シリーズ 武田軍団崩壊への軌跡・序章
武田信玄の征上作戦
元亀3年10月、武田信玄は上洛のため甲府を出陣した。越後の上杉輝虎との泥沼の戦いに引きず
り込まれていた信玄の目にちらついた上洛という野望。だが、彼がその野望を実現するには数多くの
障害があった。
【信玄の駿河進攻と武田包囲網】
【信玄の関東侵攻作戦】
【信玄の第1次徳川領侵攻作戦】
【武田信玄、最後の遠征】
【信玄の駿河進攻と武田包囲網】
信玄が上洛を意識し始めたのは永禄11年の秋だとされている。9月26日に織田信長が足利義昭
を奉じて上洛を果たしたのが原因である。信長の成功に焦りを感じた信玄は以前から進めていた駿河
侵攻作戦を実行に移すことを決意した。駿河の戦国大名今川氏は永禄3年の桶狭間合戦で前当主の義
元が討死して以来、衰退の一途を辿り徳川家康の三河平定にも何の介入もしないという有様であった。
武田軍は12月3日に駿河に攻め込み、わずか半月足らずで今川氏の本拠である駿府を制圧した。
幸先いいスタートを切ったと誰もがおもった矢先、信玄を仰天させる知らせが飛び込んできた。相模
の戦国大名北条氏康(すでに隠居して家督を息子の氏政に譲っていたが実権は掌握していた)の軍勢
が武田軍の退路を遮断するかのように出現したのだ。
武田・北条・今川の三家は元々は同盟関係にあった。しかし、永禄8年に甲尾同盟が成立すると今
川氏真はこれを三国同盟への重大な背信行為と見なした。武田信玄が同盟を結んだ相手は事もあろう
に氏真の父義元を討った織田信長だったからである。氏真は信玄への対抗上、永禄10年12月から
上杉輝虎との同盟を模索し始めた。
氏真の行動に対して、信玄は翌永禄11年2月に徳川家康と同盟を結び駿河侵攻を決断した。今川
氏は先述したように先代の討死による混乱から家運が振るわず、家康の独立は許すわ、遠江では反乱
が相次ぐわで勢力が衰え始めていた。誰もが攻めるには好機だと思う状況である。
しかし、信玄には大きな障害があった。長男の義信である。三国間の同盟が成立したときお互い娘
を嫁に送ることで婚姻関係を結ぼうとした。義信の妻は義元の娘つまり義信と氏真は義理の兄弟にな
る。義信は舅の仇である信長との同盟にも反対したし、当然駿河侵攻にも猛反対した。父子の間は険
悪となっていき、義信は謀反を企てたとして甲府の東光寺に幽閉されてしまった(幽閉された正確な
時期は不明)。そして、永禄10年10月に義信が死んだことにより(自殺とも病死とも)駿河侵攻
の障害は取り除かれた。信玄はそう思っていた。だが、信玄は重大な見落としをしていた。なぜ、彼
がそれに気づかなかったかはわからないが、それは大きいミスであった。関東の北条氏である。
北条氏の祖である早雲庵宗瑞は元々今川氏の武将だった人である。以後、両家は一時期を除いて友
好関係にあった。しかも、氏真の妻は隠居してもなお御本城様として君臨する先代氏康の娘であり、
その氏康の妻は氏真の叔母である。信玄が自分に何の知らせもなしに今川領に侵攻したことに氏康は
激怒した。氏康は氏真を救援するため兵を駿河に送った。
武田と北条の対陣は永禄12年の正月12日から4月20日まで3ヶ月にも及び、信玄はせっかく
手中にしかけた駿河から撤収する羽目となった。ここに甲相駿の三国同盟は完全に破綻した。
信玄のミスはこれだけではなかった。彼は駿河だけではなく遠江も手に入れようと秋山信友を派遣
して、そこを侵略していた徳川勢を攻撃させたのだ。事前の協定では武田が駿河を徳川が遠江を占領
するはずであった。信玄のこの暴挙に対し、家康は信玄の宿敵輝虎と同盟を結ぶことで対応しようと
した。さらに6月9日には北条と上杉の越相同盟が成立して、信玄は周辺を敵に包囲されるという事
態に陥った。勢力拡大の好機から一転、存亡の危機に立たされることになったのだ。
並の武将ならばここでくじけるだろうが、信玄は一代で甲斐・信濃・上野・飛騨にまたがる領土を
築き上げた英傑である。彼は包囲網の穴を見抜いていたのだ。それは越相同盟の矛盾である。
鎌倉幕府の執権を意識してそれまでの伊勢氏から改姓した北条と、関東管領の家柄である上杉はお
互いの存在自体が許せない敵同士である。同盟の締結に時間がかかったのも、輝虎が氏康に上杉の旧
領である上野をはじめ、北条氏が侵略した武蔵や下野の返還を要求したからである。氏康にとってそ
れらの領土は自分と父氏綱が苦労して手にしたものである。当然、氏康は難色を示したが最終的に要
求を呑むことで同盟は成立した。
このように輝虎との同盟は北条氏にとって何の利益にもならないものである。信玄は北条氏に武田
の強さを思い知らせることで越相同盟を破綻させ、あわよくば甲相同盟を復活させようと目論んだの
だ。そのためには一度北条氏の本拠である小田原を蹂躙する必要があった。
【信玄の関東侵攻作戦】
永禄12年8月24日、武田軍2万の軍勢は甲府を出発した。今回の出陣の目的は先述したように
小田原を襲撃して武田の強さを見せつけるほかに、関東を蹂躙することで駿河に駐留している北条軍
を引き揚げさせる事である。それと、義信の廃嫡で家督継承の最上位に昇格した四郎勝頼のお披露目
という狙いもあった。
信玄は直接相模を突くのではなく、軍勢を上野まで北上させそこから武蔵を通過して相模に進攻す
る計画をたてていた。これは、永禄4年の輝虎の小田原攻めの再現を狙ったものであった。信玄は輝
虎を真似ることで氏康・氏政父子にどっちに味方すれば利があるかわからせようとしたのだ。
この上野・武蔵コースを選んだ理由はもう一つあった。いつでも上野の上杉領を侵せる位置にいる
ことで輝虎を牽制することができるのだ。関東管領である輝虎にとって上野は信濃よりも重要な存在
である。彼が武田軍の動きを無視して信濃に進攻する可能性は低かった。
信玄は小山田左兵衛尉信茂率いる郡内衆1,200を小仏峠から武蔵に侵入させ、氏康の次男氏照
麾下の滝山衆を牽制させる一方、自身は上野から南下して武蔵に侵入し9月10日に北条安房守氏邦
(氏康四男)の鉢形城を一撃してさらに南下して滝山で郡内衆と合流して滝山城を包囲した。
一撃だけですんだ(それでもかなり激しい攻撃だったが)鉢形城と打って変わって滝山城攻撃は苛
烈を極めた。攻撃部隊の大将を務める勝頼は自ら先頭に立って突入を指揮した。敵将と渡り合うぐら
いの位置で指揮を執った勝頼隊の猛攻で滝山城は二の曲輪まで攻め込まれた。この戦いで勝頼は次期
家督継承者としての武威を誇示することに成功したが、大将が先頭に立つという猪突猛進に重臣達は
危惧を抱いた。重臣の一人山県昌景は勝頼を評して「四郎(勝頼)殿は強すぎるのが欠点である。し
かも、それは大将として重大な欠点であり、結局は弱いことよりも劣るのではないか」と嘆息したと
いう。
滝山城に大打撃を与えた武田軍は二手に分かれ、小田原を目指してさらに南下した。信玄率いる本
隊はほぼまっすぐ南下するコースを辿り、山県昌景・小幡尾張守ら3,000の別働隊は東に大きく
迂回するコースを辿った。どの部隊も強力な敵拠点は無視して城下や村を略奪・放火していった。武
田勢は30日に平塚で合流したが、彼等が通過した武蔵南東部から相模東部にかけての村々は大損害
を被った。
武田勢が小田原を目指して南下しているという知らせは氏康・氏政父子以下北条家首脳を驚愕させ
た。彼等は武田との戦いを駿河に限定して考えていたからだ。しかも、輝虎が小田原に押し寄せた時
の半分に満たない武田勢に鉢形城も滝山城も翻弄され叩き伏せられたのである。
だが、氏康は武田勢の撃退に深い自信を持っていた。北条氏の御家芸といえる籠城戦略である。小
田原で敵を引き付けている間に、信玄の戦略的奇襲による混乱から回復した各支城が動いて武田勢の
退路を遮断すれば、敵勢力圏のど真ん中で孤立した武田軍は袋の鼠になるはずである。各支城の人的
被害は滝山城を除けば微々たるもので、動員の遅れを取り戻すまで小田原城を守りきることは決して
不可能ではなかった。なにしろその倍以上の輝虎の攻撃を防いだのだ。できないわけがなかった。
武田勢は10月1日、酒匂川を渡河して蓮池口で三浦衆と交戦した。それが小田原での唯一の戦闘
で、以降は北条勢の迎撃はされなかった。城攻めに疲労した武田勢を包囲して殲滅する。御家芸だけ
あって籠城戦における北条氏の方針は徹底していた。信玄もそこのところは読んでいたが、ひとつ読
み違いがあった。各支城衆が予想よりも早く動き出したのである。
10月4日、信玄は陣払いを命じた。信玄にとって小田原は最終目的地ではない。輝虎の完全なる
再現を狙う信玄の最終目的は鎌倉の鶴岡八幡宮(輝虎はここで関東管領に就任して名を景虎から政虎
に改名した)を参拝することである。
武田勢が撤退を開始したのは『北条記』によると夜の間とされている。撤退を確認した北条勢はす
ぐに追撃部隊を送ったが、殿の勝頼隊にことごとく撃退された。だが、この追撃で武田勢が大磯方面
に撤退していることが確認された。氏康は武田勢を包囲殲滅するため相模川を封鎖させた。相模川を
封鎖すれば武田勢は津久井口方面に向かうはずである。そこを封鎖部隊と小田原から出撃した主力が
合流して撃滅する。それが北条氏が立てた作戦である。そして、信玄はその予想通り軍勢を相模川西
岸沿いに北上させた。もはや、鎌倉にお参りするどころの話ではない。武田勢は包囲殲滅つまり袋叩
きにされかねない危険な状況に置かれていたが、包囲網はまだ完全ではなく脱出の可能性は残されて
いた。
武田勢は5日の日没後に中津川を渡り、三増村北方の峠付近に展開する北条勢と接触した。八王子
方面から南下した氏照・氏邦の軍勢である。だが、集結途中だった氏照・氏邦勢は武田勢を殲滅する
好機を放棄して中津川西岸の半原に後退した。三増付近には武田勢を追撃してきた部隊も迫っていた
が、信玄はこれらの敵勢を各個に撃破する作戦を立てた。ぐずぐずしていたら小田原から氏康・氏政
父子が直率する北条軍本隊が到着してしまう恐れがある。そうなれば武田勢の命運は尽きたも同然と
なる。
武田勢は北上を開始し、信玄の本陣と旗本衆、勝頼・馬場信房・浅利右馬助信種ら殿は中峠を背に
して小田原から追撃する敵を一望できる地点に布陣、小幡重貞1,200・山県昌景1,500・小
笠原掃部大夫500・小山田信茂1,200・跡部勝資1,500・小山田昌行300・真田兄弟1,
200・蘆田信守700からなる右翼と、内藤昌豊率いる西上野衆3,000を先手とする左翼の両
別働隊はそれぞれ志田峠と三増峠を先行して通過した。信玄は半原に後退した敵が迂回して峠の北側
に移動すると判断して、挟撃を避けるため別働隊を先行させ峠の北側を確保しようとしたのだ。
だが、半原の氏照・氏邦勢は信玄の予想に反して峠の南側に移動して小田原からの追撃隊と合流し
た。これは、信玄の裏をかいたわけではなくただ単に相互の連携がとれてなかっただけある。しかし、
それによって峠の南側に2万を超える北条勢が集中することになり、先行する別働隊に戦力を傾けて
いた武田勢は殿の浅利信種が討死するなど苦戦を強いられることになった。だが、急に呼び戻された
別働隊が北条勢の側面に回り込むと形勢は逆転し、北条勢は態勢を崩して敗走した。戦いに勝利した
武田勢はその隙に無事甲斐に帰ることに成功した。北条勢の本隊が到着したときはすでに合戦は終わ
っていた。
今回の戦いで氏康・氏政父子は信玄と武田勢の強さを思い知らされることになった。同時に越相同
盟が自分たちに何の利益ももたらさない事も認識させられた。武田勢の小田原遠征中、上杉勢は北条
家の度重なる要求にも関わらず信濃に兵を出すなど武田勢を牽制するような動きはまったくしなかっ
たのである。長年培われた相互間の敵対心は一朝一夕で解消できるものではなかったのだ。越相同盟
を即刻破棄させるまでには至らなかったが、亀裂を生じさせたことで今回の遠征の政治的成果はまず
まずといったところだろう。
だが、駿河の北条勢を引き揚げさせるという戦略的成果はまったく得られなかった。そのため信玄
は氏康の死去によって甲相同盟が成立する元亀2年まで駿河侵攻を継続し続ければならなかった。そ
して、駿河侵攻の遅れは結果論からすると信玄にとって致命的なものとなったのである。
永禄11年(1568)12月 3日 武田信玄、駿河に侵攻
13日 武田軍、駿府今川館を占拠 今川氏真は掛川城へ
27日 徳川家康、遠州掛川城を包囲
12年(1569) 1月12日 今川氏救援の北条軍と武田軍が対峙(〜4月20日)
5月17日 掛川城開城 氏真は小田原へ
6月 9日 越相同盟成立
16日 信玄、駿河駿東郡に侵攻、三島社に乱入した後富士
郡大宮城を攻撃
7月 武田軍、威力偵察のため秩父方面に侵攻
2日 大宮城開城
8月24日 信玄、関東出兵のため甲府を出発
9月 1日 武田軍別働隊の郡内衆、武州八王子の廿里砦を攻略
10日 武田軍、武州鉢形城を攻撃 その後郡内衆と合流し
て、滝山城を3日間猛攻
10月 1日 武田軍、酒匂川を渡河 三浦衆と交戦
2〜3日 武田軍、小田原とその周辺で放火・略奪
4日 信玄、小田原からの撤退を命令
5日 武田軍、中津川を渡河 八王子方面から南下の北条
勢と接触
6日 武田軍、北条軍を三増合戦で撃破した後帰国
11月 武田軍、第3次駿河侵攻
28日 武田軍、富士郡に着陣
末頃 武田軍、蒲原城を攻略
12月 7日 武田軍、駿府の旧今川館を攻撃
元亀 元年(1570) 1月 4日 武田軍、花沢城を攻撃
8日 花沢城陥落
5月14日 武田軍、吉原と沼津で北条軍と交戦
8月 9日 韮山城外町庭口の戦い
10日 興国寺城の戦い(〜3日間)
10月 8日 家康、上杉謙信と同盟
20日 信玄、上野に出陣
2年(1571)10月 3日 北条氏康死去
12月27日 甲相同盟成立
【信玄の第1次徳川領侵攻作戦】
信玄は駿河に攻め込むために家康と同盟を結んだのだが、それはあくまで対今川戦を有利に進める
ためのものであって家康との永久不変な友好関係を築こうとするものではなかった。元々、信玄は三
河を侵略するつもりでいた。氏真の背信行為がなければ信玄は駿河ではなく三河に侵攻しただろう。
信玄の計画は、義元の死後家康の独立や遠州錯乱さらには武田の調略でガタガタになった今川家を
電撃的に撃滅し駿河を制圧、その後徳川勢を撃破して遠江も手にするというものであったが、北条家
の介入で駿河制圧が長引いてしまい遠江への侵攻も延期された。信玄による遠江侵攻が開始されるの
は永禄13年である。まだ、北条氏との戦いは続いていた。
背後に敵を抱えている状況でなぜ信玄は遠江に侵攻したのだろうか。その理由はやはり信玄の上洛
への野望だろう。永禄11年に織田信長が上洛して以来、その勢力は将軍足利義昭の権威を利用した
ことにより信長の領国ではない畿内のほぼ全域に及んでいた。信玄としては対北条戦と並行して上洛
への足がかりとなる遠江・三河への侵攻を行わなければ信長の勢力は拡大する一方という危惧があっ
たのだろう。
さて、なぜ信玄は直接信長と戦おうとしなかったのか。上洛の意志があるのなら信長と戦ってこれ
を撃ち破った方が手っ取り早いはずである。だが、信玄は何かと下手にでる信長を見くびっており、
彼がこれほどの大勢力を築くとは予想もしていなかった。
信長は横柄で他人には絶対頭を下げないイメージがあるが、それは相手による。信玄のように怒ら
せると厄介な相手には、卑屈ともいえる態度で接しているのである。上洛に先立ち、信長は背後を安
全にするため永禄8年11月13日に養女を信玄の息子勝頼に輿入れさせている。その養女が勝頼の
嫡男武王丸を出産した後急逝すると、今度は信玄の娘を自分の嫡男である奇妙の正室に迎えている。
他にも、信長は信玄への贈り物に気を遣うなど信玄のご機嫌取りに懸命だった。そんな信長を見て信
玄が「こいつはたいしたことないな。だったらいますぐ上洛せずとも良いだろう」と思ってもおかし
くはない。
結果、信玄は信長にしてやられたのだが、それは仕方のないことだ。なぜなら、信玄は信長と一度
も会ったことがないだろうからだ。いかに信玄であろうとも世間の評判や手紙でのやりとりだけで信
長という人物を完全に見抜くのは難しいはずである。もし、信玄が一度でも信長と対面していたなら、
その内に秘める危険なまでの野心を見抜けただろう。
信玄が信長との直接対決を避けた理由は他にもある。信長が上洛した時点での両者の領土は、信長
が尾張・美濃・南近江・北伊勢、信玄が甲斐・信濃・西上野・飛騨の大半と面積的にはほぼ同じだが、
人口密度や経済といった点で双方には大きな差があった。信長を一回の合戦で討ち取れたら問題ない
のだが、金ヶ崎退き口でもわかるように信長はやばいと感じたら側近だけを従えさっさとその場を逃
げ去る人間である。となると、長期戦となるが長期戦で必要なのは戦場で発揮される力よりも損害を
早期に回復する力である。この点で信玄は信長よりも明らかに不利である。それに、信長には自分の
直接な支配下ではない畿内の諸大名にも動員が要請できるのに対し、信玄には上杉輝虎という強敵が
控えていることも忘れてはならない。
そんなわけだから信玄は上洛に先がけ信長と戦えるだけの勢力を築く必要を感じ、駿河侵攻に踏み
切ったのである。
永禄13年(改元して元亀元年)3月、信玄は遠江に侵攻して高天神城を攻撃した。それ以前にも
武田勢による遠江侵犯はあったが、信玄による侵攻はこれが最初である。高天神城は陥とせなかった
が、家康の注意を東に向けさせることに成功した。その隙に勝頼が4月に北から奥三河に侵攻して足
助城と野田城を攻めた。家康は全く手出しができなかった。
翌年の3月も信玄は徳川領に侵攻し、奥三河の山家三方衆を寝返らせた。足助城などを攻略した信
玄は4月に豊川沿いの野田城を攻略して南の吉田城に迫った。吉田城は武田勢に捕捉されかけた家康
が逃げ込んだため攻略を断念したが、遠江北部の有力国人天野景貫を寝返らせることに成功した。家
康の領土は東西からの攻撃には強いが北からの攻撃には脆弱という弱点があり、武田勢の一連の軍事
行動によって徳川領国は例えれば背骨を折られかねないような危険な状況に陥った。家康にできるこ
とは武田勢が去った後に野田城を奪回して、決してやられるだけではないことをアピールして新参の
国人衆を繋ぎ止めておくぐらいであった。
三河と遠江に足掛かりをつくった信玄だが、まだ余談は許さない状況であった。信玄が何よりも警
戒したのは信長が全力で家康を支援することである。信長は信玄の倍以上の兵力を動員できるほどの
勢力を有しており、これが家康の増援として派遣されると信玄にとって非常に厄介なことになる。信
玄は信長が家康を支援できなくさせる策略を立てた。
信玄にとって都合がいいことにこの時期信長は仲違いしていた将軍足利義昭の暗躍によって、周囲
を敵に囲まれる厳しい状況に立たされていた。元亀元年9月12日の石山本願寺の決起を発端に信長
はたちまち窮地に陥った。20日には南下した浅井・朝倉勢によって弟の信治と重臣の森可成が戦死、
さらにその浅井・朝倉勢と信長が坂本で対峙している最中の11月伊勢長島で一向一揆が発生し信長
の弟信興が戦死している。翌年の5月、信長は長島を攻撃するが撃退され殿の氏家卜全が討死する惨
敗を喫した。
信玄は義昭を通じてこれら反信長勢力を一斉に蜂起させることで、信長が家康を支援できなくさせ
ることを思いついた。これは確かに良い作戦だったが、問題点もあった。こういう戦略を外線作戦と
いうが、ひとつ忘れてはならないのが反信長勢力の武将の中には信玄と有効若しくは同盟の関係にな
い者もいることである。どういうことかというと、その武将は信玄の都合どおり動くとは限らないと
いうことだ。当たり前である。その人は信玄の家来ではないのだから、いつどのように行動するかは
その人が判断することである。それに外線戦略は相互の連携の不備によって、個別に撃破されること
もあるのだ。そして、後に信玄はその事を思い知らされることになる。
さらに信玄は美濃に手をつけた。美濃は信長の居城である岐阜城があるから全域を信長が統治して
いるように見えるが、東部の遠山一族は信長の家臣ではなく同盟関係にすぎない。その遠山一族は武
田家とも有効な関係にあった。そういう複雑な状況にあったから一族の間で織田と武田どちらにつく
べきかもめたであろう。そこで、信玄は秋山信友を美濃に派遣して親信長派を一掃して遠山一族のほ
ぼ全員を屈服させた。岐阜に近い位置に親武田の勢力ができたのだから、信長の家康への支援はさら
に縮小されるはずである。信玄は自分の思い通りに事が進むので内心笑みがこぼれていたことだろう。
【武田信玄、最後の遠征】
信長の動きを制限することに成功した信玄だが、彼にはそれ以上の難題があった。体調の悪化であ
る。数年前から自覚症状が現れるほど体調が悪化しており、自宅療養が必要な状態であった。そのた
めしばらくは養生に専念していたらしい。おかげで体調も少しは回復したようで、信玄は遠征の準備
を命じた。彼は反信長の諸将に自らの上洛を知らせ、同時に挙兵するように要請した。これで、信長
は家康を助けることができないはずである。信玄はこの遠征で家康を屈服させるつもりであったが、
出陣の直前になって東美濃の情勢の変化によって作戦の変更を余儀なくされた。
秋山勢の侵攻で東美濃の遠山一族は武田家に従属したが、一族のリーダー格の武将が相次いで没し
てその後任に信長の四男坊丸と信長傘下の遠山友勝が就任したことにより、信玄のこれまでの工作が
無に帰したのである。出陣が目前に迫っているこの時期では調略をしかけている時間はなかった。信
玄は三河侵攻の別働隊から秋山信友の部隊を抽出し、彼に美濃への侵攻を命じた。これにより三河で
の作戦は縮小されることになり、作戦のスケジュールは大幅に遅れることとなってしまった。
元亀3年10月3日、信玄は甲府を出陣した。武田勢は信州高遠城に一旦集結した後、遠江に侵攻
する本隊と三河に侵攻する山県昌景の部隊、美濃に侵攻する秋山信友の部隊に分かれた。
遠江に侵攻した信玄が直率する武田勢本隊は10月中旬までに、只来・天方・一宮・飯田・各和・
向笠の諸城を攻略して久能城に迫った。この久能城を後詰するために出撃した徳川勢が三箇野川西岸
まで進出してきたので、信玄は久能城を放置してこれの殲滅に向かった。4,000にすぎない徳川
の後詰勢は撤退しようとしたが、時すでに遅く武田勢に捕捉されてしまった。一言坂と水汲坂などで
激戦が展開され、徳川勢は本田忠勝らの奮戦でどうにか追撃を振り切ることに成功した。
徳川勢を取り逃がした信玄はそれを気にすることなく、遠江の交通の要衝である二俣城の攻略に着
手した。二俣城は三方を二俣川と天竜川に囲まれ、残りの一方は堀で守られている要害堅固な城で戦
略的にも遠江の東西交通の内側の要という要衝である。さらに二俣城から秋葉街道を南に下ると家康
の浜松城がある。ついでに言えば、浜松城から東海道を東に行くと先に徳川勢と武田勢が戦った一言
坂と水汲坂があり、さらに東に行けば掛川城がある。
信玄は途中で匂坂城を攻略し、そこを穴山信君に守らせると自身は二俣の手前にある合代島に布陣
した。本陣は南端の社山城に、馬場信春の部隊と増援の北条勢1,000は本陣の西に位置する神増
に、旗本衆は北端の亀井戸城周辺に配置された。
ここで、増援の北条勢について少し説明する。信玄による今川領侵攻で断絶状態となった武田家と
北条家は前年に北条氏康が没する際に、息子の氏政に武田との同盟を復活させよと遺言したため、新
たに甲相同盟を結んで関係を修復させた。北条との同盟が復活したことにより信玄は上杉謙信を気に
せずに家康との戦いに専念することができたのである。同盟が復活したのだから武田勢の中に北条勢
がいることはおかしくはないが、ついこないだまで血を流して戦った者同士だから複雑な心境の兵も
いたと思う。
さて、武田勝頼を大将とした二俣城攻略は家康の後詰に対処するためと、本陣と奪った城に兵を分
散させたため、5,000ほどの人数で開始された。二俣城の守備兵は数百人程度なのですぐに落と
せると踏んでいただろう。
ところが、11月上旬には始まっていたとされる二俣城攻略は大方の予想を裏切って2ヶ月に及ぶ
長期戦となった。二俣城の後詰に出撃すべきである家康は主力が浜松と三河の岡崎・吉田に分散して
いたのと、高天神城と掛川城にも兵を残しておかなければならないため、手元に旗本衆と遠江衆合わ
せて五千か六千ぐらいの兵しかいなかったため動けずにいる状態であった。山県昌景の別働隊が三河
に侵攻していたため、三河からの増援は絶望的であった。
状況が変わったのは信長からの増援が到着してからである。佐久間信盛を主将とする3,000ほ
どの増援だったが、信長が近畿の前線から岐阜に帰還したのを知った信玄はこの部隊だけでなく織田
の主力も増援に来るかもしれないと考え、二俣城の攻略を急ぐため山県勢に本隊との合流を命じた。
山県勢が二俣に向かったので三河の徳川勢は浜松の家康に合流することができたが、家康は二俣への
増援を断念せざるを得なかった。出撃してはいたが神増を対岸とする天竜川西岸の秋葉街道で引き返
した。迂闊に前進して包囲でもされたら取り返しのつかない事態になりかねないからである。
家康が後詰を断念したことを知った二俣城の守備兵はなおも抵抗を続けたが12月19日、城兵全
員の助命を条件に開城した。
二俣城攻城が長期化している間に信玄の体調は悪化していたようだ。城が開城した後も信玄は身体
を休ませるため合代島にしばらく留まっている。武田勢が天竜川を渡ったのは22日になってからだ
った。
二俣城は信玄の予想に反し長期化してしまったが、最終的には開城させることができたため徳川勢
に痛撃を与えることとなった。二俣城はそれまでの新参の国人衆が籠もっていた城とは違い、徳川譜
代の将が籠城していた城である。徳川勢の士気はかなり低下してしまった。
事態を重く見た家康は出撃を主張した。天竜川を渡っている最中の武田勢を急襲すれば勝算はある
というのだ。だが、重臣達の強い反対により家康は出撃を断念した。織田援軍の諸将も己の主から兵
の温存となるべく時間を稼ぐように命令されていたため重臣達が主張する籠城策を支持した。彼等は
信玄が必ず浜松城に攻め寄せると考えていた。
しかし、信玄は徳川の主力が籠もる浜松城を直接攻めるつもりは毛頭なかった。織田軍の主力が増
援に来るかもしれない状況を考慮したらいたずらに兵を損なうのは得策ではない。かといって、その
まま放置しとくわけにもいかなかった。
そこで、信玄は浜松城を無視して三河に侵攻するように見せかけることにした。三河にはわずかな
兵力しか残っていないため、家康は武田勢の侵攻を阻止すべく出撃するはずである。徳川勢を捕捉し
さえすれば、それを殲滅するなど造作もないことである。信玄は軍勢を3つに分け、三方ヶ原に布陣
し家康を待ちかまえた。もちろん、ただ待っていたら家康に作戦を見破られてしまうので、敵に背を
むけながら移動することになる。
<武田軍の配置>
本隊(武田信玄直率)囮として三方ヶ原北端の崖の上に布陣
中央 旗本衆 前方(追撃する徳川勢と向かい合う方向) 馬場信春、穴山信君、
板垣信安、跡部勝資他 後方 北条勢
左翼(内藤昌豊指揮)祝田の坂下に潜伏
西上野衆、海津衆、真田信綱・昌輝、小荷駄衆、甘利衆(同心頭の米倉重継が指揮)他
右翼(武田勝頼指揮)大谷の坂下に潜伏
小山田信茂、山家三方衆、山県昌景、小幡重貞、武田信豊、土屋昌次他
武田勢が浜松城を無視して三河を攻めようとしていると知れると、籠城策は論外となってしまった。
出撃して勝つ見込みはなかったが、最悪でも敵の目を浜松に向けなければならない。徳川の兵力は織
田援軍を含めると1万を超えており、敵にある程度のダメージを与えることぐらいはできるはずであ
る。12月22日午後3時前頃、徳川と織田の軍勢は浜松城を出撃した。敵が祝田の坂を下る瞬間を
狙えばもしかしたら望外な戦果を手にすることができるかもしれない。
<徳川軍>
(先頭から順に)旗本衆、遠江衆、西三河衆(石川数正麾下)、東三河衆(酒井忠次麾下)
織田援軍
徳川勢が武田勢と接触したのは午後4時過ぎであった。徳川勢が出現したことに信玄は少なからず
驚いた。彼は家康が出陣するのは日が暮れてからだと思っていたからだ。別働隊が行動を開始してい
ないこの状況では徳川勢を包囲殲滅することは諦めるしかなかった。しかし、せっかくの好機を見逃
すわけにもいかない。
信玄は敵に一番近い右翼の部隊に敵を挑発するよう命じた。右翼の郡内衆は徳川の旗本衆と西三河
衆にむけて投石を開始した。憤激した旗本衆先手の大久保忠世・忠佐、柴田康忠らと西三河衆の先手
は鉄砲で応戦した。
西三河衆の指揮官石川数正は攻撃を中止させようとしたが、先手の暴走は全体に広がり手がつけら
れない状態となってしまった。旗本衆も大久保忠世らが渡辺守綱らの制止を振り切り突出した。さら
に東三河衆も銃撃を始め、三方から銃撃された郡内衆は鉄砲を後方に置いていたため反撃することが
できず敗走した。
この郡内衆の敗走で徳川勢の自制心は完全に吹き飛んでしまい家康の目論見とは全く異なる総攻撃
になりつつあった。家康は統制を回復しようと躍起になったが、暴走している兵のまとめるのは容易
ではなかった。徳川勢は郡内衆の救援に駆けつけた山県昌景の部隊も押し戻して、開戦時の位置から
五,六町も前進した。
だが、徳川勢の攻勢もこれが限界であった。味方の劣勢を見た信玄は馬場隊と穴山隊を郡内衆の支
援に回し、右翼と左翼の部隊に総攻撃を命じた。
武田勢は勝頼が開いた突破口に取り付き、徳川勢を急速に押し戻していった。家康は佐久間信盛に
平手汎秀の部隊を前進させるよう依頼し、旗本衆に最後の反撃を命じたが戦況はどうすることもでき
ないところにまで来てしまっていた。日は沈み、総崩れは時間の問題となった。
家康は全軍撤退を決意した。彼には馬廻衆と織田援軍の大半が残っていたが、それを投入したとこ
ろで戦局を好転させる見込みは皆無だった。すでに武田勢は緒戦で崩れた部隊も態勢を立て直して攻
勢に転じていた。
まず崩れたのは平手汎秀の部隊であった。平手隊の崩壊で徳川勢は一気に崩れ東三河衆以外は総崩
れとなった。東三河衆は最後まで秩序を維持し城に帰還したが、他の部隊はバラバラとなり一時家康
討死の誤報が流れた。討死は1,000人ほどですんだが、城にたどり着くまでに脱落した者、岡崎
や掛川まで逃げた者など徳川勢は一時的にせよ野戦能力を完全に喪失した。
徳川勢を撃ち破った信玄は浜松城を攻撃せず三河に入ろうとした。だが、信玄の容体はかなり悪化
しており武田勢は年来の三河侵入を諦め刑部で越年する事にした。ところが、年の瀬も迫った12月
28日、信玄をぶちのめす凶報が飛び込んだ。近江に出陣しているはずの朝倉勢が信長が岐阜に帰還
した直後に帰国していたのだ。信長は朝倉勢の撤退で浮いた兵力を三河に回すことができるようにな
った。もはや今回の遠征の最低限の目標である家康の降服も期待できなかった。信玄はこの知らせで
されに体調を悪化させた。
武田勢は1月7日まで刑部に滞在し、11日に三河野田城を包囲した。家臣達は主君の容体を気遣
い撤退を主張したが信玄は聞き入れなかった。主君の病状の悪化で士気が低下したのか武田勢は野田
城を約1ヶ月かけてようやく攻略したが、信玄の病状は一向に回復する兆しを見せなかった。
作戦の継続を断念せざるを得なかった信玄は鳳来寺に移った後、3月9日に帰国の途についた。だ
が、時すでに遅く戦国屈指の名将と謳われた武田信玄は元亀4年4月12日信州駒場で帰らぬ人とな
った。
信玄の死で反信長勢力は一挙に崩れた。足利義昭・朝倉義景・浅井長政は信玄の死からわずか数ヶ
月で信長に追放もしくは滅亡させられた。信長を苦しめた包囲網はこうして無惨にも潰えたのだった。
武田家もその影響から免れなかった。遠征が中途半端な状態で終わってしまったため、信玄の跡を
継いだ勝頼は偉大な先君が成し遂げられなかった上洛に固執するしかなかった。信玄の死は疲弊した
領国の状態を顧みることもないまでに武田家の戦略方針を束縛してしまったのだ。そして、無謀にも
攻勢を繰り返した勝頼は長篠で致命的な惨敗を喫することになる。
武田家は勝頼の不手際で滅亡したと言われてるが、その芽はすでに信玄の時代にまかれていたので
ある。
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