーストリア軍の後方を完全に遮断したのである。万策尽きたマックはフェルディナ     ント大公を逃がすと、ウルム要塞で可能な限り抵抗を試みたがついに力尽きて20日に降     伏した。オーストリア軍はマック以下6万の将兵が捕虜となった。72000のフェルデ     ィナント大公軍はこれで壊滅したのである。対するフランス軍の損害は2000名程度だ     った。      この勝利をナポレオンにもたらしたのはフランス軍の機動力だった。ウルム戦役でフラ     ンス軍は2週間昼夜を問わず強行軍を続けたが、その平均速度は1日に18マイルでそれ     を秋の雨と泥濘の悪条件の下でやってのけたのだ。この迅速な機動によってオーストリア     軍は態勢を立て直す間もなく敗れ去ったのである。その事を兵士達は「皇帝は俺達の銃で     はなく足を使って勝利した」と皇帝と自分達を賞賛した。     【謀略を駆使する】     戦国武将は戦の前に少しでも自分達が有利になるよう手段を尽くした。それが謀略である。    武田信玄も謀略を好んで用いていた。謀略が成功する、例えば敵方の武将を寝返らせたとする。    すると敵の戦力は減るし、逆に味方の戦力は上がる。これが謀略を用いずに戦をした場合、そ    の武将を討ち取ると敵の戦力が下がる事は一緒だが、味方の戦力が上がることはないし逆にそ    の武将を討ち取るのに味方の兵がいくらか犠牲になるのである。謀略とは自分の戦力を減らす    ことなく敵の戦力を減らすことができる最上の策なのだ。      ケース1.厳島の戦い      戦国一の謀略家と言えば毛利元就であろう。その元就が安芸の国人連合の盟主から一躍     中国の覇者となるきっかけとなったのが弘治元年10月の厳島での大勝利である。      この戦いで陶晴賢が動員したのは2万、それに対し毛利方は最大限の動員でやっと1万、     その中で毛利家の軍事力は数千にすぎない。まともにやりあえばまず勝ち目はない。そこ     で元就は謀略でもって少しでも自軍に有利になるよう事前に手を尽くした。      まず、山陰に勢力を持つ尼子氏への対策である。陶(正式には大内)方と戦っている最     中に尼子勢に出てこられたら厄介だ。そこで元就は尼子勢最大の軍団である新宮党に謀反     の企てがあると当主の晴久に思い込ませ粛清させた。これで尼子勢が出張ってくることは     なくなった。次に元就が手を打ったのは晴賢に部下の江良丹後守を殺させることである。     丹後守が毛利と内通していると情報を流し、それを信じた晴賢が弘中三河守に丹後守を討     たせたのだ。丹後守は晴賢子飼いの被官で勇猛な武将である。先に同じく被官の宮川甲斐     守が戦死しているので晴賢が被った打撃は大きかった。有力な被官を相次いで失った晴賢     はこれ以上の犠牲を出す前に毛利を討ってしまおうと戦の準備を急がせた。      一方、戦が近づきつつあると感じた元就も敵を迎え撃つ準備を始めた。元就はまず厳島     を占領してこの地を決戦の場とした。大内家は安芸で軍事行動をするときは厳島に本営を     置いており、伝統を重んじる晴賢が厳島の上陸を目指すのは明らかだった。そう、元就は     晴賢を討ち取ることを最優先に考えたのである。現在の大内家は陶晴賢一人によって支え     られており、晴賢がいなくなればその広大な領国を維持できなくなるのは明らかだ。厳島     は島であり、陶方の全軍が上陸してくることは有り得ない。つまり、元就は厳島を戦場に     することで敵の数を減らすことに成功したのである。さらに制海権を奪ってしまえば敵を     孤立させることも出来る。そして、元就は最後の罠を用意したのである。      元就は勝山城の真向かいに宮尾城を築城した。勝山城は陶方の拠点となる城であり、宮     尾城は陶方にとって目障りな存在になるはずである。ところが、元就は宮尾城が完成する     とその築城を後悔していると周りに洩らし始めたのである。言うまでもなく、これは元就     の策略だったが、ただの策略ではなかった。      普通に考えたら元就の策略は敵を油断させるためだと思ってしまう。だが、元就は晴賢     がそれに引っかかるのを期待していたのではなく、逆に見抜くことを期待しまた確信して     いた。晴賢は有能な武将であり、こんな策略を見抜くことなど造作もないことだ。それに     晴賢は毛利家とは長い付き合いであり、元就が臆病なほど慎重な性格であることを知って     いた。そして、元就が謀略を駆使して現在まで生き抜いてきたことも。      案の定、晴賢は元就の策略を見抜いた。しかし、元就の狙いがどこにあるかまでは読み     切れなかった。晴賢も元就がこんな単純な策略で満足するとは思っていない。何か裏があ     るはずである。さらに晴賢を悩ませる知らせが届けられた。毛利方の桜尾城主・桂能登守     が内通してきたのだ。晴賢はこれも元就の策略だと見抜いた。だが、これもその狙いまで     は見抜けなかった。そして、二つの策略を警戒した晴賢は軍勢を半分に分けたのであった。      これが元就の真の狙いだった。彼は二つの策を用意し、それを晴賢に警戒させることで     陶方の軍勢をちょうど半分にすることが出来たのだ。もし、宮尾城だけを策略に使ってい     たら陶方は大軍で押し寄せてくるだろう。だが、桜尾城を策略に使うことで敵はそっちの     警戒に軍を割かなくてはならなくなる。そして、陶方は元就の思惑どおり軍をちょうど半     分に二分してくれた。後は制海権を確保して陶方を奇襲すれば毛利家の勝利となる。      10月1日、毛利軍は二手に分かれ宮尾城を攻撃中の陶方を挟撃した。夜襲を受けた陶     方は瞬く間に混乱状態に陥り、晴賢は敗走した。だが、制海権を敵に掌握されている以上、     晴賢に逃げ場はなかった。観念した晴賢は自害し、大内家は回復不能なまでの損害を被っ     た。元就は長年にわたり自分達を支配してきた大内家をこの一戦で葬り去ったのである。     【気象条件を読む】     合戦の中には天候や自然現象で勝敗が大きく左右されたものもあった。桶狭間も雨が降った    おかげで信長は今川勢を崩すことが出来た。雨は火縄銃を使用不可能にするし、暴風雨ともな    ると自軍を敵に悟られることなく移動させることが出来る。その他に風も合戦に影響を及ぼす    ことがあった。特に矢は風によってその威力が増減する。風上から放てば矢はスピードを増し    威力が上がるが、向かい風だとその威力は減衰する。また、戦をしている時に強い向かい風が    来ると砂塵などで視界が遮られてしまうし、その逆だと場合によっては文字通りの追い風とな    る。だから、合戦に勝利しようと思うなら何時風や雨が起こるか予測することも大事なのであ    る。     風を読む武将として有名なのが平将門である。将門は風を利用して戦うのが得意で、いつも    風上から矢を射かけた。当時の遠戦兵器は弓矢だけなので風を味方にすることは大事なことな    のだ。もっとも、風は人間よりも気まぐれで最後は将門を裏切ってその命を絶った。      ケース1.稲村ヶ崎の戦い      元弘3年5月21日、分倍河原で鎌倉幕府軍を撃破した新田義貞は鎌倉への進軍を開始     したが、義貞らが向かった極楽寺坂方面は切り通しになっていて突破は無理そうだった。     そこで海岸の稲村ヶ崎から鎌倉に向かおうとしたのだが、これまた浜辺に逆茂木はあるわ     海には幕府の兵船が浮かんでいるわで、とても突破は不可能に思えた。      どうしても鎌倉に行きたい義貞は黄金造の太刀を龍神に捧げるため海に投じた。すると、     潮が2キロ以上も引いて幕府の船が沖に流されてしまった。義貞軍は潮が引いた海岸を走     り鎌倉に進撃した。沖に流された幕府の船は矢で妨害しようとするが遠すぎて当たらなか     った。      この不思議な現象はバリア海退期における海水面の低下と、潮の満ち引きで十分有り得     ることらしい。山奥に育った義貞がそういった海の現象を知っていたとは思えないが、こ     れによって義貞勢は鎌倉に乱入して幕府を滅ぼす栄誉を手にすることが出来た。      ケース2.赤壁の戦い      建安13年、後漢の献帝を擁し中国北部に勢力を持つ曹操は諸説あるが15万の大軍を     率いて孫権の呉を制圧しようとした。曹操軍は長江流域の赤壁の対岸に陣した。      これに対し、迎え撃つ孫権は徹底抗戦か降伏かで頭を悩ませたが、諸葛孔明の挑発的な     説得と家臣の周瑜らの抗戦論に動かされ徹底抗戦を決意した。      しかし、敵の軍勢15万に対し孫権軍は3万人ほどでしかなかった。しかも、曹操の軍     勢は数が多いだけでなく官渡をはじめ数多の激戦を勝ち抜いてきた精鋭揃いである。普通     に考えたら孫権の決断は無謀だった。だが、周瑜は曹操軍の将兵は水上の戦にも南国の気     候にも慣れておらず疲労している、曹操軍は長江に軍船を多数浮かべているが数が多いだ     けに機敏な動作が出来ない、圧倒的な数の差に曹操軍は皆が油断している、何より曹操も     それを取り巻く将軍達もこの地域の気候に無知であるなど、敵の弱点を次々と看破し自軍     の勝利に確信を抱いていた。      孫権軍は曹操軍の船を火攻めにしようと考えた。木造の船だから火には弱い。だが、火     攻めにはひとつ大きな問題があった。風向きである。12月の風向きは北からの季節風で     南から火を放っても敵の船を燃やし尽くすまでには至らないのだ。しかし、周瑜は漁民達     からたまに東南からの強い風が吹くときがあると聞いており、その日がいつなのかも確か     めて行動を開始した。      果たして、東南からの風が吹き渡ると孫権軍の武将・黄蓋は火船部隊を率いて赤壁を出     航した。彼は曹操軍を欺くため兵達に降伏すると叫ばせた。すると曹操軍は何の疑いもせ     ずそれを認めたのである。黄蓋は内心ニヤリとしただろう。敵まで700m迫ったところ     で黄蓋は全部の船に火を放たせた。燃えさかる火の船は曹操軍の船群に突入していった。     折からの南からの風で火は瞬く間に燃え広がった。曹操軍の船は船酔いを防ぐため鎖で繋     がれており、逃げる術もなく燃えていった。火はさらに地上の施設にも延焼し、大混乱に     陥った曹操軍は上陸してきた孫権軍の攻撃で潰走した。大将の曹操までが命からがら逃亡     するといった有様で天下を目前とした曹操の野望はここに頓挫し、その一瞬の隙を突いた     劉備が益州を制圧して独立したことで、黄巾の乱から始まる後漢末の戦乱は新たな展開を     迎えるのだった。
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