戦国時代入門

 
 最近は歴史関係の書籍が週刊で発行されており、歴史に触れる機会も多いと思う。しかし、注意していただきたい
のは算数などと違って歴史には明確な答えが無いということ。だから、いつも読んでいる歴史の本が絶対に正しいと
は限らないのだ。まあ、それを言ってしまえばこのサイトもどうなんだ?という風になりかねんが。       
 そこで、今回は戦国時代入門ってのをやってみたいと思う。戦国時代がどんなのだったか見てみてください。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   【戦国時代はいつから始まったか】                                     
 例えば江戸時代は慶長8年に徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いたのを起源としているが、じゃあ戦国時
代の始まりはいつなんだろうか。一般的には応仁元年の応仁の乱とされている。応仁の乱は京都に有力守護が集結して衝突し
たが、戦況が膠着化してくると敵対する守護の領国を撹乱する戦略がとられた。越前朝倉氏の反逆や駿河今川氏の遠江侵攻な
どで、これにより戦乱が地方に拡散することになった。さらに守護が長期間京都に滞在することで留守を任された守護代が勢
力を強めて主君である守護を倒すという下剋上もみられるようになった。                       
 以上のように応仁の乱によって地方にも戦乱の嵐が吹き荒れたのは事実であるが、それで没落したのは守護であり将軍家や
幕府の権威が失墜したわけではなかった。応仁の乱で衰えた統制力を回復しさえすれば戦乱を収束させることも十分に可能な
のである。しかし、明応2年の明応の政変で10代将軍・足利義材が管領・細川政元のクーデターで失脚すると幕府の権威も
失墜してしまうこととなった。これは管領家の将軍家に対する明らかな下剋上であり、この明応の政変を戦国時代の始まりと
する場合もある。                                                
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   【どんな時代だったか】                                          
 戦国時代といえば日常茶飯事に戦闘があって実力だけを頼りに戦国大名たちが天下を目指して争うってのをイメージすると
思うが、実を言うと足利幕府が平和を提供できたのはごくわずかな期間でしかなかった。有力守護の連合体である足利幕府は
有力守護が連携できていれば問題なかったが、彼らの間に対立が生じた場合には応仁の乱のような大乱に発展する危険性があ
った。そのため3代将軍・義満は将軍の権威を高めようと有力守護の排除に乗り出し、土岐・山名・大内といった守護たちの
勢力を削減していった。これにより義満は将軍独裁を実現させて平和も到来したが、彼の死後は鎌倉公方との対立や南朝の残
党勢力の決起など戦闘が相次ぐようになった。また、いったん抑制された有力守護も幕府内での勢力を強めつつあり、6代・
義教は鎌倉公方をはじめとする諸勢力を討伐して権力の一元化に成功したが、万人恐怖と呼ばれた過酷な恐怖政治は周囲の反
発を買うこととなり嘉吉元年に暗殺されてしまった。                                
 将軍独裁を目指した義教の暗殺と幼少な将軍が相次いだことで幕府の実権は有力守護に握られてしまうこととなった。その
ため斯波・畠山といった管領家の内紛や時期将軍候補をめぐる細川と山名の対立にも将軍は有効な手段を講じることができな
かった。その結果が応仁の乱である。                                       
 しかし、これらはいずれも幕府が関係した戦いであり、隣国間の争いや下剋上が恒常化するのは戦国時代になってからであ
る。その原因は何か、という前になぜ戦国以前にそれらが無かったのか。言うまでも無く、足利幕府という中央政府が曲がり
なりにも機能していたからだ。幕府が機能している限り、下剋上というものは発生する余地がなかったのだ。ところが、幕府
が機能不全に陥ると、守護を下剋上から守る外部的な力が存在しなくなった。守護は在京もするためどうしても領国との繋が
りは浅くなってしまう。それを補うのが守護代なのだが、その守護代が下剋上をやってしまうのだから守護はお手上げとなっ
てしまう。守護代以外にも越前朝倉氏のような有力家臣や織田信長のような守護からみたら陪臣(家臣のそのまた家臣)にあ
たる者や毛利元就のような一介の国人(土着の領主)といった者が守護を倒して戦国大名化していっている。       
 無論、下剋上をされる守護側も黙ってやられたりはしない。領内の親守護派を結集して抵抗したり、隣国に亡命してその国
の支援を受けて反撃を試みたりするのだ。例えば越前朝倉氏は応仁の乱の真っ最中に自身が属していた西軍・斯波義廉を裏切
って東軍に鞍替えして将軍から越前の統治を認められている。しかし、越前の大半を支配していても主君である斯波氏や上司
にあたる守護代の甲斐氏との戦いは3代にわたって続き、明応元年に斯波氏を同3年に甲斐氏を破ってようやく越前の支配を
確定することができた。下剋上もそう簡単にはうまくいかないものなのだ。                      
 また、たとえ下剋上に成功したとしても安心はできない。下剋上に成功したということは、今度は自分が下剋上の対象とな
るということなのだ。播磨・美作・備前の守護代であった浦上氏は主君である赤松氏への下剋上に成功して主家を傀儡とした
が、その浦上氏も家臣の宇喜多直家に下剋上されてしまっている。前述の将軍への下剋上を成し遂げた細川氏も家臣の三好氏
に下剋上されて没落してしまっている。さらに、その三好氏も織田信長の上洛が無ければ家臣の松永久秀に下剋上されていた
かもしれない。もっとも、松永は対立していた三好三人衆に圧倒的な劣勢を強いられていたので成功したかどうかは微妙なの
だが。                                                     
 
 守護の中には甲斐の武田氏や駿河の今川氏のように下剋上されなかったのもあるが、これらの家でも家督相続を巡る内紛が
起きている。甲斐の武田氏では信縄と弟の油川信恵との間に家督争いが生じて、信縄の子・信虎の代まで内紛が発生している
し、駿河の今川氏でも花蔵の乱と呼ばれる内乱が起きている。無論、こういった事例は下剋上でのし上った大名でも見られる
ことで、伊達政宗・織田信長・大友義鎮・毛利元就らが兄弟に家督を狙われて合戦に発展したこともある。        
 戦国期はこうした内紛の他にも隣国間の紛争も頻発していた。境界線を巡る争いから侵略戦争など様々だが、これも足利幕
府の統制が衰えたからでこうした争いを制して織田や武田といった戦国武将が領土を拡大していったのである。彼らが戦をす
るのは何よりも自分たちを守るためである。領国を他家から守るには他家よりも強くなければならない。故に戦国武将たちは
戦に明け暮れて自分の領土を増やそうとしたのだ。                                 
 だが、戦国期に戦が頻発した要因はそれだけではなかった。実は13世紀ぐらいからの地球寒冷化で戦国期は飢饉や疫病が
蔓延していた時代だった。当然、冬場などの端境期には食料が少なくなるので隣国へ行って食べ物を分けてもらおうとするの
だが、隣国とて余裕があるわけではないからそれには応じない。それでは力ずくということで合戦が発生するのだ。この時代
に略奪という行為が目立つのもそれが原因なのだ。大名にしても敵の国力を減らせるので略奪を禁止したりはしない。そうし
て得た戦利品を持ち帰ることで領内が潤うのであればむしろ歓迎していたと思う。逆に略奪は駄目だとか戦は止めようよとか
ほざく平和主義者はたちまちのうちに領主失格の烙印を押されて追放されてしまっているだろう。越後の上杉謙信が国外に出
兵するのも領民に略奪の機会を与えるためだとも言われている。                           
 略奪といえば悪いイメージがあるが、そうしなければ生きていけないのが戦国時代で人々は常に飢餓と隣りあわせで生きて
いかなくてはならなかった。『雑兵物語』という本には飢餓という文字がしつこく掲載されている。戦場というところは味方
の陣でも飢餓状態なので生き抜くには味方からでも食べ物を奪えとかなり乱暴なことが書かれている。          
 
 
 戦国時代は実力本位で誰もが天下を狙っていたとイメージすると思う。だが、現実問題として大名には天下を狙う余裕がな
かった。天下を狙うにはまずなによりも他の大名よりも強くなければならない。武田信玄や毛利元就のように大抵の場合、領
土を拡大させた時点で時間切れになるケースが多い。織田信長にしても如何にも初っ端から天下を狙っていたとイメージしや
すいと思うが、そんな彼にも家督を継いでスタート地点に立った時点での目の前の現実は天下がどうのこうの言えるものでは
なかった。信長が天下を意識したのは美濃を制圧したぐらいからだろう。彼が美濃を制圧した永禄10年は当時の日本の中枢
であった畿内を制していた三好氏に内紛が勃発して、その影響で将軍が空位となる状態が続いていた時期にあたる。京都への
道を妨げる位置に存在する江南の六角氏も家臣団の反発で領主権力が著しく低下しているという信長にしたら願っても無い状
況だった。信長が上洛に簡単に成功したのはこうしたタイミングの良さにあった。武田信玄はタイミングがどうのこうの言え
るようになった時にはすでに時間が残っていなかった。武田信玄と上杉謙信が互いに潰しあっていたことも信長の上洛にプラ
スに作用した。もし、信玄と謙信が和睦していたら足利義昭を奉じて上洛したのは信長ではなく謙信だったかもしれないので
ある。他にも駿河の今川義元は上洛の意思を持っていたともされるが、彼の根拠地の駿河の駿府(静岡市)は京都から遠く離
れているため、畿内を制するには少なくとも尾張か美濃に居城を移す必要があったろう。それは上杉謙信にも言えたことで、
彼には上洛して足利義昭の擁立には成功しても将軍を守るために軍を長期間京都に駐留させることは不可能ではなかったろう
か。謙信には関東管領として関東の後北条氏を討伐する職務もあるため迂闊に本拠地を空けるわけにもいかなかった。   
 さて、戦国時代は実力主義の世界で朝廷や幕府といった過去からの伝統的権威は顧みられることはなかったと思うかもしれ
ない。確かに将軍は「流れ公方」と嘲笑されるほど頻繁に京都を脱出して他国に亡命を余儀なくされているし、朝廷も天皇の
葬式の費用が捻出できなくて遺骸が1ヶ月も放置されたままだった他に同じく資金不足で即位から20年以上も即位の儀式が
挙げられないという有様だった。伝統的権威などこの時代には無意味だと言えるぐらい朝廷も天皇家も衰亡の極みにあったの
だ。この状況が改善されたのは織田信長の上洛後で信長の援助で朝廷は持ち直すことができたが、将軍家は最後の足利義昭が
信長に追放されたことで最後まで「流れ公方」に終わった。                             
 なんかこういう風にいうと、信長は天皇は好きで将軍は嫌いだみたいになってしまうのだが、彼にしたらどっちも利用する
対象でしかなかった。足利義昭は利用されるだけの存在に嫌気がさして信長と敵対して追放されたのだ。信長は伝統的な権威
など意に介さないとされるが、実のところあの人ほど権威というものを利用した戦国武将はいない。元亀元年に敵対勢力に包
囲されて窮地に陥った時は将軍の上意や天皇の勅命を使って講和にこじつけて危機を脱している。            
 権威を利用したのは信長だけではない。この時代、どんなに力があろうともそれだけでは一国を治められない。戦国大名は
配下の武士に自分の支配の正当性を見せる必要があったのだ。そこで大名は幕府から守護に任じられることで正当性を証明し
ようとした。衰えたりとはいえ武家の棟梁の地位に将軍がいることには変わりがなく、同じく武家の戦国大名が己の正当性を
得るにまさにうってつけの存在だった。武田信玄は信濃守護職に任じられることで、信玄に逐われた信濃の領主たちの要請に
応じて出兵する上杉謙信に大義名分で上に立つことができた。さらに守護という幕府の公職に就いた事は、事実上の国主的待
遇ながらも正式に守護に任じられていない謙信に公的地位で上になったことを意味する。謙信もこれに対抗して幕府から保護
していた関東管領の補佐と領国回復支援のほかにその処遇までも委ねられることに成功した。つまり関東管領よりも上である
ことを公認されたわけで幕府での公的序列は管領家並という越後守護代の家系としては破格の待遇を得られたのだ。    
 また、守護の他にも朝廷から与えられる国司も重要となってくる。これによって守護職を先に取られても正当性で対等とな
る。織田信秀(信長・父)や今川義元は三河守に任じられることで三河侵攻の大義名分としたし、徳川家康も三河を統一する
にあたって三河守に任じられている。こうした事例によって鎌倉時代以降、有名無実化していた国司が再び注目されるように
なり天皇の地位も再認識されることとなった。                                   
 その一方で主君を傀儡として実権だけを掌握するケースもある。下剋上は主君への反逆であり、やはり世間体が悪い行為で
ある。そのため主君を殺したり追い出したりはしないけど、実権だけはもらっちゃうという人もいたのだ。例としては細川氏
と将軍家のケースや三好氏と細川氏または将軍家、越後長尾氏と上杉氏といったケースがある。時代はちがうが鎌倉幕府の将
軍と執権の関係もある。織田信長も守護の斯波氏を擁立することで国内の反対勢力に大義名分で有利となっている。    
 だが、こういうケースは長続きしない場合が多い。傀儡とされてる側がいつまでもそれに甘んじていないことが多いのだ。
そういう場合は仕方ないので国から出て行ってもらう。戦国時代は力なき権威も権威なき力も無力で、天下を統べるにはその
両方を併せ持つ必要があった。その時期に最大の勢力を誇っていた豊臣秀吉と徳川家康がそれぞれ関白と征夷大将軍に任じら
れていることでもそれはおわかりいただけると思う。                                
 
 
 
 
 
 
   【守護大名と戦国大名の違い】                                       
 戦国大名には守護大名から転身した例もある。武田氏や島津氏などである。いったい、何がどうなれば守護大名から戦国大
名になったことになるのだろう。家臣を集めて「今日から守護大名でなく、戦国大名としていきます」と宣言するわけはない
し。戦国大名になったとしても守護職を辞するわけでもない。                            
 その答えは簡潔に言うと、守護大名は幕府から任命される職だということ。しかし、これだけならば戦国大名にも守護職に
任じられた人もいるから決定的な違いとはいえない。守護大名と戦国大名の決定的な違い、それは領国支配に幕府の影響があ
るか否かである。どんなに勢力が大きい守護大名も幕府の権威があってこそ、その地位を維持できるのだ。山名氏や大内氏の
ように個々に叛旗を翻す例もあっても、守護大名たちがこぞって幕府に反逆しなかった(足利義教のような暴君にも)のは、
幕府がなくなれば現在の自分たちの地位を保証してくれる機関がなくなってしまうからだ。応仁の乱以降、下剋上が目立つよ
うになったのは幕府の権威が衰えてしまったために守護たちが単独でこれに対処しなければならなくなったのが原因である。
つまり、守護大名が幕府の権威や支援なしに配下の武士を統制できるようになった時点で戦国大名に転身したといえるのでは
ないのだろうか。戦国大名になってからも守護に任じられる例があるのは、幕府の影響から脱し切れてないとも言えるが、彼
らはただ幕府の権威を利用しているだけである。事実、武田信玄は信濃守護に任じられたが、上杉謙信と和睦せよという幕府
からの命令は無視している。当時の信玄の戦略には謙信と和睦するという選択肢はなかった。自分の都合のいい時は幕府を利
用するのに、都合が悪くなれば幕府からの命令は従わないし、あるいは従ったふりをするだけである。それが、守護大名と戦
国大名の違いである。他に、分国法といって戦国大名が勝手に作った法律がある。幕府の了解なしにそういった法律を作るの
は、戦国大名が幕府から独立した存在だということだ。                               
 
 
 
 
 
 
   【戦国時代の軍事】                                            
 戦国大名の軍隊の構成員は大きく分けて騎乗の侍と徒歩の徒士の武士身分と、雑兵や足軽と呼ばれる非武士身分とがある。
鎌倉期までは戦場の主役は騎乗の武士で雑兵は目立たぬ存在だったが、戦国期には公家の日記にも登場するぐらいポピュラー
な存在となっていた。                                              
 その足軽だが、前述したように彼らは武士という職業軍人ではない。有事に召集されるパートタイムの戦闘員だ。では、平
時の彼らの職業は何なのか。実は彼らは村の余剰人口のいわゆるあぶれ者なのだ。慢性的な食糧不足のこの時代、どこの村で
も百姓では喰っていけない連中がいた。そういった連中が足軽として戦場に赴いたのだ。なので、彼らに大名に対する忠誠心
はあまりない。奇襲を受けて陣が崩れるといったケースが多いのはこうした構造的な問題があった。恩賞や戦地での略奪が目
当ての彼等がそれを期待できない状態つまり敗北を喫した場合に一目散にそれも文字通り足軽く逃げ去るのも無理からぬこと
なのだ。                                                    
 そういったゴロツキの集まりだった足軽も戦国後期になってくると大名の軍隊の枠組みに組み込まれるようになった。大名
は家臣に適当な人数分の給与を出して足軽を雇わせて足軽大将として指揮させたのである。こうして兵科(弓・鉄砲・長柄)
ごとに組衆化された足軽は備の一部として大名の軍隊の一部となった。                        
 さて、足軽たちは給料をどれくらいもらっていたのだろう。武士でない彼らは土地をもらえる身分ではないので銭もしくは
米などの現物で給料を払われていた。安房の里見氏では足軽30人を統率する組頭で200石、一兵卒で20俵が支払われて
いたらしい。1日2合の米を食べるとして、20俵では200日分ぐらいにしかならない。普請工事などの土木作業があれば
その給料ももらえるかもしれんが、それが無い時は強盗ということになる。他国の領土(さすがに自国内ではしないらしい)
に行って牛馬や人間を掻っ攫って来るのだ。当然、戦地となれば強盗よりも凶悪な略奪という名の現地調達になる。彼らを統
率指揮する立場の管理職にしたら敵地での略奪行為は敵の生産力低下に繋がるが、その土地を征服するとなれば話は別だ。そ
の土地の住民を慰撫するためにも略奪という行為は好ましくない。そこで足軽たちに米や銭を与えて略奪ではない現地調達を
させるのだが、一度に多くは与えない。例えば米を十日分一度に与えたら足軽は一、二日分だけを残してあとは酒にして飲ん
でしまうからだ。やはり、どうしても酒の魅力には勝てないのだ。酒のほかにも賭博も行われていたが、それは戦場という極
限状態における必要悪ってやつだ。                                        
 酒、博打の他に足軽たちと切り離せないのが性欲である。戦地にまで出張してくる売春業者もいたが、金が無い奴はこれま
た現地調達となる。つまり逃げ遅れた民家の娘をさらうのだ。年頃の娘ともなれば高く売れる。多数の女中が籠城していた大
坂夏の陣の際にも落城で逃げ惑う女性が徳川方の足軽たちにさらわれるという悲劇が『大坂夏の陣図屏風』に描かれている。
他にも、女性は土地の代わりの恩賞として手柄があった者に与えられる場合もあった。                 
 
 
 武士ではない領民が駆り出されるのは足軽といった戦闘要員だけではない。小荷駄隊という輜重部隊の人足(夫丸という)
としても動員された。通常、将兵は数日分の食糧は原則自弁とされてきたが、戦が長期になる場合はそれらを運搬管理する部
隊が必要となってくる。それが小荷駄隊だ。小荷駄と足軽は出身母体は同じだが、後者が軍役であるのに対し前者は夫役の対
象となっている。これは小荷駄隊が戦闘部隊でないからだが、非戦闘員は攻撃しないという紳士協定があるわけでもなく非力
な小荷駄隊は格好の攻撃目標となる。よって、小荷駄隊も自分の身は自分で程度の戦闘力は求められる。非力といっても一揆
や落武者狩りもやるぐらいの武力はあるからからっきし戦闘は駄目ということでもない。それよりも襲撃された際に人足達が
どさくさに紛れて荷物を掠めて逃げるということが問題だ。小荷駄を指揮する奉行と警護部隊には人足の監視という役目もあ
ったのだ。                                                   
 さて、小荷駄隊は人足と牛馬で構成されるが、その兵站能力はどれくらいだったのだろう。牛馬一頭につき2〜4俵を運搬
できたとされている。仮に2俵を運搬したとする。俵は戦国時代では2〜5斗となっている。ここでは明治に定められた1俵
=4斗で計算する。4斗=40升=400合、1合は標準的な一食分になるから1俵は400食分となる。つまり、牛馬一頭
で800食分の米を運搬できるということになる。一人一日5合を支給したとしたら160人分になる計算だ。『改正三河後
風土記』によれば永禄3年に松平元康は尾張大高城に450俵を城内に運び入れることに成功しているが、城兵6000人に
対しこれでは6日分にしかならない。ちなみに、この時に使われた駄馬は150頭だから1頭につき3俵を運搬したことにな
る。                                                      
 では、具体的に計算してみましょう。単純に16,000人を賄うとする。彼らを1日食わせるとしたら100頭が必要と
なる。二日なら200頭だ。これに個人が自弁する数日分(一般的には3日分)を加えても5日分にしかならない。さらに長
期となると、もっと多数の牛馬と人足が必要となってくる。牛馬1頭につき人足が2人つくことになっているが、実際は2頭
に3人だったらしい。つまり、半月間戦が続いたら1200頭と1800人の小荷駄隊が必要となるのだ。これに警護・監視
する要員も数千人つけなければならない。一般的な戦国大名には大軍の食糧をすべて小荷駄隊に賄うことは不可能ではないが
極めて困難であるといえよう。それをするには広大な後方地域が必要だが、そうした広大な領土を獲得できたのは畿内中枢を
制圧した織田信長が最初である。他の戦国大名にとってはすべてを小荷駄隊にというのは現実的ではなく、どうしても現地調
達という形にならざるを得ない。                                                                                  
 
 
 武士も足軽も小荷駄隊の人足も陣城などを建設する陣夫も平時はそれぞれの生活をしている。有事に召集されて戦地に赴く
のだが、城から軍勢催促状を持ってくる使者を待っていたら時間がかかる。そこで、戦国時代から狼煙や半鐘で召集を知らせ
て予め準備させておくという手段がとられた。そうしておけば使者が到着した時点で出発できるのだが、山地などの遠隔地で
はどうしても連絡に時間が必要なので、それを考慮して出陣のタイミングを計らねばならない。これを陣を触れるという意味
で「陣触れ」といった。                                             
 大名配下の中小領主には軍役という予め定められた兵員の負担があった。所領に応じてその規模が決められたのだが、その
基準には貫高と石高があった。加賀100万石とか土地100貫とかである。貫はその土地で収穫される米を通貨に換算した
もので大名がその領主に新恩として与えた所領にのみ軍役が求められたのに対し、石はその土地の米の生産量を「石」という
単位で表したものである。こちらの方は所領全体への役高なので、貫高制をとっている大名よりも石高制をとっている大名の
方が家臣団を強力に統制していることになる。ちなみに貫高制での動員は後北条氏で7貫に一人とされていたが、石高制では
100石に2.5人が基準(旧陸軍参謀本部)とされていた。無論、時期や場所で数字は異なってくる。         
 他にも軍役には装備についても取り決めがあった。長柄や弓鉄砲、旗幟、騎馬などの数を指定されるのである。刀剣といっ
た類は個人で携行するものとして軍役の対象からは外された。例として甲斐武田氏の家臣・武田兵庫助の元亀2年3月13日
の軍役を見てみると、397貫350文の知行で軍役量は28名、その内訳は馬上3長柄10弓2持槍5鉄砲5小幡持3とな
っている。こうして見ると、戦国大名は鉄砲を給人という軍役負担の家臣に分散して持たせているのがわかる。これでは鉄砲
を集中的かつ効率的に運用するのは困難で、野戦で威力を発揮しにくい要因となっていた。それを改善したのが信長で、彼は
鉄砲衆を自身の馬廻に配することで集中的な運用を可能にしたのである。配下だけでなく他家からのも含めた雑多な集団を前
田利家らを指揮官とすることで部隊として機能させ、見事長篠の戦いで武田勢を撃破した。               
 ともかく、軍勢催促状で指定された人数・装備を整えて家臣たちは指定された場所に駆けつけて、着到状を提出して署名を
受けた。着到の提出先は基本的に大名か軍奉行だが、寄親に付属される寄騎は寄親に、寄親と寄騎の家臣はそれぞれの主に提
出する。それらを集計して軍勢の総数を確認するのだが、その数字は決して厳密なものではなく大名は自軍の兵力数の掌握に
苦労することもしばしばだった。                                         
 そうやって集結した軍勢は目的地に出発するわけだが、戦国時代の軍勢はだいたい本陣・先陣・後陣・小荷駄の4つに大別
される。本陣は大将がいる陣で軍勢の頭脳でもあり心臓でもある重要な陣だ。本陣は大将の旗を掲げるので旗本ともいった。
そこから本陣に詰める大将直衛の家臣を「旗本」というようになった。先陣は規模によって一陣・二陣と分けられその中で一
番先頭に立つ陣を先鋒といった。だいたい先陣を任されるのは戦場に近い地域に領土を持つ家臣なのが一般的で、逆に後陣に
配される家臣は戦場から見て遠隔地に領土がある者が普通だった。先陣・本陣・後陣を構成する隊列は備(そなえ)といって
騎馬・徒士・足軽・その他で編制される。備の人数は300〜1500前後で侍大将が指揮を執った。尚、この数字は戦闘員
だけでなく、侍の従者や馬の口取といった非戦闘員も含まれる。武士には奉公人が付き物で幕末に西洋式軍制が採用されるま
でこの状態は続いた。                                              
 
 
 合戦には二種類ある。言うまでも無く野戦と攻城戦である。今回は攻城戦について解説させてもらいます。大名間の争いで
決着がつけられるのは大抵攻城戦である。織田信長を例にしても彼が滅ぼしたり屈服させた敵対勢力は美濃斎藤氏・江北浅井
氏・大和松永氏・摂津荒木氏・伊勢長島願証寺・摂津石山本願寺・播磨別所氏・丹波波多野氏と多数に上る。また、越前朝倉
氏と甲斐武田氏は最終時に急速に崩壊していったため城に籠るという選択肢が得られずに滅ぼされている。ほとんどの場合、
滅亡するのは攻められる側だが、例外もいくつかある。天文15年の河越夜戦で武蔵河越城を攻めていた扇谷上杉朝定らの軍
勢は北条氏康の後詰(城を救援する部隊)勢に敗れて上杉朝定が討死した。朝定に嗣子は無く、これによって扇谷上杉氏は滅
亡した。しかし、それはあくまでも例外で城を攻める側が敗北して潰滅的打撃を被ることはあっても、滅亡するという事態に
なることは滅多になかった。敗北が確定的となったら大将は真っ先に逃げるし、武運尽きて戦場に屍を晒すことになっても、
後継者が生きていれば御家が滅亡することは無い。扇谷家の例はレアなケースといえるだろう。             
 では、具体的に城攻めの手順を見てみよう。まず、城攻めの絶対条件は相手方よりも多くの兵を動員することだ。城という
ものは守りが堅固になるように築かれている。単純に力攻めとなると、兵の損害は攻撃側が大きいということになる。また、
あまり兵の数に差がないとなれば城から打って出ることも考えられる。それを撃退するにも、城から外部に連絡が付けられる
のを防ぐためにも、敵の増援を迎撃するためにも多くの兵を動員することが必要なのだ。                
 軍を動員して目的の城に到着したら、周辺の民家を焼き払ったり略奪したりなどの悪行を行う。これは城兵を挑発して城の
外に誘引するための手段である。足軽たちの略奪行為を領主が黙認していると前述したが、それにはこういう理由もあったか
らだ。また、城にむかって罵詈雑言を浴びせるということもしたりする。城のように防備が固められている地点への直接的な
アプローチはなるべく避けた方が賢明で、攻撃側はどうにかして守備側を野戦に誘き出そうとするのだ。だが、そうした攻撃
側の意図は当然守備側も見抜いており、守備側の統制が機能している限り野外に誘われる可能性は低い。といっても敵の乱暴
狼藉を目の当たりにして兵士たちが平然としていられるわけもない。そこで、兵の鬱憤を晴らす目的で城外出撃行われること
もあるが、それはあくまで兵の士気のためであって絶対に勝てるという自信が無い限り野外で決戦を挑むようなことはしない
のだ。ならば、勝てるという自信を抱かせばいい。元亀元年の姉川の戦いや同3年の三方ヶ原の戦いは城側が攻撃側に誘引さ
れて起こった合戦で、いずれも攻撃側が勝利を収めている。                             
 だが、城側が誘いに寄らなければ城攻めを断行するしかない。まず、城を完全に封鎖することだ。その要となるのが陣城で
ある。野戦の時にも簡単な陣城が作られることがあるが、城攻めとなると逗留が長くなるかもしれないし、城兵だけでなく敵
の増援とも戦わなければならないときもある。それに備えるためにも、それなりの設備が整えられた陣城が築かれるのだが、
かといって城攻めが終われば用済みになるのだからあまり手をかけすぎないようにすることも必要だ。また、建設中に敵の襲
撃を受けないように短期間で済ませる必要もある。                                 
 さて、陣城を築く場所だが、本陣は城から1キロほど離れた丘の上に築くのが好ましい。他の陣は城から500mから1キ
ロ離れた場所に築かれる。さらに、近くに寺があればそれを利用することもある。                   
 では、陣城の作り方を見てみよう。まず、材料は木と土で現地調達も可能だが、敵前でそれを加工するのは効率が悪いので
木は尺木(人の背丈ほどの棒)にして召集の時に足軽に持たせる。それが戦地で柵の材料となるのだ。柵は土塁の上に設けら
れ、土塁は陣の周辺に空堀を掘って積み上げられた土で作られる。これで、空堀と土塁と柵ができる。その周辺に敵の進攻を
妨害するための逆茂木が置かれる。逆茂木とは先端が鋭く尖った枝が無数にある木で、戦国時代の有刺鉄線みたいなものか。
陣城の防御はこんなぐらいで、あと見張りのために井楼という櫓が中に作られる。他には寝泊りするための施設も作らなけれ
ばならない。殿様には陣幕をたらした小屋が中心に作られるが足軽には雨がしのげるだけの物があればいいし、竪穴式住居み
たいな物も作られる。これで攻城戦の準備は整った。あとはどう城を攻略していくかである。尚、城を包囲するには水攻めと
いう手もあるが、それには低湿地に囲まれた城で雨の時期であるという条件が必要だ。                 
 城を攻めるには言うまでも無く城に接近しなければならない。城攻めの難しさは射撃戦の優劣にある。障害物を防壁にでき
る城側の方が射撃戦が有利なのである(但し、地形の制約を受けやすい山城などは攻撃側が有利となる場合もある)。対して
攻撃側は楯を持って歩いてたら被害は軽減されるだろうが、城側の火力を制圧することができない。城側の射撃から兵を守り
かつ城への突撃を支援するシステムを『仕寄り』という。仕寄りは楯や牛という木や竹を三角に組んだものに竹束を付けた竹
束牛を互い違いにセットにして設置する。そして、城に一番近い最前列には城への突入を支援するため横に広げるように設置
する。また、城内を見渡すための井楼も造られる。さらに鉄砲生産が拡大して日本が世界有数の鉄砲大国になると、それに対
応して攻城術も発達して仕寄り道という空堀が登場する。要するに塹壕のことで攻城術の集大成となった大坂冬の陣ではジグ
ザグに掘られた仕寄り道によって、兵はより安全に城に迫ることができるようになった。他にも城を監視・攻撃するために築
山も用いられる。                                                
 仕寄りが完成したら次はいよいよ城への突入である。しかし、強固な城にいきなり突撃しても突破はできない。堀があれば
埋めて石垣が高ければ土を盛って段差を無くしていく必要がある。さらに櫓も事前に破壊しておいた方がいい。ポピュラーな
のは火矢を使った攻撃だが、耐火構造の櫓には炮烙という焼夷弾のようなものを投げ入れたり大砲があればそれで破壊するこ
ともある。その他に金掘り攻めという鉱山夫の集団に地下トンネルを掘らせて城兵に気付かれないように城内に侵入して破壊
工作を行う方法もある。ヨーロッパにも似た戦術があるが、あっちの場合は落盤を起こさせて建物を破壊する目的が主だった
という。                                                    
 そうして城の防御力を弱めておいてから突入にはいる。鉄砲や長柄に援護されて門などを斧や大槌で破壊したり、投げ橋な
どで塀を乗り越えるのである。突入に成功すれば白兵戦で城内を制圧する。といっても、城は大抵いくつかの郭(城を一定区
画に分かつ区域)を持っているので塀や門を突破しても郭の一つを制圧したにすぎない。次の郭を攻めるのにまた仕寄りを作
って態勢を整えて突破を図る。その繰り返しで城を落としていくのである。                      
 
 
 戦いの勝敗はどれだけのミスを犯したかに決まるという。ナポレオンはワーテルローでいくつものミスを犯して百日天下と
いう結果に終わった。共和制ローマ末期の内乱ではカエサルが犯したミスよりもポンペイウスが犯したミスの方が大きくて、
それがファルサロスの戦いでカエサルが勝利した大きな要因となった。では、日本の戦国時代ではどうか。例として天正11
年の賤ヶ岳の戦いをあげる。                                           
 前年に京都本能寺で横死を遂げた織田信長の後継者をめぐるこの戦いで、羽柴秀吉は抵抗勢力である柴田勝家らを打ち破っ
て織田家中をほぼ手中におさめることとなった。この戦いで柴田陣営が犯したミスは次の3つである。          
 
 1.自陣営の強化に失敗した。                                         
 山崎の戦いで主君の仇を討った秀吉にはその過程で多くの味方を得るのに成功した。対する柴田勝家には自身に付けられた
与力以外は織田信孝や滝川一益といった秀吉に意図的に排除された連中しか集まらなかった。だが、秀吉に味方する諸将は必
ずしも秀吉に臣従したわけではなく、あくまでも秀吉は織田家の家臣という地位にすぎなかった。つまり、柴田は自分達の陣
営を強化することは決して難しいことではなかったはずだ。しかし、清洲会議での集団指導体制の維持ばかりを気にしていた
柴田はそれを怠ったばかりか、逆に与力の前田利家らを秀吉に懐柔される始末だった。                 
 
 
 2.外部に援助を求めなかった。                                        
 織田家中での勢力関係が定まってしまっては柴田らに残された手段は外部勢力に頼るしかなかった。だが、ここでも柴田は
躊躇してしまって秀吉に対して劣勢のまま戦いに臨むことになった。確かに隣の上杉家とは前年まで争っていた間で同盟は望
めないにしても、和睦して緊張関係を緩和するぐらいのことはするべきだった。柴田はそれすらも怠ってしまって佐々成政の
越中勢を動員できなかった。これを教訓としたのか、翌年の小牧の役で徳川家康は外部勢力と結んで秀吉包囲網を展開してい
る。                                                      
 
 
 3.三法師を擁立しなかった。                                         
 織田家中の支持を取り付けるのにこれ以上の大義名分があろうか。秀吉は養子で信長の四男でもある秀勝を喪主にして信長
の葬儀を盛大に行っているが、柴田もそれに対抗して妻で信長の妹のお市の方を喪主として葬儀を行っている。柴田らは三法
師という織田家の当主を手元に置いているのにそれを喪主にしようとしなかった。織田信長の嫡孫で織田家の現当主である三
法師を喪主にすれば人々は秀吉にではなく柴田らに集ったのではないだろうか。織田家中の内紛である以上、当主の三法師を
擁立するか否かで形勢はかなり違ってくる。秀吉もその事をよくわかっていたので、三法師を保護している織田信孝を攻めて
三法師を奪取している。これにより織田家中での勢力バランスは完全に秀吉側が優勢となった。             
 
 
 これらの戦略的な失敗により柴田勝家は戦う前から敗北するのが決定付けられていた。佐久間盛政らが秀吉側の砦を奪取し
た勢いに乗じるべきだとかいった戦術レベルの話では到底秀吉に勝つのは不可能だったのである。だいたい秀吉が柴田勢を動
かすのにわざと戦場から離れたのだから、いくら佐久間らが砦をいくつか落としたところで秀吉の目論見どおりに動いてしま
ったにすぎないのだ。※くわしくは拙作をご参照ください。                             
 
 
 
 
 
 
   【家督継承】                                               
 名将と謳われる戦国武将もいつか死を迎える。後を継ぐのは息子だが、継承についての決まり事はあったのだろうか。成文
化されたわけではないが、正室が産んだ男子で最も年長の者が後継者になることが多い。どんなに早く生まれていても母親が
側室で、弟に正室が産んだ男子がいたら家督は兄ではなくその弟が継ぐことになる。織田信長が三男であるのに嫡男とされた
のは彼が正室が産んだ男子の中では最も早く生まれたからである。                          
 しかしながら、正室腹で一番早く生まれたからといって家督が約束されているわけではなかった。昨日の敵は今日の友、今
日の友は明日の敵という言葉がピッタリあてはまる戦国乱世は約束事などあって無いようなものだ。それは親子兄弟でも同じ
だった。最上義光・大友義鎮・武田信縄(信玄・祖父)・伊達輝宗(正宗・父)・伊達晴宗(正宗・祖父)などは父との確執
の結果、危うく嫡子の地位を弟に奪われかけている。また、父が死んで家督を継承しても、織田信長・伊達政宗・毛利元就な
どのように兄弟からその地位を狙われることもある。現在の感覚では血の繋がりがある者同士で殺しあうというのは理解しが
たい(近年はそうでもないかも)かもしれんが、肉親だからこそ殺しあうかもしれない。天皇家も摂関家も将軍家もそして戦
国大名たちも家の継承は血縁のみで行われてきた。つまり、血を継いでさえいればたとえ庶子であっても家を継ぐ大義名分は
あるということになる。                                             
 
 
 
 
 
 
   【姓と名字と名前】                                            
 姓とは源平藤橘など天皇からもらったもので公的な書面にはこの姓で記入される。それに対し、名字は個人が勝手につける
もので地名などをつける例が多い。例えば豊臣秀吉は織田信長に仕えた頃は木下という名字を名乗っていた。これは妻の兄の
木下家定から与えられたものである。秀吉は出自が庶民なので天皇から与えられる姓というものはもたなかった。その後、名
字を羽柴に変えている。これは織田家重臣の丹羽長秀と柴田勝家の名字から一字ずつ頂戴したとされている。その後、天下人
への道を進み始めた秀吉にある大きな問題が立ちはだかった。前述したように彼には姓がなかったのだ。征夷大将軍になるに
しろ関白になるにせよ出自が卑しい者をその地位につけるわけにはいかない。そこで秀吉はまず藤原の姓を手に入れて関白の
職に就くことに成功した。その翌年に朝廷から豊臣という新しい姓をもらって豊臣秀吉となった。やはり藤原という姓に煩わ
しさでも感じたのだろうか。しかし、せっかくもらった豊臣の姓もわずか二代で絶えてしまった。            
 上記の秀吉の例でわかるように姓と名字は都合によって変えられることがあった。秀吉の主君の織田信長は藤原姓を名乗っ
ていた時期もあったら平姓を名乗っていた時期もあった。徳川家康も藤原姓を手に入れて三河守に任じられたかと思ったら、
後に源姓に改姓して征夷大将軍となっている。姓は天皇から与えられるものだから改姓には朝廷の同意が必要となる。   
 
 それに対して名字は個人が勝手につけるものだから変えるのも個人の勝手となる。とはいえ、名字もその家を示すものだか
ら安易に変えるものではない。戦国期に名字を変えたのは豊臣秀吉・徳川家康・上杉謙信・北条氏綱・斎藤道三らであるが、
ちょっとそのいきさつを解説する。                                        
 まず、豊臣秀吉だが彼が木下から羽柴に変えたのは近江長浜城主になった頃である。城主という重要な地位に就いた秀吉は
木下という下級武士の名字では重みが欠けると判断したのだろう。前述したように重臣二人から一字ずつ頂戴して羽柴と名字
を変えた。                                                   
 徳川家康の場合は彼がそれまでの松平から徳川に名字を変えたのは永禄9年12月で三河の統一が成った直後である。彼が
名字を変えたのは武家の名門・源氏に憧れていたからで、その系統として徳川への改姓を朝廷に奏請したのだが源氏の系統に
は徳川なる名字は無いとされて藤原姓なら改姓を許可された。しかし、家康はその後も公文書には藤原家康と署名しているが
それ以外では源家康を名乗っている。                                       
 なぜ、家康が徳川という名字を新たに作ったのか。それは家康の松平宗家が他の松平一族と同列ではなく、別格な存在であ
ることを示すためだ。というのも、松平宗家は常に一族からその地位を狙われていた。家康の父・松平広忠は家督を継いだ直
後に大叔父の松平信定に追放されたり、どうにか帰ったと思ったら今度は叔父の信孝に追い出されている。困り果てた広忠は
駿河の今川義元に保護されて事なきを得たが、これによって松平家が今川の傘下になることを余儀なくされたのは周知のとお
りである。また、家康自身も三河一向一揆の際に一族から造反者を出している。そうした経緯から徳川という名字が作られた
のだが、同族意識がそう簡単に主従意識に変えられるわけもなく、家康が松平一族から主君と認められるようになるのは三河
統一から10年ぐらい経った後だ。そして、関東に移封された家康は松平一族を旗本・譜代大名として領土を与えることで完
全に一族を家臣とすることに成功したのである。松平といえば親藩と思うかもしれないが、松平で親藩つまり徳川将軍家の一
族とされたのは家康次男の秀康の系統である越前松平家や家康の孫の家光弟の正之の系統の会津松平家など家康の子孫のみで
ある(養子縁組で譜代から親藩になった例もある)。                                
 上杉謙信は長尾景虎と名乗っていた。長尾氏は関東管領・山内上杉家の家宰を務める家柄で、景虎の系統は代々越後守護代
として越後守護上杉家を補佐してきた。しかし、戦国の下剋上の波は越後をも襲い、景虎の父・長尾為景は守護の上杉房能を
弑逆し、さらにその兄で関東管領の上杉顕定を返り討ちにして越後の実質的支配権を掌握していた。景虎は謀反人の息子であ
ることを気にしており、その汚名返上を図っていた。一方、顕定の戦死で軍事的に弱体化していた関東管領・山内上杉家は新
興の後北条氏に圧迫されており、天文15年の河越夜戦と翌年の小田井原合戦の大敗で最後に残った領国・上野も維持できな
い状態だった。同族の扇谷上杉家はすでに滅び、古河公方家も骨抜きにされており、関東で頼りになる武将はいなかった。そ
して、同20年に北条氏康が上野に侵攻を開始すると、関東管領・上杉憲政は翌年に城を捨てて越後に逃亡した。     
 憲政がよりによって関東管領に弓を引いた逆賊の息子である景虎に保護を求めたのは、景虎が義に厚い武将であるとの評判
を聞きつけたからである。ここに両者の思惑は一致した。憲政を支援して後北条氏を討ったとなれば、逆賊の汚名を晴らすこ
とができる。憲政にしてもそれで領国を回復できるとなれば過去のことなど水に流してもよかった(顕定と憲政には直接的な
血の繋がりはない)。実子を北条に殺されていた憲政は景虎を養子にして、景虎が関東に出兵して一時的に関東管領の覇権を
回復すると、鎌倉の鶴岡八幡宮で自分の名の一字と関東管領職を譲った。ここに景虎は上杉政虎となり、逆賊の息子という汚
名は完全に晴らすことが出来た。                                         
 次の北条氏綱は先ほど出てきた氏康の父である。彼は北条早雲の息子だが、実は北条早雲なる人物はこの時代には存在しな
い。北条という名字は氏綱からであり、それ以前は伊勢という名字だった。伊勢氏は足利幕府の役人の家柄で、氏綱の父・伊
勢新九郎盛時(入道して早雲庵宗瑞)も将軍・足利義尚の申次衆次いで奉公衆という職に就いていた。しかし、応仁の乱で焼
け野原となった都を目の当たりにした盛時は同志たちと共に新天地を目指すことにした。ちょうど、盛時の姉が駿河の今川義
忠に嫁いでいたことから一行は駿河に向かった。そして、今川家の家督争いを解決した盛時は伊豆の堀越公方を滅ぼし、戦乱
に明け暮れる関東へと身を乗り出したのであった。                                 
 先述したように伊勢宗瑞は生涯を伊勢姓で通して、身分も無位無官のままだった。文字通り、己の実力だけで伊豆と相模を
切り取ったのである。だが、後を継いだ氏綱はそうした父のやり方に限界を感じていた。関東でも無視できない勢力となった
伊勢氏だが、関東の諸将にとって彼等が他国の凶徒であるのに変わりはなかった。上杉家は他国の凶徒を排除するという名分
で諸将を結集して伊勢氏を攻撃していたのである。氏綱には上杉家に対抗できる地位を得る必要を感じたのだ。      
 鎌倉公方を補佐するために置かれた関東管領の職にある上杉家に対抗するために氏綱が選択したのは、かつて鎌倉幕府にお
いて関東管領と同様に将軍を補佐する執権の職を世襲していた北条氏を称することだった。伊勢氏も北条氏も同じ伊勢平氏の
流れを汲む同族だが、両者に直接的な血の繋がりがないのは関東の諸将にもわかりきっていたことだ。ところが、それ以降北
条氏に鞍替えする諸将が出始めたのである。氏綱の伊勢から北条への改姓は、かねてから伊勢氏に加担したがっていた諸将に
とっても格好の大義名分となったようだ。こうして再び関東の地に蘇った北条氏はやがて関東管領家を打倒し、古河公方家を
傀儡とすることで関東の主に返り咲いたのである。                                 
 最後の斎藤道三は前の名字を長井としていた。長井氏は美濃守護代・斎藤氏の家宰を務める家柄だが、道三とはまったく関
係ない。道三の父は京都でお坊さんをやっていたが、西村という名字を名乗って美濃に行き、長井氏の家臣となった。彼は優
秀な人物だったらしい。他国の浪人者であるにも関らず主君の名字を拝領して長井新左衛門尉を名乗っている。道三はその父
の後を継いで長井新九郎規秀として主君に仕えた。だが、天文2年から4年までの間に彼は長井氏からその主君である斎藤氏
に名字を変えている。斎藤新九郎利政、それが当時の道三の名前だが、彼がどのようにして直接の主君のそれまた主君の名字
を名乗れたか、当時の美濃は混乱状態で詳細はわからない。彼の上には長井長弘と斎藤利茂がいたはずだったが、彼らはいつ
の間にか消えており、利政が美濃守護・土岐氏のすぐ下に位置するようになっていたのである。そして、入道して道三と号し
た彼は守護である土岐氏をも追放して美濃一国を簒奪するに至る。                          
 このように名字を変えることは家の格を高めるということである。そして、相手が名字を変えたのを認めるということは、
相手をその名字を名乗るのを認めるということだ。だから、上杉謙信は北条氏を伊勢と呼称していたし、逆に北条も謙信を長
尾と前の名字で呼称し続けていた。                                        
 
 
 武士の名前には二つある。信長や家康といった諱(いみな)という実名と、新九郎や三郎といった仮名(けみょう)という
通称だ。なぜ二つあるかと言うと、相手を諱で呼ぶのは大変失礼なこととされており、親や主にしか呼ばれなかった。例えば
大岡越前は越前と呼ばれているが、主君の上様には忠相と呼ばれている。さらに、わかりやすく言えば、前田慶次は皆から慶
次と呼ばれているが、フルネームは前田慶次郎利益(漫画。他に利定・利太などが伝わる)で慶次は仮名の慶次郎を縮めたも
のである。漫画で慶次は利益という諱で呼ばれたことはほとんどなく、実父や養父からも慶次と呼ばれていた。      
 前田慶次の例は彼が無位無官だったから仮名で呼ばれたのであって、官位がある人には官位名で呼ばれた。例えば先の大岡
越前もそうだし、遠山の金さんもお白洲では北町奉行遠山左衛門尉様御出座と呼ばれてから登場している。金さんの諱は景元
で仮名は金四郎で左衛門尉というのが官位名となる。水戸黄門みたいに家臣が水戸光圀公というのは間違いである。水戸でな
く徳川、光圀でなく官位名の権中納言と呼称するのが正しい。尚、源氏や平氏、藤原氏といった名門には朝臣というその昔天
武天皇が制定した八色の姓(やくさのかばね)の二番目に位が高い姓を持っている。                  
 仮名は息子が父と同じ仮名を使うこともあるらしいが、諱は絶対に父と同じものは使わなかった。これは欧米とは違う習慣
である。欧米では例えば親子で米大統領となったブッシュのように親父と息子で名前が同じになることがあるが、日本ではそ
ういった例はない。日本の足利将軍家は16代15人の将軍がいたが、誰一人も先祖と同じ名前の者はいない。一方、イギリ
ス王室はジェームズ2世国王からエリザベス2世女王までの15代にジョージという名の王は6人、ウィリアムという名前は
二人、エドワードという名前が二人と15人中10人が同じ名前である。さらに残り5人のうち3人がそれ以前のイギリス国
王と名前が同じ者がいて、名前が重ならないのはアンとヴィクトリアの二人の女王だけである。日本にも例外があって伊達政
宗は先祖の名をもらっているが、政宗は父から名づけられたときに恐れ多いと辞退しようとしている。他には嫡流ではないが
吉川元春も先祖の毛利元春から名をもらっているし、織田信長の息子の信秀は祖父と名前が同じである。野比のび太の息子の
ノビスケも祖父と名前が一緒だ。                                         
 それはさておき、武士の名前にはある法則があった。通字という先祖から受け継がれる一字だ。例えば織田信長の父も祖父
も息子も孫も信の字が名前にある。織田家の通字は信の字ということになる。他に信が通字の大名家は甲斐の武田氏などがあ
る。中には通字を受け継がない人もいるし、そもそも通字がない家もある。武士の名はこの通字と他の一字で構成される例が
多いのだ。                                                   
 では、そのもう一つの一字はどのように決められるのか。通じでない方の字は偏諱(へんき)といって、忌み避けられる字
なのだが、この偏諱を功績のあった家臣に褒賞として与えることが鎌倉時代から多く見られるようになった。例えば武田信玄
の出家前の名前は晴信で、信は先述したように武田家の通字、晴の字が将軍・足利義晴の一字を拝領したものである。これを
偏諱を賜うという。義晴の偏諱を賜った武将には他に尼子晴久や細川晴元らがいるが、駿河の今川義元も義晴の偏諱を賜った
一人である。どこに晴の字があるんだ?と思われるだろうが、義元は義晴の義の字を拝領しているのだ。この場合、晴よりも
義の方が上の位置づけで同じ人物から偏諱を賜った者同士でも、晴信と義元では幕府からの評価が異なるということだ。  
 さて、その義元も家臣に自分の名を与えたりしている。後に徳川家康となる松平元信もその一人だ。元信は元康と改名する
が、これは祖父で三河を統一する勢いを見せた清康にあやかったものだ。つまり、今川家の後ろ盾に三河を統べるという意味
を込めての改名ではないだろうか。その後、義元が戦死して今川家と手を切ると、元康は家康と改名する。これは元の字を捨
てることで、今川家とは縁が切れたということと八幡太郎義家の一字を拝領して自らの血統を源氏であることの意思表示だ。
 上の者が下の者に自分の諱の一字を下賜する場合、通字とそれ以外の字で相手に対する扱いが違うのは先述のとおりだが、
そのいずれの字においても必ず一番最初に持ってこられる。具体的に言うと、偏諱を賜った戦国武将例えば伊達輝宗、上杉輝
虎、朝倉義景、毛利輝元、尼子義久、武田義信などは諱の最初の字が与えられた偏諱である。戦国武将の中には諱の頭文字に
通字がある家もあるので、その場合は通字は二番目に移動する。例を挙げれば、武田氏の通字の信は武田信虎や信勝のように
諱の頭文字に付けられるが、偏諱を賜った晴信と義信は二番目に付けられているのがわかると思う。           
 
 偏諱を賜るという行為はお互いの関係を強化するためだが、中には自分の名字や姓を下賜する人もいた。豊臣秀吉である。
農民出身の秀吉には藩屏となるべき一族が圧倒的に少ない。そこで有力な外様の大名に豊臣や羽柴姓を与えることで擬似的な
一門を形成しようとしたのであるが、彼等が藩屏たる役目を果たしたか否かは言うまでもない。徳川家康も前の名字である松
平姓を与えたりしているが、本姓である豊臣を与えている秀吉に対し、既に徳川の家臣的扱いになっている松平姓を与えてい
る家康とでは外様に対する接し方が違うのがわかる。                                                                
 
 
 
 
 
 
   【世間の評価は正しいか】                                         
 現在の我々は様々な情報源から政治・芸能・スポーツといった多種多様な情報を得ている。しかし、それらが皆正しい情報
であるか自信をもって判断できるだろうか。真実を伝えているかもしれないし、まったくのデマカセかもしれない。それを最
終的に判断するのは我々個人がそれを信じるか否かしかない。                           
 ようするに世間の評判や評価は必ずしも真実であったり正しかったりとは言えないってことだ。歴史にもそういうのがあっ
て、例えば今川義元は桶狭間で討たれたことで太って馬に乗れないから輿で移動したとか、顔を白く塗ってお歯黒をつけたり
してまるで軟弱な公家みたいだったとか、ダメ武将の典型的な例にされてしまっている。実際の義元は三河や尾張にまで勢力
を伸ばして、武田・北条と互角にわたりあえる領国を築き上げた名将で、軍事面だけでなく、行政面でも経済面でも優れた手
腕を発揮した人物である。戦で劣勢な敵に負けたとの一点だけですべてを判断するのは、その人に対する評価も鈍らせてしま
うので好ましくない。                                              
 
 なんでそんなことを言うのかというと、一つ疑問に思っていたことがあったからだ。それは武田勝頼が隣国越後の家督争い
で同盟者・北条氏政の弟で自身の義弟でもある上杉景虎に味方すべきところを、対抗馬の上杉景勝と和睦して撤兵したために
景虎が死んで怒った氏政が武田との同盟を解消して敵対関係になったという件である。確かにそれによって武田家は織田・徳
川・北条に包囲されたことで滅亡を早めており、勝頼の外交上の失策とされている。勝頼が景勝との和睦に応じたのは、景勝
側から破格の条件が提示されたからだ。その条件とは勝頼への献金、信州と上野の上杉領の割譲、勝頼の妹の景勝への輿入れ
の3つである。当時の武田家は度重なる軍事行動で金銭が逼迫している状態だった。景勝が勝頼にいくら贈ったかははっきり
しないが、春日山城に蓄えられていた謙信の遺産は莫大なものであったのでかなりの金額であったと思われる。次の領土の割
譲は信州の上杉領が割譲されれば、先々代からの事業であった信濃征服が完結したことになるし、上野の上杉領が割譲された
ら同国の大半は武田家のものとなる。そして、勝頼妹と景勝の婚姻は景勝が勝頼の義理の弟になることを意味しており、両者
の位置関係は勝頼が上で景勝が下ということになる。一般では、この破格の条件に目がくらんで景勝と手を結んだと勝頼を批
判する意見が多いが、一つ重要な見落としをしてはいないだろうか。勝頼よりも景虎を支援すべき義務があるはずの北条家は
なにをしていたのか。勝頼は徳川家との戦いが激化している状況でも越後に出兵しているのである。景虎の実家である北条家
はそれ以上に景虎を支援すべきであろう。しかしながら北条氏政は武田や会津の芦名氏に出兵を依頼しながらも自らは動こう
としなかったのである。こうした氏政の態度に勝頼は疑念を抱いた。                         
 ちょっとここで当時の状況を説明する。越後の上杉謙信には実子がなく、他家から養子をもらっていた。その中で有力な後
継者候補となったのが謙信の甥である景勝と北条氏康の息子である景虎である。謙信と氏康は関東の覇権をめぐって火花を散
らした間柄だが、一時的に同盟を結んだことがあった。その時に人質として越後に来たのが景虎だった。そして、北条との同
盟が破棄されて再び敵対関係になっても謙信は景虎を大事にして養子としたのである。一方の景勝は母が謙信の姉という血筋
では景虎に勝っているが、彼の父は謙信が越後の国主になったときに最後まで抵抗した人物であり、その時のしこりが以降も
続いていた。特に謙信の側近である古志長尾家と景勝の実家の上田長尾家はかねてから仲が悪く、景勝が謙信の後継となるこ
とは古志長尾家にとっては許容できるものではなかった。それに対して景虎は謙信の初名をあたえられたり、謙信の代わりに
書状を発したりなどまるで謙信の後継者みたいな待遇だった。また、景虎が越後に来た直後から春日山城に屋敷を与えれてい
るのに対し、景勝は養子になってからもしばらくは実家の坂戸城に留め置かれていたことからわかるように二人の待遇には差
があった。ちなみに景虎の妻は景勝の姉で、二人は義理の兄弟となる。謙信としては兄である景虎が家督を継ぎ、弟の景勝が
それを支えるという体制を考えていたのだろうが、越後出身で謙信の甥であるという自負がある景勝にしたら他国者の景虎が
越後の国主になることはプライドが許さなかったのだろう。彼はクーデターに打って出た。               
 天正6年3月9日、上杉謙信は春日山城で倒れ意識が戻らぬまま13日に死去した。死因は脳卒中だという。文字通りの急
死で、事後の指示はおろか後継を誰にするか明言することがないまま死んだことで家中に動揺が走り、家督を誰に継がせるか
で論争となり柿崎晴家が14日に殺害される事件が起きた。この混乱を最大限に利用した景勝とその一派はクーデターを起こ
して春日山の実城(本丸)を武力で制圧した。景虎が謙信の後継者であるという既成事実が作られつつある状況で、謙信がも
のを言えぬ状態で倒れたことは景勝にとって唯一にして最後のチャンスだった。焼香の煙も消えぬうちからの景勝派の軍事行
動はそれだけ彼らが焦っていたということである。景勝には越後出身の自分が立てば一族・家臣はことごとく自分につくとい
う計算があったが、予想に反して景虎につく武将が相次いだ。その背景には謙信時代にも解消しなかった上杉家の内部対立が
あった。こうして上杉家の家督争いは上杉家領国を二分した大規模な内戦へと発展した。                
 機先を制されて実城を占拠された景虎は諸将に書状を発すると同時に、実家の北条家にも救援を求める書状を送った。これ
を受けて兄の北条氏政は武田と芦名に出兵を要請して、了承した武田勝頼が従兄弟の武田信豊を先発として越後に向かわせた
が、景勝からの和睦の打診を受けてそれに同意したことは先に述べた。『甲陽軍鑑』には勝頼側近の跡部勝資と長坂長閑が景
勝から賄賂を受け取って和睦・同盟の斡旋をしたと記されているが、それはまったくの事実無根で6月8日に景勝が景虎方の
武将に送った書状に「武田信豊と高坂弾正のとりなしで武田がこちら側についた」とあるように、実際に取り次いでいたのは
武田信豊である。『甲陽軍鑑』は最後まで武田に忠誠を尽くした有能な武将の跡部と長坂をあたかも奸臣であるかのように記
すなど史料的には信憑性が低いと言わざるを得ない。ちなみに高坂弾正は景勝の書状の一月前の5月7日に死去している。 
 さて、信豊から知らせを受けた勝頼は川中島の海津城に入って信豊と景勝との同盟について協議した。そして、出した結論
が景勝との同盟締結だった。武田家にしたら景勝だろうと景虎だろうと上杉との敵対関係が解消されたらそれで良かったのだ
が、景勝と結べば景虎の実家である北条家との関係が悪化するというリスクがあった。それでもなお景勝と手を結んだのは、
景勝が提示した条件が武田にとって魅力的だったうえに意地悪な言い方をすればやはり金に目が眩んだと言えなくもない。 
 無論、それだけで北条と断交しかねないリスクがある事をする程勝頼は愚かではない。前述したように内乱勃発から3ヶ月
が経過しようとしているのに未だに越後に兵を出していない北条氏政に勝頼が疑念を抱いたのも大きかった。このまま武田だ
けで景虎を支援して春日山城を攻撃したら武田だけが損害を出すことになる。しかも、それに対する見返りは無い。それどこ
ろか、景虎は勝頼に信濃の上杉領の返還を求めたという。もし、それが事実ならば武田にとって景虎に味方することはプラス
よりもマイナスな面が大きいということになる。それならば景勝と結んだ方が得策だ。もちろん、義兄弟の景虎を見捨てるこ
とはしない。景勝と景虎が和睦した形で内紛を治めたら北条に対する言い訳も立つ。北条にしても景虎が上杉家の当主になる
ことに何の関心もなかった。ただ、上杉家との緊張関係が解消されたらそれでよかった。その点において武田と北条の利害は
一致していた。                                                 
 だが、景虎と景勝にしたら中途半端な和睦など受け入れるわけにはいかなかった。越後出身の景勝には他に行く場所が無い
し、景虎にしても実家の相模に戻ったところで重用されることはないだろう。上杉家の当主か北条家の家臣的地位かの選択肢
で景虎がどっちを選ぶかは言うまでもない。そして、どちらかが当主になったら片方が政権の中枢に加えられるかといえば答
えはノーである。非主流派として政権中枢から排除されるか粛清されるかだ。勝つか負けるかしかない。そのために勝頼の斡
旋で8月に和睦が成立してもすぐに破談となり、勝頼はさじを投げて兵を退いてしまった。               
 双方が和睦を破棄したのはお互いに自分が優勢だと判断していたからでもある。景勝は最大の脅威であった武田軍を丸めこ
むことに成功していたし、景虎には実家の北条氏という最大の支援勢力があった(この段階で景虎は景勝と勝頼の同盟を信じ
ていなかったから、武田軍も数のうちに入っていた)。その北条氏は8月になっても動こうとしなかった。元々、景虎は越相
(上杉・北条)同盟締結の際に人質として越後に送られた人である。氏秀という人と同一人物とされていたが、近年では別人
とされている。その後、同盟は破棄されて人質の景虎は実家に送り返されるか、最悪の場合殺されてしまうかが予想されてい
た。それを承知で氏政は上杉と手を切ったのだ。すなわち、氏政にとって景虎はそんなに大事な弟ではなかったことになる。
確かに景虎が上杉家を継げば北条家の勢力範囲は一挙に越中にまで拡大することになる(ただ、そうなれば織田信長との衝突
は必至となるが)。しかし、北条家の戦略目標はあくまでも関東の制圧であり、越後の支配などさほど重要ではなかった。た
だで手に入るならそれでよし。兵の血を代償にしてまで手に入れようとは考えていなかった。              
 その氏政も何度も送られてくる弟からの救援要請に情を動かされたのか、それとも他の弟たちや家臣からの意見があったの
か8月も末になってようやく越後に向けて兵を出した。氏政の弟の氏照と氏邦に率いられた15,000の軍勢であるが、氏
政自身は出陣していない。20,000の軍勢を率いて当主自らが出陣した武田軍(それも徳川と交戦中に)と比較して、何
か物足りない気もするが。もしこれがすぐに実施されていたら勝頼の裏切りもなかったであろうし、上杉家の内紛は間違いな
く景虎の勝利に終わっていた。これは氏政のこの内戦における最大のミスだが、このミスによる北条家が受けた痛手ははっき
りいって皆無だ。そこのところに氏政と景虎の思惑の相違と景虎の不運があった。しかも、援軍の北条勢は10月になると降
雪の季節に大軍が越後で越冬するのは無理として関東に帰還してしまった。ここに景虎の命運は潰えた。雪解けの季節になっ
たら再び北条勢が進出してくるかもしれなかったが、それまで景勝が待っているはずがなかった。北条の援軍が来る前に決着
をつけようと景勝は翌年の2月1日から総攻撃に打って出た。まず、景虎が拠点としていた御館にいた唯一の勇将である北条
景広が狙われた。景広は深手を負って翌日に死亡した。                               
 景広の死で御館の景虎方の結束は崩壊し、兵の脱走が相次いだ。2月中旬には越後における北条氏の拠点だった樺沢城が景
勝方に奪回されて最後の望みだった北条氏の救援も絶たれた。事態の急変に景虎に味方していた武将は次々と景勝に寝返り、
御館は完全に孤立した。敗北を悟った景虎は御館を脱出して信濃に向かったが、途中に寄った鮫ヶ尾城の堀江宗親の裏切りで
3月24日に自刃して果てた。                                          
 さて、弟を見殺しにした氏政はやはりバツが悪かったのか勝頼を逆恨みにして武田との同盟を解消してしまった。だが、景
勝との和睦の条件のうち東上野の上杉領の割譲を北条と調整できてさえいれば同盟の復活は無理でも友好関係の回復ぐらいは
期待できた。ところが、勝頼は上野に出兵して上杉領を次々に制圧するとあろうことか北条に対して戦端を開いた。これが、
勝頼の最大のミスだった。北条との戦いは優勢に事を進めていた勝頼だったが、追い詰められた氏政は織田信長と同盟を結ぶ
手段に出た。実は勝頼も信長との和睦を企てていたが、氏政の方が一歩早かった。もっとも、氏政が出遅れたとしても信長が
勝頼との和睦に応じたとは思えないが。                                      
 北条と織田・徳川の同盟成立で武田家の命運は尽きた。徳川と北条の挟撃により勝頼はそれまで死守していた遠江高天神城
を徳川家康によって陥落させられた。勝頼が伊豆に出兵した隙を突かれての落城だった。これも北条を敵に回しての失策で、
勝頼の評価を低くする一因になっている。だが、それ以前に勝頼が高天神城にこだわったことがそもそもの失敗である。高天
神城には父・信玄が落とせなかった城を自分が落としたという勝頼個人の武勇を示す以上の価値はなかった。確かに要衝では
あったが、絶対的なものではない。事実、高天神城が武田の手にあった時にも徳川勢は駿河に侵攻している。つまり、高天神
城には駿河への敵の侵入を阻止する能力がなかったということだ。では遠江侵攻の拠点になるかといえば掛川城とセットでな
ければその機能は発揮できない。東海道を制する役割が期待できるといえば、その役割は諏訪原城の方が期待できる。   
 以上の点により、勝頼は高天神城よりも掛川城を先に陥とすべきだったし、長篠の戦いで敗北したあとは城を手放すべきだ
った。しかし、勝頼は高天神城が敵中に突出した状態になっても、これを維持しようとしてただでさえ疲弊していた国力をさ
らにしかも無駄に消耗してしまったのだ。そして、徳川と北条の二正面作戦を強いられた勝頼はついに高天神城を放棄する決
断を下した。ようやくにして勝頼は戦略的に正しい判断を下したのだが、その決断はあまりにも遅すぎた。勝頼がこだわった
がために高天神城には実態以上の戦略的価値が発生してしまっていた。勝頼が自分の武勇を示すために維持しようとした城は
武田が絶対に守らなければならない城となってしまい、その失陥は武田の武威を失墜しかねないほどの重要な意味を持つよう
になった。すなわち、高天神城を維持できていれば勝頼と武田家はまだ武威を示すことができるが、城が落ちれば勝頼と武田
家の武威は失墜してしまうのである。事実、高天神城が陥落したことにより家臣団の心は勝頼から離れた。高天神城を守れな
かった勝頼は己の武勇の象徴だけでなく家臣たちの信頼までをも失ってしまったのだ。そして、織田勢の最終攻勢が発動され
ると戦国最強とうたわれた武田軍団は1ヶ月で崩壊し、家臣や一族から見離された勝頼はわずかばかりの一族郎党とともに天
目山で生涯を自分の手で閉じた。                                         
 話が脱線してしまったが、要するにただ単純に勝頼が景勝と和睦して撤退したことを批判するのはどうかと言いたいわけで
すよ。勝頼や信豊の立場になって考えたら、そのまま景虎を支援して景勝と戦うべきかどうか。もし、上杉家の当主が景虎に
なったら、武田と北条のパワーバランスは大きく崩れ武田家は織徳同盟の徳川家みたいな立場に立たされることになりかねな
い。しかし、景勝を上杉家の当主にして、上野の上杉領を北条と調整して、そのうえで三者間に相互不可侵条約的なものを結
ぶことができれば、勝頼は高天神城の維持に専念でき天正10年の本能寺の変まで命脈を保つことができたかもしれない。そ
れは決して実現不可能なことではなかったはずだ。弟が殺されたとしても上杉家の脅威がなくなって領土も獲得できるとなれ
ば氏政にそれを拒否する理由はない。しかし、勝頼は北条と戦う道を選び自ら墓穴を掘ってしまった。その判断の背景には氏
政への不信感があったのかもしれない。最後に北条氏政は「表裏の仁」と評されていたことを付記しておく。       
 
 
 
 
 
   【おまけ】                                                
 時期別の天皇・将軍・摂政・関白・管領・主要な戦国武将家の当主                         
 
応仁の乱終結直後(文明10年=1478年)
 10年に及ぶ応仁の大乱で京の都は灰燼と帰した。乱の影響はそれだけではない。対戦相手の国許を撹乱するために
調略合戦を繰り広げた結果、各地に戦乱が飛び火してしまった。                        
 
天皇      後土御門天皇
関白      九条政基  
将軍      足利義尚  
管領      畠山政長  
古河公方    足利成氏  
堀越公方    足利政知  
関東管領    上杉顕定  
伊達家当主   伊達成宗  
最上家当主   最上義淳  
扇谷上杉家当主 上杉定正  
長尾家当主   長尾重景  
今川家当主(代)小鹿範満  
武田家当主   武田信昌  
松平家当主   松平信光  
朝倉家当主   朝倉孝景  
織田家当主   織田良信? 
六角家当主   六角政頼? 
三好家当主   三好長之? 
尼子家当主   尼子経久  
宇喜多家当主  宇喜多久家 
毛利家当主   毛利弘元  
大内家当主   大内政弘  
長宗我部家当主 長宗我部雄親
        長宗我部兼序
大友家当主   大友政親  
島津家当主   島津忠昌  
 
 
 
 
明応の政変勃発時(明応2年=1493年)
 応仁の乱終結後、将軍の足利義尚・義材は近江六角氏征伐で将軍権力の回復を企図したが、細川政元のクーデターで
すべての実権を奪われてしまう。将軍ですら下剋上の対象となってしまうことを示したこの事件をもって戦国時代の幕
開けとする説もある。                                           
 
天皇      後土御門天皇
関白      一条冬良  
将軍      足利義材  
古河公方    足利成氏  
堀越公方    足利茶々丸 
関東管領    上杉顕定  
伊達家当主   伊達尚宗  
最上家当主   最上義淳  
扇谷上杉家当主 上杉定正  
長尾家当主   長尾能景  
今川家当主   今川氏親  
武田家当主   武田信縄  
松平家当主   松平親忠  
朝倉家当主   朝倉貞景  
織田家当主   織田良信or
          信定  
六角家当主   六角高頼  
三好家当主   三好長之? 
尼子家当主   尼子経久  
宇喜多家当主  宇喜多久家 
毛利家当主   毛利弘元  
大内家当主   大内政弘  
長宗我部家当主 長宗我部兼序
大友家当主   大友義右  
島津家当主   島津忠昌  
 
 
 
 
細川政元暗殺時(永正4年=1507年)
 将軍を傀儡とすることで天下人となった細川政元だったが、妻帯しなかったことで実子がおらず、養子を3人もとってい
た。そのため家督をめぐる対立で政元は暗殺され、それまで家督争いには無縁だった細川家にも内紛が勃発してしまった。
 
天皇      後柏原天皇 
関白      九条尚経  
将軍      足利義澄  
管領      細川政元  
古河公方    足利政氏  
関東管領    上杉顕定  
伊達家当主   伊達尚宗  
最上家当主   最上義定  
扇谷上杉家当主 上杉朝良  
長尾家当主   長尾為景  
今川家当主   今川氏親  
武田家当主   武田信縄  
        武田信虎  
松平家当主   松平信忠  
朝倉家当主   朝倉貞景  
織田家当主   織田良信or
          信定  
六角家当主   六角氏綱  
三好家当主   三好長之or
        三好之長  
尼子家当主   尼子経久  
宇喜多家当主  宇喜多能家 
毛利家当主   毛利興元  
大内家当主   大内義興  
長宗我部家当主 長宗我部兼序
大友家当主   大友義長  
島津家当主   島津忠昌  
 
 
 
 
三好政権成立時(天文18年=1549年)
 細川高国を自刃に追い込んで、細川家の内紛を終結させた晴元だったが、長期にわたる内紛は細川家を弱体化させる結果
となった。それによって晴元の天下も長続きせず細川氏綱を擁立した家臣の三好長慶の下剋上によって政権を追われた。新
しい管領には氏綱が就任するが実権は長慶に握られ完全な傀儡だった。しかし、実権を握っても管領家や将軍家の権威なく
しては政権が成り立たないのが三好長慶の泣き所であった。なお、この頃から後世に名の知られた武将がちらほらと登場し
てきている。                                                 
 
天皇      後奈良天皇 
関白      二条晴良  
将軍      足利義輝  
管領      細川晴元  
古河公方    足利晴氏  
関東管領    上杉憲政  
伊達家当主   伊達晴宗  
最上家当主   最上義守  
北条家当主   北条氏康  
長尾家当主   長尾景虎  
今川家当主   今川義元  
武田家当主   武田晴信  
松平家当主   松平広忠  
朝倉家当主   朝倉延景  
織田家当主   織田信秀  
六角家当主   六角定頼  
三好家当主   三好長慶  
尼子家当主   尼子晴久  
宇喜多家当主  宇喜多直家 
毛利家当主   毛利元就  
大内家当主   大内義隆  
長宗我部家当主 長宗我部国親
大友家当主   大友義鑑  
島津家当主   島津貴久  
 
 
 
織田信長上洛時(永禄11年=1568年)
 天下の実権を掌握した三好氏だったが、長慶の死後は求心力を失っていった。将軍・足利義輝の襲殺には成功したものの、
長慶死後の権力をめぐって内紛が勃発してしまう。またもや生じた政治の空白。それを埋めたのは三好氏でも将軍家でもなか
った。永禄11年、殺害された将軍・義輝の実弟・義昭を擁立して一人の男が京の都に足を踏み入れる。この男の登場により
戦乱の世は新たなる展開を迎えるのだった。                                    
 
天皇      正親町天皇 
関白      近衛前久  
        二条晴良  
将軍      足利義栄  
        足利義昭  
古河公方    足利義氏  
関東管領    上杉輝虎  
伊達家当主   伊達輝宗  
最上家当主   最上義守  
北条家当主   北条氏政  
今川家当主   今川氏真  
武田家当主   武田信玄  
徳川家当主   徳川家康  
朝倉家当主   朝倉義景  
織田家当主   織田信長  
六角家当主   六角義定  
三好家当主   三好義継  
尼子家当主   尼子義久  
宇喜多家当主  宇喜多直家 
毛利家当主   毛利輝元  
長宗我部家当主 長宗我部元親
大友家当主   大友宗麟  
島津家当主   島津義久  
 
 
 
 
足利義昭追放時(天正元年=1573年)
 足利義昭は織田信長によって将軍となることができた。彼は書面に信長を父と記すなど、恩人に対する深い感謝の意を持って
いた。だが、二人の蜜月は長くは続かなかった。自分を傀儡としようとする信長に反発した義昭は諸国の大名に呼びかけて、信
長包囲網を形成する。だが、朝廷を利用した信長の勅許戦術や包囲網に参加した大名たちの足並みの乱れなど、状況は思うよう
に進まず、ついには自ら挙兵するもすぐに降伏して京都から追放されてしまった。それ自体は別に珍しくもない。しかし、この
時点をもって足利幕府はおよそ240年の歴史に幕を下ろし、時代は安土桃山時代へと変わった。             
 
天皇      正親町天皇 
関白      二条晴良  
将軍      足利義昭  
古河公方    足利義氏  
関東管領    上杉謙信  
伊達家当主   伊達輝宗  
最上家当主   最上義光  
北条家当主   北条氏政  
今川家当主   今川氏真  
武田家当主   武田信玄  
        武田勝頼  
徳川家当主   徳川家康  
朝倉家当主   朝倉義景  
織田家当主   織田信長  
六角家当主   六角義定  
三好家当主   三好義継  
尼子家当主   尼子義久  
宇喜多家当主  宇喜多直家 
毛利家当主   毛利輝元  
長宗我部家当主 長宗我部元親
大友家当主   大友宗麟  
島津家当主   島津義久  
 
 
 
 
本能寺の変勃発時(天正10年=1582年)
 この年、織田信長は仇敵の武田氏を滅ぼし、領土を関東にまで拡大させた。さらに上杉・毛利・長宗我部といった敵対勢力も
年内に滅亡あるいは屈伏させられる見込みで文字通り天下統一は目前となっていた。だが、思わぬところで信長は足もとをすく
われてしまう。もっとも高く評価していた家臣の惟任光秀に寝込みを襲われたのだ。天下を目前とした男の突然の死。この事件
は日本の戦国乱世をさらに長引かせることとなり、真にこの国が平和を謳歌できるようになったのは、事件から30年以上もあ
とのことだった。                                                 
 
天皇      正親町天皇 
関白      一条内基  
将軍      足利義昭  
古河公方    足利義氏  
伊達家当主   伊達輝宗  
最上家当主   最上義光  
北条家当主   北条氏直  
長尾上杉家当主 上杉景勝  
今川家当主   今川氏真  
武田家当主   武田勝頼  
        武田信勝? 
        武田信治  
徳川家当主   徳川家康  
織田家当主   織田信忠  
        織田三法師 
尼子家当主   尼子義久  
宇喜多家当主  宇喜多秀家 
毛利家当主   毛利輝元  
長宗我部家当主 長宗我部元親
大友家当主   大友義統  
島津家当主   島津義久  
 
 
 
 
 
 
 戦国期の年代表と主要国の君主
 
   日本    中国      西洋    天皇  中国皇帝    ローマ教皇    神聖ローマ皇帝  イングランド王 フランス王    

 長享元年   成化23年   1487年   後土御門   憲宗   インノケンティウス8世   フリードリヒ3世   ヘンリー7世   シャルル8世 
 延徳元年   弘治 2年   1489年   後土御門   孝宗   インノケンティウス8世   フリードリヒ3世   ヘンリー7世   シャルル8世 
 明応元年   弘治 5年   1492年   後土御門   孝宗   インノケンティウス8世   フリードリヒ3世   ヘンリー7世   シャルル8世 
                                 アレクサンデル6世                                              
 文亀元年   弘治14年   1501年   後柏原    孝宗   アレクサンデル6世     マクシミリアン1世    ヘンリー7世   ルイ12世     
 永正元年   弘治17年   1504年   後柏原    孝宗   ユリウス2世        マクシミリアン1世    ヘンリー7世   ルイ12世     
 大永元年   正徳16年   1521年   後柏原    武宗   レオ10世          カール5世            ヘンリー8世      フランソワ1世
 享禄元年   嘉靖 7年   1528年   後奈良    世宗   クレメンス7世       カール5世            ヘンリー8世      フランソワ1世
 天文元年   嘉靖11年   1532年   後奈良    世宗   クレメンス7世       カール5世            ヘンリー8世      フランソワ1世
 弘治元年   嘉靖34年   1555年   後奈良    世宗   ユリウス3世        カール5世            メアリー1世      アンリ2世    
                                 マルケルス2世                                                
                                 パウルス4世                                                 
 永禄元年   嘉靖37年   1558年   正親町    世宗   パウルス4世        フェルディナント1世  メアリー1世      アンリ2世    
                                                                                                                エリザベス1世              
 元亀元年   隆慶 4年   1570年   正親町    穆宗   ピウス5世         マクシミリアン2世    エリザベス1世    シャルル9世  
 天正元年   万暦元年   1573年   正親町    神宗   グレゴリウス13世      マクシミリアン2世    エリザベス1世    シャルル9世  
 文禄元年   万暦20年   1592年   後陽成    神宗   クレメンス8世       ルドルフ2世          エリザベス1世    アンリ4世    
 慶長元年   万暦24年   1596年   後陽成    神宗   クレメンス8世       ルドルフ2世          エリザベス1世    アンリ4世    

※中国は当時は明王朝
 
※フランスはアンリ4世からブルボン朝となる
 
 
 
 
 慶長3年ごろの全国の石高(単位は万石)
陸奥 167.3
出羽  31.8
常陸  54.0
上野  49.6
下野  37.4
上総  37.9
下総  39.3
安房  43.5
武蔵  66.7
相模  19.4
伊豆   7.0
甲斐  22.8
信濃  40.8
飛騨   3.8
駿河  15.0
遠江  25.5
三河  29.0
尾張  57.2
美濃  54.0
伊勢  56.7
志摩   1.8
佐渡   1.7
越前  49.9
越中  38.3
越後  39.1
能登  21.0
加賀  35.6
若狭   8.5
近江  77.5
伊賀  10.0
山城  22.5
大和  44.9
紀伊  24.4
摂津  35.6
河内  24.2
和泉  14.1
丹波  26.4
丹後  11.1
但馬  11.4
播磨  35.9
因幡   8.9
美作  18.6
備前  22.4
備中  17.7
備後  18.6
伯耆  11.0
出雲  18.7
石見  11.2
安芸  19.4
周防  16.8
長門  13.1
隠岐   0.5
阿波  18.4
讃岐  12.6
伊予  36.6
土佐   9.9
淡路   6.2
豊前  14.0
豊後  41.8
筑前  33.6
筑後  26.6
肥前  31.0
肥後  34.1
日向  12.0
大隅  17.5
薩摩  28.3
壱岐   ?  
対馬   ?  
 
 
 
 
 
 
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